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下り勾配*1

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(1887年4月)

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 ウィリアム三世がその統治を始めた1688年から、ジョージ三世の長い治世が開始される年[1760年]までの時期は、非国教徒たちの間における「静かな時」と述べられている。それは、1つ以上の意味において、そうであった。表立った組織的な迫害は影をひそめた。ロード主義の精神はまだ息づいていたが、支配的なものではなかった。国教徒と非国教徒との戦いは、もはや以前のように剣や武力によるものではなく、むしろ文筆によるもの、また、国家教会の扇動者たちがかくも用い方に熟達していた、静かで、陰険な影響力によるものとなっていた。この時期はまた、生き生きした信仰や、真剣な熱心さや、福音の進展をはかるための一途で敬虔な精神がほとんど見られないという意味でも静かであった。一部の顕著で幸いな例外を除き、それは大部分において、腐敗と死の静かさであった。チャールズ二世の放蕩ぶりや、ジェームズ二世の不実な行為が、宮廷の上に、貴族階級の上に、講壇や新聞の上に、そして一般社会の上に影響を及ぼしていた。真のキリスト教信仰は衰え果て、ごく僅かに残された真剣で忠実な人々がいなければ、その腐敗と死は完璧なものであったであろう。それは、ペラギウス主義*2およびソッツィーニ主義の異端が伝播するのにうってつけの時であった。アルミニウス主義(これは名前を変えたペラギウス主義でしかないが)は、英国国教会の生命のあらかたを食い尽くしてしまっており、後に続いたアリウス主義は、その破壊を押し進め、完成させた。

 あたかも、最良に定義された信仰箇条も、それ自体ではいかに無力であるかを示そうとでもいうかのように、アリウス主義を最初に公然と唱道したのは、国教会の教職者たちであった。ケンブリッジ大学の数学教授ウィリアム・ホウィストン博士と、ウェストミンスターの聖ジェームズ教会の主任牧師サミュエル・クラーク博士は、真理に対するこの聖ならざる戦いの主将たちであった。教職者たちの多くが、また平信徒の間でも若干の人々が、彼らの意見をいだくようになった。国家教会を信奉すると告白する大多数の人々は、キリスト教信仰に対して無関心を決め込んでおり、この問題にかかずらおうとはしなかった。しかし、非国教徒たちの間では、そうではなかった。聴衆たちの多くは、神学的問題に対する関心において、全くとまでは云わないものの、さほど彼らの教役者たちに遅れをとってはいなかった。そして、このような状況にあってホウィストンやクラークの不細工な理論は、彼らの好みにかない、彼らの理性に心地よいものとして、喜んでいだかれることとなった。長老派の教役者ジェームズ・ピアスは、まずケンブリッジで、次いでニューベリーで、後にエクセターで、はかりしれないほどの害悪を及ぼした。彼は、学問や、雄弁や、その他、天賦の、あるいは後天的な才能いう点で、自分が教役者として務めていた会衆から高い評価を得ていた。そのため、彼の教えの影響は、ひときわ巧妙で力強いものとなり、その結果は一段とすさまじいものとなった。

 独立派の間でも、このパン種は働いていた。各地の神学校、すなわち、当時は学院と呼ばれていたものの中で、この害悪は最初に重要な局面を迎えた。ドッドリジ博士は、愛すべき人物であったのと同じくらい健全であった。だが、ことによると彼は、常に思慮分別があったわけではないかもしれない。というよりもむしろ、おそらくは思慮分別がありすぎて、必要とされるほどの大胆さや果断さを発揮しなかったのであろう。影響力の大きい教会の牧師であり、他のいかなる学院よりも上位に格付けられていた学院の校長であった彼は、その愛すべき人柄の欲するままに、より厳格な気質をした人々であれば行なわなかったであろうようなことを行なうことができた。時として彼は、その正統性に疑問がいだかれたような人々と友好的につきあい、講壇を交換することさえあった。それは、多くの若年の人々に感化を及ぼし、一般に、当時生じつつあった意見の相違を軽くみなさせることとなった。しかしながら、いかなる人も――むろん本稿の著者も例外なく――、あの

