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1888年4月-
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進歩的神学

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C・H・スポルジョン

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 進歩の時代には、宗教上の種々の意見も、鉄道列車並みの速度で移り変わる。この数週間のうちに、多くの人々は、非常に特殊な種類の、公然たる進展を行なった。私たちが公然たる進展と云うのは、実際のところ、こうした人々は、単に長年の間ひそかにいだいていた種々の過誤を、今や公言するようになっただけではないかと思えるからである。だが、それは何たる暴露であろう! ここに見られるのは、ひとりの「穏健派」が、大胆きわまりない言葉で、自分が「ほかの福音」に進展したと宣言する姿なのである。また、真理に対して烈々たる愛をいだいていると目され、非常に尊敬されてきた別の人物が、その真理を、その最も悪意に満ちた怨敵さながらの陰険なしかたで、ぐさりと突き刺している姿なのである。だれよりも歪んだ人々のうち何人かは、狡猾にも、自分が正統的立場に立っているかのように見せかけようとしているが、その一方で、それよりも勇気のある他の人々は、その本性を現わして、彼らの異端の毒々しさによって私たちを唖然とさせている。物事は光によって明らかにされる。そして、いかに私たちが、現在の論争によって発覚した種々の歓迎されざる事実を嘆こうとも、私たちはそれらが発覚したことに感謝すべきである。というのも、私たちは、自分がどこにいるか、また、いかなる者らと連合しているかを知っておくに越したことはないからである。

 進歩的な福音という観念が、多くの人々を魅了しているように見受けられる。私たちにとって、その概念は、たわごとと冒涜の合いの子とも云うべきものである。それは、福音が、膨大な数の人々の永遠の救いにとって力あるものであることが見いだされてきた後の今となっては、相当に手遅れであるように見受けられる。また、福音が、知恵に富み給う、変わらざる神の啓示である以上、それを改良しようなどというのは、かなり無謀なことに思える。これほど増上慢な務めを自らに課した紳士たちのことを心の目の中に思い描くとき、私たちは半ば笑いたいような気がする。この図式は、もぐらたちが太陽の光を改善しようと提案している姿にそっくりなのである。彼らは、その巨大な知性によって、《無限者》の意図を孵せるのだという! 彼らが、隠された諸真理に思いをひそめている姿が目に浮かぶ。彼らは、そうした真理に自らの優越した天才の助けを差し延べ、それらを発育させてやろうというのである!

 だが、これまでのところ彼らは、大して育てるに価するようなものを孵してはいない。彼らのひよこたちは、あまりにもローマ品種めいていて、時々私たちは、イエズス会の陰謀こそ、こうした「現代思想」の黒幕ではなかろうかと、真剣に疑ってしまうほどである。異様なことに、自由思想によって人々が達しつつある終着点は、迷信という通り道によって他の人々が到達したものと同じなのである。行ないによる救いこそ、この新しい福音の1つの明確な教理である。多くの形によって、このことは公言され、自慢されている。――ことによると、それは正確にその通りの言葉ではないかもしれないが、その種々の宣言は全く取り違えようのないものである。ガラテヤ人的な異端が猛烈に私たちに襲いかかっている。美徳と道徳の名を借りて、信仰による救い、および無代価の恵みによる救いは容赦なく攻撃されている。それと同じくらい暗闇の子にほかならないのは、この《新しい煉獄》である。人は、これほど素晴らしい救いをないがしろにした場合でも、のがれることができると教えられているのである[ヘブ2:2参照]。もはや、「きょう、もし御声を聞くならば」[ヘブ4:7]、と呼ばれることはない。というのも、別の状態になる明日が、全く同じ用途にかなうからである。もちろん、もし人々が、来たるべき世において、次第に罪と滅びから引き上げられることがありえるとしたら、人情からして私たちは、その過程がすみやかに進むように祈らされるであろう。私たちはしばしば、国教会の一部の司祭たちの間で、「死者のための徹夜祈祷」がなされると聞く。そうしているのは、もっぱら儀式派であるわけでも、主に儀式派であるわけですらない。というのも、先日、こうした観念を信奉する著名な人物が、悪魔のために心からの祈りをささげたからである。そして、あらゆる罪深い者の復旧という説に立てば、彼の祈りはごく自然なものであった。死者のための祈りと、悪魔のための祈り! ノックスとラティマーの亡霊よ、あなたがたはどこにいるのか? 死者のための祈りから、やがて善人たちに謝礼を払っても死者のための特別嘆願をしてもらうことに移るのは、何と容易なことであろう! もちろん、自分の物故した妻がその災いから出られるように一時間祈りを積んでくれる敬虔な人物がいるとしたら、愛する夫は、その人にただで嘆願させようとはすまい。それほど貧乏くさいことは絶対にすまい。私たちのプロテスタントの父祖たちが、「煉獄どろ」と読んだものが、再び私たちを襲おうとしている。すでにそれは、敬虔な意見という表玄関からではなく、異端的な思弁という裏口から忍び込んでいるのである。

 これですべてではない。というのも、私たちの「改良者たち」は、私たちがずっと待ち望んでいたような天国の希望を、ほぼ跡形もなく抹消してしまったからである。云うまでもなく、義人の報いは、悪人の刑罰が引き続く期間を超えて存続することはできない。その双方が、同じ節の中で、同じ神聖な唇によって、「永遠に」と形容されているのである[マタ25:46]。ならば、「刑罰」が「代々限りない」ものであると主張されているように、「いのち」もそれと同じでなくてはならない。これよりもさらに悪いことに、――これより悪いことがあればだが――こうした「改良者たち」のある者らの教えによると、御父によって祝福されている人々でさえ、決してはなはだしく祝福されてはいないのだという。というのも、最新の情報に従えば、そうした人々でさえ、来世では一種の煉獄的な浄化をこうむらなくてはならないからである。十九世紀の神学者たちの創意発明の才には、程度の差がある。だが、私たちが思うに、こうした創意発明の才が勝手気ままにふるまわされていることこそ――たといそれがいかに穏健な形をとるときでさえ――、こうした害毒全体の根なのである。何が次には教えられることになるだろうか? そして、何がその次に来るだろうか?

 人々は本気で、世紀ごとに福音があると信じているのだろうか? あるいは、五十年ごとにキリスト教信仰が異なっていくと信じているのだろうか? 天国には、種々雑多ないくつもの福音によって救われた聖徒たちがいることになるのだろうか? こうした人々が同じ歌をともに歌うことに同意するだろうか? また、それはいかなる歌になるだろうか? 異なる土台に基づいて救われ、異なる諸教理を信じながら、彼らは永遠の和合を楽しめるだろうか? それとも、天国そのものが、多種多様な信仰同士の論争が繰り広げられる新たな闘技場となるのだろうか?

 神学が常に発展していくと仮定すると、私たちは人間の知恵に多大な恩義をこうむることになるであろう。神はその大理石を提供するかもしれない。だが、人間こそ像を彫刻すべき者なのである。神がこれらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださった[マタ11:25]などということは、もはや真実ではなくなるであろう。むしろ、幼子たちがどうしようもない困惑のうちに失われ、肉的な知恵が大喜びするという結構な時世を迎えるであろう。科学的な人々は、たとい神のイスラエルを否定しさえしても、私たちのイスラエルの真の預言者となるであろう。また、聖霊が心のへりくだった者をお導きになるかわりに、私たちは「時代の精神」が――それによって何が意味されるにせよ――即位するのを目にするであろう。「この世は自分の知恵によって神を知ることがない」*、と過去の時代の使徒は云った[Iコリ1:21]。だが最近では、それと逆のことを私たちは経験すべきなのである。種々の新しい版の福音が人間の知恵によって案出されるべきであり、私たちは、神の考えとは違う考えをした「思慮深い説教者たち」の後を追っていくべきなのである。まことに、これこそ人間の神格化である! また、現代人はこのことからさえ尻込みしない。読者の方々の多くにとっては、すでに知られたことかもしれないが、いま教えられつつある考えによると、神ご自身は人間性の完成形であり、私たちの主イエスと私たちの唯一の違いは、主こそ自分が神であることを見いだした最初の人間だった、ということにある。主は、連帯して神的なものたる種族の中の、一個人にすぎなかったのである。

 いま私たちの間に解き放されている、こうした狂気の霊に対して抗議することは、純然たる頑迷固陋さであると考えられている。汎無関心主義が潮のように興隆しつつある。それをだれが妨ぎえようか? 私たちはみな1つになるべきなのである。たとい私たちがほとんどすべてのことについて一致していなくとも関係ない。過誤を非難するのは兄弟愛の侵害である。聖なる愛よ、万歳! 黒は白であり、白は黒である。虚偽は真実であり、真実は虚偽である。真実と虚偽は1つである。われわれは手を取り合って、二度とあの野蛮で、古臭い、人が意見を異にせざるをえない教理の数々など口にしないようにしよう。善良かつ健全な人々は、自由のゆえに、彼らの「進んだ兄弟たち」の盾となってやるがいい。あるいは、彼らをとがめるにしても、少なくとも、穏やかに、賛意を示すような口調でそうするがいい。結局のところ、私たちが物事を眺める視点の違いのほかに、何の違いもないのだ。すべては物の見方なのだ。あるいは、野卑な人間に云わせれば、「すべては俺の見方なのだ」! 開かれた同盟を保つためなら、いかなる形式の健全な言葉に対しても死に物狂いで戦おう。そうした言葉は、神のことばの諸教理を否定するわれわれの自由に歯止めをかけるからだ!

