15. 愛により聖霊は永遠に分与される 「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます」 Iコリ13:8
この文脈全体における使徒の眼目は、愛が御霊の他のどの恵みよりもすぐれていると示すことにある。そしてこの章で彼は、愛がすべてにまさるものであることを、3つの点を示すことによって述べている。第一に示されているのは、愛が何よりも重要なもので、他のいかなる賜物も愛がなければ無に等しい、ということである。第二に示されているのは、すべての良き性向とふるまいが愛から生じている、ということである。そして第三に示されているのは、愛がすべての賜物の中で最も永続的なものであり、いずれ神の教会がその完全な状態に至り、御霊の他の賜物がことごとく途絶えた後になってもなくならない、ということである。さて、この聖句では2つの点に注目したい。----
第一に、愛がこの上なくすぐれたものであると示す1つの性質は、それが絶えることなく、永遠になくならないということである。「愛は決して絶えることがありません」。これは前節の最後の言葉からの自然な流れである。「愛は……すべてを耐え忍びます」。そこで使徒が宣言しているのは、愛の頑強さである。これは、愛がこの世でいかなる敵対を受け、いかに揺さぶられても耐え抜くことのうちに、明らかに見てとれる。そしてここで彼がさらに論を進めて宣言しているのは、愛とは単に時間の終わるときまで耐え忍ぶだけでなく、永遠にわたってなくならないということである。----「愛は決して絶えることがありません」。現世に属するあらゆるものが絶え果てたときも、これだけはなくならず、それも永遠になくならないのである。また、この聖句においてやはり注目したいのは、
第二に、ここで愛は、預言や異言の賜物、知識の賜物などといった、他のあらゆる御霊の賜物と区別されている、ということである。「預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます」。しかし、「愛は決して絶えることがありません」。ここで語られている知識とは、霊的知識や神に関する全般的な知識のことではない。なぜならそうした知識は、この地上ばかりでなく来世の天国においても存在するはずであり、それが地上での知識をはるかに越えた知識であることは使徒が以下に続く数節で明確に宣言している通りだからである。キリスト者が神に関して、キリストに関して、霊的な事柄に関して持っている知識、また実際、彼らの(一般的な意味における)あらゆる知識は、消え失せはしない。むしろ天国においてそうした知識は、途方もなく増し加わり、完成に至る。天国は愛の世界というだけでなく、光の世界でもあるからである。しかし、使徒が消え失せると云っている知識とは、その当時の神の教会の中に見られた、特別の奇跡的な賜物の1つを指している。なぜなら使徒は、私たちが見てきたように、ここで愛と御霊の種々の奇跡的賜物とを比較しているからである。当時の教会にはそうした超常的な賜物が普通に見られ、その1つが預言の賜物、1つが異言の賜物、すなわち学んだことのない言語で語れる力であった。この2つの賜物は、どちらともこの聖句の中で言及されており、使徒はこれらがすたれ、やむと云っている。そしてもう1つの賜物が知識の賜物、あるいは(前章8節での呼び名によると)、知識のことばなのである。そうした呼ばれ方からもわかるように、これは、理性や研究によって得られる推論的な知識でもなければ、聖霊が救いに至らせる影響を魂に及ぼす際に生まれる霊的な知識、神に関する知識でもない。それはある特定の御霊の賜物であって、この賜物を授けられた人々は、直接霊感によって神の奥義や、聖書の奥義的な預言や予型を理解することができるようになるのである。それが、使徒がこの章の2節で語っているものである。「たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ」、云々。これこそ使徒がこの箇所で、預言や異言の賜物などといった他の奇蹟的な種々の賜物とともに、いずれ消え失せると語っている奇蹟的な賜物である。これらはみな、キリスト教をこの世に伝え、確立させるために一時的に授けられた超常的な賜物であり、その目的が達成されれば、みな途絶えて、やんでいくべきものであった。しかし愛は決して絶えるものではなかった。このように、この聖句の教理として使徒が明らかに教えていること、それは、
