第29通
キリスト者の性格 閣下、
特に前置きはせず、これから私は、あのアンテオケ発祥の仇名の内容について考えたいと思います。云いかえますならば、「キリスト者」であるとはどういうことかということです。人が、頭だけの理解でなく、本当に福音を体験するとき、(限界ある人間にどうしても伴う弱さは別としても)何が起こるのでしょうか。もちろん今から書くような性格と完全に一致していない人はキリスト者ではない、などと云うつもりはありません。そんなことをしたら私も自分がキリスト者だなどと云えなくなるでしょう。ただ私は、聖書が私たちの高い召しの報いとして、目標として、この現世で何をめざすよう励ましているのか考えたいのです。残念なことに、どうも私たちは、あまりにも与えられた特権以下の状態に甘んじることが多く、福音の約束と福音の精神が到達可能だと述べているものに到達せずに終わりがちなようです。
「高潔な人間こそ神の手になる最も高貴な作品」というポープ氏の有名な一節は、正しく解釈されれば1つの真理です。キリスト者は、この目に見える世界の中で、最も高貴な神の作品です。神の栄光と徳を、キリスト者は太陽よりも輝かしく現わしています。真に厳密な意味で高潔な者とはキリスト者以外にありません。他の人々はみな、あまりにも利己心にとらわれていて、自分にしてほしい通り他人に施すということができないからです。常にそのようにできる者でなければ、高潔という名に値しません。
キリスト者は新しく造られた者です。上から生まれ、上から教えられた者です。自分が罪人であり、咎と惨めさに満ちていることを確信した者、それゆえにこそ自分の前に置かれた避け所、福音の希望へと逃れてきた者です。そして御子[キリスト]を目の当たりにし、彼を信じた者です。栄光と恵みに満ちた神の救いに対して生来持っていた偏見は、全能の神の御力によって制圧され、静められました。そして彼は神の御子を受け入れ、御子に受け入れられました。今や彼は主を知っています。かつて神について抱いていた、曖昧で、ぼんやりとした、不快な想像は捨ててしまいました。キリスト者は、キリストのうちに神を見ます。キリストは道であり、真理であり、いのちです。この唯一の門を通らずに、神についてどんな知識、どんな交わりを得ようと、それは不完全なものです。しかしキリスト者がキリストのうちに見る神は、和解された神、父なる神、救い主なる神、友なる神、自分のすべての罪を無代価で赦し、子としてくださる御霊を与えてくださった神です。もはや彼は、神にとって奴隷でも他人でもありません。神の子どもです。そしてもし子どもであるなら、相続人です。すでにすべての約束の受取人と定められ、恵みの御座に大胆に近づくことを許され、永遠の栄光を確実に保証された者です。福音は、単に神に受け入れるかもしれないとか、たぶん最後まで信仰を守り抜くだろう、とかいう淡い期待や見込みを与えるためのものではなく、死がいのちに呑みこまれてしまうそのときまで、私たちは確実に神から守られ、信仰を保つのだと保証するためのものです。この点で多くの人は、悲しいほど迷い、悩み苦しんでいます。またそれは、誰もが一度は通る経験かもしれません。しかし、「私たちは神からの者であることを知っています」、と云い切ることのできる人々は確実にいます。だからこそ彼らは堅く立って動かされることなく、主の道に立ち続けるのです。なぜならそういう人は、自分たちの労苦がむだでなく、やがて肉体を離れるときには主のみもとに行くことを知っているからです。これが、年期を積んだ、よく練れたキリスト者の姿です。このような人は、神の力により信仰を人生の最重要事とすることができています。主にあって、その大能の力によって強められています。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。そこでこれから私は、キリスト者の性格について大まかな描写をしてみようと思います。こうした原則、こうした希望をふまえた人はどのような性格を身につけるものでしょうか。大きく3つに分けて、神、自分、他人に対する気質ということを考えてみましょう。