 しかし、虚偽の教理の発明者たちとの交わりにとどまっていたいという、のぼせあがった人々の克服しがたい決意のために、もしも熱心な抗議が何も成し遂げないとしたらどうなるだろうか? よろしい。少なくとも私たちは自分の義務は果たしたことになるであろう。成功するかどうかは私たちの責任ではない。たとい疫病を食い止めることはできなくとも、少なくとも私たちはそれを一掃しようと試みつつ死ねるであろう。いかなるアリウス主義に対してあげられる反対の声も、少なくともそれが大々的にはびこるのを少しは妨げるのである。真の証人が私たちの言葉によって強められるか、よろめいているひとりの人が倒れずに守られる場合が一度でもあるかもしれない。確かに私たちの証しは軽蔑を受けるかもしれないし、実際、その証し自体、あざけられて当然なほど弱々しいものかもしれないが、だがしかし主は過去の時代、この世の弱い物事によって勢力ある者たちを打ち負かしてこられたし、再びそのようになさるであろう。私たちは、主が生きておられ、支配しておられる限り、教会についても、真理についても絶望することはありえない。忠実な者たちがいま召されている争闘は、宗教改革者たちが携わったものに劣らず至難のものである。この問題全体には、微妙なものが多大に絡んでおり、剣が羊毛の袋を叩き斬ったり、的をはずすかのように思われる。しかしながら、平易な真理は、最後にはその活路を切り開き、狡猾な政策は自らの弔鐘を鳴らすであろう。

 昔ながらの福音を愛する者たちが現在戦っている相手は、この人であるとか、あの評議会であるとか、あの同盟というわけではない。相手は、いま、キリスト教の名を借りて、キリスト教の領土内で折り合いをつけようとしている、一団の不信仰である。その精神は、大なり小なり、あらゆる教会の中にある。実際、それは空中にあるように思われる。空中の権威を持つ支配者[エペ2:2]は、しばらくの間、異常なしかたで解き放されており、敬虔な人々すら惑わし、その陰険な教えに一も二もなく同意しようとする、唯々諾々たる思いをした者たちのうちで、大いなる勝利を得つつある。このゆえに私たちは、以前の多くの時代においては神の恵みの福音の牙城であったバプテストの諸教会について大きな恐れを感ずるものである。神の真理を公然と告白している団体であれば、不信仰の精神に取り組むことが、少なくともある程度までは可能である。だが、いかなる教理も決定されておらず、何ら確定したものを信ずる告白を行なっていない集団は、戸口という戸口を開け放した家にも似て、汚れた霊が住みつくのを招いているようなものである。私たちは過誤の精神を、その抽象的な形において取り扱おうとした。だが私たちは、バプテスト派のなすべき具体的な行動として、《福音主義的な》基準を受け入れることも勧めた(私たちは、バプテスト派が、全体としては信仰において健全であると信じている)。その諸教会と各協会のほとんどは、そうした基準を有している。では、それらから成り立っている同盟が、なぜそうしてならないだろうか? この問題は、来たるべきバプテスト同盟の総会において提示されることになっている。《福音主義的な》基準を設定しようとの提案が実行されるとしたら、私たちは非常に喜ぶであろう。というのも、それは、虚偽の糸口となっている党派に対する、1つの叱責となるであろうからである。そうした党派は、最近ことのほか声高に語るようになってきている。だが、もしこのことが実行されないとしたら、それ以外の、より強硬な手段が採られなくてはならない。その手段とは、忠実な人々が、自分たちの証しを保つことができ、かつ、悪との交わりによって害されずにすむようなものであろう。忠実な人々は、そのための手立てを取るであろう。主のために実際的な働きを実行でき、かつ、いかに熱心になっても結局それが虚偽の教理を孵させる者らに乗っ取られるだけの巣作りにすぎないのではないかなどという鬱屈するような疑いをいだかずにすむようにするであろう。おそらく、バプテスト派の中における、きよめの過程は長く、痛ましいものとなるかもしれない。だが私たちは信じている。それを耐え抜ける恵みが真の信仰者たちに与えられ、それが成し遂げられることになるか、さもなければ、彼らが基準もない同盟から出て行き、神の真理を擁護するために自ら分離していくことになるであろう、と。残念ながら、他のいくつかの教派に対する展望は、到底それほど有望なものではないと思う。そうした教派の場合、恵みを有する残りの民に求められるのは、現在彼らが有しているよりも、「さらに大きな希望」、すなわち、それでも虚偽の軍勢は打ち負かされるのだ、この戦いは主の戦いなのだから、という希望にほかならない。


注記
(1888年4月)

 現時には、休みない祈りが神の民によってささげられるべきである。4月23日にはバプテスト同盟の総会が開かれるが、そのとき同会の前に提議される大問題はこのことであろう。――「この《同盟》は、《福音主義的な》基準を持つべきか否か」。私たちは、この問題が落ちついた雰囲気のもとで討議され、その討議が正しい種類のものとなることを信ずる。確かに、他のあらゆるキリスト教団体はその信仰を公言しており、バプテスト同盟も同じようにすべきである。その信仰内容がいかなるものであれ、それをはっきりと認めるがいい。

 私たちは、この《総会》が、何らかの個人的な考察によって本題からそらされないものと信じたい。あの譴責を考慮に入れる必要はない。やがてその目的は、人々の注意をそらすために彼の名前と抗議方法を用いるよりも、一万倍も譴責されることになるであろう。もし評議会が、さらなる譴責の種類を導入する決議をまだ有しているとしたら、やりたいようにさせるがいい。だが、私たちは、一瞬たりとも、以前のその公式決定を覆すために費やされないように希望する。時間は、もっと重大な事項のために費やされるのがよいであろう。

 多数決により、いかなる《福音主義的な》基準も持たないことになったとしたら、そのときには争闘が始まるであろう。人々の間には同盟から脱退したくないという強い思いがあるが、利用できる限りのあらゆる手段によって改革を求め続け、その試みが完全に絶望的になるまではそうしたいという力強い決意がある。私たちは、こうした決意をしばしば聞いてきたし、それを支持するため種々の力強い議論が用いられてきた。確かに、多数の者が少数の者たちを前にして脱退しなくてはならないというのは、かなり筋の通らないことのように思われる。いずれにせよ、それぞれの人数がどれほどになるのか見守るのが賢明であろう。

 私たちの影響力を用いて、この討議を妨げてほしいという訴えがなされてきた。だが、それは馬鹿げたことである。私たちの影響力でこの討議を妨げることなどできなかったし、できたとしても、私たちはそれを妨げようとは思わなかったであろう。こうした友人たちは、私たちが言葉遊びをしているとか、いかなる厳粛な確信も持っていないと、本当に考えているのだろうか? こういうわけで、《福音主義的な》基準を強く望んでいる兄弟たちは、バプテスト同盟の今回のこの集会でそれを求めることをやめるどころか、それが手にはいるまで、決して自分たちの要求を打ち切ることはしないであろう。私たちは分岐点にさしかかっているのであり、旧派と新派はこれ以上は相伴って先へ進めないのである。ならば、できる限り摩擦を少なくして別れさせてやるがいい。

