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下り勾配*1

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(1887年3月)

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 1662年に実施されることになった《統一法》*2は、英国およびウェールズにおいて、法律で国立教会から清教徒主義を追い出そうという、その作成者たちの目的を達成した。清教徒主義は、国王チャールズ二世や、彼の宮廷や、教会および国家の高位を占める大多数の人々にとって厭わしいものであった。その主たる理由は、それが敬虔な生活を命じ、カルヴァン主義をその教えとしていたからである。良心の自由ときよさの方を、自分たちの生計の確保よりも重んじた二千人の教役者たちが放逐されるとともに、カルヴァン主義は、《信仰箇条》に関わる部分を除き、英国国教会から追放されることとなった。アルミニウス主義*3が取って代わった。このようにして、かの偉大な宗教改革者たちが植えつけて、その何人かが血をもって水を注いだ英国国教は、とある著名な著者の風刺がしごくもっともと思われるほどに異様な光景を呈することになった。すなわち、国教会が有していたのは、「教皇制の典礼式文と、カルヴァン主義の《信仰箇条》と、アルミニウス主義の教職者層」だったのである。放逐されたのは、ほぼひとり残らずカルヴァン主義者であった。この時期以前にも、少数ながらいくつかの自由教会が創設されており、それらは独立派かバプテスト派であった。後者は、主として一般系の、オランダ発祥のバプテストたちであった

 放逐された人々――ある意味で、最初の非国教徒となった人々――は、主として長老派であった。しかしながら、何人かは独立派であり、ごく少数がバプテスト派であった。彼らが設立した諸教会は、そのすべてがカルヴァン主義的な信仰に立っており、その世代の間は、そうあり続けた。しかしながら、まぎれもない歴史の事実は、ある程度長い月日を経た後では、そのすべてがそうあり続けたわけではない、ということである。そうした教会のいくつかは、二、三世代もするうちに、あるいは、それよりも短い間に、アリウス主義*4かソッツィーニ主義*5になってしまった。これは、実質的にすべての長老派についてあてはまり、後には、独立派のある人々についても、一般バプテスト派の多くの人々についても、あてはまることとなった。諸般の事情により、最初に教役者たちが、それから諸教会が、「下り勾配」に乗ってしまい、場合によって、その転落は急速であり、いかなる際にも非常に危険であった。一般に教役者たちは、古の清教徒的な生活の敬虔さと、カルヴァン主義的な教理形式から抜け出る度合に応じて、その説教が熱心でも単純でもなくなり、話の内容がより思弁的になり、霊的でなくなり、啓示の偉大な中心的真理よりも、新約聖書の道徳的な教えの方を重点的に語るようになっていった。自然神学は、しばしば福音の偉大な諸真理が占めるべき位置を占め、説教はますますキリスト抜きのものになっていった。それに対応する結果として、まずは説教者たちが、続いて信徒たちが、いかなる人格と生活を示すようになったかは、あまりにも明白であった。

 最初の非国教徒たち、すなわち、放逐されて非国教徒となった教役者たちの後に続いた説教者たちの一団は、教理の健全さと、生活のきよさを保っており、いずこにおいてもそれが彼らの目立った特徴であった。彼らの説教は、あまり長ったらしいものではなかったが、それでもまだ相当に長く、以前ほど区分や副区分をちりばめたものではなかった。福音のいのちと、香りと、力とが、彼らの間にはとどまっており、諸教会は、神への恐れと聖霊の慰めのうちを歩みつつ、ゆっくりと増加していった。

 長老派は、最初に下り線を辿る人々となった。彼らは、独立派の人々よりも、自分たちの教役者層における古典的な学識や、その他の学科に留意することが多かった。一方、バプテスト派は、いかなる種類の学究的な機関も有していなかった。自分たちの教役者たちの霊的資質よりも学究的な学識を重視し、福音的な情熱や真理のことばを正しく切り分ける能力よりも学識や雄弁の方を高く評価することこそ、誤った方向に踏み出す容易な一歩となったのであろう。

