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第6章1―8 人に見せるための施しと祈りの禁止

 山上の説教のこの箇所で主イエスは2つの事について指示しておられる。1つは施し、1つは祈りである。2つともユダヤ人が非常に重んじていた事だが、そうでなくとも信仰を告白するキリスト者が真剣な注意を払うに値する事である。

 私たちは、主の弟子と名乗る者はみな当然施しをするものと主が考えておられることに注目しよう。主の弟子たる者は、困窮する人を助けるため分に応じて施しをすることを厳粛な義務と考えるのが当然である。そう主はみなしておられる。主が論じておられるのは、その義務をどう果たすかということだけである。この教訓は重い。これは、自分の金銭を寄付したがらない多くの利己的な者を非難している。何と多くの者が、「自分では富んでいると考え」ながら、神の前には貧しい者であることか。他人の肉体のためにも魂のためにも、一銭も出さない者が何と多いことか。そんな考え方をする者にキリスト者と呼ばれる資格があるだろうか。否であろう。惜しみなく与えた救い主には、惜しみなく与える弟子たちがふさわしい。

 また私たちは、主の弟子と名乗る者はみな当然祈るものと主が考えておられることに注目しよう。主はこれも当然としておられる。これは片時も忘れてはならないもう1つの教訓である。ここに、祈らない者は純粋なキリスト者ではないとはっきり教えられている。日曜日教会の集会で祈りを唱和したり、週日家族とともに祈るだけでは十分でない。個人の祈りもなくてはならない。それがなくとも外面的には教会の一員であることはできよう。しかしキリストの生きたからだではないのである。

 では何が私たちの施しと祈りの指針として定められているのだろうか。それは、ほんの二、三の単純なことである。しかし、ここには大いに考えさせられるものがある。

 施すことにおいては、どのような見せびらかしの類いも忌避すべきである。「施しをするときには……自分の前でラッパを吹いてはいけません」。私たちは、自分がどれほど気前よく、愛にあふれているかを誇示したり、周りからほめそやされようとしてはならない。ひけらかしの類いはすべて避けるべきである。私たちはひっそりと施し、できるだけ自分の慈善には注意を引かないようにすべきである。私たちは、ことわざの形で云われた、この精神を目ざさなくてはならない。「右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」。

 祈りにおいて、第一に求むべきことは、神とふたりきりになることである。「祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい」。私たちは、だれの目にもつかない場所、神の御前に心を注ぎ出す姿が、神以外のだれにも見られていないと感じられる場所を捜すよう努力すべきである。これは多くの人々にとって非常に困難である。貧しい者や住み込みの雇い人の場合、真の意味でひとりきりになることはほとんど不可能に近い。しかし、これは私たちが最大限の努力を払って従わなくてはならない定めである。このような際、必要は発明の母である。神とひとり静まることのできる場所を本気で見つけたいと思うなら、普通は何とか方法を見つけだせるものである。

 施しにせよ祈りにせよ、どのような義務においても念頭に置いておくべき最も大切なことは、私たちは、心のすみずみまで見通される、全知の神に対して弁明しなくてはならないということである。私たちの父は、「隠れた所で見ておられる」。神の御目にとって、形式的な、見せかけだけの行ないや、心の伴わない外面だけの奉仕の類いは、ことごとく忌むべき、無価値なものである。神は、私たちの施した金額の大きさや、祈った言葉数の多さなど、全く顧慮されない。神のすべてを見通す御目が見られる唯1のことは、私たちがどのような動機から、どのような心で行なったかである。

 これを私たちがみな忘れずにいられたら、何と幸いなことか。ここにあるのは、多くの人を霊的に難破させてやまない暗礁である。彼らは、一定の「宗教的義務」を果たしていさえすれば、自分の魂には何の問題もなかろうと高をくくっている。彼らは、神が重んじるのは奉仕の量ではなく質だということを忘れている。誤解する人が多いが、形式的な言葉を何度繰り返そうと、慈善団体へ自己満足的な寄付を何度払おうと、神の恩恵の買収はできない。私たちの心はどうか。施すにせよ祈るにせよ、何をするにも「人に対してではなく、主に対してするように」しているだろうか。私たちは、神の御目を意識しているだろうか。「隠れた所で見ておられ」、「もろもろの行ないを量られる」(Iサム2:3 <口語訳>)方を喜ばせることだけを一心に求めているだろうか。動機は純粋だろうか。このような問いを、私たちはしばしば魂に向かって発するべきである。


