HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT

第4章1―11 荒野の誘惑

 主の公生涯の最初の出来事として、バプテスマの後にマタイが記録しているのは、荒野の誘惑である。これは深く神秘的な主題である。ここには私たちに説明のつかない部分がたくさんある。しかし、実際的な教訓もまた明らかに読み取ることができる。私たちは、そうした教訓に注目すべきである。

 まず第一に、私たちにとって悪魔が何と現実的で、何と強大な敵であるかを学びとろう。悪魔は、主イエスご自身にさえ襲いかかることを躊躇しない。繰り返して三度も、神ご自身の御子を攻撃している。私たちの主は、「悪魔の試みを受け」られた。

 そもそも世界に罪を導き入れたのが悪魔であった。悪魔こそは、ヨブを困惑させ、ダビデを欺き、ペテロに手ひどい挫折を味わせた張本人である。これこそ聖書が、「人殺し」、「偽り者」、「ほえたけるしし」と呼ぶ者である(ヨハ8:44、Iペテ5:8)。悪魔こそ、決してまどろむことも眠ることもなく、私たちの魂に敵意を燃やし続ける者である。悪魔こそ、ほぼ六千年もの間、ただ1つのこと、すなわち人間を破滅させ、彼らを地獄へ引きずりこむという一事に専心してきた者である。悪魔こそ、人間の理解を越えた悪賢さと狡猾さを持ち、しばしば「光の御使い」に変装する者である(IIコリ11:14)。

 私たちは日々この悪魔の詐略に警戒しつつ、目をさまして祈っていよう。決して目に見えず、決して死なず、どこにいようと、どこに行こうと身近につきまとう敵ほど始末に負えない敵はない。何よりも、悪魔について愚かな話や冗談を云わないよう気をつけよう。不幸なことに、現代はそのような習慣が至る所ではびこっている。救われたいと思う者は、肉を十字架につけ、世に打ち勝たなくてはならないだけでなく、「悪魔に立ち向か」わなくてはならない。このことを忘れないようにしよう。

 次に私たちは、誘惑を不思議なことででもあるかのようにみなしてはならないことを学びとろう。「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません」。もしサタンがキリストのもとへ来たなら、キリスト者のもとにも来るであろう。

 これは覚えておいてよいことである。信者は、あまりにもこのことを忘れがちである。しばしば彼らは、自分の心の中から、自分でも憎んでやまない邪悪な思いがわき起こることに気づく。内なる人が心底不快に思うような疑いや疑問、また罪深い想像が吹き込まれる。しかし、こうしたことが起こっても平安を乱したり、慰めを失ったりしてはならない。悪魔という者がいること、そしてキリスト者のまわりを悪魔がうろついても不思議ではないことを忘れないようにしよう。誘惑されることは罪ではない。誘惑に屈すること、そして心の中に誘惑の場所を設けることこそ恐れなければならない。

 次に私たちは、サタンに立ち向かうため用いるべき主要な武器はみことばであることを学びとろう。三度、この大敵は私たちの主に誘惑の手を伸ばした。三度、彼の申し出は、聖句を根拠にして拒絶された。「……と書いてある」。

 これは、私たちが聖書を勤勉に読まなくてはならない数ある理由の中の1つである。みことばは「御霊の与える劍」である。みことばを第一の武器としていない人が、勇敢に戦い抜くことは決してできない。みことばは私たちの足の「ともしび」である。この灯火にたよらずに旅をする者が、王の大路をそれずに歩むことは決してできない(エペ6:17、詩119:105)。私たちは、あまり聖書を読んでいないのではなかろうか。聖書を持っているだけでは十分ではない。実際に聖書を読み、読んで学んだことについて自分で祈らなくてはならない。聖書が家で埃をかぶっているだけなら、何の役にも立たない。実際にその内容に通じ、自分の記憶と心に聖句をたくわえなくてはならない。聖書の知識は決して直観では得られない。それには、厳しく、規則的に、毎日、注意深く、目を覚まして聖書を読むしかない。そのため費やさなくてはならない時間や労力を惜しむような人は、まだ神の御国にふさわしい者ではないのである。

