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第7章1―11 あら探し精神の禁止、祈りの奨励

 これらの節の最初の部分は、適当な意味を越えて拡大解釈しないよう注意しなくてはならない聖書箇所の1つである。この部分は、しばしば真の信仰の敵どもによって悪用され乱用されている。聖書の言葉は、文字通りに解釈しすぎると、薬ではなく毒となることがある。

 主が「さばいてはいけません」と云われたのは、いかなる場合も、悪意をもって他人の言動を判断することは間違いだということである。私たちは、はっきり自分の意見を持つべきである。「すべてのことを見分け」、「霊をためす」べきである(Iテサ5:21、Iヨハ4:1)。またここは、完全で罪のない者でない限り、他人の罪や過ちをとがめてはならないという意味でもない。そうした解釈は、聖書の他の箇所と矛盾する。間違った偽りの教理が起こっても非難できないし、だれも牧師や裁判官の職につけなくなるであろう。地は「悪者の手にゆだねられ」(ヨブ9:24)、異端ははびこり、不法が地に満ちるであろう。

 主が非難しておられるのは、冷たく批判的なあら探しの精神である。二義的なこと、重要でないことで、すぐ他人の非を慣らす性癖、後先考えずに性急な判断を下す習慣、隣人の間違いや弱さを針小棒大に云いふらし、すべてを邪推する傾向、これを私たちの主は禁じているのである。それはパリサイ人の間によく見られたものであり、パリサイ人の時代から今に至るまで常によく見られるものである。私たちは、この精神に対して警戒しなくてはならない。他人について「すべてを信じ」、「すべてを期待」すべきであり、早まって非を鳴らさないようにすべきである。これがキリスト者の愛である(Iコリ13:7)。

 これらの節の第二の部分は、信仰について話すには思慮深く相手を選ぶことが重要であると教えている。すべては時にかなって美しい。私たちの熱心は、時と場所と人柄を慎重に考慮して加減されるべきである。ソロモンは云う。「あざける者を責めるな。……彼はあなたを憎むだろう」(箴9:8)。霊的な問題は、どんな人にも心のうちをそのまま告げることが賢明とは限らない。荒々しい気性からか、不道徳な習慣からか、福音の事柄を全くありがたく思わない人は多い。彼らの魂のため良かれと思ってしても、彼らは激情にかられ、さらに罪の深みに飛び込む。そうした人にキリストの御名を告げることは、まさに「豚の前に真珠を投げ」ることである。彼らにとって、それは益でなく害である。それは彼らのすべての腐敗をかきたて、怒りに火を注ぐ。つまり彼らはコリントのユダヤ人らのようである(使18:6)。あるいは、「よこしまな者ですから、だれも話したがらない」と書かれたナバルのようである(Iサム25:17)。

 この教訓は、適切に用いることが特に難しいものである。これを正しく適用するには、非常に深い知恵が必要である。私たちのほとんどは、熱心すぎる過ちよりは、用心深すぎる過ちを犯しがちである。一般に私たちは「黙っているのに時がある」ことを思い出す方が、「話をするのに時がある」ことを思い出すよりもはるかに多い。しかし、これは私たち全員の心に自己吟味の精神をかき立てるべき教訓である。私たちは、自分の気難しさとかんしゃくによって、友人の忠告をさえぎることが決してないであろうか。自分の高慢から、よく考えもせすに助言を軽んじ、他人を黙らせたことが決してなかったであろうか。親切に忠告してくれた友人に怒って向き直り、激しい言葉と態度で相手を黙らせたことが一度もなかったであろうか。残念ながらこの点で私たちはしばしば間違いを犯してきたのではないか。

 これらの節の最後の部分は、祈りの義務と、私たちが祈るべき豊かな励ましを教えている。この教えとそれに先立つ教えとの間には美しい関係がある。私たちは、いつ「黙っている」べきで、いつ「話をする」べきか知りたいだろうか。いつ「聖なるもの」を差し出し、いつ「真珠」を提示すべきか知りたいだろうか。私たちは祈らなくてはならない。これは明らかに主イエスが非常に重要視しておられる問題である。主が用いておられる言葉がその明白な証拠である。主は祈りを表わすのに、「求め」、「捜し」、「たたき」と3つの異なることばを用いておられる。主は、祈る者に対し、これ以上なく寛大な約束を差し出しておられる。「だれであれ、求める者は受け」。彼は、神が私たちの祈りをどれほど喜んで聞いてくださるか例証するため、だれもが知っている地上の親たちの行ないを取り上げられた。彼らは生まれながらに「悪い」利己的な者ではあっても、自分の肉の子供らの必要を無視することはない。いわんや愛とあわれみの神は、ご自分の恵みの子らの叫びに注意しておられるはずである!

