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16. 愛の世界----天国

「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます」。 Iコリ13:8-10

 これらの節の最初の節から、すでに私は1つの教理を引き出している。すなわち、聖霊を一時だけでなく永遠にキリストの教会に分与する性質がある偉大な御霊の実とは、愛、すなわち、神から出た聖い愛である、ということである。さて今から私は、同じ節を以下に続く2つの節とともに考察しようと思うが、まずこの3節について2つのことに注目しておきたい。

 第一に、愛のひときわすぐれている点として言及されていること、それは、他のあらゆる御霊の実がすたれた後でも愛はなくならないということである。また、

 第二に、それが実現するのは、不完全なものがすたれて、完全なものが現われるという、教会が完全な状態に至ったときのことである。

 キリスト教会には2つの不完全な状態があり、それゆえ2つの完全な状態がある。教会はその始まりにおいて、すなわち、その初期の状態においては、まだ世に力強く確立しておらず、その新約の状態に落ちついておらず、聖書の正典が完結していなかったために、不完全な状態----いわば、子どもの状態にあった。それとくらべれば、時代が進んだ後の教会は、成人の状態に達しているとも、地上的な比較で云えば完成の域に達しているとも云える。だが、それと同じように、この比較的には完全なキリストの教会も、交戦状態にあるうちは、すなわち、時の終わりに至るまでは、まだ不完全な、いわば子どもの状態にあるのである。それにくらべ、やがて天国の状態に至ったときの教会は、真の成人の状態、また完全の域に達しているのである。

 それと同じく、ここで言及されている種々の奇跡的な御霊の賜物がすたれることにも、二種類の場合がある。1つは、教会の初期にあたる幼児の時代が、聖書の正典の完結とともに終わりを告げた時のことである。そのように時代が進んだ後の教会にとって、そうした賜物は、もはや必要なかった。子どものことをやめ、世の終わり前における成人の状態に至るべき時であった。愛こそ、神の御霊の注ぎの最も輝かしい現われとなるべきであった。愛こそ、御霊の最大の、また永遠の実なのである。もう1つの場合は、すべての一般的な御霊の実が、個々人について云えばその死においてすたれ、教会について云えば世の終わりとともにすたれる時のことである。だが愛は、天国においてもなくなることがない。神の御霊はそこで、あらゆる者の心のうちにある完全な愛において、永遠に注ぎ出され、現わされるのである。

 この文脈で使徒は、こうした教会の双方の状態に目配りしていると思われるが、特に後者を念頭に置いていると思われる。なぜなら、確かに地上の教会が後の時代に迎える栄光の状態は、それ以前にくらべれば完全な状態であろうが、天国における状態こそ、使徒の用いている表現に最もよく符合すると思われるからである。使徒は云う。「完全なものが現われたら」、云々。また、「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」。そこで私がこの聖句から引き出したい教理は、

 天国は愛の世界である、ということである。

 この聖句で使徒が語っているのは、天国における教会の完全な状態であり、それゆえ聖霊が今地上におけるよりも、はるかに完全に、はるかに豊かに教会に与えられることになる状態のことである。しかし聖霊がそれほど豊かに注ぎ出されるとき、それは、天界の祝福された住人すべての心の中における、この偉大な御霊の実、すなわち聖く神から出た愛という形で与えられるであろう。教会のこの天的な状態は、地上における状態とは著しく違う。これは、神がご自分の聖霊をそのように分与するため特に設けられた状態で、ここでは聖霊が完全に与えられるが、教会の現在の状態では、聖霊は非常に不完全な形しか与えられていないからである。さらにこれは、この聖なる愛が、いわば御霊の与える唯一の賜物、唯一の実となるような状態でもある。愛は、あらゆるものの中で最も完全で、最も輝かしいものであり、そのように完成に至らされた後には、神が地上のご自分の教会に常々お授けになってきた他のすべての賜物を不必要にしてしまうのである。そこで、天国がこのように聖なる愛の世界であることについて、より理解を深めるため私が考察したいのは、第一に天国における愛の偉大な原因と源泉であり、第二にそこに存在する愛の対象であり、第三にその愛の主体であり、第四にその原理、すなわちその愛そのものであり、第五にそこでその愛が働き表わされ享受される、この上なくすぐれた環境であり、第六にこれらすべての幸いな影響と成果である。

 I. 天国における愛の「原因」および「源泉」。----ここで私が述べたいのは、愛の神ご自身が天国に住んでおられる、ということである。天国は、いと高き聖なる方の宮殿であり、謁見の間であるが、この方は愛という名で呼ばれ、あらゆる聖なる愛の原因にして源泉なのである。神は、その本質という点から考えれば、あらゆる所におられる。----天をも地をも満たしておられる。しかしそれでも神は、ある意味では、他の場所にまさって、ある特定の場所におられると云われている。古の時代、神は他のどの国にもまして、イスラエルの国に住んでおられると云われた。またその国のどの町にもましてエルサレムに、またその町のどの建物にもまして神殿に、また神殿のどの部屋にもまして至聖所に、そして至聖所のどの部分にもまして贖いのふたの上に住まわれると云われた。しかし天国は、全宇宙のいかなる場所にもまして神の御住まいである。古の時代に神がお住まいになると云われたあらゆる場所は、その予型にほかならなかった。天国は、神が特にその目的のためにお造りになった被造世界の一部分であり、神がその栄光の臨在をもって住まわれる場所、神の永遠の御住まいである。ここに神はお住みになり、栄光の輝きをもってご自身を永遠に現わしておられる。

 そしてこれが天国を愛の世界にしているのである。神は、太陽が光の源泉であるように愛の源泉だからである。それゆえ天における神の輝かしいご臨在は、晴天の日の太陽が目に見える天の中央に位置したとき世界を光で満たすように、天国を愛で満たすのである。使徒は私たちに、「神は愛です」、と告げている。それゆえ、神が無限の存在であることを考えると、神は愛の無限の源泉であることになる。神がすべてを満ち足らわす存在であることを考えると、神は、愛がみなぎりあふれ、尽きることなき源泉である。そして神が不変で永遠の存在であることからすると、神は、変わることなく永遠に愛の源泉である。

 そこに、すなわち天国に、神は住んでおられ、その神のうちから聖なる愛のありとあらゆる支流が、しかり、今も昔もこの世に存在する、ありとあらゆる愛の一滴一滴が発しているのである。そこに父なる神、子なる神、御霊なる神が住んでおられ、無限に親密で、人知の及ばぬ永遠の愛を交わしながら、1つに結び合わされているのである。そこに父なる神は住んでおられる。あらゆるあわれみの、すなわち愛の父であり、そのひとり子をお与えになり、死なせるほどに世を愛された父である。そこにキリスト、神の子羊、平和と愛の君は住んでおられる。ご自分の血を流し、人々の身代わりの死に至るまでご自分の魂を注ぎ出されたほどに世を愛されたお方である。そこに、かの偉大な仲保者は住んでおられる。この方を通して、神から出たすべての愛は人々に向けて表わされ、この方によってその愛の種々の成果は獲得され、この方を通してそれらは分与され、この方を通して愛はすべての神の民の心に植えつけられているのである。そこに、キリストはその二性、すなわち人性と神性の双方において住んでおられ、御父と御座をともにしておられる。そしてそこに、聖霊----神から出た愛の御霊は住んでおられる。この方にあって、神の本質そのものが、いわば流れ出し、愛にあって伝えられ、またこの方の直接的影響によってすべての聖なる愛が、地上と天国にいる全聖徒の心に注がれているのである。そこに、天国に、この愛の無限の源泉----この、おひとりであられる永遠の三者----は、妨げとなる何の障害もなしに開かれており、そこから愛が永遠に流れ出ている。そこに、この輝かしい神は、燦然たる栄光と愛の光のうちに現わされ、輝きを放っている。またそこに、この輝かしい泉は永遠に湧きあふれ、愛と歓喜の川となって四方へ流れ出し、その川は、ふくれあがって、いわば愛の大海となっている。贖われた者たちの魂は、その大海に浴してこの上なく甘美な喜びを覚え、云うなれば、押し寄せる愛に心が呑み込まれてしまうのである! さらに私が天国について考えたい点は、

 II. そこに存在する愛の「対象」である。----そしてここで私は3つのことに注目しよう。

 1. 天国には、愛すべきものしかない。----そこには、何の厭わしいものも、不快なものも、汚れたものも、それが人格であれ事物であれ、見あたらない。そこには、いかなる邪悪なものも、聖からざるものもない。「すべて汚れた者や、憎むべきこと……を行なう者は、決して都にはいれない」(黙21:27)。またそこには、肉体的にも道徳的にも、いかなる醜いものもない。あらゆるものが、うっとりするほど目に麗しく、それ自体で慕わしく、素晴らしい。そこにお住まいになり、輝かしくご自分を現わしておられる神は無限に愛すべきお方である。天の御父として、神聖な贖い主として、聖なるきよめ主として、輝かしいほど愛すべきお方である。

 このほむべき社会に属するあらゆる人は愛すべき人々である。その家族の御父は愛すべきお方であり、その子どもたちも全員そうである。そのからだのかしらは愛すべきお方であり、そのすべての肢体もそうである。御使いたちの間には、いかなる醜い者もいない----彼らはみな聖いからである。またいかなる邪悪な天使も、この世界にはびこっているように天国にはびこることを許されてはいない。彼らと、この輝かしい愛の世界の間には深い淵があって、それが彼らを永遠に遠く隔てている。また聖徒たち全員を見渡しても、そこにはいかなる醜い者もいない。いかなる偽りの信仰告白者も、いかなる偽善者もいない。聖徒であると公言しておきながら、実は非キリスト者的で憎むべき精神や行動をしている者は、この世界にはしばしば見受けられるが、そのような者はひとりとしていない。その黄金が精錬されないままで、金滓が残っているような者はひとりとしていない。自分でも、他人からも愛すべからざるような者は、ひとりとしていない。いやな感じを与えるものや、少しでも憎悪や嫌悪の衝動や感情を引き起こすようなものは、何1つない。そこにあるあらゆるものは、永遠に愛を引き起こすものだけである。

