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1889年12月-
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これは兵士たちの戦いでなくてはならない

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C・H・スポルジョン

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 真理に立つ真勇者であるひとりの人が私たちにこう云った。「これは兵士たちの戦いでなくてはなりませんね」。この発言に、私たちは心から同意する。主イエスの福音は今、あらゆる点で攻撃を受けている。真理の敵から免れているような教派は、ほとんどない。敵は私たちの隊伍のただ中にいる。英国国教会では、迷信的な誤りにとらわれた者たちの方が、懐疑家たちよりも前面に立っている。国教会の中では、福音派が容易ならざる戦闘状態に陥っている。なぜそうなっているのだろうか? リンカン主教の行動によって持ち上がった問題について決議を求めている人々は、単刀直入に要点を切り出し、「ミサなのか、ミサでないのか」、という問題を、きわめて平易で実際的なしかたで提起している。しかし、主教審問の結果が好ましくないものとなった場合、あらゆるプロテスタント信徒は、この件を個人的良心の問題とみなすべきであり、各人の行動によって、福音派を、平明な、取り違えようのない行動方針へとかり立てるべきである。

 バプテスト派において最も必要なのは、諸教会の会員が討論に加わり、こうした問題を個人的に吟味することである。評議会の議員たちは、つのりゆく過誤に抗議する者を叱責する以外は、明らかに何も云うことがないらしい。教役者たちも、「平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と」叫んでいる[エレ6:14]。もし個人会員たちが断固としてこの問題を取り上げ、敬虔な人々が、もはや真理から離れた人々とは結託し続けまいと決意するなら、事の決着はすみやかにつくであろう。

 ある会衆派の教役者は、一般教職者たちが発言する機会を求めている。そして、彼の印象によると、その九割五分は、旧来の立場を守っていることがわかるだろうという。私たちは心から、それを信じられたらと思う。だが、彼はその割合をあまりにも高くしていると思う。それでも、もし私たちの自由な諸教会が、声によってか、出版を通してかして、公正な発言の機会を得るとしたら、《広汎派》の紳士たちは、自分たちがごく少数であることを見いだすであろう、と私たちは確信するものである。しかし、そうした自由な言論がなされる前には、古の非国教徒魂が、牧師たち、執事たち、教会員たちの中によみがえり、宗教紙から猿ぐつわが取り除かれなくてはならないであろう。私たちは、他の種々の機関の出版物を通しても、真理が自由に主張されるようになることを喜んで期待するものである。今は1つの徒党が幅をきかせていて、それが大多数の人々を全く代表していないということもありえる。だとすれば、大衆ははっきり自分の意見を口にすべきである。

 不幸なことにスコットランド自由教会は、現在のところ、その新神学の急先鋒であるとみなされなくてはならない。その実、それは神学でも何でもなく、主のみことばへの反抗でしかない。健全な信仰と殉教者精神とに満ちた教会として、私たちの誇りであった教会は、自分たちの《信仰告白》の教理とは異なった教理をいだく二名の神学教授の手に、将来の教役者たちの訓練をゆだねてしまった。これは、教会の行ないうる行為の中でも、最も自殺的なものである。実に奇妙なことに、昔ながらの信仰以上に新しく良いものを目指しているという、このふたりの紳士は、あえて身を落として、教会の旧来の諸教理への同意を伴うような立場を受け入れているのである。だが近頃は、心情の潔癖さは流行ではないし、信仰箇条も、良心が鋭敏な人々が相手でない場合には、それほど自動的に働くものではない。自由教会には1つの《信仰告白》があり、戒規を執行する手段もある。だが、その教団に属する真実な者たち全員が個人的に行動するのでない限り、それらには三文の値打ちもないであろう。和を保つためといって、この闘争の局外に立っているあらゆる人は、やがて魂の血の責任を問われるであろう。スコットランド教会の分裂[1843年]において論戦された問題など、現在問題となっていることにくらべれば二義的なものである。聖書か、聖書でないか贖罪か、贖罪でないかこそ、今の私たちが決着すべきことなのである。人を煙に巻くような用語や言葉遣いをはぎ取ってみれば、それが、この討論の根底にあることなのである。そして、主イエスを愛するすべての者は、聖徒に一度限り伝えられた信仰を守るべき真剣な戦い[ユダ3]において、自分の分を果たすべく召されていると感じるべきである。ブルース、ドッズ両氏の並々ならぬ大胆さから推察するに、彼らは、自分たちの意見を表明することに、いささかも不安を感じていないものと思われる。明らかに彼らは、多数の人々が自分たちを大目に見てくれるものとあてこんでいるらしい。そして残念ながら、彼らは現実にも、その期待通りのものを得るであろう。私たちは、彼らが思い違いをしていると信ずるほど楽天的にはなれない。全教会が自らの義務へと覚醒されない限り、自由教会の福音派は、再び《穏健主義》の支配を見る運命にあるであろう。彼らがあれほどの苦しみを経てきたのは無駄だったのだろうか? 彼らは今、抵抗しようとしないだろうか?

 私たちの場合は、自分が、いかなる信仰信条もない教団に属していることに気づき、致命的な過誤が起こりつつあるのを見てとった際、脱退する以外に道はなかった。そうした行動を他の人々がふさわしいと考えるか考えないかは、私たちの責任とは何の関わりもない。だが、いかなる理由があっても真の信仰者には、教理においても実践においても、純粋で、汚れのないキリスト教信仰を保つために、あたう限りの力と手段を尽くすべき義務があり、その義務から免除される道は何1つない。いかに静穏な田舎の教役者といえども、――いかに引きこもった場所の執事や長老といえども、――いかに辺鄙な村のキリスト者の男女といえども――、ひとりひとりがみな、勇士として主の手助けに来なくてはならない[士5:23]。この危機は、日ごとに深刻になりつつある。遅延は危険である。ためらいは破滅的である。主の側につく者はだれしも、ただちにそれを絶対に明らかにしなくてはならない。悲しげに「別の改革」を切望し、改正された信条を切望している者たちは、立ち上がって、そう云うがいい。もはや自らの意見を隠していてはならない。さもなければ、あなたは、自分が何よりも大事にしている確信を渾身の力をふりしぼって中傷しているような人々のパンを食べることになるのである。こうした人々は正直になるがいい。福音派は真実になるがいい。教会は、各員がその義務を果たすことを期待する。


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