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第36通

悲しむ者は幸いです

親愛なる奥様、

 奥様のお嘆きは、私たちが心の霊的状態をさとっていくときに必ず起こるものです。内住の罪に悩むことは、ほめられこそすれ責められるべきではありません。私たちは当然ちりの中に伏しへりくだるべき者です。しかし私たちの悲しみは、どれほど正しいものであっても、誤った方向へ向かうことがあります。もし私たちが、悲しみのあまりいらだちをつのらせたり、希望を失ったりするようなら、確かにそれは間違いです。

 罪という魂の病は、主イエスの御力がなければ、天地の間のどのような力をもってしても癒せない不治の業病です。しかし主は、治せぬ者なき偉大な名医です。もし主の御名を知る特権にあずかっているなら、もしひとたびその御手に自分をゆだねたのなら、ただ主の定めた処方を心に留め、主の治療法に満足し、主の時を待つだけでよいのです。良くなりたいと願うのは悪くありません。重荷を負ってうめくのは当然でしょう。しかし、それにもかかわらず主は、一度決めた私たちに対するお取り扱いを決して変えません。私たちは、どれほど今の自分が不満でも感謝すべきです。主が自分のうちでみわざを始められたことを感謝すべきです。それを主が必ずなしとげてくださることも信じるべきです。ですから私たちは悲しみつつも、同時に喜ぶべきです。自分を励まし、主の約束すべての実現を期待すべきです。主の約束に立って期待すべきです。確かに主は、罪の罪過と支配から人を解放するとき、罪からの完全な自由も、与えようと思えば簡単に与えることができるはずです。ですから罪なき完全という教理は、単に不可能だという理由で否定されるべきではなく(主に不可能なことはありません)、主が選ばれた道と逆のことを教えているから否定されるべきなのです。主の定めは、聖化が即座になしとげられ、罪が一気に断ち滅ぼされることではなく、それが徐々に行なわれることです。それには深い理由があります。ですから私たちは、恵みにおいて成長したいと願うのは当然ですが、同時に主の定めには黙って従うべきなのです。心のうちに戦いを覚えるからといって、むやみに失望落胆するべきではありません。主のみことばは、心のうちの戦いが私たちに生涯つきまとうと教えているのですから。

 また、御霊が最初に私たちに教えてくださる祈りのいくつかは、罪の邪悪さ、そして罪による私たちの悪をより明確にさとらせてください、という祈りです。もし主がこの点で奥様の祈りをかなえてくださったのなら、たとえそのため非常に深くへりくだらされるとしても、それは恵みのしるしとして感謝をもって受け取るべきでしょう。奥様の心が前より悪くなったのではありません。奥様の霊的知識が深まっただけなのです。このように真実へりくだり、心砕かれ、自分をつまらぬ者と考えるのは、恵みにおける長足の進歩です。恵みに成長することこそ、奥様の真の望みではありませんか。

 さらに、聖書に記された聖徒たち(またキリスト者一般)の例からわかるのは、人は、本当に神の恵みを受ければ受けるほど良心が鋭敏になるということです。神のいつくしみを真に確信する人ほど、内側に住む罪や弱さを深く実感するということです。ヨブもイザヤもダニエルもパウロもそうでした。また自分を責めすぎるのも共通して見られる点です。確かに私たちは、どれほど自分を卑下しても、自分の真実の卑しさには及びもつかないでしょう。しかし、私たちからキリスト者としての慰めや力を奪うものには、それ自体罪というよりも、やむをえない弱さというべきものがあります。私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる方[詩103:14]は、そのようなことで私たちを責めはしません。ですから、記憶力の弱さや、精神の失調や、浮き沈み、憂鬱などは、体質や気質による欠点であり、どれほど気になり、煩わしくとも、意志の力ではどうにもならないのです。時々私たちは、不必要な罪意識で自分をいらだたせています。同じことが、サタンの吹き込む、おぞましい魔的な想像についても云えます。そういう思いを抱いたため非常に悩む人がいますが、悪いのはそれを作り出した張本人であって、無理やりそれを感じさせられて悩み恐怖する者ではありません。最後に、私たちが内側のそうした悪を経験し、義務を果たす際にも敵に立ち向かう際にも全くの無力さを感じるとき、主は、その御力と恵みの素晴らしさ、十分さ、寛大さ、変わらぬ確かさを明らかにされます。これが聖パウロがその嘆きから引き出している結論です(ロマ7:25)。またパウロはこれを、ある試練の中で主ご自身の御口から学びました(IIコリ12:8、9)。

