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第18通

人間とその堕落した状態 (1)

拝啓

 現代は人間性の尊厳ということがさかんに聞かされます。確かに、神から創造された際の人間は卓越した被造物であったと云えるでしょう。しかしこれを、罪に堕ち、堕落した人間について考えると、どうして詩篇作者と声を合わせて驚嘆せずにいられましょうか。人とは何者なのでしょう。かの偉大な神がこれを心に留められるとは、と。

 原初の至福と聖さの状態から堕ちた今でさえ、人間本来の才知、能力は、彼をつくったのが神の御手であったことを十分証ししています。ある面で人間は偉大な存在です。その理解力、意志、感性、想像力、記憶力には、高貴で素晴らしいものがあります。しかしその人間を、道徳的光のもとに照らして、知性を持つ存在、不断に神からささえられている存在、また神に申し開きする責任を持ち、神によって不変の世界の中に存在するよう立てられた者と見てみましょう。そのように見るとき、人間は怪物です。卑劣で、不潔で、愚昧で、頑迷で、凶暴な生物です。いかに誇るべき才知や業績があろうと、人間を一口で云い表わすなら馬鹿としかいえません。また神の救いの恵みを持たぬ限り、人間の行動は、どれほど重大な場合であっても、最悪の白痴と同じくらい支離滅裂です。感情や嗜好という点では、獣にも劣る存在です。そして、その意志の邪悪さときては、まさに悪魔というしか、たとえようがありません。

 ここで問題としているのは、暴君ネロやヘリオガバルス帝のような特定の個人ではなく、人間性そのものです。神から生まれた少数の人々を除く全人類のことです。確かに人にはそれぞれ差異があります。しかしそれは神の摂理の抑制によるものであって、それがなければ世界は地獄同然の姿をしていたはずです。狼や獅子を鎖でつなげば、野放しの状態よりは無害になりますが、その種族本来の性質は変わりません。人々の多くも、教育、損得、恐れ、世間体、法律、それに神が心に及ぼす隠れた力があってはじめて、上品で尊敬すべき性格とされているのです。また、どれほど浅ましい無頼漢にも抑制が加えられていて、その心の邪悪さのうち、ごく僅かしか表わせないようにされているのです。しかし心そのものは誰しも陰険で、それは直りません[エレ17:9]。

 人間は馬鹿です。確かに人間は地球を測れますし、星を数えることも不可能でありません。芸術と発明、科学と政策の才に満ちています。それがなぜ馬鹿なのでしょう。古代の異教徒、エジプト人やローマ人やギリシヤ人は、この種の知恵に卓越していました。今日でも彼らは、歴史、詩歌、絵画、建築などの学芸をきわめようとする人々の模範として研究されています。しかしこうしたものは、外面を洗練しても心を正しくはしません。彼らの最も尊敬すべき哲学者や立法者、論理学者、雄弁家、芸術家も、真に知恵の名に値する唯一の知識が欠けている点では、幼児や白痴と同じでした。知者と自称しながら、彼らは愚か者になりました。神を知らず、認めもせず、それでいながら自分の弱さ、自分以上の力に依存していることを自覚していた彼らは、どこから来たかも、正しく用いるすべも知らぬ内なる畏れにつき動かされるまま、創造者でなく被造物を拝み、木の棒や石を信じ、人手による偶像や、ありもしない想像の産物、架空の怪獣をたのみとしました。その神話や宗教伝説の体系は、当時の庶民も知らない言葉で記されているので、私たちには非常に難解な学問ですが、確信や真理という点では、夢のごたまぜか、狂人のたわごとと違わないとだけは云えます。ですからもし、これらの尊敬すべき賢者らを、ましな方の人類の見本と認めるなら、人間は最高の状態にあっても、神の御霊に教えられない限り、馬鹿であると云わざるをえないでしょう。しかし、私たちはそれより賢いでしょうか。絶対にそんなことはありません。神の恵みによらなければ、私たちも全く同じです。私たちの最もすぐれた点も、自分の愚かさを際立たせるだけなのです。なぜある人々は馬鹿と呼ばれるのでしょう。馬鹿には健全な判断力が全くありません。何もかも見かけで決めるので、莫大な財産の権利書より奇麗な上着の方を好むようなことをします。馬鹿は結果を全く考えません。自分の親友を傷つけたり殺したりした後で、何も悪いことをしていないと考えたりします。馬鹿は物事の道理がわからないので、何の議論も受け付けません。麦わらで縛られると、身動き1つしようとしないことがあります。家が火事のときすら、テコでも動かせないことがあります。これらが馬鹿の特徴だとすると、罪人ほど馬鹿な者はいません。罪人は、天上の幸福より地上のおもちゃを好み、この世の馬鹿げた習慣に縛られ、神の怒りより人の鼻息の方を恐れるのです。