 反対者たちによる様々なでっちあげに答えることは、噂に答えるなどということをしなくとも十分に負うべき責任となすべき務めを有している者にとって、あまりにも大儀なことである。もしだれかが責めれば、多くの者が同意する。そして、その間、私たちの心は、人の毀誉褒貶などを越えて、神のみこころの上に安らぎを見いだしているのである。

 疑いもなく、イスラエルは煩わされており、その悪を暴く者は、その煩いの種であるとして非難されている。だが、実は、私たちのイスラエルを煩わしているのは、私たちの間に異様な諸教理を持ち込んでいる人々なのである。もし偽りの教えがはじき出されるならば、平和と繁栄が戻ってくるであろう。霧が失せ去って、しばし奇妙なものにのぼせ上がっていた兄弟たちが、再び物事のありのままの姿を見られるようになるときには、彼らはもはや、納屋の床をきよめることに怒りを発することはなく、そのことのゆえに神をたたえるようになるであろう。

 私たちは、『信条を持つべきか否か――バプテスト同盟の直面する問題』という題の小冊子を発行しようとしている。この一銭冊子は、最初に「《下り勾配》」について著述した兄弟によるものだが、この大議論に関心をいだくあらゆる人によって読まれてしかるべきである。

 ギルフォードでは、「《下り勾配》」論争にからんだ興味深い出来事が起こった。最近、同市のキリスト教青年会が「《下り勾配》」問題に関する会議を開いたところ、その討論に加わったほとんどの人々が、自分自身、「《下り勾配》」に立っていることが明らかになったのである。その結果、同市およびその近隣に住む、真理を愛する人々は奮い立ち、公の集会が召集され、バプテスト派およびその他の《福音主義的な》諸教会の教役者や会員たちが大挙して出席し、私たちに同調する強力な決議が、たった二名の反対意見しか出さずに通過したのである。

 YMCAは、その討論会がこのような幕切れを迎えようとは、ほとんど予期していなかった。だが、これは、物事を光で照らし出すことがいかにすぐれているかを示している。「《下り勾配》」鉄道が脅える唯一のもの、それは光である。


注記
(1888年5月)

 福音主義同盟は、あらゆる教派のキリスト者たちを糾合し、彼らの共有する信仰について一致した証しをさせることによって、真理の進展のため大きな役割を果たしてきた。その記念すべき集会において、おびただしい数の熱心な聴衆を前に、「変わりえぬ福音」および「昔ながらの信仰の証拠としての経験」という二回の講演を行なうことができたのは、私にとって大きな特権であった。私は、いくつかの非常に心暖まる言葉を個人的に受け取り、圧倒的な賛同のしるしを公には轟かせてもらった。この群れに属するあらゆる種類の人々からの手紙、また、キリスト教会のあらゆる教派からの手紙によって示されているのは、死活に関わる諸教理を巡る論争に、彼らが並々ならぬ関心を寄せているということである。いかなる方面にも蛇がシューシュー云っている音は聞こえるが、それよりはるかに大きく聞こえるのは、女の子孫[創3:15]の声である。今は陣痛の時だが、そうしたすべてから生まれ出る結果は、真の信仰者たちが増加し、明らかに現わされるということであろう。一致を破ることについて云えば、従来いかなるものにもまして大いに真実な人々の一致を押し進めてきたのは、偽りの人々との関係を絶つことであった。

 こうした騒動の一切合切は、一体何なのだろうか? そこに、何か争うべきものがあるのだろうか? もしないとしたら、争いそのものは深刻な悪であり、かの大いなる《審き主》の前で責任を問われるべき罪である。だが、もう一度はっきり云うが、私たちは決して、何か狭量で、偏狭な教えの切れ端のために争っているのでも、奇矯な個人的信念のために争っているのでもない。聖徒にひとたび伝えられた信仰[ユダ3]だけのために戦っているのである。この信仰が襲撃されているのである。不信心が空気中にみなぎっているかに思われる。それは、教職層のみならず、執事層においても、諸教会の会員層においても見いだされる。二義的な諸真理に関する不信心ではなく、啓示の中心的な教えに関する不信心が広まっているのである。私たちが求めたのはただ、自分の属するキリスト教団体の枠内で、目に余るような過誤が黙認されないようにしてほしい、ということであった。私たちは、こうした要求が筋の通ったものであると考えたし、それをかちとるために、一致の基礎となるべき健全な言葉の手本[IIテモ1:13]を1つ提案した。それだけで、この大騒ぎが巻き起こったのである。ほんの数年もして、もし真理が再び前面に押し出されるような時期になったとしたら、福音主義に立つ非国教徒たちの中でも、最も際立った団体の1つが、その信仰を宣言するのをためらったなどということは、ほとんど信じがたいことになるであろう。だが、今しも、その団体は、この要求をきっぱり拒絶したいとも、素直にこの要求に従いたいとも思っていないのである。それで、言葉と言葉のすり合わせをしたり、主たる問題以外のあらゆることを討議したり、自らに求められている宣言の代わりに、浅ましいそのまがいものを提供したりしているのである。この稿を執筆している時点で、その《総会》はまだ開かれていないが、私たちはほとんど何の希望もいだいていない。ほぼ間違いなく、自らの信仰を告白するという忌まわしい日を引き延ばそうとする新たな試みとして何らかの手続き上の問題が持ち出されるか、要求されているものの代替物として、あの評議会の貧弱で異論の余地ある歴史的な言明を通過させようという死に物狂いの努力がなされるであろう。だが、それは大したことではない。神の真理は立つであろうし、それをいだく者たちは、忍耐によって自分のいのちを勝ち取ることができるであろう[ルカ21:19]。

 博愛と愛についての言葉が、これでもかこれでもかと垂れ流されている。私たちを驚かすことに、こうした点で非常に弁の立つ一部の紳士たちは、そういう言葉を平然と発しながら、自ら名誉ある友と呼ぶ人物に対する、自分たちの不寛容な行為や個人的な怨恨について思い出しても良心に咎められることが全くないのである。そのくらいなら、もっと歯に衣着せない敵対者たちの辛辣な言葉の方が、これほど空疎なおべんちゃらよりはるかに耳に快く響く。しかし不平は云うまい。私たちについて云われることなど何ほどのこともない。だが、広汎な交わりを保つために真理が売り渡されてよいだろうか?

 バプテスト派内部の過誤は、最初に私たちが「《下り勾配》」に関する論考を執筆したとき知っていたよりも、十倍も広くはびこっており、私たちは一言たりとも撤回できない。また、そのあらゆる言葉を、ありったけの力をこめて強調せざるをえない。初め私たちは、このバプテスト派の団体を目標としてはいなかった。というのも、それについては、この上もなく希望的な考え方をしていたからである。だがこの論争は、私たちが夢にも思っていなかったことを暴き出してしまった。願わくは主があわれみにより、多くのさまよえる者たちを連れ戻してくださるように!


注記
(1888年6月)

 私たちをひとかたならず慰めたことに、バプテスト同盟は、自らの身の証しを立て、和解を打ち立てようと心砕く姿勢を見せた。私は、同盟が、この幸いな心持ちにあって、事態を打開することを何か行なうだろうと期待し、それゆえ、それが全く何もしないだろうと述べた自分の預言を大急ぎで撤回したものだった。しかし、何がなされただろうか? 提案者の解釈つきの脚注が付されたその決議と、旧評議会の再選は、万人が正気を保っている中でなされうる、ぎりぎりの線を示したと云えよう。では、それは満足が行くものだろうか? あらゆる人が、他のだれもが理解するのと同じ意味にそれを理解するだろうか? その決議の唯一の取り得は、相対する両派をほんの少しずつ喜ばせていることにあるのではないだろうか? ではそれは、その決議の悪徳であり断罪ではないだろうか?

