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第31通

サタンの攻撃を受けている婦人へ

 奥様。

 つね日ごろは、受け取った手紙に6、7週間で返事を出すことができれば、自分でも、なかなかよくやったと思う私ではありますが、このたびはあなたのお手紙にもっと早くお答えできなかったことに、いささか胸の痛みを感じております。あなたからいただいたようなご質問には、すぐにも答えを出すべきでした。私も、お手紙を読んだときには、次か、その次の郵便飛脚までにはお返事しようとしたのです。いかなる事情があったにせよ、このような遅延は許されるものではありません。しかし、私たちの時は主の御手のうちにあります。願わくは主が、いまから書くこの手紙を時宜にかなった言葉としてくださいますように。

 あなたが経験しておられるような試練は、決して異常なものではありません。あなたにはそうは思われないでしょうが、あなたのように人から離れて暮らす境遇にあると、(お手紙にもありましたように)他のキリスト者の経験を知る機会が乏しくなりますので、それも当然です。さらに、今あなたは心に深い罪悪感をいだいておられますが、厳密に云うとそれはあなた自身に帰すべきものではありません。これは、敵があなたに無理やり押しつけた誘惑なのですから、かの敵にこそ責任があるのです。悲しいことですが、明らかに私たちの中には腐敗した性質があって、この敵のほのめかしに簡単に乗ってしまうのです。人とはまことに弱いものです。これ以上ないほど歴然とした真理の証拠を手にしたあとでも、いったんサタンが私たちを麦のようにふるいにかけることを主から許されると、自分の確信を保ちつづけることができないのですから。しかし誓って申し上げてもよいですが、こうした変化は決してまれではないのです。私の知っているある人々は、ほぼ40年もの間、主とともに楽しく歩んできたのに、あなたが云われたような攻撃にあったために、どうしてよいか全くわからなくなってしまったことがあります。自分自身の希望が疑わしくなったばかりか、その希望の拠り所たる根本的な信仰の土台そのものにさえ疑問を抱くようになってしまったのです。思うに、以前のあなたは、空しく消え去るような楽しみの中に埋没して生きていたと思われます。もしあなたがそのままであったなら、あるいは形だけぼんやりと教会に出席するだけで満足していたなら、多分このような悩みを知ることはなかったでしょう。サタンはもっと違う巧妙な手口を使って、あなたを偽りの平安の中でまどろませ、魂を脅かすような考えや疑念など決して思い浮かばないようにしていたはずです。しかし、もはやあなたを束縛しておくことができず、また再び世の楽しみへと誘い戻すこともならぬとなれば、当然サタンは方針を変更し、公然と宣戦布告するでしょう。そのサタンの力と悪意の一端を、あなたは身をもって経験したのです。あなたの愛する主(あなたが主を愛するのは、主がまず愛してくださったからです)がこれをお許しになったのは、サタンを喜ばすためではなく、あなたのため----あなたをへりくだらせ、あなたの心をためし、心の内実を直視させ、結果あなたが益を受けるためなのです。こうしたことは当座は喜ばしいものでなく悲しいことですが、最後には平安な義の実を結ばせます。その間、主はあなたに目を留めておられます。主がこの試練の程度と期間にきっちり限度を定めて、あなたを支えてくださるので、決してあなたは耐えられないような厳しい試練を受けることはありません。必ずやあなたの戦いと悲しみは、時至って賛美と勝利のうちに終わり、あなたがさらに堅く真理に立つ者となるために必要であったとわかるはずです。

 私は、主があなたの母上の死にのぞんでなしてくださったことに大いに感謝しています。恵み深い主の摂理は、何と賢くも時にかない、何と適切なのでしょう。敵があなたを意気消沈させようとして吹き込んだもろもろの思いは打ち砕かれました。あなたが喜び迎えた教えは、うまく考え出した作り話などではないのです。あのように輝かしい証しの前では、サタンもひとたまりもありません。この方面では敗退です。しかし、サタンには幾らでも手があります。次の企てはもちろん、あなたの良心に罪悪感を背負い込ませることでした。あなたが考えたくもないような、悲しい思いを無理やり押しつけておきながら、あたかもあなたが自ら進んでそうした思いを考え出し、もてあそんだかのように思い込ませたのです。ここでもサタンは一時的な勝利をおさめたと見えます。しかし前の罠を打ち破ったお方は、この罠からもあなたを解放してくださることでしょう。