聖霊を、一時だけでなく永遠にキリストの教会に分与する性質を持つ偉大な御霊の実は、愛、すなわち神から出た愛である、ということである。
この教理の意味するところと、その正しさをより良く理解してもらうために私は、以下のような4つの言明に分けて話を進めたいと思う。第一に、キリストの御霊は永遠にその教会と民に与えられており、永遠に彼らに影響を与え続け、内住し続けてくださる。第二に、神から出た愛だけでなく、他の種々の御霊の賜物によっても、神の御霊は神の教会に分かち与えられている。第三に、こうした他の実は一時のものでしかなく、すでに途絶えているか、いずれ将来途絶えることになる。第四に、この愛、すなわち神から出た愛こそ、途絶えることなき偉大な御霊の実であって、この実によってこそ、聖徒や神の教会の中における御霊の永遠の影響、またその内住は明らかにされる。
I. キリストの御霊は、その教会とその民に永遠に与えられており、永遠に彼らに影響を与え続け、内住し続けてくださる。----聖霊は、キリストの偉大な獲得物、すなわちキリストが代価を払って獲得してくださった賜物である。今の世および来たるべき世において、教会のために獲得されたあらゆる良きもののうちで、その最高のもの、その精髄が、聖霊である。そして聖霊は、偉大な獲得物であるのと同じく、偉大な約束、すなわち、神とキリストによって教会に約束された偉大なものでもある。使徒ペテロがペンテコステの日に述べたように、「神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです」(使2:32、33)。そして、キリストのこの偉大な獲得物であり約束である御霊は、永遠にその教会に与えられている。キリストはその教会が存在し続けると約束し、ハデスの門すらこれには打ち勝てないと明確に宣言なさった。そして、教会が保たれ続けるために、真に教会に属する者全員にその聖霊を与え、その御霊が永遠にとどまり続けると約束してくださった。キリストご自身がこう語っておられる。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです」(ヨハ14:16、17)。
人間は、エデンにおけるその最初の状態においても聖霊を有していたが、不服従によってそれを失ってしまった。しかし、それを回復するための道はすでに備えられている。今や聖霊は再び与えられ、今度は二度と聖徒たちから離れていくことはない。神の御霊が神の民に与えられるとき、それは真に彼らのものとなる。確かに御霊は、無垢の状態にあった私たちの最初の両親[アダムとエバ]にも与えられ、彼らとともに住んではいた。しかしそれは、現在キリストを信ずる者に御霊が与えられ、彼らとともに住んでいるのと同じ意味においてではない。アダムとエバには、御霊を有する正当な権利、あるいは確実な資格があったわけではなく、御霊も、キリストを信ずる者の場合とは違い、決定的に、永続的に彼らに与えられていたわけではなかった。さもなければ彼らは決して御霊を失わなかったはずである。しかし回心した者たちにとってキリストの御霊は、単に分かち与えられているだけでなく、確実な契約によって彼らに譲渡されており、彼ら自身の所有となっているのである。キリストが彼らのものとなっているので、彼の満ち満ちた豊かさも彼らのものであり、それゆえ彼の御霊も彼らのもの----彼らのために獲得され、約束された、確かな所有物----なのである。しかし、
II. 神から出た愛という精髄だけでなく、他の種々の御霊の賜物によっても、神の御霊は神の教会に分かち与えられている。たとえば、
1. 神の御霊は、奇蹟の賜物や霊感の賜物などの超常的な賜物によっても、神の教会に分かち与えられてきた。----そうした賜物によって神の御霊は教会に、すなわち過去には旧約時代の預言者たちに、また使徒たち、伝道者たち、預言者たち、そして初代教会の教役者たち全般に、さらには新約時代におけるおびただしい数の一般キリスト者たちに、分かち与えられてきたと思われる。こうした人々には、預言の賜物、異言の賜物、知識の賜物と呼ばれる賜物、またこの文脈および前章で言及された他の種々の賜物が与えられてきた。そして、これらとともに、
