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14. 恵みは敵対に負けず

「愛は……すべてを耐え忍びます」 Iコリ13:7

 この言葉と、先に述べた2つの言葉、すなわち、「愛は寛容であり」、「すべてをがまんし」、という言葉によって使徒は、実質的に同じ意味のことを述べているものと普通は理解されている。あたかも、この3つの表現が類義語であり、3つとも、同じことを別の言葉づかいで云っているにすぎないかのように受け取られているのである。

 しかし、こうした考え方は、疑いもなく使徒の意図に対する誤解から出ている。なぜなら、それぞれの表現とその用法を詳しく考察してみると、これらがみな、それぞれ異なる愛の実を意味し、指し示していることに気づくからである。このうちの2つ、すなわち、「愛は寛容であり」、「すべてをがまんし」という表現については、すでに考察してきた。前者は、他の人々から受ける害悪を忍ぶことに関係しており、後者は、キリストとキリストに仕える道を捨てるくらいなら、キリストゆえに召されるどのような苦しみをも甘んじて忍ばせようとする精神に関係していた。だがこの聖句の、愛は「すべてを耐え忍びます」、という表現は、この2つの言明のどちらとも異なることを意味している。それは、愛の原理、すなわち魂のうちにおける真の恵みの原理には、いつまでも残る、永続的な性質がある、ということを表現しており、それが決して途絶えることなく、いかなる敵対を受けようと、またいかなる妨害に遭おうと、持ちこたえ、耐え抜くことを宣言しているのである。「すべてをがまんし」、「すべてを耐え忍びます」、という2つの表現は、現行の英訳聖書においても、日常の言葉遣いとしても、ほとんど同じ意味合いにしか受けとれない。しかし、原語の表現を字義通りに翻訳すると、「愛はすべての物事の下にあって存続する」、となる。すなわち、愛は、いかなる敵対を受けようとも、なおも存続し、なおも堅固に、また屈することなく立ち続ける。いかなる攻撃が加えられても、それでも愛は存続し、耐え忍び、絶えることなく、へこたれず、あらゆる障害にもかかわらず、堅忍不抜の忍耐をもって前進し続けるのである。

 この節における4つの表現、すなわち、「がまんし」「信じ」「期待し」「すべてを耐え忍びます」について、これまでなされた説明に沿って考えれば、使徒の意図は、素直で自然な、また文脈に合致したものであることがわかる。彼がここで明示しようと苦慮しているのは、愛、すなわちキリスト者の愛の精神が、あらゆる点で人に益をもたらすものだということである。そこで彼はまず、愛が心のうちにあるあらゆる善の精髄であることを示すため、いかに愛が他者に対するあらゆる良いふるまいへと至らせるものであるかを示し、それを要約してこう云う。愛は、「不正を喜ばずに真理を喜びます」、と。そこから彼が次のこととして宣言しているのは、愛は単にキリストのために行なったり苦しんだりするように仕向けるだけでなく、そこには苦しみをいとわない精神もあり、「すべてをがまん」するのだ、ということである。そして、愛がそのためにとる方法は、信仰と希望という、キリストゆえの苦しみに主としてかかわる2つの恵みを押し進めることである。そうした苦しみは私たちの信仰の試練であり、そうした苦しみの下にあるキリスト者を支えるのは、最後には測り知れない、重い永遠の栄光[IIコリ4:17]が忠実な者らに与えられる、という希望だからである。そして愛は、この信仰と希望をはぐくむもの、また、この信仰と希望の実たるものとして、すべてを耐え忍び、最後まで耐え抜き、持ちこたえ、いかなる敵対を受けようと打ち負かされない。なぜなら信仰は世に勝つものであり、神にある希望はいつでも、キリスト者をキリスト・イエスによる勝利の行列に加えることができるからである[Iヨハ5:5; IIコリ2:14]。

 そこで私がこの聖句から引き出したいと思う教理は、

 愛、すなわち真のキリスト者の恵みは、いかなる敵対を受けても打ち倒されない、ということである。

 この教理について語るにあたり私は、第一に、キリスト者の心のうちにある恵みに対しては、多くのものが実際に敵対しているという事実に注目したい。第二に、恵みは決して打ち倒されない、という偉大な真理に注意したい。第三に、恵みがなぜ、いかなる敵対の下にあっても揺るがされず、不動のものとして立ち続けることができるのか、その理由をいくつか述べたいと思う。

