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13. 恵みはすべて関連し合う

「愛は……すべてを信じ、すべてを期待し……ます」 Iコリ13:7

 使徒のこの言葉の意味として普通に理解されているのは、愛によって私たちは、自分の隣人について、どんな場合にも最善を信じ、最善を期待するようになる、ということである。しかし私には、それがこの箇所における使徒の意図とは思われない。むしろ彼が云わんとしているのは、愛という恵みには他のすべての恵み----特に、信仰と希望----の実践をはぐくみ、押し進めるような働きがある、ということのように思える。信じることと期待すること、あるいは信仰と希望、という恵みに言及することによって使徒は、いかに愛がその二者の実践を押し進めるかということを、この箇所で示しているのである。なぜ使徒の意図をそのように理解するかというと、----

 第一に、隣人の最善を考えさせようとする愛の実については、彼は言及したばかりであった。愛は「人のした悪を思わず」、と。それと同じことを、この節でも彼が再度繰り返して云おうとしたと考えなくてはならない理由は何1つない。

 第二に、隣人に対する愛の実については、明らかに使徒はすでに語り終えたと思われる。先に見たように、彼はそうした実をすべて要約して、愛は「不正を喜ばずに真理を喜びます」、と云っている。すなわち、愛はあらゆる悪しきふるまいを押しとどめ、あらゆる良きふるまいを押し進めるものだと云うのである。ならばこの節において当然予期されるのは、使徒が何か別の種類の愛の実について語り出すことであろう。たとえば、愛には信仰や希望といった、福音による最大級の恵みを押し進める傾向がある、というように。

 第三に、この章を見て気づくのは、一度ならず使徒が、この信仰・希望・愛という3つの恵みをまとめて語っているということである。そして最も筋の通った読み方をすれば、そのようにするとき彼は、同じ3つの恵みについて語っていると想定される。さてこの章の最後の節では、この3つが言及され、比較されている。だがそこで使徒が「信仰」や「希望」によって意味しているのは、明らかに隣人の最善を信じたり期待することではなく、神およびキリストをその主たる直接の対象とする、福音の最大級の恵みのことである。こういうわけで、彼がこの箇所で本章末尾の節と同じ3つの恵みに言及するとき、彼が前の箇所でも後の箇所と同じ3つのことを指していると考えてはならない理由がどこにあるだろうか? どちらも同じ章の、同じくだりの、同じ議論の過程に含まれているのである。そして最後のこととして、

 第四に、この見解は、この章全体を通して使徒が目ざしている目的にかなうものである。使徒がこの章で示そうとしているのは、愛と他の種々の恵み、特に愛と信仰および希望の関係である。それこそ使徒が、そのあらゆる言葉によって目ざしていることである。それゆえ彼は、最後の節で事の結論に至り、信仰と希望と愛の中では愛が最も偉大であると語るとき、すでにこの節の言葉で語っていたことを念頭に置いて云っていると思われる。すなわち、愛が「すべてを信じ、すべてを期待」するとは、愛が他の2つよりも偉大であるという意味にほかならない。愛には、この2つを生じさせる最も大きな影響力があり、愛によってこの2つは魂の中ではぐくまれ、押し進められるからである。

 こうした理由により、私がこの聖句から引き出したい教理は、

 キリスト教の恵みは、すべて互いに関連があり、依存し合っている、ということである。

 すなわち、種々の恵みはみな、鎖の環のように互いに繋ぎ合わされ、結び合わされ、綴じ合わされているのである。鎖の環は、端から端まで、一個ずつ繋ぎ合わされていて、一箇所でも環が壊れれば、全部が地面に落ちて何の役にも立たなくなるが、それと同じである。さてこの教理を解き明かすにあたって私は、まずキリスト教の恵みがいかにすべて関連し合っているかを手短に説明し、次になぜそのように関連し合っているかという理由をいくつか挙げようと思う。そこでまず、