2. 神の御霊の一般的な、通常の賜物もある。----これは、あらゆる時代において、生まれながらの未回心の人々の多くに、多かれ少なかれ授けられているもので、たとえば一般的な罪の確信、一般的な照明、一般的な宗教感情などのことである。こうしたものには、愛、すなわち神から出た愛の性質も、真の救いに至る恵みも全くふくまれていないが、それでも、人の心の内側における御霊の影響から生まれたものという意味では、御霊の実である。信仰や希望も、もしそこに神から出た愛が全く伴っていなければ、それらのうちには、生まれながらの未回心の人々に一般的にとどまっている程度以上に神の御霊がとどまっているということはありえない。このことは、この章における使徒の言葉で明確に暗示されている。「山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません」。救いに至る信仰と希望には、その要素として、またその本質に属するものとして、必ず愛がふくまれている。この要素が取り除かれたなら、魂の欠けた肉体のほか何も残らない。それは決して救いに至らず、せいぜい御霊の一般的な実というだけである。しかし、
III. こうした他の実は、みな一時のものでしかなく、すでに途絶えているか、いずれ将来途絶えることになる。----預言や異言などの奇蹟的な賜物について考えると、これらには一時的な有用性しかなく、これらが天国でも存在し続けることはありえない。こうした賜物は、かつて神が、超常的な恵みの手段として、今の世にあるご自分の教会にお与えになったものでしかない。しかし、こうした手段を一度は行使していた聖徒たちが天国へ行くと、そうした恵みの手段は必要がなくなり、途絶えてしまう。恵みの手段は、神の家で定められた一般的な手段といった通常のものであれ、異言や知識や預言の賜物といった超常的なものであれ、天国では必要とされる理由がないのである。しかり。こうしたいかなる恵みの手段も、天国で存在し続ける必要はない。なぜならそこでは、あらゆる恵みの手段の目的がすでに完全に達せられており、神の民は完全な満足と幸福のうちにあるからである。使徒がエペソ書4章で述べるところによれば、種々の恵みの手段が与えられたのは、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなにな……るため」である。しかし、このことが実現し、聖徒たちが完全にされ、キリストの満ち満ちた身たけに達してしまった後となっては、通常のものであれ超常的なものであれ、こうした手段は何1つ必要ないであろう。この点でそれは、農作物が熟して収穫されるまでは耕作や、雨や、日光を必要とし続けるが、取り入れられてしまえば、もはやそれらを必要としないのと同じことである。
そして、こうした奇蹟的な御霊の賜物は、それらを行使する特定の個人にとって一時的なものでしかないのと同様に、個々人の集合体としての神の教会にとっても、一時的なものでしかない。これらの賜物は、未来永劫にわたって存在し続ける御霊の実として教会に与えられたのではない。これらが教会の中に存在し続けてきた、あるいは----大規模な中断はままあったにせよ----少なくとも折にふれ教会に与えられて続けてきたのは、世の創世から聖書の正典が完成するまでの間のことであった。これらは、聖書の正典が書き始められる以前から、すなわちヨブ記およびモーセの五書が書かれる前から、教会に授けられていた。その当時、人々は神のことばを今とは別の方法で受けていた。すなわち、折にふれ直接的な啓示が傑出した人物----いわば教会の父祖とも云うべき人物たち----に与えられ、彼らによってこの啓示が口承で他の人々に受け渡されたのである。ヨブ記のいくつかの箇所からわかるように、神の御霊が夢や幻によって御告げを伝えるのは、当時は非常に一般的なことであった。人々は、洪水前には超常的な御霊の賜物を有していた。神は直接に、また奇蹟的に、アダムとエバや、アベル、エノクにご自分を啓示された。エノクについては預言の賜物を持っていたと告げられている(ユダ14)。同じようにノアにも直接的な啓示がなされ、彼は古代世界に神からの警告を伝えた。またキリストも、ノアを通して語るその御霊により、今捕らわれている霊たちのところに行ってみことばを宣べられた。