 I. キリスト者の心のうちにある恵みに対しては、多くのものが実際に激しく敵対している。----この聖なる原理には、絶えずその動静をうかがい、戦いを挑んでくる敵が無数にある。神の子どもは、四方八方を敵に取り巻かれている。彼は、敵の領土を通り抜けつつある旅人であり、寄留者であって、絶え間ない攻撃にさらされているのである。この世にはおびただしい数の、狡猾で、ずる賢く、強大で、執念深い悪霊どもがうようよ存在しており、キリスト者の心のうちにある恵みの仇敵として、持てる力のすべてを傾けて敵対している。またこの世も、この恵みにとっては敵である。なぜなら世は恵みに敵対する人々や物事、さらに私たちを主に仕える道から引き離そうとするような、あるいは遠ざけようとするような魅惑や誘惑に満ちているからである。そしてキリスト者には、外部に多くの敵がいるだけでなく、自分の胸のうちにも敵の大群が巣くっており、彼がどこへ行こうと行を共にするため、逃れることができない。邪悪な思いや罪深い性癖は彼にしみついている。心の中にまだ足場を保持している多くの腐敗は、恵みにとって最悪の敵であり、この恵みに対する戦いにおいて何者よりも有利な地歩を占めている。そしてこうした敵たちは、ただ単に数が多いだけでなく、途方もなく手強く、強大で、恵みに対して激越な憎悪をいだいている。----情け容赦ない、不倶戴天の敵であり、恵みを完全に滅ぼし、打ち倒すことだけを求めている。これらがうまずたゆまず敵対を続けるため、キリスト者は、この世にとどまっている間、戦争状態にある者と描写されており、彼の務めは兵士のそれであって、彼はしばしば十字架の兵士として、また男らしく信仰の戦いを勇敢に戦うべき大きな義務を有する者と語られているほどである[Iテモ6:12]。

 恵みの敵たちは、多くの強大で激烈な攻撃をしかけてくる。彼らは単に恵みから片時も目を離さず包囲しているだけでなく、包囲軍がしばしば攻勢に出るように、恵みを急襲し陥落させようとする。彼らは常に恵みの足をすくおうと待ち伏せし、機会を窺い、時として憤怒とともに決起し、恵みを強襲して攻め落とそうとする。あるときには1つの敵が、またあるときには別の敵が、またあるときには敵の全軍が一丸となって、あらゆる方面から恵みを攻め苛み、怒涛のごとく押し寄せては、一口で平らげてしまおうとする。時として恵みは、敵勢が奸知と力を尽くして戦いをいどんでくる最も激烈な敵対行為のさなかで、逆巻く大波と荒れ狂う波浪に囲まれた一個の火花のようになり、一瞬のうちに呑み込まれて消し去られてしまうかに見える。あるいは恵みは、火を吹き上げる噴火口に落ちたひとひらの雪片のようである。あるいは、轟々と燃えさかり、いかなるものも----火で焼き尽くせない純金以外----焼き尽くしてしまう炉の真ん中に落ちた高価な宝石のようである。

 キリスト者の心のうちにある恵みは、この世における神の教会と非常に似たところがある。それは神の軍隊駐屯地である。それはほんの小さなものでしかないのに、無数の敵から大きな敵対を受けている。地上と地獄の力がそれに敵対しており、あわよくば滅ぼそうとしている。そしてしばしばそれらが猛烈な勢いで立ち上がり、大攻勢をかけてくるため、見た目だけで判断するなら、恵みはたちまち占領され、破滅させられてしまうかに見える。それは、エジプトにおけるイスラエルの子らとよく似ている。パロとエジプト人はその奸計と権力の限りを尽くして、民族としてのイスラエルを根絶させようとした。それは荒野におけるダビデによく似ている。彼は山じゃこのように追われ、彼のいのちを狙う者らによって山から山へ、洞窟から洞窟へと狩り立てられ、何度か外国人の土地まで追い立てられた。またそれは、異教徒の反キリスト的な迫害下にあったキリスト教会とよく似ている。そのとき全世界は、いわばその知恵と力を結集して、教会を地上から抹殺しようとし、この上もなく血なまぐさい迫害によって、老若男女を問わず、おびただしい数の人々を殺害していた。しかし、