 また、天国ではあらゆるものが愛すべきものであるばかりか、

 2. それらは完璧に愛すべきものである。----この世にある多くのものは、たとえおおむね愛すべきものであったとしても、それとは逆のものから完全に自由ではない。太陽には黒点がある。そのように、どれほど慕わしく、また愛されるに値する多くの人々にも、何か不愉快な、醜いものがつきまとっている。善良な人々の中にもしばしば、気質的な、あるいは性格的な、あるいは行動上の欠点があり、それさえなければまことに慕わしく立派に見えたであろうものを損なっている。地上では、最良の者ですら不完全である。しかし天国ではそうではない。そこには、どんな人格にも事物にも、いかなる種類の汚れも、醜さも、恥ずべき欠陥もない。天国では、あらゆるものが完全に清く、完全に愛すべきである。このほむべき世界は完全な光輝に満ち、何の暗闇もない。完全に純潔で、何の汚点もない。完全に晴朗で、何の暗雲もない。いかなる道徳的な欠陥も、肉体的な欠陥も決してそこには入り込めない。そこには、いかなる罪深いものも、弱いものも、愚かしいものも見られない。粗野で不快な性質を持つものは何も、あるいは洗練された嗜好や繊細な神経に障るようなものは何もない。そこでは、いかなる弦も調子はずれの音を出さず、天上の音楽に耳障りな音が入り交じるようなことはない。また、いかなる声音も聖徒や御使いらの頌歌を不協和音にしたりしない。

 そこでかくも余すところなくご自身を現わしておられる大いなる神は、絶対的で無限に完璧に完全であられる。御父の栄光の輝きである御子は、そこでは、この世でまとっておられたあの外的卑しさの衣を脱ぎ捨て、その満ち満ちた栄光のうちに現われておられる。聖霊は、そこでは水晶のように清澄ないのちの水の流れとして、神と子羊の御座から、完全な豊かさと甘美さをもって流れ出している。そして、その聖なるほむべき社会に属するひとりひとりには、いかなる種類の罪も不完全さも弱さも軽率さも欠点も、傷1つない。贖われ、きよめられた教会全体は、そこでは、まっ白な、きよい麻布を着せられ、しみも、しわや、そのようなものの何1つない花嫁としてキリストにささげられている。そのほむべき世界の住人がどこに目を向けようと、そこには威厳と美と栄光しか見えない。地上で最も威風堂々たる大都市も、どれほど壮麗な建物が立ち並んでいようと、その土台は泥土の中にあり、その通りは不潔で、薄汚く、よごれた足で踏みつけられている。しかし、この天の都の大通りは、透き通ったガラスのような純金でできており、その土台は宝石、その門は真珠からできている。そしてこれらはみな、そこに住む人々のきよさと完全さをかすかに伝える象徴でしかないのである。また天国には、

 3. 聖徒らが地上にいる間ずっと心にかけてきたもの、何にもまして愛してきたものがすべてある。----彼らがそこに見出すのは、自分たちが地上に住んでいた間、最も愛すべきものと思っていたものである。彼らが心から同意していたもの、心をつかんで離さなかったもの、彼らの魂を、地上のいかなるいとしく喜ばしいものにもまして、引きつけていたものである。彼らがそこに見出すのは、この下界で自分が喜びとしていたもの、思い巡らすのを楽しんでいたもの、それを熟考してはその甘美さにしばしばうっとりとしてきたものである。また、それは、彼らが自分の分け前として選んだもの、それを尊ぶあまり、わが身にどれほど苛酷な苦しみがふりかかろうと意に介さず、父や母や親族、友人、妻子、否、いのちそのものすら捨ててもかえりみなかったほどのものでもある。この世の、否、全宇宙の中にある真に偉大で善良なすべてのもの、真に清く聖なるすべてのものは、絶えず天国へ向かっている。川の流れが海へ向かっていくように、こうしたすべてのものは、この無限のきよさと至福との大海へ向かっているのである。時の経過は、ただそれらをこの祝福の状態へと至らせ、私たちをも、聖くされているならば、そこに至らせ、それらと結び合わせるだけである。この地上で死が私たちの手から荒々しくもぎとっていくあらゆる宝石は、そこで永遠に輝く壮麗な宝玉となっている。私たちより先に世を去ったキリスト者の友人たちは全員、贖われた霊となって、そこで私たちを出迎えようと待ち受けている。地上で私たちが産後すぐに失った幼児は、恵みによって天上で見出されるであろう。死によって地上での交わりを断たれたキリスト者の父が、母が、妻が、子が、そして友人が、天上の聖域で、私たちと聖徒の聖い交わりを再び新たに始めることになり、それは二度と終わることがないであろう。そこで私たちは、族長たちや父祖たち、旧約新約時代の聖徒たちや、この世がふさわしい所ではなかった人々、私たちが地上では信仰によってしか親しんでこなかった人々と友誼を結ぶであろう。そして何よりも、私たちがそこで楽しみ、ともに住むことになるのは、私たちが地上で心を尽くして愛してきた父なる神であり、私たちの愛する救い主、私たちにとって万人よりすぐれ、全く愛すべきお方なるイエス・キリストであり、私たちのきよめ主にして導き手、慰め主なる聖霊である。そして私たちは、その神格の満ち満ちた豊かさで永遠に満たされるのである!

 天国における愛の対象がそのようなものであると示した上で、次に語りたいのは、

 III. その愛の主体である。そしてその主体とは、そのような愛をうちに宿す個々の心にほかならない。----天国にいるあらゆる心には、愛が宿っており、支配している。神の心は愛が生起する座、あるいは主体である。聖い愛は神のうちにある。他者から愛を受けた者のうちに愛があるようにではなく、愛が最初に生起する座としてである。愛が神のうちにあるのは、月や他の惑星が反射光によって輝くのとは違い、太陽が自ら光を発して輝き、その光の源泉となっているのと同じである。そして神から愛は、天国の全住人に向かって流れ出ている。まず第一に、神の愛が必然的に、また無限に流れ出ていく先は、そのひとり子である。その愛には何の不純物もなく、その愛が注がれる対象は無限なるお方であり、また無限の愛の満ち満ちた豊かさをことごとく受ける資格が十分あるお方である。そしてこの無限の愛は、彼に対して無限に注がれる。その源泉は、この対象に向かう流れを送り出すだけでなく、自らじきじきに彼のもとに赴くのである。しかし神の御子は、愛の無限の対象であるばかりでなく、彼もまた愛の無限の主体である。彼は御父の愛する子であるばかりでなく、御父を無限に愛するお方である。神の本質における無限の愛とは、いわば、御父と御子との間で互いに交わされる、無限にして、永遠の、聖なる動力なのであって、1つのきよく聖なる行為、すなわち、それによって神格が、いわば、御父と御子の双方から発する、無限にして不変の愛の感情となる行為なのである。この神い愛は、その座が神格のうちにある。それは神格の中で働いている。すなわち、神のうちにおいて、神ご自身に対して働いている。

 しかしこの愛は、このような働きを行なっているだけではない。それは天国に住むすべての被造物、天にいるすべての聖徒と御使いらに向かって、無数の支流となって流れ出ている。父なる神の愛は、かしらなるキリストに向かって流れており、彼を通してそのすべての肢体へと流れている。キリストのうちにあって彼らは、世界の基の置かれる前から愛されており、キリストのうちにあって彼らには、御父の愛が時至ってキリストの死と苦しみという形で表わされ、今や天国において完全に現わされているのである。また聖徒と御使いらは、聖なる愛の二次的な主体である。彼らは、太陽が光の源であるのとは違い、愛が生起する座としてそれを宿しているのではないが、反射光でしか輝かない惑星が光を発するようにして、愛を宿している。神が聖徒と御使いらに愛を与えてくださったので、彼らの愛は、主としてその源泉たる神に向けられる。それが最も理に適ったことである。彼らはみな至上の愛を持って神を愛している。天国にはひとりも神の敵はいない。全員が、神の子どもとして、彼らの父としての神を愛している。彼らはみな1つ思いで結ばれて、その魂をあげて、彼らの永遠の父なる神への愛、彼らの共通した贖い主、かしら、友なるイエス・キリストへの愛を表わしている。

 キリストは、天国にいるご自分の聖徒ら全員を愛しておられる。彼の愛は、そこにある彼の教会全体へと、またその教会に属するひとりひとりへと流れ出ている。そして彼らはみな、1つの心、1つの魂で、彼らの共通の贖い主への愛という絆で結ばれている。あらゆる者の心は、この聖なる霊的な夫に堅く結ばれており、みなが彼にあって喜び、それとともに御使いらが、自分たちの愛も彼らに合わせている。また御使いらと聖徒らは、みな互いに愛し合っている。この天国の輝かしい社会の全員は真摯に結ばれている。彼ら全員の間には、何の秘密も、公然の敵もない。そこには愛に満ちていない心は1つもなく、ただの一人といえども他の全員から愛されていない住人はいない。そしてすべての者が愛すべき者であるのと同様に、すべての者が互いに愛すべき者であることを完全な満足と喜びをもって認めている。あらゆる魂が互いに愛を注ぎ合う。そしてこのほむべき住人たちすべての間で、愛は相互に交わされ、満ちあふれ、永遠に続いていく。次に語り進めたいのは、

 IV. 天国における愛の原理についてである。----さて、ここで私が意味しているのは、この天の世界を満たし、祝福している愛そのもののことである。この原理については、その性質と程度という2つのことに注目できよう。そこで、まず、

 1. その性質について。----その性質において、この愛は全く聖にして聖いものである。この世にあるほとんどの愛は聖からざる性質をしている。しかし天国に存在する愛は肉的ではなく霊的なものである。それは、腐敗した原理や利己的な動機から発したものでも、卑俗で下劣な目当てや目的を追求するものでもない。こうしたすべてと全く逆に、それは清浄な炎であり、聖なる動機によって方向づけられ、神の栄光および宇宙の幸福と相容れないようないかなる目的をも求めない。天国の聖徒らが神を愛するのは、神が神なるがゆえであり、彼らが互いに愛し合うのは、神のゆえ、また彼らと神との関係のゆえ、そして彼らに刻み込まれた神のかたちのゆえである。彼らの愛のすべては清く聖である。この愛について、もう1つ注目したいのは、

 2. その程度についてである。----その程度において、これは完全である。神の心に宿っている愛は完全であり、絶対的に無限で神聖な完璧さを有している。御使いおよび聖徒らが有する神およびキリストに対する愛は、その種類において完全である。すなわち、彼らの性質にとって完全にふさわしいものである。それは罪なき完璧さを伴う完全なものであり、彼らの性質の力量に完璧に釣り合ったものとして完全である。そのように、この聖句では云われている。「完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます」。彼らの愛には、それと逆らう原理が全く残っておらず、その愛を妨害したり妨げたりするような何の高慢も利己心もない。彼らの心は愛に満ちるようになる。地上では、心の中のからし種一粒程度でしかなかったものが、天国では大木のようになる。この世では聖い愛の小さな火花1つしか持っていなかった魂が、天国では、いわば白熱して燃えさかる炎となり、太陽が何の黒点もなしに、その輝きの絶頂に達したような姿となるのである。

