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第32通

常に主から離れず生きるにはどうすればよいか

親愛なる奥様。

 ご質問ありがとうございます。神から心を引き離そうとするこの世と、至るところにある狡猾な罠に対抗して、若い人が常に神から離れずに生きるにはどのようなことをすればよいのかということでした。これは非常に大切な質問です。しかし思いますに、私がどのような助言をするにしても、それはみな、すでに奥様ご自身がご存じのことではないでしょうか。私の答えは聖書から引き出すほかありませんが、その聖書は奥様もお持ちであって、いつでも読むことができます。正直に自分の心に問うてみると、わかると思います。私たちの心が神からそれていく原因は、もともと私たちが神に近く生きるための正しい手段や正しい理由づけを知らなかったからというよりも、むしろ自分の内側にある悪い思いからであることが多いのです。何が正しいことか頭ではわかっていても、私たちは悪い思いに打ち負かされ、前もって光を受けていたにもかかわらず、不忠実な歩みをしてしまうのです。

 私も戒めや、警告や、忠告の言葉なら、山ほど差し上げることができるでしょう。私の経験では、他人に説教するのは比較的簡単なことだからです。けれども、もし奥様がさらに深く追及なさり、「では、その戒めを確実に実行するにはどうしたらよいのですか」、と質問なさったならどうなるでしょうか。私は全くの役立たずでしかありません。その件に関しては自分でも途方にくれる始末なのですから、他の人を正しく教えるために云うべきことなどわからないというのが実情です。しかし、最低限いくつかのことははっきり云うことができます。

 まず第一に云いたいのは、心を主から離さず歩むことは、私たちのなすべき義務、またこの世における最高の特権ではありますが、私たちは、それが完全な意味で実現すると期待するべきではない、いわんや一朝一夕になしとげられるものだなどと考えてはならないということです。私たちは、神と、神に対立しようとする他のものとの間に、無限の隔たりがあるということを実感するに従って、神から離れないようになります。神から遠ざかることがどれほど恩知らずなことか、否、どれほど愚かなことかを知るに従って、そうなります。しかしこのことは、身をもって体験することでしか学べません。神以外のものにかけた望みがどれほどもろく崩れさってしまうものか、その苦い痛みを繰り返し繰り返し味わうことによってしか学ぶことができません。神のいつくしみはいのちより大切なものだ、と頭で理解することは簡単ですが、私たちはほんのちょっとしたことでも脇道へそらされてしまうのです。主はそのみこころにより、私たちが自分の弱さを感じ、思い知るようにしておられます。なぜなら私たちは、口先ではすぐ自分の弱さを認めるくせに、それを本当にさとるのは、ひそかな(自分でも意識していない)自力本願の思いが、試練にあって砕けちるときのほかないからです。へりくだること、そして幼子のように、ひとり歩きを恐れるようになること、また身の回りの罠や危険を実感し、主よ、危うい目にあわぬよう私をお支えください、と絶えず叫んでいくことこそ、主から離れずに歩むための最も確実で、最も間違いのない、唯一の秘訣です。

 しかし、そうしたへりくだった心の状態には、どのようにして達することができるのでしょう。それはいま云ったように、自分の弱さ、邪悪さを、本当に身にしみて実感するほかありません。これは(少なくとも私の経験では)書物や説教からは学ぶことのできないものです。神の摂理は、その恵み深い計画によって聖霊とともに働き、私たちに自分自身のことをよく教えてくれます。確かに、人目につくような悪徳に陥らないよう守られることは、大きなあわれみです。しかし私たちは、周囲の人々から何も後ろ指さされるようなものがないときでさえ、表面の行動だけでなく心の思いと動機をさばかれるお方の前では、とうてい正しいなどとは云えない者です。私たちは本当に惨めな者で、たとえしばらくの間、自分のうちにほとんど(あるいは何も)恥じるものがないほど神に近づくことができても、たちまち高慢と自己満足におそわれ、恐るべき堕落のふちに立つのです。

 しかし、私たちの側でもしなくてはならないことはあります。すべてご承知のことではありましょうが、奥様のたっての願いですので、原則を繰り返させていただきます。第一は祈りです。そしてここでは、何よりもまずへりくだりを祈り求めなくてはなりません。へりくだりは、他のすべての恵みの守り手とも、土壌ともいえます。第二は、熱心に聖書を読むことです。奥様のご質問には、詩篇119:9 が直接答えております。戒めは人生の指針、また喜び、約束は私たちの力、また励ましです。聖徒たちの良い行ないが記録されているのは、私たちを励ますためです。聖徒たちの失敗は、人生の荒波を漕ぎ進む私たちの前に横たわる暗礁や浅洲を指し示して警告するための標識です。福音による救いのご計画全体を学ぶこと、贖い主[キリスト]のご人格、ご生涯、教え、死、栄光を学ぶこと、これは魂を霊的で神的な性質にかたちづくるため定められた手段です。そして私たちがこの手段に親しみ、たよるようになればなるほど、主から私たちを引き離そうとする些細な事物は力を失い、官能の欲望は、その魅惑をはぎ取られ、虚ろでむなしい姿をさらすのです。第三の大きな手段は、瞑想または黙想です。生来の気質や、まわりの環境などから私たちにとって最も弱点となる誘惑や罠について深く考えること、これまで自分を主から引き離す原因となったもろもろのことがらについて熟考することです。これには朝がよいでしょう。自分の部屋を出る前に、できる限り、その日起こりそうな状況を思い巡らすことです。しかし、このような助言を守ることもまた、他のすべての規則と同じく、ただの形式になりさがってしまうことがありえます。しかし私は主に信頼しています。ご自分のために生きようという願いを奥様のうちに起こしてくださった主は、奥様の守り手、導き手となることでしょう。まことに主のような教師は他にありません。

敬具

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