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1887年11月-
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《下り勾配》論争に関する一断章

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C・H・スポルジョン

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 そろそろ読者の多くの方々は、《下り勾配》論争にうんざりしている頃であろう。そうした方々の十倍以上も、それに飽き飽きし、苦しめられているのは、私たち自身である。最初の記事が現われたとき、ある友人は私たちにこう警告する手紙を書いてくれた。この主題に触れる者は、それによって何の誉れも得ることがなく、むしろ山ほど敵を作ることになるであろう、と。私たちは、その人の預言を信じた。そして、それも勘定に入れた上で進んでいった。というのも、厳粛な義務感が私たちを駆り立てていたからである。その結果は、私たちが予期したものにほかならなかった。私たちの抗議が受けた扱いは、私たちの予想を上回りも下回りもしなかった。おそらく、私たちが個人的に受けてきた敬意は、私たちが見込んでいたよりも大きかったかもしれない。

 これまでのところ(そしてこの件は、まだその端緒が開かれたばかりにすぎないが)、主たる答えを返してきたのは公の教師たちであり、彼らの公の返答に関する限り、大略それは、いかに好意的に解釈しても、次のようなものになる。すなわち、多少は不適切なものがあるかもしれないことは認めるが、取り立てて語るほどのことはない、と。彼らも、何人かの兄弟たちが幾分行き過ぎをしていることは残念に思っているが、それでも、そうした人々はまだ大切な兄弟なのである。多くの善良な人々は、いくつかの事例において、自由が放縦に堕しつつある事実を嘆き悲しんではいるが、全体としてそれは、健康と活力のしるしであると信じて、自らを慰めている。よく実を結びすぎる大枝が、壁を乗り越しているというわけである。何がどうあろうと、教派内の平和は保たれなくてはならず、仲間ぼめの合唱を断ち切るような、和を乱す背信の告発など何1つあってはならないのである。

 一致を強く願う思いには、褒められるべき面がそれなりにあり、私たちは決してそれを見下そうとするものではない。また、それと同じくらい尊ぶべきなのは、一部の勇敢な人々が訴えている、自由を求める抗議である。私たちは、自分の兄弟たちがいかなる者にも自分の良心を屈服させようとしていないことを喜ぶものである。むしろ、ありがたいことに、私たちの知る限り、いかなる人もそのようなことをしたいと願ってはいない。彼らの勇敢な反対が特に目指しているのは、人々を支配したいという願望から自由になることと同じくらい、人々から支配されたいという願望からも自由になることなのである。ただ、遺憾千万なことは、自由に対するこれほどの忠誠心が、キリストとその福音に対して忠実であろうとする、同じくらい熱烈な決意表明と結びつけられることができなかったことである。もし清教徒の子孫たちが、その良心の自由を保っていなかったとしたら、それは、嘆かわしい落ち度であろう。だが、もしも彼らがそうした良心をキリストのくびきの下から引き出そうとするとしたら、それは、何ら劣りなく恥ずべきことであろう。

 真理を犠牲にしても一致を追い求めるなどというのは、主イエスに対する反逆である。もし私たちが、《王なるイエス》の王権を守るための厳粛同盟を結ぶ覚悟をしているとしたら、決して私たちは、より大きな愛のために、主の王冠の宝玉を放棄することなどできない。主が私たちの《主人》であり《主》である以上、私たちは主のみことばを守るであろう。主の教理をみだりに変更するのは、主ご自身への反逆者となることであろう。だが、善良で真実な人々も、ほとんど無意識のうちに、最初は意図してもいなかった妥協へと陥り、それを正当化せざるをえない羽目になるようなことがあるように思える。境遇の奴隷となることに甘んじ、彼らは、他人に縛られ、自分が行きたくない所へ至らされることをよしとする。そして彼らが目覚めたときには、また望ましくない状況に自分が立ち至っていることに気づいたときには、彼らは、必ずしもそこから離脱する決意を有しているわけではない。特に、自分と同じくらい誤りを犯しがちな兄弟たちと同席している場合には、人々は、彼らの道を顧みようとはしたがらず、彼らについてあれこれ論評することには気が進まないものである。それゆえ、この短い論考において私たちは、一堂に会した兄弟たちから、自宅の書斎にいて、この件を熟考している兄弟たちに向かって、あえて真剣な訴えをしようと思う。

 私たちは彼らに願う。極力、この鼻持ちならない叱責者のことは忘れて、今の状勢を真っ正面から慎重に見つめてほしい。そして、それが私たちにとってと同様、自分にとって衝撃的なものでないかどうか見てとってほしい。これから私たちは、歯に衣着せないものの云い方をするが、それは感情を逆撫でにするためではなく、はっきり理解してもらいたいがためである。

