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1887年9月-
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数々の批判者および質問者たちに対する私たちの回答

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C・H・スポルジョン

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 私たちは、あらん限りの力を尽くして、つのりゆく時代の悪に関する警鐘をシオンで鳴らした。そして、それが決して早まったものではなかったという、おびただしい数の証拠を受けとっている。あらゆる方面から寄せられた手紙の宣言するところ、現在の教会の状態は、私たちが考えていたよりもはるかに深刻である。私たちは、事態を誇張しすぎたどころか、先に描き出したよりも、はるかにおどろおどろしい様相を描き出したとしても間違っていなかったように思われる。この事実は、私たちを心から悲しませるものである。もし私たちの述べたことが偽りであったと証明されていたとしたら、私たちは真摯な悔悟の告白とともに、自らの主張を撤回し、自分の恐れが取り除かれたことを喜んでいたはずである。私たちは、何も好きで告発しているのではない。かくも多くの人々に敵対するかのように見られるのは、私たちにとって全く心楽しくはない。私たちが、いかなるときよりも嬉しく感ずるのは、兄弟たちと交わりを有しつつ福音の進展を喜べるときである。

 しかし、だれひとりとして、私たちの申し立てに反駁しようと立ち上がりはしなかった。どちらかというと中立気味のひとりの紳士は、そうした申し立てが曖昧ではないかとあえて云おうとしたが、その人も、それらにまして明確なものはないと承知しているはずである。しかし、だれひとりとして、祈祷会が尊ばれているとか、大人数の出席を伴っていると示しはしなかった。だれひとりとして、ある教役者たちが劇場に足繁く通っていることを否定しはしなかった。だれひとりとして、広汎な立場の新聞各紙が、啓示された真理をこれっぽっちでも尊重していると主張しはしなかった。そして、だれひとりとして、わが国の教役者たちが概して健全な教理を教えていると証言しはしなかった。さて私たちは、こうした事がらが主たる問題点であると申し述べるものである。少なくとも、こうした事がらについてのみ争うものである。二義的な問題に関する判断の違いや、行動様式の相違が、いま問題とされているのではない。そうではなく、キリスト教信仰の死活に関わる重要な事がらが問題なのである。他の人々は、そうしたことを取るに足らないこととみなすかもしれないが、私たちはそうはできないし、そうするつもりもない。

 こうした重きをなす事がらを扱うかわりに、私たちの反対者たちは、私たちの病気をせせら笑うかのような、あてこすりをすることにした。私たちの書いた深刻な事がらはみな、私たちの肉体的な痛みによって触発されたものであって、私たちは長期の休暇をとるように助言されているのである。一見、同情するように見せかけて、その実、尊大ぶっている彼らは、真実を語る証人の足が不自由であることを云い立てて、人々の目を真実からそらそうとしているのである。こうしたつまらぬ行為については、ただこのことだけを云っておきたい。――第一のこととして、私たちの記事が書かれたのは、私たちが強壮な健康状態にあるときであり、それが印刷されたのは、やがて起こるべき発病のきざしすら見えない時であった。第二のこととして、もし私たちがキリスト者を相手に論戦しているとしたら、私たちはこう確信してよいはずである。すなわち、彼らは、いかに議論に窮したとしても、人格攻撃というような手段に訴えることはあるまい。とりわけ、痛ましい疾患をその標的とするような人格攻撃をするようなことはあるまい、と。こうしたキリスト者にふさわしい礼儀が踏みにじられたことによって、付随的には次のようなことが示されたわけである。すなわち、新神学は、単に道徳の新しい規範を持ち込んでいるだけでなく、今まで異なる気風と精神をも持ち込みつつある、と。こうした人々は、平然とこのように考えているらしく見受けられる。すなわち、もしもだれかが時代遅れの信仰にしがみつくほどの愚か者であるとしたら、もちろんそうした輩はどうしようもない低脳であって、軽蔑をこめた憐憫――憎悪の精髄――をこめて扱われてしかるべきなのだ。そして、もしそうした相手が病人だとしたら、相手の信仰内容はその病気のせいにすればいいのだ。相手の熱心さは、その痛みから起こった不機嫌さにすぎないと云い触らせばいいのだ、と。しかし、こうしたことはもう十分である。私たちは、肉体は激しく痛んでいても、霊においては、ほとんど苦々しさを感じていないので、自分の弱った肢体に射かけられた矢を笑えるほどである。私たちの批判者たちは、私たちの弱点が、私たちの頭にではなく、アキレスのように、私たちのかかとにあるとでも考えているのだろうか?