神に対してキリスト者は、まず第一にへりくだった思いを抱きます。あのゲッセマネとゴルゴタを見るとき、彼は罪の邪悪さ、神の聖さ、また罪人に対する神の比類なき愛が心の奥底まで刺し貫くのを感じます。かつて自分が、この聖なる恵みの神に反逆し、敵対していたことを胸の痛みとして思い出します。また自分には今も汚れと欠陥がつきまとい、それが最上の奉仕をも卑しめてしまうことを痛感しています。ですから彼の口は誇ることをやめるのです。自分でも自分が忌まわしく見えるので、主がこのような罪人に、あれほどの救いを与えてくださったことが信じがたく思われます。恵みのもとで自分がどれほどの恩義をこうむっているか、それに対して自分が何とわずかなお返ししかできないかがわかっていますから、彼は何のてらいもなく、使徒と同じように、自分はすべての聖徒のうちで一番小さな者だと喜んで、いえ、いやでも、そう告白せざるをえません。自分の心の内側は知っていても、他の人々については外見しかわかりませんから、彼は常に、この世で自分ほど弱く、貧しく、無価値な者があろうかと感じます。しかし、たとえ自分が卑しく感じられても、彼は決して失望しません。なぜなら彼には平安があるからです。彼が自分の知恵として、また義と聖めと贖いとしてより頼み、信頼し、生きているお方が持っておられる威光や、職務、血潮、義、誠実さ、同情心を考えるとき、いかなる欠けも求めもみな満たされ、いかなる反論もみな封ぜられ、あたかも天使のごとく罪なき者であるかのように、確信をもって神に近づくことができます。なぜなら、たとえ自分のうちに罪は増し加わろうと、イエスのうちに恵みは満ちあふれる、と知っているからです。過去については、すべてが新しくなりました。現在と未来については、永遠の御腕によりかかり、天地を造り支えておられる御言葉と御力をたのみとしています。たとえ自分が最小の恵みにも価しない者だと感じられても、彼は、神の与え得る最大の祝福を要求し、期待することができます。そしてキリストを知る知識と、キリストの愛に根ざし、土台を置いている彼には、平安がいつまでもとどまります。その平安は、感情的にどれほど動揺しようと、また地上における神のはからいがどれほど変化しようと、大きく変わることはありません。キリスト者は自分をそのような者とみなし、そのような心の平安と光輝く希望を持っているのです。ではどうして自分の神であり救い主である方に対する愛を示さずにおれましょう。魂が至善のお方と愛によって結びつくときこそ、キリスト者の性格と幸福が完成されるときです。キリストの愛は彼の心の喜び、彼の従順の源です。救い主の臨在があれば、地上で天国を味わうような心地ですが、その臨在がなければ、天のどのような栄光も満足を与えません。キリストの気高さ、またその罪人に対する愛、特に御自分のいのちさえ捨ててくださった愛、失われていた自分を捜し求め、救ってくださった愛、最後までお見捨てにならない愛----しかし、これ以上書かなくても、閣下はずっとよくご存じのことと思います。イエスを知る者にとって、この方はかけがえのない尊いお方なのです。キリスト者生活において、主のために積極的に奉仕する以外の時間の大部分は、主との交わりを求め、その交わりを保つために費やされます。だからこそキリスト者は、足しげく恵みの御座に通い、恵みのみことばを学び、教会に集うのです。主がそこで御自分の民に会われると約束されたからです。こうした時間こそ、彼にとって黄金の時間です。そして、このように時間を用いることができたとき、この世が偉大だとか重要だとかみなす他のすべてのものは、彼の目にとって何と貧しく、何とつまらぬものに見えることでしょう! そうです。彼はどれほど忙しいときでも、この愛する方との心の交わりをつなぎとめようと切に願います。そして、それが妨げられない限り、彼のあらゆる労苦は軽くなり、あらゆる困難は甘美なものとされます。しかしもし主と交わりもせず、主のため働きもしていなければ、彼はその時間を無駄に費やしたと考えます。そして恥ずかしく思い、悲しみます。こうした彼の愛の真実さは服従によって明らかにされます。