 事実を云うと、キリストの贖罪を信ずる信仰者たちは今、それをさげすんでいる人々と宗教的な同盟を公然と結んでいるのである。聖書を信ずる信仰者たちは、十全霊感を否定する人々と連合しているのである。福音的な教理を信奉している人々は、堕落を作り話と呼び、聖霊の人格性を否定し、信仰による義認を不道徳的と呼び、死後には別の猶予期間があり、滅んだ者も将来回復されると主張するような人々と、表立って提携しているのである。しかり。私たちの前にあるのは、実に哀れな光景である。正統信仰に立つと公言するキリスト者たちが、信仰を否定する人々との同盟を公然と認め、そのように露骨なキリストへの不忠実を犯せないと云う人々への軽蔑をほとんど隠そうともしていないのである。はっきり云って私たちは、こうしたしろものをキリスト教の同盟とは呼ぶことができない。それらは、すでに《悪の連合》の様相を呈し出している。神の御顔の前で、私たちは、不幸にしてそれらが、それ以外の側面を帯びていないのではないかと思う。これは、私たちの心の奥底から到底離れようのない悲しい真理である。

 善良で、慈善的で、必要な種々の目的のために、いかなる種類の人々とも連合するのは正当なことである。たとえば、火事のときでもあれば、多神教徒も、ローマカトリック教徒も、プロテスタント教徒も、めいめいが手桶を手渡しするであろうし、船が沈没しつつある際には、異教徒もキリスト者も同じように、交替で吸水器に取りつくであろう。有益で、博愛的で、政治的な諸目的のためなら、合同した行動は、宗教上の意見がどれほど種々雑多な人々の間であっても許されるものである。しかし、私たちの前にある事例は、明確にキリスト教信仰に関わる団体なのである。公然たる、キリストにある交わりなのである。これは、死活に関わる点において互いに反対している人々が、それでも一体であるふりができるほどに、広がりあるものとすべきだろうか?

 さらに私たちは、ある人々が語っているような、異端のより分けに対しては、大きな反対をすべきである。だが、この場合、この異端は公然と認められており、おずおずと前に出されているようなものでは全然ないのである。それは、たとい挑戦状として書かれたとしても、これ以上に明確な言葉ではありえなかったであろう。私たちが扱わなくてはならないのは、見かけが麦によく似た毒麦ではなく、自ら公然と名乗りをあげている茨とあざみなのである。《下り勾配》の悪の働きかけを受けているのが少人数か大人数かは、棚上げにしておいてよい問題である。それは十分明らかに、ある人々に対して働きを及ぼしており、その人々はそれを得意がっているのである。だのに、ある信仰者たちは公然と、こうした、あけすけに異端の人々と完全に和合しており、正規の正式な同盟において、そうした人々と仲間づきあいをしているのである。これは、真理の神のみ思いに従ったことだろうか?

 主イエスに対して忠実でありながら、しかし二義的な問題において自分と意見を異にする人々に対して、最大限の愛を示すことは、真のキリスト者全員の義務である。しかし、主の代償的な犠牲を否定し、主の義による義認という偉大な真理を嘲るような人々に対して、私たちはいかにふるまうべきだろうか? こうした人々は、誤りに陥っている友人たちではなく、キリストの十字架の敵どもである。回りくどい、お上品な云い回しを用いても何の役にも立たない。――キリストが、その血によって人をきよめ、その義の功績によって人を義と認めさせることができるお方として受け入れられていないようなところでは、キリストは全く受け入れられていないに等しいのである。

 これまでキリスト教会において一般に受け入れられてきたところ、キリスト者の交わりの線は、私たちの主の《神性》において、くっきりと明確に引かれてきた。だが、このことすら、今や変更されたように見受けられよう。様々なしかたで、この深い割れ目には橋が渡されてきており、過去数年の間に、何人かの教役者たちは、この一線を越えてユニテリアン派の教義へと至り、この溝のどちらの側に立っても、そこにはほとんど、あるいは全く何の違いもないと宣言してきた。たぶん彼らが住んでいた地域においては、感知できるいかなる差違もなかったのであろう。だが私たちが厳粛に確信するところ、いかなる真実の霊的交わりもありえないところで、交わりがあるようなふりをすることは決してあるべきではない。一般に知られ、認められているような、死活に関わる過誤と交わりを持つことは、罪に関与することである。神の真理を知り、愛している人々は、それに真っ向から反対している人々と交わりを持つことはできないし、そうした交わりがあるようなふりをすべき理由など何1つない。