 I. キリスト教の種々の恵みがいかに関連し合っているかを手短に説明しよう。----これは3つのことにおいて示すことができる。

 1. キリスト教の恵みはすべて常に相伴うものである。----恵みは常に相伴うので、1つ恵みがあればそこにはすべての恵みがあり、1つ恵みが欠けていればすべてが欠けている。信仰があるところには、愛があり、希望があり、へりくだりがある。愛があるところには、信頼もある。神への聖い信頼があるところには、神への愛がある。恵みによる希望があるところには、神への聖い恐れもある。「主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる」(詩147:11)。神への愛があるところには、恵みによる隣人愛がある。キリスト教的な隣人愛があるところには、神への愛がある。このため、使徒ヨハネはある箇所で、兄弟愛は、神への愛があるしるしだとしている。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です」(Iヨハ4:20)。また、神への愛は、兄弟愛のしるしだとしている。「私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります」(Iヨハ5:2)。これと同じように云えることは、

 2. キリスト教の恵みは互いに依存し合っている、ということである。----恵みには、常に連結しているという関連があるだけでなく、それぞれが互いに依存し合う関係にある。ある恵みは他のすべての恵みなしには存在しえない。何か1つ恵みを否定すれば、他の恵みも何か否定することになり、結局すべてを否定することになる。原因を否定すれば結果を否定することになり、結果を否定すれば原因を否定することになるのと同じである。信仰は愛を押し進めるが、愛は生きた信仰の中で最も大きな働きをになう要素である。愛は信仰に依存している。何かが真に愛される場合----特に他の何物にもまさって愛される場合----には、まず第一に、その何かが真に実在しているとみなされなくてはならない。だが同時に、愛は信仰を大きくし、押し進めるものでもある。なぜなら私たちは普通、自分の愛する者を信じ、信用し、信頼を寄せることの方が、愛していない者をそうするよりも容易だからである。同じように信仰は希望を生み出す。というのも信仰は、神が十分な祝福を授ける力をお持ちの方であること、また一度語ったことは必ず実行なさる、ご約束に忠実なお方であることをさとり、より頼むからである。恵みによるすべての希望は、信仰に基づいた希望である。そして希望は、信仰の行為を励まし、引き出す。同じように愛は希望につながる。愛の精神は子どものような精神であり、だれでも神に対するこの精神を自分のうちに感じれば感じるほど、自然に神を自分の父として頼みにし、みもとに行けるようになるからである。この子どものような精神によって、奴隷と恐怖の霊は打ち捨てられ、信頼と希望の精神たる、子としてくださる御霊が与えられる。「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます」(ロマ8:15)。また使徒ヨハネは告げている。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」(Iヨハ4:18)。また同じように、真の純粋な希望には、愛を押し進める非常に大きな力がある。キリスト者が、神の恩恵とその果実たる永遠の祝福とにあずかる自分の相続分について、しかるべき希望を最大限にいだくとき、それは愛の実践を引き出すように仕向け、しばしば実際にそれを引き出すものである。使徒パウロは云う。「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(ロマ5:3-5)。

 信仰も、へりくだりを押し進める。なぜなら人は、神が十分な力をお持ちの方であることにより頼めばより頼むほど、自分の力の足らなさを痛感させられるからである。それと同じく、へりくだりは信仰を押し進めるものである。なぜなら人は、自分の力の取るに足らなさを感じれば感じるほど、ただ神だけに頼り、全くキリストだけにより頼む心にさせられるからである。同様に、愛はへりくだりを押し進める。なぜなら心は、神の慕わしさに魅惑されればされるほど、自分のいとわしさと邪悪さを感じて、自分を忌み嫌い、卑下し、へりくだらされるからである。へりくだりは愛を押し進める。なぜなら人は、自分の無価値さをへりくだって感じれば感じるほど、自分に対する神のいつくしみ深さに驚嘆し、その輝かしい恵みのゆえに神を愛するように心引き寄せられるからである。愛は悔い改めにつながる。なぜなら真に罪を悔い改める者は、自分の愛するお方に対して犯したものであるがゆえに罪を悔い改めるからである。そして悔い改めはへりくだりにつながる。なぜなら真に罪を悲しむ者、罪ゆえに自らを断罪する者は、例外なく罪ゆえに心へりくだらされているからである。同様に悔い改めや信仰や愛は、みな感謝につながる。信仰によってキリストを救い主として信頼する者は、救いのゆえにキリストに感謝するであろう。神を愛する者は、その慈悲深さを感謝の念とともに認めるよう仕向けられるであろう。そして自分の罪を悔い改める者は、自分を完全に罪の咎目と力から解放することのできる恵みのゆえに、心から神に感謝するよう仕向けられるであろう。神に対する真の愛は、他の人々への愛につながる。人間は神のかたちを帯びているからである。そして人々に対する愛と平和の精神は、神に対する愛の精神をはぐくむ。かたちに対する愛は、本体に対する愛をはぐくむからである。同じように、すべての恵みがいかに互いに依存し合っているかは、他の恵みを1つ1つ挙げていけば、いくらでも示していけるであろう。へりくだりは他のすべての恵みをはぐくみ、他のすべての恵みはへりくだりを押し進める。それと同様に、信仰は他のすべての恵みを押し進め、他のすべての恵みは信仰をはぐくみ押し進める。これは、福音の恵みのどれをとっても同じである。

