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1887年12月-
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真理の回復と信仰復興

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C・H・スポルジョン

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 おゝ、真のキリスト教信仰が、至る所で力強く復興すれば、どんなによいことか! それは、単なる興奮の激発ではない、真の覚醒、《永遠の御霊》のみわざのことである。これは、懐疑主義に対する輝かしい回答となるであろう。また、強風が空気を清浄にし、よどんだ大気に潜む瘴気を吹き散らすかのように働くであろう。そのとき、私たちの主の福音を害する者らにはほとんど敬意が払われなくなり、いま世間で失墜している真理は、その王座に返り咲くであろう。そのように聖霊が私たちの魂全体に訪れてくださることを求めて祈ろうではないか。それは望ましいことであるばかりか、必須のことである。私たちが主ご自身によって復興させられない限り、諸教会は沈んで行き、過誤と不敬虔によって呑み込まれるほかはなくなる。この大惨事を防ぐには、天来の恵みによるしかない。

 それと同時に私たちは、恵み深い信仰復興を待ち望みたければ、その前に、自分たちの周囲にはびこっている、死を招くような種々の影響力との共謀関係を払拭しなくてはならない。ひとりの神の人がこう私たちに書いて寄こしている。「地方にはびこっている霊的な死と枯渇については、いかに口をきわめても云い尽くすことはできません。『教役者が成功している』ところでは、いかなるユニテリアン派も説教によって気分を害することがなく、『成功していない』ところでは、みことばが、何の力もなく、惨めなほどに浅薄な扱いをされているのが見られるのです。もちろん、貴重な例外はあります。ですが、教会内の執事たちが、神のみことばよりも、『ハムレット』やアーヴィングの舞台演技の方に精通しているようなときに、霊性について何が期待できるでしょうか? また、子どもたちが無言劇でもてなされ、こうした物事への嗜好が形成されているときに、次の世代について何が云えるでしょうか?」 この兄弟の悲嘆は、私たちの机に山と積まれた同種の手紙と全く軌を一にしている。それらを送って寄こした人々は、霊的な重みにおいて肩を並べる者がないような人々である。こうした兄弟たちが夢を見ているか、ことさらに劣悪な地域に住んでいるというのでもない限り、私たちには屈辱を感ずべき非常に深い理由があるのである。私たちは、この問題の詳細をとりあげようとは思わない。それはあまりにも痛ましいものである。いくつかの礼拝所で行なわれつつある、全く軽佻浮薄な物事と、完全にうつろな娯楽がいかにひどいものであるかは、ほとんど信じがたいほどである。ただ私たちは、この事実に読者の注意を引きたいと思う。すなわち、教理は、《下り勾配》という闘争において、私たちの敵方が選んだ戦場であったが、祈祷会や世俗性という件について、彼らは賢明にも沈黙を守ってきたということである。彼らの中の何人かは、この問題において、「君子危うきに近寄らず」を決め込んできた。

 もし私たちの諸教会のいずれかがこの点で罪を犯しているとしたら、いかにして教会は、天来の御霊の働きかけを受けられるなどと期待できるだろうか? 私たちが引用した言明、あるいは、それに類するものが証明されるような所で、いかにして人が回心することなど期待できるか、私たちにはとんとわからない。私たちの神である主は聖であり、その栄光に富む御名を汚すことなどありえない。神がともにお働きになる者らは、決してエジプト――私たちは、ほとんどソドムと云いそうになったが――における娯楽を、その下卑た嗜好の突き動かす行き先とするような者らではない。これが神とともに歩むことだろうか? これが、エノクたちの生み出されるしかただろうか?

