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第19通

人間とその堕落した状態 (2)

拝啓

 人間の堕落しきった性質は、使徒[ヤコブ]が人の誇る知恵について述べたことと全く同じです。すなわち、それは地に属し、肉に属し、悪霊に属するものなのです[ヤコ3:15]。先の手紙で私は、その大まかな輪郭を描き出そうとしました。けれども私たちは、人が福音の光に照らされたときに、どのように行動するかということを考えるのでなければ、決して人間性の悪性をその極限まで、あますところなく推し量ったことにはなりません。私たちの主が地上におられたとき、ユダヤ人は非常によこしまな者たちでした。しかし主は彼らについて、「もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう」[ヨハ15:22]、と云われたのです。すなわち、主の教えとご生涯によってもたらされた光と力は、罪にとどまりつづけるためのあらゆる云い訳を奪い去るばかりか、彼らの邪悪さをその極みまで、徹底的に明らかにしたというのでした。彼らの心の中にあった、彼に対する抜きがたい敵対心にくらべたら、それ以外の罪などみな、その魂の真の状態を示す、ほんのかすかな痕跡にすぎません。この点で、使徒がモーセの律法について述べたことは、キリストの福音にもあてはまるのです。福音がはいって来たのは、罪が増し加わるです[ロマ5:20]。もし人間性の堕落を、そのどん底まで推し測ろうとするなら、またその堕落が生じさせる最も強大な効果を推し量ろうとするなら、その例は、福音の広められている地域の人々の中から探さなくてはなりません。敵の部族を生きながら丸焼きにするインディアンたちは、人間が、その同類に対して野蛮なものである、ということを十二分に証明しています。そんなことは、何もそれほど遠くへ行かなくとも、同じくらい簡単に例証できるでしょう。しかし福音が宣教されるとき、それは、人の心が神に対して抱いている敵意を白日のもとにひきずりだします。これほど腐れ果てた極悪さは、啓示を受けていない野蛮人や異教徒にはとても真似できないものです。

 ここで私がいう福音とは、単に聖書に記された救いの教理のことだけではありません。この教理を宣べ伝える公の、権威ある制度のことも指しています。主イエス・キリストは、御自分の忠実な牧師らに、この救いの教えを委ねられました。彼らは自分自身、主の恵みの力によって暗闇の中から素晴らしい光へと移された者たちです。それが主の聖霊によって任ぜられ、同胞の罪人らに自分たちが見たもの、ふれたもの、味わったもの、すなわち、いのちのことばについて宣べ伝えるため送り出されているのです。彼らの使命は、ただ主にのみ栄光を帰し、人間のあらゆる栄光に泥を塗ることです。罪の邪悪さと、神の律法の厳格さ、霊的高さ、峻厳さ、また神から全く離れ去った人類のありさまを語ることです。そして、こうした事をふまえた上で、罪人が自分自身の行ないや努力によって神の断罪を逃れることは絶対に不可能であると説き明かし、罪と御怒りから完全に救われる道、何の代価もなしに救われる道がある、それは、人となって現われた神[キリスト]の御名と、血潮と、従順と、とりなしに対する信仰によるものであると宣言するのです。それとともに彼らは、神が御子についてなされた証しを最後まで拒む者はみな、永遠の滅びに定められると宣告します。むろん、罪人に関するこうした神のみこころやその他の真理は、聖書の中に何度も何度も、あからさまに啓示されています。本棚に聖書が置かれていない家はほとんどないでしょう。しかし、それでいながら実は、聖書は封印された書です。ほとんど読まれることなく、ほとんど理解されることなく、従ってほとんど敬われることがありません。聖書がしかるべく扱われるのは、ただ神がそのみこころによって牧師たちを立ててくださったところだけです。彼らは、自分自身の経験によってそうした聖書の真理を裏づけ、また内心からこみあげてくる愛と、滅びゆく魂の価値とによって押し出され、牧会のつとめを忠実に果たすためには一生を賭けようとする人々です。彼らは自分のために富を得ようとするのではなく、聴く人々の霊的幸福を高めようとします。この世の威嚇にも甘言にも耳を貸しません。そして魂をキリストに勝ち取る者として賢くなり、成功するためには、すべてを捨てて打ち込むのです。