 最後に、主イエス・キリストが何と同情心に富む救い主であるかを学びとろう。「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです」(ヘブ2:18)。

 イエスの同情深さは、信者にとって特別に慕わしい真理である。そこに彼らは、力強い慰めの鉱脈を見いだす。彼らは、どのような誘惑に遭うときも彼らに同情し、どのような霊的不安があっても訪れてくださる強大な友が天にあることを決して忘れるべきではない。彼らは、神のご配慮と善意を疑うようサタンから誘惑されたことがあるだろうか。イエスも同じ誘惑を受けられたのである。彼らは、神のあわれみにつけこんで、保証もなしに危険に飛び込むよう誘惑されたことがあるだろうか。イエスも同じ誘惑を受けられたのである。彼らは、一見大きな利益のために、何かこっそりと罪を犯すよう誘惑されたことがあるだろうか。イエスも同じ誘惑を受けられたのである。彼らは、何か間違ったことの言い訳として、聖書の誤った適用に耳を傾けるように誘惑されたことがあるだろうか。イエスも同じ誘惑を受けられたのである。イエスこそは、まさに誘惑される人々に必要な救い主である。私たちは、助けを求めて彼のもとへ逃れていこう。そして彼の御前に自分のすべての問題を打ち明けよう。イエスは常に喜んで耳を傾けてくださる。常に喜んで同情してくださる。イエスは信者の悲しみをわかってくださる。

 願わくは私たちがみな、この同情深い救い主の尊さを自分の体験によって知ることができるように。この冷たく欺きに満ちた世で、これにくらべうるものはない。この世だけに自分の幸福を求め、聖書の信仰を軽蔑する者たちは、自分がどれほど本物の慰めを取り逃がしているか考えもつかないのである。


HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT

第4章12―25 キリストの宣教開始と最初の弟子たちの召命

 ここには、私たちの主の公生涯が人々の間でどのように始まったかが語られている。主は、無知で無学な人々の間でその事業を開始された。ご自分の供をする弟子たちを選ばれた。ご自分の伝道活動の確証として奇蹟を行ない、その結果、「シリヤ全体に」まで人々の関心をかき立て、その説教を聞こうとする大群衆を集めるまでとなった。

 ここで主が何によってその偉大なわざに着手されたかに注目しよう。「イエスは宣教を開始して……」。説教者の職務ほど栄えある職務はない。人間の魂にとって、これほど重要な働きはない。これは神の御子が恥じることなくおつきになった職務である。これは御子がその十二弟子を任命された職務である。これはパウロがその老年になって、特にテモテの注意を向けている職務である。彼が、ほとんどいまわの息とともにテモテに命じているのは、「みことばを宣べ伝え」ることであった(IIテモ4:2)。これは、魂を救い、成長させるための主要な手段として、神が常にお用いになってこられたものである。教会の最も光輝あふれる時代は、説教が重んじられていた時代であった。教会が暗黒に沈んでいた時代は、説教が軽んじられていた時代であった。もちろん教会の礼典や公の祈りは大切なものとして敬虔にこれを用いよう。しかし、それを決して説教より重んじないよう警戒しようではないか。

 私たちは、主イエスが世に向かって最初に宣べ伝えた教理は何であったかに注目しよう。主は、「宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。』」

 悔い改めの必要性は、キリスト教の基盤に据えられた巨大な礎石の1つである。これは、一人の例外もなく全人類に向かって連呼しなくてはならない真理である。身分の上下、貧富の差にかかわらず、すべての人は罪を犯した。そして神の前に罪ある者として立っている。どんな人も救われたければ、悔い改めて回心しなくてはならない。これは、しかるべき注意を払われていない真理である。真の悔い改めは決して軽く考えてよい問題ではない。それは、罪について考え方を徹底的に転回させることである。心の変化である。そしてこの変化は、罪に対する敬虔な悲しみと、心からの罪の告白であり、罪深い習慣から完全に手を切ることであり、あらゆる罪に対して憎悪を抱き続けることである。このような悔い改めは、キリストを信じて救われる信仰と別ちがたく結びついている。この教理を尊ぼうではないか。「神に対する信仰と、私たちの主イエス・キリストに対する信仰」(使徒20:21)を常に全面に押し出していないような教えは、いくらキリスト教の名で語られていても、決して健全なものではない。

