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第5章1―12 幸福の使信

 聖書を読む者ならだれでも、この節からはじまる3つの章には特に注目すべきである。ここに、いわゆる「山上の説教」がおさめられているのである。

 信仰を告白するキリスト者にとって、主イエスのすべてのことばは、何よりも尊いものでなくてはならない。それは大牧者の声である。偉大な監督者、教会のかしらたるお方の命令である。主人の仰せつけである。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」、と云われた方のことばである。最後の審判の日、私たちすべてを審くことになる方のことばである。

 私たちは、キリスト者がどのような種類の人たるべきか知りたいと思うだろうか。キリスト者がどのような人格を目ざすべきか知りたいだろうか。キリストに従う者には、どのような歩み、どのような考え方がふさわしいか知りたいだろうか。では山上の説教を再三再四学ぼうではないか。その一言一言を瞑想し、その一言一言で自分をはかろうではないか。特に、山上の説教の冒頭で、「幸いである」と呼ばれているのはどのような人か、しばしば思い巡らそうではないか。この偉大な大祭司から祝福される者こそ、真に幸いである!

 主イエスは、心の貧しい者を「幸い」であると呼ばれる。これは、へりくだっていて、謙遜で、自分を卑しくみなす人のことである。神の目から見た自らの罪深さを深く自覚する人のことである。これは、「おのれを知恵ある者とみなし、おのれを悟りがある者と見せかける」者のことではない。「自分は富んでいる、豊かになった」と云う者のことではない。「乏しいものは何もない」などと思う者ではない。「自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者である」と思う人のことである。このような人々こそ幸いである! へりくだりこそは、キリスト教の基礎中の基礎である。高く建てたいと思う者は、まず地を深く掘らなくてはならない(イザ6:21、黙3:17)。

 主イエスは、悲しむ者を「幸い」であると呼ばれる。これは、罪のために悲しみ、自らの欠点を日々嘆く人のことである。この世の何物よりも、罪について悩む人のことである。罪の記憶が嘆かわしく、罪の重荷が耐え難い。このような人々こそ幸いである!  「神へのいけにえは、砕かれたたましい」、悔いた心である(詩51:17)。やがて彼らがもう泣かずにすむ日が来る。「その人は慰められる」。

 主イエスは、柔和な者を「幸い」であると呼ばれる。これは、忍耐強く、満ち足りた心を持つ人のことである。このような人は、地上で何の誉れもなくともかまわない。不正をされても恨まず耐えることができる。すぐに癇癪玉を破裂させたり、気分を害することがない。たとえ話のラザロのように、良き知らせの訪れを待つだけで満足している。このような人々こそ幸いである! 長い目で見るとき、彼らは決して敗北しない。いつの日か、彼らは「地上を治める」ことになる(黙5:10)。

 主イエスは、義に飢え渇いている者を「幸い」であると呼ばれる。これは、何よりも神のみこころに完全に従った者になろうと願う人のことである。そのような人は、金持ちになるより、裕福になるより、学識者になるより、聖くなることを望む。このような人々こそ幸いである! いつの日か、彼らは望みを十分かなえられるであろう。彼らは、「神の似姿として目ざめ、満ち足りる」であろう(詩17:15)。

 主イエスは、あわれみ深い者を「幸い」であると呼ばれる。これは、他の人への同情にあふれている人のことである。このような人は、罪や悲しみに苦しむすべての人々をあわれみ、その悩み苦しみを和らげてあげたいと優しく願う。このような人は「多くの良いわざ」をなし、善を行なうことにいそしむ(使徒9:36)。このような人々こそ幸いである! 今の世においても、来たるべき世においても彼らは豊かな報いを刈り取るであろう。

 主イエスは、心のきよい者を「幸い」であると呼ばれる。これは、単に外見上の品行方正さだけでなく、内側の聖さを目ざす人のことである。このような人は、見かけだけ信心深くしているだけでは満足しない。常にくもりなき良心を保ち、霊と内なる人をもって神に仕えようと苦闘する。このような人々こそ幸いである! 人間の本性は心にある。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Iサム16:7)。最も霊的な心の人こそ、最も神との交わりを豊かに持つのである。