 天国には何の敵も残存しておらず、神およびキリストに対するいかなる嫌忌も、冷淡さも、気の抜けたような心も残っていない。御使いや、自分よりも栄光においてすぐれている者らに対する、いかなるねたみの原理も、そこには残っておらず、自分に劣る者らに対するいかなる蔑みや侮りのようなものもそこにはない。栄光において他の者らよりも低い立場にある者らは、自分より栄光において上にある者らを見ても、自分の幸福をいささかも減じさせることはない。逆に、そのほむべき社会に属するすべての者が、互いの幸福を喜び合う。彼らにはみな、自他のへだてない完全な愛があるからである。あらゆる者が真摯であるばかりか、完全な善意を向け合っている。真摯で強い愛は、愛する対象が栄えることに大きな満足を覚え、喜ぶものである。そしてもしその愛が完全であるなら、愛する者が栄えれば栄えるほど、愛している方はいやまさって喜び、嬉しく感ずるのである。なぜなら愛する者が栄えるのを見ることは、いわば愛の食物であり、その栄える度合いが大きければ大きいほど、愛は大いに喜びを感ずるからである。自他のへだてない愛は、他者が栄えるのを見て喜ぶ。ひがむことを知らない愛は、他者の美や完全さを見て喜ぶ。それゆえ、栄光において自分よりも上位の者らが自分以上に栄えている姿は、彼らに対して感ずる愛を減らすどころか、その愛をいやまさって強めるもの、あるいはその愛の一部なのである。

 疑いもなく栄光における聖徒らの間には、想像も及ばぬほどに清く、甘美で、熱烈な愛があるに違いない。そしてその愛は、愛する相手が完全無欠の慕わしい者であればあるほど強い愛となる。それゆえ当然、その愛が喜びを覚えるのは、他者の幸福と栄光がその慕わしさに匹敵するものであり、ということは、自分が彼らに向ける愛に匹敵するものであるのを見るときにほかならない。栄光において最も高い者らは、聖潔において最も高い者らであり、それゆえすべての聖徒から最も愛される。なぜなら聖徒は最も聖い者を最も愛するので、そうした者が最も幸福になることをみなが喜ぶからである。そしていかなる聖徒にとっても、聖潔に進み神に似ることにおいて自分よりも高く、他から愛されることおいても自分にまさる者らを見るのは悲しみではない。なぜなら、だれでも自分の望むだけの愛を持つことになり、心にいだける限りの大きな愛の現われをいだくことになるからである。そのようにしてすべての者が満足するようになり、完全な満足があるところには、ねたみを起こす理由は何1つあるはずない。また、いかなる者も、栄光において自分にまさる者らが高ぶっているからといって、彼らをねたむような誘惑にかられることは決してない。天国にはいかなる高ぶりもないからである。天国において他の者らにまさって聖く幸福な者らが、鼻高々で得意満面にしているのではないかと思うべきではない。なぜなら聖潔において他にまさる者らは、へりくだりにおいても他にまさっているはずだからである。栄光において最も高い聖徒らは、心の謙遜さにおいて最も低い。なぜなら彼らの透徹したへりくだりは、彼らの透徹した聖潔の一部だからである。すべての者が完全に高慢から自由になっているとはいえ、ある者らは他の者らにまさる神知識を有しており、他の者らにまさって神の完全なご性質を見てとる力があるため、彼らは自分の比較的な小ささや無価値さを痛感し、それゆえへりくだりにおいて最も低く、最も自分を卑下するのである。

 それだけでなく、栄光において劣る者らが、自分にまさる者らをねたむ誘惑にかられることはない。なぜなら、最も高い者らは、その聖潔の高さゆえに、下の者たちからより愛されているだけでなく、他者への愛の精神もより多く持っており、自分に劣る者らを、その力や立場が低くとも愛するからである。栄光に輝く度合いが最も高い者らには、最も高い能力がある。それで最も大きな知識もあるため、神が愛すべきお方であることを最もよく見てとるものであり、その結果、心の中には、神への愛と聖徒らへの愛が最も豊かに満ちあふれているのである。そしてこのため、栄光において劣る者らは、自分にまさる者らをねたまないのである。なぜなら彼らは、栄光において最も高い者らから最も愛されるからである。そして栄光においてまさる者らは、劣る者らを侮るどころか、彼らに対する最も豊かな愛をいだく----彼らの透徹した知識と幸福に比例して大きな愛をいだく----のである。聖徒らは、栄光において高くなればなるほど、この点でキリストに似た者となっていき、上の者から下の者への愛は、下の者たち同士が交わし合う愛よりも大きい。そして、他者のすぐれて大きな幸福を見ても下に立つ者の幸福感が阻害されないということを、いかなる疑いもなく確かにしているのは、このことである。すなわち、上に立つ者らの幸福は、本質的に、下に立つ者らにまさる大きなへりくだりと、下に立つ者らと神とキリストに対する、いやまさる大きな愛を持つことにある、ということである。天にある聖徒らの調和は、これほど甘美で完全なものであり、そこであらゆる心を支配している互いへの愛は、これほど完全で、限界なく、純粋で、妨げのないものなのである。そしていかなるねたみも、悪意も、復讐心も、軽蔑も、利己心も、そこに入り込むことはなく、そうしたあらゆる感情が遠く隔たっているのは、罪が聖潔から遠いがごとく、地獄が天国から遠いがごとしである! 次に私たちが考察したいのは、

 V. 天国において愛が働き、表わされ、享受される、この上なくすぐれた環境である。----まず、

 1. 天国における愛は決して一方通行ではない。----天国における愛は、常に愛したのと同じだけ愛され返す----愛を与えれば、それに比例した愛のお返しを受け取る。そのように愛され返すことを、愛は常に求めるものである。だれかを愛する人は、自分が愛した分だけ相手の愛を欲し、それをいとおしもうとするものである。そして天国においてこの愛の欲求、すなわち愛されたいという願いが満たされないことは絶対にない。このほむべき世界のいかなる住人も、愛する者から侮られたり、自分の愛を軽くあしらわれたり、そっけなく受け取られたりして傷つくことはない。

 聖徒らが神を、想像も及ばぬほど熱烈に、また力の限り愛するように、神も彼らを永遠の昔から愛してこられ、今なお彼らを愛しており、永遠に彼らを愛し続けてくださる、と彼らは知るであろう。そして神はそこで彼らにご自分を輝かしく現わされ、彼らは、彼らが所有しているすべての幸福と栄光が神の愛の成果であることを知ることになるのである。また、それと同じくらい熱烈に、また激しく、聖徒らは主イエス・キリストを愛するであろう。彼らの愛は受け入れられる。そして彼らは、主が彼らを信実な愛、否、死をも賭した愛をもって愛してくださったことを知ることになる。そのとき彼らは、自分たちのためキリストがご自分のいのちを捨ててくださったということが、キリストにとってどれほど大きな愛の現われであったかを、今よりもずっと身にしみて感じられるであろう。そしてそのときキリストは、彼らの眼の前で、ご自分の心のうちにある、彼らに対する巨大な愛の泉を開くであろう。その巨大さは彼らが以前に目にしたいかなるものにもまさるであろう。これによって聖徒らの神およびキリストに対する愛は報いられ、「わたしを愛する者を、わたしは愛する」、との宣言が成就すると思われる[箴8:17]。むろん、彼らを愛する神の愛は、神が最初に彼らを愛されたことからすると、厳密には愛の応答とは呼べない。だがそれでも神の愛を目にすることは、まさにその理由のゆえに、いやまさって彼らを喜びと賛嘆と神への愛に満たすのである。

 互いに対する聖徒らの愛も、決して一方的なものとはならず、常に報いられるであろう。むろん、だれもがあらゆる点で同等に愛されるようになるとは考えられない。一部の聖徒らは、地上においてすら、他者にまさって神から愛されている。御使いはダニエルに、彼は「神に愛されている人」だと告げた(ダニ9:23)。またルカは「愛する医者」と呼ばれ(コロ4:14)、ヨハネは「イエスが愛された……弟子」と呼ばれている(ヨハ20:2)。そのように、この世で最も傑出した忠節と聖潔を有していた者ら、また栄光において最も上に立つ者らは、天国でキリストから最も愛されるに違いない。また、栄光において最もキリストから愛され、最もキリストに近い所にいる聖徒らは、他のすべての聖徒から最も愛されるに違いない。したがって、使徒パウロや使徒ヨハネのような聖徒は、他の低い階級の聖徒にまさって、天国の聖徒らから愛されると結論できよう。彼らは、下に立つ聖徒らから、同階級の者らにまさって愛される。しかし、こうした場合も、それに応じた愛が返されるのである。なぜなら、そうした者らは、だれよりも他のすべての聖徒から愛されるのと同じく、だれよりも他の聖徒に対する愛に満ちているからである。すべての聖徒の偉大なかしらであるキリストの心は、いかなる聖徒にも不可能なほど愛に満ちている。キリストは、他に対するいかなる聖徒の愛にもまさる愛で、すべての聖徒を愛される。しかし、聖徒はキリストに愛されれば愛されるほど、この点でキリストに似ていき、より愛に満ちた心になっていくのである。

 2. 天上の愛の喜びは、決して中断されることも、ねたみで湿らされることもない。----天上で愛を交わす者は互いの愛に何の疑いもいだかない。彼らには、愛の宣言や告白が見せかけだけではないかと恐れる必要が何もない。むしろ互いの愛情の真摯さと強さに完全に満足する。それは、あたかもあらゆる人の胸が素通しで、心の裡がすべて手に取るように見えるかのようである。天国には、人にへつらったり、感情を押し隠して善人ぶったりする者は一人もおらず、完全な真摯さがいかなる場合も、いかなることにおいても支配している。あらゆる者が、見かけ通りの者であり、愛想の良い人の心には本当に愛が満ちている。この世はそれとは違う。この世では、ほとんどのものは見かけ通りではなく、多くの告白は手軽に、考えなしになされている。しかし天国では、あらゆる愛の表明が心底から出たものとなり、告白されることはみな真実で、本心から出ている。

 聖徒らは神が彼らを愛しておられることを知り、決してその神の愛の大きさを疑うことはない。また、天国のあらゆる住人の愛を疑うことはない。互いの心変わりを不安に思うことはない。自分に寄せられている愛情が、別の競争相手とか、他者にとって不快であろうわが身の欠点とか、自分や相手の心のぐらつきとかのために弱まったり、多少とも自分から退いていくのではないかと猜疑心にかられることはない。また、自分への愛が弱まるのではないかと恐れることもない。天国には、無節操や不忠実に似たものは何もなく、何もそのほむべき社会の友情を妨げたり乱したりはしない。聖徒らは、彼らに対する神の愛が弱まりはしないか、彼らに対するキリストの優しさと愛情がいつかはなくなるのではないかなどと恐れることは全くない。そして彼らは互いにねたみ合うことなどなく、むしろ神の恵みによって、自分たちが交わし合っている愛が決して衰えも変わりもしないものであると知ることになる。