 一部の教役者は、そのカルヴァン主義的な健全さと、その人格と生活のきよさを保っており、概して福音の諸教理を際立たせる、熱心な牧会活動を行なっていた。しかし、他の者たちはアルミニウス主義的な意見をいだき、さらに別の者たちは中道を採ると公言し、自らバクスター主義者と自称していた。こうした人々は、罪人の救いのために熱心な様子を見せることが少なく、多くの場合、生活のきよさや厳格さを示すことも少なかったばかりか、説教においては、ある異質な話しぶりを身につけていた。すなわち、キリスト教信仰の一般的な原則については口数を多くしながら、福音の重要な真理については、あまり語らなくなっていたのである。罪による破滅、聖霊による新生、キリストの血による救拯――神が常に、その説教にご自分の是認の証印を押してこられた諸真理――は、もっぱらその欠落において目立っていた。実際、かの「よくこされたぶどう酒」は、人間的思弁という泥水と混ぜ合わされすぎて、もはや葡萄酒でなくなるほどであった。

 長老派の中には、もう1つ別の一派があった。彼らは、先の二派とは違い、名目上の正統信仰は保ち、福音的な意見を――説教することはめったになかったが――信じていると公言していた。こうした型の人々は、主としてその説教の極度の冷淡さや、その説教する調子の極度の退屈さによって際立っていた。

 バクスター主義者と自称していた人々の間には、バクスターの面影はほとんどなかった。彼の熱情や真剣さ、彼の綿密で透徹した説教と、心と良心に対する力強い訴えは、ごく僅かな例外を除いて全く欠けていた。この論評は、自らをアルミニウス主義者と自称していた人々にもあてはまるであろう。

 アリウス主義その他の異端は、最初のうちロンドンでは、地方とくらべて、さほど急速には広まらなかったように見受けられるであろう。1730年頃に書かれたある原稿の著者は、当時の在ロンドンの非国教徒の教役者たち全員の意見を示すと公言している。彼の云うところ、長老派の間には、19人のカルヴァン主義者、13人のアルミニウス主義者、12人のバクスター主義者がいた。また彼は、独立派の全員がカルヴァン主義者であったと主張している。「27人は徹底的なカルヴァン主義者であり、ひとりはやや覚束なく、3人は無律法主義に傾いており、2人は混乱したカルヴァン主義者である」。そこには二名のセブンスデー・バプテスト派がおり、――ひとりはカルヴァン主義者で、もうひとりはアルミニウス主義者であった。また、16人の特定バプテスト派がおり、その7人はカルヴァン主義者で、「9人は無律法主義的な傾向にある」。

 無律法主義は、トバイアス・クリスプ博士の教えにつけられた用語であった。クリスプは、かつてはアルミニウス主義者であったが、熱烈なカルヴァン主義者になり、ことによると、いくつかの点ではカルヴァンをも多少越えて進んでいった。彼は1642年に死に、彼の説教集は、死後45年を経てから彼の息子の手で刊行された。それらは、速記録をクリスプ博士自身の草稿と比較した上で出版されたもので、このため、著者自身の手が入っていた場合に期待されるはずの正確さや完成度を欠いていた。これは、彼のいくつかの云い回しの粗雑さを説明するであろう。彼は強い信仰と、激しい熱心さと、聖い生活と、自分の牧会の働きに対する大きな献身と忠実さの持ち主であった。彼は無律法主義者と呼ばれたが、その呼び名は正確ではなかった。しかしながら、彼の言明の多くは、正統的な意味に取れる余地も十分あるものの、真理からはずれていると非難されてもやむをえないものがあった。

