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1887年8月-
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《下り勾配》に関する付言

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C・H・スポルジョン

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 福音を愛する者であればだれしも、今が悪い時代であるという事実に目をふさぐことはできない。むろん私たちも、生来の小心さや、寄る年波による心配性や、痛みから生じた弱さなどを理由に、そうした懸念を大きく割り引いて考えることにやぶさかではない。だがしかし、私たちが厳粛に確信するところ、多くの教会において、事態は見かけよりずっと悪化しており、急速に低下しつつある。広汎な立場をとる非国教徒たちの御用新聞を読んで、自問してみるがいい。一体これらの行き着く先はどうなるだろうか? いかなる教理が放棄されずにすむだろうか? 他のいかなる真理が軽蔑の的となるだろうか? 1つの新しい宗教が創始されつつある。それは白墨が乾酪でないのと同じくらい、キリスト教とはかけ離れている。またこの宗教には道徳的誠実さが欠けており、古い信仰を多少手直ししただけのものだと詐称し、それを口実にしては、福音宣教のために立てられたはずの講壇を簒奪しているのである。《贖い》は鼻であしらわれ、聖書の霊感はあざけられ、聖霊はただの影響力におとしめられ、罪に対する罰は作り話にされ、復活は神話にされている。だのに、こうした私たちの信仰の敵どもは、私たちが彼らを兄弟と呼ぶこと、彼らとの同盟を保ち続けることを期待しているのである!

 教理的な欺瞞の後にやって来るのは、当然ながら、霊的生命の減退にほかならない。その証拠に、人々はいかがわしい娯楽を好むようになり、霊想的な集会に飽き飽きするようになりつつある。とある教役者と教会役員の合同集会で、口々に疑問が呈されたのは、祈祷会の価値についてであった。祈祷会にはごく僅かしか出席者がいないとだれもが公言し、人によっては、全く悪びれる風もなく、自分は祈祷会を開くのをやめにしたと述べていた。これは、どういうことだろうか? 一週間に一度しか祈りのための集会を開かず、それも形ばかりのものでしかないという教会が、正しい状態にあるといえるだろうか? むろん、主日に何度も祈りのときを持ち、平日の間もごく頻繁に祈祷会を開いているような教会は、なおも、さらなる祈りの必要を感じてはいる。だが、ごくまれにしか心合わせて祈りをささげることを行なっていない人々について何が云えるだろうか? そこでは、ほとんど回心が起こっていないという。会衆が次第に減少しつつあるという。何の不思議があろう。それこそ、祈りの霊が去った場合に起こることにほかならない。

 いかがわしい娯楽について云えば、――かつては、劇場に通っていることが知られた非国教会の教役者は、すぐに自分が教会をなくしてしまったことに気づくものであった。それも当然である。いかなる人も、劇場に入り浸っているなどと知られれば、いかに世俗的な者の信頼さえ、長い間保っておくことはできないからである。それが現代においては、それなりの名声のある説教者たちが劇場を擁護していること、それも、自分たちが劇場にいる姿を見られたためにそうしていることが、大々的に取り沙汰されているのである。教会員たちが、その献身の誓いを忘れて、聖からざる者らとともに軽佻浮薄な道をひた走っているとしても何の不思議があるだろうか? 牧師職にある人々が同じことをしても許されているというときに。疑いもなく私たちは、こうしたくだりを書くことによって、お高くとまっているとか、偏狭であるとか非難されることになるであろう。また、それは、多くの場所における教会の気風や精神がいかに下落しているかを証明するだけであろう。実のところ多くの人々は、教会と舞台、骨牌と祈り、踊りと聖礼典を結び合わせたがっているのである。私たちは、たといこの奔流をせき止める力はなくとも、少なくとも人々にその存在を警告し、そこから遠ざかるよう懇願することはできる。昔からの信仰が失せ去り、福音のための熱情がすたれるとき、人々が歓楽の道に走り、何か他のものを探し求めるようになっても不思議ではない。パンを欠くために彼らは、灰で食いつなぐのである。主の道を拒否する彼らは、愚劣の通り道を貪欲にひた走るのである。

 非国教徒の辿ってきた道に詳しい、さる立派な教役者が、ある日、私たちに向かって述べたところ、彼は、非国教徒の間で歴史が繰り返すのではないかと心配しているという。過ぎし時代の彼らは、上品で、思慮深く、穏健で、学識ある人々とみなされることを目指した。そして、その結果、自分たちが元々有していた清教徒的な教えを放棄し、自分たちの教理に手心を加えることになった。かつて彼らをかりたてて、国教徒になるのを拒否させた原因たる霊的生命は、減退しすぎてほとんど死に瀕していたし、福音的な非国教会の存立そのものが危うくなっていた。そのとき、ホイットフィールドやウェスレーのもとにおける、生きた敬虔さの激発が起こり、それとともに非国教徒も新たに息を吹き返し、あらゆる方面で影響力を増加させたのである。