 主イエスは、平和をつくる者を「幸い」であると呼ばれる。これは、持てる力をふりしぼって、私的に公的に、国内で海外で、地上に平和と博愛を広めようとする人のことである。すべての人が互いに愛しあうようになることを望んで、「愛は律法を全うします」と告げる福音を説いて苦闘する人のことである(ロマ13:10)。このような人々こそ幸いである! 彼らは、神の御子が最初に地上に来られたとき始められたみわざ、そしてもう一度来られるとき完成されるみわざを行なっているのである。

 最後に主イエスは、義のために迫害されている者を「幸い」であると呼ばれる。これは、真のキリスト者として生きようと努めるために笑いものにされ、あざけられ、軽蔑され、虐待されている人のことである。このような人々こそ幸いである! 彼らは、自分の師が飲んだ同じ杯から飲む。今彼らは、人前で主を告白している。最後の審判の日には、主が、御父と御使いたちの前で彼らをご自分のものと宣言されるであろう。「彼らの報いは大きい」。

 これが、山上の説教の冒頭に主が据えられた8つの土台石である。心さぐる8つの偉大な真理がここにある。願わくは私たちが、それぞれの真理をよく心にとめて、知恵を学ぶことができるように。

 私たちは、キリストの行動原理が、この世の行動原理といかに正反対なものかを学ぼう。この事実は否定できない。この2つはほぼ対極にある。主イエスが称賛しているような性格は、まさにこの世が軽蔑するものである。この世の至る所で見られる高慢さ、軽薄さ、怒りっぽさ、俗っぽさ、エゴイズム、偽善、冷酷さこそは、まさに主イエスが非難しておられるものである。

 私たちは、信仰を告白する多くのキリスト者らの行動が、いかに悲しいほどキリストの教えと異なっているかを学ぼう。ふだん教会に通っている人々のどこに、ここで読んだ模範に従って生きようと苦闘している人がいるだろうか。バプテスマを受けた人々の多くは、新約聖書の命ずるところについて完全に無知ではないかと思われる場合があまりにも多い。

 何よりも私たちは、すべての信者がどれほど聖く、霊的な心を持たなくてはならないかを学ぼう。信仰者は決して山上の説教に示された基準以下のものを目ざすべきではない。キリスト教は、きわめて実践的な宗教である。健全な教理はキリスト教の根幹であり基盤ではあるが、その結実として常に聖い生活があるべきである。もし聖い生活がどんなものか知りたければ、イエスがどのような者を「幸い」であると呼んでおられるかを再三再四考えようではないか。


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第5章13―20 真のキリスト者の性格、およびキリストの教えと旧約聖書の関係

 これらの節はまず、真のキリスト者が、この世でどんな性格を保たなくてはならないかを教えている。

 主イエスは、真のキリスト者はこの世で「塩」のようであるべきであると告げる。「あなたがたは、地の塩です」。さて塩には、他の何物とも異なる独特の味がある。他の物と混ぜ合わせると、それを腐敗から防ぐ。どんな物と混ぜ合わされても、相手に塩気を加える。塩気がある限り役に立つが、塩気がなくなれば何の役にも立たない。私たちは真のキリスト者だろうか。ならば、これが私たちの使命であり義務であることをさとろうではないか!

 主イエスは、真のキリスト者は、この世で光のようであるべきであると告げる。「あなたがたは、世界の光です」。さて、光の特質は、それが全く闇とは異なったものだということである。真暗な部屋の中に小さな火花が1つ散っただけで、すぐにそれとわかる。造られたものの中で、光ほど役に立つものはない。光はいのちを育てる。行くべき道を照らす。心を明るくする。神から最初に呼び出されたものである(創1:3)。光がなければ、世界は陰鬱な空白であろう。私たちは真のキリスト者だろうか。ならば、もう一度私たちの立場と、その立場に伴う責任を見つめようではないか。

