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1888年2月-
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バプテスト同盟による譴責

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C・H・スポルジョン

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 バプテスト同盟の評議会が私に下した譴責は、真実な方々によって熟考され、その真価において判断されるであろう。彼らは「あとはそれ以上何もできない」[ルカ12:4]。私が評議会の議員たちに何の告発も行なわなかったのは、彼らが規約によって判断を下すしかなく、この文書[同盟規約]で規定されている教理的基準が、「信仰者の浸礼だけがキリスト教のバプテスマである」、という信条のほか何もないからである。福音主義的な文言の記載すら、彼らの刊行された綱領からは省かれている。このような規約のもとでは、いかなる者も、浸礼のバプテスマを断固否認しでもしない限り、異端であるとされることはありえない。私は、この件に関する評議会の意見をはっきりさせるための費用を肩代わりしてもよいと申し出たが、私の申し出は代表団の受け入れるところではなかった。それゆえ、たとい私がいかなる証拠を持ち出そうと、私には働きかけるべき土台が何1つなかったのである。ならば、何1つ得るものがないというのに、何のために私は、一部の人々が脅しをかけているような訴訟沙汰にわが身をさらさなくてはならないのだろうか? いかにそうではないと語られようと、明らかに同盟は、認定されたその諸原則の宣言書に目を向ける限り、ある人のバプテスマ観を確認するために必要なもの以外、いかなる教理的判断を行なう能力も有していない。その権限を完全に越えるだろうような、いかなる告訴を提起することも、私はお断りである。分別のある人間なら、それ以外にいかなる行動をとるだろうか? 私の握っている証拠は、少なすぎるのではなく、多すぎるほどである。だが私は、何も得るものがないような起訴に他の人々を巻き込むつもりはない。

 私は同盟の譴責について不平を云いはしないし、何の危惧も感じていない。しかし、これが、あの愛情のこもった決議の目的だったのだろうか? これが、「真理と、愛と、良い行ないのうちに、本教派の一致を保つための方策を熟議すべく」四人の神学博士を私のもとに派遣しようと議決した、あの天鵞絨の詰め物に隠されていたかぎ爪なのだろうか? この決議案を可決した人々は、こう意図していたのだろうか?――我々は、この四人を派遣して、奴を尋問することにしよう、と。では、なぜ彼らはそう云わなかったのだろうか? 一体全体、このような「熟議」の結果を聞いたことがあるだろうか? 彼らが、「真理と、愛と、良い行ないのうちに」、ある人と一致について熟議する場合、その人は尋問され、有罪の宣告を受けることになるのである! 誠実なキリスト者の人々は、私とこの評議会のどちらが正しいか判断するがいい。

 いま答えるべき問題は、――「この裁決は、バプテスト同盟の意見を代表しているのか?」、ということである。そうかもしれない。その評議会は、全体を公平に代表するようなしかたで選出されているのかもしれない。諸教会は、彼らの卓越した人々のふるまいを賞賛することになるかもしれない。私はそう信じてはいない。むろんそうした問題は、部外者たる私が提起すべきことではない。だが、確かに同盟内には、そうしたことを考え、それに応じて行動するであろう会員たちがいるに違いない。

 私は、兄弟としての親切心から、自分に求められた助言を与えたにすぎない。だが、評議会から派遣されたこの代表団の隠れた目的を知っていたとしたら、いかなる種類のいかなる助言も与えはしなかったであろう。この紳士たちが私のもとにやって来たのは、「真理と、愛と、良い行ないのうちに、一致について」熟議するためであると公言されていた。だが、彼らの真の用向きは、あからさまに公言されていたものとは違っていたのである。彼らが何を真に目指していたかは、事実から明白である。彼らが口にしていた言葉を、英語としていかに公正に解釈しても、その目的は助言を得ることであった。だのに彼らは、その助言を評議会として考察する前に、彼らが熟議すると自ら認めていた相手を譴責するのである。いかにして、これが首尾一貫していると云えるだろうか? 彼らの決議の不可解さは、彼らの教理的立場の茫漠さと双璧をなしている。しかし、ここまで来ると、私がいかなる勧告をしようと役には立つまい。このような状況のもとで熟議するのは、しゃべり損ではないだろうか? 言葉が、ある人の意図を表明するためにではなく、隠すために用いられるとき、果たして、これっぽっちでも役に立つようなしかたで、何らかの教理形式が言葉で表わされうるかどうかは、空恐ろしいほど疑わしいことである。それにもかかわらず、私は全キリスト教界に知ってほしいと思う。私が同盟に求めたのは、それが聖書的な基準に基づいて形成されるようになることだけであった。私は決して同盟の上に、いかなるカルヴァン主義的な信条も――あるいは何か他の個人的な信条も――押しつけようとはしなかった。私が求めたのはただ、長年の間、福音主義同盟によって受け入れられていた信仰内容の形式を、同盟が採用することだけであった。福音主義同盟には、ほぼすべてのキリスト教教派の会員が含まれているのである。