 私たちは『御言と御業』の編集子が非常に率直な物云いをしてくれたことに感謝したい。彼はこう云っている。―― 

 「今月号の『剣とこて』誌において、スポルジョン氏は、信仰からの離脱に関して、きわめて明確な主張をしている。正統信仰の隠れ蓑のもとで信仰の基礎そのものを攻撃するという不誠実さを彼が暴露したことは、真理にとって時宜を得たことである。疑いもなく、同様に悪い時代における忠実な預言者のように、彼は『イスラエルを煩わすもの』と呼ばれるであろうし[I列18:17]、すでに彼が悲観主義者呼ばわりされているのを私たちは目にしている。だが、彼の証言の重みを軽くしようとする、その種のいかなる試みも、それをより効果的なものにせざるをえないであろう。強い義務感に押し出されて人が公の発言を行なった場合、それを黙らせるのは決して容易なことではないであろう。

 「偽りの教理の説教者たちが何にもまして嫌うのは、自分たちのしわざが早まって見破られることである。十分に時間をかけて人々の精神をならして、自分たちの『新しい見解』を受け入れさせるようにできさえれば、彼らの成功は間違いなしである。彼らはすでにあまりにも多くの時間を得てきた。そしていま語るのを拒む者は、『その悪い行ないをともにする』者とみなされずにはおくまい[IIヨハ11]。スポルジョン氏が云うように、『まさに今は、少し歯に衣着せない物の云い方をすることによって、途方もない善がなされるはずである。こうした紳士たちは、放っておかれることを願っている。何の騒動も起こらないでほしいと思っている。もちろん盗人たちは番犬を憎み、暗闇を愛するものである。だが、いいかげんにだれかが大騒ぎを始め、いかに神がそのご栄光を盗まれつつあり、いかに人がその希望を盗まれつつあるかに注意を引くべきである』。
 「近年の過誤の進展に全く注意を向けたことのない人々には、それが今いかに迅速な歩調で進みつつあるか、全く考え及びもしないであろう。自由主義ということを口実に、非聖書的な諸教理が、説教や定期刊行物の中で、立派に世間に通用するものと認められているが、それは、ほんの数年前なら、信仰深い人々が死ぬまで抵抗したであろうようなしろものである。だれかが穏やかに抗議するときでさえ、説教者たちや雑誌記者たちはほとんど口をそろえて、あざけりか罵声によって、そのかすかな証言をかき消してしまうのである。文章界の広大な領域全体を通じて、あらゆる聖書的真理を憎んで、追いつめようとする陰謀が巡らされているように見受けられる。いかなる人であれ――特に、それが福音派の教会に属している人であれば――、自分が守り抜くと厳粛に誓ったはずの信条の何らかの部分を非難したり、否定したりすれば、たちまち立身出世は思いのままとなる。新聞雑誌は、その人の名声で世間を沸き立たせ、その不誠実さを弁護しさえする。彼が自らの誓いを破ったことによって権利を失ったはずの聖職給を受けつつあることは、不誠実としか云いようがないのだが。信仰を弁護しようとする者の受ける仕打ちは、これとは大違いである。その人は嘲られ、侮辱され、あざ笑われる。時代の精神はその人に敵対している。これは、多かれ少なかれ常にそうであった。しかし、その人は、この世を支配する者がだれであるか、この時代をだれが治めているかを思い起こすとき、忍耐のうちに自分の魂を持することで満足してよいであろう」。

 この証しは真実である。

 いかなる人も、突然の奇想が私たちの頭に入り込んだとか、私たちが激した短慮を起こして執筆したのだと想像してはならない。私たちは長い間、待っていた。ことによると長すぎるほどに待っていた。そして、語るのを遅くした。また、いかなる人も、私たちが、自分たちの言明を、僅かばかりの断片的な事実の上に立って築き上げたのだとか、忘れる方がいいような類の気の毒な出来事を表沙汰にしているのだと考えてはならない。すべてのことをご存じのお方おひとりが、私たちの目にとまった悲惨な諸事実を明らかにすることがおできになるであろう。思うに、それらの記憶は消え失せ、そうした重荷を負いながら、不和を引き起こしたくないばかりに沈黙を守った人とともに埋葬されるであろう。真理と愛の双方の主張を尊重しようと決意して、私たちは不安に満ちた小道をとったのである。怒りのほか何も招かないようなときに抗議を行なうのは、無分別だと思われた。悪を襲撃し、その過程で多大な善を押しつぶすことは、有害なことと見受けられた。もしすべての人がすべてを知ったとしたら、私たちの遠慮のほどは驚嘆されるであろうし、それが是とされることは確実だと思う。是とされようがされまいが、私たちには、真理の道と、神の栄光を一般に進展させようとすること以外にいかなる動機も持っていなかった。