 こうした意味において、福音が初めてある場所を訪れる場合、人々は罪の中を歩んではいても、まだ知らずに罪を犯しているともいえます。彼らは、自分たちがどれほど危険なことをしているか警告されたことがないからです。ある者たちは、自堕落な悪の道にどっぷり浸って生きています。他の者は、まだ落ち着いた様子はしていますが、この世の心づかいと日々の営みに埋没しています。またある者は、いわゆる宗教上の「お務め」に励む時間をひねりだすことはしても、霊的な礼拝の性格や喜びのことなど全く知りません。ただ単に、そうした務めを守ることで神と折り合いをつけ、捨てたくない罪の目こぼしをしてもらえるだろうと考えたり、自分のプライドをくすぐって、「神よ。私は他の人々のようではないことを感謝します」[ルカ18:11]などと云える余裕を手に入れたいだけなのです。しかし、いったん福音が宣べ伝えられると、罪人の歩むもろもろの道は1つ残らず、そのむなしさ、危うさを露呈します。福音は、そうした道は、たとえどれほど互いに異なっているように見えたとしても、真に安全で平安な道からはみな等しく隔たっている。そうした道を歩みつづける限り、まっしぐらに滅びへ向かうしかない、とはっきり宣告します。また、それと同時に福音には、自分のもろもろの罪を確信した人々がつき落とされかねない絶望に対する万全の備えがあります。すなわち福音は、神の広大無辺の愛を示し、キリストの栄光と恵みを示し、あらゆる者をキリストのもとへ招いて、赦しといのちと幸福を得るがいい、と告げてくれるのです。一言で云えば、福音は人の足元に地獄の穴を開き、天国の門を開き、天国への道を指し示すことを一度に行なうのです。ここで私たちは、この福音を聞いても、それが救いを得させる神の力[ロマ1:16]とならない人々に対して、福音がどのような影響を及ぼすかを簡単に見てみましょう。もちろんそこで起こることは、人間の性格や環境の違いと同じく、人それぞれです。しかし、どんな場合においても、あの詩篇作者の慨嘆の声を覚えずにいることはできないでしょう。「主よ。人とは何者なのでしょう!」、と。

 福音をほんの数度しか聞いたことのない者のうち多くは、それを二度と聞こうとしません。福音は彼らの侮蔑を招き、彼らの憎しみと怒りを買います。彼らは神の知恵を軽蔑し、神の善意などばかげたものだと感じ、神の御力に公然と歯向かいます。彼らの顔には、古の反抗的なユダヤ人と同じ思いがはっきりと浮かんでいます。あのユダヤ人たちは、預言者エレミヤに面と向かって云ったのでした。「あなたが主の御名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない」[エレ44:16]、と。福音を説く牧師らは、世界中を騒がせる者たちだと云われます[使徒17:6]。福音を受け入れた者らは、馬鹿だ偽善者だとみなされます。人には主のみことばが重荷なのです。だからこそ彼らは、福音を心底から純粋に憎むのです。生まれながらの人の心の傾向を何よりも明らかに示すものは何でしょう。それは、ある家族の中のひとり、またはふたりが(主のみこころによって)霊的に目覚め、残る全員が罪の中にとどまっているという場合に、しばしば大騒ぎが巻き起こるという事実ではないでしょうか。キリストの福音に心ひかれていると告白すると、いえ、心ひかれているのではないかと疑われただけでも、最低最悪の犯罪者であるかのようにみなされるのです。ただキリスト教を信じると云っただけで、親兄弟からも白い目で見られ、親友にも見捨てられることになります。そのように怒りを発した親たちはわが子を憎み、子らは親たちをあざけります。多くの者が、主の愛に心をとらえられて主を愛しはじめたそのときから、自分の最も恐るべき敵は(主の告げられた通り)家族の中にいたのだということを身をもって体験しています。そして、回心する前はこの世の誰よりも優しく愛をそそいでくれた人々が、今では顔も見たくもないといった様子になってしまったことに気づくのです。

 おそらく多くの人々は、少なくとも時々は福音を聞きつづけることでしょう。神の御霊は普通、そうした人々に対して、一度や二度は真理について証しされるのが常です。彼らは良心を打たれ、しばらくの間は信じて恐れおののきます。しかし、その結果彼らは、まるで、うっかり毒を飲み込んでしまった人が死に物狂いで解毒剤を求めるかのように、いやそれよりずっと必死に、自分の罪の確信をもみ消し、うやむやにしようと狂奔するのです。こういった真剣な思いの不愉快な侵入に対して、何か心を安堵させてくれるものはないかと、陽気な仲間たち、アルコール、その他の何にでも向かいます。そして、うまくもとのような冷淡さを取り戻すことができると、非常な危険から救い出されたかのように喜ぶのです。そして次は、自分で自分の感じた罪の確信を嘲笑します。それから、自分の知り合いの中で、同じように心打たれた状態にある人がいると、ありとあらゆる手段を使い、全力を挙げて、自分と同じようなかたくなな心に引き戻そうとします。狩猟家が鳥を狙うように相手から目を離さず、甘言を弄したり苦言を呈したり、おどしたりすかしたりします。そしてこのことに成功すると、まるで自分が大勝利を得て、大いに得をしたかのように、仲間の魂を滅ぼしたことを勝ち誇り、歓喜するのです。