 II. 心のうちにある真の恵みに加えられつつある、あるいは加えられうる、いかなる敵対も、真の恵みを打ち倒すことはできない。----恵みの敵たちは、多くの点において、恵みに対して大きく優位に立つことがあるかもしれない。恵みをすさまじく圧迫し、制圧し、絶滅寸前に追いやることがあるかもしれない。しかしそれでも恵みは生き残る。今まさに生ずるかに見えた破滅は回避される。時としてほえたける獅子が、大きく口を開いて襲いかかり、どこにも逃げ場はないように見えたにもかかわらず、子羊は無事に脱出する。しかり。たとえ獅子や熊の前肢で押さえつけられようと、それは救い出され、むさぼり喰われることはない。そして、たとえヨナが鯨に呑み込まれたように実際に呑み込まれてしまったかに見えてさえ、それは生きたまま再び吐き出される。この点において心のうちにある恵みは、大水の上をただよっていた箱舟とよく似ている。----いかにすさまじい嵐が吹き荒れようと、しかり、たとえそれが他のあらゆるものを水底に沈めるほどの大洪水であろうと、この箱舟を沈めることはない。洪水の水位がどれだけ高く上がろうと、それは水面の上にとどまり続ける。たとえ大波が、山々の高嶺をもはるかに越えて高まろうと、この箱舟の上にのしかかることはできず、これはなおも安全に浮かび続ける。あるいはこの恵みは、あの激しい突風が起こり、波立ち騒ぐ湖面でキリストが乗っておられた小舟によく似ている。その小舟は今にも沈みそうに見え、確かに水をかぶりはしたものの、沈まなかった。キリストがその中におられたからである。

 そしてまた、心のうちにある恵みは、エジプトや、紅海のほとりや、荒野におけるイスラエルの子らのようである。どれほどパロが彼らを滅ぼそうと力を尽くそうと、彼らはなおも力を強め、増大していった。そしてついに、パロがその全軍を率いて、戦車と騎兵によって彼らを追撃し、紅海の岸に追いつめ、逃げ道は全くなく、まさに破滅の瀬戸際にあるかのように思われたときですら、彼らは逃れることができ、敵軍のえじきにはならなかった。しかり、彼らは海そのものの中を通って守られた。水は彼らの前で開き、彼らが無事に渡り終えると、再び元に戻って敵軍を沈めてしまったからである。また彼らは長年にわたり、荒涼たる砂漠の穴だらけの地と、飛びかける燃える蛇との中で保たれた。このようにハデスの門は、キリストの教会に決して打ち勝てないのと同様に、キリスト者の心のうちにある恵みにも打ち勝てないのである。その種子は存続し続け、何物もそれを引き抜くことはできない。大水の奔流の中にあっても火は灯り続ける。たとえ、それがしばしばほの暗く見えようとも、あるいは消えたも同然に何の炎も見えず、ただ多少くすぶっているだけのようになっても、そのくすぶる燈心は消されない。

 また恵みは存続するだけでなく、最後には勝利を得る。たとえ苛烈な戦いを長いこと経て、多くの損害と失意をこうむることがあろうと、恵みは生き残る。そして生き残るだけでなく、最終的には、優勢になり、強大になり、勝利をおさめ、そのすべての敵は足元に屈服させられる。荒野にいたダビデが、長年の間卑しめられ、困窮した状況にあり、強大な敵たちから追われ、何度となく破滅寸前のように見え、死との間にはただ一歩の隔たりしかないように思われたにもかかわらず、そのいのちを保たれ、最後にはイスラエルの王座に登り、大いなる繁栄と栄光のうちに王冠を戴いたように、恵みもそれと同じく、決して打ち倒されることはない。その失意は、その高揚に至る道備えにすぎない。心の中に本当に恵みが存在するならば、いかなる敵もそれを滅ぼすことはできず、いかなる敵対を加えようと、それを砕くことはできない。恵みはすべてを耐え忍び、あらゆる衝撃に耐え抜き、いかなる敵対者が現われようと立ち続けるのである。そして、その理由は以下の2つのうちに見ることができるであろう。