 悲しいかな! 多くの人々は今、かの退潮の世代を麻痺させた毒入りの杯のもとに引き返しつつある。かの時代に、その世代はユニテリアン的な無気力さに屈伏した。今も、あまりにも多くの教役者たちが、「現代思想」という形をした「ほかの福音」という致命的な眼鏡蛇をもてあそんでいる。その結果、彼らの会衆はまばらになり、彼らの教会員の中でも霊的な人々は、「ブレザレン」や、他の「無所属の信仰者たち」の群れに加わりつつある。その一方で、もっと富裕で、もっと派手好きな人々は、一部の疑いようもなく敬虔な人々とともに、愛想を尽かして英国国教会に入りつつある。

 私たちは、監督教会[国教会]が覚醒しており、熱心と力に満ちているという事実から目をそむけないようにしよう。確かに私たちは、その儀式尊重主義とは意見を異にしているし、それが国立の教会として制定されていることはおぞましい限りだが、この教会が成長していること、また、その成長の数ある理由の1つが、一部の非国教会の間で霊的生命が衰弱しつつあるからであることを感じざるをえない。福音が、余すところなく、また力強く、天から地上に送られた聖霊とともに説教されるとき、私たちの諸教会は、自分たちの教会員をひきとめておくばかりでなく、回心者をもかちとるはずである。だが、その強さのもととなるものが失せ去るとき――つまり、福音が押し隠され、祈りの生活がなおざりにされるとき――、すべては単なる形式となり、作り事となってしまう。このことのゆえに私たちの心はいたく嘆くものである。ただ反対するだけのために国教会に反対するというのは、片意地な精神の苦い実である。政治的な党派心のために反対するというのは、キリスト教信仰の堕落であり、拙劣なにせものである。真理のために反対すること、それも内なるいのちの力に押し出されてそうすることこそ、高貴で、賞賛に値し、人類にとって最も気高い益を伴ったことである。私たちは、純粋な、いのちの通ったものを持とうというのだろうか? それとも、最良のものが腐敗した後で生み出す最悪のものを持とうというのだろうか? 国教を信奉するかしないかは、それ自体としては大したことではない。だが、新しい創造はすべてである。そして、新しく造られた者を生かすことのできる唯一の根拠たる真理を守ることは、一千人もの死に値することである。本当に尊いものは外皮ではなく、そこに包まれた穀粒である。穀粒がなくなってしまったとしたら、そこに何か顧みるべきものが残っているだろうか? 私たちが生きた霊的な力としてあるとき、非国教徒であることは測り知れないほど尊いことである。だが、私たちがそのようなものとしてとどまり続けない限り、非国教徒であることは正当化できないであろう。

 状況は悲痛である。一部の教役者たちは不信心者になりつつある。無神論者であると公言する人々よりも、疑いをまき散らし、信仰を突き刺す、この手の説教者の方が、十倍も危険である。先頃ある素朴な人が私たちに告げたところ、彼は、人は雨が降るように祈るべきだと考えているというので、ふたりの教役者からあざ笑われたという。ひとりの篤信の婦人が私の面前で嘆いたところ、それまで彼女の慰めとなってきたイザヤ書のある尊い約束を、彼女の教役者は、霊感されてはいない言葉だと云い切ったという。近頃よく聞かれるのは、労働者たちが、その邪悪さの云い訳として地獄などないと云うことである。「牧師だってそう云ってらあ」。しかし、こうした数々の痛ましい事実を長々と述べ立てる必要はない。ドイツはその説教者たちによって不信仰へと陥らされたが、英国もその轍を踏みつつあるのである。礼拝所への出席人数は減少しつつあり、聖なる事がらに対する畏敬は消滅しつつある。そして私たちが厳粛に信ずることろ、その原因の大半は、講壇から露骨に浴びせかけられ、人々の間で広まっている懐疑主義にある。もしかすると、そうした疑念を口にした人々も、そこまでのことは全く意図していなかったかもしれない。だが、それにもかかわらず彼らは害をなしており、それは取り返しがつかない。だが彼らは、自分が目にしつつあることによって、もっと賢くなってしかるべきであろう。こうした進歩的な思索家たちは、自分たちの会堂を人々で一杯にしているだろうか? 結局において彼らは、古い方法を打ち捨てることによって富み栄えているだろうか? もしかすると、ごくまれな場合、こうした輩も、天賦の才と手腕とによって、自分たちの牧会活動の破壊的な結果を乗り切りおおせているかもしれない。だが、多くの場合、彼らの瀟洒な新神学は、自分の会衆を蜘蛛の子を散らすように四散させてしまった。千人や、千二百人や、千五百人すら収容できる集会所、かつては熱烈な聴衆が天井までびっしり埋め尽くしていた集会所に、今はいかに微々たる人数しかいないことか! その実例をあげたいところだが、そうはすまい。福音が満たしていた場所を、新しいたわごとは空っぽにしてしまった。そして、空っぽにし続けるであろう。