 しかしながら、今や自分が完全に袂を分かった団体の行動を批判するのは軽はずみなことである。私の進む道は、こうした事態によって、はっきりしたものとなった。残念ながら、私は始めから、バプテスト同盟の改革には望みがないと思っていたし、だからこそ脱退した。今や私は、このことについていやまさる確信を有しており、考えうる限りのいかなる状況においても、復帰しようなどとは夢にも思うまい。そのような交わりの中に留まることが正しいと考える人々はそうするであろう。だが、それとは異なる判断をする人々も僅かながらおり、自らの確信に立って行動するであろう。ともあれ、他のだれがそうするにせよしないにせよ、私は、「彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ」[IIコリ6:17]、という聖句が心に力強く迫るのを感じて同盟と協議会の双方を一度に離脱したのである。次の一歩は、それほど明確なものではないかもしれない。だが、これは余儀なく押し出されて行なったことなのである。単に自分の確信からというだけでなく、自ら外へ出て行かない限り、いくらこの悪に取り組もうとしても全く何にもならないという経験からそうせざるをえなかったのである。

 恵みから出たいのちは、本能的に、心の通い合う交わりを求めるものである。それゆえ、私たち自身のためにも何らかの形の交わりは必要である。昔ながらの陣営から悲しみつつ出てきた人々は、私たちの諸教会をそうすべきではないかと思いつくであろう。だが、そのようなものを正規に設立し、それに加入するよう人々に求めるのは、愚かなことだと思う。それは、自然発生的に――それを希求する人々の求めによって――育っていかなくてはならない。そうするとき、それは本物となり、永続的なものとなるであろう。それゆえ私は、心を同じくする他の兄弟たちから、自分たちはそれを望んでいます、と聞かされるまでは、その方向に動きはすまい。私たちがしばらくの間ひとりきりでいても悪いことはないであろう。そのうちに、自分がどこにいるのか見えてくるはずである。そうなれば私たちは、たとい少数であろうと多数であろうと、合同して自分たちの一段と貧しい兄弟たちを助け、信仰を保持することができよう。私たちの願いは他の人々に反対することではない。互いの手を主にあって強め合えるようになることである。教会が完全に孤立して生きるのは、良いことばかりではない。真の合同には力だけでなく、喜びもある。主のみこころであれば、それはしかるべき時に訪れるであろう。


注記
(1888年7月)

 ある雑誌の編集者が病に倒れ、頭では何も考えられず、その右手では全く筆を握れなくなるとしたら、その雑誌は死の危険のうちにあるといえよう。しかし、たまたま今回、私たちに格別に重い患難がふりかかったのは、この雑誌のある月の号と翌月号の、いわば狭間においてであった。それで私たちは、回復を与え給うあわれみよって、再び自分に任ぜられた務めに着手できたのである。この上もない試練には常に、何かしら恵みを覚えさせられる状況がつきものである。茨の薮には、その薔薇が咲く。主は、いかにぞっとするような様子で黒雲が寄り集まるときにも、そこに輝かしい光を見せてくださる。

 いま真理と過誤との間で荒れ狂っている大いなる争闘について、私たちは何事も行なってこなかったし、ほとんど何1つ企てはしなかった。その唯一の理由は、働くことが全くできなかったということにある。この主題に戻ってきたとき私たちは、多くの寛大な同情の手紙と、少なからぬ数の痛ましい情報を見いだした。ある尊ぶべきバプテスト派の兄弟はこう云っている。「頽廃は、私たちのいかなる者の考えも越えて広がっています。信徒も司祭も、この病に感染しているのです。ですが、万物の《支配者》は、そのすべてを益に転ずることがおできになるでしょう。健全な者たちの多くは臆病で、多くの者らは何をすべきかについて混乱しており、やはりまた多くの者らは何をする気も起こさないほど怠惰です。ですが、この戦いは主の戦いです」。この証しは真実である。だが、確かに、大いなる悪をたちどころに見抜く眼力を有し、それから身を脱そうとするだけの勇敢な堅実さを有する人々も何人かはいるに違いない。もし彼らが自分の義務を思い出させられる必要があるとしたら、残念ながら、彼らは思い出させるだけの価値がない人々なのである。以前であれば、いま幾多のキリスト教同盟内で目こぼしされているような忌まわしい悪の百分の一でも見受けられた場合、神のしもべたちは、「イスラエルよ。あなたの天幕に帰れ」!、との叫びをあげたものである。私たちは、こう云ったならば、またもや悲観主義者と呼ばれるのだろうか? 真理がすべてであった日々は、もはや「洪水前の年月」である、と云うならば。

 祈りへの答えを軽蔑するような説教、若い人々の敬虔さを嘲るような説教、イエスの尊い血について粗野な口の聞き方をするような説教、万人に回心が必要であることを否定するような説教に対する苦情は、至る所からあがっている。私たちは、真実な心に痛みしか与えないような事例のために紙数を割くことはできない。それらは非常に悲しい事がらである。というのも、それらは教理的過誤のきざしというよりは、全くの不敬虔さのきざしだからである。もしもある人をその生き方全体の基調から判断できるとしたら、何例かの場合、問題の人はその頭においてよりも、その心において誤っている。一部の説教者たちは、聖なる物事を蔑んだ口調で語るお墨付きを得ているかのように見える。そして彼らはそれを、古くさい正統信仰という因循姑息な観念を公然と非難するという隠れ蓑のもとで行なっているのである。もちろん彼らは、いったん彼らの教会が十分世俗的になり異端的になりさえすれば、こうしたことを行なっても罰を受けないですむ。信条における過誤など、霊的いのちの欠如や、不信心な嘲笑の存在にくらべれば大した問題ではない。私たちに投書してくれた人々のひとりは、決して偏狭頑迷な人ではないが、こうした見解に立つ人の説教を聞いた後で、思わず立ち上がって、いかなる類の人々が、このような話を公の礼拝の一部として受け入れているのか見回したという。そうした人々がいかなる種類のキリスト者であろうと、まず不思議はない。

 私たちの関係教会の1つでは、バプテスト同盟の総会以来、《煉獄》と《将来の回復》の教えがことのほか明確に宣べ伝えられるようになったため、教会員の多くがそれに驚き、何をすべきかわからずに狼狽しているという。かの有名な妥協はこうした観念を非難したと云われているが、そうした観念の持ち主たちはそう考えてはいないように見受けられる。彼らはそれまでと同じ立場に立っており、以前にまして大胆に自分たちの迷妄を教えているからである。いかにして敬虔な兄弟たちが、そうした人々との交わりにとどまっていられるのか、これは絶えず私たちの口に上る問いである。私たちは一致と調和のためには喜んで寄与したいと思うが、私たちには良心がある。これと同じような種類の執拗な戒告者を有する兄弟たちも、ごく僅かなりとも残されているに違いない。だとすると彼らは、自分たちの交わりが福音の敵たちの顔を立てることに汲々としていることに思い至るとき苦汁を嘗めるに違いないし、無数の魂の血の責任を問われることになるであろう。

 識見すぐれた執事であり説教者である、ひとりの労働者は、自分の名を告げた上で、先に言及した教役者の名前を告げてくれたが、昔からの正統信仰が講壇から軽蔑をもって扱われていることを語っている。「代償的犠牲と《三位一体》はたちまち始末され、小刀が働き出しました。聖書の中から、いくつもの章がごっそりと切り落とされ、そのいくつかの書は決して書かれるべきではなかったと云われました。逐語霊感は完全ながらくたであり、決して許容されるべきではないというのでした」。その結果、空っぽになった会衆席の数はぎょっとさせられるほどであるが、信徒たちは、単なる人数は教会が健康である何の基準でもないという事実で自分を慰めるように告げられているのである。この会堂が閉鎖される見込みはそう遠くない。

 極度の痛みとともに私たちはこうした事例に言及している。だが、まだある人々は、大胆にも、信仰からの背反が起こっていることを否定するか、言及するにも値しないほど些少な背反しかないと云っている。もちろん、その場合、私たちが云ってきたことはみな、ためにする虚偽であるか、病的な精神から出てきた暗鬱な夢となるであろう。だが私たちは、自分が病的でも不真実でもないと主張するものである。むしろ、私たちの周囲にこそ、キリスト教に真っ向から敵対する影響力が様々に働いているのだと主張したい。また、目を開いて見ようとする人ならだれでも、それを見てとれるはずだと云いたい。自分の目を閉じておいて、「見えないよう」、と叫ぶような子どもじみた遊びが、だらだらと続けられてきたのである。いいかげんに、いかに偏見で凝り固まった人々も、自分たち以外のだれもが見てとっている事がらを認めるべきである。