 3. キリスト教の種々の恵みは、部分的に、別のものをうちに含んでいる。----恵みは互いに関連し合い、依存し合い、またそれぞれが押し進め合っているだけでなく、部分的に、別のものの性質をうちに含んでいる。恵みの中でも、あるものは、他の恵みにとって欠かせず、その本質そのものに属している。たとえば、へりくだりは真の信仰の性質の中に含まれており、その本質の一部をなしている。真の信仰にとって、それがへりくだった信仰であることは欠かせない。そして真の信頼にとって、へりくだった信頼であることは欠かせない。同じようにへりくだりは、他の多くの真の恵みの性質および本質に属している。キリスト者の愛にとって、それがへりくだった愛であることは欠かせず、服従にとって、それがへりくだった服従であることは欠かせず、悔い改めにとって、へりくだった悔い改めであることは欠かせず、感謝にとって、へりくだった感謝であることは欠かせず、神を崇める思いにとって、へりくだりつつ崇める心は欠かせない。

 同じように愛は、恵みによる信仰のうちに含まれている。愛は信仰をなりたたせる要素であり、信仰の本質に属している。いわば信仰の魂、すなわち、信仰の働きと作用をつかさどる性質の中核なのである。人間の働きや動作をつかさどる性質がその魂にあるように、信仰の働きや作用をつかさどる性質は愛にある。使徒パウロは、「愛によって働く信仰」と云う(ガラ5:6)。また使徒ヤコブによれば、信仰は、その働く性質がなければ、魂を離れたからだと同様、死んでいるのである(ヤコ2:26)。それと同様に、信仰も、部分的には愛に含まれている。なぜなら真のキリスト者の愛にとって、それが信仰に基づく愛であることは欠かせないからである。同じように救いに至る悔い改めと信仰も、互いに相手をうちに含んでいる。双方とも、魂がキリストによって罪から神へと回心する同一のことを指している。キリストによって罪から神へと回心する魂の行為は、回心するもととなるもの、すなわち、罪について云えば悔い改めと呼ばれ、回心する先になるもの、またその回心の仲立ちとなるものについて云えば、信仰と呼ばれるのである。しかし、これは魂の同じ動作である。人が暗やみから光へ立ち返る、あるいは逃れ出る動作は、同一の行為であるにもかかわらず、逃れ出るもととなる暗やみに注目して云うか、逃れ出る先となる光に注目して云うかで、異なった名称で呼ばれる。それは一方では避けること、あるいは逃れてくること、と呼ばれ、他方では受け取ること、あるいはいだくこと、と呼ばれるのである。

 それと同じく、愛は感謝のうちに含まれている。真の感謝とは、自分に対する神のいつくしみ深さに打たれて、私たちが神に対して実践する愛にほかならない。そのように愛は、神に対する真の、子どもとしての恐れにも含まれている。なぜなら子どもとしての恐れは、奴隷のような恐れとは異なるからである。奴隷のような恐れには何の愛もない。また、愛、へりくだり、悔い改めという3つの恵みは、神のみこころに対する、恵みによる子どもとしての服従に含まれている。同様に、この世をいとう心と天を慕う心とは、主として信仰、希望、愛という3つの恵みに存している。同じように、人に対するキリスト者の愛は、キリストに対する間接的、媒介的な愛の一種である。また人々に対する正義と真実は、真にキリスト者的な恵みであるが、そのうちに愛を含み、愛が欠かせないものである。さらに愛とへりくだりという恵みには、人々に対する柔和さが存している。同じように、神への愛、信仰、へりくだりは、キリスト者の忍耐および、自分の境遇や、自分に対する摂理のはからいに対して満ち足りる心をなりたたせる要素である。このように、キリスト教のすべての恵みは、明らかに鎖のように連結し、繋ぎ合わされ、依存し合っていると思われる。そこで、先に述べたように次のこととして私は、