 こうした事がらに言及せざるをえないのは心痛むことである。だが、主のみわざは忠実になされなくてはならず、この悪を暴露せずにおくわけにはいかない。疑いもなく、ありとらゆる種類の娯楽が――それも、扇情的な舞台演技に限りなく近いものが――、礼拝所でなされつつあり、現時点において、大いにもてはやされている。こうした事がらが、聖潔を押し進めたり、神との交わりを助けたりできるだろうか? こうした事がらを味わってきた人々が、神に向かって罪人たちの救いを、また信仰者たちの聖化を懇願できるだろうか? 私たちは、こうした不浄の主題に触れるのを忌まわしく思う。それは、信仰の歩みから、また、天的な交わりの道から、あまりにもかけ離れたもののように思われる。場合によっては、苦情を申し立てられている愚行は、人間の尊厳すら下回っており、思慮ある人々というよりは痴愚者の領域にふさわしいものである。

 キリストにある兄弟たち。私たちは、あらゆる教会において、弱さと汚れをもたらす物事を一掃しようではないか。目の見える人にならだれでもはっきり見てとれるように、教理の締まりなさこそ、世俗性の親であるか、直接そうではなくとも、非常にそれに近いものなのである。昔からの信仰を放棄する人々こそ、一般的なふるまいに関する許容範囲の広さを要求するのと同じ人々にほかならない。清教徒が何にもまして悪名高かったのは、彼らの正統信仰ではなく、彼らの、この世からの分離においてであった。自由主義的な神学者たちは、必ずしも大衆の敬意をかちとるわけではないが、この世にはびこる嗜好に迎合することによって、ある程度の人気を得るものである。不敬虔な世は、彼らの味方として立つ。世は、彼らの寛大さを大いに褒めそやし、正統信仰に立つ人々を頑迷固陋な興ざましであると毒づく。これは非常に胡乱な状況である。非常にしばしば、人が内的ないのちについて知らなければ知らないほど、また、そのことについてわざわざ語ろうとしなければしないほど、その人は心から新神学を支持し、進化論を支持し、すべての確固たる教理への非難を支持するのである。主からの祝福を受けたいと思う人々は、こうしたことすべてを避けなくてはならない。また、主に従い通す決心をしなくてはならない。彼らは、偽りの教理から離れ去るだけでなく、福音を、教義としてではなく、生きた真理として受け入れなくてはならない。真理は、生きた信仰が伴って初めて、その堂々たる力を証明するのである。信仰者たちは、世俗性というパン種や、浮ついた世代の軽薄さをも、家から掃き清めなくてはならない。今はやりの悪は、潰瘍が人体をむしばむように、教会という体をむしばんでいる。それが除去されない限り、健全な敬虔さをいだける見込みはない。そして教会がそれを除去するには、もう一度悔い改めて、初めの行ないをすることである[黙2:5]。

 天来の恵みにより、まだ自分の衣を汚していない者たちは、他人を譴責するだけで満足していてはならない。むしろ、自ら奮い立って、より完全な神の御霊のバプテスマを求めなくてはならない。ことによると、こうしたもろもろの悪が許容されているのは、それらが、主の脱穀場に集められた穀類の山にとって、ふるいの働きをするためかもしれない。もしかすると、それらが許されているのは、私たちの無感動な諸教会が奮い立たされるためかもしれない。私たちの知るところ、すでにいくつかの場所では、真の教役者たちが、その信徒たちに向かって、根本的な諸真理を再び最初から説き教え、救いに至るみことばを、より明確な強調をもって説教するようになっている。他の場合、諸教会は、この件について特別に祈るように奮い立たされている。これは良い始まりである。これが最大限の規模でなされるようにしよう。私たちは、ひとりの人であるかのように主なる私たちの神に向かって大きな叫び声をあげよう。神がご自分の御国のために立ち上がり、その云い分を立ててくださるように叫び求めよう。もし今まで全くそうしていなかったとしたら、イエスとそのみことばに対して忠実な者たちは、大いに活動しよう。求める者には限度のない祝福が待ち受けている。私たちは祈りの力を信じている。