 彼の説教集の刊行は、激越な論争を巻き起こし、それは数年間続いて、大きな害をもたらした。ウィリアムズ博士は、クリスプの発言のいくつかに含まれた過誤や誤った傾向と信ずるものを公開した。ジョン・フラヴェルすら、彼の教えを誤謬であり、アルミニウス主義的であると断じた人々のひとりであった。そのように騒ぎたてる必要はなかった。クリスプに反駁するために書かれた書物は、その多くがそれなりに良いものであったとはいえ、小心な者らや、不確かな者らや、ためらいを感じている者らを震え上がらせる効果があり、彼らは、いわゆるクリスプ主義を避けようとして、それとは正反対の極端へと力の限りに突進したのである。彼らは、アルミニウス主義に至る瀬戸際になり、一部の人々は実際にアルミニウス主義者となった。当時のアルミニウス主義は、冷淡で、無味乾燥な、熱のこもらないもので、その名で呼ばれた多くの人々は、すでにソッツィーニ主義へと向かう「下り勾配」にあったことを明らかにした。

 急勾配を行く人々の常であるように、「下り勾配」に乗った一部の人々は、自分たちの意図していた以上のところに達してしまい、乗る方が降りるよりも簡単であること、また、そこに何の歯止めもない場合、停止するのが非常に困難であることを示した。カルヴァン主義から転じた人々も、よもや自分たちが、神の御子の独特の神性を否定したり、その贖罪死や義認の義を信ずる信仰を非難したり、人間の堕落の教理や、人々が新しく造られた者となるため必要な天来の更新や、聖霊の恵みのみわざの必要性を糾弾したりするようになるなどとは、夢にも思っていなかったかもしれない。だが、思っていようがいまいが、こうした結果が現実のこととなったのである。

 云うも非常に痛ましいことだが、――そして、その行動は非難すべきであると同じくらい浅ましいものだが――、アリウス主義的な意見をいだいていた人々を二分した場合、最初の種別の人々は、あまりにも卑劣かつ不正直であって、自分の意見を、あいまいな言辞の下に押し隠していた。彼らが自分の考えを述べた言葉は、正統的な信仰に立つ聴衆が聞くと、自分たちの見解を支持する言明であるように思えるし、アリウス主義の信奉者たちが聞くと、自分たちの信仰体系を支持すると受け取れるようなものであった。きわめて信頼性の高い筋の話によると、「多くの人々は、この偽装を一生の間保ち続け、中でも最も用心深い者らは、この秘密を墓の中まで持っていった」という。これは、考えるだに空恐ろしいことである。人々が、この最悪の種類の偽善の一生を告白もせず、この卑劣極まりない欺瞞と不正直を認めもせず、この嘘で塗り固めた生涯を悔い改めもしないまま、墓に下っていったというのである。このような生き方は、嘘をつくにしても最悪の形のものにほかならない。というのも、それは、主の御名によって嘘をつくことだからである。それ以外の人々も、その虚偽の経歴においては、ごく僅かなほころびしか見せなかった。彼らは、自分たちが真にいだいていた意見を明かす説教か、他の文章を準備しておき、それらは、彼らが死去した後で公表されたのである。さらに多くの人々は、自分たちの本当の意見を、自分の信奉者たる小集団に対しては打ち明けており、彼らは、自分たちの師の墓が口を閉じた後になって初めて、世間に異端の話を告げたのである。

 このようなやり口が、かの「懲らしめと侮辱の日々」[イザ37:3参照]における、「広やかな見解」や、「自由思想」や、「進歩的な意見」を有する人々の悪どい手口であった。ヴォイジー氏のほとんど冒涜的な発言は、大胆不敵な、ぞっとさせられるものではあったが、少なくとも正直さという美点だけはあった。彼は、不信心の目印を自分の額に黒々と書きつけ、だれの目をもはばかろうとはせず、むしろ自分が、私たちの救いの福音における、あらゆる聖なるもの、正しいもの、聖いものを否定し糾弾する立場にあることを誇っていた。しかし、こうした人々は、偽善と欺瞞を用いることによって自分自身の断罪をいや増し加え、彼らの追従者たちの多くが永遠に破滅するのを助長したのである。キリストの大使であり、その栄光に富む福音の布告者であると公言しておきながら、彼らの目当ては、主の主張を無視し、主の権利を否定し、主のご人格を低め、主の救いの輝かしい衣を引き裂き、主の冠を塵の中で踏みにじることにあった。

