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第20通

恵みの後退、その原因、性質、しるしについて

閣下

 かつて私がお宅へお伺いしましたときに、閣下は非常に興味深い話題を持ち出されました。ですが確かそのときの会話は中断されたのではなかったかと存じます。私たちは恵みの後退の原因と性質、そしてそのしるしについて語りあったのでした。恵まれた瞬間には忘れるはずもないように思える、あの聖なる事柄に対する熱烈な感動を一体なぜ私たちは失ってしまうのでしょう? こうした気分の変化は他の面での霊的成長とどれだけ関係しているのでしょう? そして、私たちの罪深い性質や罪のこの世とのやむをえない結びつきによって私たちが被る損失をそのつど償うにはどういうことをすればよいのでしょう? 私は閣下のお許しを願って、そうした問題について少しばかり書いてみたいと思います。もちろん何もかも論じつくした論文などではありません。ただ書いていくうちに思い浮かぶ考えを拾っていきたいと思います。

 霊的に覚醒した魂は自分がいわば新しい世界にいることに気づきます。(これは、長いこと悩み、恐れを味わったあとで、主の恵み深さを味わいはじめた魂について特に云えることです)。これほど鮮烈で感激的な変化は他のどこにもありません。だから、このようなとき他の何も考えられなくなるとしても無理のないことでしょう。暗やみから光へ、そして御怒りの感覚から栄光の望みへという変転は考えうる限り最高のものですし、しばしば不思議なほど不意に訪れるものです。こういうわけで信じたばかりの回心者は一般的に云って愛と情熱を特徴とします。紅海のイスラエルのように、彼らは今しがた主の素晴らしいみわざを目にしたばかりなのです。主に賛美を歌わずにいられるはずがありません。彼らは自分がつい先ほど死地を逃れたことに深い感動を覚え、また周囲の人々が同じ恐るべき状況にありながら全く意に介さず安心しきっていることに大きく心を動かされます。そして他の魂に対する彼ら自身のあわれみと同情心は、自分の出会う人すべてに福音を説かないではいられないほど圧倒的なものとなるのです。

 こうした感動は、それが何によって生まれたかを考えると、何ら非難すべき点もなく全く正当なものです。そしてまた、私たちがいつもこのように感動していられないということは、私たちの天性がいかに不完全で、しかもいかに堕落しているかを証しするものと云って間違いありません。しかし----この感動も完全に純粋であるとは云えないのです。よく調べてみれば、はじめはもっと信仰歴の長いキリスト者にとって模範とも叱責とも思えたこの気質が、たいがい少なからぬ欠点を伴っていることに気づくでしょう。

 1. このような人々の信仰は非常に弱いものです。彼らの確信は、キリストにおける神のみわざを明確に理解したところから生じたというよりも、内側からわき出る喜びへの大きな感動から生まれるのです。この慰めは、神を信じない世界の反対に対して彼らを勇気づけるために「強壮剤」として与えられたのですが、彼らはこれを彼らの恵みの真正な証拠だと思い込むのです。こういうわけで、主が御手のはからいを変えられ、御顔を隠されるとき、彼らはたちまちにして混乱し、途方にくれることになるのです。

 2. このように初めの愛[黙2:4]のうちにある人々は、往々にして人をさばく思いにとりつかれています。彼らは自分の心がいかに欺きに満ちたものであるかほとんど知っていません。サタンの策略にも誘惑にも通じていません。だから自分と同じような熱心さを持てない人にはがまんがならず、同情することも、正当で必要な寛大さを示すこともできないのです。

 3. さらに彼らは多かれ少なかれ自己義認と片意地な思いを持っています。彼らの意図はよいのですが、律法の霊的な意味やその正しい用い方にまだ通じていないために、彼らの情熱の一部は(しかも、しばしばかなりの部分は)本質的でない外面的な物事に費やされることになり、彼らは命じられてもいないことを行ない、正当なことをもさし控え、種々の型にはまった生き方を守るようにかりたてられるのです。もっともこれはその人の気質や環境によって異なりますが。

 けれども、こうした欠点すべてにもかかわらず、若き回心者の偽りない熱意には非常に美しく、また心惹かれるものがあると思われます。厳しく人をさばく冷たい人々は、欠点がつきものだからといってこうした有望な兆候を排斥しようとします。しかしよき園丁なら、これからもう少し日光と雨を受ければ美しく、また芳しく完熟するはずの桃の実を、ただ「青い」というだけで捨て去るようなことはしないでしょう。若いとき、うちに燃える「火」を持たなければ、年を取ってからふさわしい暖かみを持つことはできません。これは恵みについても大体自然界と同じようにあてはまる真理です(例外はありますが)。