昔、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことである(Iペテ3:19、20)。同様にアブラハム、イサク、ヤコブも直接啓示の恵みを受けた。またヨセフには超常的な御霊の賜物があり、ヨブや彼の友人たちも同様であった。この時代からモーセの時代に至るまで、超常的な御霊の賜物には中断があったと思われる。そしてモーセの時代からそうした賜物は、やはり多少の中断は伴いながらも、連綿と続く預言者たちの中に存在し続け、マラキの時代に至った。それ以後、数百年に及ぶ大きな中断があったと思われるが、その後、福音時代の世が明けた。再び御霊は、その超常的な賜物において与えられ出し、アンナやシメオン、ザカリヤやエリサベツ、マリヤやヨセフ、そしてバプテスマのヨハネにそうした賜物が与えられた。
このように御霊が分かち与えられ、道備えがなされた後で到来したのが、御霊を無限に与えられているお方、神の偉大な預言者、他のすべての預言者に御霊を分かち与えるお方[キリスト]であった。この方が地上におられた時代、その弟子たちには、ある程度の奇蹟的な御霊の賜物が与えられ、そのことによって彼らは教えたり、奇蹟を行なったりできるようにされた。しかし復活と昇天の後に起こったのは、史上最大の、最も著しい奇蹟的な御霊の賜物の放出であった。これはキリストが復活し、天に昇られた後でペンテコステの日に始まった。そしてその結果は、単にちらほらと例外的な人物にこうした超常的な賜物が授けられただけでなく、教会全体に共通してそうした賜物が授けられ、使徒たちの生存期間中は存在し続けた。すなわち、使徒たちの最後のひとりである使徒ヨハネが、キリスト誕生から数えておよそ百年後に没するまで存在し続けた。つまり、紀元後の最初の百年間、あるいは一世紀の間は、奇蹟の時代であった。しかしその後ほどなくして、使徒ヨハネがその死の直前に黙示録を書き終え、聖書の正典が完成した後では、こうした奇蹟的な賜物はもはや教会の中には存在しなくなった。なぜなら、今や神のみ思いとみこころについて明確に書かれた啓示が完結しており、そこに神は、あらゆる時代におけるご自分の教会に対する、永続的な、また何1つ欠けのない規定を余すところなく記録しておられたからである。そしてユダヤ人教会とユダヤ人国家が打ち倒され、キリスト教会と、神の教会の最後の経綸とが確立した後では、奇蹟的な御霊の賜物はもはや必要なくなり、それゆえ途絶えてしまった。なぜなら、確かにそれらは非常に多くの時代にわたって教会の中で存在し続けてきたとはいえ、その時点以降は見られなくなったからである。また神がそれらをすたれさせたのは、それ以上それらを必要とする理由がなくなったからである。このようにして、この聖句の言葉は実現した。「預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます」。そして今は、こうした御霊の実すべてには終止符が打たれていると思われる。今もそれらが与えられることを期待すべき理由は何もない。また、罪の確信や照明や信心といった、敬虔な人々にも不敬虔な人々にも共通する、通常の御霊の実について考えると、これらはこの世における教会のあらゆる時代を通じて与えられている。だがしかし、こうした一般的な賜物を有する人々について云えば、それらはその人々が死んだときに途絶えることになる。そして集合的に考えられた神の教会について云えば、最後の審判の日の後では、それらは途絶え、二度と見られなくなる。そこで先に述べておいた通りに、次に私が示したいのは、
IV. この愛、すなわち神から出た愛こそ、決して途絶えることなき偉大な御霊の実であって、この実によってこそ、教会の中における御霊の継続的、永続的な影響やその内住は明らかにされ、明示される、ということである。----すでに見たように、キリストの御霊はキリストの教会に永遠に与えられており、彼の聖徒たちのうちに永遠に住み続け、決してすたれることのない影響力をふるい続ける。それゆえ、どれほど多くの御霊の実が一時的なものでしかなく、一定の限度を越えては存続できないとしても、御霊がその影響力を及ぼせるような何らかの方法、またその影響力から生み出される何らかの実が、すたれることなく永遠に存続していなくてはならないはずである。そして愛、すなわち神から出た愛こそ、その実なのである。この実を分かち与え、はぐくみ、実行させることによって、御霊のすたれることなき永遠の影響力は明らかになる。これこそキリストの教会において、その個々の成員という点から見ても、集合体という点から見ても、決してすたれず、途絶えることのない御霊の実なのである。まず、
