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第30通

良心の問題


閣下、

 10月はロンドンへ出ましたので、お手紙を書くことができませんでしたが、その代わりに、直接、閣下のお宅へお伺いすることができました。こうした機会は、そのとき愉快なだけでなく、思い出しても心楽しいものです。私は御一緒に過ごした半時間が半日に延びないかと願うほどでした。閣下が持ち出された問題は、私もよく考えていたものです。それでこの問題について何か納得の行くものを閣下に差し上げることができれば、嬉しく存じます。確かに、普通、信じたばかりの信仰者の感情は、多くの律法精神を混ぜ合わせています。そのような時期の良心は、傷つきやすいばかりでなく、多くの誤りを信じ込んでおり、細かなこともゆるがせにしません。そして閣下のほのめかされた通り、人は心に光が与えられていくにつれ、自分で自分を縛っていたような足かせから自由になったように感じ、今度は逆の極端へ近づいていくという危険に陥るのです。おそらく、ほどよい妥協点がどこにあるのか規定したり、2つの間に正確な境界線を引いたりすることは、だれにもできないでしょう。1つ1つの状況は非常に異なっており、第三者が真に適切な判断を下すことはできませんし、人間による最上の忠告、最上の規範といえども欠陥があって、自分の基準が他人の絶対的な導きとなるように望むのは正しくなく、他人の行ないや決定を無条件で受け入れるのは安全ではありません。しかし、聖書は確かに、どのような状況にあれ、あらゆる人に対する十分かつ誤りなき規則を与えてくれます。また恵みの御座が定められていて、主の教えの十分な解き明かしを求める者はいつでもそこを訪れればよいのです。こうしてダビデはしばしば、正しい道、義の道へ導きたまえ、と祈るのです。祈りに励み、聖書に親しく近づき、絶えず自分の心の状態を注意することによって、鋭敏な霊的識別力が得られます。そして、この霊的識別力は、いわる道徳的中性物(Adiaphora)*の性質や限界についてどのように思うべきか、または正しい行ないの中にぎりぎりとどまっていながら誤りを犯さずにいられる限度はどこまでか、などという考えを全く無用のものとしてしまいます。愛ほど明快で説得力のある詭弁家はいません。もしも主に対する私たちの愛が生き生きと働いており、主のみことばの基準が私たちの目の中で生き生きと働いているなら、ひどい誤りを犯すことはめったにないでしょう。そして若い回心者が素直で正直な心から、主をお喜ばせしようとして過激な行動に走るとしても、それは主の目においては、私たちのある種の冷たい行ないよりはずっと受け入れられていると思うのです。私たちはしばしば、年数を重ねた後で以前の弱さをあわれみの目でふりかえっては、現在自分は知識の面で大いに進歩したと云って心ひそかに自分をほめたたえがちですが、おそらく(悲しいことに常として)、手に入れた光と同じほどの暖かみを失っているのです。

 私たちは、主を知り、愛と感謝のきずなによって主と結びつけられたそのときから、主として2つのことを心がけなくてはならないと思います。それは、私たち自身の魂のうちで主との交わりを保つこと、そして人々の目の前で主の栄光を現わすことです。聖書は、ある者は願い求め、ある者はとがめるような多くの事がらを、totidem verbis(同じように多くの言葉数で)列挙したり、正だとか非だとか決定したりはしませんが、この2つの目的に合うように、いくつかの一時的原則を与えてくれます。こうした一般的原則を正しく用いるならば、おそらく多くの議論のかなりの部分は片がつけられ、少なくとも、人を喜ばすより神を喜ばせることを願う人にとっては、満足のいく解決となることでしょう。閣下には、そうした一般原則のいくつかを示させていただきます。ローマ12:1-2。Iコリント8:13と10:31。IIコリント6:17。エペソ4:30。エペソ5:11、15、16。Iテサロニケ5:22。エペソ6:18。そして現代の状況を考えると、これにイザヤ22:12とルカ21:34を加えていいでしょう。これらの聖句、そしてこれらと同種の聖書箇所(というのは、これにもっと多くつけ足すことはたやすいからです)の精神に従おうとするキリスト者は以下のような制約の下に置かれると思います。