 ですから愛する奥様。私たちは感謝し、喜びましょう。自分は惨めな者だと思っても、神には栄光を帰し、イエスにしかるべき誉れを捧げましょう。私たちは貧しくとも、彼は富んでいます。私たちは弱くとも、彼は強いのです。私たちには何もなくとも、彼はすべてをお持ちです。彼は私たちのため苦しまれました。私たちも彼にならって苦しむよう召されています。彼は自ら勝利されました。彼の肢体であるひとりひとりも、やがて圧倒的な勝利者とされるのです。自分の姿を忘れないのは結構ですが、自分の救い主、夫、かしら、羊飼いとなっておられるお方から目を離さないことが大切です。私たちは、彼にあって義、平和、力をいただくのです。彼は私たちが恐れるすべての事を支配できます。ですからたとえ火の中、水の中を通るとしても、水は私たちを溺れさせず、火は私たちを焼きません。遠からず彼は私たちの戦いの中に割ってはいり、「ここへのぼってきなさい」と云うでしょう。「かくて我らが喜びの歌はあふれ、涙は全くぬぐわれる」のです。このような数々の約束と保証があるのですから、私たちは主の御名の御旗をかかげ、どれほど落胆することがあっても前進し続けようではありませんか。

 救われていない人々との関係については、それは奥様が進んで選んだものではありませんから、(必要なら)ご自分の十字架として負われるように忠告いたします。私たちは、義務としていなくてはならない立場にいることで、害を受けることはありません。受けるとしたら、忍耐のないためでしょう。私が思うに、摂理によってそのような状況に導かれた場合、(友人や親戚には、たとえ同じ信仰を持っていなくとも、それなりの友誼を与えなくてはなりませんから)、そのために使った時間は全部が全部無駄になったわけではないと思います。善用できないようなものはありません。私たちは、ほんのちょっとした会話の端々にも、キリスト者としての心持ちや、聖書の真理の確かさや、自分が他の人々と少しでも違う者となっているのは、ただ恵みによるのだということを匂わせることができます。お友達の間におられるときには、ことなきをのみ念じて自分の考えをしまっておくのではなく、もしかすると自分はその人たちの魂の益のために遣わされているのではないかと思いながら話をしてほしいのです。ほんの一言、ほんの一挙動が、主の祝福を受けて、どのような影響を及ぼすかわかりません。高慢になってはなりませんが、もし心から主をお喜ばせし、すべてにおいて主に導かれたいと願うなら、主は、私たちの旅行や、ちょっとした訪問を用いて、私たちか他の人、または双方に対する摂理の目的をかなえてくださると望んでよいと思います。奥様の陽気なお友達が冷やかすような態度をとるとき、主はひそかにその人の良心の中で、奥様に味方して証言しておられるかもしれません。その人が奥様の中に見る何か、奥様から聞く何かが、もしや奥様の去られたあと、奥様も全く忘れてしまったあとで、深く考えさせるきっかけになるかもしれません(伝11:1)。私としては神の恵みの力、自由、また主がいかに主権的にご自分の用いる器や手段を選ばれるかを考えるとき、そうした驚くべきみわざは、いつ起こってもおかしくないと思います。どんな人にも望みがないとは思えません。時には、〇〇さんほど救われにくい人はないと思うこともありますが、だからこそ真っ先に救われるかもしれないと考えて、ほっとさせられます。主のお考えは私たちの考えとは違います。主の愛、主の道には、私たちの達しえない高さ、測り知れない深さ、私たちの乏しい視界を超える長さ広さがあります。ですから私たちは単純に主にたより、足りない力の最善をつくし、事を御手にゆだねようではありませんか。

 **夫人をご存じですか。昨日届いた手紙でこの方はこう云われます。----「私は今、のどの調子がたいへん悪くて、このまま死んでしまうのではないかと思うほどです。けれども、死も生も、今あるものも来たるべきものも、すべては私のもの、私はキリストのもの、そしてキリストは神のものです。これは何と栄光に満ちた特権でしょう! 周囲のすべてが困難に見えるときも、何という魂の平安でしょう! まもなく私たちはキリストのおられる故郷へ帰るのです。そこには罪も悲しみも死もありません。たとえ最悪の状況にあろうと、私たちには完全な安全、完全な喜びがあります!」----もしこれが、死に瀕したこの夫人の最後の言葉の1つであるなら、この言葉は、後々まで残るでしょう。よく考えもせず、誰がキリスト者になるものか、などと云うことのありませんように。願わくは主が、奥様と私、また奥様の周囲の方々と私の回りの人々に、死と永遠が間近に迫るときも、この同じ確信を抱かせてくださいますように。

敬具

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