HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT


第28通

キリスト教徒の幸福

閣下、

 使徒は、福音を受け入れた者が受けるはずの1つの祝福について語っています。ガラテヤ人は、一度はその祝福を手にしており、そう口にしていました。しかしその祝福を彼らは取り落としてしまったのだと使徒は云うのです。このような記録が残されたのは、私たちへの警告のためです。私はこの使徒の言葉から考えさせられることが時々あります。キリスト者の現在の祝福とは、いったい何なのでしょう。私がいうのは、この試練に満ちた実社会の中で受けることができる祝福のことです(ただ私たちは、あまりにもこの祝福を差しとめられ、取り上げられていることが多いのです)。それは、生まれながらの状態にある人には、目が見たことのないもの、耳で聞いて悟ったことのないもの、心に思い浮かんだことのないものです。この祝福は、決して周囲の状況に左右されません。順境にあるからといって与えられたり、保たれたり、欠けを補われたりせず、また逆境にあるからといって、手が届かないことはありません。どんな知者も、そのすぐれた才能では決してこれを手に入れることはできませんし、どんな凡人であっても、決して受けられないことはないのです。

 もちろん真の信者は、どう考えても他の人々より幸福です。もし上から生まれ、イエスに結び合わされているなら、彼らは神の審きを受けることのない、永遠のいのちの世継ぎであり、当然幸せな者であるといえます。しかし今考えたいのは、秋の実りのことではなく初穂のことです。死後の相続財産のことではなく、この世で到達可能な前金のことです。将来、天国でどのような者となるのかではなく、この地上で、へりくだって主に仕える者たちがどのような者となりうるかということです。私たちの高い召しにともなう報酬は、今のうちから目の前に置かれています。ぜひともその価値をはっきり認識し、心に励ましを受け、賞を受けられるように走りたいものです。私が見るに、この幸福は5つのことからなっていると思います。もちろんもっと厳密に考えれば、いくつかの項目はさらに小さく分けることもできるでしょうが、あまり細かな区分をして説教くさい手紙にしてもどうかと思われましたので。

 まず第一に信者は、自分がまちがいなく愛する主に受け入れられているという明確な、不断の確信に達することができます。この確信がなければ、たとえ救われていても祝福のうちにあるとは到底いえないでしょう。これほど重要な点において、不安や疑惑にさいなまれることほど痛ましいものはありません。それで主は、ご自分の民がこの点において、はっきりとした慰めを持てるようにしてくださったのです。ですから、イエスの力、恵み、万全さを知るキリスト者、彼の救いの確かさ、揺るぎなさを確信するキリスト者、そして彼の人格とわざと約束に自分の希望、自分のすべてをかけて動じないキリスト者は幸いです。そのような確信を持つ者は、不信仰やサタンがどのように不安をかきたてようとしても、すぐさま使徒がローマ書8:31-37で述べたのと同じような答えで反撃できるのです。パウロがそのようにあらゆる攻撃、あらゆる敵を相手に回して勝利することができたのは、彼が使徒であったからではありません。一信者としての彼の経験からです。私たちも、全く同じようにできます。私たちにも、彼と同じ福音、同じ約束の数々があるからです。また聖霊の教えは、時の流れによっていささかも弱まることはありません。しかし多くの人は、このような確信に至らずに終わっています。彼らも希望は持っています。けれどもそれは、贖い主の約束と御力を霊的に堅くにぎりしめるところから生ずる希望ではなく、自分の気分や感情まかせの希望であって、天気のように絶えず移り変わり、揺れ動くものなのです。もし彼らが、自分たちのために祈ってくれた使徒のように(エペ1:17、18; 3:16-19)熱心に、また執拗に祈らされるなら、いまだかつて知らなかったような祝福を見いだすことでしょうに。なぜなら、こう書いてあるからです。「求めなさい。そうすれば与えられます」。また、「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです」、と(マタ7:7; ヤコ4:2)。

 もしただでこの祝福が手に入るなら、生まれながらの人にも全く異存はないはずです。罪の生活を続けることができ、しかも結局は救われるのだということなら大歓迎でしょう。しかし信者は違います。本当の信者は、全く責められるところのない良心がなければ、幸せだとは思いませんし、思えません。これこそ、使徒パウロが日々こころがけていたことでした[使徒24:16]。もちろんパウロほど律法精神から遠かった者はなく、パウロほどイエスによりたのんで神に受け入れられようとしていた者はありません。しかし、もし何らかの罪のうちを、自分でも知りながら常習的に歩んでいたり、何らかの義務を自分でも知りながら常習的に怠っていたりするなら、たとえ神に受け入れられているという感覚を保つことができたとしても(御霊を悲しませれば、当然、私たちのうちなる証拠も減退しますから、そのようなことはまずありえませんが)、心の安らぎはなくなってしまいます。旅人は、たとえ目的地まで無事に着けると確信していても、足にとげが刺さっていたなら一歩あるくたびに痛くてたまらないでしょう。私たちも、本当に誠実で潔白な心にならない限り、そうしたとげを良心に感じるのです。事の大小を問わず、あらゆることにおいて主の戒めに従う人、主の権威を重んじ、主の命令を大原則として行動し、決して自分から求めてそむいたりしない人、そのような人の心には安らぎがあります。たしかに私たちは、どれほど苦闘しても、数えきれないほどの欠点、またもろもろの恥ずべき汚れが常につきまとうでしょう。けれども心さえ誠実なら、そうしたことで平安が破られることはないのです。しかし光をもてあそび、悪いとわかっていることをずるずる行ないつづける人の心は、弱く、安らぎがなく、慰めに欠けるものとなります。天の王子や王女であるはずの者のうち、何と多くの人が、何らかの右手の悪か右目の悪のために、日々やせおとろえていくのでしょう。思い切ってそうした悪と手を切らないがために、いつまでたっても彼らは、ふらふらした歩みしかできないのです。神と世に兼ね仕えることができない以上、そのような人は決して幸福になれません。しかし、自分が良いと認めていることによって、さばかれない人は本当に幸いです[ロマ14:22]。