 3. 天国の聖徒らには、その愛を働かせ、表わすのを滞らせたり妨げたりするものが何もない。----この世には、この点で聖徒らを妨げるものは数多い。彼らの心には鈍重な部分がたくさんある。彼らがかかえているのは、重苦しく造られたからだ----地の土くれ----血肉の塊----であって、聖い愛を大いに働かそうと燃える魂の器官としては不適当である。むしろそれは、そうした精神の足をひどく引っ張り妨げるものであり、彼らは自分が望むようには神への愛を表わせず、自分の願うように生き生きとはその愛に専心できない。しばしば彼らは飛びたいと切に願うが、自分の翼にくくりつけられた重荷によって押さえつけられる。喜んで活発になりたい、炎のように上へ上がりたいと切に願うが、自分がいわば足かせをはめられ、鎖で縛られていることに気づく。それで愛によってそうしたいと思うことがなかなかできないのである。愛は彼らに賛美をほとばしらせたいと思わせるが、彼らの舌は従順ではない。魂の熱烈さを表わしたいと願わせるが、闇のために言葉を並べることができない(ヨブ37:19)。そしてしばしば、表現を欠くために、彼らは云いようもないうめきで満足せざるをえないのである(ロマ8:26)。

 しかし天国では彼らにそうした妨げは一切ない。そこにはいかなる重苦しさも、ぎこちなさもなく、また聖い愛に戦いを挑み、その表われを妨げるいかなる心の腐敗もない。そしてそこには何の地上的なからだもなく、その鈍重さが天的な炎を滞らせるようなことはない。天国の聖徒らはその愛のすべてを表わすのに何の困難もない。彼らの魂は聖なる愛によって燃え上がっており、囲われた火のようではなく、何の覆いもなく自由に炎を吹き上がらせている火のようである。彼らの精神は愛によって翼を生やしており、その飛翔を妨げる何の重荷も載せていない。彼らが力や活動の欠けを覚えたり、自分の愛情の対象をたたえる言葉に窮することは全くない。彼らが自分の愛のおもむくままに神と交わりを持ち、神をたたえ神に仕えることを妨げるものは何1つない。愛はおのずと表われようとするものである。そして天国において聖徒らの愛は、その対象が神であれ、造られたものであれ、最ものびのびと思うがままに自らを表わすのである。

 4. 天国では、愛は完全な品位と知恵を持って表わされる。----この世では、どれほど誠意があり、どれほど神と隣人への真の愛の原理を持っていることが確かな人々であろうと、その愛の表わし方、実行のしかたが思慮に欠けていることがよくある。その意図や言葉は間違っていないのに、それがしばしば時と場合に応じていない無思慮なものであるため、はた目には粗野で厭わしく見えてしまうのである。しかし天国では、そうした愛の慕わしさ、立派さをわかりにくくするものは何もない。そこには、不作法で、無神経で、時宜に適わない言動は何もなく、----愚かで感傷的な趣味は何もなく、----余計なお節介は何もなく、----低俗で罪深い感情的性格は何もなく、----理性を曇らせたり欺いたり、理性に先走ったり逆らったりするような感情は何もない。むしろ知恵と思慮とが、聖徒らのうちで愛と同じく完全なものとなり、彼らの愛のあらゆる表われには、最も慕わしく完全な品位と分別と知恵が伴うのである。

 5. 天国には、その住人を互いに遠ざけたり、彼らが互いの愛を完全に享受するのを妨げたりするような外的条件は何もない。----天国には聖徒らを引き離す隔ての壁は何もない。あるいは彼らが、居住地の遠さから、互いの愛を十分また完全に享受することを妨げられるようなことはない。なぜなら、彼らは全員1つの家族として天の御父の家にともに住むからである。またそこには、彼らが完全に打ち解け合うのを妨げるような交際の薄さや足りなさは何もない。それ以上に、彼らの間には何の誤解も、互いの言動についての何の思い違いもない。そこには、気質や作法や状況の差、また種々の意見や利害や感情や縁戚関係の違いから来る不和は全くない。むしろ、全員が同じ利害において結ばれており、全員が同じように同じ救い主に縁を通じ、全員が同じ務めに従事し、同じ神に仕えて、その栄光を現わしている。

 6. 天国では、すべての者が非常に近しく親愛な関係で1つに結ばれている。----愛は常に愛される者との近しい関係を求める。そして天国で彼らはみな互いに近しく縁を結び、親しい関係を持ち合う。すべての者が彼らの愛の至高の対象たる神と近しい関係で結ばれている。彼らはみな神の子どもだからである。そしてすべての者がキリストとの近しい関係で結ばれている。彼はその全社会のかしらであり、聖徒の全教会の夫であり、その全員がともに彼の伴侶をなす一員だからである。そして彼らはみな互いに兄弟関係にある。全員がまさに1つの社会、否、1つの家族であり、全員が神の家族だからである。そして、それにもまして、

 7. 天国では、すべての者が互いを所有する権利、資格を持っている。----愛は愛する者を自分のものにしようとするものである。そして聖い愛も、「私の愛する方は私のもの、私は愛する方のもの」、と云うことを喜ぶ。天国ではすべての者が互いに近縁であるだけでなく、彼らは互いのものとなり、互いに属するものとなるのである。聖徒らは神のものとなる。神が彼らを、ご自分の被造世界の中からご自分の格別な宝としてお選びになり、栄光におけるご自分のもとへ引き寄せたのである。そしてその一方で、神は彼らのものとなる。この世にあっては、永遠の契約において彼らに引き渡され、そして今や彼らは、永遠に神を自分たちの分け前として完全に所有しているのである。またそのように聖徒らはキリストのものとなる。彼は彼らを代価をもって買い取られたからである。また彼は彼らのものとなる。彼らのためにご自分をお与えになったお方は、彼らにご自分をお与えになるだろうからである。そして互いに結んだ永遠の愛の絆において、キリストと聖徒らは相手に自分を与え合うのである。そして神とキリストが聖徒らのものであるように、御使いらは、マタ18:10で暗示されているように彼らの御使いとなる。そして聖徒らは互いのものとなる。使徒は彼の時代の聖徒らのことを、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、ついで互いにゆだねていると語っているからである(IIコリ8:5)。このことが地上においてなされているとしたら、天国ではより完全になされるであろう。

 8. 天国では、彼らは互いの愛を完全な、また途切れることなき繁栄の中で享受する。----地上でしばしば世の楽しみの快さと甘美さを損なうのは、たとえ愛し合いつつ暮らしていても、生活が貧しいために、極度の困難と激しい苦しみを受け、そのことによって悲しみ、また悲しみ合うという場合である。なぜなら、ある意味で愛と友情は、そうした際に担わなくてはならない重荷を軽くしてくれるが、別の意味ではその重みを増すからである。というのも、愛し合っている者らは、その愛ゆえに、相手の苦しみを共有してしまい、自分の試練に加えて、苦しんでいる友の試練をも忍ばなくてはならなくなるのである。しかし天国には、何の逆境もなく、悲痛な思いに沈んだり、友情を交わし合う天の友人たちが悲しんだり悩んだりすることは何もない。むしろ彼らが互いの愛を享受するのは、この上もない繁栄と、輝かしい富と慰めと、最高の栄誉と威厳と、天の御国をともに支配し合う中においてである。----すべてのものを受け継ぎ、御座にすわり、全員がいのちの冠を戴き、王とされ、神のために祭司とされた状態の中においてなのである。

 キリストとその弟子たちは、地上にいた頃、しばしば苦しみや試練をともにしたが、どれほど激しい苦難のもとにあっても、互いに対する最も強い愛と友情を保ち、それを現わしていた。そして今天国において彼らは、互いの愛を不滅の栄光の中で享受しており、あらゆる悲しみやため息は永遠に消え失せてしまっている。キリストもその聖徒らも、この世での悲しみや嘆きを知り抜いていた。むろん、その最も大きな割り当てを受けたのは、格別に「悲しみの人」であられたキリストではある。しかし天国において彼らは、ともに天の所にすわっており、そこではいかなる悲しみも嘆きも、もはや決して知られない。それと同じく、天国ですべての聖徒らが互いの愛を享受するのは、至高の栄光と幸福においてであり、それと比較すれば地上最大の君主の財宝と玉座といえども、まるでみすぼらしく、貧相でむさくるしいものでしかない。それで、彼らは互いに愛し合うとき、自分の幸福だけでなく相手の幸福をも喜ぶことができ、愛によって互いの祝福と栄光にあずかることができるのである。すべての聖徒が他のあらゆる聖徒に対して愛をいだいているため、相手が栄光を享受している姿を見るだけで、その栄光を、いわば自分のものとしてしまうのである。彼らがそのような栄光を享受していることを喜ぶあまり、ある意味では自分が身をもってそれを享受しているかのように思われるのである。

 9. 天国では、あらゆることが彼らの愛を押し進め、互いに喜び合うのを好都合にするよう働いている。----そこでは、いかなる者も、嫌悪や憎悪をいだかせようと誘惑したりしない。いかなるお節介焼きも、いかに意地の悪い敵もない。偽りの噂を流したり、故意に誤解を伝えたり、他人の悪評を云いふらす者はだれひとりなく、あらゆる者が、またすべてのことが、愛を押し進め、愛を十分に楽しませるように働くことになる。住まいである天国そのものが、喜びの園であり、天の楽園であり、あらゆる点において、天的な愛の住まいとしてふさわしいもの、彼らが甘美な社会を持ち、互いの愛を完全に享受できる場所である。他者に対してよそよそしい者、つきあいにくい者はひとりもいない。この世における些細な区別は、天国の社会では何の境界線にもならず、むしろすべての者が等しく聖潔と聖なる愛をもって接し合う。

 またそれと同じく天国では、何もかもが、神およびキリストの美しさと愛すべきこと、そして聖徒の上に注がれる聖い愛の輝きと甘美さをも明らかにしている。その世界で輝き、その世界を満たす光そのものが、愛の光なのである。なぜならそれは、神の子羊の栄光の輝きであり、天のエルサレムを光で満たす、あの子羊のような柔和さと愛の最も素晴らしい作用だからである。「都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである」(黙21:23)。天国で支配なさるお方を取りまく栄光は、あまりにまばゆく輝き甘美であるため、「その御座の回りにある緑玉のように見える虹」*とたとえられている(黙4:3)。そして虹こそは、旧約聖書の中でしばしば、神の契約において現わされた神の愛と恵みを証しするしるしに用いられているものである。新しいエルサレムのあかり、すなわち、神の栄光の光は、透き通った碧玉のようであると云われており(黙21:11)、この上もない尊さと美しさを示している。また、それがいつまでも続くことについては、そこには夜がなく、終わりのない輝かしい昼だけがある、と云われている。ここから、もう1つ示されているのは、