   「イェス、われ愛さん、汝が麗しき名を」

の作者に、いささかも異端の気があったとほのめかすことはできないであろう。ドッドリジ博士の後を継いだのは、ダヴェントリーのアシュワース博士である。彼は、ドッドリジ博士の意志により、ノーサンプトンの独立派教会に対して、彼の牧師職および学院における後継者として推薦された。しかし、アシュワース博士はダヴェントリーにとどまることに決め、学院は同地に移転することになった。数々の卓越した才能、深い学識、申し分のない思慮深さ、気取りのない慎み深さ、教師としての義務に一意専心する勤勉さといったものが、歴史家の描くところの彼の性格のあらましである。彼は穏健派のカルヴァン主義者であったが、私たちはこの「穏健」という部分に非常な強調を置きたいと思う。少なくとも、彼の生徒のひとりの証言からして、そのように推測しても不当ではあるまい。その生徒とは、非国教徒たちの間におけるソッツィーニ主義の偉大な鼓吹者、ジョーゼフ・プリーストリ博士である。彼は云う。――「私の在学当時の学院は、真理の真剣な追求にとって格別に好ましい状態にあった。学生たちは、あらゆる重要な問題について、ほぼ均等に意見を異にしていたからである。重要問題とは、例えば、自由、必要、魂の眠り、そして、正統神学および異端におけるあらゆる項目であった。その結果、こうしたすべての論題が絶えざる討論の主題となっていた。私たちの教師たちも、それぞれ異なる意見を持っていて、アシュワース博士はあらゆる問題において正統信仰の立場をとったが、副教師のクラーク氏は、きわめて慎み深くはあったが異端の立場をとっていた。私たちの教師たちはふたりとも、少なくとも教師としては年若く、上級生の何人かが、いくつかの学科で彼らの能力をしのいでいたため、私たちには最大限の自由が与えられていた。一般的な履修計画は、刊行されたドッドリジ博士の講義録の中に見られるが、ことのほか自由な探求にとって好ましいものであった。あらゆる問題について、双方の立場の著者が参照されていたからである。このような環境にあって私は、あらゆる問題について、一般には非正統的な立場と呼ばれるものを奉ずべき理由を見てとった」。

 カワード氏によって創設され、支えられ、やがては彼から、「学生たちが《集会教理問答》の原則によって教育されるという明確な条件とともに」寄付金を受けた、この有名な学院のその後の歴史は、この教授たちによって採用された方針の愚劣さと実質的な不忠実さとを例証するものである。ロビンズ氏は、牧師として、また教師としてアシュワース氏の後継者であった。彼は健全な信仰を有しているという評判を得ていた。しかしながら、彼の助手はトマス・ベルシャムであり、やがて神学教授として彼の後を継いだ。ベルシャムはプリーストリーの同級生であり、カルヴァン主義のあからさまな敵対者となり、ソッツィーニ主義の公然たる唱道者となった。彼には、その教師職を辞任するだけの誠実さがあった。しかし、害はすでになされていた。敵は、麦の中に毒麦を蒔いた後で、「行った」のである[マタ13:25]。その種は、容易には取り除くことができなかった。彼の後継者であるホーシー氏も、ベルシャム並みの人物であったとしか思えない。というのも、「生徒たちのほとんどがソッツィーニ主義者であることがわかった」からである。彼は創設者の意志を忠実に果たしていないということで辞任に追い込まれ、同校は解体された。

 これは、神学的らい病に完全に汚染された機関に対する、賢明な――衛生上からも、霊的意味においても賢明な――律法の適用であった。それは、古に神がお与えになったものである。その家は壁が削り落とされ、別の石をはめこまれ、塗り直されていた。それでも、「もし患部が家に広がっているなら、それは家につく悪性のらい病であって、その家は汚れている。その家、すなわち、その石と材木と家の土全部を取りこわす。またそれを町の外の汚れた場所に運び出す」[レビ14:44-45]。

