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注記
(1889年1月)『キリスト教世界』誌は、《「福音的」説教に関する会議》という、11月に開かれた得体の知れないものに論評を加えて、実に正確にもこう述べている。「それは何もないところから発して、何もないところを目指している」。これは、当世風のつかみどころのない神学の大方を、ものの見事に云い表わした言葉といえよう。私たちのものの見方と『キリスト教世界』のそれとは、全く正反対ではあるが、私たちは同誌が達したのと同じ結論に達している。すなわち、多くの人々が福音主義という触れ込みで大衆につかませたがっているしろものは、「その知的側面においては、いかなる必須要素も含んでおらず、いかに遠く隔たった信仰内容とも平然と共存できるのである」。人は何を信じてもかまわない。すべてを信じても、何も信じなくても、「福音派の」一翼をになうことができる――そう彼らは云う。非国教会の中には、この広教主義を暴露し、拒絶しようという正直な、歯に衣着せない福音主義者はだれひとり起こらないのだろうか? 見張り人は全員眠っているのだろうか? どの教会も無関心なのだろうか? しかしながら私たちは、やはり自分に敵対する同時代人の文章を引用することによって、自分の判断の正しさを証明できよう。そうした証言は、到底私たちへの好意で目が曇っているものとは思われないが、こう云っているのである。「今や、スポルジョン氏がほぼ正鵠を射ていたことは、あり余るほどのしるしによって立証されている。彼によると、非国教会の説教者たちの間には、その父祖たちによって保たれていた――そして、氏がなおも支持している――教理的基準からの非常に際立った離反が見られるとされたが、その離反は日に日に顕著なものとなりつつあるのである」。だが今となっては、この証言も必要ではない。というのも、最初は私たちの非難を否定していた教役者たちも、今やそうした段階はとうの昔に越えてしまい、私たちが反対した事がらが真実であると認め、その離反を幸いな前進であり、賞賛に足る進歩であり、弁護の必要もないことであり、さらに先へ押し進めるべきことであると誇りにしているからである。そうではないだろうか? そうだとしたら、この悪しき時の咎は、だれの頭に帰されるだろうか? 現代の「福音派」の指導的立場にありながら、これ以上ないほど明白な異端をもてあそんでいる人々は、主の現われる日、そのことゆえに申し開きをしなくてはならない。
ジョン・バニヤン[1628-88]が、一千馬力の機関車によって《下り勾配》論争に引きずり込まれ、まるで私たちの抗議に反対している――あるいは、きっと反対したであろう――かのように云い立てられているため、私たちは、彼の著作を調べてみようと思った。果たして彼は、何らかの信条に反対したことがあっただろうか。そして、私たちの読者の方々であれば予想がつくであろうように、私たちはたちまち彼が、自らの信条を有していたことに気づいたのである。それも、桁外れに充実した、明瞭な信条である。私たちの反対者のうち、いかに向こう見ずな者であっても、この《正直太郎》を誤りの側に置こうなどとするのは、冗談のように思われる。そして、決してふざけた気分からではなく私たちは、そうした不体裁な実験を繰り返そうと思っている人に向かって、こう提案するものである。まずバンヤン自身の《信仰告白》をよく調べてみるがいい、と。もっとも私たちは、残念ながらそうした人々が、この任務を肯んじないのではないかとなかば本気で思っているため、彼らに1つ贈り物をすることにしよう。《選びの教理》に関する彼の信仰内容である。たとい彼らがそれを読むことに喜びを見いださないとしても、そうすることを喜ぶだろう他の人々がいるであろう。いずれにせよ、彼一流の素朴なしかたで述べられた、この聖書的な教えには一考の価値がある。『天路歴程』の著者は次のように書き記している。
《選びについて》 「1. 私の信ずるところ、選びは無代価の、永遠のものであり、恵みと、変わることなき神のみこころとに根拠を置いている。『それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります』(ロマ11:5、6)。『神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる」』(IIテモ2:19)。『私たちは彼にあって御国を受け継ぐ者ともなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです』(エペ1:11)。
「2. 私の信ずるところ、この聖定、選択、あるいは選びは、世界の基が置かれる前になされた。そして、そのようにして、選民自身が自らの存在を有する前になされた。というのも、『死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方』(ロマ4:17)は、物事が存在するようになるのを待つまでもなく、ご自分の永遠の目的を決定なさったからである。万物をその知恵によって御前にあらせておられるお方として、神は世界の始まる前にご自分の選択を行なわれた(エペ1:4; IIテモ:1:9)。