   《エリヤのごとく祈ろうではないか》。

 《下り勾配》論争とバプテスト同盟に関して、私たちは、より踏み込んだ行動を取るようにせき立てられている。だが、愚かな一歩を踏み出すことの方が、それをなかったことにするよりも、はるかに容易なものである。私たちが動くのは、他から動かされるときであって、それ以前ではない。種々の合同会議や、協会や、同盟を提案する方々もいる。疑いもなく、そのいずれも賞賛すべきことである。だが、多くの示唆のうち、何が最もふさわしいことなのだろうか? 私たちには取るべき道が見えていない。願わくは主ご自身がその民を導いてくださるように! それまでの間、私たちが自分の祈りを倍加し、私たちの諸教会すべてにおける信仰復興を求めることは、まず間違いではありえないであろう。祈りは――力強い祈りは、驚くべきことを成し遂げることができる。これこそ現在の時になすべき働きである。絶えず祈り、従前にまして明確な言葉で真実なみことばを宣べ伝えるがいい。そのような行動指針は、ある人々にとっては、ただ立ち尽くし、何もしていないことであるかのように見受けられるかもしれない。だが実はそれは、神をこの戦いに引き込むことなのである。そして、《神が》やって来て、自分の契約の争いに復讐なさるときには、それを迅速になされるであろう。「神よ。立ち上がり、あなたの言い分を立ててください!」[詩74:22]


注記
(1887年12月)

 まず真っ先にしなくてはならないのは、私たちの孤児たちの降誕祭期の慰安について、支援をお願いすることである。英国を離れる直前に、私たちは少年少女たちを一堂に集めて、ささやかな慰安会を行なった。だが私たちはこう約束したのである。降誕祭当日にC.H.S[スポルジョン]が彼らとともにいようがいまいが、私たちは努めてその日が彼らにとって素晴らしい日になるようにする、と。愛するあなたがたには、このあまねき喜びの日に、もう一度、みなし子たちの食卓をきらびやかに飾ることをしていただけないだろうか? これまで、孤児たちに、新品のシリング貨幣をひとり一枚ずつ与えてくれていた友人は、今それができなくなっている。そのことを私たちは心から残念に思う。だが、他にも、広い心に大きな財布を授かっている人はいないだろうか? 子どもたちひとりひとりにもれなく1シリング与えるには、二十五ポンドかかるが、それは以後も長期にわたって小遣いとして非常な助けとなるため、私たちはそれを続けたいと思う。四歳から九十九歳までの、紳士ならびに淑女の方々。私たちストックウェルの五百人の男児と女児は、もしあなたがた、地のあらゆる方々が、私たちを、お金か品物かの寄付によって助け、1887年の幸いな降誕祭日を迎えさせてくださるとしたら、深甚なる感謝をしたいと思う。また、過ぎにし年月の間、そのようにしてくださったことに対して、五百回もの感謝をするものである。スポルジョン夫人は、降誕祭向けの寄付金を喜んで受けとり、私たちに代わって返事を差し上げるであろう。現物による贈り物の方は、ウトックウェル《孤児院》のチャールズワース氏宛に送ってほしい。

 『剣とこて』の1887年号は、1月1日には発行できるはずである。それは歴史を作り、それが記録されている。定価5シリングは高価ではないし、これは蔵書に加えるべき立派な本である。

 パターノスター街22番地のホリングズ・ブロック社は、本誌の広告代理店であるが、今月号の包装紙の中に含まれている、多数の書籍広告に注意を喚起してほしいと云っている。あらゆる種類の良書があげられていて、実際これは、書籍や祝賀状その他の面で、降誕祭の入用に応ずる完全な目録をなしている。私たちは、愛する方々がこうした品目をひいきにしてくれることを望んでいる。各出版社は私たちとともに広告することを常に希望している。なぜなら彼らは、自社の書籍につけられる私たちの注記を重んじているからである。私たちの評言は、必然的に短くならざるをえないため、上滑りなものではない。正しい評価を下すために、細心の注意を払っている。私たちは無謬ではないが、疲れることなく働くものである。もちろん、私たちの視点はよく知られており、私たちも、それ以外の視点から眺めるふりはしない。だが、平易で正直な意見の言明は、明らかに高く評価されている。それは、時として私たちが不賛成を示し、それゆえ峻烈であると考えられるであろうときも変わらない。私たちは、まだ一度も、人を殴りつけたために好かれるようになった太鼓叩きのことなど聞いたことがない。それゆえ、痛烈な批判が、それを受けた著者から賞賛されるとは期待していない。だが、概して私たちは、失望させられた人々からさえも、ありがたい寛容をもって遇されている。