 魚が最初は頭から腐っていくように、また、かの古い古いことわざ――「この祭司にして、この民あり」*[ホセ4:9参照]――が今なお一般に正しいように、そのような教役者たちから善がなされるとはほとんど期待できないし、彼らの意見を是認するような聴衆たちにはほとんど希望が持てない。確かに、ホイットフィールドを始めとする、福音的信仰復興に関わった偉大な説教者たちが出現すべき必要は十分にあった。その信仰復興の到来は、一日たりとも早すぎはしなかった。というのも、一般に諸教会はまさに「全く卑しめられ」ていたからである[イザ32:19]。

 独立派の諸教会は、その多くが嘆かわしいほど異端に汚染されていたとはいえ、腐敗したままにはならなかった。一団の熱心で忠実な教役者たちが起こされ、彼らは倒れ果てていたものを建て直し、その時代に自分たちの足跡を刻み、その後継者たちに自分たちの模範を残したのである。現代の一団の人々は、自分の父祖たちにふさわしい後継者であることを明らかにするだろうか? 疑いもなく、一部の人々はそうするであろう。それが、すべての人々について云えるとしたら何と良いことか! しかし、あまりにも多くの場合、福音的な熱心があるべきところには、懐疑的な大胆不敵さがあるように見受けられ、神学的思弁という殻の方が、福音の真理という健全なパンにまさって好まれている。ある人々は、真理のうちをいかに堅実に、また忠実に歩めるかではなく、いかに真理から遠ざかれるかに努めているかのように見える。彼らにとって、天来の真理は獅子か虎に似て、「敬して遠ざける」べきものなのである。私たちは忠告する。――その断崖に近づきすぎてはならない。足を滑らすか、転落するかもしれない。堅い地盤にとどまるがいい。砕けやすい氷の上に足を乗せようなどとしてはならない。ひとりの老宣教師、ホーワースの故トマス・モーガンの忠言を受け入れるがいい。著者と、二十年前に永眠したある尊い兄弟は、みなメードストン方面へ旅をしていた。そこでこの宣教師は故ダブニー氏と出会うことになっていたのである。私たちのひとりが彼に云った。「未来の刑罰について、ダ氏はいかなる説に立っているでしょうか?」 この老ウェールズ人は答えた。「そうさな。もし彼がわしにその主題を持ち出してきたら、わしは云うだろうよ。『それに手は出しなさんな。それだけじゃ』」。それと同じことを私たちは、現代思想という鬼火を追いかけたがっている向こう見ずな人に、あえて云いたい。「それに手は出しなさんな。その近くには泥沼があって、そこであなたは、自分自身も、自分にとって大切なものも、何もかも失ってしまうかもしれませんよ」、と。もしもだれかが、ダーウィン説のオタマジャクシがどこで孵ったか知りたければ、私たちはシュローズベリーの本町にある古い会堂の会衆席を指し示せるであろう。それは、ダーウィン氏と、彼の父と、おそらくは彼の父の父とが、そのキリスト教信仰の素養を授かった教会である。その会堂が建てられたのは、あの放逐された教役者のひとり、タレンツ氏のためであった。だが、非常に長きにわたり、そこでは純然たるソッツィーニ主義が教えられているのである。それと同じことは、チェスターにある古い会堂についても云える。それは、かつてマシュー・ヘンリーが教役者として務めた教会であり、そこには彼の『注解書』の初版本も、一般の使用に供するために一揃い所蔵されているが、残念ながら、今やその注解書しか、彼がそこで説いていた諸真理を証言していないのではないかと思う。また、それより重要ではないが、やはり注目に値することとして、シュローズベリーの古い本町教会に寄贈された資産は、今では年間300ポンドから400ポンドを生み出しつつあるが、それは多年にわたりソッツィーニ主義の教えを支えるために充当されているのである。