 これに対して返された答えは、いかなる信条に対しても反対がある、ということであった。これは、相当に議論の余地ある主義である。確かに、私たちが信じていることは言葉にして表わすことができるし、書き記すことができるし、人に知らせることができるに違いない。ではこれは、1つの信条を作成し、広めるということでなくて何だろうか? バプテスト派は、最初から彼らの信仰告白を発布してきた。現在のバプテスト同盟そのものでさえ、他に何もないとはいえ、バプテスマに関しては1つの信条を有しているのである。この同盟を構成する諸教会は、そのほとんどすべてが、何らかの種類の信条を有している。信条に反対しているという当の人々の多くが就任している役職は、実際の書面になっていないとしても、暗黙のうちに、特定の諸教理を忠実に支持することが要求されるようなものにほかならない。諸処の会堂や神学校の信託契約書には、通常、何らかの教理的声明が含まれている。ならば、それぞれの教会や機関に信条があり、その内容が合致しているというときに、いかにして、それらに関連した地位にある公正な人々が、そうした信条に反対できるのか、私には見当もつかない。評議会の議員たちの一部は、自分たちがユニテリアン派を除名してきた件について語っている。このことは、すでに彼らが、明文化されてはいないものの、三位一体説に立った信条を有していると認めていることにはならないだろうか? なぜそれを刊行しないのだろうか? ことによると、「現代思想」には、こうした難問を乗り越える方法があるのかもしれないが、私の洗練されていない頭にはそれが全く思い浮かばない。

 「信条が、人とその神との間を裂くことになる」、と云うのは、その信条が真理でないことを仮定している。というのも真理は、いかに明確に言明されようと、信仰者を彼の主から引き離すものではないからである。私に関する限り、私は、自分が信じていることを可能な限り平易な言葉で言明することを恥じはしない。また、私が支持している真理を私がいだいているのは、それが、神の無謬のみことばの中で啓示された、神のみ思いであると信じているからである。いかにしてそれが、それを啓示なさった神から私を引き離せるというのか? 主ご自身と同じように主のことばをも受け入れること、また、主によって教えられたと自分が見てとっているものに自分の理解力を服従させること、それは、私が、私の主と交わるための一手段である。私は、主が何と云われようとそれを受け入れる。なぜなら、主がそう仰っておられるからである。また、そうすることによって私は、私の魂の内奥において、へりくだった礼拝をささげるのである。

 自分には何の信条もない、などという人に、私は共感できない。なぜなら、その人は、そうした云い分そのものからして誤っていると思うからである。その人は、信条を持つべきである。それと同じくらい確実なこととして、その人は信条を持っているに違いない。――持っていないことはありえない。それをその人が否認しようと関係ない。その人の不信仰そのものが、ある意味では、1つの信条なのである。

 信条への反対は、戒規に反対し、広教主義を望む人々にとって、格好の隠れ蓑である。彼らが望みとするのは、ノアの箱舟のように、きよいものも汚れたものも、這うものも翼のある鳥たちも、等しく隠れ家にできるような同盟なのである。

 だが、いかなる同盟も、それが単なる虚構でない限り、特定の諸原則に基づいていなくてはならない。いくつかの大きな共通の真理の上に立たずして、どうして私たちは盟を同じくできるだろうか? そして、浸礼によるバプテスマという教理は、基本原理としては十分なものではない。確かに、バプテスト派であるということは万能ではない。私の信ずるところ、もし私がある人と、九十九の点について意見を異にしながら、たまたまバプテスマについては同意しているという場合、これは決して、私と九十九の点について意見を同じくしていながら、たまたま、この儀式についてのみ同意していない別の人と私の間にあるほどの一致の基盤を与えてくれはしない。たった1つの聖書的儀式だけにしか、明確な存在理由を有さないような同盟を結成するのは、まさに、頂点を基として金字塔を建て上げるようなものである。その大建築物の全体は、遅かれ早かれ瓦解せざるをえない。私は、信仰者の浸礼こそ聖書のバプテスマであるという自分の確信を公言するにやぶさかではない。だが、それ以外にも真理はいくつもある。そして私は、ある人がバプテスマについて私と意見を同じくしているからといって、他の事がらにおいて聖書の教えに不忠実である場合、その人との間に交わりを感ずることはできない。

 ある建物の基盤を改変するのは、困難な企てである。構造物につっかいをして補強するのは、費用のかかる、危険な作業である。いったん建物全体を取り壊し、それを再建する方がずっと満足が行くものである。とはいえ、たとい私が、バプテスト同盟は申し分のない構造物になりえると信じていたとしても、その中にとどまることはできなかったであろう。なぜなら、そうすることは私の良心に背くことになっただろうからである。しかし、私の良心は、決して他の人々の導き手ではない。その構造物に信頼を置く人々、また、自分たちにはその基盤を矯正できると信ずる人々がいるとしたら、私は、そうした試みに対して心から同情するものである。そうした人々は、熱心に、また不抜の決意をもって、それに取り組むがいい。彼らは、そのありったけの熱心さと決意を必要とするであろう。その総会において、各種協会において、また諸教会において、そうした人々は、自分たちの見解を人々に主張することができる。また、自分たちの意図が、この同盟を、昔からの信仰の線に沿った、公然たる《福音主義的な》団体とすることにあるのだ、と明白に示すことができる。こうしたことを、彼らは大胆に、ひるむことなく行なわなくてはならない。私は、彼らが成功するという希望は大して持っていない。その困難は途方もなく大きなものだからである。だが、そうした人々は団結し、心を合わせ、執拗に、年々歳々、働くがいい。そうすれば、すべてではなくとも、何事かをなしえるかもしれない。自分が強制的に放棄させられた働きを導くことは、私のすべきことではない。だが、人には知られてはいないものの、いささかも決意において劣るところのない人々は他にもいるし、こうした人々がいま、率先する番を引き受けるべきである。この戦いは、あまりにも個人的なものとなってしまった。これは私にとって、その中で起きたいくつかの事件――その詳細は語らずにおくが――によって、これに携わり続けることに何の喜びも感じなくなるほど、痛ましいものとなってしまった。もしかすると、私が同盟への復帰を願ったとか、同盟内での一党派を率いたがったとすら思い込む向きがあるかもしれないが、これは私の思いからはるかに遠く隔たったものである。しかし、いかなる者も、私が偽りの教理に対する自分の抗議をやめることになるとか、すでに鞘を捨てた自分の剣を下に降ろすなどと想像してはならない。いかにそうするように強く誘われても、私は個人攻撃を始めはしないし、薄汚い事実のあらゆる詳細をぶちまけるつもりもない。だが、裏づけとなる証拠が絶え間なく私のもとに流れ込みつつあり、真理を転覆させようとする暗い陰謀は明るみに引きずり出さなくてはならないとの厳粛な確信をいだいている以上、私は、自分の目につく限り、いずこにおいても、教理的な下落を暴露することをやめはしない。今のようなバプテスト同盟と私は、現在、足枷となるような何の関わりも有していない。だが、それが至る所における真理からの逸脱の片棒をかつぎ続ける限り、同同盟は私からの酷評を浴び続けざるをえないであろう。それが熟議などという口実を設けて、私をきわめて優美に叩き出した後であろうと、関係ない。