 1. 真の恵みには、偽りの恵みよりもはるかにまさって、最後まで耐え忍ばせる性質がある。----偽りの恵みは薄っぺらなものである。その拠りどころは、うわべだけの見せかけか、薄っぺらな感情でしかなく、性質そのものの変化には全く基づいていない。しかし真の恵みは心の奥底にまで達している。それは新しい性質に基づいており、それゆえ長続きし、いつまでも残るのである。にせの恵みしかないところで腐敗が抑制されることはない。たとえどれほど深手を負わせたように見えても、実はかすり傷にすぎない。それは、腐敗のいのちをえぐるようなものでも、腐敗の原理の力を削ぐようなものでもなく、魂の中に罪の力をそっくり温存しておく。したがって結局は罪が勝ちをおさめ、すべてを制圧するとしても何の不思議もない。しかし真の恵みは、本当に心のうちにある罪を抑制する。罪の死命を制する部分に切りつけ、致命的な傷を負わせ、その心臓部を刺し貫く。恵みが最初に魂に入ったとき、それは決してやむことのない罪との戦いを開始する。それゆえ恵みが占領地を保持し、最後にはその敵に対して勝ちをおさめるのも不思議ではない。にせの恵みは、決して罪から魂の領土を奪い取ることも、魂における罪の支配力を打ち滅ぼすこともしない。それゆえ自らが魂にとどまっていられなくとも不思議はない。しかし真の恵みには、罪の支配力とは相容れない性質があり、心の中に入るとともに心から罪を離れさせ、罪から王座を取り上げる。それゆえ心の中の座を占め続ける見込みがはるかに多く、最後には罪に対して完全な勝利をおさめる。にせの恵みは、心に影響を及ぼしはしても、魂のいかなる確信にも基づいていない。しかし真の恵みは、真実の徹底的な確信から始まり、そのような土台があるため、最後まで耐え忍ばせる強い傾向がある。にせの恵みは祈りに熱心ではない。しかし真の恵みは祈り深く、自らを支える神からの力を祈りによってわがものとし、現実に神の性質を帯びたもの、いわば神のいのちを宿したものとなる。にせの恵みは自分が最後まで耐え忍ぼうが耐え忍ぶまいが無頓着だが、真の恵みは最後まで耐え忍びたいという熱心な願いを自然と人に起こさせ、ぜがひでも忍びたいと思わせる。また真の恵みは人に、自分を取り囲く種々の危険をひしひしと感じさせ、油断するまいという心、最後まで耐え忍べるよう注意深く勤勉に歩もうという心を奮い起こさせるものである。また、神に助けを仰ぎ求め、恵みに敵対する多くの敵たちに対して神の守りに信頼しようという思いにかりたてるものである。また、

 2. 神は、真の恵みをいったん心の中に植えつけなさったなら、いかなる敵対が起ころうと、その恵みを支えてくださる。----神は、恵みに対していかなる力が加えられようと、決して恵みが打ち倒されないようにしてくださる。確かに真の恵みには、にせの恵みにくらべれば最後まで耐え忍ばせる、はるかに大きな傾向がある。だが、この恵みを支えようとなさる神のご目的と切り離して考えた場合、恵みの性質そのものの中には、恵みを確実に持ちこたえさせ、最後まで絶対に打ち倒されないように守り抜けるような力は全くない。私たちが堕落から守られているのは、恵みそのものに内在する力によってではなく、使徒ペテロが告げているように、「信仰により、神の御力によって」である(Iペテ1:5)。私たちの最初の両親[アダムとエバ]の心にあった聖潔の原理は、対抗すべき何の腐敗も心の中になかったのに打ち倒された。いわんや堕落した人間の心のうちにある恵みの種子は、これほど多くの腐敗のさなかにあり、これほど活発な敵対に絶えずさらされている以上、神の支えがなければ、はるかにたやすく打ち倒されてしまうと思ってよかろう。神は、恵みをそのあらゆる敵たちから防護し、最後には勝利を与えてくださると請け合われた。それゆえ恵みは決して打ち倒されることがない。さて今から私が手短に示そうと思うのは、神が真の恵みを支え、それが打ち倒されないようになさることがいかに自明なことか、また、なぜ神がそのようになさるのか、といういくつかの理由である。