 一般バプテスト派については、まだ取り上げていなかった。そして、ここで私たちは、かっきり明確な境界線を、《旧派》と《新派》の間に引かなくてはならない。後者が形成されたのは1770年、前者の非正統的な立場の結果であった。《旧派》は、概してアリウス主義的になり果て、ほぼ何の例外もなしに、ソッツィーニ主義に至る「下り勾配」を突き進んでいった。ある高名な著者は、今世紀初頭に書いた文章の中で、以下のような、やや驚くべき言明を行なっている。――

 「非国教徒の間におけるアルミニウス主義は、概して冷淡で、無味乾燥で、生気のない体系であり、心に及ぼすその効果は、普通は弱々しく、活気のないものである。アルミニウス主義をその信条として公言する一般バプテスト派にとっては、それこそその著しい効果であり、彼らの会衆は増加しなかった。それに加えて、たわめようもないほど頑強で、反駁しようもないほど数多くの事実によって云えるのは、アルミニウス主義こそ彼らがアリウス主義およびソッツィーニ主義に陥っていく共通の通り道だった、ということである。彼らの教役者および会衆たちは、公然とこうした意見を告白した最初の人々であった。また彼らの諸協会には、こうした意見が一様に生み出してきた腐敗が、今に至るまで感じられる」。

 著者は、一般バプテスト派の《旧派》の教会が存在していた、ケント州のいくつかの場所を指摘し、それらの現在の状態を叙述することができる。ドーヴァーにある教会は、長年の間ソッツィーニ主義に立っており、ことによると、同州で最も力ある教会の1つかもしれないが、その会堂は小さく、出席者は僅かしかいない。ディールにある教会もまた、同じようにソッツィーニ主義に立っているが、それは、それを教会と云えた場合の話であり、その場所では三週間に一度しか礼拝が開かれていない。ウィンガムにある教会は、すでに長年にわたり閉鎖されている。イェルディングの大きく富裕な地区にある教会は、半世紀もの間、閉鎖されている。著者は30年前には、この古い、馬小屋めいた建物をしばしば訪れ、そこで説教していたが、その目的のために貸されていたその場所は、いかなる死んだような場所にもまして、どこよりも生気がなかった。霊的に云ってそれは、ダウレス山近辺の地表のようで、――いかなる草木や植物、あるいは生き物の痕跡も見当たらないのである。

 アイソーンにある古い教会は、250年近くも一般バプテスト派であり、最初は《旧派》に属していたが、次いで《新派》に属した。今から100年ほど前に、その牧師と会衆はカルヴァン主義になり、特定バプテスト派に加入した。語るも不思議な事実だが、その時点から、その教会は発展し始め、人数が増加し、霊的な活力と社会的地位が向上したのである。そして、これは今や嘘偽りない真実だが、英国諸島に数ある教会の中でも、過去100年間の間に、これほど尋常ならざる歴史を経てきた教会はほとんどない。600人足らずの住民しかいないこの村の教会から、株分けされた人々がドーヴァーや、カンタベリーや、ディールへと送り出される一方で、その教会員、あるいは彼らの子孫たちは、フォークストンや、ラムズゲートや、マーゲートその他のサネット島の各地に教会を設立するか、設立の手助けを行なう器となったのである。

 セヴンオークス近郊の、ベッセルス緑地にある一般バプテスト派の教会では、長い間、激越で痛ましい闘争がソッツィーニ主義と福音的正統信仰との間で繰り広げられていたが、ついに後者が勝ちをおさめた。

 この最後の2つの実例は、「下り勾配」よりも「上り勾配」を例証しており、前者を一層くっきりと浮き彫りにするものである。

 紙数の乏しさと事実のおびだしさにより、こうした素描は相当に荒削りで、行き届かないものとなってしまった。これから先は、ここまで私たちが自らの痛ましい義務として物語ってきた、この敬虔さおよび主義原則における悲しい腐敗を生じさせた原因、あるいは諸原因について、多少の示唆を云い足すことくらいしかできない。

 正道をはずれた、あらゆる道筋の場合、そこには常に、最初の間違った一歩がある。もしその間違った一歩を突きとめることができたとしたら、私たちはそれを、またその諸結果を避けることができるであろう。では、どこに「真理の大道」から逸脱した点があるだろうか? 何が誤てる最初の一歩なのだろうか? それは、何らかの教理を疑うことや、何らかの意見に疑問を呈することや、その他、正統的な信仰内容のいずれかについて懐疑的になることなのだろうか? 私たちは、そうは思わない。こうした疑いや、この種の懐疑論は、それ以前に生じた何物かの成果なのである。

 もしも、未知の海域を横断しなくてはならなくなった海員が自分の海図に絶対的な信頼を置かないとしたら、そしてそれゆえに、船の舵を取る際にそうした海図で針路を方向づけないとしたら、彼は、だれでもわかるように、一瞬ごとに種々の危険にさらされることになる。さて、神のことば――聖なる人々が神の御霊に動かされるままに書き記した書物――こそ、キリスト者の海図である。そして、たとい乗組員の中のある者らが航海術の重要な知識をほとんど持ち合わせていないとしても、船長はその分野で十分に訓練を受けているはずであり、そうした海図を参照することによって、船を正しく進めることができるはずである。それと同じことが、キリストの福音に仕える教役者たち、キリストがご自分の血をもって買い取ってくださった、キリスト教会の牧師たちについても云える。道からそれる最初の一歩は、この神聖な聖書が有する天来の霊感に対して、ふさわしい信仰を欠くことにある。人は、神のことばの権威に服している限り、聖書の教えに反するいかなる意見をいだくこともないであろう。あらゆる教理について、その人の拠り所は、「おしえとあかしに尋ね」ることである[イザ8:20]。その人は、この聖なる書物を、あらゆる事がらについて正しいとみなし、それゆえ、あらゆる偽りの道を憎む。しかし、人が聖書の霊感と権威を疑う、あるいはそれらについて低い見解をいだくや否や、その人は自分を方向づける何の海図も、自分を支える何の錨もなくなるのである。

 私たちが手短に記してきたこの時代の歴史を、また、この時代の動きを丹念に眺めるとき、以下の事実は明白である。すなわち、教役者たちとキリスト教会とが、聖書は神によって与えられた、信仰と行為についての権威ある無謬の規則である、との真理を堅くにぎっているところでは、彼らは決して正しい道から深刻な逸脱をすることはなかった。しかし、逆に、理性が啓示よりも持ち上げられ、啓示の説明者とされるとき、ありとあらゆる種類の過誤と害悪がその結果となってきた。

 もしこれが事実であるとしたら――そして、だれにそれが反証できよう?――、私たちは、危険な時代に生きている。神のことばの霊感――天来の霊感――に疑義を呈するあらゆる人々のすぐそばには――それがだれであろうと――大きな危険がある。「地よ、地よ、地よ! 主のことばを聞け」*[エレ22:29]。

 著者の意見では、霊感の教理において健全な人々は、多かれ少なかれ教理的にはカルヴァン主義的である。そして、天来の真理の託宣がへりくだりと祈りをもって学ばれれば学ばれるほど、その人の見解は福音的な真理に一致したものとなっていくであろう。これが著者ひとりの意見でないことは、以下の文章から見てとれるはずである。――