 この闘争において私とともにある人々は、主に対するその絶えざる祈りのうちに私を覚えてくれるだろうか? この主にこそ、この件において私は、魂と霊とをもって仕えているのである。


注記
(1888年3月)

 《下り勾配》論争が吹き荒れている。そうあってしかるべきである。というのも、それを見守っているあらゆる人に見てとれるように、私たちが指摘した悪は週を追うごとに、いやまさって明らかになりつつあるからである。私たちは、死後の救い、および煉獄という2つの異端に特に注意を向けてきた。なぜなら、表立って公言されているこの2つには、何の証拠も必要ないからである。だが、他の種々の過誤もまた十分にはびこっており、たとい福音の偉大な諸真理の何かが中心に置かれているとしても、それらが宣べ伝えられているしかたを吟味してみれば、非常に奇異な事実がいくつも明らかになるであろう。だが、いかなる者であれ、一度に1つの過誤と取り組むだけで全く十分である。特に、それが新神学の土台石とも云うべきものである場合にはそうである。こうした、瀟洒で空疎な新奇物を信奉する者らが、自分たちの暗闇のわざが陽光の下にさらけだされるのを見て、いかに激怒することか! だれでも自分で彼らの発言を読んでみるならば、それは明々白々であろう。この新しい種々の教義に大衆が馴らされるまでに、いかに大きな秘密主義が渇望されていたことか。悲しいかな、その働きはすでに、あまりにも手際よくなされてしまった! いいかげんに、だれかが口を開くべきだったのである。

 私たちに判断できる限り、バプテスト同盟が聖書的な基準を獲得する見込みは皆無である。この文章を執筆している時点で、その評議会はまだ開催されていないが、はなはだ残念なことに、私たちが嬉しい驚きを味わうことはないのではないかと思われる。この問題は、昔ながらの信仰に忠実であり続けている諸教会や教役者たちによって取り上げられるべきである。そのような者たちの数が少ないわけではないが、彼らが自ら奮起しない限り、何事もなされないであろう。そうしてさえ、長い闘争が彼らの前には広がっており、それがいかに決着するか予言できる者はひとりとしていない。

 読者の方々の中には、『バプテスト』紙を読んでいない方々がいるであろう。もしその方々がバプテスト派であるとしたら、それを購読しているはずである。しかし、私たちの他の多くの友人たちは、私たちが同紙に送った投書を読みたがると思う。

 「『バプテスト』紙の編集者殿、

 「拝啓。――私は、現在の闘争から一切の個人的苦情を取り除こうと苦慮しており、評議会の行動に関する私の評言が[同盟議長である]カルロス博士に対するものだと思われていることに鑑みて、急いでこう云うものであります。博士は、決して私が――たとい自己防衛のためであっても――攻撃を加えたいと思う人物ではありません。私は博士が、あるいは他のだれかが、個人的に裏表のある役割を果たしたと疑ってはいません。私はただ、評議会の行動を全体としてとらえようとしたにすぎず、それは大きな非難に値するものである――はなはだ値するものである――と思うものです。人は、集団になると、自分ひとりでは決して行なわないだろうようなことを行なうものです。委員会というものは、多くの頭と、多くの舌を持っており、その行動は、互いの妥協の産物となるか、冷静に熟考した結果ではない一時的な衝動に駆られたものとなりがちです。事実、百名の人々[評議員]が苦心惨憺して生み出したものに、筋の通った説明などつくものではありません。それゆえ私は、評議会を、その個々の構成員においてではなく、全体としてとらえたいのです。また、私の心の内奥では、ひとりひとりの人を赦していると感じてはいますが、それでも全体は批判したいのです。これは論理的ではないかもしれませんが、それが私の感じていることの表明です。