 私が未信者のものであるとほのめかしたような、神に対する愚かで無礼な思いは、あなたが神に対して抱いている考えとは似ても似つかぬものです。あなたは神をひどい主人だと思いますか。神の命令は、従うよりも破った方が嬉しいと思いますか。そうではないでしょう。あなたは神の愛よりもこの世の方が好ましく感じられますか。単に模範的な生き方をしていれば、神を喜ばせることができると思いますか。犯した罪の償いができると思いますか。そうではないでしょう。そうしたことを考えるのは未信者であって、あなたの考え方は全く逆です。けれども、お考えの中の1つだけは、あなたの苦しみであるのと同じくらい、主に対して失礼なものであると云わなくてはなりません。あなたは、「こんな考えを抱いた私を、神が罪とされないとはとても信じられません。こんな考えは自分でもおぞましくて、絶対に許せないと思うのです」、と云います。いえ、あなたは、単に罪とされることだけでなく、それが赦されないのではないかと恐れているのです。しかし、どうしてそのようなことがありえましょう。実際云わせてもらえば、これはあなたの思いなどではなく、あなたに対する誘惑なのです。あなたはお子様がおありとのことですから、ちょうど今思いついたたとえを、よくわかっていただけると思います。昔時々起こったことですが、三、四歳の幼児がいたとします。ところが、つい家から離れた所で遊んでいたところ、突然ジプシーにつかまってさらわれてしまいました。可哀相に!  何という恐ろしさ、何という悲しみでしょう! 泣き声が聞こえてくるようです。そばには赤の他人の凶悪な形相、思い出せば愛しい両親の顔、懐かしいわが家、真っ暗な将来への恐怖と不安! 胸もつぶれんばかりの恐しさではありませんか。しかし、お待ちください。救援が近づきました。ジプシーは追跡されていたのです。子どもは無事取り返されました。さて、ここで奥様に質問いたします。もしこれがお子様だったなら、どのように迎えられますか。多分、無事を知った最初の歓喜が薄れたなら、家を離れたことについて優しくお叱りになるでしょう。しかし、だからといって親子の縁を切るでしょうか。そんな子はもう自分の子ではない、などと云われますか。ご自分の手で、もう一度その子をジプシーに引き渡してしまいますか。その子だって、自分のおぞましく思い、決して許せないような暴力にさらされたのではありませんか。しかし、わが子に注ぐ母親の愛情も、いえ母の愛を何千何万倍したとしても、慈愛に富む私たちの救い主が、救いを求めてご自身のもとへ逃れてきた哀れな魂一人一人に注ぐ愛にくらべたら何でしょう。ですから自分で絶対にできないと思うようなことがあっても、主も同じだなどとは決して考えないで下さい。勇気を出すのです。悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば悪魔はあなたから逃げ去ります。もし悪魔が何か犯罪行為に手を染めるよう誘惑するなら、あなたはそんな思いにびっくりし、怖じ気をふるってはねつけるでしょう。ここでも同じことをしてほしいのです。悪魔が主の憐れみと優しさを疑わせようとしても、きっぱりはねつけるのです。悪魔は、私たちに一見もっともなへりくだった態度を押しつけて、お前のような無価値な者には、どんなみことばの約束も無駄だと思わせようとします。しかし、みことばははっきり語っています。イエスの血はすべての罪からきよめる。イエスによれば、いかなる罪も赦される。イエスはみもとに来る者を決して捨てない。イエスはどんな極悪人をも救うことができる。この言葉を信じてください。そうすればサタンが嘘つきだとわかるでしょう。もしあの子が自分の意志でジプシーについていったなら、またそうした不埓な生き方を好み、何度家へ帰れと優しく呼びかけられても拒否したなら、おそらく親の愛も次第に冷え、このようにかたくなに拒みつづける子を赦そうという気はなくなっていくでしょう。しかし実は、私たちも主に対してこのような態度を取りつづけてきたのです。にもかかわらず主は、私たちが帰ろうと望めばいつでも両腕を広げ、小言1つ云わずに迎えて下さいます(ルカ15.20-22)。たとえ私たちの罪が緋や紅のように赤く、山のように大きく、砂のように多くとも、それは単に罪が増し加わったにすぎません。しかし罪の増し加わるところには、恵みもいやまさって満ちあふれたのです[ロマ5.20]。私は、究極的には主が御自分の御手に慰めの鍵を持っておられることを知っています。けれども主は、私たちに互いに慰めあうよう命じています。ですから、もし私があなたに慰めを伝える主の器となったのでしたら感謝です。どうか早いうちにお返事を下さい。そのときには、主が再びあなたに救いの喜びを取り戻してくださったとうかがいたいものです。しかしもしそれがまだであっても、主を待ち望んでください。それは決して無駄には終わらないはずですから。

敬具

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