 「確かに、天来の聖書に対する尊崇は、概してキリスト教信仰における意見のきよさの試金石であると考えられるに違いない。この点でカルヴァン主義者と肩を並べうる者があるかどうかは、この主題について広範な観察を積んできた読者の方々の判断にゆだねたい。ことによると、ある派がカルヴァン主義から遠のく度合に応じて、聖書に対する彼らの尊崇は減少する、と云っても反駁のしようはないかもしれない。聖書こそカルヴァン主義者の信条である。カルヴァン主義者は、神が何と語られようと、いかに神秘的な教理であろうと、それを受け入れ、信じなくてはならないと感ずる。概してアルミニウス主義者たちは、この点にかけてはカルヴァン主義者と肩を並べることがないものである。そして、アルミニウス主義の信条の多くは、《神格》の道徳的完全さに関する彼らの観念をその根拠としており、そうした観念に一致するように聖書のあらゆる部分を説明するのである。これを達成するためには、決して小さくないしかたの無理強いが用いられなくてはならないが、それは関係ない。アリウス主義者は、アルミニウス主義者よりも一段と聖書を尊崇することがない。アリウス主義者は霊感について一段と低い考え方をしており、その批評規準は一段と聖なる記者たちをおとしめるものであり、人間理性は一段と高い立場に持ち上げられており、理性に理解しきれないものが易々と受け入れられることはない。ソッツィーニ主義者の精神は、それよりさらに小さな尊崇の念しか神のことばに対して感じていない。というのも、ソッツィーニ主義者の意見によると、聖書のある部分は霊感されていないからである。使徒たちの議論には誤りがあり、少なからぬ箇所が真正なものではなく、それ以外の部分も、聖書の云い回しや言葉遣いについては、他のいかなる著者の意図を講解する際にも許されないだろうような程度まで拡大解釈される」(ボーグおよびベネット著『非国教徒の歴史』)。

 ドッドリジ博士の学生のひとりであり、短期間、博士とともにノーサンプトンで補助教師をしたジョブ・オートン師は、1741年から1765年の間、シュローズベリーの本町で集会を持っていた長老派と独立派の合同集会の教役者であった。彼は、その意見の多くが健全で善良なものではあったが、完全に正統信仰に立っているとは考えられていなかった。聴衆の多くは、彼がキリストの《神格》に関して非正統的ではないかと疑っていた。このため彼らは、後に六巻本の説教集として刊行された聖書講解を彼が説教している際、イザヤ9:6の「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる」云々の部分に差しかかったときには、「力ある神」という部分について彼が何と云うかと固唾を呑んで耳を傾けていたが、いたく失望させられることになった。彼は、この輝かしい宣言を、このように云って、やり過ごしたからである。「力ある神。この意味を私は告げることができない。また、なぜそうすべきであろうか? 彼の名が《不思議》と呼ばれているというのに?」 全く何の驚くべきことでもないが、本町教会における彼の後継者はソッツィーニ主義者であり、彼の会衆のうち正統信仰に立つ人々は、スワンヒルに独立派の教会を創立した。この教会は、いかなる本質的な事がらについても、元来の健全さを今なお保っている。

 だがしかし、オートン氏は、フィリップ・ヘンリーが自分のキリスト教信仰に関して発した言明を強く推賞した。そして、そのいくつかの書簡中に、ソッツィーニ主義者たちによってひいき目に見られる人物から出たものとしては、熟考に値するような言及を記録として残している。

 彼は云う。「久しい以前から私の見いだしたところ、(そして、年ごとに私は、このことに関する自分の確信を深めつつあるが)、教役者たちが自分の教会員を、はなやかな美辞麗句で楽しませ、一般論にとどまる長広舌をふるうだけでよしとし、主として道徳的な義務の数々を強調し、福音的な動機によって熱く情愛をこめて教会員に迫ることをせず、その一方で、福音の個別的な事がらをないがしろにし、決して、あるいは、めったに神の恵みも、私たちの救拯におけるキリストの愛も、新生の必要も、キリスト者生活における種々の義務において絶えず神の聖霊の助けと力により頼むことによってなされる聖化も、明らかに示すことがない場合、彼らの集会は悲惨な状態に陥る。中には、漸次小さくなって消滅してしまうものもある。例えば、この近隣のいくつかの集会も、50年前には何百人も集会所に集まり、席という席が埋め尽くされていたというのに、今では20人も出席していない。商工業によって、新しい人々がその場所にやって来ては空席を埋めるようなところでさえ、その集会は致命的な生気のなさで覆われている。彼らは、「この世の流れ」[エペ2:2]をひた走り、あらゆる流行の愚劣さを追いかけ、家庭での、また個人的な敬虔さは、概して彼らの間では失われるように見受けられる。キリスト教信仰の進展のための活気や熱心は、何にもまさるものであることが要求され、それが当然でもあるというのに、そこにはほとんど全く見られない。