 私たちは、祈りに関するこれらの主のことばに特に注意を払おう。主のことばのうち、これほどよく知られ、口にされているものは少ない。どれほど貧しく無学な者も、「求めよ、さらば与えられん」という言葉は知っているものである。しかし、知っているだけで用いなければ、その知識が何になろう。知識を活用せず、よく用いなければ、最後の審判の日に私たちの罪過が増し加わるだけである。

 あなたはこの「求め、さがし、たたく」ことを少しでも知っているだろうか。なぜ知らずにいてよいだろう。本当にやる気さえあれば、祈りほど単純で、分かりやすいものはない。しかし不幸にも、これほど人が不精を決め込むものもない。人は、祈りよりも先に多くの宗教的慣行を用い、多くの集会に出席し、多くの事を行なう。それはそれ自体では正しい。しかし祈りなしには、どんな魂も救われないのである。

 私たちは、本当の意味で祈っているだろうか。そうでない場合、いま悔い改めない限り、私たちは最後には神の前に云い開きができない。私たちは、できもしないことをしなかったために罪に問われたり、知るはずなかったことを知らなかったために罪に問われることはない。しかし私たちが滅びるとしたら、その主たる理由の1つは救われることを私たちが決して「求め」なかったためであろう。

 私たちは、本当に祈っているだろうか。もしそうなら、くじけずに、さらに祈り続けようではないか。それは無駄な労苦ではない。無益な営みではない。それは多くの日数を経た後に実を結ぶであろう。主のこのことばは決して破られたことがない。「だれであれ、求める者は受け……ます」。


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第7章12―20 他者への義務の原則、2つの門、にせ預言者についての警告

 山上の説教のこの部分で主はご自分の訓話のしめくくりに入っておられる。主がここで私たちの注意を強く引いている数々の教訓は、総括的、一般的で、深い知恵に満ちている。それを順々に見ていこう。

 主は、対人関係の疑わしい問題すべてにおいて私たちを導くべき一般原則を定めておられる。私たちは、「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのように」すべきである。他人が私たちにふるまうのと同じようにふるまうべきではない。それは利己主義にすぎず、異教主義である。私たちは、他人にそうされたいと願うような仕方で他人に対してふるまうべきである。これが真のキリスト教である。

 まさしくこれは黄金律である! これはどんな些細な意地悪や仕返し、欺き、ごまかしをも禁ずるだけでなく、それ以上のものである。これは、このような世界で人と人の間に常に持ち上がる、何千何百という難題を解決し、ある特定の場合の行動について1つ1つ無数の小則を定める労をはぶく。議論の余地ある問題すべてを1つの強大な原則で一掃している。どんな人にも、たちどころにその義務を教えることのできる尺度と基準を指し示している。私たちは、隣人にしてほしくないと思うことがあるだろうか。ならば、それを隣人に対して行なうべきではないと、常に忘れないようにしよう。私たちは、隣人からしてほしいと思うことがあるだろうか。ならば、それは私たちが隣人に対して行なうべき、まさにそのことである。もしこの原則が正直に用いられるなら、何と多くの微妙な問題が解決することであろう!

 第二に主は、宗教上の多数派がたどる道についての一般的な注意を与えておられる。他人と同様に考え他人と同様に行なうだけでは十分でない。周囲の人の生き方にならい、同じ流れを泳ぐことで満足していてはならない。主は永遠のいのちに至る道は「狭く」、そこを歩む者は「まれ」と云われる。永遠の滅びに至る道は「大きく」、そこを歩む者で満ちていると云われる。「そこからはいって行く者が多いのです」。

 これは恐るべき真理である。これを聞く者はみな心を徹底的に探るべきである。「私はどちらの道を歩んでいるか。どの道をたどっているか」。私たちは例外なくこの2つの道のどちらかにいる。願わくは神が私たちに正直に自己吟味できる心を与えてくださり、自分の本当の姿を示してくださるように。

 私たちは、自分の信仰が他のおびただしい人々と同じようであったとしたら、恐怖し、身震いすべきである。もし私たちに云えることがせいぜい、「私は他の人が行くところには行くし、他の人が礼拝するなら礼拝する。つまり他の人と同じようにしたいのだ」というだけであったなら、私たちは文字通り自分自身の有罪宣告を口にしているのである。これが「広い道」にいることでなくて何であろう。これが、「滅び」という終着駅に向かう道でなくて何であろう。そのような信仰は、人を救いはしない。

 自分の告白する信仰の人受けが悪く、ほとんど同意する者がいないとしても、心くじけたり落胆する理由は何もない。私たちは、主イエス・キリストのことばを思い出さなくてはならない。「門は小さ」い。悔改め、キリストへの信仰、聖い生活、これらはいまだ決して大衆受けしたことがない。キリストの真の群れは常に少数派であった。たとえ自分が変人扱いされ、偏狭で狭量な人間と云われても、動揺してはならない。これは「狭い道」なのである。たとえ道連れは少なくとも、永遠のいのちへはいる方が、大群衆とともに大挙して「滅び」へ向かうよりまさっていることは確かである。

 最後に主イエスは教会のにせ教師についての一般的な警告を与えておられる。私たちは「にせ預言者たちに気をつけ」るべきである。この節と直前の節には驚くべき関連がある。もし「広い道」に足を踏み入れたくなければ、私たちはにせ預言者に用心しなくてはならない。にせ預言者は必ず現われる。彼らはすでに使徒の時代から現われはじめた。そのときからすでに誤りの種は蒔かれていた。以来にせ預言者は連綿と現われ続けている。私たちは彼らが現われることを見越して、警戒していなくてはならない。

 これは火急に必要な警告である。キリスト教界には、牧師と名のつく者の言葉ならすべてうのみにしてしまうおびただしい数の人々がいる。彼らは、聖職者も平信徒と同じように誤りを犯す者であることを忘れている。牧師は無謬ではない。彼らの教えは、聖書の物差しではからなくてはならない。聖職者には、その教えが聖書と一致している限りにおいて従い、その言葉を信じるべきであるが、少しでも聖書からはずれたことを教えるなら、決して従ってはならない。信じてはならない。私たちは、彼らを「実によって」評価すべきである。健全な教理と聖い生活が真の預言者のしるしである。これを忘れないようにしよう。自分の教師が誤っていたからといって、私たちの誤りの責任は免除されはしない。「もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです」(マタ15:14)。

 にせの教えを防ぐにはどうしたら最も安全であろうか。疑いもなく、聖霊の教えを祈り求めながら、神のみことばを規則的に学ぶことである。聖書は私たちの足のともしび、道の光として与えられた(詩119:105)。聖書を正しく読んでいる人がひどく誤らされることはない。聖書の学びをおろそかにすることこそ、これほど多くの人がにせ教師に出会うそばから、えじきにされてしまう原因である。そういう人は、「自分は無学だし、何もかもわかったような顔はしたくない」などと云う。実は、彼らは怠惰で、なまけ者であるために聖書を読まず、自分で考える労を惜しんでいるにすぎない。にせ預言者の弟子づくりに何よりも貢献しているのが、へりくだりという仮面をかぶった霊的怠慢である。

 願わくは私たちがみな、主の警告を心にとめていられるように! 世と悪魔と肉だけがキリスト者の道を脅かす危険ではない。まだ他の危険がある。それが「にせ預言者」である。羊のなりをして来る狼である。日夜聖書を読み、祈りの生活をし、真の信仰とにせの信仰の違いを見分ける者は幸いである。そこには違いがあり、私たちはそれを見分け、自分の知識を用いることが期待されているのである。


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第7章21―29 行ないを伴わない信仰告白のむなしさ、2つの建物

 主イエスは、心を刺し貫くような適用をもって山上の説教をしめくくっている。主はにせ預言者からにせ信者に、不健全な教えから不健全な聴衆に目を転じている。これはすべての者に対することばである。願わくは、恵みにより私たちが、これを自分自身の心にあてはめることができるように!

 ここで第一に学ぶのは、外的な信仰告白だけでは無益だということである。「主よ。主よ」と云う者がみな天の御国にはいるわけではない。キリスト者と自称する者がみな救われるわけではない。

 このことに私たちは注目しよう。魂が救われるには、ほとんどの人が考えているらしいことより、はるかに多くが必要である。私たちはキリストの御名によってバプテスマを受け、教会員としての特権に得々としているかもしれない。頭の知識はつめこみ、自分の今の状態に完全に満足しているかもしれない。ことによれば他人を教える説教者、教師として、教会の内外で「力あるわざ」を行なっているかもしれない。しかし、私たちはこれらすべての中で実際に、天の御父のみこころを行なっているだろうか。本当に悔い改め、本当にキリストを信じ、聖くへりくだった生き方をしているだろうか。もしそうでなければ私たちは、どんな特権や告白があろうと最終的には天国を失い、永遠に遺棄されるであろう。「わたしはあなたがたを全然知らない。……わたしから離れて行け」との戦慄すべきことばを聞くであろう。