 一、二週間ほど前に、ひとりの教役者が、何か大きな集会の際に、とある会衆派の聖職者の話を聞きに出かけた。そして、その会堂を出て行きしなに、兄弟教役者のひとりにこう云ったという。「結局、スポルジョンが云っていることは正しかったな。教役者たちは不信心者になっているし、今の説教で非常に多くの人が不信心者になるだろうよ。だのに、ここには、この説教を嬉しがっている教役者たちがいるのだ」。その主題は聖書の、特にその歴史的部分の無謬性であった。霊感された教えという土台の全体が放棄されたのである。時間が経てば、また、よくよく考えるならば、昔からの福音を否定するばかりか、キリスト教信仰の根本原理をも否定する人々との交わりにとどまるという自分たちの悪行を、敬虔な人々は痛感するようになると私たちは思いたい。今のような事態がいつまでも続くことはありえない。聖書が神の啓示としての卓越した地位から引き下げられ、そうした罪を犯している人々がなおもキリスト教の教師として尊敬され続けることはありえない。事態が現在のようになり果ててしまったのは驚くべきことである。だが、それが今のままあり続けるとは信じられない。神が生きておられ、ご自分のみことばの正しさを証明なさるお方であられる以上はそうである。


注記
(1888年8月)

 私たちは、『ジョウゼフ・トリットンの回想録』に格別な注意を払うものである。私たちのみまかった友人は、偉大な人物――よく練られた、えり抜きの人物であった。生来、彼は純粋な嗜好と高尚な精神の持ち主だったが、恵みが内側にやって来たとき、それがすべてを洗練し、彼のうちに麗しい聖さを作り出したのである。彼が共鳴することはみな、際立って明確な福音主義的な教えであり、この上もなく実際的な福音的礼拝であった。彼は、いかなる「《下り勾配》」的な傾向にも我慢がならなかった。その温和さからすれば驚くほど決然と彼は偽りのものをわきへ捨てて、真実なものをかきいだいた。トリットン氏は多くの絶妙な賛美歌を作詩した。――豊かな思想と純潔な嗜好を有する人々のための賛美歌である。それらが、ばらばらの真珠のように散らばったままになるとしたら非常に残念なことであったろう。だが恵みによる促しによってトリットン夫人は、そうした賛美歌の多くを集めて、愛する夫君の回想録として残しておくことにしたのである。本書がバプテスト宣教協会のために売られるというのは適当なことである。――そうしたことこそ、彼が私たちのもとに戻って来ることができたとしたら、自ら願ったであろうようなことである。二十年間にわたり彼はバプテスト宣教会の会計担当者であった。そして、1842年のその五十周年式典において最初の公の講演を行なったのである。

 この回想録には、韻文と散文の双方がおさめられている。価格はほんの2シリングにすぎず、その売上は宣教会の収入になるので、読者の多くはホルボーン区ファーニヴァル街十九番まで本書の注文を行なうことと思う。郵送を希望する場合は、もう3ペンス余分に同封してほしい。

 私たちは、すべての友人たちに、ヘンリー・ヴァーリー氏の投書を見てほしいと思う。私たちがこれを見いだしたのは、7月20日号の『御言と御業』誌においてである。これは、見事な、腹蔵のない、兄弟愛あふれる証言である。そして、ここで扱われている主題について、私たちがこの友人と何の会話も交わしたことがない以上、これは、わが国を隅から隅まで巡り歩いている人物、また自分が何を記しているかをわきまえている人物から出た、全く独立した証言ということになる。私たちは、ある新聞に関する一段落は省略するが、その他の部分は一語一句余さず以下に示したい。――

 「『《下り勾配》』に関するヴァーリー氏の見解

 「『御言と御業』誌の編集者殿、

 「拝啓。――私が英国を不在にしている間に持ち上がったこの討論は、私の判断するところ、きわめて重要な問題にかかわっております。そして私は、自分が本国を離れていたために、スポルジョン氏、およびキリストの福音を擁護する側に立つ人々に、心からの同意を示せなかったことを断腸の思いで残念に思うものであります。

 「ここに存する大きな危険は、『《下り勾配》』論争によって提起された重要な問題が、ただただ平和と一致を保たんがためにけなされたり、軽く見られたりすることにほかなりません。現代の精神的諸活動は、神のことばを堅く握ることに好意的ではありません。啓示は変わることのないものですが、それは、『変化こそその好み』と云えるような時代にとって、満足の行く速さで進んでいないのです。それゆえ、いやが上にも必要なのは『健全なことばを手本に』し[IIテモ1:13]、一部の人々が機械的な解釈体系と呼ぶもののためにではなく、『聖徒にひとたび伝えられた信仰のために』熱心に戦う[ユダ3]ことです。

 「現在のように、ほとんどあらゆる主題に関して、腐敗した虚偽の思想が万巻の書物に満ちているとき、私たちが忘れてならないのは、虚偽の思想をはらんでは産み落とす多産な小穴が人間精神であるということです。それは、神のことばの根本的な諸原理という限界と、規律と、導きを拒むときには、そうしたものとならざるをえません。キリストを信ずる信仰こそ、執拗に攻撃されているものであり、私たちが執拗に擁護しようとしているものなのです。

 「最近のある例を知ってほしいと思います。北部のある町で、とある会衆派の教役者が、ひとりの兄弟と会話する中で、まもなくやって来る教会の日曜学校記念日についてこう云いました。『私が賛美歌を選びます。校長や教師にはまかせません』。『なぜです?』、と尋ねられて、『そうですな』、とこのにせ教師は答えました。『ほとんど間違いなく、彼らは、私が自分の教会で歌うことに反対するような賛美歌を選ぶだろうからですよ』。『ほほう。それはどんな賛美歌のことを云っているのですか?』、と兄弟教役者が尋ねました。『そうですな』、とこの会衆派の教役者は答えて、『「千歳の岩よ、わが身を囲め」だの、「わが魂を愛するイエスよ」だの、「血潮満ちたる泉ありて」だのといった賛美歌ですよ。こんな賛美歌を私の教会で歌わせるわけにはいきませんよ』。

 「さて、残念ながら私は、会衆派同盟には、この食わせ者を処分する力はないのではないかと思います。もしこの男が、自分の牧会する教会に向かって、こんな賛美歌を歌わせたくはないと告げたとしたら、疑問の余地なく彼は二度と教役者として選ばれはしないに違いありません。過つことなきみことばは、こうした食わせ者の姿をありありと描き出しています。『しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端を《ひそかに》持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています』(IIペテ2:1)。

 「この食わせ者は、その破滅的な異端をひそかに持ち込んでいます。すなわち、教役者としての自分の立場が安泰になるまで、自分の見解を教会から押し隠しているのです。こうしたふるまいの不正直さは歴然としています。私は、教役者たちが、自分たちの選びのもととなった贖いを否定するような迷妄へと漂い流されていくことは理解できます。だが、そのような場合、公明正大なふるまいを心がける人であれば、たちどころにこう云うはずです。『私はこの教会を去らなくてはならない。私の見解は変化した。だが、そのような変化があったからといって、私が仕えている教会が信奉する教理や教えに関する私の責任を放棄してよいことにはならない』、と。

 「なぜこうした人々は中立の立場を取って、自分自身の演壇の上から自らの現代的観念を発表しないのでしょうか? 人が、キリストの福音の教理に明白に肩入れし、結びついている演壇あるいは講壇を受諾することによって、そうした福音の教理に同意するように見せかけておきながら、その実、教役者としての立場が確保され次第、その福音を掘り崩し、覆そうなどと意図しているというのは、考えられる限り最悪の型の不正直にほかならないではないでしょうか? 確かにこうした人々は、『破滅に至るべき分派を持ち込んでいる』(改訂訳)と云われてしかるべきです。というのも、罪を取り除くためのキリストの犠牲を拒絶する人々については、こう書かれているからです。『罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです』(ヘブ10:27)。

 「この呪われるべきパン種の伝播と働きは、多くの方面を汚して腐敗させつつあります。私たちは何の間違いもしないようにしましょう。『平安だ。平安だ』との叫びが、見張り人の警報を押さえつけるのを許さないようにしましょう。これまでに書かれたり云われたりしたいくつかのことを見聞きする限り、きっとあなたは、スポルジョン氏が、バプテスト同盟内の特定の人々に対する明確な非難を云い表わし、そうした人々を異端のかどで審問すべきだったと思っておらるでしょう。

 「私の知る限り、そのような審問のための法廷は何1つありません。また、たといそれが存在していたとしても、異端のかどで非難されるべき人々は殉教者だと申し立てられることになるでしょう。同情と、金銭と、友情の告白が雨霰と差し出されることでしょう。その間、スポルジョン氏は、あるいは、そのように行動するだれかれは、その同胞たちの前に、偏狭な迫害者としてさらし者にされるでしょう。新聞雑誌は、特に一部の宗教紙は、懸案となっている問題全体に嘲笑と汚名を浴びせかけることでしょう。