 確かに言葉が無意味でもない限り、私たちはこの2つの比喩から学ぶべきことがあるはずである。それは、もし私たちが真のキリスト者なら、私たちの性格には、何か他と異なるもの、際立ったもの、独特なものがなくてはならないということである。もしキリストからご自分の民と認めてほしければ、一生のんべんだらりと他の人々のように考え、他の人々のように生きていては何にもならない。私たちには恵みがあるだろうか。ならば、それは見えなくてはならない。私たちは御霊を受けているだろうか。ならば、がなくてはならない。私たちには、救われる信仰があるだろうか。ならば、この世のことしか考えない人々との間には、習慣、好み、性格の違いがなくてはならない。真のキリスト教は、単にバプテスマを受けて教会に通うこと以上の何かである。それははっきりしている。「塩」と「光」は、まぎれもなく心と生き方、信仰と行為の双方における独自性を暗示している。救われたいと思うなら、私たちは、あえてこの世と似ない風変わりな者でなくてはならない。

 第二にこの箇所は、キリストの教えと旧約聖書の教えの関係について教えている。

 これは非常に重要な点であるばかりでなく、たいへんな誤解がまかり通っている点である。私たちの主は、1つの驚くべきことばで、この点に関するすべての疑念をぬぐい去っておられる。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」。これは驚くべきことばである。これは、当時ユダヤ人が当然不安に思っていた点を安心させる上で、非常に重要な発言であった。さらにこれは、新約の信仰と旧約の信仰が調和した一体であるという証言として、世の続く限り、きわめて重要なものであり続けるであろう。

 主イエスは、いつか救い主が到来すると長い間予告していた預言者たちの預言を成就するために来られた。主は、儀式律法を成就するために来られた。モーセ律法のいけにえがことごとく指し示していた、罪のための大いなる犠牲となることによって、主は律法を成就された。また主は、道徳律法を成就するために来られた。律法のすべての要求に対して、私たちには不可能だった完全な従順をささげることによって、主は律法を成就された。さらに主は、私たちが犯した道徳律法の違反に対する罰として、私たちには支払い不可能だった代価をご自分の贖いの血で支払うことによって、律法を成就された。これらすべてにおいて、主は神の律法の誉れを高く掲げ、律法の重さを、それ以前の何にもまして明らかに示された。一言で云うと、「主はみおしえ(律法)を広め、これを輝かすことを望まれた」(イザ42:21)。

 私たちは、主の「律法と預言者」に関するこれらのことばから深い知恵を学ぶことができる。その知恵をよく考え、心にたくわえようではないか。

 まず第一に私たちは、どんな口実のもとでも、旧約聖書を軽蔑したりしないように自戒しよう。旧約聖書は時代遅れの、古くさい、無用の書だから捨ててしまえと命ずるような人々に決して耳を貸さないようにしよう。旧約の信仰は、キリスト教の種子である。旧約は福音の萌芽であり、新約は福音の開花である。旧約は、穂にはいった福音であり、新約は、豊かに熟した実となった福音である。旧約の聖徒たちは、多くのことを鏡の中に映すかのようにぼんやりとしか見ていなかった。しかし彼らはみな、信仰によって、私たちと同じ救い主を見つめ、私たちと同じ御霊によって導かれていたのである。これは決して軽い問題ではない。多くの不信仰は、旧約聖書に対する無知な蔑視が原因となっている。

 もう1つのこととして、私たちは、十戒を軽蔑しないよう自戒しよう。私たちは、十戒は福音によって取ってかわられたとか、キリスト者と十戒は無関係だなどと一瞬も思わないようにしよう。キリストの来臨は、十戒の地位を髪の毛一筋も変えていない。変えた点があるとすれば、キリストの来臨が十戒の権威をさらに輝かせ、高めた点にある(ロマ3:31)。十戒の掟は、善悪をはかる神の永遠の基準である。これによって、罪の意識は生ずる。これによって御霊は人にキリストの必要を示し、彼らをキリストのもとヘ追い立てる。これをキリストは、ご自分の民が聖い生活を送るべき規則・指針として指し示しておられる。しかるべく位置づけられるとき、十戒は「栄光の福音」と同じくらい重要である。私たちは、十戒によっては救われない。十戒によっては義と認められることができない。しかし私たちは、決して決して十戒をあなどらないようにしよう。律法が軽くみなされるのは、無知な牧会と、不健全な信仰状態のしるしである。真のキリスト者は、「神の律法を喜んでいる」ものである(ロマ7:22)。