 また生まれながらの人間は獣です。いえ、滅ぶべき獣にも劣っています。2つの点で、人間は獣と酷似しています。まず官能の満足以上のものを求めようとしない点。また利己的で、他の者を押しのけてでも自分さえ良ければそれでいいとする点です。しかし、多くの点で人間は、痛ましいほど獣以下です。不自然な情欲、親としての自然な情愛の欠如など、畜生にも見られぬ忌まわしさです。わが子を自分の手で殺す母親、わが身を殺害するおぞましき自殺行為などどうでしょう。また人は、その頑迷さでも獣に劣ります。危険を危険として認めないのです。一度罠を逃れた獣は、再びその近くに行くときは警戒を怠りません。鳥がみな見ているところで網を張っても、無駄なことです[箴1:17]。それが人間は、何度叱責されても、強情をやめません。十分わかっていながら、破滅に向かって突き進みます。神を侮り、神のさばきを馬鹿にしさえするのです。

 さらに、人間がいかに悪魔と似ているか見てみましょう。罪には霊的な罪があります。そして、その霊的な罪を最大限に拡大したものが、悪魔の性格であると聖書は教えています。そのどの特徴を見ても、それは人間のうちにくっきり刻印されています。ですから、私たちの主がユダヤ人に云われた言葉はすべての人にあてはまるのです。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです」[ヨハ8:44]。人間は高慢な点で悪魔と似ています。この愚劣で邪悪な生き物が、自分の知恵、力、美徳を自慢し、自分の善行で救われると云うのです。人にそのようなことが可能なら、サタンにすら救いの余地はあるでしょうに。また人間は悪意の点で悪魔と似ています。この悪魔的な心が、しばしば人を殺人に至らせます。主の抑制がなければ、殺人事件など日常茶飯事になるでしょう。また人間は、あの憎むべき性情、ねたみをも悪魔から受け継いでいます。人にとって自分の隣人の幸福を見ることは、しばしば云いようもない苦痛となります。そして、それと同じだけ隣人の災難は喜びです。たとえそれが、この憎悪の思いを満足させるほか一文の得にもならないとしてもです。同じように人間は、その残虐性という点でもサタンの面影があります。この悪は、子供の心にすら堅く結びついています。自分以外の者に苦痛を与えることを喜ぶ思いは、きわめて早い時期から現われるようです。放っておくと、すぐに子供は虫や動物をいじめて喜ぶようになります。ただ単に自分の野蛮な心を満足させたいというだけで、人は何という無残な仕打ちを動物に加えることでしょう。闘鶏や闘犬、闘牛、熊ぜめなどのことを考えてみてください。もしも人間が、その最も満足しきった状態によって判断されるとしたなら、また(弁解の余地がないように)彼らが何の怒りも恨みも抱いていないときに、その判断が下されるとしたなら、人間の正体と本性は、その娯楽の性格からでさえ明々白々ではないでしょうか。そして結局、人間にとって最大の敵は人間です。凄惨な戦争や動乱、怒り狂う決闘者たち、殺人、暗殺などが世界中に満ちていることを考えると、やはりこう云わざるをえません。「主よ、人とは何者なのでしょう!」 、と。さらに、もし欺き裏切りがサタンの性格に属するなら、確かに人間はサタンのひな型です。あらゆる時代、あらゆる地域の人々が、あの預言者のことばの正しさを証ししていないでしょうか。「友を信用するな。親しい友をも信頼するな。あなたのふところに寝る者にも、あなたの口の戸を守れ。彼らは互いに網をかけ合って捕えようとするからだ」[ミカ7:2、5]。今この瞬間にも、いかに多くの人々がダビデの言葉を実感していることでしょう。「彼の口は、バタよりもなめらかだが、その心には、戦いがある。彼のことばは、油よりも柔らかいが、それは抜き身の剣である」[詩55:21]。また人は、サタンと同じように、熱心に他人を罪に誘惑しようとします。自分を地獄行きに定めるだけでなく、できるだけ大勢を同じ破滅の道へひきずりこもうと、ありとあらゆる手練手管を用いるのです。最後に、人間は、神と善なることに対して真っ向から反抗する点、神の恵みの福音に軽蔑と敵意を抱く点、また福音の信者らを激しく迫害する点にかけては、サタンそのひとにも劣りません。まさしくこの点において人はサタンの代理人であり、腹心の部下です。神を侮辱しようにも、ほむべき神ご自身には手が出せないので、神の民のひとりひとりを身代わりにするのです。