 「スポルジョン氏の場合、その離脱は、私の判断では賢明で正しいことでした。それ以外のいかなる方法によっても彼は、こうした『滅びをもたらす異端』に対して、これほど有効な抗議を行なうことはできなかったでしょう。神の摂理は、そのしもべ(スポルジョン氏)を、一介の卓越したバプテスト派教職をはるかに越えたものとしていました。彼は、より大きな教会、すなわち、神の教会、私たちの主キリスト・イエスにある教会に属しています。彼がバプテスト同盟から脱退したことは、非常に重要な奉仕となりました。罪のためのキリストの犠牲という偉大な真理が無視されたり、誤伝されたり、絶えず目立っていられなくなるくらいなら、教派の同盟が十個滅び失せる方が、はるかにましです。

 「スポルジョン氏の抗議は、最も時宜にかなったものでした。スポルジョン氏の行動と態度が、必然的に、バプテスト教派内の、彼の兄弟たちに対する痛ましい、あるいは排他的な非難でしかないと限定して考えるのは賢明なことではありません。こうしたことが起こった主たる理由は、スポルジョン氏の類を見ない個人性にあります。それと同じようにして私は、自分の強い兄弟の激しい言葉と感じられるものを理解できます。私は自分が生きているのと同じくらい確信していますが、スポルジョン氏は決して、気持ちの優しいカルロス博士のような人々を非難することは一切意図していませんでした。ですが、おそらくは兄弟たちの中のだれひとり、このように優しい気持ちの人を戦場に送り出して、イスラエルを煩わせる者たちに対して厳しく勇猛な軍務を果たさせようとはしないでしょう。そうです。戦場に立って戦っている兵士を批判するのはたやすいことですが、平静で穏やかな会話や、戦闘終了後の書斎で生まれた批判が、その戦士に断罪を下す資格があるとは、私にはどうしても納得できません。私としては、スポルジョン氏によって時にかなって与えられた重要な抗議について神に感謝するものです。そして、彼の行動はその兄弟たち全体の健全さに対する非難だという指摘が、なぜしばしば繰り返されるのかわかりません。私はこの戦いが最高潮に達していたとき外地にいました。この一文を認めるように私を駆り立てるものとして、私が自覚している動機はただ1つ、啓示の偉大で重要な諸真理への深い関心と敬意、また、いのちそのものよりも尊い諸真理を擁護しようとしているスポルジョン氏に対する私の深い同感を表明したいという熱烈な願いをおいてほかにありません。

 「今は、事を荒立てず、長い物に巻かれていれば良いような時ではないのです。過誤ははびこっており、危機の時は間近に迫っています。スポルジョン氏がこの争闘において負かされたと考えるような人がいるとしたら、もうひとたび、見かけによって人はころりと騙されてしまうことを考えてみてほしいものです。今もなお、いのちは死を通してもたらされ、一見敗北したように思われるところから天来の勝利はやって来るのです。

   「ヘンリー・ヴァーリー」

 長老派の会合におけるドッズ博士の尋常ならざる発言は、確かに忠実な人々の目を覚まさせ、現在の危険を痛切に感じさせたに違いない。このような人物は、バプテスト協会の当局が特別説教を行なうように依頼するような種類の聖職者ではない。ある人の神学が疑わしいものになればなるほど、確実にその人はその教派の公的な場に立つことを要請されることになる。私たちは、信徒たちの大部分がそのようにしたがっているとは到底考えられないが、指導者たちは自分たちのたくらみを押し進めているのである。

 以下の決議は、《ケンタッキー・バプテスト教役者の会》の一委員会によって作成され、《ケンタッキー州バプテスト総連合》において満場一致で採択されたものである。同連合は、十三万七千人の会員と、九百六十人の教役者と、千三百の教会によって構成された団体である。――

 「決議。1888年6月20日、ケンタッキー州エミネンスに集結せる、同州バプテスト総連合の教役者その他の奉仕者は、彼らの敬愛する兄弟C・H・スポルジョンに挨拶を申し送り、以下のごとく確言するものである。すなわち、彼らは、近時の『《下り勾配》』論争において彼が聖書の重要真理を擁護すべく取った忠実な立場を全く賞賛し承認するものであること。彼がその忠実さによって身に招いた個人的な苦悩と、幾多の攻撃について、深い同情の念をいだくものであること。あらゆる恵みに満ちた神が彼をして、キリストの福音に仕える熱心かつ雄弁かつ忠実な教役者として、また聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦う勇壮な擁護者として、ご自分の偉大なみわざへと長く保ってくださるよう熱心に祈るものであることである」。

 その前日の6月19日、[カナダの]ノヴァスコシアの西部バプテスト連合でも、上と同様の趣旨の決議が満場一致で可決された。こうした兄弟愛に満ちた行動に、私たちは深く感謝するものである。真理のために独り立つことは、私たちが学びつつある教訓である。だが、他の人々が自分とともにいることを見いだすのは、私たちが嬉しく感ずる喜びである。

 一部の新聞は、あれこれと行動方針をでっちあげては、それを私たちに負わせるのを楽しみにしているように思われる。これは、だれひとりそれを信じなければ何の害も及ぼさないであろう。私たちが行動を起こすとき、それは内密になされはしないであろうし、私たちは、私たちの友人たちが、それを敵対者たちの口から最初に知るようにするつもりはない。


現在の宗教的危機
(1888年9月)

 以下の手紙は、ジョウゼフ・クックの《講演集》の新刊の中におさめられているものだが、私たちの見解とほぼ全く同じことを云い表わしているため、現今の厳粛な危機において、これを読者の方々に示さずにおくことはできないと考えるものである。多くの兄弟たちの間には、昔からの信仰を支え、それに回帰しようという如実な動きが見られる。だが彼らが、何らかの形で《万人救済》という迷妄をいだく人々と連座している様子は、考えるだに衝撃的なものである。彼らは自分自身では過誤に陥っていないかもしれない。だが、過誤に陥っている人々と兄弟同士として徒党を組んでいるのである。

 「北米外国宣教会国内事務長、神学博士 E・K・オールデン師、ボストン市からの手紙。

 「ジョウゼフ・クック師、

 「拝啓。――お尋ねの件についてお答えしますと、私の意見では、現在における宗教的危機は、多くの善良な人々が、危険を危険として認識していないことにほかなりません。時として人々は、ゆるやかな変化によって過誤に傾いていくことがあります。それは、ほとんど感じとれないような推移でありながら、じりじりと着実に進んで行き、真理を標榜している人でさえ、人々を過誤に至らせる影響力をふるうようになってしまうのです。場合によっては、ある人が発した言葉によって真理が押し進められるよりも、その人が云わずにすませていることによって誤りが押し進められる方がずっと多いこともあります。ある人が重大な過誤をいだいていると知れわたっている場合、たといその人がめったに、あるいは決してその過誤をあからさまに唱道しなくても、過誤の持ち主だと知られている事実そのものによって、その人が真理のために発するいかに熱烈な発言も、まるで無力なものとされるものです。特にそういうことが云えるのは、その過誤が、一般受けするような、世間に流布している過誤であって、あらゆる善良な人々によって、はっきり抵抗されるべきものであるような場合です。

 「実際、ややもすると、いくつかの重要な真理だけを排他的に主張することで、人々を過誤に陥らせることがあります。なぜかというと、そうした真理の主張が結局は過誤を利することになるからです。例えば、覚えている人もいるように、以前、《全国組合》を救うことの重要性を云い立てることが、分離脱退を利する最も致命的な武器となったことがありました。私たちが日々思い知らされているように、この世の何にもましてよくあるのは、自由のための声高な熱弁が、結局は最悪の形の束縛を利するようになるということです。

 「そのようにして現在は、福音の最も尊い真理のいくつかが、最も悪質な過誤のいくつかを利するために説教されているのです。云い換えると、時宜にかなわない、あるいは、釣り合いの欠けた真理の提示は、過誤を助長するということです。これは決して、過誤に対しては常に、あるいは多くの場合、論争的なしかたで、明確な、直接的な反対をすべきだということではありません。――時としてそれが避けられない場合もありますが――、むしろなすべきことは、そうした特定の過誤をすみやかに打ち消すために最上の、適切で、時宜にかなった真理を、熱心に提示することです。

 「もっと具体的に云うと、ボストンから千哩も離れていない一部の地域において、いま多くの人々が好んで向かいつつある考え方は、すべての人が最終的には救われることになるという、非聖書的で、危険な独断的見解です。

 「この過誤を前提にして教えをしたり、説教したりしているのは、決して単一のキリスト教教派や、単一のキリスト教教師だけではありません。彼らの教えは、大筋では福音的なものです。しかし、贖罪の普遍性を強調し、あわれみの提示の普遍性や、神の《父性》や、そのすべての子どもたちに対する御父の思慕――『ひとりでも滅びることを望まず』[IIペテ3:9]――だけを強調して教え、それでいながら、それらと関連して警告されている、こうした豊かな天来の恵みにつけこむことの非常な危険について沈黙し、天来の正義や、悪人の最終的な末路の確実性については無視するという、そうした教えは、この上もなく巧緻な、また魅惑的な形で過誤が宣べ伝えられる通例のしかたとなっています。もし人が、義人と悪人との究極的な分離や、『永遠のいのち』と同じくらいはっきりとした『永遠の死』を明確に識別し、堅く信ずるのでなければ、また、そのように信じていることを人々に知らせた上で、天来の恵みの豊かさに関する尊い真理に関連して、この深刻な真理を、私たちの主やその使徒たちが強調したのと同じようなしかたで強調し、その双方を同じように大切なものとして提示するというのでないとしたら、その人が危険な過誤を絶えず云いふらす教師となることはほとんど避けられないでしょう。

 「たとい仮定的な形であってさえ、人の死後にも恵みによって悔い改めの機会がありうるという非聖書的な教えを行なう危険は、ここにあります。神のことばが、非常に明確に、また、非常に多くの異なる形で宣言しているところ、そのいわゆる『義人』と『悪人』は、この現世でその性格を形成した『義人』と『悪人』なのです。そして、そのような性格を変えることのないまま、かの『義人と悪人の復活』*[使24:15]に立つことになるのです。それゆえ、このきわめて重大な真理を宣言することを省いたり、私たちの主ご自身がこの真理を用いてそのおことばを差し迫るものとなさったようにこれを用いることをしないでいる人は、たといそれが神学校の講義においてであれ、キリスト教会の講壇においてであれ、致命的な不作為をなしているのであって、尊い真理を教えるようなふりをしながら――また、真理を教えると公言さえしていながら――、ほとんど例外なく、過誤を教えざるをえなくなるでしょう。確かにここにこそ、私たちの『現在の宗教的危機』があります。

 「敬具。

   「E・K・オールデン

 「1887年3月21日、ボストンにて。」。


注記
(1888年9月)

 私たちに質問を寄せてくれる多くの友人たちに対して、編集子は喜ばしくもこう告げるものである。彼は、かなり衰弱してはいるものの、ずっと快復していると。ただし変わりやすい天候が非常な湿気と冷気をもたらしているために、まだ普段の健康に戻れないでいる。重い病を得た後は、体力が元通りになるまで時間がかかるものである。だが主のみわざは、過去の年月に劣らぬ祝福とともに進みつつある。

 最近タバナクルには多数の米国人が来訪し、愛のこもった同情をもって説教者に挨拶してくれた。こうした人々の中には、何人かの著名な人々があり、彼らはみな、教派を問わず、福音を率直に愛する人々で、暖かく優しい同情と励ましの言葉をもたらしてくれた。神は非常に恵み深くも、慰めをお送りになると同時に、その慰めを伝える使者たちの態度そのものによっても、その言葉に甘やかさを増してくださる。キリスト者である人々にとって理解しがたいのは、この世の中に、いやしくも信仰を告白するキリスト者たちの連盟でありながら、いかなる者をも、バプテスマを受けていさえすれば――信条を有していようと有していまいと――交わりに加えるというような同盟があるということである。信じがたいことながら、神の真理を保っていると告白している人々が、自分たちの教派の中に、福音的信仰と理解されているものからはほど遠い見解をいだく人々をとどめておこうとしているのである。私たちは、好きこのんで他の国々のキリスト者に、これほど大いに嘆くべきことが事実であると確信させようとしているわけではない。だが確かに、これは彼らのほとんどにとって、大きな驚きである。

 私たちと会話を交わした人々のほぼ全員が見てとらざるをえないでいたように、現在の世界には、聖書の霊感に対して反対し、最近までキリスト教信仰にとって不可欠であると考えられていた根本的真理の数々に対して反対する、途方もない広がりと深みを伴った思潮が存在している。いま提起されている問題は、真のキリスト教信仰全体の根幹を攻撃しているのである。問題は、どの教理が聖書的なのかということではなく、私たちが確実に教理を引き出せるような、霊感を受けた聖書などというものがあるのか?ということである。聖書が啓示しているもの以外の未来を夢想し、それにのぼせあがった後で、人々は、今や聖書そのものについても夢想しているのである。しかしながら、やがてこれらすべては下火になり、真実な人々の心は、じきに嫌悪とともにそれから顔をそむけるであろう。私の信ずるところ、神とその偉大な未来は、昔からの信仰の側にあり、私たちは喜んで待ち、神が何をなさるかを見ていたいと思う。

 タバナクルの牧師と教会は、今やいかなる連盟や協会との足手まといな関係からも自由になっているが、決して主の真実な民との真情あふれる交わりを閉ざしてはいない。疑いもなく、私たちが誠実に、また心から合同することのできる諸教会と交わり、そのことによって十二分に恩恵を受けられる方法を見いだすことはできるに違いない。いかなる行動をとるにせよ、私たちの友人たちにはそれを知らせるつもりである。私たちが彼らに望むのは、新聞が掲載するであろうようなことを一切信じないことである。彼らは、情報が得られないと、推測をたくましくし、その推測を事実として述べがちだからである。私たちの姿勢は、天来の導きを待つというものである。不信仰はあわてるが、信仰は時を待つことができる。

 ヘンリー・ヴァーリー氏は、ホートン氏の著書に対する返答として『御言と御業』誌に投書した何編かの論考によって、非常に貴重な働きを行なっている。疑いもなく、この闘争が激しさを増すにつれて、他にも、永遠のみことばを擁護しようとする勇士たちが起こされるに違いない。だが、その間、私たちの兄弟たちはその働きを徹底的に有効なしかたで行なっている。神学的にあまり厳密でない立場の人々は、「《下り勾配》」の件に関してだんまりを決め込んでいるが、幸いなことにこの問題は万人の口に戸を立てられるようなものではない。もみ消すことも、買収することもできないような人々や雑誌がまだ残っている。私たちの読者全員は、特にバプテスト派の人々は、ヴァーリー氏の文章を一読すべきである。というのも、彼が批判している筆者は、バプテスト同盟の秋の総会で指導的な役割を果たすよう同同盟から選出されているからである。

 タバナクルにおいては、主の民の祈りが恵み深くもかなえられ、私たちの愛する兄弟であるウィリアム・オルニー執事が快復して私たちのもとに戻ってきた。長い間の病苦に朗らかに耐えていた彼の姿は、私たち全員にとって模範であった。願わくは彼が、今や主のわざのために長い余命を与えられるように! 彼の子息、ウィリアム・オルニー二世は、ハッドン会館におけるその困難な奉仕を続けており、私たちは毎週のように、人々が最貧窮の堕落しきった地区の中からイエスのもとに導かれている姿を目にしている。私たちの教会員数は毎週増加しつつある。《学校》は、神学生たちが休暇中であるため、まだ始まっていない。孤児たちは、ほぼ全員が出払っている。座席保有者たちは、そのほとんどが海岸地方にいる。だが、外国からの人々が押し寄せており、普段にもまさる大人数の群衆がみことばの力を感じている。そのほとんどは自国に帰っていくとはいえ、国内でこれほど人数を増した教会はないであろう。主は私たちとともにおられ、私たちは主の御名をほめたたえるものである。


注記
(1888年10月)