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第6章9―15 主の祈り、および赦しあいの義務

 この箇所はほんの数節にすぎず、たちまち読んでしまえるが、途方もなく重要な箇所である。ここには、主イエスが御民に与えてくださった、素晴らしい祈りの手本がある。これが普通「主の祈り」と呼ばれるものである。

 おそらく、これほど有名な聖書の箇所は他にないであろう。キリスト教のあるところ、この文句はどこでも広く知られている。聖書を見たことも純粋な福音を聞いたこともない何千何万もの人々が、「私たちの父よ」とか「われらが父よ」という言葉を知っている。もしこの祈りが文字だけでなく精神においても知られていたなら、何と世にとって幸いであろう。

 これほど充実していながら単純な聖書の箇所は1つもない。これは、私たちが幼児のころ最初に習う祈りである。それほど単純な祈りである。しかし、ここには最も老練な聖徒も祈り求めるべき要素がすべてふくまれている。それほど充実した祈りである。ここにふくまれた言葉1つ1つを熟考すればするほど、「この祈りは神から出ている」との感を深めるであろう。

 主の祈りは、十の部分または十の文章からなっている。私たちがどのようなお方に祈りをささげるかという宣言が1つ。その方の御名と御国と御心についての祈りが3つ。私たちの日常の必要、私たちの罪、または弱さ、私たちに対する危険についての祈りが4つ。他人に対する私たちの感情の告白が1つ。誉れと栄光を帰すしめくくりの頌栄が1つである。これらすべてにおいて私たちは「私たち」、「私たちの」と云うよう教えられている。私たちは自分のことだけでなく、他人のことも覚えるべきである。これらの部分1つ1つについて一冊の本を書くこともできるであろう。しかし今はそれぞれの文章を取り上げ、その文章のふくむ教訓を理解するだけにとどめておかなくてはならない。

 最初の文章は、私たちがどなたに祈りをささげるべきかを宣言している。「天にいます私たちの父よ」。私たちは聖人や天使に祈りをささげるべきではない。永遠の父、霊の父、天地の主であられるお方に祈りをささげるべきである。私たちがこの方を「父」とお呼びするのは、その最も低い意味では、聖パウロがアテネ人に告げたように私たちの創造主としてである。「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。……私たちもまたその(神の)子孫である」(使徒17:28)。しかし私たちがこの方を「父」とお呼びするのは、その最も高い意味においては、私たちの主イエス・キリストの御父としてである。すなわちご自分の御子の死を通して、ご自身を私たちと和解させてくださった方としてである(コロ1:20―22)。私たちは、旧約の聖徒たちがぼんやりと遠くから見るしかなかったことを告白している。すなわち、私たちがキリストに対する信仰により神の子どもであること、また「子としてくださる御霊を受け」ていること、その御霊によって神を「アバ、父」と呼びうる者であることを告白しているのである(ロマ8:15)。この、神の子どもたる身分こそ、救われたいと思う者が願い求めなくてはならないものである。それを決して忘れてはならない。キリストの血に対する信仰、キリストと結び合わされること、これがなければ、「神は人類全体の父、だから私はその神に頼る」などと語っても無益である。

 第二の文章は、神の御名についての祈願である。「御名があがめられますように」。神の「御名」とは、神の力、知恵、聖さ、義、あわれみ、真実など、私たちに啓示された神のすべての御性質を示している。それらが「あがめられ」るようにとは、それらが人々に知られ、栄光を帰されるように求めるということである。神の栄光は、神の子どもらがまず第一に願い求めるべきものである。これは、主ご自身も1つの祈りの中でお求めになったことである。「父よ。御名の栄光を現わしてください」(ヨハ12:28)。この目的のためにこそ世界は造られ、この目的のためにこそ聖徒たちは召され、回心させられた。私たちの第一に求めるべきこと、それは、「すべてのことにおいて……神があがめられる」ことである(Iペテ4:11)。