 アリウス主義に立つ第二の、より少数の説教者たちは、まだしも正直であった。彼らは、自分の意見を自分の会衆に対して大胆に明言し、会衆の方も同じくらい易々とそうした意見を受け入れた。ほとんどの場合、説教者にとっても聴衆にとっても、神の永遠の御子を一個の超御使い的な存在にしてしまうアリウス主義から、御子を人間でしかないとするソッツィーニ主義(ユニテリアン派と誤称された)に下ることは、ほんの一歩であった。それだけでなくソッツィーニ主義は、原罪も、人間の堕落も、キリストの仲保も、永遠の御霊の人格性やみわざも、それなしにはだれも神の国を見ることができないと天来の真理が宣言するところの新生も否定した。

 一部の少数の人々の下降は、相当に急激なものだったが、通常、人々は、いったん「下り勾配」に乗ると、ゆっくりと、しかし不幸にも確実に前へ進んでいった。カルヴァン主義の中心的真理は、福音のそれと同じく、主イエス・キリストのご人格と、みわざと、職務である。私たちは、私たちの天来の《救い主》にして王なる《主人》について、この「主イエス・キリスト」というパウロ的な、また霊感された描写を用いること、また、そのようにして「御名の栄光を主にささげ」ることを愛している[詩96:8]。キリストに関する真理について人々がためらいを覚え、その真理を押し隠そうとし始めるとき、それは魂が不健全な状態にあるしるしである。そして、こうした真理が水増しされたり、省かれたり、あるいは他のしかたでみだりに変更されたりするとき、それは、「用心せよ」という如実なしるしである。

 信用の置けるある著者が、当時の情勢について云い表わした評言は、ここに引用しておく値打ちがある。――

 「一部の人々が福音的な諸原則を欠いていたこと、また、他の人々の口からそうした原則が冷淡にしか発されなかったことにより、それらが放棄される道が開かれ、まずアルミニウス主義が、次にアリウス主義が導入されることにつながったように思われる」。

 真に正統的な意見を有していた人々の方も、あまりにもしばしば異端的な教役者たちを副牧師として、あるいは不定期の説教者として自分たちの講壇に迎え入れるという締まりのなさや不忠実さを示した。このようにして、アリウス主義やソッツィーニ主義の異端が、エクセター市における長老派の諸会衆に導入されたのである。ふたりの教役者、スティーヴン・トウグッド師およびウォルロンド氏は、どちらとも正統的であるとの評判を得ていたが、彼らの副牧師として選ばれたのは、アリウス主義を標榜するミカイア・トウグッド師であった。年長の教役者たちは、福音的な教理を説教していたが、彼らの新しい同僚の求めにあまりにも簡単に従い、主の食卓への加入を求める人々に対して、キリストの神性を信ずる信仰を宣言するよう要求するのをやめてしまったのである。語るも悲しいことだが、彼らは和気藹々と働き続けた。年長者のふたりが、「御国の葡萄酒」と「生けるパン」を分け与え続ける一方で、若手の教役者が、その合理主義的な調整物と、ソッツィーニ主義のパン種を混入させていたのである。それと類似した状況がロンドンでも起こった。ウィリアム・ハリス博士は、カルヴァン主義者であると公言し、カルヴァン主義的な教理に従った説教をしていたが、その生涯の最後の二十年間には、ラードナー博士という、さほど強烈に云い立てていたわけではないが、それでもソッツィーニ主義者であると公言する人物を自分の副牧師とし、彼に午後の講義をさせていた。ハリス博士が死ぬと、ラードナー博士がその後継者として選出された。彼は何らかの理由でそれを辞退したが、別のソッツィーニ主義者であるベンソン博士がその牧師職を引き継いだ。このようにして、かの古い古いことわざは再び真実なものとなったのである。「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く」[エレ18:2; 31:29]。