この服従には二種類あり、どちらも、灰色の部分を残さない絶対的なものです。まず彼は、神が啓示されたみこころに服従します。啓示されたみこころとは、聖書の戒めによって、またご自身の模範によって知らされた神の御意志のことです。彼は、自分の救い主のみ足のあとに従い、神の命令のすべてを、何の例外もなく、何のためらいもなく、心にとめ、それを実行しようとつとめます。またキリスト者は、摂理による神のみこころに服従します。彼は神の主権を黙って受け入れ、不平を云わずに神の知恵に従います。彼は、自分には何の文句を云う理由もないことを知っています。なぜなら自分は罪人であり、主はすべてを益としてくださると確信しているからです。ですから彼は強制されて服従するのではなく、信頼によってそうするのです。彼は、自分で自分の道を選ぶなどという不遜なことはできないと考えます。ですから彼は、主が自分のために事を整えてくださることを喜ぶのでです。そしていざ自分で決断せざるをえないときには、すでにすべての関心事を主の御手にゆだねていますから、それをそのままゆだね続けることだけを選びます。また同じように彼は、社会についても自分の個人的問題と同様の判断を下します。彼は、国家の罪に対して冷淡な傍観者となることはできません。自分の国がそのため当然受けるであろう報いについて心配せずにはおれません。他の人々のために心を痛め、恐れおののきさえします。しかし、彼自身は全能者のかげに住み、何物も押し破ることのできない聖所の中に住んでいます。ですからたとえ地は揺れ動き、山は海の真中に移ることがあろうと、彼の心はさして動揺しません。神が彼の避け所だからです。主がすべてを支配されます。彼は、自分の救い主の御手が、あらゆる暗い局面を指図し、すべてのことを制御して、ご自身の偉大な目的をなしとげられることを知っています。それで彼は満足なのです。たとえ波風は猛り狂おうと、彼は自分の小船で嵐の海へ乗り出すことができます。同じ船の中に、決して誤ることのない全能の水先案内人が乗り込んでいるからです。実際どうして恐れることがあるでしょう? 彼には失うものが何もないのです。彼が最も大切にしているものは決して脅かされません。そしてその他のものは、主からの贈り物であって、主が召されるときには、それがどのような仕方であっても、いつでもお返しする用意はできています。なぜならどんな被造物も、またどんな出来事も、主のみ許しがない限り、彼の髪の毛一筋すら落とすことができません。それを彼はよくわきまえているからです。また主がそれをお許しになるときには、それが最善のことに違いないと知っているからです。
この件については、もっと詳しく述べることもできますが、ひとまず先に進んで、キリスト者が自分についてどのような考え方をするか考えることにしましょう。キリスト者は、敬虔な、また真面目な生き方をします。真面目というのは、単に酒びたりでないという以上のことです。もちろん先ほど述べたような思いで神に接する人は、この世のものをすべて適度に用いるようになります。病的に几帳面になったり、迷信的になったりはしません。キリスト者は福音の自由を知っており、神が造られたものは、感謝をもって受け取るとき、みな良い物であると承知しています。ですから、やたらと奇妙な生き方をしたり、自分勝手な禁欲生活を実行しようとしたりしません。キリスト者はストア主義者でも禁欲主義者でもないのです。しかしキリスト者は、日々用心と自制が必要であることを自覚しています。サタンが信者を、あからさまな極悪犯罪へ誘惑するようなことはめったにありません。むしろ私たちの最もひっかかりやすい罠、最も激しい戦いは、それ自体では何の不都合もない物事を、乱用することにあるのです。私たちは、乱用することが有害なものと戦わなくてはなりません。あまりにも多くの時間を奪い、心のあまりにも大きな部分を占め、少しでも主との交わりを妨げるような物事に対して戦わなくてはならないのです。またキリスト者は、自分の置かれている状況に対して不平を云いません。主が自分のために選ばれた環境だからです。キリスト者は、生活水準を向上させたり、暮らし向きを良くすることにやっきになったりしません。