 第三の文章は、神の御国についての祈願である。「御国が来ますように」。御国とは、まず第一に、キリストに生きて連なる者すべての心のうちに、神がその御霊とみことばによって打ち建て、守り支えておられる恵みの王国のことである。しかしこれは主として、いつの日かイエスが再臨され、「小さい者から大きい者に至るまで……みな、彼を知るようになる」(ヘブ8:11)ときに打ち建てられる栄光の王国のことである。このとき罪、悲しみ、サタンは、世界から追放される。このときユダヤ人は回心させられ、異邦人の完成はなる(ロマ11:25)。これは、何にもまさって待ち望むべき時代のことである。それゆえこれは、主の祈りの中で目立って大きな位置を占めている。この願いは、告別礼拝の式文の中にも表わされている。「願わくは神が、その御国の来たるを早めさせたまわんことを」。

 第四の文章は、神のみこころについての祈願である。「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」。ここで私たちが祈り求めているのは、神の律法が、天の御使いたちによるのと同じように、人間たちによっても、完全に、喜んで、途切れることなく従われるようになることである。それは、今神の律法に従っていない人々が従うよう教えられ、今従っている人々がよりよく従えるようになるよう願うことである。私たちの真の幸福は、神のみこころに完全に従うことである。そして、全人類が神のみこころを知り、それに従い、服従するように祈ることほど大きな愛はない。

 第五の文章は、私たち自身の日々の必要についての祈願である。「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」。ここで私たちは、私たちに日々必要なすべてについて、神の備えに全く依存していることを認めるよう教えられる。イスラエルが毎日マナを必要としたように、私たちも日ごとに「糧」が必要である。私たちは、自分が貧しく、弱く、欠けある者であると告白し、自分の造り主である方に、私たちの世話を見てくださるよう懇願するのである。「糧」を祈り求めるのは、私たちの必要を最も単純に示すものとしてであるが、ここには、私たちの肉体が必要とするすべてのものがふくまれる。

 第六の文章は、私たちの罪についての祈願である。「私たちの負いめをお赦しください」。私たちは、自分が罪人であること、日ごとに赦しと免罪を与えられる必要があることを告白する。これは主の祈りの中でも特に忘れてはならない部分である。従って、自分を義とし、自分の欠点を認めないような態度は、ことごとく非難される。ここで私たちは、絶えず恵みの御座の前に出て罪を告白し、絶えずあわれみと赦しを乞い求める習慣を守るよう教えられている。これを決して忘れてはならない。私たちは、毎日「私たちの足を洗う」必要があるのである(ヨハ13:10)。

 第七の文章は、他人に対する私たち自身の感情の告白である。私たちは、私たちの御父に、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」と願う。これは、主の祈りを通じて私たちの思いを告白する唯一の祈りであり、主の祈りの後で主が詳しく解説し直された唯一の部分である。その目的は、他人への悪意や敵意を心に抱いている者が、自分への赦しを祈り求めても、聞き届けられるはずがないことを私たちに思い出させることにある。そのような心から出た祈りは単に形式であり、偽善にすぎない。いや偽善よりも悪い。それは「私を絶対に赦さないでください」と祈るようなものである。私たちは、自分が赦せないなら、赦されることを期待してはならない。

 第八の文章は、私たちの弱さについての祈願である。「私たちを試みに会わせないで……ください」。それは、いかに私たちが常にわき道にそれやすく、堕落しがちであるかを教えている。ここで私たちは自分の弱さを告白し、神の支え、罪からの守りを乞い求めるよう教えられる。私たちは天地万物を支配される神に、魂に害を与えるどのようなことにも陥らせず、「耐えることのできないような試練に」決して会わせない(Iコリ10:13)よう願うのである。

