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第17通

論争


拝啓

 このたびあなたは論争の渦中に身を投じようとしているようですが、真理への愛に加えて生来熱血漢であるあなたですから、友人としていささか危惧しています。あなたは強い側に立っています。真理は何よりも強く、必ず勝つからです。あなたほど才知に長けていない人でも、勝利を確信して戦いの火ぶたを切ることができるでしょう。ですから私は勝敗については案じていません。しかしあなたには、ただ勝つだけでなく、圧倒的な勝利者になってほしいと思います。敵に勝つだけでなく、自分に打ち勝ってほしいのです。自分を従わせることのできない人は傷を負うでしょう。ですから、あなたが勝利をふりかえって嘆くことになるような傷を受けないですむよう、いくつかのことを述べさせてください。それをきちんと守るなら、あなたは鎖かたびらを身につけることになります。このよろいは、ダビデに貸し与えられたサウルの鎧のように、わずらわしいだけで役に立たないということはありません。あなたもすぐに、この武具の出所が、キリストの兵士に与えられた偉大な武器庫、神のみことばであることに気づくでしょう。私が歯に衣着せずものを云うことは、先刻ご承知のことと思います。ですからあえておわびはしません。そこで便宜上、3つの点に分けて忠告します。まずあなたの論争相手について、また世間一般の人々について、そしてあなた自身についてです。

 まずあなたは、反論を書き始める前に、またそれを書く間中、ぜひ論争相手の人が主から教えられ、祝福されるよう熱心に祈ってほしいと思います。そうし続けるとき心の怒りは静まり、その人を愛しあわれむようになります。そうした思いは、あなたの書く文章すべてに良い影響を及ぼすはずです。もしその人を信者と思うなら、今は論争中の問題についてひどく誤っているとしても、アブシャロムについてダビデがヨアブに述べた言葉、「私に免じて彼をゆるやかに扱ってくれ」こそ、まさにふさわしいものです。主がその人を愛し忍んでおられるのですから、あなたがその人を蔑んだり、冷酷に扱ってはなりません。主はあなたをも同じく忍んでおられますから、あなたが自分の赦しの必要の大きさを自覚して、他の人を優しく扱うことを望んでおられます。じきにあなたがたは天国で会うことになります。そのときは、地上のどんな親友より親しくなるのです。それを考えてください。今は、相手の誤りに反対せざるをえないとしても、個人的には同じ信仰の家族とみなしなさい。その人とは、キリストとともに永遠を過ごすことになるのです。しかしもし相手を、神と恵みに敵対する未信者と思うなら(確かな証拠もなく、あだやおろそかにそのような考えを抱いてはなりませんが)、なおのことその人には同情すべきであって、怒りを発すべきではありません。おゝ、「彼は何をしているのか自分でわからないのです」。しかしあなたは、なぜ自分がその人と違うか知っています。もし神が主権の御旨によって定めを変えていたなら、あなたもその人と同じ状態にあったでしょう。あなたでなく相手の方が、福音を擁護するため立てられていたかもしれません。あなたがたは、二人とも生まれながらに盲目でした。それを思えば相手を非難したり憎んだりできないはずです。主はあなたの目を開き、相手の目を開かれなかったからです。ありとあらゆる論争家の中でも、私たちカルヴァン主義者と呼ばれる者こそ、自分の信ずる主義に従い、最も優しく、最も慎み深くふるまう責任があります。もし私たちと意見の違う人に自分で自分を変える力があり、自分で自分の目を開き、自分の心を柔らかくできるなら、そのかたくなさに腹を立てても、さほど矛盾した言動にはならないでしょう。しかしもしそれとは逆のことを信じているのなら、反対する人たちと争うのではなく、柔和な心で訓戒するべきです。「もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう」。もしあなたが、人の過ちをただしてあげたいとの思いからペンをとるのなら、盲目の人の前につまづきの石をおかないよう細心の注意を払うはずでしょう。相手を激昂させるような書き方をすれば、ますます偏見をつのらせ、(人間的には)救いがたい状態にするばかりです。

 また反論を公にあらわすことにより、あなたは広く一般に訴えることになりますが、予想される読者が三種類あります。まず、あなたと意見を異にする人々です。そうした人たちについては、上で述べたのと同じことを考えてください。たとえあなたが主に一人の人を念頭において書くとしても、その人と同じ考えの人はたくさんいます。そして今述べたことは、相手が一人であろうと数万人であろうと同じようにあてはまります。またあなたの読者の中には、ほとんど宗教に興味がなく、はっきりした信条を持たない人も大勢いるでしょう。けれどもそうした人は、自分の称賛に値すると思えるような心の人には好意を寄せるものです。そうした人は、教理と教理の区別などつきません。しかし書き手の心理状態についてはかなり鋭い推察をします。彼らは、柔和、謙遜、愛がキリスト者の特徴であることを知っています。恵みの教理を空想や思弁だと思う人はたくさんいるでしょう。口では福音を信じると云いながら実生活には何の良い影響も見られない人もいるでしょう。けれどもそんな人でも、恵みの教えを信奉するという私たちには、常に福音の教えにかなう態度をとることを期待するのです。もし私たちがそれと矛盾するような言動をとると、彼らは目ざとくそれを見つけ、私たちの議論をあざける口実にします。「人の怒りは、神の義を実現するものではありません」、という聖書の正しさは、日々実証されています。もし私たちの熱心さに、苦々しい怒りや毒舌、軽蔑があらわれるなら、私たちは真理に奉仕するつもりで、真理の信用を下落させているのです。私たちの戦いの武器は肉の物ではなく、霊の物です。そしてそれだけが、過誤と誤謬の要塞を打ち破る力を持っているのです。それは聖書と経験から公正に引き出された議論を、穏やかに優しく語ることです。そうするとき、私たちの意見に同意しない人も、私たちがその人の魂の益と、真理のためだけに戦っていることは納得するでしょう。もし私たちがそうした動機からだけ行動しているとわからせることができたなら、なかば勝ったも同然です。相手はずっと穏やかに私たちの云うことを考える気になるでしょうし、なお意見が違うとしても、私たちの意図の純粋さは認めざるをえないでしょうから。