 堕落した人間の状態についてここまで述べてきたことは、ほんの大ざっぱな輪郭にすぎません。人間の姿を生き写しにし、そのおぞましい悪徳をあらいざらいぶちまけ、ありのままの人間を極彩色で描き出すことなど不可能でしょう。ただ、あの慨嘆のことばの正しさを示すだけのものは示されたと思います。「主よ。人とは何者なのでしょう!」 おそらく読者の中には、こうした非難を否定しようとする方がいるでしょう。あるいは、弁解しようとする人がいるでしょう。そして、あなたの云うようなことは全人類にはあてはまらない、これは人間の中でも最低の見下げはてた人種のすることだ、ほとんど人でなしと云ってもいい者らのすることだ、と抗議しようとするでしょう。しかし、こういった反論には、あらかじめ答えておいたはずです。私が述べているのは人間という種族の性質です。どれほど極悪で、どれほど堕落しきったやからも、世の中で最も優しく、最も温和な人と同じ1つの性質を持っていて、その性質の限度を越えて罪を犯すことはできません。木の実のなりかたは、その木その木によって千差万別ですが、一個でもりんごがなれば、たとえ何十個、何百個とならなかったとしても、それが何の木であるか迷うことは決してないでしょう。この場合も同じです。かりに、こういったもろもろの悪徳がありとあらゆる人々のうちに見出されるわけではないと認めたとしても、ほんの一握りでもそういった者がいるとすれば、私の述べたことは十分証明されます。そうではないと云うためには、そういった少数の者らが、別の種族に属する者だということを同じように証明しなくてはならないでしょう。しかし、そこまで譲る必要はないでしょう。石のように鈍感な人間でない限り、自分の心の内側に、世間一般で善とされているものと逆な何かがひそんでいることを感じているはずです。自分の心に浮かぶ想念や欲望を何1つ隠さずに皆の前で打ち明けろと強制されるくらいなら、むしろ人間社会から追放された方がましだと思うくらい、自覚できているはずです。

 このあまり愉快でない主題からは、多くの有益な反省を引き出すことができます。現在の私たちには、自分がどれほど多くのものを、守護者なる神の摂理の御手に負っているか見当もつきません。このような世界で、一日でも平穏無事に過ごすことができるのは、神の配慮によるものなのです。どこに住もうと、私たちの身近には、その本性からいっても、サタンの及ぼす強大な支配力からいっても、簡単に凶悪犯罪に走りうる人々がいます。しかし、彼らの知らないお方が彼らを抑制し、大それたことをしでかさないようにしているのです。その抑制の御手が少しでも離されると、とたんに彼らは行動に走ります。そして私たちは、殺人や強姦や暴行のことを聞くことになるのです。もしも主が強い御手で制しておられなければ、そうした犯罪は一時間ごとに犯されるようになり、家にあっても、野にあっても、安全な者は誰一人いなくなるでしょう。神が制定された法治政府も、社会の平和を守るための大きな手段の1つです。しかし、これは多くの点で不完全なものです。人の心は、本当に悪に向かってたわめられると、絞首柱でも拷問台でも怖じけづかせたり、思いとどまらすことはできません。

 このような悪人どものため、御子を与え死にまで至らせてくださった神の愛は何と素晴らしいことでしょう! そして私たちが幸せになるために新生が必要だということは、何と確かで、何と間違いないことでしょう! 獣や悪魔が神の国を相続できるでしょうか? 同じように、信仰者がへりくだりと、感謝と、油断ない心を持ちつづけていくためにも、この主題をじっくり考えることは必要です。これが、私たちのかつての姿でした。これが、今も私たちのうちに残っており、使徒が肉または古い人と呼ぶ生来の原理です。堕落した性質は神の子らの中で根絶されたわけではありません。もちろん彼らは、恵みによって新しい原理にあずかる者となっており、主の力にあって罪のからだに抵抗し、これを押さえることができます。罪に支配されることはありません。それでも彼らは、しばしば悲しむべき不意打ちに出会うのです。アロンやダビデ、ソロモン、ペテロらの物語が記録に残されているのは、この世で最もすぐれた人々のうちにも何という悪がひそんでいるか、また少しでも一人きりにされるとどうなるかを示す教訓としてでした。「主よ。人とは何者なのでしょう!」

敬具

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