 10. 天国の住人は、自分たちが交わし合う愛を、いつまでも完全に享受し続けるのを知ることになるということである。----彼らは、神およびキリストが永遠に彼らの神また分け前として彼らとともにいてくださること、神の愛が永遠に続き、また十分に現わされること、また彼らの愛する仲間の聖徒らが、自分とともに永遠に栄光のうちに生きること、永遠に今あるのと同じ愛を心に保ち続けることを知ることになる。また彼らは、彼ら自身が常に神を愛し、聖徒らを愛し、彼らの愛をその十分な豊かさと甘美さのうちにいつまでも享受するのを知ることになる。彼らは、この幸福が終わったり、その豊かさや祝福が減ずるのを恐れることはない。あるいは、やがて自分がその愛を働かせたり表わしたりすることに飽いたり、その楽しみが損じられたり、愛する対象が老いたり、気にくわなくなったりして自分の愛がついには消え去るのではないかと恐れることもない。天国にあるすべての者は不滅の若さと溌剌さによって元気を保つ。そこでは齢を重ねてもだれひとり美や力が衰える者はいない。また愛は、あらゆる者の心のうちで、魂からこんこんと湧きいずる生ける泉のように、あるいは消えることの決してない炎のように、いつまでもなくならない。そして、この愛の聖なる喜びは、永遠に滔々と流れ続け、日々水かさを増す清流のようである。天にある愛の楽園は絶えず常春の状態を保ち、秋もなく冬もなく、霜が枯らすことも、腐れや衰えを招くこともなく、あらゆる植物がいつまでも若々しく、新鮮で、芳香を放ち、麗しく、常に芽生えと花の盛りと実りが続いていく。義人の葉は決して枯れない(詩1:3)。また天国の大通りの中央を流れる川の両岸には、いのちの木が生えており、そこには12種の実がなり、毎月実を結ばせる(黙22:2)。天の世界のあらゆるものが、聖徒らの喜びを高め、天におけるあらゆる喜びは永遠に続く。いかなる夜も、彼らの永遠の真昼の輝きを暗闇で押しつぶすことはない。

 このように、天上の愛がいかに祝福された環境のもとで働き、表わされ、享受されるかに注目したので、私は先に述べておいた最後のことに話を進めたいと思う。すなわち、

 VI. このような環境で働き、享受されるこの愛のほむべき効果と成果についてである。----そして私は、そうした多くのほむべき成果のうち、ここでは2つのことだけに言及しよう。

 1. 天の住人が神および互いに対して行なうことすべては、この上なくすぐれた、最も完全なふるまいとなる。----愛、すなわち神から出た聖い愛は、あらゆる善の原理の精髄であって、それゆえに、あらゆる慕わしくすぐれた行動を生み出す源泉である。そして、天国においてこの愛が完全になり、神と同胞への敵意に存するすべての罪を全く排除するほどのものとなる以上、その愛の成果はすべての者に対する最も完全なふるまいとなるであろう。こういうわけで天国での生活は、どれほど小さな罪深い失敗や過ちも全くふくまないものとなるであろう。いかなる者も、聖潔の道において中途半端だったり、わきへそらされたりすることは、どれほど僅かな度合いであれ全くなく、むしろあらゆる感情と行動が、それ自体で、またいかなる状況にあっても、完全なものとなる。彼らのふるまいのあらゆる部分が、実質においても、形式においても、精神においても、目的においても、聖く、神聖なものとなる。

 天国で聖徒らが、具体的にどのような務めに携わるかは、わかっていない。しかし大体において、彼らが神を賛美し神に仕えるようになることだけはわかる。そしてこれを彼らは、私たちがこれまで考察してきたような愛に動かされて、完全に行なうのである。また私たちは、彼らが神のもとにあって、ある意味で、互いの幸福のための奉仕に従事するようになるとも考えるべき理由があると思う。なぜなら彼らは、聖書では、1つの社会にともに結び合わされていると描かれており、見たところそれは、互いに奉仕し合い、互いの幸福を高め合うためとしか考えられないからである。そして彼らがこのように仕え合う際には、この上なくすぐれた、最も完全で慕わしいふるまいを、互いへの完全な愛の成果として行ない合うのである。そして、たとえもし彼らがこの社会に閉じ込もっておらず、彼らの一部あるいは全員が、時として遠い諸世界に、義務またはあわれみの使いに出されることがあったり、一部の人々が考えているように、この世界の友たちのもとへ仕える霊として遣わされるとしても、それでもなおも彼らは、愛の影響によって導かれ、そのすべてのふるまいにおいて、神のみこころにかない、自分と他の者らとの幸福に至るようなしかたで行動するであろう。こうした状況下で働くもう1つの愛の成果とは、

 2. 天国における完全な静謐さと喜びである。----愛、すなわち、聖なる、へりくだった、キリスト者的な愛という原理には、言語に絶する平穏さ、静謐さを魂に与える素晴らしい力がある。それは、いかなる胸騒ぎをも打ち消し、霊に甘美な落ちつきと安息を与え、すべてのものを神聖な平穏さと甘美さと幸福で満たす。聖い愛が支配し、活発に働いている魂の内側では、何物も嵐を起こすことはできず、暗雲をかき集めることすらできない。

 地上には愛とは反対の原理が数多く存在しており、それらがこの世を荒れ狂う海のようにしている。利己心や、ねたみや、復讐心や、嫉妬や、そうした類の激情は、地上での生活を絶えざる激動にさらし続け、それを混乱と擾乱の舞台、いかに平穏な安息も望めず、ただこの世を捨てて、別の世に目をやるしかない場所としている。しかし、おゝ! 何という安息がかの世にはあることか! そこは、平和と愛の神が、ご自分の恵み深いご臨在で満たしておられ、神の子羊が生きて支配し、その愛の燦々たる甘美きわまりない輝きで満たしておられる世界である。そこには心を乱すものや心を傷つけるものは何もなく、すべてが完全な慕わしさと甘美さに包まれている。そこでは聖徒らが、自分の愛するすべてのものを見いだし、それを楽しみ、そのことによって完全に満足することになる。そこにはいかなる敵も、いかなる敵意もなく、ただ完全な愛があらゆる心とあらゆる者に宿っている。そこには完全な調和が全住人の間にあり、いかなる者も他者をねたまず、あらゆる者が互いの幸福を喜び合っている。そこに住む者らの愛はみな、へりくだった、聖なる、完全にキリスト者的なものであり、いかなる肉的部分も、いかなる汚れた部分もない。そこには常に、申し分のない、愛し愛される関係がある。そこには何の偽善も、二心もなく、完全な率直さと真摯さがある。そこには何の背信行為も変節も心変わりも嫉妬も、いかなる形であれ決してない。そこには愛を働かせたり表わしたりすることの足を引っ張ったり妨げたりするものが何もなく、その愛の表われにおいても何の軽率さも不作法さもなく、またいかなる言動においても、愚かさや無分別さの影は何1つない。そこには何の隔ての壁もなく、何の誤解もよそよそしさもなく、あらゆる者が完全に知己の間柄となり、完全に打ち解け合っている。そこには意見や利害の対立による分裂はなく、その輝かしく愛し合う社会の中では、すべての者が最も近しく、神聖な関係にあり、それぞれの者は互いに属し合い、すべての者が互いに完全な繁栄と富と栄誉とにおいて楽しみ合い、何の病も嘆きも迫害も悲しみもなく、彼らを苦しめる何の敵もなく、嫉妬や誤解を引き起こす何のお節介焼きもなく、その完全で、聖く、ほむべき平安はだれからも損なわれることなく、天国を支配する! そして、これらすべてがあるのは神の園----愛の楽園なのである。そこでは、あらゆるものが愛で満ち、あらゆるものが愛を押し進め、愛を燃やさせ、その炎を絶やさぬように働き、いかなるものもそれを決して邪魔せず、あらゆるものが無限の知恵をお持ちの神によってふさわしく整えられて、それを最適の環境において、完全に享受できるようにされているのである! そしてさらに、これらすべてが実現される場所では、愛する対象の美が決して色あせず、愛は決して飽いたり衰えたりすることがなく、魂は永遠にわたりいやまさって愛のうちに喜ぶことになるのである!

 おゝ、このような世界には何という静謐さがあることであろう! そして、だれがこの平安の完全さと祝福を云い現わせよう! これは何という平穏であろう! 何と甘美で、聖く、喜ばしいことか! 高慢と利己心とねたみと悪意と侮蔑と軽蔑と争いと悪徳とが、逆巻く大洋の波頭のように、絶えず波立ち騒ぎ、しばしば怒涛となって叩きつけてくる、この世の嵐と波風とを経てきた後でこれは、何という安息の港であることか! 罠や落とし穴や毒蛇で満ちたこのさびれ果ててもの寂しい荒野を、何の安息も見いだすことなく通り抜けてきた後でこれは、何という安らぎのカナンであることか!

 そして、おゝ! そこには何という喜びがあることか! 倦み疲れる巡礼の旅路をくぐり抜けてきた果てに、このような楽園に至らされるとは! ここには事実、言葉に尽くせないほど栄えに満ちた喜びがある。----へりくだっていて、聖にして、うっとりするほど魅力的で、神聖な、しかもそれらが完全の域にある喜びである! これは地上においてすら甘美さの泉である。しかしそれが天国では、流れとなり、川となり、大海原となる! すべてのものが栄光の神のそば近くに立ち、いわば魂そのものを開け放ち、この愛の偉大な源泉によって、その満ち満ちた豊かさから注ぎ出される愛の奔流で満たしていただくのである。それはさながら地上の花々が、陽光に輝く快い春の日に、太陽に向けてその胸襟を開いて、その光と暖かさで満たされ、その快い光線のもとで、美と芳香のうちに花開こうとするようなものである。

 天国のあらゆる聖徒は、神の園の花のようなものであり、聖なる愛は彼らがみな放っている芳香であり甘美な香りであり、それが天上の楽園の方々に立つあずまやを満たしているのである。そこにいるあらゆる魂は、何らかの魅惑的な楽曲の演奏における一音符のようであって、他のあらゆる音符とともに甘美な和音を奏で合い、全体が1つになって神と子羊を永遠に賛美するこの上もなく熱烈な旋律へと溶け込んでいくのである。そしてそのようにすべてのものが互いをその極限まで助けあって、全社会の愛をその輝かしい御父とかしらに向かって表わし、自分たちに愛と祝福と栄光を供給し、満たしてくださっている大本であられる偉大な愛の源泉に、愛を注ぎ返していくのである。このように彼らは愛を与え、愛において支配し、そのほむべき果実である、あの神々しい喜びに包まれるのである。それは、目が見たことなく、耳が聞いたことなく、この世の人の心に思い浮んだことのないような喜びである。そして彼らは、このように御座の完全な陽光に包まれ、永遠に増し加わり続けながらも永遠に完全であるこの喜びに沸き立ちながら、神とキリストとともに永遠に生きて支配するのである!