 第一に、私が示したいのは、神が心のうちにある真の恵みをお支えになることがいかに自明であるか、ということである。そして、一言で云えば、それは神のお約束から明らかなのである。神は明確に、またしばしば、真の恵みが決して打ち倒されないと約束なさった。たとえばそうした約束は、善人についてこう記された宣言の中にある。「その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ」(詩37:24)。また、次のようなみことばの中にも見られる。「わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える」(エレ32:40)。さらにまたキリストのおことばにもある。「この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません」(マタ18:14)。そして、こうした種々の宣言と軌を一にして、キリストは恵みについて、それは魂のうちで「泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」、と約束しておられる。(ヨハ4:14)。またキリストは云われる。「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです」、と(ヨハ6:39)。また別の箇所では、キリストの羊は「決して滅びることがなく、また、だれもキリストの手から彼らを奪い去るようなことはありません」*、と云われている(ヨハ10:28)。また、神は、「あらかじめ知っておられる人々を……さらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」。そして何物も「神の愛から」、キリスト者を「引き離すことはできません」、と書かれている(ロマ8:29、30、39)。またさらに、私たちのうちに「良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださる」、と云われている(ピリ1:6)。さらにキリストは、ご自分の民を「私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます」、と云われる(Iコリ1:8)。そしてまた、神は彼らを「つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方」であると云われる(ユダ24)。これ以外にも多くの類似した約束に言及できよう。それらがことごとく宣言しているのは、いったん心の中に植えつけなさった恵みを、神は支えてくださる、ということである。また、神に拠り頼んだ者らを、神は最後まで守られるということである。しかし、

 2. 第二に、私が手短に示したいのは、なぜ神が恵みの原理をお支えになり、それが打ち倒されないように守ってくださるのか、といういくつかの理由である。そして、まず第一のこととして、キリストによりもたらされた贖いは、いかなる敵対を受けても私たちが最後まで耐え忍ぶことを保証するのでない限り、完全な贖いにはならない。キリストが死なれたのは、私たちが律法の下にあって屈従していた邪悪から私たちを贖い出し、私たちを栄光へと至らせるためであった。しかしもし彼が、私たちを原初人間が置かれていた状態以上には連れて行かず、以前と同様いつ堕落するかわからない状態にしておいたとしたら、彼の贖いはことごとく虚ろなものとなり、無に帰しかねないであろう。堕落するまで自分の意志の自由のまま生きていた人間は、比較的強かったにもかかわらず、また今人間につきまとっているような敵たちにつきまとわれていなかったにもかかわらず、その堅固さから堕落して、自分の恵みを失った。では現在の堕落した状態にある人間が、これほど不完全な恵みしか持たず、またこれほど強大で数多い敵たちのさなかにあって、自分だけの力で最後まで耐え忍ばなくてはならないとしたら、どうなるだろうか? 完全に堕落し、滅んでしまうであろう。そして、キリストによってもたらされた贖いは、人間をこのような堕落から守るよう保証するのでなければ、非常に不完全な贖いとなるであろう。

 第二のこととして、恵みの契約が導き入れられたのは、最初の契約で欠けていたものを補うためであるが、そこに最も欠けていたのは、人が最後まで耐え忍びうるという確実な保証にほかならなかった。最初の契約においては、その作成者たる神の側には何の欠けもなかった。その点において、最初の契約は最も聖く、正しく、賢明で、完全なものであった。しかし結果が証明しているように、その契約は、私たちの側に欠けた部分があり、私たちの幸福のため有効に働かせるには何かがもっと必要であった。そしてその必要であった何かとは、私たちが最後まで耐え忍ぶという確実な保証であった。最初の契約において私たちが有していた保証は、自分自身の意志の自由だけであった。そして、それはあてにならないものであることが明らかにされた。それゆえ神は別の契約を立てられた。最初の契約は挫折する可能性があったので、別の契約が、最初のものより永続的なものとして定められた。それは決して挫折することがなく、それゆえ「永遠の契約」と呼ばれている。揺り動かされるものは取り除かれ、決して揺り動かされることのないものがかわりに立てられるのである[ヘブ12:27]。最初の契約における首長(かしら)かつ保証者----すなわち人類の父祖[アダム]----には挫折する可能性があった。それゆえ神は、新しい契約の首長かつ保証者として、決して挫折することがありえないお方----すなわちキリスト----を備えてくださった。新しい契約は、そのすべての民の首長かつ代表者たるこの方を相手に結ばれており、あらゆることにおいて整えられ、確実なのである。