1. 私たちはキリストの教会を、その部分である個々の成員という点から考察できよう。----そしてここで明らかになるのは、愛、すなわちキリスト者の愛は、すたれることのない御霊の実だということである。キリストの見えない教会に真に属するひとりひとりは心のうちにこの御霊の実を所有している。神から出た、あるいはキリスト者の愛は、そこに永遠の、また決してすたれることのない御霊の実として植えつけられており、宿っており、支配している。それはこの世で決して絶えることがなく、いかなる試練や敵対に遭っても、残り続ける。なぜなら使徒は、何物も「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」、と告げているからである(ロマ8:38、39)。またそれは、聖徒たちが死に至るときも途絶えることはない。当時の使徒たちや他の者たちが死んで天国へ行ったとき、彼らはそのあらゆる奇蹟的な賜物を彼らの肉体とともに後に残していった。しかし彼らは、その心のうちにあった愛は後に残して行かず、それを携えて天国へ行き、そこでその愛は栄光のうちに完成された。確かに御霊の一般的な影響を有していた悪人が死ぬとき、彼らの賜物は永遠に途絶えてしまうが、死は決してキリスト者の愛を打ち倒すことはない。この偉大な御霊の実は、いかなる人のうちに宿っていても打ち倒されることはない。この実を有する人々は、彼らが悪人と共通して持っていた多くの他の御霊の実を後に残していくであろうし、実際に後に残していく。また彼らは、その信仰と希望のうちにある一般的なもののすべて、この神から出た聖い愛に属していないすべてのものを後に残していくが、この愛だけは後に残して行かない。それは彼らとともに永遠に至り、そこで完成され、彼らの魂のうちで永遠にわたり、完璧な、また栄光あふれる統治をもって支配することになるのである。さらにまた、
2. 私たちはキリストの教会を、集合的に、1つのからだとして考察できよう。----そして、やはりここでも明らかになるのは、愛、すなわちキリスト者の愛は決して絶えることがないということである。確かに他の御霊の実は教会の中ですたれていくが、これは決して絶えることがない。古の時代においても、たとえ教会の奇蹟的な御霊の実に中断が見られ、そうした賜物を所有する預言者や霊感を受けた人物がだれひとりいないことがあったとしても、御霊のこの卓越した実、あるいは影響は決して完全に途絶えることはなかった。奇蹟的な賜物は、マラキ以来キリストの誕生間近までの長い年月の間、途絶していた。しかしこの全期間の間、御霊の影響は、教会の中で神から出た愛を保ち続け、決して中断されてはいなかった。堕落の後で最初の教会を創設なさってからずっと神は、常に聖徒たちの教会をこの世に有しておられたが、それと同じように神の御霊のこの影響と実もまた、決してその教会の中で絶えることはなかった。そして、聖書の正典の完成後、奇蹟的な御霊の賜物が教会の中で最終的には途絶え、すたれたように思われたときも、ご自分の聖徒たちの心に神から出た愛を引き起こすという、この御霊の影響は途絶えることがなく、その当時から現在に至るまでの全時代を通じて保たれてきたし、世の終わりまで保たれ続けるであろう。そして、世の終わりの時に至り、キリストの教会がその最終的で、最も完全な、また永遠の状態に落ちつき、罪の確信や照明といった一般的な賜物のすべて、また奇蹟的な賜物のすべてが、永遠に終結するときになっても、なおも神から出た愛は絶えることがなく、むしろ贖われた天の教会に属するひとりひとりのうちで、その最も輝かしい完成へと至らされるのである。そのとき、あらゆる聖徒の心の中で、今はほんの火花にしか見えていないその愛は、赤々と燃えさかる炎となり、ひとりひとりの贖われた魂は、いわば神から出た聖い愛の火炎に包まれ、未来永劫にわたってこの栄えある完成と祝福の状態にとどまり、成長していくのである!