 まず自分自身のためには、恵みの手段に携わろうとする心をそいだり、くじいたりするようなものは、いかなるものも避け、また控えること。なぜなら、そのようなものは、たとえ per se(それ自体としては)罪深いものと非難されないとしても、たとえ必ずしも不正なものでなくとも、そうです、たとえしかるべく管理されるならば正当で非難の余地ないものであっても(なぜなら私たちの主たる罠は往々にして私たちの祝福にまとわりついているからです)、もしもそれが敬虔な事がらに対する私たちの心をたびたび衰えさせるような明白な傾向を持っているなら、それが何かは各人が自分の経験から決めねばならぬことであるにせよ、そこには私たちにとって良くない何かがあるのです。それは時期の問題かもしれませんし、程度や事情が悪いのかもしれません。そうしたものが何と云って約束しようと、私たちは自分の黄金を盗まれて贋金をつかまされるだけです。なぜなら、神の御顔の光と、親しく神とともに歩む陽気で快活な心こそ、私たちのこの上なき喜びだからです。この喜びに代えて、他の何かを間に合わせの代用品として認めたり、追求したり、たよりにしたりするとき、私たちはすでに深い傷を負わされているのです。

 教会のためには、そして仲間のキリスト者に与えるかもしれない影響のためには、愛と思慮深さの律法によって、信者はしばしばそうした物事を差し控えなくてはなりません。それは、そうしたものが正当なものでないためではなく、そうしたことを行なうのが不適当だからです。こうして使徒は、そのキリスト者の自由の権利を守るために全力を尽くした人ではありましたが、弱い兄弟をつまづかせるよりは、その権利を用いず、いっさい肉を食べないことにしたのです。それは自分の手本によって、弱い兄弟が現在の良心に与えられている光に反して行動するようなことがないためでした。こうした原則に立つと、たとえ私が何の害も受けることなく演奏会やオラトリオといった大衆娯楽の場へ出かけて行き、そこから暖かな心で部屋へ帰ってくることができたとしても(私の場合、そのようなことがあるかどうか、はなはだ疑問ですが)、そのようなことは差し控えるのが義務だと思うべきでしょう。私よりも弱い人が私の行動によって励まされ、同じ事を試してみないともいえないからです。そうした人は、自分では良くない行ないではないかと恐れ、正当なものと考えることができないにもかかわらず、私が行なったというだけで、そうするかもしれません。そして、そのようなことになれば、私は何の害も受けないことでも、彼らは害を受けることでしょう。私は、このように人の行動に従うことによって信仰の破船に遭ったと思われる何人かの人を知っており、話したことがあります。彼らはその人たちを自分よりも賢く、すぐれた人だと思っていたのです。ですから、こういった種類の自己否定の義務は、私たちの地位の重みや影響力によって増し加わり、強くなると思います。もし私が聖職についていなければ、果たしてヤマウズラや野兎を狩ることを罪と思ったかどうかわかりません。しかし牧師であるからには、私は酒びたりの宴席に加わらないのと同様、もはやあえてそのようなことを行なおうとは思いません。それがある人々にとってはつまづきとなり、他の人々はこれを口実に放縦へ走るでしょうから。