 この主題の適用としては、以下のようなことを述べたいと思う。

 1. もし天国がこれまで描かれてきたような世界だとするなら、なぜ人との争いや不和の中にあるとき、私たちがその世界を所有するのにふさわしい者であるとの証拠が不明瞭になることが多いか、その理由の一端がわかる。----経験から私たちは、人との争いにはそうした効果があることを知っている。神の民の間で遺恨や悪意といった性質がはびこることは、彼らの心にまだ腐敗が残っているために時々生ずるが、彼らが争いがちな思いになったり、公私を問わず何らかの争いに加わったり、どんな理由があろうと彼らの精神が隣人への反感に満たされたりするときには、以前見られていたような、彼らが天国にふさわしい者であるとの種々の証拠は薄れたり、消え失せたりし、彼らは自分の霊的状態について皆目見当がつかなくなり、かつては享受していた慰めと満足に満ちた希望を見出せなくなるのである。

 そしてそのように、回心した人々が自分の家庭内で険悪な気分になると、その結果、通常は、よほどのことがない限り天的な事柄を感ずる慰めなしに生きることとなるか、天国についての生き生きとした希望が感じられなくなる。彼らは、愛と平安のうちに生きる人々が享受しているような霊的平静さと甘美さをほとんど享受できない。他の人々は持っているような神からの助けや、神との交わり、また祈りにおける天との交流がなくなる。使徒はこのような結果を生むものとして家庭内の争いについて語っていると思われる。彼はこう云う。「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです」(Iペテ3:7)。ここで暗示されているのは、家庭内に不一致があると、キリスト者はその祈りが妨げられがちになるということである。そして、そうした悲しい行動を実地に行なったキリスト者のうち、悲しみに出会わなかったり、体験によって使徒の暗示の正しさを証言できないというような者がどこにいるだろうか?

 これがなぜそうなのか、なぜ争いにはこうした霊的生活の実践や慰めや希望を妨げる効果があり、なぜ天的な甘い希望を損なう効果があるのかは、これまで考察した教理からわかるであろう。なぜなら天国が愛の世界であるなら、私たちが愛を最も少ししか働かせないとき、また愛とは逆の精神に最も強くとらわれるとき、私たちと天国との絆はこの上もなく細いものとなり、自分の考え方において天国から最も遠くなったことになるからである。そういうとき私たちは、天国に似た者となる本質的な部分であるもの、そして天国への備えであるもの、天国へ至らせる傾向があるものの働きを最低にしているのであり、そのため必然的に私たちは、自分の天国行きの資格の証拠を最も薄弱なものとせざるをえず、そうした証拠から与えられる慰めから最も遠く離れてしまうのである。また、次にこの主題から見てとることができるのは、

 2. 天国行きの資格を持つ人々がいかに幸福であるか、ということである。----この地上には、物質的な財産をその手に握っているの同じくらい、否、それ以上確かに、天的な世界の幸福を握っているような人々が何人かいる。彼らには、この愛の世界に分け前があり受けるべき分があり、正当な権利と資格がある。彼らはこう書かれている人々に属しているからである。「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである」(黙22:14)。そして疑いもなく、この場の私たちの間にはそのような人々がいる。そして、おゝ! 何と幸いなことよ、天国のような世界にあずかる資格がある人々は! 確かに彼らこそ地の祝福された人々であり、その祝福の豊かさは筆舌に尽くしがたいものである。しかし、ここである人々は云うかもしれない。「疑いもなく、それほど祝福された世界にあずかる資格を持ち、まもなくその喜びを永遠に所有することになっている人々は幸いであるに違いありません。しかし、そうした人々とはだれなのですか? どのようにすれば、そうした人々はわかるのですか? どのようなしるしでそのような人々は見分けられるのですか?」、と。こうした問いかけに答えて、私はそうした人々の性格に属する3つのことに言及したい。----

 第一に、そうした人々とは、天国で支配しているのと同じ愛の原理または種子が、この世にいるうちから、新生のみわざによって、その心に植えつけられた人々である。彼らは、心に生まれながらの諸原理しか宿していない人々とは違う。あるいは、その第一の誕生によって得た諸原理しか有さない人々とは違う。なぜなら、「肉によって生まれた者は肉」だからである。しかし、彼らは新しい誕生を受けた人々、すなわち、御霊によって生まれた者たちである。神の御霊は、彼らの心の中で輝かしいみわざをなされた。彼らを新しくするのに、いわば天国から、その愛の世界にある光のいくばくかと、聖なる聖い炎のいくばくかを引き下ろして、それを彼らの中に置いてくださった。彼らの心は、この天的な種子が蒔かれた土壌であり、そこにその種子はとどまり、成長するのである。そしてそのようにして彼らは変えられており、その性向において地的な者から、天的な者とされているのである。世を愛する愛は抑制され、神を愛する愛が植えつけられている。彼らの心は神およびキリストに引き寄せられており、その神およびキリストのゆえに、へりくだった霊的な愛という形で、聖徒らに向かってその心を注ぎ出している。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からで……す」(Iペテ1:23)。「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」(ヨハ1:13)。

 第二に、彼らは、天国にあるような愛を働かせて享受することから流れ出す幸福を、他に考えられる限りのいかなる幸福にもまさるものとして、自分の意志で選び取った人々である。彼らはこのことを身にしみて実感し、理解しているため、それが最良の善であるとわかっているのである。彼らは、それをしぶしぶ認めているのではない。単に合理的な根拠があるからそう納得したのではなく、いささかなりとも自ら体験したその味わいからそれがわかっているのである。それが愛の幸福であり、そうした愛の人生の始まりであり、聖なる、へりくだった、神聖な、そして天的な愛である。神への愛、キリストへの愛、そして神およびキリストゆえの聖徒らへの愛、また神、キリスト、聖い人々との聖なる交わりによる神の愛の成果を享受すること----これこそ彼らが最も強く心惹かれることである。また、彼らの更新された性質により、そうした幸福こそ彼らの性向と欲求と切望とに、他のいかなるものにもまして合致しているのである。また、彼らの手にしているすべてのものにまさってというだけでなく、彼らが手に入れることを想像できるすべてのことにまさってである。この世は、これと似たものを全く与えることができない。彼らは他の何にもまして、これを選びとったのであり、それも自分の意志でそうしたのである。彼らの魂は他の何にもましてこのことを追い求め、彼らの心は何よりも切実にそれを希求しているのである。彼らがそれを選んだのは、単に彼らが悲しみにあったからであるとか、状況があまりにもつらく苦しいためにこの世からはたいしたものが期待できないからとかいう理由ではなく、この善に心を奪われたあまり、世にあるいかなる善にもまして、またそうした世の善のありったけを永遠に享受できたとしても、この善を、その実質そのもののゆえに選び取ったのである。

 第三に、彼らは、自分のうちにある愛によって、心と生活、原理と行動において、聖潔を求めて苦闘しつつある人々である。聖なる愛によって彼らは、聖潔をあこがれ求めるようになる。それは成長に飢え渇く原理である。それは、この世にあっては、不完全さのうちにあり、未成熟な状態にあり、それで成長を願い求めるのである。それには苦闘すべき相手がたくさんある。この世にある心のうちには、多くの逆行する原理や影響力がある。そしてそれは、より純粋になり、より自由になり、より力強くなり、より実を結ぶために苦闘する。新しい人が経験する大きな争いと苦闘は、聖潔を求めてのものである。彼の心は聖潔を求めて苦闘する。なぜなら彼には天国に分け前があり、それゆえ彼は自分を天国から遠ざけようとする罪と苦闘するのである。そして彼の心だけでなく彼の両手も苦闘する。彼は自分の行動において抗争する。彼の生活は、そのあらゆる部分で、次第次第に聖くなっていこうとする真摯で熱心な努力の連続となる。彼は自分が、聖くなりきっていない、否、はるかに聖さから遠い者だと感ずる。そして彼は完全により近づくこと、天国にいる人々により似た者となることを願い求める。そして、彼が天国に入ることをあこがれ求める理由の1つは、そこで自分が完全に聖となれることにある。そして彼をこのように苦闘に至らせている偉大な原理こそ愛なのである。それは単なる恐れではない。神への愛であり、キリストへの愛であり、聖潔への愛である。愛は、彼のうちにある聖なる火であり、普通の火に多少の囲いをした場合と同様、自由を求めてもがき苦しむ。そして、このもがき苦しみこそ、聖潔を求めての苦闘なのである。

 3. この主題について云われたことは、悔い改めていない者を目覚めさせ、警鐘を鳴らしてしかるべきであろう。----それは、

 第一に、この愛の世界の分け前あるいは権利が何もない、自分のみじめさに思い致させることによってである。あなたはこれまで天国について何が云われてきたか、いかなる種類の栄光と祝福がそこにあるか、また聖徒と御使いらがその完全な愛の世界にあっていかに幸福であるかを聞いてきた。しかし、このいずれもあなたのものとはなっていないことを考えてみるがいい。そうしたことを聞くとき、あなたは、自分が全くあずかる資格のないもののことを聞いているのである。あなたのように、神およびキリストを憎む邪悪な者、善なるすべてのものに敵意をいだく精神の力のもとにある者は、決してそこに入れない。あなたのような者は、決して神の忠実なイスラエルに属しておらず、決して彼らの天的な安息に入れない。あなたは、ペテロがシモンに告げたように云われるべきであろう。「あなたは、このことについては何の関係もないし、それにあずかることもできません。あなたの心が神の前に正しくないからです」(使8:21)。あるいは、ネヘミヤがサヌバラテおよびその仲間に告げたように云われるべきであろう。「あなたがたにはエルサレムの中に何の分け前も、権利も、記念もないのだ」(ネヘ2:20)。もしあなたのような魂が、あの愛の世界である天国に入ることを認められるとしたら、愛の炎とも云うべき魂をした、かの祝福された霊たちにとって、それは何と吐き気を催させるような世界となるであろう! それは何と、かの愛し合うほむべき社会をかき乱し、あらゆるものを混乱させることであろう! もしそのような魂が天国に入ることを認められるとするなら、天国はもはや天国ではなくなってしまうであろう。それは天国を愛の世界から、現世のような憎悪と高慢とねたみと悪意と復讐心の世界とするであろう! しかしそのようなことは決して起こらない。あなたのような者にとっての唯一の選択肢は、「犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者」、すなわち、あらゆる不道徳な者、汚れた、聖ならざる者とともに閉め出されることである(黙22:15)。また、この主題が悔い改めない者を覚醒し、警鐘を鳴らしてしかるべきであるのは、