 定められた恵みの手段を通して、主との真の交わりを持つこと。これもまた、キリスト者の幸福の重要な部分です。恵みの手段[主として、みことばと祈りのこと]は、私たちが主と交わるために制定されましたから、主の御力と御霊があれば十分その役目を果たすのです。もちろん、そのような喜びが常に一定であるとはいいません。けれども、その喜びから来る快さは、ある程度まで変わることなく感じつづけることができると思います。聖書を読む。それも遺言状を読む弁護士のように、意味さえ分かればいいという読み方ではなく、自分の財産や相続権を記した大切なものとして読む遺産相続人のように読むこと。福音を聞く。愛する方の御声として、それも、説教者の賜物を称賛したり、欠陥を批判したりするのも忘れるほど一心に耳を傾けること。また祈る。自分の心を自由に御前に注ぎ出し、目の前を通り過ぎる主の恵みのきらめきをとらえ、御前で子どものような思いになり、子としてくださる御霊によって語ること。そしてそのように主の栄光を目にとめ、より一層、神のかたちに似た者とされていくこと。救いの泉から水を汲み、日々力を新たにされていくこと。----ここに真の祝福があるのです。このことを知った者は、「私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」と云えます[詩73:28]。このように、いのちの水によって生き返らされた魂は、世のむなしいものを追い求めて渇くようなことがなくて済みます。このように聖所で教えを受けた者は、天的な知恵と、聖い油注ぎを受けて山を降ります。そしてその知恵と聖なる注ぎの油によって、世俗のどのような関係、どのような仕事の中でも、正しい判断、正しい会話、正しい行動ができるようになります。こうしてその人は、喜びだけでなく霊的な趣味を手に入れるのです。趣味というのは、音楽の趣味や、育ちから来る趣味の良さという場合の意味に似ています。良い趣味の持ち主は、本能的ともいえる感覚で、不調和や無作法を見抜いて避けようとしますし、正しいことは、規則がなくとも身についた習慣から、無意識のうちに感じ取り、実行するのです。この良い習慣のうちにこそ、あらゆる必要な規則の本質が、いわば咀嚼され消化されているのです。願わくは私たちがみな、この祝福をより多く受け、より多く体験したいものです。

 もう1つの幸福は、自分と自分の関心事を、主のご誠実さとご配慮にゆだねて安らえるということです。これには特に2つの点において見られます。まず主に完全により頼むことがあります。それは、主が確実に必要なものを備えてくださり、自分を導いてくださり、守ってくださるという信頼感、困難に際しては私たちの助けとなり、苦難に際しては盾となってくださるという安心感です。ですから、たとえこの身は貧しく、弱く、無防備であろうとも、自分にはすべてを満ち足らわす全能の主がおられるのだと喜ぶことができるのです。次に(今のことから当然つづくことですが)、自分の思いや願いとまるで反対に思えるようなことが起こっても、平安をもって、またへりくだって主のみこころに服従できることがあります。この世の生活は不安定なものです。いたるところに試練があり、いつなんどき生まれながらの思いにとってつらいこと、恐ろしいことが持ち上がるかわかりません。確かに、このような世にあって幸福を持つことができるのは、主なる羊飼いのおはからいと誠実さに信頼して、すべてをゆだね切ることのできる者のほかないでしょう。そのような心があまりにも足りないために、おびただしい数のキリスト者はおじ惑い、自分で自分を駄目にしているのです。彼らは、その絶えざる不安、恐怖、愚痴、不平によって、自分の高い召しに泥を塗っています。いくら主の守りがあると思っても、自分の目で確かめなければ何事も安全とは思えない。主のお取り計らいに満足することはめったにない。たとえ十のうち九まで自分の願いがかなっても、残った1つが望み通りにならないと、すべてが台なしにされた気分になる。そういう姿をみていると、その人たちにとっては、自我のわがままが通らなければ、福音の真理もほとんど慰めにならないのだということがわかります。しかし幸いなのは主に信頼し、主を望みとする人です。そのような人は、悪い知らせを耳にしても決して恐れません。たとえ地は揺れ動き、山は海の真中に移ろうとも、平安を保つことができるのです。

 紙数も尽きようとしておりますので、そろそろ終わらなくてはなりません。残り少ない余白で、最後の点についてほんの少し云いそえましょう。信者の第五の幸福は、この世で主のために働くときに感ずる、胸おどるような喜びにあります。主に奉仕すること以外にどんな生きがいがあるでしょうか。たしかに自分のことだけ考えれば、今すぐ世を去ってイエスとともにいることの方がまさっているでしょう。しかし信者はイエスの恵みと愛に対して負債を負っています。厳密にいえば、何のお返しをすることもできないにせよ、信者なら自分の感謝をあらわしたいと切に望うものです。ですから、もし自分の時を賢く用い、持てる力をすべて主にささげ、身も心も主の奉仕のためにささげつくす思いが与えられたなら、----また主の御国の進展のために働き、あるいは主の民を慰めるための器となることができたなら、----すなわち人々の前で主の光を輝かせ、自分の父なる神がほめたたえられるようにすることができるなら、それは信者にとってこの上ない幸福となるでしょう。実にこれこそ人生の一大目標です。そしてこのことは、死が近づくにつれますます真実性を増していきます。その確信が彼にはあります。ですから彼は、他の人々がさまざまな物事にわずらわされている間も、どうしても必要なのはこの一事であるとみなすのです。

敬白

HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT