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1887年10月-
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主張の立証

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C・H・スポルジョン

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 先の何編かの私たちの記事に端を発した論争は、非常に大きな広がりを見せつつある。その戦闘員たちがいかに身を処してきたかについては、人それぞれで異なった意見をいだくであろう。私たち自身としては、あまたの個人的な問題については、甘んじて頓着せずにやり過ごしたいと思う。私たちに対していかなるあてこすりや冗談が云われようと、それが何であろうか? じきに戦いの塵は吹き払われるであろう。目下の急務は、軍旗をしかるべき位置に保ち続け、敵軍の急襲に耐え抜くことである。

 私たちが先の警告によって意図していたのは、万人にとってあからさまな悪と私たちが考えるものに注意を引くことにあった。私たちは決して、「従来の問題」が持ち出されたり、尊ばれる友人たちの一団が戦闘員たちの間に走り込んできて、戦うための理由など何1つありません、「平安だ、平安だ」との私たちの合言葉を保ち続けてよいのです! などと宣言したりすることになろうとは、夢にも思っていなかった。だが、事実はそういう次第になってしまった。そして、多くの方面において、主たる問題は、「いかにすれば私たちはこの悪を取り除けるだろうか?」ではなく、「取り除くべき悪などどこにあるのか?」になってしまった。引きも切らずに寄せられる手紙の主題は、――「スポルジョン氏によってなされた非難は一体本当なのか?」、ということである。私たち自身の誠実さが問われているという問題を別にすれば、私たちはこの件についての、いかに精密な討論にも何ら反対はしない。いかなる手を尽くしても、真理は知らしむるべきである。

 『バプテスト』および『ブリティッシュ・ウィークリー』誌は、この上もなく友好的な精神をもって、その定期寄稿欄を書き出し、この件に関する読者からの投書を大々的に求めている。その結果、種々雑多な意見が表明されてきた。だが、そうした投書の中の相当数は、大まかに要約すれば、現状のままにしておくにこしたことはない、という断言であり、その書き手たちは、バプテスト派や会衆派の教役者たちの間に、信仰からの逸脱など、ほとんど、あるいは全く見てとれないと云い切っている。これは、それなりに心強くさせられることではあるが、どこまで確かであろうか? 確かに証明されているのは、せいぜいここまでである。――すなわち、こうした立派な方々は、私たちが真理からの致命的な過誤であると判断する新奇な物事を、単に表現方法の変化としかみなせないような物の見方をしているのである。さもなければ、この人々は、ことのほか恵まれた集団に出入りしているのである。あるいは、この人々は、この世で最も人の好い人々で、すべてを薔薇色の眼鏡を通して眺めているのである。こうした丹念に準備された幾多の書簡を読むにつれ、私たちの脳裡には、どうしても、かの英雄的なネルソンの姿が髣髴せざるをえない。その盲目の方の目に望遠鏡を当てて、「私には何も見えんぞ」、と何度も何度も云っているネルソンの姿である。その勇敢な盲目さによって彼は、自分の砲火を沈黙させることになるようなものを見ることを拒んだのである。ある教派の役員をしている兄弟たちが一種の身びいきをするのは、非常に自然なこと、神聖なことである。それを譴責する勇気は私たちにはない。何にもまして、こうした思慮深い兄弟たちは、その「団体」の威信を保持し、その委員会の平安を保つ義務があると感じている。われわれの同盟は――評議会は――協会は――、当然ながら先祖たちにとってはきわめて大切なものであった。それゆえ、こうした人々は、きわめて無意識的に、また何の悪意もなしに、局外者から見れば天空の太陽ほどにも如実な悪にも、全く気づかなくなっているのである。といって、私たちの尊ばれるべき兄弟たちが、そのために不忠実な者となってしまったとはいえない。むしろ、このことが、彼らの判断力に影響を与え、のみならず、その判断の表明にも、いやまさる影響を与えているのである。私たちの前にある投書の中には、一、二の例外をのぞき、明らかに丹念に均整のとれた文章と、慎重な言明とが記されており、大いに行間を読みとらせるものがある。

 もし私たちが、あくまで個人攻撃を避けようと注意を払っていなかったとしたら、こうした尊ばれるべき書き手たちの何人かが別の折に行なった発言を指摘することもできたであろう。その種の発言は、たといそうした人々がいま書いていることと矛盾してはいないとしても、それを補足するものとして、彼らの考え全体をよりよく示すはずである。私たちは信書の秘密を破ったり、個人的な会話の内容を明かしたりしたいとは思わない。だが、一、二の事例においてはこう云わざるをえないような気がする。その書き手たちは、別の機会に私たちが彼らから個人的に得ることのできた情報を公に表わしていない、と。他の人々の懸念を鎮めたいという如実な願いに助けられて彼らは、自分自身の恐れを忘れ果てているのである。これ以上は云うまい。

 こうした類の投書しかなかったとしたら、私たちも、もしかする新神学を支持する人々は僅かで、弱小かもしれないと望むこともできたであろう。注意してほしいが、これまで決して私たちは、彼らの人数や強さについて、いかなる推定もしてこなかった。私たちは「多くの人々」としか云わなかったし、私たちの楽観的な兄弟たちの心励まされる投書を読んだ後では、ことによると彼らは私たちが恐れていたほど多くはないのかもしれない、と希望するよう努めもした。私たちは、そのような者がただのひとりもいないと信じられたとしたら喜ぶであろう。だが、願いによって事実を作り出すことはできない。そうした投書の中には、私たちの申し立てを左右できるようなものがほとんどない。たといそれらの意味するところを丸呑みし、手放しで真実と受け入れたとしてもそうなのである。たとい二十名の人々がある特定の事実を見てとらなかったとしても、彼らが見てとらなかったからといって、正気を保ってそれを見てきた人、何年もの間それを見てきた人、今もそれを見つつある人の確信を変えることはできない。その証人は、自分が目覚めているかどうか確かめようと、自分の目をこすってみる。そうするときその人は、一瞬は、これほど多くの善良な人々が自分に反駁していることに戸惑いを覚えるかもしれないが、なおも、そうした人々全員に逆らっても、自分が正気で見てとってきた証拠を信ずる。私は、万事問題はないと告げる神学者や神学博士たちの良心の誠実さは信じているし、種々の小さなあわれみについて、これほど穏やかに感謝することのできる彼らの能力に祝いを述べざるをえない。

 しかし、この元気づける知らせの持参人たちに向かって私たちは、はるかに多数の証言を対置させなくてはならない。それは、物事がそれほど薔薇色の色合いをしてはいないのを見てきた人々の証言である。私たちがすでに語ったことは真実であるが、それも、私たちに手紙を書いて寄こした人々の報告から判断すれば、真の実状の貧弱で、かすかな言明でしかない。私たちは、私たちの反対者たちのひとりによると、「狼だ!」と叫んだ、あの寓話の中の少年に擬せられている。だがその相似は、唯一、決定的に重要な点において違っている。――その少年は狼が一匹もいないときに「狼だ!」と叫んだが、私たちが「狼だ!」と叫んでいる今は、狼の群れがあまりにも騒々しく吠え猛っており、私たちが叫ぶことなど本来なら不必要だったはずである。それが必要であるのは、ただ、惨めな無関心主義が、羊の群れを守るべき者らの上に深い眠りをもたらしているからにほかならない。その証拠は、私たちの見るところ圧倒的すぎて、自分の言明は、単に衆知の問題を言葉に表しただけにすぎないと考えたほどである。これは、私たちが夢を見ているのか、私たちの兄弟たちが夢を見ているかのどちらかである。敬虔な人々は、どちらが眠っているのか決するがいい。私たちの考えるところ、先の数編の論考で私たちが書いたことは、諸教会を目覚めさせようという私たちの真剣な努力を全く正当化するに足るものである。だが、より多くの証拠が求められている以上、私たちはそれを提供するであろう。私たちの困難は、私たちの前にある材料の山から選別することである。そして私たちは、読者の方々を必要以上に多くのもので悩ませはすまい。

 今年の七月に福音主義同盟の幹事たちは一通の回状を発行した。その中から、ある段落を引用してみよう。

 「神とその真理を執拗に守ろうとする者たちすべてにとっては、あまりにも明らかなことだが、一方の側では迷信と聖職尊重主義が危険なほど成長しつつあり、もう一方の側では生きたキリスト教信仰についての不信仰と無関心主義がある。私たちのほむべき主なる《救い主》の代償的犠牲は、何人かの目立った教師たちによって、軽くみなされており、否、否定されてさえいる。その結果、未来における罪人の運命は、多くの人々の想念の中で空虚な思弁となってしまった。聖書の十全霊感、聖霊の人格性、そして神の教会の中におけるその臨在と力、その他のキリスト信仰の真理の陳述は、多くの場合、意味が限定されるか、何の意味もないものと説明し去られている。こうした過誤の教え、また福音の歪曲の結果は、痛ましいほどに明らかである。世俗性と、官能性と、奢侈が、主日の神聖さを汚すこととともに蔓延し、キリスト者的な自由は、キリストの弟子と公言する多くの人々の歩みや生活の中で放縦となってしまっている」。

 「下り勾配」に関する私たちの最初の記事が8月に出たとき、私たちはこの回状を目にしても、耳にしてもいなかった。私たちは、直接的にも間接的にも、この同盟とは何の連絡もとりあったことがない。この連合体には、1つの評議会がある。いかなる意味においても狂信的であるとか軽挙妄動するとは云えない評議会である。そして私たちは、はっきりこう云おうと思う。すなわち私たちは、万事がこの上もなく満足なものであると判断する幸いな兄弟たちを何ら軽視するものではないが、この評議会の判断をも、そうした兄弟たちの判断と同じくらい重く受けとめている、と。おそらく今の私たちは、前者の判断をはるかに重視しているであろう。というのも、私たちはあらゆる教派の兄弟たちからこの同盟に送られている手紙の抜粋を目にしてきたからである。そうした投書において、人々は私たち自身と同じくらい真剣な口調で、「狼だ!」と叫んでいるのである。

 問題を上品に云いつくろおうとしても何の役にも立たない。あらゆる教派における、私たち何千人もの人々の信ずるところ、多くの教役者たちは、福音の諸真理からはなはだしく離れ去ってしまっており、霊的生命の悲しい減退が多くの教会で如実になっている。何度となく他の人々が、いま私たちが口にしていることを云ってきたのに、彼らの抗議には、ほとんど何の注意も払われなかったのである。ちょうど今日、私たちが郵便で受け取ったのは、今年6月に発行された、グロスターシアおよびヘレンフォードシアにおけるバプテスト教会連合の年次報告書である。そこには、その議長による賞賛すべき論考が含まれている。その要旨は、以下の文章に見いだされるであろう。――

 「私たちは危険な時代に生きている。私たちが通り過ぎつつあるのは、最も重大な時期である。キリスト教世界は振動しつつある。昔ながらの真理の基盤の数々に大激変が生じている。古くからの教えには徹底的な疑義が呈されている。聖書は今日、私たちの先祖にとっては未知の言語であろうような言葉遣いで語るものにされている。福音の教え――人々に、罪を犯すことを恐れさせ、永遠に思いを馳せさせるのを怯えさせてきた宣告――は、棚上げにされつつある。カルバリはその栄光を奪われつつあり、罪はその恐ろしさを奪われつつあり、私たちは、強壮で、神聖な感傷性の王国へと進化しつつあるのだと告げられている。そこでは、天国と地上、神と人間は、種々の感覚的な情緒の堆積となるというのである。だが、その進化の過程において、福音の力は弱められていないだろうか? 私たちの諸会堂からは人が減少していないだろうか? 人々の間には、キリストの数々の主張に対する無関心さが増大してはいないだろうか? 種々の進化説は、時代に対する影響において、後退的なものではないだろうか? 過去の非国教徒たちを際立たせていた、人々の救いに対する燃えるような熱心はどこにあるだろうか? 真理のための英雄や殉教者たちを生み出した、あの高貴な熱情はどこにあるだろうか? 非国教徒たちを、大なだれのごとく前進させてきた力はどこにあるだろうか? あゝ! どこに?」

 アバディーンにある自由教会大学の学長、デーヴィド・ブラウン博士は、9月14日付けの『キリスト教時代』に掲載された、「教役者たちにおける懐疑主義」に関する貴重な論考の中で、こう云っている。――

 「これは非常にひそかな形の懐疑主義であり、他のあらゆる形を合わせたりよりも恐るべきものである。私が意味しているのは、福音に仕える教役者たちの懐疑主義である。――こうした人々は、正統的なキリスト教界すべての信仰を、また、この信仰の基盤としての聖書の権威を信奉していると告白し、それを宣べ伝えるものと期待されている。だのに、その信仰を信奉しても、教えてもおらず、全力を尽くして、その神聖な記録を掘り崩しつつあるのである。さて、何がこの種の懐疑主義の根なのだろうか? 答えよう。それより徹底的で、露骨な形の懐疑主義の根となっているものと全く同じである。すなわち、キリスト教信仰におけるあらゆるものを、可能な限り、自然な理に適うものとしたい、という願望である」。

 「彼らすべてに共通した1つのことは、生まれながらの人間に反感をいだかせるような、福音のあらゆる鮮明な特徴――「賢い者や知恵のある者には隠されていて、幼子たちにのみ現わされた」もの[マタ11:25参照]――を排除しようとする必死の努力である。確かにキリストの神性は認められているが、彼らが長々と語りたがるのは、彼の人間的性格の高邁さであり、彼の教えの崇高さであり、彼の死が示した比類なき自己犠牲の模範である。贖罪は、さほど多弁を尽くして否定されてはいないが、彼の受難は、その代理性および代償性において提示されてはいない。彼らの教えによれば、キリストは、いかなる意味においても、私たちの《代理者》ではなく、義認によって、この栄光に富む《保証人》の義が咎ある罪人に転嫁されるなどということはない。こうしたことが露骨に表現されることはめったにない。しかし、ある人々は、はっきりそう口に出して云うほど大胆になりつつある」。

 「私がこうした調子でこれほど多くを語ってきた唯一の理由は、私たちのすべての諸教会に、この有害な傾向――生まれながらの人間に受け入れられないような、あらゆる福音の要点を最小限度にしようとする傾向――が食い込んでいることにある。そして、それも不思議ではない。というのも、彼らの目的は、生まれながらの人の精神を惹きつけることにあると見受けられるからである。こうした実状がある所ではどこででも、講壇の霊性は除かれ、御霊ご自身はそこにおられない。そうしたところでは、魂の回心は、たとい期待されていたとしても、めったに聞かれず、子どもたちのパンを求めてやって来る人々は石しか得られない。――それは美しく、鮮やかにきらめくものかもしれない。だが、石を消化することはできない」。

 私たちは、これらの3つの証言を選び出すのに何の時間も費やさなかったし、それらが、山ほどある他の証言よりも取り立てて尋常ならざるものであるわけではない。だが、それらは十分に示している。たったひとりの気難し屋が、現在は多くの悪が起こっていると孤独に判断しているわけではないということを。

 私たちの間に「新神学」がはびこっている、という私たちの言明の正しさを示す最も決定的な証拠は、『キリスト教世界』によって供されている。同紙は、この害毒の蔓延の大きな原因となっており、いかなる意味においても、自らの関与を隠そうとはしていない。他のだれがためらおうとも、私たちはこの新聞のうちに、その信仰の――あるいは、その信仰の欠如の――平易で大胆な公言を有している。そこに挿入されてきたもろもろの記事や投書は、私たちの立場を徹底的に証明している。否、それ以上に、それらは、ほとんど何の光もこれまで入り込むことを許されなかった、内側の「想念の部屋たち」へと私たちを導いてくれている。いま私たちの前にある記事の抜粋においてなされている、三位一体の教理に対するほのめかしによって、何が意味されているだろうか? 私たちは、これ以上の評言をあえてすまい。この段落そのものが非常に平易に物語っている。――

 「われわれは今や分岐点に立っている。若手の教役者たちは特に、自分が、かの『現代思想』を奉じて、それをあからさまに宣言するか、しないかを決断しなくてはならない。これは、スポルジョン氏の目には『猛毒の眼鏡蛇』であるが、私たちの目には、世紀の誉れなのである。これは、スポルジョン氏と彼の一派にとって最愛の教理であるものの多くを放棄する。不真実なもの、非聖書的なものとしてではなく、最も厳密な意味で不道徳的なものとしてである。というのも、それは、咎や美質を他に転嫁するなどという道徳的可能性を認めることができず、一時的な罪のために永遠の罰を与えるなどということが正しいとは認めることができないからである。それは、逐語霊感説を信ずるほど非合理的ではなく、三位一体的な神顕現を真であると受け入れることで、多神崇拝を糊塗するほど偶像礼拝的ではない」。

 これ以上に明確なものを要求することはできないであろう。そして、たといそのような必要があったとしても、同紙に挿入されている数々の投書は、それをあり余るほど豊かに提供するであろう。こうした投書のいくつかは、バプテスト派の教役者たちからのものであり、私たちの間で確信をもって信じられてきた事がらからの徹底的な前進をこれ以上ないほど率直に公言するものであるため、私たちは、この実際的な問いを発さざるをえない。正統信仰にとどまっている兄弟たちは、こうした言明を信奉したり、教えたりしているような者らと団結し続けることによって、これらを裏書きする覚悟があるのだろうか? こうした紳士たちには、自分の好きなことを考える完全な自由がある。だが、その一方で、昔ながらの福音を愛する人々には、彼らとの関係を断つ自由が同等にあるし、その自由には決して免れることのできない責任も伴っている。もし私たちが、万人救済説をも、煉獄をも信じていないのだとしたら、また、もし私たちが聖書の霊感や、堕落や、罪のためのキリストの大いなる犠牲を信じているのだとしたら、私たちにはこのようにする責任があることになる。すなわち、ほかの福音を教えているような者ら、また、ある書き手を見るとわかるように、公然とほかの神を有しているような者らとなれ合ったりしないようにすることである。

 ひとりの友好的な批評家が私たちに、まずは、昔ながらの信仰を捨てた人々の名前をあげてはどうかと助言してくれた。だが、もし私たちがそのようにしていたとしたら、その人は個人攻撃が導入されたことを真っ先に嘆き悲しむ人々のひとりとなっていたであろう。とはいえ、もしもある紳士が前に進み出て、自分の「現代思想」を誇りとするとしたら、そのことには何の反対もありえない。それは他の人々がその人の立場を判断する手間を省いてくれるし、他の人々が見習ってよい男らしさの表明である。進歩派の種々の言明を読んできていながら、それでも正統信仰の見地からすれば心配することなど何もないと考えているような人々は、確かに非常に楽天的な気質をしているか、見て見ぬふりをしようと堅く決意しているに違いない。

 しかしながら、私たちの悲嘆は、死活に関わる諸教理に限定されてはいない。私たちは霊的生命の減退、また世俗性の増大に言及し、その2つの外的なしるしとして、祈祷会の衰えと、劇場に入り浸る教役者たちをあげた。その前者は、取るに足りない些細なことだとして鼻先であしらわれている。『キリスト教世界』と好一対をなしている『非国教徒』紙は、この主題を以下のような文章で一蹴している。「たとい伝統的な祈祷会に大人数の出席が見られないとしても、なぜキリスト教界が、たった1つの特定の宗教的方便の用いられ方の多寡によって判断されなくてはならないのだろうか?」 こうした「伝統的な祈祷会」が何を意味するにせよ、それが閑却されていることを、ジェームズやジェイであれば何と云っただろうか? いずれにせよ、祈りのための私たちの集会が、私たちの信徒層の霊的状態の非常にすぐれた温度計であるという意見において、私たちはまだ孤立してはいない。願わくは神が、祈りのために集まることを、「1つの宗教的方便」などとみなす精神から、私たちを救い出してくださるように! この一段落は、私たちの書いてきた内容が、当然なすべきであったよりも、はるかに控えめな表現であったことを悲しいほど十分に示している。

 同紙は、劇場通いをしている教役者たちに関する私たちの言及をこのように扱っている。読者に注目してほしいのは、これがいかに見事に意味深長な言葉であるか、また、私たちが譴責をこめて言及したことを、これがいかに、慎重な推賞によって、はからずも認めているか、ということである。――

 「劇場について云えば、福音の教役者たちの多くが、そのような場所で多大な時間を過ごすことを許すような人生観をいだいていると知って、私たちは大いに驚かされるべきであるとはいえ、だがしかし、疑いようもない敬虔さを有する人々が、自分たちおよび自分の家族の者たちにとっての気晴らしを演劇の中に見いだしていることを思い出すと、私たちは、芸術の大きな一部門が、まるで悪の働きかけでしかないかのように禁止されるのを見て満足するものではない」。

 ここで決して忘れてならないことは、キリスト教信仰に鼻もひっかけない、劇場での娯楽を自ら楽しんでいる人々でさえ、演劇場で教役者たちを見かけるときには、そうした教役者たちへのあらゆる尊敬の念を失ってしまう、ということである。世人共通の考え方の告げるところ、そのような種類の人々は、霊的な事がらにおける、人々の導き手としてふさわしくないのである。しかし、私たちはこの論点について争いはすまい。それが争われているという事実だけでも、私たちにとっては、そうした方面での霊的なキリスト教信仰が衰退期にあるという十分な証拠である。

 非常に不承不承ながら私たちは、この不快な務めを果たしてきた。私たちが口にせざるをえないと感じた警告が正しいものであることを示してきた。私たちはそのようにする必要があることを痛く悲しむものである。だが、もし私たちがこの論考で圧倒的な証拠を示さなかったとしても、それは紙数の足りなさや、そうする意志の足りなさによるものであって、そうする力がなかったためではない。この危機の深刻さを無視しようと決心している人々は、こうした嘆くべき詳細がいかにふんだんに語られても、その沈着さから目覚めることはないであろう。

 最後に1つだけ言及しておかなくてはならないのは、私たちの種々の言明から大きな落胆が生じることを心配している兄弟たちに対して、私たちが、そうした落胆が起こる理由のある限りにおいて、心からの同情を感じているということである。もしも私たちが、私たちの非国教会陣営を、もっと非常に異なるしかたで叙述することができたとしたら、私たちの心はまことに喜んだことであろう。しかし、虚構に基づいた励ましは偽りの希望に至らせ、究極的には幻滅に至らせるものである。私たちの原則に対する信頼は、神への信頼に次いで、最も頼りにすべきものである。勇敢な人々は、一時の間、正しい主義主張が雲に覆われようとも、それでも一歩もひるまず、頑強にそれを保持するであろう。いや増した困難は、いやました信仰と、より熱烈な祈りと、さらに大きい熱心とを引き出すだけである。最も虚弱な精神とは、人混みに流されているからというだけの理由で前進するような類の精神にほかならない。真に強い人々は孤立することに慣れており、自分が少数派になっていることに気づいても心くじけたりしない。このペリシテ人のために、だれも気を落としてはならない[Iサム17:32]。この新しい敵は、彼の前にやってきた者らと同じく死ぬ運命にあるのである。ただ、彼を友人と取り違えるようなことだけはしないようにするがいい。

 手紙を寄せてくれた人々の中の、より敬虔な人々が提起している、より決然と福音を伝播させる努力を求めることについて、私たちは深く同意するものである。より多くできる所であればいずこでも、神の御霊に頼って、すぐにそうしようではないか。しかし、自陣に敵をかかえながら戦いに下っていっても無駄である。いかなる武器を携えて私たちは出て行こうというのだろうか? もしも、「神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるもの」である[IIコリ10:4]とわかっているものが私たちから取り上げられているとしたら、私たちに何ができようか? 何の福音も有していない者らが、いかにして福音を伝えられるだろうか? この「新神学」から、悪い実のほかにいかなる実が生ずるだろうか? 私たちは自分たちのいる場所を知っておこう。それまでの間、こうした問いを発する私たちの中の人々は、怠け者に立ち混じりはしない。また私たちも、魂をかちとることを求める人々の先陣に、いささかも遅れをとることはあるまい。

 用いられたいくつかの言葉において、筆者は教皇であると呼ばれ、こうした問いただしは異端審問であると語られている。これほど馬鹿げたことはない。つまり、もし私たちが自分の自由を用いて自分の思いを語ると、私たちは傲慢だと非難されなくてはならないということなのだろうか? 決意は、教皇制と同じことだろうか? 進歩派の人々がその言葉を持ち出すというのは、危ないことをすることである。というのも、私たちは彼らにこう思い出させるであろうからである。すなわち、教皇制にはもう1つの語句があり、それに関して彼らの一部は私たちに嘆かわしい事例を提供しているのだ、と。自分の信じている内容を隠し、自分の意見を用心深く持ち出し、それらを、普通に理解されるのとは違う意味の表現を用いて示し、『キリスト教世界』がきわめて正直に云い表わしたように、「聴き手には混乱と不満足を招くようなしかたで、大いに調整を加え、正反対の意見の釣合を取る」ようにすること、それこそ、私たちに対し、これほどにいわれなく帰されている傲慢そのものよりも卑劣な種類の教皇制である。しかしながら、非常に示唆に富む1つのことは、人々の上に光を照らすことは、彼らにとっては異端審問に等しい苦悶であり、公然たる討論は彼らのもくろみに大損害を与えるあまり、彼らはそれを拷問台や火刑柱にも比すべき責め苦とみなす、ということである。他にいかなる害を私たちは彼らに及ぼしただろうか? 私たちは彼らの髪一本も触れていないし、彼らの自由を1インチたりとも奪ってはいない。そうした人々はいくらでも語るがいい。そうすれば私たちは彼らについてよくわかるであろう。だが、そうした人々が、私たちに同じ自由を否定してはならない。また、そうした人々は、自分たちがそれほど熱心に襲撃しようとしているものを私たちが弁護するからといって、私たちを非難してはならない。

 いかなる行動を取るべきかについては、私たちは、イスラエルが何をなすべきかについて、私たちよりもはっきり見てとることのできる人々にまかせたい。1つのことは私たちに明らかである。私たちは、種々の根本的な点について、私たちが大切にいだいていることと全く正反対のことを教えているような人々を包含しているような、いかなる同盟に集うつもりも全くない。そのようなことができる人々には、疑いもなく、自分の行動を正当化できる有力な理由があるのであろう。私たちはそうした理由を批判しようとは思わない。彼らは、少数派が自分たちを追い出すべきではないと判断するかもしれない。私たちも、多くの事がらには、妥協の余地があるように見受けられる。だが、交わりがあるように見せかけることが、裏切り行為となる、という事がらも他にはあるのである。深い遺憾の意とともに、私たちは、私たちが心から愛し、切に尊敬している方々とともに集うことを控えることとする。というのも、それは、私たちが主にあって交わりを持つことのできない者らと徒党を組むことになるからである。ガリバルディーは、こう不平を云った。すなわち、ニースをフランスに割譲することによって、自分は自分の生国において外国人にされてしまった、と。そして、私たちの心も、それと似た悲しみを負っているのである。だが、私たちを追放する者らが、これから考えを改めて、私たちが戻って来られるようにすることもありえよう。


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