 II. 恵みがこのように関連し合い、依存し合っている理由をいくつか挙げたい。----まず、

 1. 恵みはすべて同じ源泉から出じている。----キリスト教のすべての恵みは同じ御霊から生じている。使徒は云う。「御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。……働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です」(Iコリ12:4、6)。キリスト教の恵みはみな、同じキリストの御霊から出たものである。心の中に送り込まれた御霊は、聖く、力強く、神聖な性質として心に住んでおられる。それゆえ、すべての恵みは、同じ神聖な性質が行なう異なる働きにすぎない。太陽の光を屈折させると種々の色彩の光となるが、それでもすべては元々同じ種類の光である。みな同じ源泉、同じ光源から出ているからである。魂における恵みは、聖霊が魂の内側で働いておられるのであり、そのようにしてご自分の聖い性質を分かち与えておられるのである。わき水と同じように、すべては同じ1つの聖い性質であり、異なるのはただ、そこから送り出される幾筋もの流れの多様さにある。これらの流れはみな、同じ源泉から出たことを思えば、同じ性質をしている。そしてそれらの多くに見られる違いは、それぞれ異なる名称のもととはなっているものの、主として相対的なものである。それは、本質的な性質が実際に異なっていると云うよりは、その対象や行ない方の違いを反映したものにすぎない。これと同じく、

 2. 恵みはすべて御霊の同じ働き、すなわち、回心の働きにおいて分かち与えられる。----魂は決して、信仰に対する回心、神への愛に対する回心、へりくだりに対する回心、悔い改めに対する回心、そして他者への愛に対する回心などを別々に経験するのではない。すべては御霊の同一の働きによって生じさせられるものであり、同一の回心、すなわち、同じ心の変化から出た結果である。そしてこのことは、すべての恵みが結び合わされ、繋ぎ合わされ、新生において与えられる同一の新しい性質の中に含まれていることを証明してる。事情は最初の出生のときと異ならない。最初の出生----からだの出生----のときには、同じ1つの出生において異なる機能が分かち与えられた。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、そして動作したり呼吸したりする力は、その見かけやあり方は様々でも、すべてが同時に与えられ、すべてが1つの人間の性質、1つの人間の生命をなしている。キリスト教の恵みについて、さらに云えることは、

 3. 恵みにはすべて、同じ根また土台、すなわち、神の至高の気高さに関する知識がある。----神の至高の気高さを目の当たりにする、あるいは感じとるという同じ経験が信仰を生じさせ、愛、悔い改め、その他すべての恵みを生じさせる。ひとたびこの至高の気高さを目の当たりにするや、これらすべての恵みが生まれるのである。なぜなら、そこには、すべての聖い性向、および神に対するすべての聖いふるまいの根拠と理由が示されるからである。神のご性質を真に知る人々は、神を愛し、神に信頼し、神に従う精神を持ち、神に仕えて神に従う。「御名を知る者はあなたに拠り頼みます」(詩9:10)。「罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです」(Iヨハ3:6)。「愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています」(Iヨハ4:7)。キリスト教の恵みについてさらに云えることは、

 4. すべての恵みには同じ規則、すなわち、神の律法がある、ということである。----それゆえ恵みはみな、繋ぎ合わされているのである。なぜなら、恵みがみなこの規則を尊重している以上、恵みはみな、この規則の全体を追認し、心と生活をその規則に即したものにするよう仕向けるからである。神の戒めの何か1つを真に尊重する思いのある人には、すべての戒めを真に尊重する思いがあるであろう。なぜなら、戒めはみな同じ権威によって確立されており、同じ神の聖いご性質を全体として表現しているからである。「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。なぜなら、『姦淫してはならない。』と言われた方は、『殺してはならない。』とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。」(ヤコ2:10、11)。

 5. キリスト教の恵みはすべて同じ目的、すなわち、神を目ざしている。----神こそ恵みの目的である。なぜなら恵みはみな神のためのものだからである。恵みはみな、同じ源から発し、同じ源泉から生じ、みな同じ規則、神の律法によって方向づけられているのと同じように、みな同じ目的、すなわち、神とそのご栄光、そして神にある私たちの幸いへと方向づけられている。ここから、種々の恵みには密接な関係があり、非常に緊密に結び合わされているに違いないことは明らかである。そして最後に云えることは、