 最後に私たちは、決して福音が個人的聖潔の基準を低めたなどと思わないよう自戒しよう。キリスト者の日常生活は、ユダヤ人ほど厳格でなくてもいいなどと決して思わないようにしよう。この途方もない誤りは、不幸にも世に広く行きわたっている。新約の聖徒の聖潔は、そんな考えが通用しないどころか、自分の導きに旧約聖書しか持たなかった人々よりも、はるかに高い水準になくてはならない。私たちは、光を受ければ受けるほど神を愛さなくてはならない。キリストにあって完全に赦されていることを明確に理解すればするほど、心から彼の栄光のため働かなくてはならない。私たちは、自分を贖うためどのような代価が必要であったか、どの旧約の聖徒よりもはるかによく知っている。私たちは、ゲツセマネやカルバリで何があったか読んで知っている。彼らは、それをぼんやりと、おぼろげに、やがて起こるべきこととしてしか見ていなかった。私たちは決して自分の責任を忘れないようにしよう! 個人的聖潔の基準が低いまま満足しているようなキリスト者は、無知もきわまりないというべきである。


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第5章21―37 律法の霊的性格を証明する3つの例

 これらの節は聖書を読む人ならみな熱心に注意すべき箇所である。ここにふくまれた教理を正しく理解することは、キリスト教の根幹そのものにかかわる。主はここで、その「律法を廃棄するためにではなく、成就するために来た」ということばの意味を十分に説明しておられる。主の福音は律法をあがめ、その権威を高めるものだと教えておられる。ここに説き明かされるように、律法はユダヤ人の大部分が思っていたよりも、はるかに霊的で、はるかに心さぐる基準であると主は示しておられる。そして主イエスは、例証として十戒から3つの戒めを選び出して、ご自分のことばを証明しておられる。

 主は、第六戒を解き明かしておられる。多くの人は、現実に殺人を犯しさえしなければ、神の律法のこの部分を守り行なっているつもりでいる。しかし主イエスは、この戒めの要求がそれよりはるかに高いものであることを示される。これは、あらゆる怒り、あらゆる激した言葉を弾劾する。特に、理由もなく発された場合そうである。この点をはっきりさせておこう。私たちは、人のいのちを奪っていない点では完全に無罪であっても、第六戒を破る罪を犯していないとは云えないのである!

 主は、第七戒を解き明かしておられる。多くの人は、現実に姦淫を犯しさえしなければ、神の律法のこの部分を守り行なっているはずだと思う。しかし主イエスは、たとえ外見は道徳的で品行方正であっても、思いと心と想像においてはこの戒めを破っていることがありうると教えられる。私たちが弁明しなくてはならない神は、行動以上の部分をごらんになる方である。神の前では、ちらりと目を向けることさえ罪なのである!

 主は、第三戒を解き明かされる。多くの人は、現実に偽りの誓いをしたり、誓いを破ったりしない限り、神の律法のこの部分を守っているはずだと考える。しかし主イエスは、空虚な軽々しい誓い立ては、どんなものもすべて禁じておられる。たとえ神の御名を前面に押し出さなくても、被造物による誓い、あるいは神を証人に呼び立てる誓いはみな、よほど厳粛な場合でない限り、非常に大きな罪である。

 さてこれらはみなきわめて教えに富んでいる。ここに私たちの心は厳粛な思いをかき立てられるべきである。心の吟味を強く迫られるべきである。この箇所では何が教えられているのだろうか。

 これは私たちに、神のはかり知れない聖さを教えている。神は、何よりもきよく、完全なお方である。人の目には何も映らない所にも、過ち、傷をごらんになる。神は私たちの内側の動機を読み取られる。私たちの行動だけでなく、ことばや思いにも注目される。「あなたは心のうちの真実を喜ばれます」(詩51:6)。人は、神のご性格のこの部分を今よりもっとよく考えた方がよい。神の「ありのままの姿」(Iヨハ3:2)を一目でも見るなら、人には、高慢や、自己義認や、軽薄さの余地はないであろう。