ここまで提示されてきた教理がなぜ正しいと云えるかについては、その理由を1つだけ挙げることにしたい。他の御霊の実はすたれても、この偉大な実が残り続ける大きな理由、それは、愛こそ、他のすべての御霊の実そして賜物の大目的だからである。心のうちにおける、神から出た愛の原理とその働き、また現実のふるまいにおけるその成果、またその愛に存しその愛から流れ出る幸福----こうしたものこそ、やがてはすたれる御霊の実すべての大目的なのである。愛、すなわち神から出た愛こそ目的であって、この世にかつて存在したあらゆる霊感、あらゆる奇蹟的な賜物はそのための手段にすぎない。それらは単に恵みの手段にすぎないが、愛、すなわち神から出た愛は恵みそのものである。それどころか、すべての恵みの精髄なのである。啓示と種々の奇蹟が与えられた目的はただ1つ、聖潔を押し進め、人々の心の中にキリストの御国を打ち建てること以外の何物でもない。しかしキリスト者の愛はあらゆる聖潔の精髄であり、その成長こそは魂におけるキリストの御国の成長にほかならないのである。超常的な種々の御霊の実が与えられたのは神のことばとみこころを啓示し、確証し、人々が信ずることによってそのみこころに沿うようにならせるためであった。だがそれらに価値があり用いられるのも、この目的の役に立つ間だけのことである。それでその目的が達成され、聖書の正典という偉大にして強大な恵みの手段が完成され、新約の、そして歴史上最後の経綸の諸制度が完全に確立してしまうと、超常的な賜物は用済みということで途絶え、終結してしまった。しかし神から出た愛こそは目的そのものであり、したがって目的のための手段が途絶えた後も残り続ける。その目的は単に善であるばかりでなく、それ自体が究極の善であり、それゆえ永遠に残るものなのである。同じことは、照明や罪の確信などといった、全時代にわたって与えられている一般的な御霊の賜物についても云える。これらは、それ自体としては何の善でもなく、その善なる部分は単に、恵みと聖潔を押し進める助けとなる限りにおいてのものであり、その恵みと聖潔とは根本的にまた究極的には神から出た愛に存しているのである。それゆえ、ひとたびこの目的が完全に果たされると、こうした一般的な賜物は永遠に終結してしまうが、それらすべての目的であった神から出た愛の方は永遠になくなることはない。
この主題の適用として私がここで述べたいのは、
1. ある人々が考えたように、やがて教会が栄光ある繁栄と祝福の状態に至る後の日の時代に、超常的な御霊の賜物が教会に回復するなどと考えるべき理由は何1つない、ということである。----過去の多くの神学者の意見によれば、神のみことばで語られている後の日の栄光が教会に到来したときには、再び預言者たちが現われ、使徒たちの時代のように、人々は異言や奇蹟を行なう賜物を授けられるという。そして現存の神学者の中にも、これと同意見の人々がいるようである。
しかし、使徒がこの聖句および文脈で云っていることからすると、そのように想像すべき理由はないと思われる。確かに聖書はそうした時代の光輝と栄光について語っている。また、その時代における教会の状態が、かつてないほど輝かしいものであり、あたかも神の御霊が過去のいかなる時代にもまして豊かに注ぎ出されるかのように語っている。これらはみな実現するかもしれない。だがしかし、そうした超常的な賜物が教会に授けられることはないであろう。神の御霊は、神から出た愛を生み出し、押し進めるために注ぎ出されるとき、奇蹟的な賜物による現われよりも、はるかに卓越したしかたで注ぎ出されているのである。このことを明確に教えているのが前章の後半部分である。そこで使徒は、多くの奇蹟的な賜物を列挙した後で、キリスト者たちに向かって、よりすぐれた賜物を熱心に追い求めるよう助言している。しかし、そこで彼はこうつけ加えているのである。「また私は、さらにまさる道を示してあげましょう」。その道とは、神の御霊の影響を求め、心の中で愛、すなわち神から出た愛を働かせるという道にほかならない。そして聖書が未来の教会の輝かしい状態は何にもまさる状態であると語るとき、その時代に神の御霊が注がれるしかたが、この最も「まさる道」以外のものになるなどと結論すべき理由は聖書のどこにも見あたらない。疑いもなく御霊の最もまさる道とは、教会の何にもまさる状態のためのもののはずである。