 第二に、彼らには、憎悪の世界たる地獄に落ちる危険がある、と彼らに向かって示すことによってである。3つの世界がある。1つは、中間世界である現世である。----ここでは善と悪とがあまりにも入り交じり過ぎているため、到底、この世が永遠に続くものではないことははっきりしている。もう1つは、愛の世界である天国であって、そこには何の憎悪もない。そしてもう1つは、憎悪の世界である地獄であって、そこには何の愛もなく、キリストを持たない状態にあるあなたがたが正当に属している場所である。この最後のものは、天国が神の愛を示す場所であるように、神がその御不興と御怒りを現わす世界である。地獄にあるあらゆるものは忌まわしいものである。そこにあるのは、ただの1つの例外もなく、ことごとく厭わしいもの、嫌悪すべきもの、ぞっとするようなもの、忌まわしいものである。そこにあるいかなる者も物も、全く慕わしい部分、愛すべき部分がなく、どこにも清い部分、聖なる部分、快い部分がなく、すべてがいやらしく、厭わしいものである。そこには、悪霊どもと、悪霊どもに似た、永遠の罰を受けた霊たちの他、いかなる者もいない。地獄は、いわば、シューシュー音を立てる毒蛇で満ちた巨大な巣穴であって、そこに悪魔でありサタンであるあの古い蛇と、彼とともにその忌まわしい眷属がうごめいているのである。

 その暗い世界には、神が完全な、永遠の憎悪をもって憎む者らの他だれもいない。神はそこにいるいかなるものに対しても、何の愛も働かせず、何のあわれみも差しのべず、むしろ純粋な激しい憎しみを注ぎ出される。この広大な宇宙の中にある、ありとあらゆる忌まわしいものが、さながらそれら専用の巨大な容器としての地獄の中にひとまとめにされる。それは、この大いなる邪悪と災厄との掃き溜めにそれらをことごとく叩き込むことによって、その不潔な汚れから神がお造りになった宇宙を清めるためである。それは神の御怒りを表わすために用意された世界である。神はこのために地獄をお造りになったのであり、神にはそこで罪および罪人に対するご自分の憎悪を証しする以外、それには何の用もないし、そこにはいかなる愛やあわれみのよすがもない。そこには神の憤怒と怒りを示すもの以外に何もない。あらゆるものが御怒りを示している。それは、御怒りの大洪水がことごとくあふれ出している世界、いわば液状化した火がみなぎりあふれているかのような世界であって、それゆえにこそ、火と硫黄の池、また第二の死と呼ばれているのである。

 地獄にいる者らは、ひとりの例外もなく神を憎んできた者たちであり、自分で神の御怒りと憎悪を招いた者らだけである。そしてそこで彼らは、永遠に神を憎み続けることになる。地獄には神に愛を感ずる者はひとりもいない。そこにいるあらゆる者が完全に神を憎んでおり、そのように神を憎み続け、神に対する自分の憎悪を手加減することなく、苦しみのあまり舌をかみながらも、神に向かってけがしごとと、わめき声をあげ続ける。しかし、確かに彼らは、神に敵意を燃やし反抗する点ではみな一致しているとしても、彼ら自身の間には何の和合も友愛もない----彼らは憎悪および憎悪の表われという点以外では調和できないのである。彼らは神を憎み、キリストを憎み、御使いを憎み、天国の聖徒らを憎む。そしてそればかりでなく、互いに憎み合うのである。彼らは、蛇や蝮の群れと同じく、神に向かって毒を吐き出すだけでなく、互いに噛みつき合い、牙を立て合い、苦痛を与え合うのである。

 地獄で悪霊どもは、永遠の罰を受けた魂を憎むであろう。彼らはこの世にいる間から彼らを憎んでいた。それゆえにこそ、あれほど陰険で飽くことなき誘惑を用いて、彼らの破滅を画策してきたのである。悪霊どもが人々の魂の血に渇いていたのは、彼らを憎んでいたためである。悪霊どもは、魂を自分の手中にして苦しめることをこがれ求めていた。彼らがほえたける獅子が獲物を見守るように魂を見守っていたのは、魂を憎んでいたためである。それゆえ、魂がその肉体を離れるやいなや、それを責め苛もうと、地獄の番犬のごとくに勇んで飛びかかったのである。そして今や彼らはその魂たちを手中にしており、おのれに可能な力と残忍さの限りを尽くして、永遠にわたってそれらを責め苛み続けるであろう。彼らは、自分の手中にあるそのあわれな、永罰を受けた魂たちを、いわば不断に、また永遠に引き裂き続けるのである。そして、こうした魂たちは、単に悪霊どもから憎まれ、責め苛まれるだけでなく、自分たち同士でも互いに何の愛もあわれみも持ち合わせず、むしろ互いに悪霊どものようになり、力の限りを尽くして責め苛み合うであろう。すなわち、火中にある燃えさし同士のように、互いに相手を燃やし合うのである。

 地獄においては、そうした、愛とは逆のあらゆる原理が支配し、猛威をふるう。そこにはそれらを制限すべき何の抑制の恵みもない。そこにあるのは、何の抑制も受けない高慢、悪意、ねたみ、復讐心、争いが、そのすべての激越さをもって、果てしなく荒れ狂い、いかなる安らぎもない姿である。そのみじめな住人たちは、神とキリストと聖なるものの敵であるばかりか、互いに噛みつき合い、むさぼり食らい合うであろう。地上において邪悪に生きていた頃は仲間づきあいもし、一種の肉的な友情を互いに結んでいた者らも、ここでは親しみのかけらも見せない。むしろ徹底的な、とどまるところを知らない、むき出しの憎悪をぶつけ合うであろう。地上において彼らが互いの罪を高め合ったのと同じように、地獄にある今の彼らは互いの刑罰を高め合うであろう。地上で彼らは互いの魂を滅ぼすための器であった----そこで彼らは相手の肉欲の火を吹き起こすことに懸命だったが、今や彼らは互いの責め苦の火を永遠に吹き起こし続けるであろう。かつて彼らは、罪を犯し、悪い模範を示し合い、よこしまな口をきいては毒を流し合うことで、相手を滅びに追いやったが、今や彼らは、かつて互いに誘惑し合い、腐敗し合っていたのと同じように、互いに責め苛み続けるであろう。

 そして、そこで彼らの憎悪とねたみ、そしてあらゆる邪悪な情動は、彼ら自身にとっての責め苦となるであろう。彼らが最も憎しみを覚え、また竈で火が燃えさかるように彼らの魂が憎んでやまない当の相手である神およびキリストは、彼らには手出しのできない無限の高みにあり、彼らがどうあがいても減じさせることのできない無限の祝福と栄光のうちに住んでおられることになるのである。また彼らは、自分が近づくことも傷つけることもできない、天国の聖徒や御使いらに対するその甲斐なきねたみで、自分を責め苛まざるをえないであろう。そして彼らは、彼らからも他の何者からも、何の憐憫も受けることがない。地獄はただ憎悪をもって眺められ、これに対しては何の憐憫も同情もありえないからである。そしてこのように彼らは、彼らだけでその永遠を過ごすべく放置されるであろう。

 さて今考えてみるがいい。あなたがた、キリストから離れている者、決して新しく生まれたことのない者、聖霊による心の刷新を一度も経験したことのない者、すなわち、聖霊によって一度も心に聖い愛を植えつけられたことがなく、そのほむべき聖なる愛に存する幸福を、また聖潔を求めて苦闘する人生を自分の最良の、最も甘美な善として選ぶよう導かれたことのない者----そうしたすべての者は、自分の危険を、また自分の前に何が待っているかを考えてみるがいい。なぜなら、これこそあなたが落ちることになっている世界だからである。これこそ、律法の宣告によって、あなたが属している世界であり、あなたが一日ごとに、一時間ごとに、自分の永遠の住まいとして固めつつある危険を犯している世界であり、もし悔い改めなければあなたがこれまで聞いてきたほむべき愛の世界に行くかわりにすぐにも行くであろう世界だからである。考えるがいい、おゝ! 考えるがいい。あなたが本当にそのような瀬戸際にあることを。こうした事柄は、うまく考え出した作り話ではなく、神のみことばの大いなる戦慄すべき現実であり、もうしばらくすれば、あなたが永遠の確かさを持って真実であると知ることになる事柄なのである。それではどうしてあなたは、今のあなたのような状態のまま安んじ、それほど軽率な生き方を毎日続け、自分の大切な不滅の魂についてそれほど気を遣わず、無頓着にしていられるのか? こうした事柄を真剣に考えてみるがいい。そして、手遅れにならないうちに、自分のため賢くふるまうがいい。さもないと、すぐにあなたは、暗い山々で足をつまづかせ、御怒りと憎悪の世界に転落し、泣き、うめき、歯ぎしりし、神とキリストと互いに対する根深い悪意と激怒に燃え、永遠に魂を恐怖と苦悶で満たし続けることになるのである。だから、望みを持つ捕われ人であるうちに、とりでに逃れ行くがいい[ゼカ9:12]。希望の扉が閉ざされる前に、また第二の死の苦悶があなたにとりつく前に、そしてあなたの永遠の破滅が定まってしまう前に!

 4. 天国についてこれまで語られてきたことを考え、あらゆる熱心さをもって天国を追い求めるよう発奮するがいい。----もし天国がそれほどほむべき世界であるなら、それを私たちの選びの国とし、待ち望み追い求める相続地としようではないか。私たちは自分の生き方をこの方角に向け、これを手に入れるべく突き進もうではないか。私たちがこの輝かしい世界を手に入れることは決して不可能ではない。これは私たちに差し出されているのである。どれほどこれが、いとすぐれた祝福に満ちた世界であろうと、私たちがその国を願い求め、選び、勤勉に追求しさえするなら、神はこの相続地を喜んで私たちに授けてくださろうとしておられる。神は私たちに、私たちが選ぶものを与えてくださる。私たちは自分がどこを選ぼうと自分の相続地を持つことができるのであって、忍耐をもって善を行なうことで天国を求めるなら、それを手に入れることができるのである。私たちは全員が、いわば、広漠たる荒野に置かれたかのようにこの世に立っているのである。その周囲は種々の国々が取り囲み、足元にはそれぞれ異なる国へ向かう道や小道がいくつもあって、どの方角へ進むかは私たちの選択にまかされている。もし私たちが心から天国を選択するなら、また私たちの心を全くかのほむべきカナン----かの愛の国----に向けるなら、またもし私たちがそこへ向かう小道を選びとって、愛するなら、私たちはその小道を歩むことができるであろう。そしてもし私たちがそれを歩み続けるなら、それは最後には私たちを天国へ至らせるであろう。

 その愛の国について聞いたことによって私たちは、心を奮い起こし、自分の顔をそこへ向け、自分の生き方をその方角へ向けようではないか。その国の幸いな状態について、またそこにある多くの喜びについて私たちが聞いたことは、十分私たちをしてそれに飢え渇かせ、この上もない熱心さと不屈さをもって、それへ向けて突き進ませ、そこへ続く道を旅することに自分の全人生を費やさせてしかるべきではないだろうか? これは私たちの耳に何と喜ばしい知らせであろう。そのように完全な平安と聖なる愛の世界があって、私たちにもそこに到達し、その喜びの中で永遠を過ごすことが可能である、否、その十分な機会があるというのである! そのほむべき世界について聞いてきたことだけでも十分に、私たちをして、この世に愛想を尽かさせてしかるべきではなかろうか? この、高慢と悪意と争いと絶えざる衝突と争いの世界、混乱の世界、シューシュー音を立てる蛇たちの荒野、荒れ狂う海洋、何の平穏な安息もなく、すべてが欲得づくで、利己心が大手をふってまかり通り、すべての者が自分第一に狂奔し、他人に何がふりかかろうとおかまいなしで、すべての者が物質的利益の追求と獲得に血道を上げ、人々が四六時中互いに不愉快に感じ合い、中傷し合い、非難し合い、その他もろもろのしかたで傷つけ合い、邪険にし合う世界----不正と抑圧と残虐行為に満ちた世界----これほど多くの欺きと偽りと心変わりと偽善と苦悩と死に満ちた世界----これほど僅かしか人間に対する信頼がなく、いかなる善人にもこれほど多くの欠点があって、彼らをこれほど醜く不愉快にしてしまい、ありとあらゆる形の悲しみと咎と罪とがこれほど多い世界にはうんざりさせられるではなかろうか。

 実にこれは邪悪な世界であり、これからもそうあり続けるであろう。これがいつかは罪のない世界、高慢や敵意や争いのない世界、安息のある世界になるなどと期待するだけ無駄である。今より少しは良い時代がやってくるかもしれないが、こうした事柄は、世界が存続し続ける限り多かれ少なかれ常に見られるであろう。それでは、だれがこのような世界の分け前で満足しておられようか? 分別をもって賢明に行動する者であれば、だれがこのような世界にものを蓄えることにかかずらいたいだろう? むしろその人は、この世など放っておき、ほしがる者が取るのにまかせ、自分の心と力のすべてを、天に宝を積むこと、またその愛の世界に突き進むことに傾注するのではなかろうか? この世で大きな財産を貯めこんだからといって、それが私たちにとって何になろう? 地上に分け前を持っているという思いがどうして私たちに喜ばしいものとなりえよう? それと同時に天国のように輝かしい世界にあずかる権利が差し出されているというのに。また特に、私たちがこの世に分け前を持つならば、世界が過ぎ去ったときには、自分の永遠の分け前を地獄で、すなわち、あの憎悪の世界、あの神の永遠の御怒りの世界、あの悪霊どもと永遠の罰を受けた霊たちしか住んでいない世界で受けなくてはならないというのに。

 私たちはみな、生まれながらに安息と静けさを願い求める者である。では、もしそれを求めたいというのであれば、今まで聞いてきたような平安と愛の世界を追い求めようでないか。そこには、甘美なほむべき安息が神の民を待っている。もし私たちにその世界にあずかる権利があるなら、私たちはこの現世を後にするとき、あらゆる心労と悩みと疲れと心配と不安を永遠に置いていくことになる。私たちは、ここでの荒れ狂う嵐から、またあらゆる労苦と骨折りから逃れて、神の楽園で安息を得ることになる。あなたがた貧しい人々、隣人から蔑まれ、取るに足らないと思われていると考えている人々は、だからといって思い悩まないようにするがいい。この世の友情のことをあれこれ気に病んではならない。むしろ天国を求めるがいい。そこには軽蔑などというものはなく、だれも蔑まれることはなく、すべての者が高く評価され尊ばれ、すべての者からいとおしまれ愛される。あなたがた、多くの虐待を受け、他者からひどい目に遭わされてきたと考えている人々は、それを気に病んではならない。害を加えた相手を憎んではならない。むしろ心をこの愛の世界、天国に定め、そのより良き国を目指して突き進むがいい。そこではすべてが親切で聖い愛情に満ちているからである。さてここで、いかに天国を追い求めるべきかという点については、

 第一に、この世の物事を自分の第一の利益として追い求めたり、地上の物事があなたの魂を満足させることができるとでもいうかのように、それらの獲得に没頭したりしないようにするがいい。これは、天国を追い求めることとは逆である。愛の世界に至るのとは逆方向に進む道を行くことである。天国を追い求めたければ、自分の感情をこの世の楽しみから引き離さなくてはならない。官能的な楽しみや、俗っぽい楽しみ、この世の娯楽や栄誉を追求することに身をゆだねたり、地のちりを積み上げることであなたの考えや時間をふさいではならない。虚栄心から来る欲望を殺し、心貧しくへりくだった者にならなくてはならない。

 第二に、あなたは瞑想と聖なる自己訓練によって、天的な人々、物事、楽しみと大いに親しく交わっていなくてはならない。絶えず天国を追い求めていたければ、そうした事柄に専ら思いを潜めていなくてはならない。ということであれば、その愛の世界と、そこに住んでおられる愛の神、またキリストの右側に立っている聖徒および御使いらの方へ、あなたの考えと愛情の流れを向け直すがいい。また、愛の世界の事物と楽しみとについて、深く思い巡らすがいい。祈りにおいて神およびキリストと大いに交わり、天国にあるすべての物事をしばしば考え、そこにいる友人たちや、そこにおける賛美や礼拝のことを、またその愛の世界の祝福の本質をなすすべてのことをしばしば考えるがいい。「あなたがたの国籍が天にあるようにしなさい」*。

 第三に、天国への途上では、あらゆる困難をくぐり抜けることに甘んじるがいい。確かにその小道はあなたの前にあり、望みさえするならその小道を歩むことはできるが、それでも、それは上り坂であり、多くの困難と障害物で満ちている。かの光と愛の輝かしい都は、いわば、高台あるいは山の頂上に建っているのであり、坂道と険しい階段によらずには行き着く道がないのである。しかし、確かにその上り坂は困難で、その道には試練が満ちているとしても、最終的には、そのような輝かしい都に行き着き、そこに住むためとあらば、そうした苦労はみな、苦労のし甲斐があるというものである。では、甘んじて労苦を忍び、辛苦に耐え、困難に打ち勝つ覚悟をするがいい。旅路の果てにある甘美な安息にくらべれば、それらはみな何であろう? 下へ向かわせようとする生来の血肉の傾向に逆らい、賞をめざして前進し、登り続ける覚悟を固めるがいい。一歩進むごとに登ることはますます容易になるであろう。また高く登れば登るほど、あなたは自分の前にある輝かしい展望と、かの天の都を間近に見ることによって心奮い立たせられるであろう。その都で、ほどなくあなたは永遠に安息を得ることになるである。

 第四に、あなたは道の途中でイエスから目を離さないようにするがいい。イエスこそ、あなたの先駆けとして天国にはいられたお方である。彼を見やるがいい。天における彼の栄光を見るがいい。その光景があなたをかき立てて、いやまさって熱心にそこに行きたいとの願いを燃やさせるようにするがいい。彼をその模範において見るがいい。いかに彼が忍耐をもって善を行ない、忍耐をもって大きな苦しみに耐えることで、あなたに先駆けて天国にはいられたか考えてみるがいい。また彼をあなたの仲保者として仰ぎ、彼が天の神殿の至聖所に入ってなされた贖いにより頼むがいい。彼をあなたのとりなし手として仰ぎ、永遠に神の御座の前であなたのために請願してくださるお方と考えるがいい。彼をあなたの力として仰ぎ、その御霊によってあなたを前進させ、途上のあらゆる困難に打ち勝たせてくださる方と考えるがいい。彼を愛し、彼に従う者は天国に入るとの彼の約束に信頼するがいい。その約束を彼は、ご自分の民のかしら、代表者、また救い主として天国に入ることによって確証なさったのである。そして、

 第五に、愛の世界への道を歩みたければ、あなたは愛の生活を送るようにこころがけるがいい----神を愛し、人を愛する生活を送るがいい。私たちはみな、死後、愛の世界にあずかりたいと希望しているのだから、この地上で愛の精神をはぐくみ、聖なる愛の生活を送るべきである。これこそ、今は永遠に愛のうちに確立されている天国の住人に似た者となる道である。このようにする以外、彼らのようにいとすぐれた愛すべき者となることはできず、彼らのように幸福と安息と喜びに満ちた者となることはできない。この世で愛のうちに生きることによって、あなたは、彼らのような甘美で聖なる平安を持つ者となり、そのようにして地上においてすら、天的な楽しみと喜びの前味を知ることができるのである。またそのようにしてあなたは、神にあり、キリストにあり、聖潔にある、天の事柄の栄光をほのかに感じとることであろう。あなたの心は、神への聖なる愛と平安の精神と人々への愛とによって、おのずと、天国に見出されるはずのあらゆるものがいかにすぐれた、甘美なものであるかを感じ取っていくであろう。そして、いわば天の窓が開かれて、その輝かしい光があなたの魂の中に射し込んでくることになるであろう。こうしてあなたは、あなたがそのほむべき世界にふさわしい者であり、それを所有すべく歩を進めつつあるという証拠を得るであろう。そしてこのように、恵みを通して、光の中にある聖徒の相続分にふさわしい者とされたあなたは、もうほんの数日もすれば、彼らの祝福の状態を永遠にともにすることになるのである。幸いなことよ。いとも幸いなことよ。このように、終わりに至るまで忠実であることが示され、その後、その主の喜びに迎え入れられる者たちは! そこでは、「彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです」。

愛の世界----天国[了]

---- キリスト者の愛 [完] ----

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