 私たちは、主イエスがどんな階級の人々をご自分の弟子に選ばれたかに注目しよう。彼らは社会の最下辺の貧民層の人々であった。ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネは、みな「漁師」だったのである。

 私たちの主イエス・キリストの宗教は、富豪や知識人だけのためのものではなく、全世界のためのものである。そして世界の大半は常に貧しい。貧困と文盲を理由に、おびただしい数の人々は異教世界の尊大な哲学者たちから無視されてきた。しかしキリストに仕える道においては、だれも貧困や文盲を理由に最高の地位から退けられることはない。へりくだった人、自分の数々の罪を意識する人、キリストの御声に喜んで聞き従いたいと思う人、そうした人は、たとえこの世で最も貧しくとも、天国では誰にも負けない高い地位につくであろう。知性も富も身分も、恵みなしには何の価値もない。

 もしキリスト教が天から出たものでなければ、キリスト教は決して世界宗教としてこれほど世に広まりはしなかったであろう。従ってキリスト教は間違いなく天から出たものである。この議論に不信者がいかに反論しようとしてもむだである。反論の余地はない。この、金持ちにも権力者にも知識人にもこびない宗教、人の心の肉的傾向を決して大目に見ない宗教、初代の教師たちが富も地位も権力もない貧しい漁師にすぎなかった宗教、このような宗教は、もし神から出ていなかったとしたら決して世界をひっくりかえすことなどできなかったはずである。一方のローマ帝国、そしてその壮麗な神殿に立つ異教の神官らを見るがいい。そしてもう一方の、福音をたずさえた無学な労働者たちを見るがいい。これほどかけ離れたものがあろうか。しかし結果は、弱者が強者を打ち負かし、強者が弱者の前に倒れ伏したのである。異教主義は没落し、キリスト教が取ってかわった。キリスト教は、まぎれもなく神から出たものである。

 最後に私たちは、私たちの主がご自分の使命を確証された奇蹟の一般的性格に注目しよう。ここでは、ひとまとめに語られている。これ以後では、多くの奇跡が個々に記されているのを見るであろう。これらの奇跡にはどのような性格があったか。それは、慈悲といたわりの奇蹟であった。私たちの主は、「巡り歩いて良いわざを」なされた[使徒10:38]。

 これらの奇蹟は、私たちに主の力を教えるためのものである。ふれるだけで病人をいやし、ことばだけで悪霊を追い出すことのできたこの方は、「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできにな」る[ヘブ7:25]。全能の神である。

 これらの奇蹟は、私たちの主の、霊の医者としての技量を示すための型であり、象徴である。どんな肉体の病も直せないことのなかったこの方は、魂のどんな病もいやす力を持っておられる。主にいやせないような心の傷はなく、主に直せないような良心の痛みはない。私たちはみな罪によって堕落し、傷つき、病に打ちひしがれた者であるが、イエスはその血潮と御霊によって、私たちを健康にしてくださる。私たちは、ただ彼に診ていただこうではないか。

 これらの奇蹟が、キリストの思いやりを示すものであることも忘れてはならない。主は誰よりも慈悲深い救い主である。主は、みもとに来る者を誰ひとり退けない。どれほど汚れ、どれほど病み疲れた人も決して拒まない。どんな人の訴えにも耳を傾け、どんな人の悩みにも手をさしのべ、どんな人の悲しみをも思いやられる。主のようにあわれみ深い方はない。主の慈悲は決して尽きることがない。

 私たちはみな、主イエスが「きのうもきょうも、いつまでも、同じ」であることを忘れないようにしよう(ヘブ13:8)。今は高く天で神の右に座しておられても、主は少しも変わっておられない。千八百年前と同じく、どのような痛みもいやすことができ、どのような人をも受け入れ、いつでも助けを差し出そうとしておられる。もし私たちが主と同じ時代にいたなら、主の前に出て自分の必要を切々と訴えたのではなかろうか。では、同じことを今しようではないか。主は「あらゆる病気、あらゆるわずらいを直」すことがおできになるのである。

HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT