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第8章1―15 らい病と中風と熱病の奇蹟的いやし

 マタイの福音書8章は、主の奇蹟で満ちている。5つもの奇蹟が特に記録されている。これは麗しく理に適ったことである。いまだかつて語られた中で最も偉大な説教のすぐ後には、その説教者が神の御子であられたという数々の力強い証拠が続くのがふさわしい。山上の説教を聞いた人々は、「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」と云わざるをえなかったであろう。それと同じように、このような数々のわざを行なった人も、いまだかつていなかった。

 今読んだ節には、3つの偉大な奇蹟がふくまれている。ふれただけでらい病が癒され、ことば1つで中風が治され、熱病の婦人が一瞬で健康と力を回復させられている。この3つの奇蹟をざっと眺めただけでも、3つの驚くべき教訓が読み取れる。それらを吟味し、心に刻みつけようではないか。

 まず第一に、私たちの主イエス・キリストがどれほど偉大な力をお持ちであるか学びとろう。らい病は、人体にふりかかる病の中で最も恐ろしいものである。らい病にかかった人は、生きながら死んだも同然となる。これは、医者が不治の業病とみなした病気である(列5:7)。それをイエスは、「『わたしの心だ。きよくなれ。』と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた」。---相手も見もせず、ことば1つで中風やみの人を癒すなど、私たちには想像することもできない。しかしイエスはそう命ぜられ、その通りになった。熱病で気息奄々の婦人を安らがせるばかりか、一瞬のうちに立って働く力を与えるなど、地上のどんな名医の腕をもってしても不可能である。しかしイエスがペテロのしゅうとめに「さわられる」と、「彼女は起きてイエスをもてなした」。---これらは、全能の力を持つお方のみわざである。この結論から逃れるすべはない。これは「神の指」である(出8:19)。

 ここにキリスト教信仰の盤石の土台があることを見てほしい。福音書で私たちは、イエスのもとに来よ、イエスを信ぜよ、イエスへの信仰に立つ人生を生きよと告げられている。イエスにたよれ、すべての思いわずらいをイエスにゆだねよ、魂をイエスにまかせて安らえと励まされている。それには何の不安もいらない。主イエスに、担い切れないものはない。主は強い岩である。全能者である。いみじくも、さる古の聖徒は云う。「私の信仰が安眠できるのは、キリストの全能という枕の上だけである」。主は、死人にいのちを与え、弱い者に力を与え、「精力のない者に活気をつける」ことがおできになる。私たちは主に信頼し、恐れないようにしよう。この世は罠で満ちており、私たちの心は弱い。しかしイエスに不可能はない。

 さらに私たちの主イエス・キリストの慈悲深さと同情深さを学びとろう。ここに見られる状況はすべて異なっている。主は、「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります」というらい病人の痛ましい叫びを聞かれた。百人隊長のしもべについて話は聞いたが、本人を目にはされなかった。ペテロのしゅうとめが「熱病で床についている」のはご覧になったが、ことばを発されたとは語られていない。しかし主のお心は常に1つであった。主はすぐあわれみを示し、即座においやしになった。苦痛にあえぐ病人はみな、優しくあわれまれ、完全に病苦から解き放たれた。

 ここにも私たちの信仰の強固な土台があることに注目してほしい。私たちの偉大な大祭司は非常にいつくしみ深い方である。彼は「私たちの弱さに同情でき」るお方である。彼は、私たちにためになることを行なうのに決してうむことがない。私たちが弱くもろい者であり、悩みと苦難に満ちた世の只中にあることをご存じである。彼は、千八百年前と変わることなく、喜んで私たちを忍び、私たちを助けてくださる。主が「だれをもさげすまない」(ヨブ36:5)のは、今も当時と変わらない。キリストのお心ほど私たちに深い同情を注いでくださる心は他にない。