 連日、ますます多くの証拠によって明らかになっているように、主に対して忠実な多くの人々がいる一方で、不信仰は痛ましいほど会衆派およびバプテスト派の内部をむしばんでいる。現代のでっちあげに傾倒しているのは、ひとり教役者たちだけではない。いくつかの場合、牧師は福音的な教理に真実であり続けているのに、執事や指導的教会員たちの方が新奇な説に踏み迷っている。聖書が神の無謬のことばであるという意味での聖書霊感説を心から信奉していないような者らが、福音派と目されたがっている人々の中にいるのである。これほど深刻な問題はない。というのも、それが信仰の土台そのものを取り除いてしまうからである。私たちは性急な非難をするものではないが、自分の確言していることを知っている。そして、私たちがそうした確言を行なっている相手の人々は、私たちが真実を語っていることを知っている。未来に関して現在はびこっている種々の見解は、自然と他の過誤に結びついていくか、論理的に他の過誤を伴わざるをえない。扉は開かれており、そこから虚偽の大群がぞろぞろと入り込むのである。多くの善良な兄弟たちは、それぞれに異なったしかたで、福音を掘り崩している人々との交わりの中にとどまっている。そして彼らは、自分たちの行動について、まるでそれが、主の現われの日に主から是認されるであろう愛情あふれる生き方であるかのように語っている。私たちにはそれが理解できない。キリスト者であると告白しながら、主のみことばを否定し、福音の土台を拒絶するような者たちに対して、真の信仰者が行なわなくてはならない義務は、彼らの間から出て行くことである。もしも、改革を生み出す努力をすべきであると云われるとしたら、その言葉には私たちも同意する。だが、そうした努力が無駄であるとわかりきっている場合、それが何の役に立つだろうか? 連合する土台が過誤を許容するようなもの、否、ほとんど過誤を招き寄せているようなものだとしたら、また、その土台を変更すまいという歴然たる決意があるとしたら、根本的な改革として内部からなしうることは何も残っていない。福音派が内部で活動することによってできることは、ただこの悪をしばらくの間、抑制するか、ことによると、隠蔽することでしかない。だが、その間、その妥協そのものよって罪が犯され、いかなる永続的な善ももたらされないのである。いかなる信仰内容の人々も仲間に加えるという共同体の中に、事態の改善を期待してとどまり続けるのは、あたかもアブラハムが、自分の召し出された家族を回心させられるかもしれないと期待して、ウルやハランにとどまり続けるようなものである。

 過誤と連座し続ければ、いかに善良な人々も、その過誤に効果的な抗議を行なう力を奪われてしまうものである。たとい何らかの信仰者たちの団体が過誤を主張する人々を内部にかかえているとしても、その団体が主の御名によって彼らを断固として扱う決意をしているとしたら、すべては正しくなることもありえよう。だが、いかなる見解を有していようとだれでも加入できるというような原理に基づいた連合体は、神の真理に対する不忠実を基盤としているのである。もし真理が取捨可能なものだとしたら、過誤は正当化できる。もしだれかが、「いのち」こそすべてであって、真理は扉の外に叩き出すべきだと考えるとしたら、いかなる者も中に入り込む余地があることになるであろう。そこに入って行けないのはただひとり、永遠の御霊によって啓示された諸教理を信ずる信仰者だけである。

 私たちの現在の痛ましい抗議は、この人あの人、この過誤あの過誤に関する問題ではなく、原理の問題にほかならない。真の信仰には何か絶対的に不可欠なものがあるのか――信じられるべき何らかの真理があるのか――、それとも何事も各人の好みにまかされているのか、2つに1つである。私たちはこうした選択肢のうち第一のものを信ずるものであり、それゆえにこそ、第二の説に立てば受け入れられるような人々との信仰的な連携を夢見ることはできないのである。私たちと同じ思いをした人々は、いかなる犠牲を払っても、この立場に立って行動すべきである。願わくは主が、彼らに決意を与え、あらゆる云い抜けや辻褄合わせに嫌気を差させてくださるように!

 私たちの唯一の目当ては、私たちの主イエスの福音を保ち、それを広めることであり、私たちが嘆かわしく思うのは、敬虔な人々が善をだいなしにし、過誤を押し進めるだけでしかないような神学体系と関係していることである。一般的に云って、過誤が非国教徒たちの種々の団体を活発な状態に保持する力でなかったことは明らかである。事実、公然たるユニテリアンであるか、反福音的な諸教会は、通常は次第に衰微していくものである。古の《一般バプテスト派》は、ひとたび福音派をお払い箱にしたとたんに、急速に現在のような瀕死の状態に落ち込んでしまったが、福音派の方は、おびただしく増加した。今や敵の計略は、私たちの諸教会という巣の中に過誤の卵を産むことにある。そのもくろみは、今の多くのバプテスト派や会衆派のように偽りの教理に寛容な人々の間で、この新しい教理がひそかに根づき、到底取り除けないほど人心を掌握してしまうことである。この計略は非常に巧妙なものであり、成功しつつあるように見える。パン種をパン粉の中から取り出すのは難しいが、中に入れるのは簡単である。このパン種はすでに働きつつある。この陰険なたくらみをあえて暴露しようとする私たちは都合の悪い存在であるため、むろん私たちの献身的な頭の上にはありあとらゆる種類の悪口が浴びせかけられるのである。しかし、それで疫病が食い止められるとしたら、何ほどのことでもない。おゝ、願わくは諸教会の中の霊的に生きている人々が、このことに目を向けるように。また、主ご自身が敵をくじいてくださるように!

 私たちは、諸教会に偏狭な信条を押しつけようとしたがっているのだと申し立てられている。これほど私たちの思いからかけ離れたことはない。キリスト者たち全員に共通する必須の真理について一致しようという要求が、党派主義的な頑迷固陋さの一端であるとみなされえるとは思えない。ここにいる人間は、自らはカルヴァン主義者でありながら、同盟がカルヴァン主義的な信条を策定するように求めてはいない。ただ、兄弟たちがキリスト者として連合しているのだ、また、私たちの信仰の第一原理に同意しない者らは侵入者のなのだ、と全世界に知らしめるような信条だけを求めているのである。これが偏狭さだろうか? もし、土台が規定された後で、過誤を主張する人々が侵入するとしたら、事態は現在のそれとは著しく異なったものとなるであろうし、その共同体の成員たちの責任は格段に軽いであろう。だが、福音派とは何であるかも告げようとしないまま、「われわれは福音派だ、われわれはみな福音派なのだ」、と叫ぶのは、もったいぶった偽善の言葉でしかない。もし人々が真に福音派だとしたら、彼らはその名の由来たる諸真理を喜ばしい訪れとして広めることを喜ぶはずであろう。

 なおも導きを待ちつつも、私たちは、行くべき道がそれなりに見え始めたような気がする。だが、踏むべき一歩一歩が主から出たものであるように、祈りを乞い求めたい。


注記
(1888年11月)

 「《下り勾配》」論争における私たちの行動について、以下のような私たちへの賛成決議が手に入ったのは、先月号に掲載するには遅すぎる時期であった。それでも読者の方々は、この決議を目にして喜ぶはずだと思う。これは、カナダの沿海州――すなわち、ノヴァスコシア州、ニューブランズウィック州、プリンスエドワード島の――バプテスト議会の年次集会において、満場一致で採択されたものである。――

 「C・H・スポルジョン師は、三十年以上にわたり、キリスト教界において最も献身的な神の人、高潔な信仰の擁護者として知られ、その福音の務めに絶えず伴う素晴らしい成功と、師が創始し、今なおこの上もなく熱心に携わっている多くの信仰的また人道的な働きによって大いに神から誉れを与えられた人として知られているが故に、かつ、師が最近、大英国およびアイルランドのバプテスト同盟、またロンドンバプテスト協会との関係を絶つべき義務を感じた理由が、一部の兄弟たちの教理的な放縦さと、上記二団体の側における、その成員を正統信仰に肩入れさせ、諸教会における「《下り勾配》」の流れを阻止することに資する信仰箇条採択への不本意さとにあったが故に、以下のごとく決議するものである。すなわち、本1888年8月25日、約四千四百名の会員からなるバプテスト諸教会を代表せる、本カナダ沿海州バプテスト議会は、本年次大会という機会をとらえて、私たちの誉れある兄弟スポルジョン牧師に対し私たちの間でいだかれている高い評価の念を公式に言明し、それによって、師の大胆かつひるむことなき福音の諸真理のための主張において私たちが師に心から賛意するものであることを表明し、《全能の神》に対してかく熱心に祈るものである。願わくは神がその真理を揺るがされることなく保ち、師に長命を許して御霊の剣を勇敢に振るわせ続け、過去におけると同様、未来においても、神がその戦いの武器を強大に用いて、サタンの要塞を引き倒し、私たちの主なる《救い主》の御国を世に打ち建ててくださらんことを」。


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