 これは私たちに、霊的な事柄に対する人間のはかり知れない無知を教えている。残念ながら、信仰を告白するキリスト者の中には、神の律法の要求を最も無知なユダヤ人と同程度しか理解していない人が何千何万もいるのではなかろうか。彼らは十戒の文字はよく知っている。あの若い役人のように「そのようなことはみな、守っております」と思っている(マタ19:20)。現実に行動に移さなくとも第六戒や第七戒を破ることがありうるなどとは夢にも思わない。そして彼らは自己満足し、自分のちっぽけな宗教で満ち足りている。まことに、神の律法を真に理解する者こそは幸いである!

 これは私たちに、私たちを救うキリストの贖いの血潮に対する、私たちのはかり知れない必要を教えている。このような神の前に立って、「私は無罪です」と云いえるような者が、いったい地上のどこにいるだろうか。分別のつく年令まで生きた人のうち、神の戒めを何千回となく破ってきていない者が、どこにいるだろうか。「義人はいない。ひとりもいない」(ロマ3:10)。力ある仲保者がいなければ、最後の審判の日、私たちはひとり残らず有罪宣告を受けるはずである。これほど多くの人々が福音を尊ばず、体裁だけの形式的キリスト教で満足している1つの明白な理由は、律法の真の意味についての無知にある。彼らは神の律法の厳格さ、聖さをさとっていない。もしさとっていたなら、キリストにおいて安息を見出すまで決して心休まることはないはずである。

 最後にこの箇所は私たちに、罪を犯すあらゆる機会を避けるべき、はかり知れない重要性を教えている。もし真に聖くなりたいと願うなら、私たちは「自分の道に気をつけ」、「舌で罪を犯さない」ようにしなくてはならない(詩39:1)。いさかいや不和に際してはすみやかに和解し、それがもっと大きな悪に発展しないようにしなくてはならない。「争いの初めは水が吹き出すようなものだ」(箴17:14)。私たちは、自分の肉を十字架につけ、自分のからだの行ないを殺し、どんな犠牲を払っても罪を犯すよりは肉体的不自由を忍ぶよう努力しなくてはならない。私たちは口にくつわをかけて唇を抑え、絶えず自分の言葉を厳しく制さなくてはならない。これを四角四面と呼ぶ者には呼ばせておこう。「堅苦しすぎる」と云いたい者には云わせておこう。動揺する必要はない。私たちは単に私たちの主イエス・キリストが命ずる通りに行なっているにすぎない。ならば恥じる理由は何1つないのである。


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第5章38―48 キリスト者の愛の原則

 ここには、互いに対する私たちの態度、ふるまいについて、主イエス・キリストが定めた原則が記されている。自分の同胞に対して、どのような感情を抱き、どのような行動を取るべきか知りたい者は、これらの節を再三再四学ぶべきである。これらは黄金の文字で書き記されてよいことばである。キリスト教の敵すら、ここでは賛辞を惜しまない。ここに記されたことをよく心にとめようではないか。

 主イエスは、どんな形の怨恨も復讐心も禁じておられる。「わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません」。受けた不正をすぐに恨む心、たやすく腹を立てる心、喧嘩っ早く争い好きな性格、自分の権利を真っ先に云い立てる性癖、これらはみな、ことごとくキリストのみ思いと正反対である。この世は、このような考え方に何の不都合もないと思うかもしれない。しかし、これらはキリスト者の性格にはふさわしくない。私たちの主人は、「悪に手向かってはいけません」と云っておられるのである。