 第九の文章は、私たちに対する危険についての祈願である。「私たちを……悪からお救いください」。ここで私たちは、世にある邪悪、自分のうちにある邪悪、そして、かの忘れてはならない邪悪な者、悪魔からの救いを神に願い求めるよう教えられている。ここで私たちが告白するのは、この肉体のうちにある限り、私たちは常に悪の存在を見、聞き、感じているということである。悪は私たちのまわりにあり、内側にあり、私たちを四方八方から攻め立てている。それで私たちは、私たちを守ることのできる唯一のお方に、この悪の力から私たちを救い出してくださるよう常に乞い願うのである。

 最後の文章は、頌栄である。「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」。この言葉にこめる私たちの思いは、この世のもろもろの王国は私たちの御父の正当な所有物であり、すべての「権力」は御父おひとりのみに属し、御父おひとりがすべての「栄光」を受けるにふさわしい方であるという信仰である。私たちは、あらゆる栄誉と賛美を御父にささげ、御父が王の王、主の主であられることを喜ぶと心から告白して祈りを閉じるのである。

 さて私たちは自分を吟味し、主の祈りで祈り求めるよう教えられているすべてのことを、本当に願い求めているかどうか考えてみよう。残念なことに、おびただしい数の人々は、この文句を形式的に毎日繰り返すだけで、その意味内容について全く考えていないのではないだろうか。彼らは神の「御名」や「御国」や「栄光」には全然関心がない。自分が神に依存していることや、自分の罪深さ、弱さ、危険などを何も感じていない。敵に対する愛やあわれみなど全く持たない。それでいながら主の祈りだけは年中唱えているのである! このようなことがあってはならない。神の御助けにより、私たちは、心のこもらない祈りを決して発することがないよう決意しよう。自分の救い主イエス・キリストを通して、本当に神を自分の「父」と呼ぶことのできる人、従って主の祈りの内容すべてに対して、心から「アーメン」と云える人は幸いである。


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第6章16―24 正しい断食のしかた、天の宝、健全な目

 主の山上の説教のこの箇所では、3つのことが問題とされている。それは断食、世俗性、信仰生活における一途さである。

 断食、すなわち、肉体を霊に従わせるため時おり食物を遠ざけることは、聖書でしばしば言及されている行為であり、普通は祈りと結びついている。ダビデは自分の子が病んだとき断食した。ダニエルは、神から特別な光を与えられることを願って断食した。パウロとバルナバは、長老たちを任命するとき断食した。エステルはアハシュエロスのもとへ向かう前に断食した。この主題について、新約聖書には何も直接の命令がない。断食するかしないかは人それぞれにまかされているように思える。このように直接の命令が与えられていないことには、大きな知恵を見ることができる。多くの貧しい人々は腹一杯食べたことが一度もない。そのような人に断食せよというのは侮辱であろう。多くの病気がちな人々は、どれほど食生活に気を遣ってもなかなか健康ではいられない。そのような人にとって断食は病を招くものでしかなかろう。断食とは、人がそれぞれ自分の思いで確信して行なうべきものであり、自分と違う意見の人を性急に批判してはならない事柄である。ただし決して忘れてならないのは、断食する人は、それを静かに、ひっそりと、見せびらかしなしに行なわなくてはならないということである。「人に見られる」ために断食してはならない。人に対してではなく、神に対して断食することである。

 世俗性は、魂にまとわりつく危険の中で最も恐るべきものの1つである。これについて主が激しく語っているのも不思議ではない。これは、うわべは何の危険もなく、無害そうに思える、油断ならない敵である。自分の仕事に気を遣うのは何の罪でもないように見える。この世で自分の幸福を追求するのは、あからさまな罪を犯さない限り、何も悪くないように思える。しかし、ここに多くの人々が永遠に難破させてきた岩礁があるのである。彼らは「自分の宝を地上にたくわえ」る。「自分の宝を天にたくわえ」ることを忘れてしまう。これは常に肝に銘じておこうではないか! 私たちの心はどこにあるか。何を最も愛しているか。最も心にかけているのは地上の事柄か。天に関する事柄か。私たちの生死は、こうした問いにどのような答えを返すかにかかっている。もし私たちが地上のものを宝としているなら、私たちの心も地上的な心である。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」。