 最後に私たちは信仰の恵みがどれほど尊いものか学びとろう。この箇所に登場する百人隊長については、ほとんど何もわかっていない。名前も、生国も、経歴も、すべてが謎につつまれている。しかし1つだけ確かなのは、彼は信じたということである。彼は云った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから」。忘れてならないのは、彼が信じたとき律法学者やパリサイ人は信じていなかったということである。彼は、異邦人として生まれたにもかかわらず、イスラエルが盲目であるときに信じた。そして私たちの主は、それ以来世界中で読みつがれてきた賛辞を彼に与えられた。「わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません」。

 この教訓をしっかりつかみとろう。これは覚えておいてよいことである。私たちを助けようというキリストの力と意志を信じ、信仰を現実に働かせること、これは世に見ることまれな尊い賜物である。無力な失われた罪人として、ためらいなくイエスのもとに行き、自分の魂をイエスの御手にゆだねることができるのは、大きな特権である。そのような心が自分のうちにあるという者は、神を永遠にほめたたえるがいい。それは神の賜物である。そのような信仰は、世にある他のどのような賜物や知識にもまさっている。英国の多くの知識人、学者たちが永遠に退けられているとき、多くのあわれな異教徒たちは、どれほど無知蒙昧であっても、自分が罪に病む者であることを知り、イエスにより頼んで回心したがために、天の座についているであろう。まことに信ずる者こそ幸いである。

 私たちは、個人的にこの信仰について何を知っているか。それこそ重大な問題である。私たちの知識は乏しいかもしれない。しかし信じているだろうか。キリストへのささげ物や奉仕の機会は少ないかもしれない。しかし信じているだろうか。私たちは説教も、文書伝道も、福音の弁明もできないかもしれない。しかし信じているだろうか。この問いに答えられるまで決して安心してはならない! この世の子らには、キリストへの信仰はつまらぬもの、ばかげたものに見える。偉大なところ壮大なところが何もないように見える。しかしキリストに対する信仰は、神の目には最も尊いものであり、貴重なものが普通そうであるように、めったに見られないものなのである。信仰によってキリスト者は生きる。信仰によってキリスト者は立つ。信仰によってキリスト者は世に勝つ。この信仰がなければ、だれも救われることはできない。


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第8章16―27 信仰告白者を賢く取り扱い、嵐の湖を静めるキリスト

 これらの節の最初の部分には、弟子に志願した者たちの取り扱いにおける、私たちの主の知恵の驚くべき実例が見られる。この箇所は、近時しばしば誤解されている問題に多くの光をあてているので、特に関心を払う価値がある。

 ある律法学者が主に向かって、あなたのおいでになる所ならどこにでもついてまいりますと申し出た。これは彼の属する階級、時代を考えると、尋常でない申し出であった。しかしその申し出には尋常でない答えが返された。それは、即座に受け入れられも、きっぱり拒否されもしなかった。私たちの主は厳粛な答えを返されただけであった。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」。

 次に、主に従う別の者がみもとに進み出て、弟子の道をこれ以上進む前に、「父を葬る」ことを許していただきたいと願い出た。一見、これ以上自然でもっともな訴えはないように思える。しかし、これは私たちの主の唇から、先に発されたものに劣らぬほど厳粛な答えを引き出している。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい」。

 この2つのことばには非常に印象深いものがある。キリスト者と名乗る者はみな、このことばの意味をとくと考えるべきである。ここではっきり教えられているのは、キリストのみもとに出て、公にキリストの真の弟子になりたいと表明する者には、その前に「費用を計算する」ようはっきり警告すべきだということである[ルカ14:28]。彼らは艱難を耐え忍ぶ覚悟ができているか。十字架を負う覚悟ができているか。もしそうでないなら、まだ始めるのにふさわしい状態ではないのである。主のことばがはっきり教えているのは、キリスト者は、キリストのため文字通りすべてをなげうたなくてはならず、両親の葬式に出席するというような務めでさえ、他の人々に行なってもらわなくてはならないような時があるということである。そのような務めは、おおむね出席者に事欠かないものである。福音を宣教し、この世でキリストのわざを行なうという、一段上の義務とは決して比較の対象にならない。