 しかし、あの偉大な大農夫は御自分の手で植えられたものをじっと見守っておられ、御手のはからいをさまざまに変え、時には全く逆転させることによって引き続きみわざをなされます。彼らの山がこのように堅く立っている間は、彼らは自分が動かされることなど決してないと思います。しかし、ついには何かが変わったことに気づくのです。時としてそれは全く知らぬ間に起こった変化かもしれません。新しいものの力が去るとき、こうした全く自然な感情が減退していくのは当然なことです。彼らは時おり自分の思慮の足りなさを感じるようになります。そして自分の無分別な行き過ぎを正そうという努力は、しばしば逆の極端に走って生気の乏しさを招くのです。彼らの心の邪悪さは、圧倒されてはいても根絶されたわけではありませんから再び力を盛り返すでしょう。敵は適当な誘惑をもって彼らの足をすくってやろうと機会をうかがうことでしょう。そして、主の目的は彼らが経験から自分の弱さを学び、感じ取ることですから、ある場合には敵に勝利を与えられることがあるでしょう。このようにして良心に罪の咎目が負わされていくとき心はつらくなり、手は衰え、足は弱くなります。確信は揺らぎ、祈りの思いは乱され、武具は失われ、こうして事態は主が介入なさるときまで悪化の一途をたどるのです。そう、私たちは自分で落ちることはできても、主の助けなしに立ち上がることはできませんから。実際あらゆる罪はその性質上、最終的背教への傾向を持っています。しかし恵みの契約にはちゃんと備えがあって、主はみこころのときに戻って来られて魂を確信させ、へりくだらせ、赦し、慰め、新たにしてくださいます。主が岩を打つと水が流れるのです。このように何度も何度もためされ訓練されることによって(というのもこの知恵が一度や二度の教訓で身につくことはまずないからですが)、ついに私たちは自分が無であって何も持っておらず、罪のほか何も行なえぬ者であることを学びはじめるのです。またこうして私たちは、だんだんに自分を脱して生きることになれ、あらゆる種類の必要をすべて恵みの源なるイエスから引き出すようになっていくのです。私たちはより用心深く歩むようになり、自分の力をたのむことがより少なくなり、自分を小さくみなし、「かれ」をより高く大きくみなすようになります。特にこの最後の2つにこそ、聖書が恵みの成長と云うものが存していると思います。2つとも生き生きしたキリスト者のうちに増し加わっていくものです。----日を追うごとに自分の心の有様が明らかにされていき、自分のほむべき贖い主の力、十分な恵み、あわれみ、恵みが明らかになっていくのです。しかしどちらも私たちが天国へ至るまでは完全になることはないでしょう。

 そこで私はこう考えます。たとえ回心当初に感ずる大きな情熱は減退しようと、もし私たちがより福音的なものの見方と、より成熟した判断力を身につけ、内側の腐敗を常に意識していることによって絶えずへりくだった心でいるなら、また前よりも柔らかな心で他人に同情し優しくすることができ、主として霊的な願望によって支配され、神の教えとおきてと神の民を実際に尊重しているのなら、私たちのうちにある主の恵みの良きわざは、概して前進しているとたしかに結論することができます。

 しかし、それでも嘆くべきは、知識と経験をつむにつれて一般に熱心さが失われていくという事実です。私もこれが自分自身の心に起こったのでなければ、とてもありえぬことだと考えたでしょう。しかしこのこと自体、私に自分が汚れ堕落し果てていることをさらに強く確信させてくれるのです。自分にへりくだりの足りぬことが私をへりくだらせ、自分の不熱心さそのものが私をかき立て覚醒させ熱心にさせるのです。とはいえ、時には言葉に尽くせぬ光と力が射し込んでくる、魂のよみがえるようなときがあります。これは最初の喜びのときほど心を興奮させないかもしれませんが、神の恵みがより明確に示されたところから生ずるので、より心を刺し、より人を変え、より人を動かす力を持っています。こうした恵みの一瞬と、これが退いていくとき私たちが落ち込む怠惰な愚鈍さをくらべると、私たちはこの罪と誘惑のみじめな状態に何の未練も感じず、死と永遠こそ望ましいものと思うようになります。そこではこのような戦いはやむでしょう。もはや罪を犯すことも道をはずれてさまようこともなく、主のありのままの姿を目にし、永遠に主と似た者となることでしょう[Iヨハ3:2]。

 では、どうすればこの光輝く瞬間を長引かせることができるのか、どうすればこれを新たに受け、取り戻すことができるのか、と問われるならば、私たちには信仰と勤勉が命じられています。定められている恵みの手段を注意深く用い、悪を行なったり悪を引き起こしたりするような機会を避けるよう用心すること、そして特に隠れた祈りに精励することです。そうすれば主は私たちの益にとってよしと見たもうだけ、このような恵みのときを与えてくださるでしょう。なぜこうした光と力が時たまにしか私たちに与えられてはならないのか、主は最もよく御存知です。ここで私たちは信仰によって歩み、訓練と試練を受けるべきなのです。しかしやがて私たちは冠を受け、主の与えられた願いがはちきれんばかりに満たされるときが来るでしょう。

敬具

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