もし摂理によってある道を取るよう示され、導かれるなら、いつでもそれに従います。たとえそれが世間の常識から云えば良い方から悪い方への転落だとしてもです。なぜならキリスト者は、地上では巡礼者であり異邦人であり、天国の市民だからです。金持ちの人が旅をするときには、自宅とは似ても似つかぬ不便な宿屋に喜んで泊まるでしょう。旅路の果てには快適なわが家が待っていますから、心を乱すことがないのです。同じようにキリスト者も、地上の外的なものについて過度に心配したりはしません。もし恵まれた環境にあるなら、節度をもってそれを用いるでしょうし、乏しい環境にあるなら、それなりにうまくやりくりするでしょう。キリスト者生活は旅の途中であって、やがて帰り着くわが家があるのです。金持ちになったキリスト者たちの経験からいうと、ルカ12:15にある主のみことばは確かに真実です。広間がいくつもある大邸宅、おびただしい数の召使い、また贅美を尽くした食卓などがどれほどあっても、人生の真の幸福は増えも減りもしないのです。ですからキリスト者は、そうしたものにあこがれはしません。さほど裕福でなくとも、富んだ人々を羨まず、それどころか気の毒にさえ思います。自分にはない厄介な気苦労がたくさんあるに違いないと思うからです。しかし神のみこころと、その御顔の光こそ、貧富の差なくキリスト者が最も尊び、最も重んずるものです。それで彼の節度ある生き方はだれの目にも明らかとなるのです。
第三に、キリスト者は自分の周囲の人に対してどのような態度をとるでしょうか。この点に関しては、すでに1ページ費やしてさえいなければ、喜んで詳しく書けたのにと思います。この堕落した時代、私たちの周囲には、キリスト者と名乗り、キリスト者と云われながらも、心狭く、利己的で、打算的な人々があまりに多すぎます。しかし初めからそうだったわけではありません。福音はそうした精神を直すためのものであって、そうした精神をおかまいなしにするものではないのです。キリスト者にはキリストと同じ心があります。巡り歩いて良いわざをなされたキリスト、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるキリストと同じ心があります。その模範が、キリスト者をしだいに愛と親切をふりまく習慣の人にかえていきます。他人への善意にあふれ、機会がありさえすれば、主義や利害にかかわりなく、物質的にも精神的にも喜んで人助けをする人にかえていきます。周囲の苦しむ人には、わけへだてなく同情し、できるだけその苦しみを軽くしてあげようとします。たとえ力がなく実際に働くことができないとしても、思いやりと祈りを欠かすことはありません。むろん師と同じ心で行動する弟子は、ある程度は、しばしば師と同じような目に遭います。しかしたとえ恩を仇で返されようとも、善をもって悪に打ち勝とうとします。自分を罪人と感じ、常に大きな赦しの必要を感じているので、赦しの人になれるのです。彼は尊大にはなりません。気難しく、すぐかっとなり、恨みを忘れない、そのような人にはなりません。なぜならキリストの学び舎で柔和を学んだからです。キリスト者は、意地悪な人、ひねくれた人に会っても、こう考えます。確かに人からこんなことをされる理由はない。だが彼らは天の御父が自分をへりくだらせ、懲らしめるために用いておられる器なのだ(そして自分が御父から苦しみを受ける理由は山ほどある)、と。ですから彼は自分の苦しみよりも相手の罪の方を心配します。救い主の模範にならい、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているか自分でわからないのです!」と祈ります。彼は自分が誤りを免れないことを知っています。ですから独断的になりません。自分が弱い存在であることを知っています。ですから他人を批判して歩くようなことをしません。社会の一員として、あらゆることをきちんと責任をもって果たし、約束は必ず守り、敬うべきものを敬い、正当な権威に従順に従い、してほしい通りに他人に施せという黄金律をすべての人に対して実行します。