 キリスト教会は、主のこれらのことばをもっとよく覚えているべきである。福音の教役者らは、あまりにしばしば、これらのことばがふくむ教訓を見過ごしているのではないか。そして、一度も「費用を計算する」ように警告されないまま、おびただしい数の人々が一人前の教会員として迎え入れられているのではないか。実に、これほどキリスト教に害を及ぼしてきた慣わしはない。キリストの軍隊の兵員補充は、決して志願者を無差別に受け入れてなされるべきではない。ちょっとした信仰告白をし、自分の「体験」をぺらぺら語りたがるというだけの者を受け入れるべきではない。数の多さがそのまま力にはつながりはしない。単なる形式的信仰を持つ者だけが増え、真の恵みを持つ者がごく少数しかいなくなることもありうる。こうしたことは痛ましいほどに忘れられている。覚えておこうではないか。若い信仰告白者、求道者らには何1つ包み隠さないようにし、内情を偽って入隊させるようなことがないようにしよう。もちろん後には栄光の冠があるとはっきり語ろう。しかし、その途上は毎日が十字架を負う道であることも、負けず劣らずはっきり語っておこう。

 これらの節の後半から私たちが学ぶのは、真に救われる信仰には、しばしば多くの弱さともろさが入り混じっているということである。これは私たちをへりくだらせる教訓であるが、非常に有益な教えである。

 私たちの主と弟子たちは、ガリラヤ湖を舟で渡っていかれた。そこへ嵐が起こり、舟は打ち寄せる波のため、転覆寸前となった。その間、主は眠っておられた。恐慌状態の弟子たちは主をゆり起こし、助けを求めて叫んだ。主は彼らの叫びを聞かれ、一言で湖水を静められた。すると「大なぎ」になった。それと同時に主は、弟子たちの恐れを優しくお叱りになった。「なぜこわがるのか。信仰の薄い者たちだ」。

 ここには、何と多くの信者たちの心のありさまが、何と教訓に富む形で活写されていることだろう。信仰を持ち、キリストのためにはすべてを投げ捨てるほどの愛を抱く者は多い。そのおいでになる所ならどこにでもついて行くほどキリストを愛する者も多い。にもかかわらず何と多くの者が、試練に遭うと恐れに満たされることであろう。試練の起こるたびに、「主よ。助けてください」と叫んでイエスにすがるだけの恵みは持ちながら、うろたえ騒がず、最暗黒のときも何も問題はないと信ずるだけの恵みをも持つ者は、何と少ないことか。

 「私たちの信仰を増してください」との祈りを、日々ささげる嘆願の1つとしようではないか。おそらく私たちは、試練と不安との炉に置かれるまでは、決して自分の信仰の弱さはわからない。体験によって、自分の信仰が火にも耐えうることを見いだし、ヨブとともに「神が私を殺しても、私は神を待ち望もう」(ヨブ13:15)と云いうることを知った者は、祝福された幸いな者である。

 まことに、私たちの偉大な大祭司イエスが慈愛に富み、優しいおこころのお方であることを、私たちは大いに神に感謝すべきである。主は私たちの成り立ちをご存じである。私たちのもろさを思いやってくださる。主はご自分の民をその欠点ゆえにお見捨てにはならない。主はお叱りになる者らをもあわれんでくださる。「信仰の薄い」者らの祈りすらも聞かれ、お答えを与えられる。


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第8章28―34 ゲラサの地で悪霊を追い出す

 これら7つの節の主題は、深遠で神秘的である。ここには、ある悪霊が追い出された事件が、特にくわしく語られている。これは、奥の深い難解な点に強い光をあてる箇所の1つである。