 私たちの警告に憤慨する人々に正しい精神があったなら、彼らは私たちの非難が不当であると証明しようとするか、その真実さを嘆き悲しんで、私たちの嘆き悲しんだ悪を正そうとする働きに着手していたことであろう。悲しいかな、種々の教理をからかい、もてあそぶ軽佻浮薄な人々は、いかなる真剣さも茶化し、キリスト者の決意を笑いの種にする! だがしかし、残された忠実な人々がいるに違いないし、こうした人々は行動へとかき立てられ、この神罰がやむよう神に向かって大いに叫ぶであろう。福音は、私たちにとって、あまりにも尊いものであり、その純度が落とされることに無関心ではいられないのである。私たちは、主イエスに対していだく愛によって、主が私たちに依託なさった宝を守備せざるをえないのである。

 「悲観主義者」という醜い言葉が、私たちの専心する頭の上に浴びせかけられている。私たちは「陰鬱」であると非難されている。よろしい、よろしい! かつて私たちは、邪悪なほど剽軽であると咎められたもので、多くの鞭打ちが私たちの時を得ない冗談に加えられたものだった。今は私たちは陰気で、苦々しいというのである。かくもこの世の意見というものは変わるものである。その判決が右しようと左しようと、それに一文の半分も出すなら法外な値段であろう。実は、私たちは事態に関して楽観主義的な見方をとることも全く可能である。(批判者氏、言葉の使い方はこれで正しいだろうか?) 私たちは、世に多くのキリスト者的な熱心と、自己犠牲と、聖なる堅忍不抜さがあることを喜んで認めたい。それらは以前にましてあるかもしれない。私たちが一度でもそうではないと云ったことがあるだろうか? 私たちは、おびただしい数の恵みに満ちた、聖い、心の広い人々が、私たちの回りにいることを喜んでいる。私たちがそうしていないなどと、だれがあえて云うだろうか? 私たちは、多くの方面において、多くの有望で、喜ばしいものを目にしている。これは全く適切なことではないだろうか? 業病の徴候が点々と浮かんでいる顔立ちにも、まだ美しさや健やかさが大いに見られることもありえるではないだろうか? 教会は広大であり、その片端にある田畑が黄金なす穀物で私たちを喜ばせていても、もう片端には、いばらやあざみなどが一杯かもしれない。この上もなく多くの喜びのきっかけとなる事がらがあるのとまさに同時に、悲しみの種が増し加わりつつあることは、よく起こることである。私たちは、まさに今がそうであると判断する。神の御国は、敵どもがいようが進展して行き、神の真理は、いかにその反対者どもが勢力を有していても、長い目で見れば確実に勝利するに違いない。否、否。私たちはいかなる意味でも主の御国について意気消沈してはいない。そのようなことは、神の永遠の御力と《神格》にとって侮辱であろう。私たちの愛すべき批判者らは、私たちが酢に身を浸しておらず、苦よもぎで腫れた足を覆っておらず、自分の野菜とともにキニーネを飲んでいないことを知って、喜ぶこともありえるであろう。むしろ、彼らは私たちが主にあって喜んでいること、私たちが、あたかも万人を味方につけているかのような堅い確信とともに、戦いのための装具を身につけつつあることを見いだすであろう。1つの見方からすれば、事態は悪いが、物事には明るい面もある。主はまだ、バアルに膝を屈めていない、ご自分の人々を残しておられる。