 主イエスは、博愛と慈愛の精神を持つよう命じておられる。「わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し……なさい」。私たちはあらゆる悪意を捨て去るべきである。悪には善を報い、呪いには祝福を返すべきである。私たちは自分の権利を抑制し、労苦をいとわず、親切で、礼儀正しい態度を取り続けなくてはならない。「あなたに1ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに2ミリオン行きなさい」。私たちは他人の感情を傷つけたり、害したりするよりは、多くをがまんし、耐え忍ぶべきである。すべてのことにおいて私たちは、非利己的でなくてはならない。私たちの考えは、決して「他人は私にどうしているだろうか」であってはならない。「キリストは私にどうすることを望んでおられるだろうか」でなくてはならない。

 このような行動基準は、最初は、途方もなく高く思われるかもしれない。しかし私たちは、決してこれ以下の基準を目標にしてはならない。私たちは、主がご自分の命令のこの部分を補強するため用いられた2つの強力な議論に注目しなくてはならない。この議論には真剣な注意を払うべきである。

 まず1つには、もし私たちがここで勧められている精神、気質を目ざすことをしなければ、私たちはまだ神の子どもとなっていないということである。私たちの「天におられる父」はどうなさっているだろうか。御父はすべての人に対して慈悲深くあられる。正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる。分け隔てなくすべての人に太陽の光を注いでくださる。子は父親に似るものである。しかしもし私たちがすべての人に対して慈悲と慈愛を示すことができないとしたら、私たちと御父のどこが似ているというのか。愛なくして、私たちが新しく造られた者である証拠がどこにあるのか。何の証拠もない。その場合、私たちはまだ、「新しく生まれなければならない」者なのである(ヨハ3:7)。

 またもしここで勧められているような精神、気質を目ざすのでなければ、明らかに私たちはまだこの世に属しているのである。他人よりどれだけまさっているか。これが主の厳粛な問いである。全くの未信者すら「自分を愛してくれる者を愛し」ている。自然な情緒や損得に動かされれば、だれでも良いこと、親切なことは行なえる。しかしキリスト者は、より高い原理に動かされなくてはならない。この基準に私たちはひるむだろうか。自分の敵に優しくするなど不可能だと思うだろうか。もしそうなら確かに私たちはまだ回心していないのである。まだ「神の御霊を受け」ていないのである(Iコリ2:12)。

 ここには、大声で私たちの厳粛な反省を促すことが多々ある。これほどへりくだりの念をかき起てる聖書の箇所はまずない。ここにはキリスト者のあるべき理想像が描かれている。これは悲痛な思いなしに見ることができない。私たちはみな、これが実際のキリスト者の姿と非常にかけ離れていると認めるであろう。ここから大きく2つの一般的教訓をくみとりたい。

 第一に、もし真の信仰者が、この十の節の精神を本当に片時も忘れなければ、キリスト教は、世にとってはるかに魅力的になるであろう。私たちは、この箇所のどの部分も、どうでもいいとか、大したことでないと考えてはならない。そんな部分は全くない。この箇所の精神に注意を払ってこそ、私たちの信仰は美しいものとなるのである。ここにふくまれた事柄をないがしろにすれば、私たちの信仰は醜くなる。尽きることない寛容さ、親切さ、優しさ、他人に対する思いやり、これは神の子どもの性格を飾る最も輝かしい特質のうちにはいる。世は、たとえ教理は理解できなくても、こうしたことなら理解できる。無作法で、がさつで、ぶっきらぼうで、礼儀知らずな、しかし信仰深いキリスト者などありえない。実際的なキリスト教を完全なものとするのは、聖潔の小さな義務をも、大きな義務と同じように果たすことである。

 第二に、もしこの十の節の精神が、より世に浸透するなら、何と世界は幸いを増すことであろう。口争い、いさかい、自己中心、不親切が、人類に訪れる悲惨の半分をもたらしていることは、だれもが知っているではないだろうか。ここで主が勧めるキリスト教的愛が広まることほど幸いを増すものはないということは自明ではなかろうか。これを忘れないようにしよう。信仰を真剣につきつめると不幸になりがちだなどと考えたら大間違いである。人は信仰をつきつめてではなく、真剣につきつめないために不幸になるのである。真の信仰は不幸とは正反対である。それは人々の間に平安、愛、親切、善意を増し加える。人は、聖霊の教えに服従すれば服従するほど、互いに愛しあうようになり、幸せになるのである。

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