第37通
恵みは闘いによって鍛えられる 拝啓
この前お手紙を差し上げてから、私たちは非常に恵まれた一年を過ごしました。主は前の年に御恵みの冠をかぶらせ、毎日のように祝福を新たにしてくださったのです。主がみこころによって、御自分の福音の宣教を祝されることをよしとしてくださったので、私たちの間では多くの人が慰めと罪の確信を得て、今では、つい最近まで咎と罪の中に死んでいた何人かの人々が、熱心に主を求めているようすを見せています。
愛する****氏は、11月25日にそのすべての患いから解放されました。亡くなる数日前、氏は15分ほど普段よりも明瞭に話すことが許され、慰めに満ちた希望を私たちに語ってくれました。それは本当に素晴らしい証しでした。むろん私たちは氏が岩の上に建て上げられていることは全く疑っていませんでしたが、氏がもう一度信仰の言葉を語ることは私たちの長い間の祈りの課題であり、それまでにも多くの祈りが積まれ、その晩は特に皆で熱心に祈っていたところ、それがかなえられたからです。その夜を境に氏はほとんど話すことができなくなり、何も見ず何も聞こえず、まどろむような状態で静かに息をひきとりました。私は告別説教の聖句を哀歌3:31, 32, 33から取りました。L****夫人の病気はますます悪くなっています。今も多くの痛みと苦しみに耐えておられますが、この先もおそらく楽になることはないでしょう。しかし、この方が主に見出しておられる慰めは、まさにあふれんばかりです。主は驚くべき仕方で夫人を支えて、その信仰と忍耐と服従を守っておられます。そしてそのことを通して、主に望みを置く者らにとっては、主こそすべてを満たす真実な方であるということを教えておられます。
私はあなたがバスで喜ばしいときを送っていると聞いて嬉しく思います。あのような歓楽地で主の集会がいくつも守られているとは本当に大きな憐れみです。多くの人々はバスの鉱泉を飲むことしか考えずにそこに行くのですが、私はそうした救いの泉から、多くの人が、喜びつつ、いのちの水を汲むようになることを願っています。主は無益なことをなさる方ではありませんから、何らかの手だてを備えてくださるときには、必ず祝福を与えてくださるという確信と希望をもっていいのです。
見知らぬ土地にいると落ち着かなくて困るとのことですが、こうした感情は、すべてとは云わぬまでも、ほとんどの人たちが感じるようです。こういう人は、主の臨在のしるしとなるものがないと、どこでも満足できないのです。厳密にいって、これは罪というより弱さであろうと思います。もっとも私たちの弱さはみな、堕落した人間性の結果ですから、罪深くない弱さはないとも云えますが。この今の状態では、新奇なものは新奇な考えを起こさせ、平常の生き方が破られると心がかき乱されるものです。これは私たちの弱さの1つの証拠です。悲しむべきことかもしれません。しかし私たちは、この身が朽ちて塵に返るときまで、こうした弱さを克服できないと思います。おそらくこの点にかけては、私ほど不自由を感じる者はないでしょう。それもあって、私は自分の家を愛するのです。私が本当に心から望んで家を離れることはめったにありません。そして、こうしたことも1つの理由として、私たちは天国を愛すべきなのでしょう。あらゆる障害から解き放たれ、おおいなしに主を拝し、気をそらすことなく主に仕えることのできる、そのときを待ち望むべきなのでしょう。主は、その摂理によって、御自身のみことばの宣教を助け、また強めてくださいます。浮世のむなしさ、うつろさ、はかなさについては、ものにもよく書かれ、よく耳にするところです。私たちは、主の聖霊によって心に光を受けるとき、みことばの告げることは真実だと受け入れ、認めます。けれども、もし長いこと何も変わったことが起こらず、いつも順調な道を歩んでいるとしたら、多くの場合私たちは自分が信じていると告白していることにほとんど心動かされなくなるでしょう。しかし、もし愛する友が何人か取り去られたり、他のだれかの命があやうくなったり、あるいは自分自身が痛みと病で衰弱したりすると、私たちは単に口先だけでなく心底から、この世は私たちの安息であってはならない、ありえないと感じるのです。あなたも最近ご家族の中で何度かこの種の訓練を受けられましたから、きっとあのみことばに証印を押してくださると信じます。すなわち、すべての患難、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせるのです[ヘブ12.11]。