 私たちは、深い嘆きとともに、云わなくてはならないことを語った。多くの教役者たちが信仰から離れてしまったと語った。そしてこれは、私たちの側の意地悪な邪推ではなく、多くのしかたで確かめられ、最も悲しくも確実なものとされた事実問題である。私たちの考えるところ、バプテスト派は、いかなる意味においても、独立派ほど遠くに行ってはいないと思う。実際、私たちは、彼らが確かにそうしてはいないと感じている。ある有名な会衆派の教役者で、この痛ましい主題に関する書物を執筆しつつある人が、私たちにこう書いて寄こしている。――「私は、あなたがたの教派における意見の状態については、特に詳しい知識を持っているわけではありません。私は、自分自身の教派について苦悩しているのです。キリストに対して、また人々の魂に対して忠実な多くの者たちはいます。ですが、悲しいかな! 私の見るところ、多くの人々は宣べ伝えるべき何の福音も有しておらず、人々はそうしたあり方を喜んでいるように見えるのです。私たちの神学校のいくつかは、私たちの諸教会をその水源から毒しています。私が非常に恐れているところ、回心してもいない教役者の数が増加しつつあります」。これと同じ趣旨のことを記しているのが、同じ教派に属する別の兄弟からの手紙である。彼はこう云っている。――「私は、『ブリティッシュ・ウィークリー』とは意見を異にしており、あなたが悪に関して『極端に悲観主義的な』物の見方をしているとは思いません。それとは逆に、あなたの確信は、現実から妥当とされるものにくらべれば、はるかに微弱なものだと考えたい気がします。――例えば、神学校が私たちの諸教会をあずからせるために輩出し続けている人々は、いかなる適正な意味においても、聖書の霊感を信じておらず、十字架上の代償的犠牲を否定しており、その信ずるところ、たとい罪人たちが墓のこちら側で信ずることがないとしても、墓の向こう側では救われるかもしれない、あるいは、救われることが可能である、あるいは、救われるに違いない、というのです。そして、中でも最悪なのは、教会員たちがそれを愛しているということです」。私たちは、この痛ましい証拠をいくらでもあげることができるが、その必要はない。この告発は否定されていないからである。それは、あざ笑われている。大した問題ではないとされている。だが、真剣な弁明はなされていない。これが私たちの至った状況だろうか? 保たれるべき何の教理も残されてはいないのだろうか? あるいは、その啓示は、流行の指によって、どうにでも形作られる、ぐにゃぐにゃの蝋細工めいたものなのだろうか? 懐疑主義者たちは、だれも批判の口を開こうとしないほどのさばっているのだろうか? あらゆる正統信仰に立つ人々は、「文化的な」人々のあざけりを怖がっているのだろうか? そのようなことは信じられない。私たちが個人的に知る限り、そのように不幸な結論に達することはありえない。だが、キリスト者の人々は今や、あまりにもおとなしくなってしまい、自分の考えを述べることから尻込みしている。家財が盗まれつつあり、壁に穴が開けられつつあるのに、寝床に入っている善良な人々は、そのぬくもりをあまりも好んでおり、頭をかちわられたり、階下に降りて、押し入り強盗と対決することをあまりにも恐れている。彼らは、ある種のうるさ型がそのガラガラを突然鳴らしたり、「泥棒だ!」、と叫ぶことに、なかば腹を立てさえする。

 悪のパン種が、教役者たちの間のみならず、諸教会の中でも働いていることもまた、悲しくも確実である。ある非正統信仰的な党派が、多くの会衆の中に存在しており、それを構成している人々は、忠実な人々に面倒をもたらしつつあり、悲しくも、より臆病な人々に影響を及ぼしては、優柔不断な方針をとらせつつある。ひとりの熱心な説教者が、多くの人々を代表して、こう云っている。「昔ながらの諸真理は、ここでは人気がありません。私は、恵みの諸教理を説教していると、ためになりませんよ――すなわち、金銭面で損になりますよ――と告げられています。そして、私はそれが間違っていないのを知っています。私は、現代の諸理論の中に頼りにできる何物も見いだせませんが、このことによって私は、会堂の支持者たちと敵対するようになっています。彼らは、私の説教の様式ではなく、その主題を非難しているのです」。別の場所では、こう証言されている。――「私たちの教役者は、有能で恵みに満ちた人ですが、教会の中には、いかなる人も、種々の進歩的な意見に好意的でない限り、ここにとどまらせはしないと決意しているような人々がいます」。しかり。こうした逸脱は日増しに明白になりつつある。1つのみぞが、自分の聖書を信ずる人々と、喜んで聖書を越えて進もうとする人々との間に開きつつある。霊感と思弁は、長い間、ともに和合していることがありえない。そこには、いかなる妥協もありえない。私たちは、みことばの霊感を信じていながら、それを拒否することはできない。贖いを信じていながら、それを拒否することはできない。堕落の教理をいだいていながら、人間性に発する霊的生命の進化について語ることはできない。悔悟しない人々の刑罰を認めていながら、「より広い希望」を与えることはできない。私たちに進める道は2つに1つである。決断こそ、今の時の美徳である。

 また、私たちは、自分の道を選んだならば、他の道を行く人々と同行し続けることもできない。真理をいだく決断とともに、それに対応して、過誤に対する抗議が来なくてはならない。狭い道を保とうという人々は、それを保つがいい。そして、自分の選択によって苦しむがいい。だが、それと同時に、広い道をたどろうと希望するのはばかげている。キリストとベリアルとに、いかなる交わりがあるだろう?

 ここまで私たちは述べておいて、やめにしよう。私たち、思いを1つにしている、できる限り多くの者は、主に仕えつつ、イスラエルが何をすべきかを知るようにしよう。堅い信仰とともに、自分の持ち場につこう。怒りにかられてではなく、猜疑と不和の精神をもってでもなく、むしろ油断のなさと、不屈の思いをもってそうしよう。自分が感じてもいない交わりを求めないようにし、自分の心の中に燃えている確信を隠しもしないようにしよう。時代は危険であり、あらゆる個々の信仰者は、自分の責任という重荷を自分で負わなくてはならない。さもなければ裏切り者になるしかない。あらゆる人の場所と道筋がいかなるものたるべきかを、主はその人に明らかにしてくださるであろう。


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