 先に述べたように、この下り勾配の道筋がより急激で、より広く見られ、より致命的であったのは、独立派や一般バプテスト派の間よりも、長老派の間においてであった。なぜ一般バプテスト派と云うかというと、ソッツィーニ主義の死滅的な諸教理は、特定バプテスト派には、ほとんど侵入しなかったからである。この教派の諸教会の中では、二世紀以上もの間、比較的重要でない他の過誤が多くの害悪をもたらすことはあっても、ソッツィーニ主義への堕落だけは、ただの一例たりとも指摘することができないであろう。私たちの子らや孫たちは、現世代と次の世代に関して、それと同じことを云えるであろうか? それがだれにわかろう? しかし私たちは、そうあってほしいと祈り、かつ期待するものである。

 「下り勾配」の下降が、他の非国教徒たちよりも、長老派の間で急速に起こった主たる原因は、彼らのより学者的な牧会活動のせいではほとんどなく、彼らが清教徒的な習慣を放棄したせいでは全くなく、むしろ彼らが人を教会員籍の種々の特権へと加入させる際の規則のせいであった。むろん彼らの子どもたちは、彼らのバプテスマ観に従い、幼児期にバプテスマの儀式にあずかっていた。それによって子どもたちは、神との契約の中に受け入れられた――と教役者たちは教え、信徒たちは信じていた――のであり、主の食卓につく権利を有していた。そこでは、道徳的な生活以外のいかなる資格も要求されなかった。そうした子どもたちの多くは、新生することなく、魂を更新する恵みのみわざとは無縁のまま育っていった。それでも彼らは、自分はキリスト者であって、教会員のあらゆる特権を認められるべきであると主張し、そうした主張が否認されることはなかった。そのような者らにとって、キリストに忠実に仕える教役者たちの真剣な訴えは、うんざりさせられる、不快なものであったであろう。「理性的で文化的な人々」の、より広やかな路と、より容易な道――規律の弛緩と、意見や習慣における柔軟さを許容する道――の方が、彼らの好みや観念には、はるかに合致していた。啓示を切り捨ててまでも、理性や悟性には敬意が払われる場合、それは彼らの高慢を満足させ、彼らがキリスト教信仰に属する事がらにおいていかに自分勝手に歩んでも、とがめだてされることはなかった。このようにして彼らは、自分たちのために、自分たちの心にかなう牧師を選んだ。それは、平安に至る唯一の道が無視され、否定されているときにも、「平安だ、平安だ」、と叫ぶことができ、そう叫ぶことを望み、実際にそう叫んだ人々であった。

 こうした事実は、現代に1つの教訓を与えている。この時代は、一部において、あまりにもあからさまに、新奇なもののために古いものを喜んで捨てようとする人々がいる。しかし、神学においては普通、真実なものは新しくはなく、新しいものが真実ではないとわかるものなのである。

 もう1つの論考において私たちは、この国の他のプロテスタント諸教派についても、この「下り勾配」の道筋を辿ってみたいと思う。――悲しくはあるが、そうする必要のある務めである。おゝ、願わくはそれが、今の時代の不安定で、ぐらついている人々にとって警告の役目を果たすように!


訳注

*1 匿名で発表されたこの記事は、バプテスト派の牧師で、スポルジョンの親しい友人であるロバート・シンドラーによって書かれたものである。スポルジョンは、シンドラーの記事を手放しで推賞し、この記事は、スポルジョンの死に至るまで彼につきまとう論争を引き起こすものとなった。[本文に戻る]

*2 英国国教会の礼拝・祈祷を統一した法律。[本文に戻る]

*3 カルヴァンの教旨を否定し、自由意志を強調して神の救いは全人類に及ぶとする説。[本文に戻る]

*4 アリウスによって唱えられた、キリストの神性を否認する教説。[本文に戻る]

*5 ソッツィーニによって唱えられた、反三位一体論的立場の教説。[本文に戻る]


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