 さらにもう一種類の読者がいます。あなたと同意見で、あなたの議論にすぐ賛成するような人々です。もしあなたが、問題点をわかりやすく明瞭に説明してあげるなら、彼らをさらに深く、さらに堅固な聖書理解へ進ませることができるでしょう。自分のペンに、真理と親切という2つのくつわをかける人は、人々を建て上げる器となることができます。しかしそうでない人は、ただ害を与えるだけです。意見の違う人を軽蔑したいという思いは、自我の思いから出てきます。私たちは、神に対して当然ふさわしい熱心さを示しているつもりでいながら、しばしば自我に支配されていることがあるのです。私も、アルミニウス主義の主な論点が人の心の高慢さから生じ、人の心の高慢さの故に信じられていることは喜んで認めます。しかし、その逆も常に真実であってほしい。いわゆるカルヴァン主義の教理を信ずるということが、心へりくだっていることの確実な証しであったなら嬉しいと思うのです。私の知っている何人かのアルミニウス主義者は、明確な光を受けていないため、恵みの教理を受け入れようとはしませんが、それでもある程度は心が主の前にへりくだっているという証拠があります。そして残念なことに一部のカルヴァン主義者は、口では被造物を卑しめ、救いのあらゆる栄光を主に帰し、それが自分のへりくだりのしるしだと云いながら、実は自分がどのような霊的状態にあるか知っていません。他人より自分がまともで賢いと思ったり、自分の教理に同意しない人を蔑み、違う立場の人を馬鹿にしたりする人は、自分により頼んでいるのです。しかし自分により頼むのは、何が理由であっても自己義認の精神の証拠です。行ないだけが自己義認の精神を養うとは限りません。それは教理でも同じです。正統神学を頭につめこみ、被造物の無価値さと、無代価の恩寵の豊かさを認める人でも、パリサイ人と同じ心になりえます。そうです。あえて云えば、どれほどすぐれた人も、このパン種から全く自由にされている人はいません。だから人は、自分の論敵が嘲笑され、その結果自分の高い識見が示されるような意見を聞くと、すぐ上機嫌になるのです。世の論争の大部分は、こうした悪い傾向を抑制するのではなく、助長するような形で行なわれます。ですから、一般に論争からはほとんど良い結果が生じません。さとすべき相手を憤激させ、徳を建て上げるべき人々をいよいよ高慢にさせるのです。あなたの論争はぜひ、真のへりくだりにあふれ、他の人もへりくだらせるものであってほしいと思います。

 そして最後に、この企てによるあなた自身への影響を考えましょう。聖徒にひとたび伝えられた信仰を守るのは立派な奉仕に見えます。私たちは信仰のため熱心に戦い、信仰を否定する人を説得せよと命じられています。今日のように至る所に誤謬があふれ、福音のあらゆる真理が公然と否定され、はなはだしく誤解されている時代ほど、この奉仕がふさわしく、時宜にかなった時はないように思われます。しかし、過去、論争に携わった著述家で、その論争から如実な害を受けなかった人はほとんどいないのです。論争家は次第にうぬぼれが強くなるか、いつも喧嘩腰の怒りっぽい人になるか、知らず知らずのうちに、信仰生活を養い力づけるものから注意をそらし、せいぜい二義的な価値しかないものに時間と精力を費やすようになってしまいます。ここから、この奉仕は正しくても危険を伴うことがわかります。たとえ論敵をぐうの音も出ないほどねじ伏せたとしても、主の喜ばれる、また主の御臨在が約束された、へりくだった優しい心を失うなら何になるでしょう。あなたが善をめざしていることは疑いません。しかし、あなたは目をさまして祈っていなくてはなりません。サタンはあなたの脇であなたを妨げ、あなたの意見を卑しくしようとするからです。もし常に主の守りにより頼んでいないと、神の栄誉を守るために始めたことも自分の面子を守るためとなり、真に平安な心とは相容れない感情を呼び醒ましてしまいます。すると確実に神との交わりは妨げられます。ですから論争には決して個人的感情を持ち込まないよう用心しなさい。到底がまんできないようなことを云われたと思うようなときは、「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことを」しなかったイエスの弟子であることを示す機会です。イエスが私たちの模範です。それは私たちが神のため語り、神のため書き、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与え」るようになるためです。そのために「あなたがたは…召された」のです。上からの知恵は純真なだけでなく、平和、寛容です。これらの性質を欠く心があると、香油のつぼに落ちた死んだ蝿のように、私たちの行ないは臭くなり、役立たずになります。誤った心で行動すれば、神の栄光を高めることも、同胞に益を与えることも、誉れや慰めを受けることも、まず不可能です。自分の才気をひけらかし、相手を笑い者にしたいだけなら簡単でしょう。しかしあなたにはもっと高い目的をめざしてほしい。福音の真理の重要さを厳粛に受けとめ、人々の魂にしかるべき同情を注ぎ、何千もの人々から下らない喝采を受けるよりは、ひとりの人の偏見をとりのぞく器になってほしいのです。ですから、万軍の主の御名と力によって進み、愛をもって真理を語りなさい。願わくは、あなたが主から教えられ、聖霊の油注ぎを授かっていることを、主が多くの人のうちで証しされますように。

敬具

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