 「もしカルロス博士が、その正直な性格の擁護者を必要とするようなことがあるとしたら、私は誠心誠意その務めを果たすことを買って出るでしょう。

 「しかしながら私は、次のように云う、いかなる人に対しても抗議します。すなわち、博士は正統的な諸教理を信じているのだ、ただ、それが『スポルジョン氏が云うような意味ではない』にすぎないのだ、と。私はこうした諸教理を、私の知る限り、キリスト教界の普通の用法によって、それらに付加されている共通にして通常の意味において信じています。神学用語は、その一般的かつ通常の意味においてのみ理解され、用いられるべきであります。たとい私に何か独特な奇想があるか、こうした用語に誇張した意味をくっつけているとしても、私は、いかなる生者に対しても、私の奇矯さによって縛られてほしいとは願いません。種々の教理的な表明において理解されるべきなのは、スポルジョンの意味でも、ジョン・スミスの意味でもなく、普通の、世間一般の意味であります。

 「評議会が何を行なうにせよ、他のいかなることにもまして避けてほしいのは、2つの意味――相反する2つの意味――を同等に持つことが可能であるような言葉遣いをすることです。私たちは、平易で、率直な語り方をしようではありませんか。そこには深刻な種々の差違があります。――それらが正直に公言されるようにしてほしいものです。なぜそうすることを恥じるべきでしょうか? 教派内の政治を私たちの導き手にしてはなりませんし、この党派あの党派をとどめておきたいという願望を導き手にしてはなりません。正しいことをすることこそ安全であり、二重の意味を持たせることで妥協をはかるのは、長い目で見れば決して賢明なことではありません。

 「私は、この論争の私個人に関わる部分については一言も云うつもりはありません。私は、いかなる個人、あるいは、いかなる協議会からの、いかに厳酷な譴責にも屈しはしません。むしろ、さっさと真に重要な問題に取り組もうではありませんか。バプテスト派は、昔ながらの路線にあるのでしょうか、新路線にあるのでしょうか? それが全体として、両方を走ることはできません。

 「もう1つだけ云いたいことがあります。私が友人たちに懇願したいのは、《補助基金》の件で、私たちのより貧しい兄弟たちが苦しまないようにしてほしいということです。すでに[幹事である]ブース博士には告げていますが、私は以前と同じ額の献金をするつもりですし、今まで同盟がしてきたのと同じ線に立って、自分がだれ宛に補助金をささげるかを彼に知らせるでありましょう。この問題においては、私たちの富裕な兄弟たちのうち、あまりにも少数の人々しか助けを行なっていません。それを行なう力のある私の個人的な友人たちに願いたいのは、めいめいが、どこかの窮乏した牧師を選んで、その人の面倒をみてやること、少なくとも、通常その人の教会が十ポンド昇給させるなら、十ポンドを献金することです。私は、私たちがみな1つの信仰となり、私たちの一致がより真実なものとなった暁には、今後こうした方面での努力がより旺盛なものとなるであろうことを信頼します。同盟内においてであれ、その外においてであれ、私は決して私たちの主のためにこれほどの辛苦を忍び、かつこれほど豊かに私たちの実際的な同情に値する人々を敬い、援助することをやめはしないでしょう。

 「敬具

 C・H・スポルジョン」

 

 悪のパン種は、すでに私たちの《学校》で教育された何人かの人々に影響を与えている。そして、私たちが彼らを私たちの《協会》から排除しようとする際に、彼らは当然ながら同情者たちを見いだしたし、これが何にもまして痛ましい傷となっている。それにもかかわらず、私たちは、この軍勢の多大な中核をなしている、忠実で二心のない兄弟たちによって大いに励まされている。多くの人々は、この争闘が引き起こしたものに立ち向かうことによって、それだけより良くなるであろう。また、一団となって私たちは、神へのいやまさって強く、いやまさって明確な信頼をもって行進し続けるであろう。おゝ、願わくは、この《学校》とその卒業生たちが、押し寄せる虚偽の洪水を断固として食い止める、大いなる防波堤となるように!

 私たちが喜びとしているのは、いくつかの場合において、教役者たちがこう書いて寄こしてくれたことである。すなわち、「《下り勾配》」関係の諸論考によって、彼らは、福音をより心をこめて説教する思いを起こさせられたし、彼らの信徒たちは、より祈りへと喚起させられ、その結果は、深く、また真実な信仰復興であった、ということである。こうした一二の場合は、非常に驚くべきものであり、決して単なる想像ではない。というのも、それらは、教役者たちと、彼らの新しい回心者たちとの双方によって、立証されているからである。


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