 この世で生活を営んでいかねばならぬ私たちは、神と神の恵みに対して忠実を尽くすだけではなく、世間一般に対してもなさねばならぬ義務と愛の務めを負っています。すなわち、私たちは、不必要に奇をてらうべきではありませんが、それでも、この世の人々を導くため、また私たちの主であり師であるお方の栄誉のため、ある種の特異な生き方をし、自分が世から取り分けられた民となるべく召されていることを示すべきなのです。確かに私たちは神の摂理によって、つとめるべき職業やつきあいを与えられていますが(そうした中で余りに杓子定規に生きることはできませんが)、しかし私たちはこの世のものではなく別の社会に属しており、周囲の大多数とは別の原則、別の規範によって生き、別の目的のために行動しています。私の見たところ、この世というものは、信仰者たちが世の一般的なならわしや楽しみについて余りかたくるしく考えず、迎合していさえすれば、その信条や礼拝の場所については、そっとしておいてくれるようです。しかし世の多くの人々は、そうした迎合によって私たちの聖なる信仰に対する偏見をますます強め、もし教会の説教壇から聞かされるような喜びや慰めが本当に神を信じる道にあるのなら、こんなに多くの信仰者がこんなにもしばしば、重荷からの解放を求めて自分たちのもとへ殺到して来はすまい、と思うのではないでしょうか。私たちの主イエスは、御自身、天において御民の偉大な代理人であられるように、御民にも、地上におけるご自分の代理人たる歩みを続けるという栄誉を与えておられるのです。幸いなのは、この聖なる油注ぎを受けて、周囲のすべての人々に、何が罪人の心に対する主の福音の真の目的なのか、何がその本当の効果なのかを、その精神によって、気質によって、生活によって示すことができるようにされた人々です。

 この国において小さな歩みを続ける中で、真面目な人たちはよく、世俗的な人々から来る罠について不平を云います。しかし生活の糧を得るためにはそうした人々と交わっていかねばなりません。私はそういう人たちには、もしできることなら、この世の仕事は雨の日の仕事のように行ないなさいと忠告しています。人はもし外でやらなくてはならない仕事ならば、濡れるのがいやだからといって中途半端で放り出したりしないでしょう。しかし仕事が終われば、ただちに屋根の下にのがれ、楽しみに雨の中に立っていたりしないはずです。それと同じように、私たちは、たとえ摂理と必要とからこの世に出て行かねばならないとしても、もしこの世の精神を不快に思い、そうした精神から喜んで身を避けたいと思い、自分のかかわる務めが許す限り遠ざかっているならば、害を受けることはないでしょう。私たちの十字架となるものは、それほど私たちの罠となりません。しかし私たちが常に警戒し祈っていかねばならぬ、この精神が、私たちの心を汚染し、同化させてしまうならば、私たちは確実に害を被り、この高貴な信仰以下の行動に堕してしまうでしょう。

 同じように、時間の価値も考えに入れなくてはなりません。時間は貴重なタラントです。そしてキリスト者としての私たちの信仰は、時間をしかるべく利用するための広大な領域を開いてくれます。すでに膨大な時間が失われているのですから、私たちは時を生かすようにと勧められているのです。習慣からしなくてはならない多くのことは、キリスト者にとってふさわしいものではないと思います。理由は1つ、そうしたものは時を生かすという単純明快な考えと折り合わないのです。一般に私たちには息抜きが必要だと云われます。それはある意味で認めます。主御自身、私たちに息抜きを与えてくださいました。私たちの霊はあまりにも弱く、常に翼に乗って黙想と祈りに専心することはできないので、主は、上は国王に至るまでのあらゆる人に、この世でなすべき何らかの仕事を与えられたのです。貧しい者は働かなくてはならず、富める者も同じように何かをなすべき義務から免除されてはいません。そして、各人が自分の境遇に応じて、こうした類のすべてのことにほどよく励んでいくとき、心さえ生き生きとして、正しい状態にあるならば、霊的な関心事は、この世の心づかいや仕事に対して、最も高貴で、甘美な、興趣つきない息抜きとなるでしょう。また逆に、各人の仕事は、信仰の務めに対する、心の最上の息抜き、最上の休息となります。そして、おそらく、この2つの間に純粋な娯楽の時間と云ったものはほとんどなくてよいでしょう。この意味においては、神とこの世とに分割された人生こそ望ましいものです。その人生の一半では、ひとり静かさの中にのがれて、魂の愛しまつるお方を求めて語り合い、他の一半では、自分の家族や友人や教会や社会、そして主の益のために現実の奉仕に励むのです。この2つのうちのどちらかと合致しないような時間は、私の考えでは無駄なのです。