「3. 私の信ずるところ、選びの聖定は、私たちのうちに予知したわざを、その選択の根拠あるいは理由とするというようなことでは全然ない。その聖定の中には、その人々のみならず、彼らの救いに伴う種々の恵みも含まれているのである。そして、そういうわけであればこそ、私たちは、『御子のかたちと同じ姿に』(ロマ8:29)あらかじめ定められていると云われているのである。私たちが『御前で聖く、傷のない者』であるからではなく、神が私たちを『愛をもって御前で聖く、傷のない者に《しようと》され』たからである(エペ1:4 <英欽定訳>)。『私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです』(エペ2:10)。神は、私たちをキリストのうちに選ぶことによって、私たちを祝福してくださった[エペ1:3-4]。これにより、やはり私たちが今あずからされている救いと招きは、永遠の昔に私たちがキリスト・イエスにあって与えられたもの以外の何物でもないのである。これは、私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことであった。エペ3:8-11; IIテモ1:9; ロマ8:29。
「4. 私の信ずるところ、キリスト・イエスこそ、その方のうちにあって選民が常に考えられるところのお方であり、キリストを離れては、いかなる選びも、恵みも、救いもない。『神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。……それは……時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。このキリストにあって』(エペ1:5-7、10)。『この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです』(使4:12)。
「5. 私の信ずるところ、神の選びには、彼らの回心と永遠の救いを妨げうるような、いかなる障害も含まれてはいない。『神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。……神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです』。云々(ロマ8:30、31; 33-35)。『では、どうなるのでしょう。イスラエルは追い求めていたものを獲得できませんでした。選ばれた者は獲得しましたが、他の者は、かたくなにされたのです』(ロマ11:7)。『しかし、イスラエルもユダも、その神、万軍の主から、決して見捨てられない。彼らの国は、イスラエルの聖なる方にそむいた罪に満ちていたが』(エレ51:5)。祈りの中でアナニヤが、パウロを助けるのをしぶり、『主よ。私は多くの人々から、この人がエルサレムで、あなたの聖徒たちにどんなにひどいことをしたかを聞きました。彼はここでも、あなたの御名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限を、祭司長たちから授けられているのです』、と云ったとき、神は何と仰せになっただろうか? 『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です』(使9:13-15)。
「6. 私の信ずるところ、いかなる人も、神の召しによらなくては、神の選びを知ることはできない。神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器[ロマ9:23]は、そうした召しにおいて、そのあわれみにあずかる権利を主張するのである。『神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです[ホセ2:23]。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ」』(ロマ9:24、25)。
「7. それゆえ、私の信ずるところ、選びは、私たちをキリストへ、また恵みと栄光へと導くために神から定められている手段の邪魔をするものでも、妨げるものでもない。むしろ、そうした手段の使用と効果を必要づけるものである。なぜなら、彼らはそのような方法によって天国へ至らされるように選ばれているからである。すなわち、有効証明の目的たる、イエス・キリストを信ずる信仰によってである。『ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい』。IIペテ1:10; IIテサ2:13; Iペテ1:12」。
注記