 以下の手紙は、11月13日の日曜日に、タバナクルで読み上げられたものである。――

 「タバナクルの愛する方々。――私はほんの数日あなたがたのもとを離れるが、来たるべき休暇を楽しみに待つことによって、すでに休みを得たような気がしている。私は、この三十四年間の交わりにおける、あなたがたの変わらぬ愛に対して、本当に心から感謝したいと思う。私たちは、こうした歳月のすべてにわたり、人数は多くあったが、心は1つでしかなかった。特にこのことは、現在の論争の時期に真実である。というのも、私を最も暖かく支持してくれる方々は、私自身の教会内にいるからである。何人かの熱心な方々は、教会員の総会を開いて、牧師に対する彼らの熱烈な同意の念を表明したいと提案してくれた。だが、常に忠実な執事および長老の方々は、機会を逃さず、すでに私に一通の手紙を手渡してくれている。それは、自分の兄弟姉妹たちを代表して、彼ら全員が署名したものであった。このような一致は神の恵みから来たものであり、神の祝福がいま私たちとともにあることを示し、将来の幸いを預言するものである。私にできることはただ、あなたがた全員に感謝し、愛を返し、力の続く限りあなたがたのために労し、死に至るまであなたがたのために祈り続けることしかない。《永遠の神の》の無限の祝福が、あなたがたとともに、とこしえにあるように!

 「あなたがたの感謝に満ちた牧師、

C・H・スポルジョン」

 以下に示すのは、上の手紙で言及されている文書である。それは、これよりもずっと強い語気で記されるはずであったが、この牧師は常に自分自身に関する表現においては非常な簡潔さを好むものであり、その願いによって、多くの烈々たる文章が削除されることになったのである。役員たちの大方には、この発言をもっと力強いものにしたいという気持ちがあった。だが彼らは、そうしてさえも、それは自分たちの感情の熱さを示すには、はるかに足りないものであったでしょう、と云い添えてくれた。

 「メトロポリタン・タバナクル
 「ニューイントン、S.E.

 「1887年10月27日、

 「私たちは以下のように決議します。――すなわち、『私たち、メトロポリタン・タバナクルで礼拝する教会の執事および長老一同は、ここに、私たちの愛するC・H・スポルジョン牧師に向かって、師のバプテスト同盟からの脱退を至らしめた現下の状況における、師に対する私たちの深い賛意の念を申し述べるものであります。また私たちは、師が私たちの主イエス・キリストの福音の諸教理を、それらの霊感された、かつ使徒的な単純さにおいて保持しておられる堅忍不抜の熱心さを心から是認いたします』」。

 以下、副牧師、また執事および長老の全員によって署名されている。

 その後の何度かの会合において、自分たちの愛する牧師かつ指導者に対して教会役員全員がいだいている愛情と、信頼と、尊敬の念を表明するには、上記の手紙では不適切であると考えられたため、彼らは全員一致で、以下の追加文に同意した。――

 「先の私たちの決意は、全員一致で、何のためらいもなしに是認されました。しかし、ただ1つの点にしか触れていなかったために、それは、私たちの親愛なる牧師であるあなたに対して、いかに私たち全員が愛情と、信頼と、尊敬の念をいだいているか、その完全な意味をお伝えするには、どう見ても不適切なものであると考えられました。しかしながら、このことで、私たちがあなたに差し出せる最もふさわしい申し立ては、天来の定めにより、かくも広大にあなたに委ねられている種々の賜物と、務めと、聖霊の働きにおいて、私たち各人が、あなたにとって『助け手』であることを立証するほかありません。