 第三のこととして、もしもあわれみと、救いに至る恵みとから出た契約において、いのちの報いが、人間が最後まで耐え忍ぶかどうかにかかっていたり、その最後まで耐え忍べるかどうかが人間自身の意志の力や堅さ次第だなどとしたら、それは不自然な話である。永遠のいのちを与えるか与えないかが、堕落から自分を守ろうとする人間の力の出来不出来で決まるなどというのは、行ないの契約であって、恵みの契約ではない。すべてが無代価の、主権的な恵みから出ているのであれば、無代価の恵みはその救いを責任をもって完成させ、仕上げるというものであり、最初の契約のときのように、それを人間自身や、その意志の力にまかせたりしていないはずである。その働きは、神から出た恵みによって始められたのと同じように、同じ神からの恵みによって完成される。それゆえ私たちは最後まで守られるのである。

 第四のこととして、私たちの第二の保証者[キリスト]はすでに持ちこたえ、最初の保証者が挫折したことを成し遂げられた。それゆえ私たちは確実に最後まで耐え忍べるのである。私たちの最初の保証者アダムは持ちこたえられずに、すべての者が彼とともに堕落した。しかしもし彼が持ちこたえていたとしたら、すべての者が彼とともに立ち続け、決して堕落することはなかったはずである。しかし私たちの第二の保証者はすでに持ちこたえ、それゆえ彼を自分の保証者とするすべての者が彼とともに最後まで耐え忍ぶのである。アダムが堕落し、罪に定められたとき、彼の子孫の全員が彼とともに罪に定められ、彼とともに堕落した。しかしもし彼が立ち続けていたとしたら、彼は義と認められ、いのちの木の実を食べることができ、永遠のいのちの状態に確立され、彼の子孫の全員もまた確立されていたはずである。それと同じ理屈で、今や第二のアダムたるキリストが立ち続け、最後まで耐え忍んで、義と認められ、いのちに確立させられた以上、キリストにある者、キリストによって代表される者すべても、やはり同じように彼にあって受け入れられ、義と認められ、確立させられているはずである。ご自分の民の契約上の首長(かしら)である彼が、その契約条件を満たしたという事実により、彼らが最後まで耐え忍ぶことは確実になったのである。

 第五のこととして、信仰者はすでに実際に義と認められており、そのため永遠のいのちを受ける資格が恵みの約束を通して与えられている。それゆえ神は、信仰者が挫折して、永遠のいのちに至らないようなことをお許しにならない。義認は罪人の事実上の無罪放免である。それは咎の負債が完全に消滅し、断罪から解放され、地獄から救い出され、永遠のいのちを受ける完全な資格へと受け入れられたということである。だが、人が地獄から救出され永遠のいのちに到達するかどうかは、その人が最後まで耐え忍ぶかどうかで決まる、などというのは、こうしたことすべてと全く矛盾した考え方である。

 第六のこととして、聖書の教えによれば、信仰者の恵みと霊的いのちは復活のキリストのいのちにあずかることであり、それは不滅の、朽ちることなきいのちである。このことは使徒によってはっきり教えられている。「神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました」(コロ2:13)。また、「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」*(エペ2:4-6)。さらにまた、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラ2:20)。こうした表現が示しているのは、信仰者の霊的いのちは途絶えることがないということである。なぜならキリストはこう云っておられる。「わたしは……生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている」(黙1:18)。そして使徒は云う。「キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています」(ロマ6:9)。枝のいのちと木のいのちが同じものであるのと全く同様に、私たちの霊的いのちはキリストのいのちである。である以上、私たちの霊的いのちはいつまでも続くに違いない。