 むろん、天来のいのちを有しており、その結果として、真理を見抜く識別力を有する人々の間であっても、それぞれが達したところや、理解するところにおいては、種々の差違があるものである。それは、私たちも喜んで認める。また、こうした種々の差違が、愛と一致にとっては何の障壁でもないことも認める。しかし、私たちの主の代償的な犠牲および義と認めさせる義を受け入れるか、拒否するか、ということは、それとは別問題である。私たち、聖書が霊感された神の真理であると信ずる者らは、私たちのすべての教えを引き出す基なる権威を否定する人々と交わりを持つことはできない。私たちは堕落した人類を救うために自分の講壇に立つのであり、彼らはこの人生で救われなくては、永遠に滅びるしかないと信じている。その私たちが、いかにして人間の堕落を否定し、死後に別の猶予期間があるとの希望を人間に向かって差し出すような人々と兄弟であると告白することができるだろうか? 彼らには、この世において、あらゆる自由があり、決して私たちはそれを奪おうなどとは思っていない。だが、そうした自由があるからといって、私たちの協力を強要することはできない。もしこうした人々がそうした事がらを信じているとしたら、それを教えるがいい。自分たちだけで教会を建て、自分たちだけで同盟や組合を作るがいい! なぜ彼らが私たちの間に来なくてはならないのか? 彼らが、不用意な私たちのもとに来て、そこにとどまろうと決意しているというとき、私たちには何ができるだろうか? この問題は、すぐには答えが出ない。だが確かに、いかなる場合であれ、私たちは彼らと交わりをしようとはしないであろうし、そうすると告白しもしないであろう。

 過去数箇月の間、多くの人々が私たちに向かって、不安に満ちた質問を投げかけてきた。「私たちは何をすればよいでしょうか?」と。これに対して、私たちに返せる答えはただ1つ、それぞれの者が主からの導きを求めた後で、個々に行動を取らなくてはならない、ということであった。私たち自身の場合、私たちは、先月の論考で、自分の行動指針を暗に示しておいた。私たちは、ただちに、かつ明確に、バプテスト同盟から脱退する。バプテストの諸教会は、そのそれぞれが、自治の、独立したものである。バプテスト同盟は、単にそうした諸教会が自発的に連合しているものにすぎず、そこからの離脱は、単にある教会の、あるいはある個人の問題でしかない。同同盟は、現在の制度上では、いかなる懲戒権限も有していない。というのも、そこにはいかなる教理基準もなく、私たちは、浸礼だけをバプテスマとして認めている限り、いかなる形の信仰内容や異教信仰であれ、その中に包含されずにすむ保証は全くないと思われるからである。極端な種類の過誤をうちに含んでいるからといって、この同盟を非難しても何の役にも立たない。というのも、私たちに見てとれる限り、そこには、自浄能力が全くないからである。たといそれがそうすることを望んだとしても、そうである。元来これを結成した人々は、それを「形がなく、何もなかった」[創1:2]ものにしたのであり、これは、そのようなものとしてあり続けるに違いない。少なくとも私たちは、いかなる変化の見込みも見てとっていない。大多数の人々は、こうした物事のあり方を賞賛しており、そこにとどまり続けるであろう。だが私たちは、そのような賞賛の念を全く持ち合わせていない。それゆえ、そこにとどまることをやめたのである。しかし私たちは、外部の人々に知ってほしい。私たちは、自分の信仰においても、教派的な立場においても、全く変わってはいない。バプテスマを受けた信仰者として私たちの立場は、これまで通り同じものである。

 なぜ新しい教派を始めないのか? これは、私たちが全く好ましく思わない問いである。教派はすでにありすぎるほどある。新しい教派がもう1つ形成されたところで、他の「丸く囲まれた庭々」に入り込んできた盗人や強盗たちは、ここにも囲いを乗り越えてやって来るであろう。だから、それからは何も得られないであろう。それに、そうした方便は、それぞれが自治し、自決できる諸教会の中には必要ない。そのような諸教会は、自分たち自身の類縁を苦もなく見つけることができ、自分たち自身の沿岸部から侵略者を一掃しておけるであろう。それぞれの船が航海に耐えうるものである以上、自由な活動を阻害するだけのもやい綱など、すっぱりと断ち切ってしまおうではないか。そして、今後、交わりという索縄を投げ渡すのは、同じ栄光の旗の下で航海している味方の船が自分の舷側にいるとわかっている場合だけにしようではないか。キリスト・イエスにあるすべての忠実な人々に対して私たちを結びつける御霊の愛に支配される、自主独立という孤立にあって、福音を愛する者たちは、とりあえずは、たちどころに安全になるであろうと思う。おゝ、願わくは、キリストにあって1つであるすべての者たちが、明々白々な一致のうちに混じり合うことのできる、そのときが来るように! それは、いかなる教派も提供できないような、より大きな交わりである。それを可能とするには、霊的生命が成長し、1つの永遠の真理がより明確に照らし出され、信仰者が、すべてのことにおいて、より強く《かしら》なるお方、すなわちキリスト・イエスに固く結合するしかない。


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