それは様々な素晴らしい実を結ばせます。患難は、祈りにいのちを吹き込みます。安楽な暮らしは、えてして祈りをもの憂い、形式的なものにしがちだからです。患難は、聖書、特に聖書の約束を理解するための大きな助けです。約束は、ほとんどが困難のときのためのものですから、約束の十全さ、甘美さ、確実さを知るには、そうした約束に適した状況の中でその約束を信頼し、たてにとって神に訴え、その実現を体験することにまさるものはありません。概して私たちは、患難に多くを負っています。患難という手段または機会を恵まれてはじめて、私たちは主の知恵、力、そして真実さを実感できるのです。こうした神のご性質は、試練のとき主がそばにいて、私たちを支えてくださるということ、また主はその試練から救い出す力があり、実際救い出してくださるということを、この目でしかと確かめたときこそ最もよくわかるのですから。イスラエルは、もしパロが彼らを虐待せず、抑圧せず、追撃しなかったとしたら、彼らのため主が伸ばされた御腕をあれほど目にすることはなかったでしょう。同じように患難は、私たちの真実を自分自身に、また他の人々に示すためのものです。信仰が火をも耐え忍ぶとき、私たちはそれが正しい信仰であるとわかります。また他の人も、私たちが火の中から無事に救い出され、金滓のほか何も失わないのを見て、本当に神が私たちとともにおられると告白するでしょう(ダニ3:27、28)。私たちは、自分によって神の栄光が現わされるのだ、と考えれば、苦しみにも忍耐をもって、また晴れやかに甘んじることができるにちがいありません。使徒パウロが患難のうちにあっても喜ぶことができたのは、そのことが、自分のうちに力強く働くキリストの力を人に認めさせる機会となるからでした。また同じように、私たちが持つ多くの恵みは、試練なしには成長することも、存在を示すこともできません。たとえば、従順、忍耐、柔和、寛容などがそうです。ロンドンの荷役人夫の中には、さほど逞しく見えないような者らがいますが、彼らは、もっと逞しそうな人々でさえ難渋するような重い荷を、それなりにうまく背負って歩けるのです。それは重荷を運ぶことに慣れていて、からだを不断に働かせているために、そうした仕事をこなすのに適した筋力をつけたためなのです。キリスト者生活にもこれと似た点があります。恵みに力をつけて活発に働かせるには、普通は、安楽椅子におさまってぬくぬく暮らすのではなく、主から与えられたありったけのものを、しばしば振りしぼってでも戦わなくてはならないことが必要なのです。さらにまた、私たちは、自分自身が苦しむことによって、苦しみのうちにある他人を憐れみ、同情できるようになります。苦しみ悩む人に同情する、そのような思いやりある心は、キリストにある心の目立ってすぐれた心根のひとつです。しかし、もし悲しみや誘惑というものがどういうものか自分で経験していなかったならば、こういう感情もごく微弱なものでしかないでしょう。そして同じように、患難には、私たちに自分の心の正体をあばいてくれるという長所があります。そのことによって私たちはへりくだらされ、自分を卑しく思えるようになるのです。私たちの心のうちには、毒蛇の巣窟のように忌まわしいものがひそんでいます。私たちは、患難の鞭によってそれが呼び起こされるまで、そんなものがあるとは少しも疑ってみないのですが、患難に遭ってはじめてそれが牙をむき毒を放つのです。そうした発見には本当にがっかりさせられます。それでも、そのように思い知らなければ、私たちは自分のことを真実よりもずっとましなふうに考えがちで、ちりと灰の中で自分を忌みきらい、悔い改めるようなことはしません。
もっとも、聖める恵みの力によってこの苦い木から生ずる良き実を、ここで1つ残らず数え上げようとするなら、手紙などではなく説教を書かなくてはならないでしょう。願わくは私たちが、今の少しばかりの試練のもとで、それらの実をすべて体現することができますように。あのとき苦しみを受けたのは無駄だった、などと後で愚痴を云うことはないようにしたいものです。私たちがこのように腐敗した性質を持ち、このように汚れた世の中に住み、このように高慢や、虚栄や、悪い自信や、利己心の堅い根を張っている間は、正気を失ってくずにしがみつくようなぶざまな真似をしないためにも、さまざまな摂理による痛棒をくらうことが必要なのです。敬具
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