その行ないは誠実で、飾りけや裏表がなく、なすべきことをみな忠実に果たします。私室でも、家庭でも、教会でも、職場でも、態度を変えません。どんな環境においても主に仕え、主に喜ばれるきよい良心を保とうとしているからです。またその信仰生活をひときわ美しくしているのが、舌を制し、口を慎むという点です。真理のおきてを守り、親切心ときよさを守ることは、ひとえに唇にかかっています。キリスト者は嘘を忌みきらいます。他人の中傷をでっち上げることはおろか、人の悪い噂を(たとえ本当のことでも)正当な理由もなく他の人に告げたりしません。陽気な話し方をしても人を傷つけません。いくら機知の才に富んでいても、刃物で人を傷つけないように冗談で人を傷つけないようにします。彼の話はやさしく、塩味がきいており、周囲の人すべてに安心感を与え、徳を高めます。
キリスト者はそのような社会生活を送ります。しかしどんな人も愛すとはいえ、彼は、福音の信仰と希望をともにするすべての人とは特に近しい関係にあり、特別な兄弟愛をいだきます。この愛は教派の枠ではしばられず、真心から主イエス・キリストを愛するすべての人をふくみます。彼はどんな人をも自分の師とはせず、他人に自分のシボレテ[士12:6]を押しつけたりはしません。神のかたちなら、神のみわざなら、どこで見ようと、どこでなされようと喜びます。主から教わった真理は決して手放しませんが、さほど重要でない点で意見の違う人々にも心を閉ざすことをしません。自分に自分の意見があるように、誰にでも個人的な意見を持つ権利はあるとします。かしらなる主を尊ぶすべての人と愛の交わりを保とうとします。もちろん神がシオンに据えられた唯一の土台を捨てる者や、自分の救い主を侮辱する、あるいは御民の信仰と経験を破壊するような異端を抱く者を黙認、奨励することはできません。しかし相手の人格は憎まず、むしろあわれみ、その魂のため祈ります。そしていつでも柔和な心で逆の方向へ導こうとします。この思いに辛辣さはありません。嘲りや蔑みは真理を汚すものであり、また自分のような罪人にその資格はないと感じているからです。今の自分が極悪人と異なるのは、ただ神の無償の恵みによるものだからです。一言で云うと、そうした人は上からの知恵に支配されているのです。上からの知恵は純真であり、また平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実に満ち、えこひいき、見せかけのないものです。
ただここで最初に述べたことを再び云わなくてはなりません。キリスト者は、こうした思いや態度でいます。神をも人をも怒らせない良心を保っていられるかもしれません。しかし、なおも内側に住む罪を感じ、その存在を忘れません。自分の進歩や成長より、この内なる原理の方から目を離しません。自分は全く底の浅い、不十分で足りない者である。自分の最上の奉仕でさえ欠け多く、否、全く汚れたものだと自覚し、そう告白します。自分は役に立たないしもべだと思い、自分で自分が卑しく見えます。ですから、あらゆる希望と慰め、力は、イエスからだけ引き出します。この方を知って、受け入れ、信頼したからです。この方に魂をゆだね、この方にあって喜び、霊的な礼拝をし、肉的なものへのあらゆる依存を捨てているからです。自分の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、一切のことを損と思うようになっているのです。
最近手紙がとどこおりがちであったかもしれませんが、その分を量で補ったと思います。もうお疲れでしょうから、ここで筆をおきます。私も、より徹底したキリスト者となることを切望しています。ここにざっと述べましたことは、かくありたいという私の希望であって、閣下は私などよりずっとよく実践し、経験しておられることでしょう。願わくは、私のことも祈りにお覚えください。私のうちに志と願いを起こしてくださった方が、みこころのまま事を行なわせてくださいますように、と。
敬具
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