教会の未来の状態が過去のどの時代よりもはるかに完全なものであるからといって、その時代には奇蹟的な賜物があると証明することにはならない。むしろ逆である。なぜなら使徒自身が、この聖句と文脈において、こうした超常的な賜物がすたれ、途絶え、より完全な御霊の実または影響に取って代わられると語っているからである。この聖句を後に続く2つの節と合わせて読みさえすれば、なぜ預言や異言がすたれ、愛が残り続けるかという理由が暗示されているとわかるであろう。すなわち、不完全なものは完全なものに取って代わられ、さほどすぐれていないものは、よりすぐれたものに取って代わられるのである。そして、そのよりすぐれたものとは愛である、と使徒は宣言している。預言や奇蹟があるということは、教会の完全な状態を示すものではなく、むしろ不完全さを示している。なぜならそれらは、幼年期にある教会を支える支柱または添木として、あるいは、こう云ってよければ、つかまり立ち用の紐として、神によって定められた手段であって、完全に成人した状態にある教会にふさわしいものではないからである。そして使徒は、そのようなものとしてこれらについて語っていると思われる。キリスト教会がキリストの昇天後、最初に創始されたときには、まだ幼児期にあり、当時は、それを確立するための奇蹟その他が必要であった。しかし、ひとたび確立され、聖書の正典が完結してしまうと、それらは途絶えた。これは、使徒の議論によれば、それらがいかに不完全であるか、いかにあの、神から出た愛に見られる聖霊の実または影響にはるかに劣っているかを示すものである。ということであれば、なぜ私たちは、教会がその最も完全な状態に至ったとき、それらが再び回復されるなどと期待しなくてはならないだろうか? これらの奇蹟的な賜物すべてを指して使徒は、キリスト者の愛という、はるかに高貴な実にくらべれば、「子どものこと」と呼んでいるように思える。それらは教会が子どもじみた状態にあった際にはふさわしかったが、育ちきって成人の状態にある教会には、聖い愛の方をいやまさって期待すべきである。また、教会がキリスト・イエスにある完全な身たけに達したときに、ふんだんに満ちあふれるであろうあの聖い愛にくらべれば、そうした奇蹟的賜物はそれ自体で子どもじみたものである。
さらに、教会の未来の時代における壮麗さもまた、そうした時代において奇蹟的な御霊の賜物が継続することを示す論拠には全くならない。なぜなら、そのときの教会の状態は、確かに天国の状態以上に壮麗なものではないであろう。だがしかし、使徒の教えによれば、天国の状態において、こうした賜物はみな終結し、神から出た愛を生み出す御霊の影響だけが残り続けるのである。さらにまた、そうした壮麗な時代を未来における教会にもたらすために、こうした奇蹟的な賜物が必要かどうかも明らかではない。なぜなら神はこうした賜物の助けがなくとも、そのような時代を実現させることがおできになるからである。たとえ神の御霊が、魂を回心させ、回心した人々のうちに神から出た愛をみこころのままに燃やす、という恵み深い影響によってのみ注ぎ出されたとしても、それだけで、他に何も新しい啓示や奇蹟がなくとも十分に、私たちが語っているような壮麗な時代を現出するため必要な効果のすべてを生じさせることができるであろう。それは、先頃この町および隣り合う町々において起こった御霊のあふれるような御注ぎにおいて、私たちが垣間みたことからも、みな確信できよう。もしも私たちがたよるべき何らかの新しい基準が必要であり、神のことばに御霊の一般的な影響を合わせたものでも不十分だとしたなら、種々の奇蹟が回復される必要は、ある程度あるかもしれない。しかし新しい聖書が与えられたり、すでに私たちの有する聖書に何かが追加される必要など全くない。なぜなら、聖書はそれだけで私たちの信仰と行為に関する完璧な基準だからである。そして、新しい聖書の正典などが必要でないのと同様、奇蹟的な賜物の必要もない。そうした賜物の大目的は、聖書を確証することか、御霊の霊感によって聖書がまだ与えられていなかった時代に、その欠けを補うことにあったからである。