 「ところが、それとは逆に、私の知る限り、教役者が敬虔で、真面目な人物であり、その話しぶりが福音的で情愛のこもったものであるときには、いかなる場合においても例外なく、その集会は人数を保ち続けるものである。死や転出が、そこに多くの裂け目を生じさせようと関係ない」。

 こうした書簡が書かれたのは、彼が牧師職から引退し、その生涯の最後の18年をキッダーミンスターで暮らしていた間のことである。

 オートンは、「下り勾配」の道筋の愚劣さを見てとり、他の人々を思いとどまらせようとして、自分の証言を残しておこうと心砕いていたかのように見える。

 しかし、人やその意見などとは関わりなく、主のことばは永遠に堅く立つ。そして、神の使者となり、主の使信を人々に語ることを引き受けたあらゆる者に対するみことばは、こう告げている。「わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか。――主の御告げ。――」[エレ23:28]。

 願わくは、主が私たちみなを助けてくださり、私たちが「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励」者となることができるように。「私たちは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」*[Iコリ15:58]。


注記
(1887年4月)

 「《下り勾配》」に関する記事が関心を呼び起こしたことを、私たちは嬉しく思う。この記事は、特定の誰かに対する攻撃を意図したものではなく、あらゆる人々にとって警告となるものである。果たしてメソジスト派は「《下り勾配》」にあるだろうかと質問を寄こした方があったが、幸いなことに、私たちはそうとは考えないと答えるものである。私たちとメソジスト派との、あらゆる段階における交わりにおいて、私たちは、自分たちが守り抜こうと戦っている偉大な福音的諸教理を彼らが堅く信奉していることを見いだしてきた。しかしながら、これは、アルミニウス主義こそ、昔の非国教徒たちがソッツィーニ主義へと下って行く経路であったという歴史的事実を申し開きするものでは決してない。また、これは、近頃の少なからぬ数の人々が、福音的アルミニウス主義をはるかに越えて、ユニテリアン派か、それよりずっと悪いものに至る途上にあるという非難に答えるものでもない。私たちは、体系としてのカルヴァン主義よりも、福音の中心的な諸真理の方をはるかに重んじたいと思う。だが私たちの信ずるところカルヴァン主義は、人々が重要きわまりない真理にとどまり続けるのを助ける保存力をうちに含んでおり、それゆえ私たちは、一度カルヴァン主義を受け入れた人々がそれを捨てるのを見るとき残念に思う。救いの永遠の真実を心にいだきながらも、私たちの信奉することを必ずしもすべて了解していない人々を、私たちは決して敵とみなすつもりはない。戦うべき相手は、贖いの犠牲を放棄し、聖書の霊感を否定し、信仰による義認に汚名を着せようとする人々である。現代の闘争は、カルヴァン主義かアルミニウス主義かという件にではなく、神の真理人間の発明という件に関わる論戦である。福音を信ずるすべての者は、その不倶戴天の敵たる「現代思想」を向こうに回して団結すべきである。

 あらゆる方面から私たちは、この件における一致、あの件における一致を叫び立てられている。だが私たちが思うに、この時代の主たる必要は妥協ではなく、良心的な忠実さである。「第一に純真であり、次に平和」である[ヤコ3:17]。「連合を」と叫ぶのは容易だが、神の真理に基づいていない合同は、共同というよりはむしろ、共謀である。いかなる手を尽くしても愛を求めよう。だが、純潔さも失わないようにしよう。もちろん愛は大切である。だが、人々への愛だけでなく、神への愛も大切である。合同する愛も大切だが真理を守る愛も大切である。近頃では、人が神の前における忠節さを保ちながら、人々の間における友愛をも保つことは、はなはだ困難である。もしその双方を得ることができなければ、後者よりも前者を優先させるべきではなかろうか? 私たちはそう考える。(C・H・スポルジョン)


訳注

*1 これは一連の記事の第二部で、やはりロバート・シンドラーによって執筆されたものである。[本文に戻る]

*2 ペラギウスによって唱えられた、原罪説を否定し自由意志を強調する教え。[本文に戻る]

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