 また繰り返し聴くことによって、人はより多くの光を受けます。不従順の子らの上には、神の怒りがかざされているということを、いやでもおうでも知らざるをえません。彼らは良心を刺すものを感じ、時として自分がこの世で最もみじめな存在だと感じます。いっそ生まれてこなければよかった、生まれてきたにしても犬や猫のように理性をもたぬ生き物であればよかったと思います。それでも、彼らはますますかたくなになっていきます。陽気そうに、気楽な様子をよそおい、むりやり唇に笑みをはりつけ、苦悶が心をぼろぼろに蝕んでいることを隠そうとします。真理の道を冒涜し、信者が過ちを犯すのを待ち受け、それを悪意のこもった喜びをもって誇大に云いふらします。おそらく彼らは悪人の死にざまを見ることもあるでしょう。それでも彼らは恐れません。義人の死にぎわを見ることもあるでしょう。それでも心は動かされません。目に見えぬ摂理の御手をもってしても、目に見える定めの手段をもってしても、あわれみをもってしても審きをもってしても、彼らを止めることはできません。なぜなら彼らは福音に屈服するくらいなら、目を見開いたまま進みつづけ、そのまま滅びてやろうと決意しているからです。

 しかし、みながみな福音の真理を公然と拒否するわけではありません。福音を認め、受け入れると告白した者のうちある人々は、そのことによって人間の心の暗黒さを(そのようなことが可能ならばですが)いやまさってくっきりと際立たせます。彼らはキリストを罪の手先とし、恵みを放縦に変えます。イスカリオテのユダのように、「先生。お元気で」、と云いながら、イエスを裏切るのです[マタ26:49]。これほどの邪悪さは他にありません。彼らは福音の全教理を歪曲します。選びの教理からは、悪の道を進み続ける口実を引き出し、行ないのない救いをつかもうとします。神に対する従順を愛していないからです。また彼らはキリストの義を大いに持ち上げます。個人的な聖潔に対する反対論としたいためです。一言で云えば彼らは、神が良い方であると聞いたがために、悪にとどまろうと決意するのです。「主よ。人とは何者なのでしょう!」

 このようにして、かたくなで悔い改めようとしない罪人たちは、人を欺き自分を欺きながら、日ましに悪い状態へ落ち込んでいきます。彼らの軽蔑するみことばは、彼らにとって死から出て死に至らせるかおりとなります[IIコリ2:16]。たどる道は違っても、彼らはみな底知れぬ穴へ下っていき、主権のあわれみによって押しとどめられない限り、二度と上ってくることのできないところへ、たちまち沈んでしまいます。最後には、通常2つのことが起こります。多くの人は、多少ともみことばによってゆり動かされた後で、形式的なえせ信者になることで落ち着きます。もしも聴くことが信仰や愛や従順のかわりになるなら、それもいいでしょう。しかし彼らは次第に説教に対する耐性を身につけていきます。一度は彼らを打った真理も、繰り返し聞かされることによって力を失います。こうしておびただしい数の人々が、長年の間ふりそそぐ光の輝きに浴していながら、暗闇の中で生き、死んでいくのです。また他の人々は、もっとあからさまに堕落した思いに身をゆだねます。福音に対する軽蔑から、不信者や理神論者や無神論者が生まれるのです。彼らは欺きの霊に支配され、嘘八百を信じるようになります。福音をせせら笑いながら、自分の情欲に従って歩みます。なぜなら信仰心を捨てたところには、邪悪で忌まわしい行ないが生まれるからです。こうした人々は、自分で自分を欺きながら人生を空費し、福音の真理に反駁しながら、その真理をひときわ明らかに証明しているのです。この種の人々は、一度は強い罪の確信を受けていることが少なくありません。しかし、悪い霊が一時は離れ去ったように見えても、それが再び戻って来るとき、その人の後の状態は初めよりもさらに悪くなるものです[ルカ11:24-26]。

 もしかすると読者の中には、自分の性格がいま描き出されたような、真理に反抗する、忌まわしい絶望的な心のどれかに当てはまるような気がしている人がいるかもしれません。願わくは神の御霊が、その人を注意深く熟読させてくださいますように! その人の状態は危険かもしれません、しかし私は全く望みがないとは思いません。イエスは力ある救い主です。彼の恵みは、どれほど極悪な罪も赦すことができます。どれほど根深い罪の習慣も打ち破ることができます。その人がこれまで軽蔑し、抵抗し、反抗してきた福音は、それでもなお救いを得させる神の力です。その人がこれまで踏みつけにしてきたイエスの血は、アベルの血よりもすぐれたことを語り[ヘブ12:24]、緋や紅のような罪に満ちた人々をも、雪のように白くきよめる力を持っています[イザ1:18]。これまでのところ、あなたは見逃されてきました。しかし、もうやめる時です。反逆の武器を投げ捨て、御足のもとにへりくだって膝まづく時です。もしそうするなら、まだ救われることができます。しかし、もしそうしないなら、確かに知っておいてください。最後には御怒りがあなたの上に下ろうとしています。そしてあなたはすぐに、言語を絶した驚愕と狼狽の中で、生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことだと知るでしょう[ヘブ10:31]。

敬具

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