 この事実は、「洗練された」人々には痛くも痒くもあるまい。というのも、概して彼らは、見事なうぬぼれをふくれあがらせているからである。ある人は、自分の教会の会衆席に、ちらほらとしか礼拝者が見えなくなっても、こう云っている。「しかり。説教者の精神が拡大するに従って、例外なく、その会衆は減少するものだ」。こうした、私たちの教会の破壊者どもは、猿がその悪戯に大喜びするように、自分たちのしわざに満足し、嬉々としているように見える。彼らは、自分の父祖たちが嘆き悲しんだであろうようなことを喜びとしている。自分たちの牧会活動から、貧しい者や、素朴な精神をした人々が離れ去っていくのを賛辞と受けとめ、霊的な考え方をする人々が悲しみ嘆くのを、自分たちの力の証拠とみなしている。まことに主がご自分の民を残しておいてくださらなかったとしたら、私たちはとうの昔に、私たちのシオンが野原のように掘り返されているのを見ていたはずである。

 先日、私たちは、ある無牧の教会の牧師としてふさわしい人の名前を推薦してほしいという依頼を受けた。その手紙を書いて寄こした執事はこう云っている。「どうか、その人が回心した人であるようにお願いします。また、自分が説教することを自分でも信じている人であるようにしてください。というのも、私たちの周囲には、自分が説教していることに何の関係もないし、それにあずかることもできないように見える人々がいるからです」。こうした所見は、私たちがありがたく思うよりもはるかに頻繁になされつつあり、悲しいかな! それがなされるべき、はるかに大きな必要があるのである。私たちも時々訪れることのある会衆のもとに、とある神学校の学生がやって来て説教をしたが、その説教は、執事が教会付属室で彼にこう云うほどのものであった。「あなたは聖霊を信じておられるのですか?」 青年は答えた。「たぶん信じていると思いますよ」。これに対して執事は答えた。「私は、あなたが信じていないと思います。さもなければ、あなたは、私たちをあのような偽りの教理で侮辱しはしなかったでしょうから」。まさに今は、少し歯に衣着せない物の云い方をすることによって、途方もない善がなされるはずである。こうした紳士たちは、放っておかれることを願っている。何の騒動も起こらないでほしいと思っている。もちろん盗人たちは番犬を憎み、暗闇を愛するものである。だが、いいかげんにだれかが大騒ぎを始め、いかに神がそのご栄光を盗まれつつあり、いかに人がその希望を盗まれつつあるかに注意を引くべきである。

 さて、ここで真剣な問題となるのは、聖徒にひとたび伝えられた信仰にとどまっている者たちが、ほかの福音に転じた人々と、どこまで友好的なつきあいをすべきか、ということである。むろんキリスト者的な愛は実践すべきであり、分裂は嘆かわしい悪として避けるべきである。だが、真理から離れつつある人々と同盟していることにおいて、私たちはどこまで正当化されるだろうか? これは、義務の釣り合いをとりながら答えるのが困難な問いである。現在のところ信仰者たちは、主を裏切る者たちを支持したり、黙認したりしないように用心深くしていなくてはならない。真理のために、あらゆる教派的な制約を飛び越えるということは、あってよいことである。これを私たちは、すべての敬虔な人々が、いやまさって行なうようになってほしいと希望する。だが、真理よりも教派の繁栄と一致を重視せよと人に促すような方針は、それとは全くの別物である。多くの考えなしの人々は、才気のある人や、気立ての良い兄弟や、立派な点が多々ある人々によって犯されたものであれば、どんな過誤をも大目に見ている。いかなる信仰者も、自分で判断を下すがいい。だが、私たちとしては、自分の玄関に何本か新しい閂を取り付け、鎖をかけておくように命じておいた。というのも、召使いの友情を乞い求めるふりをしながら、《主人》のものを盗み出そうと目論んでいる者たちが、あたりをうろついているからである。

 残念ながら、口先ではあることを告白しながら、内心では別のことを信じているような浅ましい人々を締め出せる団体を形成する希望は全くないと思う。だが、自分の父祖たちのキリスト教を信奉するすべての人々が、非公式に協力し合うことは可能であろう。そうした人々にできることはほとんどないかもしれないが、少なくとも、沈黙による共謀を伴うような共犯行為に抗議すること、また、可能な限り、そこから自らは遠ざかっていることはできるであろう。福音主義者たるもの、たとい、しばらくの間は没落する定めにあるとしても、戦いながら死んで行くことにしようではないか。そして、「現代思想」の種々の発明が消えることなき火で焼き尽くされる際には、自分たちの福音が復活するのだと完全に確信していようではないか。


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