2. この主題についてここまで考察してきたことからすると、何か新しい啓示のように見えるもの、あるいは何らかの超常的な御霊の賜物と主張されるようなものが見られた場合には、並々ならぬ警戒心を働かせなくてはならない。----時として人は、心に直接の啓示を受けたかと思えるような印象をいだくことがある。それは、自分に関して、あるいは近親の者や友人に関して、これから起こるはずの出来事が示された、ということかもしれない。あるいは、以前は知らなかったような、そして啓示されなければ今も秘められたままであったような、これから起こるはずの出来事を示された、ということかもしれない。また、ことによると人は、だれか他の人が、あるいは自分自身の魂が、霊的にどのような状態にあるかを、聖書的なしるしや、心のうちにある恵みの証拠以外の何らかの方法によって啓示されたと考えることがある。時として人々は、行ってこれこれのことを行なえという、直接の指示を天から受けたと想像することがある。聖書から学んだことや、自分の義務を指し示す理性によるのではなく、自分の心に直接浮かんだ印象によってそう想像するのである。そして時として彼らは、神が夢によって直接彼らに将来どうなるかを啓示してくださったと夢想することがある。しかしこうしたすべてのことは、もしそれが神の御霊から来たものだとすると、使徒が絶えてなくなると語っている類の超常的な御霊の賜物と同じ性質のものであり、すでにすたれて久しく、神が再び回復なさると考える理由は何1つないものである。そしてもしそれらが神の御霊から来たものでなければ、それは途方もない迷妄にほかならない。さらにまた、
3. この主題が教えているのは、魂のうちに真の恵みがあることを示す証拠であり、愛、すなわち神から出た愛を精髄とする御霊の影響または実を、私たちがいかに尊ばなくてはならないか、ということである。----使徒がこの聖句および文脈で目的とし、また目ざしているのは、私たちにこの愛を尊ぶよう教えることである。そのため彼は、あらゆる奇蹟的な御霊の賜物がすたれ、終結していくにもかかわらず、これは決して絶えることがないと示しているのである。この恵みは最もすぐれた御霊の実であり、この恵みなしには、どれほど超常的で奇蹟的な賜物も無に等しい。これこそ偉大な目的であって、他の賜物は手段にすぎない。そして云うまでもなく、目的はすべての手段にまさってすぐれたものである。それゆえ私たちはみな、このほむべき御霊の実を熱心に求め、これが私たちの魂のうちであふれるようになることを求めようではないか。神の愛が私たちの心にいやまさって注がれることを、また私たちが主イエス・キリストを真摯に愛し、キリストが私たちを愛してくださったように互いに愛し合うようになることを求めようではないか。そのようにするとき私たちは、あらゆる宝の中で最も貴重な富、あらゆる恵みの中で最も高貴で最も卓越した恵みを所有することになるであろう。私たちは、自分の内側に永遠の性質を持つ愛を有することによって、自分の永遠の未来が祝福されたものとなること、永遠のいのちに対する自分の希望が根拠のある希望、決して失望させられることのない希望であることの、最も確実な証拠をいだくことになろう。地上で魂のうちにはぐくまれた愛は、私たちにとって来たるべき世界の前味となり、そこに至るための備えとなるであろう。その来たるべき世界とは、愛の世界----愛の御霊が永遠に支配し、祝福してくださる世界----なのである。