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第38通

主のみこころに服従すること

 人はいつも何かを願い求めて、あれこれ計画を立てるものです。そして、主が私たちの計画をくじき、私たちの願いを妨害されるのは大きなあわれみです。なぜなら真に安全な道----そして真に幸福な道----は、私たちが自分の思いを捨てて、主に導かれることだけを求めることにあるからです。この真理は(みことばによって光を受けている人にとっては)十分なじみ深いものです。しかし、それを実行に移すのは、失望という学校で訓練を受けていない人にはなかなかできません。どうしても私たちは、自分の立てる計画が申し分のない、最上のものに思え、それが破綻するとたちまち「もうおしまいだ」などと嘆きがちなのです。私たちは再度こころみますが、やはりうまくいきません。私たちは悲しみ、(また多くの場合)怒り、他の計画を立て、あれこれと画策します。しかし、やがてとうとう私たちは、身をもって知った知識と経験から、自分は、自分で正しい道を選べるような立派な者ではない、いわんやその力などない、と確信するようになります。そのときはじめて、重荷をおろして安らえという主の招き、あなたがたのことを心配してあげようという主の約束が尊いものに思えてきます。そして私たちが計画を立ておえたあとで、主のご計画が私たちにとって最善のしかたでしだいに開かれていきます。主のなさることは、私たちの願いや思いをはるかに超えてすばらしいものです。私が過去、自分で自分のために立てた計画を考えてみると、そのほとんどは、その時点、その状況の中でそのまま実現していたなら、(人間的な意味では)私の破滅となっていたでしょう。少なくとも、主が私のために計画しておられた、よりまさる益を失わせていたでしょう。私たちは物事を現在の見かけで判断しますが、主は物事の結果を考えてお決めになります。もし主と同じようにするなら、私たちは主のみこころと完璧に一致できるはずです。しかし、それは人にはできないことですから、主は、言葉につくせぬあわれみをもって、私たちの好むと好まざるとにかかわらず、私たちのために物事をとりはからってくださいます。そして主の下す最も厳しいさばきの1つは、人々を自分の心のままに歩ませ、自分の思いどおりにほおっておくことだと云われているのです。

 実際、私たちに対する主のご忍耐には驚かざるをえません。盲人で、人に手をひいてもらうような立場の者が、相手の指示にいちいち難癖をつけたり、一歩ごとに違う方へ行こうとしたりしたらどうなるでしょう。じきに愛想をつかされ、勝手にしろと云われるに違いありません。しかし、私たちの恵み深き主は寛容と慈愛に満ちており、私たちの強情を忍んでくださいます。ただ主は私たちを恥じいらせ、へりくだらせることによって、ご自分が私たちより無限に賢い方であることを悟らせようとされるのです。私たちの出会うすべての試練は、私たちの思いを抑え、みこころに服従させるための手段です。それは途方もなく大きな、私たちの想像をこえた恵みです。この境地に達した者は、決して失望することがありません。なぜなら主のみこころを喜べる者は、毎日、朝から晩まで喜ぶことができるからです。私は、主のおとりはからいのことを云っています。そのような人生の何と幸いなことでしょう! 私にはその夢があります。その境地をめざして前進していると信じたいと思います。しかし、確かにまだ到達はしていません。自我は、私の心を完全に支配してはいなくとも、まだ内側で働いています。私は、本当に必要で十分なものが1つしかないことは心から信じていますが、私の思いは、その他もろもろのものを求めて常にさまよい出すのです。もし本当に御顔の光がいのちより尊いなら、なぜ私は他のものを求めてあがくのでしょう? もし主がすべてを満ち足らわすお方なら、また私に「わが神」と呼ばせるほどの特権を与えておられるなら、なぜ私は被造物に助けを乞わなくてはならないのでしょう? もし主が路上でも寝室でも私にともない、私の大事にも小事にも直接導きを与え、私の髪の毛一本一本をも数えておられるなら、私がどれほど心配しようと、それは(主の戒めの道を歩み、摂理の導きに従うための心配りの他は)不要であり、無用でしょう。いえ罪悪であり、不信仰であり、自分を苦しめ、キリスト教信仰に泥を塗るものでしょう。ですから、無用な重荷は投げ捨てようではありませんか。もし主が私たちの羊飼いであるなら、すべてにおいて主にうかがいを立て、すべてにおいて主に信頼しましょう。きょうの日は主につくし、主のために生き、明日のことは----その向こうにあるすべてと同じく----主の御手のうちにあることを信じて喜ぼうではありませんか。

 ポンペイウスについて、次のような話が伝えられています。嵐の海に乗り出そうとする彼を友人たちが翻意させようとしたとき、彼は豪語して云ったそうです。「私には、航海すべき必要はあるが、生きている必要はない」。何と尊大な云い草でしょう! ポンペイウスは、その肥大した自尊心のあまり、自分のことを偉人と思い込み、その偉人の姿にもとるような行動を取るくらいなら死を選ぶといったのです。しかしこの言葉は、信者についてうまく適用することもできます。私たちは次のように云うべきです。すなわち、私は金持ちになる必要はない。世渡りのうまい人間になる必要もないし、健康である必要もない。自分と同じ虫けらたちから尊敬される必要もなければ、物質的に豊かで満ち足りた人生を送る必要もない。そうしたものは、何もかも知り抜いておられる主のみこころのままに、与えられも、取り去られもするであろう。しかし私には、へりくだり、霊的な者となる必要はある。神との交わりを求め、福音信仰を飾る者となる必要がある。私は、奉仕においても困難においても、主が召してくださる状況に応じて、神のみこころに柔順に服従し、この世で神に栄光を帰す者となる必要がある。私は長生きをする必要はないが、自分の人生で主に仕えるためには、長生きをすることが非常に望ましい、と。ですから、ここで自分の欲望には歯止めがかけられるわけです。このように神のみことばを生きる指針とし、よりたのむべき保証としている人は、間違ったことを願い求めることから守られます。願わくは、主のご臨在と御霊が私にともないますように。自分の召しを見きわめる知恵が与えられますように。また、その召しを有効に用いる機会と忠実さが与えられますように。そしてその他のことについては、みこころのことを、みこころのときに、みむねのままになさせたまえ、と云うことができますように、主よ、私を助けたまえ。

敬具

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