 第七のこととして、恵みは神が、敵たちの熾烈な敵対を向こうに回して心のうちに植えつけられたものである。それゆえ神は疑いもなく、それを引き抜こうという彼らの絶え間ない、全力を尽くしての努力に対して、恵みを心の中で持ちこたえさせてくださるに違いない。神と魂との敵たちは、恵みが心に植えつけられるのを妨げようとして、徹底抗戦の構えをとっていた。しかし神は、それをものともせずに、心に恵みを導き入れて、すべてを制圧する栄光の力を明らかにされた。それゆえ神は、ご自分の強大な力によってかくも大きな勝利とともにもたらしたものを、彼らに駆逐させるままにして、結局は彼らがご自分を制圧するのを許されるなどということはなさらないであろう。これらすべてが明白にしているのは、神はキリスト者の心のうちにある恵みの原理をお支えになり、それが決して打ち倒されも、挫折もしないようになさる、ということである。

 この主題の適用として、

 1. 私たちは、なぜ悪魔があれほど躍起になって罪人の回心を妨害するかという理由の1つがわかる。----それは、もし罪人がいったん回心するなら、彼らは永遠に回心したままとなり、永遠におのれの手の届かないところに置かれ、決して彼らを打ち倒すことも滅ぼすこともできなくなるからである。たとえ恵みから落ちるなどということがあるとしても、悪魔は、私たちが恵みをいだくのを妨げようとするに違いない。しかし彼がそれを、いやまさって激しく妨げようとするのは、いったん私たちが恵みを有したが最後、それを決して打ち倒すことが望めないと知っているからである。また私たちが、恵みを有しているというだけで、最後には彼から失われてしまい、永遠に彼の破滅の力の届かないところへ行くと知っているからである。おそらくそのためにこそ、覚醒と罪の確信のもとにあって、回心を求めるようになった人々は、あれほど激しい反対と、あれほど種々の大きな誘惑を敵から受けるのであろう。敵は常に活動しており、しゃにむにそのような者らを打ち倒そうとし、可能なら彼らの前途に山々をも積み上げて、聖霊の救いのみわざを妨げ、彼らが回心するのを妨げようとする。罪の確信を消そうと力の限りを尽くし、可能であればそうした確信のもとにある者らを、無思慮で怠惰な、神にそむく道へと陥れようとする。時には甘言を弄し、時には失望させて、彼らの思いを惑わし混乱させようと努力する。腐敗の実行を扇動し、冒涜的な思いを吹き込み、彼らを神と争わせようとして力の限りを尽くす。多くの狡猾な誘惑によって、彼らに、救いを求めても無駄だと考えさせようと努力する。神の定めという教理を使って彼らを誘惑しようとする。あるいは、彼ら自身の無能さ、無力さによって誘惑しようとする。または彼らに、その行なうすべてのことは罪だと告げることにより、あるいは彼らの恵みの日は過ぎ去ってしまったと思い込ませようとすることにより、あるいは彼らが赦されえない罪を犯してしまったのだという思いで恐怖させることによって誘惑する。さもなければ彼らに、不安になったり悩むことは何もない、時間はまだまだたっぷりあると告げるかもしれない。または、もし可能であれば、彼らをいつわりの希望であざむき、もう安全な状態にあるのだと、まだキリストから離れている彼らにへつらうであろう。こうしたことを始めとする無数の方法によって、サタンは人々の回心を妨げようと努力する。なぜなら彼は、私たちがここまで力説してきた教理が真実であると知っているからである。しかり、いったん恵みが魂のうちに植えつけられたなら、サタンは決してそれを打ち倒せず、ハデスの門も決してそれに打ち勝つことはできない。さらにまた、