 「また、次の点について記しておくのは、全く不適切でも、折悪いことでもないと思われます。すなわち、私たちの確信するところ、次のようなことによってあなたは、大きく、かつ絶えず広がりつつある規模において見事な奉仕をしておられます。すなわち、旧新両約の聖書の霊感を確言することによって。また、神の御霊の直接の導きのもとにあった、私たちの主イエス・キリストの使徒たちによって教えられた通りの、恵みの諸教理を熱心に説き教えることによって。また、私たちのただ中にあって、公の礼拝の堕落せざる単純さを保持し続けることによって。

 「ここに私たちの熱烈な希望と、心からの祈りをつけ加えさせてください。願わくは、正統的と考えられている諸処の講壇における『現代思想』という新奇物に対して、あなたが行なっておられる精力的な抗議が、最終的には全世界にあるキリストの諸教会の一致を大きく前進させるものとなりますように」。

 何人かの敵対者たちは、《下り勾配》論争を、カルヴァン主義者とアルミニウス主義者の間の古い確執の復活であるかのように云いまぎらわそうとしてきた。だが、これは決してそのようなものではない。多くの福音的なアルミニウス主義者たちは、他のいかなる人々にもできないほど熱心に私たちの味方をしてくれている。私たちは、いかなる意味においても私たち自身のカルヴァン主義を押し隠してはいない。だが、この争闘は、あらゆる信仰者に共通した諸真理のためのものなのである。これは決して言葉上の争いではなく、永遠の諸真理――あれこれの党派にのみ排他的に属しているようなものではない、根本的な諸真理――を扱っているのである。このように無関係なことを持ち出して私たちの注意をそらそうとしても無益である。私たちは、他の点であれば論じ合うと同時に、なおもキリスト者としての調和を保つこともできる。だが、聖書を紙くずのように扱い、キリストの死をいかなる代償でもないようにみなす人々とは、何の交わりを持ちたいとも思わない。私たちは、真剣な抗議によって離脱したのであり、そのように行なったことについて、深い良心の満足を感じている。

 死活に関わる過誤をいだく人々から分離するのは、キリストのみ思いに反することだ、などと主張する人々の図々しい云い草は、それが悲しむべきものでなかったとしたら、滑稽であったであろう。彼らはまるで、新約聖書などという書物が存在していないかのような書き方をする。明らかに彼らは、使徒などというあわれな生き物に何ら言及することなく、キリストの思いがいかなるものであるかを決しているのである。私たちについて云えば、私たちは現代の思想家ありったけを寄せ集めたよりも、パウロやヨハネの方を高くみなすものである。聖書は何と云っているだろうか? 「あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。そういう人にあいさつすれば、その悪い行ないをともにすることになります」(IIヨハ10、11)。「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです」(ガラ1:8、9)。聖書の精神は1つである。それゆえ、真理を守る決断は、また過てる者から分離することは、私たちに向かってかくも絶えまなく指摘されている第一コリント13章の愛と完全に一貫したものであると私たちは確信してよい。自分の過誤のうちにある者には援助も賛助も拒否すること、それこそ過てる者に対する真の愛である。人目をはばかりたがる者の口にあるとき、「愛」という言葉は非常に可愛らしく響くが、もし彼らがそれを過去に行使していたとしたら、彼らは私たちを、私たちが本来属しているはずの人々の間から追い出すようなことはなかったであろう。

 他の教役者たちが同盟を去ることになるかどうかもまた、今後の推移を見守るべきである。私たちは彼らがそうすると期待してはいない。だが、こう信頼したい。もし彼らがとどまるとしたら、彼らは、改革がなされ、真理の正しさが証明されるように決意するであろう、と。


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