 私たちは、この世には悪魔という者がいるということを、しかと肝に銘じておこう。これは恐るべき真実であり、あまりにもないがしろにされている事実である。私たちの周りには、強大な力と、私たちの魂に対する尽きぬ悪意に満ちた、目に見えぬ1つの霊が常に存在している。創造のはじめから、この霊は人間に害をなそうと画策してきた。主が再臨し、これを縛るときまで、彼は決して休むことなく誘惑し、危害を加え続けるに違いない。私たちの主が地上におられた時代、明らかに悪魔は、ある種の人々の魂のみならず肉体に対しても特別な力をふるっていた。現代ですら、こうした肉体に対する憑依現象は、人々が思うよりも多いかもしれない。それは確かにキリストが肉体をもって地に来られたころよりはまれであろう。しかし悪魔が常に私たちの身近にいるということ、常に私たちの心に誘惑の罠を絶えずしかけていることは、決して忘れるべきではない。

 次に私たちは、悪魔の力は制限されているということをしかと肝に銘じておこう。どれほど悪魔が強大であっても、彼より力強い方がおられる。どれほど悪魔が世に害をもたらすことに鋭意専念しようと、彼はただ許可のもとでしか働くことができない。これらの節に示されているのは、悪霊たちが地を荒らすことができるのは、ただ主の主が彼らにお許しになった時までであり、彼らはそれを知っているということである。「まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか」。この嘆願そのものからも、彼らが神の御子イエスの許しなしには、ゲラサ人の豚1匹をも害することができないことがわかる。「どうか豚の群れの中にやってください」。

 次に私たちは、私たちの主イエス・キリストは、悪魔の力から人を解放する偉大な救い主であられることをしかと肝に銘じておこう。主は私たちを「すべての不法」と「今の悪の世界」から贖い出すだけでなく、悪魔からも贖い出すことがおできになる。主は昔、蛇の頭を踏み砕くと預言されておられた[創3:15]。主は、処女マリヤからお生まれになったとき、その頭を砕きはじめられた。十字架の上で死なれたとき、主はその頭に対して勝利をおさめられた。そして主は地上におられたとき、「悪魔に制せられているすべての者をいや」すことによって、サタンに対する完全な支配権を示された(使徒10:38)。どのような悪魔の攻撃を受けるときも、主イエスに叫び、主の助けを求めることができるのは、私たちの大きな救いである。主は、サタンが私たちを縛り上げていた鎖を打ち壊し、私たちを解放することがおできになる。主は、私たちの心をむしばむどのような悪霊をも、昔の日とかわらず確実に追い払うことがおできになる。主イエス・キリストは、私たちを「完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」(ヘブ7:25)。実際、悪魔が私たちの身近にいると知りながら、キリストが「完全に救う」ことを知らずにいたとしたなら、これほどの悲惨はないであろう。

 最後に、この悪霊を追い出すという奇蹟が行なわれた土地に住んでいた、ゲラサ人らの痛ましい世俗性を見落してはならない。彼らは主イエスに「この地方を立ち去って」くれるよう願った。彼らの心にあったのは、自分らの豚の損失だけであった。自分らの同胞ふたりが、2つの不滅の魂が、サタンの呪縛から自由にされたことは全く顧みなかった。自分らの中に、悪魔よりも大いなる方、神の御子イエスが立っておられることなど気にもとめなかった。彼らが気にしていたのは、自分らの豚が溺れ死んだために、「もうける望みがなくなった」(使徒16:19)ことだけであった。彼らは無知にも、イエスを自分たちの利益を妨げる邪魔者とみなし、その邪魔者を取り除くことしか考えられなかった。

 このゲラサ人のような者が、今日あまりにも多すぎる。ほんの少しでも利益をあげられさえするなら、また、ほんの少しでも世の楽しみを味わえさえするなら、キリストのこともサタンのことも、これっぽっちも考えようとしないおびただしい数の人々がいる。願わくは私たちがこのような精神から解放されるように! これは非常によく見られる精神であり、すさまじいばかりに伝染性の強い精神である。私たちは、自分には救われなくてはならない魂があること、いつかは死ななくてはならないこと、そして死後さばきがあることを、いついかなるときも忘れないようにしよう。この世をキリストにまさって愛することのないよう用心しよう。

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