 一途さは、信仰生活において勝利するための大きな秘訣である。目がはっきり見えなければ、どう歩いてもつまづいて倒れるに決まっている。二人の異なる主人に仕えようとするなら、どちらを満足させることもできないに決まっている。私たちの魂もそれと同じである。私たちはキリストとこの世に同時に仕えることはできない。結果は初めから見えている。無理なのである。契約の箱とダゴンが並び立つことはできない。神は私たちの心の主君でなければならない。神の律法、神のみこころ、神の戒めにこそ、まず第一の注意を向けなくてはならない。そうした上で、またそのようにしてこそ初めて、私たちの内なる人のすべてが、しかるべき位置に落ち着くのである。そのように私たちの心が秩序づけられない限り、すべては混乱したままであろう。「全身が暗い」であろう。

 私たちは、断食についての主の教えから、信仰生活においてはほがらかさが非常に重要であることを学びとろう。「自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい」とのことばは、深い意味に満ちている。ここで教えられるのは、私たちは、キリスト教が人を幸福にするものであることを人々に見せなくてはならないということである。陰鬱な、暗い顔をしていても、決してキリスト教の名誉にはならないことを忘れないようにしよう。私たちはキリストの与えてくださる報い、キリストに対する奉仕に不満があるのだろうか。答えは否である! では、まるでそうであるかのような顔をするのはやめよう。

 私たちは、世俗性に対する主の警告から、地上的な心に陥らぬよう目を覚まして祈ることがどれほど必要かを学びとろう。私たちの周囲の、信者と自称する者の大部分は何をしているのか。「自分の宝を地上にたくわえ」ているのである。これはまぎれもない事実である。彼らの趣味、生き方、習慣が、この恐るべき事実の証拠である。彼らは「自分の宝を天にたくわえて」はいない。私たちは、正当な事に気をとられすぎたあまり地獄に引きずり込まれるようなことがないよう用心しよう。神の律法を公然と破ることによって千人が倒れれば、世俗性に陥ることによって万人が倒れるのである。

 私たちは「澄んだ目」についての主のことばから、多くのキリスト者が信仰生活に敗北しているように見える真の理由を学びとろう。敗北している信者は至る所にいる。私たちの関係教会には、今の自分に満足できず、不安と不満を抱く多くの人がいる。そして、その理由の見当がつかないでいる。しかしここに理由ははっきり示されている。彼らは二股かけて生きようとしているのである。神と人の両方を喜ばせ、同時にキリストと富に仕えようとしている。こうした過ちを犯さないようにしよう。私たちは、断固として妥協しないキリストの弟子たろう。「私は……ただ、この一事に励んでいます」というパウロと同じ信条を持とう(ピリ3:13)。そのとき私たちは幸福なキリスト者となり、自分の顔が輝き、心と思いと良心に光が満ちるのがわかるであろう。決断こそ幸福な信仰生活の秘訣である。決然たるキリスト者になるとき、「あなたの全身が明る」くなる。


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第6章25―34 過度の思いわずらいの禁止

 この箇所は、主イエス・キリストの知恵とあわれみ深さの調和を示す驚くべき例である。主は人の心をご存じである。主は、世俗性を警告されると、すぐに私たちが口にする言い訳をご存知である。この世での生活を気にかけずに生きることはできません、と私たちが決まって云い出すことをご存じである。「私たちには養うべき家族がある。食べなければやっていけない肉体がある。いつも魂を最優先しながら、この世で生きられるものか」。主イエスはこうした思いを予測して、答えを与えられた。

 主は、この世の物事についてくよくよ思いわずらう心を禁じておられる。四度主は「心配するのはやめなさい」と云われる。自分のいのちや、食べ物、着るもの、あすのことで、「心配したりしてはいけません」。気をもみすぎてはならない。思いわずらいすぎてはならない。将来のため思慮深く備えるのは正しい。しかし体をこわし、心を病み、自分を苦しめるほどの心配に陥るのは間違いである。

 主は、すべての被造物に絶えず注がれている、神の摂理的ご配慮を思い出させておられる。神は私たちに「いのち」を与えたではないか。ならば確かに、そのいのちを支えるため必要なものに事欠くようなことがないようにしてくださるに違いない。神は私たちに「からだ」を与えたではないか。ならば確かに、着るものがなくて死ぬようなことがないようにしてくださるに違いない。私たちを無から有へと存在させられた方は、疑いもなく、私たちを養う食物を与えてくださる。

 主は思いわずらいの無益さを指摘しておられる。私たちのいのちが神の手の中にあることは否定できない。この世でどれほど心配しようと、神が定められた時を1分と越えて生きることはできない。私たちは寿命を1時間伸ばすこともできなければ、地上で自分の務めを果たすまで死ぬこともない。

 主は、教訓として空の鳥に私たちの目を向けさせる。鳥たちは将来のためたくわえはしない。「種蒔きもせず、刈り入れもせず」。まだ来ない未来のため貯蔵などしない。「倉に納めることもしません」。鳥たちは神の授けた本能を用い、自分のついばめるもので文字通り日々食いつないでいる。ここから学ぶべきである。神に召された場所で義務を果たしている者が、貧困に陥ることなど決してない。

 主は、野の花に目をとめるよう命じておられる。花々は、自らは何の労苦もしないのに、毎年色鮮やかに着飾らされる。「働きもせず、紡ぎもしません」。神は、その全能の御力によって、季節ごとに彼らを飾ってくださる。その同じ神は、信者すべての父なのである。どうして彼らは、神が「野のゆり」同様に彼らに着物を備えてくださる力があることを疑うべきだろう。朽ちゆく花々にも心をかけてくださる方は、不滅の魂の宿る肉体を無視させるはずがないであろう。

 主は、この世の事に思いわずらいすぎることがキリスト者にとって最もふさわしくない態度であると示しておられる。異教主義の大きな特徴の1つは、現在のために生きることである。異教徒が心配したければ心配すればいい。天の御父のことを知らないのだから。しかし、異教徒よりも明らかな光と知識を受けているキリスト者は、その証拠として信仰と満ち足りた平安を示すべきである。愛する者との死別の際、私たちは「他の望みのない人々のように悲しみに沈」んではならない(Iテサ4:13)。世の心配で試練に会うとき、私たちは神もキリストもないかのように気をもみすぎるべきではない。

 主は、思いわずらいの精神の治療薬として幸いな約束を差し出しておられる。主は、もしも恵みと栄光の御国にはいることを、何よりも「まず第一に求め」るなら、私たちがこの世で本当に必要とするすべてのものは与えられると確言しておられる。それらは、私たちの天における相続財産に「加えて」与えられる。「神を愛する人々……には、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」。「神なる主は……正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません」(ロマ8:28、詩84:11)。

 最後に主は、この世で最も賢明な格言の1つを定めて、この問題に関する教えすべてを確証しておられる。「あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」。私たちは、まだ来ない心配事に気をもむべきではない。きょうの務めにいそしみ、明日の懸念は夜が明けるまでそっとしておくべきである。私たちは明日になる前に死ぬかもしれない。明日何が起こるかはだれも知らない。確実に云えることは、もし明日試練がやって来るとしたら、その試練を送られた方は、その試練に耐えることのできる恵みをも送ることができ、事実送ってくださるということである。

 これは黄金の教訓の宝庫である。それを日常生活に生かすよう努めようではないか。読んだだけでなく実生活に活用しよう。思いわずらいや過度の心配に陥らないよう目をさまし祈っていよう。そこに私たちの幸福は深くかかわっている。私たちの不幸の大半は、将来起こるだろうと思うことをくよくよ考えることから発している。私たちの信仰はどこにあるのか。どこに私たちの救い主のおことばに対する信頼があるのか。私たちは、これらの節を読み、自分の心の中をのぞきこむとき、恥じ入ってしかるべきである。ダビデの言葉に間違いがないことは確信してよい。「私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない」(詩37:25)。

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