 私たちの住むこの時代もまた、主の民に一種特異な心持ちを必要とさせるように見えます。この時代は罪が満ちあふれている時代で、今まさに審きの来たらんとする時代ではないでしょうか。この世はノアやロトの時代と同様、安閑としています。私たちがあからさまな辱めを受ける日はすぐに来るでしょう。しかし、それはただ一日に限られたことではなく、日々存在し、日ごとに増し加わっていくことはあまりにも明らかです。もし私が時代のしるしについて誤っていなければ、現代ほどこの国の年代記の中で、エゼ9:4に描かれた精神と務めがふさわしい時代はありません。主は嘆きと涙を求めておられます。しかし多くの人のことばは厚かましく主に反抗しています。ほとんど毎日のように、新しく放埒な娯楽が発明されており、いわゆる上流の人々の中でも、ふらふら遊び歩く人々のことばは、(私の云うのは彼らの心の中を代弁することばのことですが)、あの反逆的なユダヤ人のことばそのものです。「あなたが私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない」(エレ44:16、17……)。つまるところ、事態は終局へ向かっており、あたかも主が神か、バアルが神かの評決をせまっているかのようなのです。世がこのような状態にあるとき、私たちは自分が主につく者であることを、どれほど明らかに宣言しても行き過ぎということはないでしょう。また、徒党を組んで主に逆らう人々とのふさわしくないつきあいを、どれほど注意して避けても注意のしすぎということはないでしょう。今の時代の忌みきらうべき物事を嘆き悲しむ人々に、あの摂理による守りのしるし[エゼ9:4]は、まだ与えられていません。しかし、私たちは、いつそれを必要とするような切迫した状況に陥るか知れないのです。思うに、全体から見て、(中庸の道をきっちり選べないようなときには)、神の命令と全く相反するとは云えないとしても福音の本質と相いれず、キリスト・イエスにある心(そして御民のうちにも当然あるべき心)を不安にするような行ないに素直に迎合しすぎる人間だと目されるよりは、むしろ、道徳屋で堅すぎる奴だと思われる方が、はるかに名誉であり、気持ちのいい、安全なことのように思われます。この世の人々が足しげく訪れ、大いに誉めそやすような歓楽の場所、罪へいざなう機会と誘惑を養い、行儀作法に外れたことさえ行なわなければ何をしてもおかまいなしで、罪深い欲情をかき立てては、これに人をほしいままにふけらせる場所、神への恐れなどまるで考えられておらず、神を恐れる人がことばを失い、にもかかわらず御名を涜すことばを聞かざるをえないような場所、このような場所は到底キリスト者が自ら進んで入っていくようなところではありえません。しかし、この国のあらゆる上品な娯楽や集まりは、そうした忌むべき特徴があてはまるのではないでしょうか。

 家族とのつきあいを絶ったり、軽んじたりすべきだとは考えられません。しかし信者とその親族は、云うなれば、しばしば領分を異にして生きているようなものですから、互いにすっきりしないものがあり、語ることばも、どちらかと云うと、よそよそしく退屈なものとなってしまいます。けれども、そのせいで、親族とのつきあいは普通の場合よりもとぎれがちになります。これは好都合なことです。双方とも礼儀正しく愛情のこもったやり取りを続けはしますが、意見や何を第一とするかという傾向において一致できないので、どちらかが何か重要なことを持ちかけてこない限り、無理していつも一緒にいようとはしません。そしてキリスト者はこうした関係においてどこまで妥協するか、きわめて注意深くあらねばならないと思います。しかし、はじめに申しました通り、こうすべきだ、という一般的な規則を定めることはできないでしょう。

 今まで閣下に書きつらねてきた考えは、ただ書いている途中に思い浮かんだもので、特に研究したり、論理的に素地を遠そうとしたりはしませんでした。私の独断を押しつけるつもりはありません。けれども私の書きましたことは聖書の個々の聖句とも全体の基調とも一致していると思います。それは閣下が御自分で判断してくださいますように。

敬具



*(訳注) Adiaphora とは、聖書の中で善とも悪とも定められていない、私たちの自由裁量にまかされているもののことを指す。[本文に戻る]

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