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まえがき

(1888年)
 

私たちがで打ちかかるにせよ、こてで建てるにせよ、

《主の御名があがめられますように。》

 私たちの奉仕はしばしば所を変えるかもしれないが、私たちの精神は常に崇敬と賛美に満ちたものであり続けるべきである。世紀は年老いつつあるが、エホバの栄光は常に新しい。また1つの時代の黄昏が私たちに迫りつつある。だが何が来ようと、主は代々限りなく、永遠が月日の最後を呑み込んでしまうまで、あがめられるべきである。

 過ぐる一年の間、主は、本誌が代弁し、右腕となっている種々の機関に対して、きわめて恵み深くあられた。過誤に対する私たちの具体的な抗議は、多くの友を失わせた。あるいは、むしろ、私たちの山なす知人から、多くのもみがらがあおぎ分けられた。当然ながら、このことにより、《孤児院》、《学校》、《信仰書籍行商》、《伝道者協会》、その他の私たちの働きの資金には、影響が及ぶものと予期されたかもしれない。だが、私たちの資金源は人間の力の届かないところにある。私たちが、初めからずっと自分たちの必要を《水源》から直接引き出してきたことを思えばそうである。私たちは、何人かの大物が泉を干上がらせるぞと脅しをかけてきて以来、より少なくではなく、より多くの金銭的支援を受け取っている。それらは、主の右の手が植えられた植物からしたたる天の雨の雫と同じくらい、とどまることがありえないのである。このことのゆえに、深く、崇敬と畏敬をもって、私たちは力強く云うものである。「主があがめられますように」。

 しかし、全体としてどうだろうか? 断固たる抗議の立場を取ったことによって、何らかの結果が生ずるだろうか? 私たちはそうなると思う。私の信ずるところ、すでに1つの輪止めが《下り勾配》の車輪に突き込まれたし、この嘆かわしい破滅への前進をより効果的に妨げるであろう質疑が巻き起こっている。しかし、そうならなかったとしても、それが何であろう? かりに、ひとりの人が主の御名によって真理を語っても、だれひとりその人を信じなかったとする。かりに、悪人のみならず善人までもがその人を、ひねくれた独善家だと決めつけたとする。かりに、その人が、かつては自分の信奉者であり友人であった人々から捨てられたとする。かりに、その人が、必要もなく、あだにイスラエルを煩わせた者という悪名を負って死んだとする。――それが何か? もしその人が語っていたことにおいて、その人が自分の良心に対して、また自分の神に対して誠実であったとしたら、その人は人々から何の承認も受けなかったことによって、何を失ったことになるだろうか? 失った! その人は、測り知れないほど大きなものを得ることになるであろう。というのも、自分の報いは受け取らなくとも、その冠は天で「かの日のために」とっておかれているからである[IIテモ1:12]。いずれにせよ、その人は、こう云うことができたことによって、自分の主の栄光を現わしたことになるであろう。「確かに教役者たちは福音を宣言せず、信仰告白者たちは信仰を告白せず、忠実な者たちの志操はくじかれ、最も敬虔な人々さえ臆病に沈黙を守り、勇気は勇者から失われ、決意は教えを受けた者から失われてはいるが、しかし、私は主とその永遠の真理にあって喜び勇み、しかり、私の救いの神にあって喜ぼう」[ハバ3:18参照]。

 実際的な目的のためには、この曇りがちで暗い日に私たちは、兄弟たちが大いに祈りに励むように願いたい。神の教会に信仰復興が起こり、その目が開かれるように、また、大衆の間にキリスト教信仰に対する関心が生み出されるように祈ってほしい。どこでもかしこでも感覚が鈍磨している。だれも説教されていることが真実か偽りかに気を遣っていない。説教は何を主題としていようと説教なのである。ただし、短ければ短いほどよいとされる。多少の勿体をつけて、ぺらぺら語られただけの話が、福音としてすこぶる通用している。だがそれは、ほんの少しでも恵みを知った人が識別すれば、全く拒絶されるようなしろものである。人々が尊いものと邪悪なものを本能的に見分けられるようになるように、その信仰生活が深められ、増し加えられることを祈り求めようではないか。

 今はまた、福音の根本的な諸真理を、より明晰に、より明確に宣言すべきときでもある。説教者や教師たちは、私たちの間で確かに受け入れられている、こうした栄光に富む諸教理を、もう一度、はっきりと、力強く、説き教えるべきである。本物を宣べ伝えることこそ、にせ物に対する最上の反駁である。神のみ思いが御民の中で知らされれば知らされるほど、人の思いが作り出した物によって彼らが揺さぶられることは少なくなるであろう。私たちの天的な憲章の主要点を入念に再説することは、現時点において賢明かつ時宜にかなったことであろう。

 本誌についても、私たちは読者の方々が好意をもって思い起こしてくれることをお願いしたい。あの抗議の声は、本誌の頁がなかったとしたら、いかにして人々の耳に届くことがありえただろうか? 概して教界の主要紙は、結託して沈黙を守るか、さもなければ、真理に反対するような投書だけを抜き出して印刷する一方で、正しい側に立つ投書を排除するということをしていた。真理を証しするあらゆる口が守られることは、きわめて重要である。この大いにあざ笑われている『剣とこて』は、その《編集子》の息が続く限り、その2つの使命を果たし続けるであろう。だが、それは、その発行部数が増大すれば、はるかに大きなことができるであろう。来年は、本誌の創刊二十五周年を迎え、一種の祝祭年となるべきである。発行部数を増やすというのは、口にするほどのこともない些細なことと思われるかもしれないが、実はそうではない。人が語ったり著述したりする場合、もしそこに聴衆や読者がいないとしたら、それが何になるだろうか? もし聴衆や読者が望ましいものだとしたら、その数が増えることは望ましいことではないだろうか? もしその人の聴衆や読者を増加させることができるとしたら、それによってその人は、より大きな規模で善を施せるのではないだろうか? 少数の人々に対して行なうに値することは、多数の人々に対して行なう価値がさらに大きくある。それゆえ私たちは、顧客の拡大のために読者の方々の助けを求めたい。私たちは全力を尽くして本誌を作成し、私たちの主イエスの大義と御国のために大胆に語るであろう。そして私たちの購読者の方々にお願いしたいのは、私たちの月刊誌を友人や隣人の方々に紹介することによって、私たちのために扉を開いてほしい、ということである。

 ほとんどの読者の方々に私たちは、その多年にわたって施された親切への感謝の絆で、永遠に結びつけられている。ことによると、本紙の《編集子》ほど、忠実で熱烈な友人たちを大勢有していた者は、いまだかつてなかったかもしれない。そうした方々全員に、私たちは心からの挨拶を贈るものである。神が皆さんを祝福してくださるように! 願わくは永遠の神が皆さんの隠れ家となり、報いとなってくださるように! じきに私たちは、《剣》と《こて》が、立琴と棕櫚の葉に持ち替えられるところで会うであろう。その日の間近さのために私たちは、喜びつつそれを待ち望み、今すぐその天的な交わりを始めたいと思う。そうした交わりをよく表現するのは、天界の歌におけるその完璧な調和である。冒頭において私たちが云ったように、この1888年号のまえがきの結びにあたっても私たちは云いたい。――

《主の御名があがめられますように。》

主は生きておられ、支配しておられる。主にはいかなる敗北もない。いかに敵が猛り狂っても、神の真理の輝きを薄れさせることも、神の御力が出て行くのを妨げることもできない。

《ハレルヤ!》



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