 最後の審判の日には異様な光景が明らかになるはずである。生前は偉大なキリスト者と目されていた多くの人々の希望は完全に崩れ去るであろう。彼らの信仰がいかに腐り果てたものであったかが全世界の前に暴露され、恥をさらすであろう。そのとき、救われるとは「信仰告白」以上の何かであることが証明されるであろう。私たちは、自分のキリスト教信仰を「告白」するだけでなく「実践」しなくてはならない。その大いなる日のことをしばしば考えようではないか。私たちは、主からさばかれ、主の宣告を受けないように、しばしば「自分を」さばこうではないか。何がなくとも私たちは真実であり、本物であり、真摯であることをめざそうではないか。

 ここで第二に学ぶのは、キリスト教のメッセージを聞いた二種類の人々の驚愕すべき姿である。聞いて何も行なわなかった人々と、聞いて、聞くだけでなく実行に移した人々との双方がここに示されている。そして、彼らの物語は、それぞれの末路までたどられている。

 キリスト教の教えを聞いて、聞いたことを実践する人は、「岩の上に自分の家を建てた賢い人」に比べられる。彼は、悔い改めてキリストを信ぜよ、聖い生活をせよとの勧告を聞くだけでよしとはせず、実際に悔い改める。実際に信じる。実際に悪を行なうことをやめ、良いことをするようになり、罪深いことを忌み嫌い、正しいことから固く離れない。彼は聞くだけでなく行なう者である(ヤコ1:22)。

 ではその結果はどうだろうか。試練のとき、彼の信仰は決して失望に終わることがない。病、悲しみ、貧困、失意、死別の洪水が打ち寄せても、押し流されることはない。彼の魂はゆるぐことなく立ち続ける。彼の信仰は屈することがない。彼の慰めが枯渇することはない。過ぎ去った日には、信仰を持っていたがために困難を身に招いたかもしれない。その土台を造るために、多くの労苦と涙を流さなくてはならなかったかもしれない。キリストのうちに自分の救いを得るため、何日も何日も熱心に求め続け、何時間もの祈りの格闘が必要だったかもしれない。しかし彼の労苦はむだではなかった。今や彼は豊かな報いを刈り取ることができる。試練に耐え抜くことのできる信仰こそ、真の信仰である。

 キリスト教の教えを聞いて、聞く以上のことを何もしない人は、「砂のうえに自分の家を建てた愚かな人」に比べられる。彼は聞き、喜んで賛同するが、それ以上のことは何もしない。おそらく彼は、自分の魂には何の問題もないとうぬぼれているであろう。自分の内側に、霊的なことに対する感覚や確信や願望があるからである。こうしたことに彼は安住している。彼が本当に罪と手を切り、この世の精神を打ち捨てることは決してない。本当にキリストにしがみつくことは決してない。本当に十字架を取ることは決してない。彼は真理を聞く者ではあるが、それ以上の何者でもないのである。

 では、この人の宗教の結果はどうだろうか。それは、最初の患難が洪水となって押し寄せてきたとき、完全に崩壊してしまう。それは、夏枯れの泉のように、最も必要なときに完全に彼を裏切る。それは、その持ち主を激しい渇きにあるまま見捨ててしまう。砂丘に土砂崩れが起こるように、教会に醜聞をもたらし、不信者の語り草となり、自分にとって悲惨を招くものでしかない。ほとんど代価のかからないものは無価値にひとしいという、これほど真実なことはない。ただ説教を聞くほか、私たちに何の犠牲もしいないような宗教は、最後には何の役にも立たないに決まっている。

 かくして山上の説教は終わる。このような説教はかつて一度も語られたことがなかった。それ以後も、おそらくこのような説教が語られたことは決してなかったであろう。私たちは、この説教が私たち自身の魂にとって、終生引き続く影響を持つようにしようではないか。これは、最初に聞いた人々に対するものであると同時に、私たちのためにも語られている。私たちこそ、この心さぐる教訓の数々について、申し開きをしなくてはならない者である。これらの教訓をどう考えるかは、軽くみなしてよいことではない。イエスの語られたことばが、「終わりの日に、私たちをさばく」のである(ヨハ12:48)。

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