(1889年5月)友人方も気づくであろうように、報道機関は躍起になって私たちを、彼らにも理解できるような教界内の立場につかせようとしている。私としては、一キリスト教会の牧師であるだけで十分なのだが、彼らにしてみれば、私たちが何らかの大きなキリスト教団体の1つに加入しなくては間違いであると思えるらしい。それは、ある日長老派だったかと思うと、翌日には監督派になる。だが私たちは、教理や教会政治について、これまで常に保持してきた立場を変更するなどということは、言葉によっても行動によっても全く示唆していないのである。いざ私たちが変わるときには、私たちの友人方はそれを世俗の新聞紙によって教えてもらう必要はないであろう。そのいざは、おそらく今世紀中には起こらないであろうし、来世紀にも起こらないであろう。だが、ある人々はまだ、バプテスト同盟のような団体を離脱したからといって、私たちの立場や意見にいかなる変化も伴うわけではないということが、ぴんと来ないらしい。バプテストの教役者たちは、個々に独立した教会の牧師であって、その個々の教会は、他の諸教会と連携するも、それらとの関係を絶つも、自ら最善と判断したところに従って自由にできるのである。だが、その教役者も教会も、自分たちが選びとるか、つき合いを断つかする各種協会によって何ら左右されることはない。私たちは、私たちの主イエスに属し、真理を保持しているあらゆる教会との交わりを保っているが、あの方針またはこの方針へと変化しようというような考えをいだいたことは一度もない。いわんや英国国教会に加入しようなどと夢見たことは決してない。
バプテスト同盟の議長であるクリフォード博士は、フィンズベリーのサウスプレース教会で、一連の日曜午後の講演の1つを行なった。この会堂に集っているのは、ユニテリアン派も裸足で逃げ出す過激な会衆である。彼が壇上で席を同じくしたヴォイジー氏、ピクトン氏その他の人々は、神学的にきわめて厳密でない立場をとっている。そして彼が登壇したのは単に一個人の資格においてではなく、作成されたビラには、明確にバプテスト同盟議長と記されているのである。この会堂には何枚かの銘板が飾られており、そこに記されている名前は、モーセ、ヴォルテール、イエス、ペイン、ゾロアスター等々である。私たちの主を、トマス・ペインやヴォルテールと同列に置くという冒涜的な所業は、キリスト者の精神に名状しがたい感情を生み出させ、いかにして主イエスのしもべであると告白する人物がこのような場所と関係できるものか、頭をかかえこませるものである。正道を外れた、あまり世に知られていない人々に対して私たちが苦情を述べたとき、同盟が恨みに思ったのも不思議はないであろう。その議長からして、その在任中に、これほど公然と、私たちの主の神性を否定する人々と交際しようとしているのだから。この紳士が議長を務めているバプテスト派の団体は、その沈黙によって議長の行動を裏書きするほど、怠惰で骨抜きにされてしまったのだろうか? 本当にそうだろうか? 自分たちの連合を保つためなら、いかなる放縦さも寛大に許されるのだろうか? 私たちは、多数派が大目に見るもの、あるいは称賛するものとして、これほど悪いものはどう考えてもありえないと思う。「《下り勾配》」において、列車は猛速度で驀進する。また1つの駅が通り越された。次は何だろうか? そして、その次は?
ある人は云う。私たちの教会員たちの大多数は、昔からの福音を愛しているのだ、と。私たちはその人に同意したいと思うが、それほど強い確信は持てない。もしも一般会員の中にそれほどの健全さが行き渡っているとしたら、彼らは講壇に過誤がはびこっているのを、また会衆が子どもじみた娯楽漬けになっているのを黙って耐え忍んでいるだろうか? 残念ながら、この疫病は祭司たちの間ばかりでなく民の間にもあると思う。それでも確かに、人々の中には、平穏無事を愛する卑怯心をかなぐり捨てて、私たちの主のために、主の真理のために語る者がいるに違いない。臆病の霊は多くの人々の上にあり、彼らの舌は麻痺している。おゝ、願わくは真の信仰と聖なる熱心が噴き出すように!
4月12日付けの『日曜学校新聞』の社説欄は、以下のようにしめくくられている。――「今やほぼすべての著述家たちが、聖書には人間的な要素があると認めており、そのため詳細においては、人間的な弱さという問題が生ずることを見てとっている。先日、われわれのもとには、ある友人からの手紙が届いた。そこにはいくつかの綴り字の間違いがあったが、その手紙は、きわめて完全に私たちの友人の考えを伝えてくれていた。そのように、たとい聖書の中に何らかの不正確さや、何らかの間違いさえあるとしても、それにもかかわらず聖書は、私たちに神の思いとみこころを伝えているのである。暗い夜のともしびは、たとい缶にへこみがあっても、硝子の一枚にひびが入っていようと、足元に光を照らしてくれるであろう」。
《日曜学校連盟》は、私たちの子どもたちに、聖書が、ひびの入った古角灯のようなものだと教えるつもりなのだろうか? このことに私たちは、同連盟の出版物の監督の責任を負っている人々の注意を喚起するものである。確かに、委員の中には、そのような教えを看過できないと考える人々がいるに違いない。
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