 2. 私たちがこの主題から見てとれるのは、ある人々のうちで恵みと思われていたものが挫折し、打ち倒された場合、その人々は真の恵みを一度も有してはいなかったのだと結論してよい、ということである。----それは真の恵みではなく、朝もやか、朝早く消え去る露のようなものである。人々がしばらくの間は覚醒させられ、恐れているように見え、多少なりとも自分の罪深さと邪悪さを感じとり、その後神のあわれみによって非常に感動させられたようすを見せ、神のうちに慰めを見いだしたように思われながら、結局は、新鮮さが薄れるにつれて、昂揚した気分が沈静化し、消え去ってしまい、心にも生活にも永続的な変化が何も残らなかったというときには、それは彼らが全く真の恵みを有していなかったしるしである。そうした者らの場合には、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です」(IIコリ5:17)という使徒の宣言にあてはまるようなものが何もない。もしその人が、一見回心のような体験をした後で、神やキリストや霊的な事柄に背を向けて去っていき、はかない物やこの世を追い求める心に戻って、キリスト者として当然あるべき義務をないがしろにし、罪の歩みに立ち返り、利己的な、あるいは官能的な欲望を満足させることをもっぱらとし、肉的で無頓着な生き方を送るようになるなら、一見真実そうに見えたその人の回心は、すべて人を欺くものだったのである。それは、春や初夏に花を咲かせる木々が、どれほど豊かな実りを予感させても、その多くが花を散らすだけで終わり、決して実を結ばないのと似ている。結果が証明すること、それは、こうした一見恵みと見えたようすは、すべて単なる見せかけにすぎず、こうしたものに頼る人々は途方もない惑わしに陥っているということである。持ちこたえることも、最後まで耐え忍ぶこともない恵みは、本当の恵みではない。もう1つ云えることは、

 3. この主題は、自分の心のうちに真の恵みが本当にあるという証拠を確実に持っている人々すべてに、大きな喜びと慰めとなるものを与えてくれる。----そうした人々は、測り知れない価値の宝石を手にしている。全宇宙のありとあらゆる宝石や貴金属、ありとあらゆる王冠や貴重な宝物を合わせたよりも尊い宝玉である。そして、彼らにとって大きな慰めとなるであろうこと、それは彼らが決してこの宝石を失うことなく、この宝石を与えてくださったお方が、彼らにかわってこれを守ってくださるということである。彼らを至福の状態へと導き入れてくださったのと同じこのお方が、彼らをその状態の中にとどまり続けさせてくださる。このお方の、万物をご自身に従わせることのできる強大な力が彼らに味方し、彼らを守ると誓って約束しているので、いかなる敵も彼らを滅ぼすことはできない。彼らを喜ばせること、それは彼らには強い町があり、神はその城壁と塁とで彼らを救ってくださるということである[イザ26:1]。そして彼らの敵たちがいかなる怨恨をむき出しにし、いかに狡猾で激しい攻撃を加えてこようと、彼らは高い所に立ち、神が彼らを据えられた岩の上の要害から、敵たちを笑い、あざけり、いと高き方を自分たちの確かな隠れ家、とりでとして誇ることができる[イザ33:16]。永遠の腕が彼らの下にある[申33:27]。いと高き天に乗っておられる方、エホバが彼らの助けである[詩68:4、33; 115:11]。そして彼らのあらゆる敵を、主はその足の下に屈従させてくださる。それゆえ彼らは主を喜び、彼らの救いの岩なるお方を喜ぶことができるのである。最後に、

 4. この主題は、魂の敵たちに対して戦いを続けている聖徒たちに、大きな励ましとなるものをも与えてくれる。----兵士の心を何よりもくじくこと、それは勝ち目のない、負け戦と決まったような戦いに出て行かなくてはならないことである。希望をもって事に当たる者らは半ば勝ったようなものだが、意気阻喪して事に当たる者らの敗北は必至である。後者は気弱になり、浮き足立つが、前者は一致団結して、力を結集する。では、自分の心のうちに恵みがあるという確かな証拠を持つあなたには、自分を奮い立たせるために必要な、あらゆるものがあるに違いない。あなたの救いの指揮官は、疑いもなくあなたを最後には勝利に導いてくださる。あなたを支えることがおできになるお方は、あなたが勝利を得ると約束しておられ、このお方の約束は決して破られることがない。その約束に安んじ、自分の果たすべき分を忠実に果たすならば、ほどなくして勝利の凱歌はあなたのものとなるであろう。そして勝利の栄冠を、このお方が手ずからあなたの頭にかぶらせてくださるであろう。

恵みは敵対に負けず[了]

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