 6. キリスト教の恵みはすべて同じように、ある1つの恵みに関係している。その恵みとは愛、すなわち神から出た愛であり、これがすべての恵みの精髄なのである。----先に見たように、真のキリスト教の恵みとしてどれだけ多くの名前をあげることができようと、愛はそのすべての精髄である。個々の恵みは、それが実践される見かけやあり方がどれほど異なっていようと、仔細に吟味してみると、みな1つの恵みに還元される。愛こそ、すべての恵みを完成するものであり、いかなる恵みも、この同じ1つの恵みの多彩な現われの1つにすぎず、その異なる派生物、異なる関わり方、異なる行なわれ方にほかならない。つまり1つの恵みの中に、すべての恵みが含まれているのである。1つのいのちの原理の中に、その現われのすべてが網羅されているのと同じである。こういうわけで、恵みが常に相伴い、依存し合い、互いのうちに含まれているのも不思議ではない。

 この主題の適用としては、

 1. これは、回心において古いものが取り去られ、すべてが新しくなったというあの言葉の意味を理解する1つの助けとなるであろう。----これこそ、使徒が私たちに事実として教えていることである。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(IIコリ5:17)。さて、なぜこのようなことが云えるかは、冒頭の聖句の教理、およびその説明としてここまで語られてきたことによって、ある程度示されている。なぜならこれは私たちに、キリスト教のすべての恵みが一回限りの回心において分け与えられることを示しているからである。恵みがみな繋ぎ合わされているのなら、何か1つを授けられれば、その1つだけでなくすべてが授けられたことになる。真に回心した人は、その回心の瞬間に、1つや2つだけでなく、すべての聖い原理、すべての恵みによる性向を持つことになるのである。確かにどの恵みも、乳幼児の心身機能や力のように弱々しいものかもしれない。だがそれらはみな真の恵みとしてそこにあり、神と人との双方に対する、あらゆる種類の聖い感情とふるまいという形で、しだいに流れ出してくるであろう。真に回心した人のうちには例外なく、イエス・キリストご自身のうちにあったのと同じ数だけ恵みがある。それこそ、福音書記者のヨハネが語っていることである。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。……私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである」(ヨハ1:14、16)。また実際、これはそれ以外にありえないことである。なぜなら真に回心した人はみな、使徒が云う通り、キリストのかたちに更新されているからである。「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです」(コロ3:10)。しかし何か1つでも部分や造作が欠けているようなものは、真のかたち、または似姿とはいえない。正確なかたちには、元となったものの、あらゆる部分に対応したものがあるはずである。複製は、原型のあらゆる部分、あらゆる造作に対応したものをもれなく備えているものである。確かにいくつかの部分についてはぼんやりとしており、いかなる部分においても完璧になぞれてはいないであろう。しかし、恵みは恵みに対応するのである。魂における恵みは、IIコリ3:18からも明らかなように、キリストの栄光の反映である。それが主の栄光の反映であることは、鏡の映像に人の顔のあらゆる部分が反映されているのと同じである。

 人が新しく生まれるのは、赤子の誕生と変わらない。赤子には人間のあらゆる部分が、たとえ非常に未成熟な状態ではあっても、一通りそろっている。いかなる部分も欠けておらず、発育しきった成人と同じ数だけの器官がある。それゆえ新生によって生じさせられたものは、「新しい人」と呼ばれているのである。ただ単に新しい目とか、新しい耳とか、新しい手ではなく、新しい人と----人間の機能と器官のすべてを持つものとして呼ばれているのである。しかしキリスト者の恵みはすべて新しいものである。恵みはすべて回心後の個人の器官であり、そのうちの1つとして回心前の器官であったものはない。そして、回心によって、いわば五体満足にそろった新しい人が生まれたのであるから、キリスト者たちは魂も、からだも、霊も、全く聖なるものとされると云われているのである(Iテサ5:23)。そのように古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなる。新しい人を身に着て、古い人を脱ぎ捨てるので、その人はある意味で何もかも新しくなるからである。

 そして、この新しい人のうちに恵みがすべて生きている以上、当然そこにはあらゆる腐敗の抑制が起こるであろう。なぜなら、いかなる腐敗にも必ず、それと相容れない、あるいはそれに対応する何らかの恵みがあるからである。そして、その恵みが授けられるということは、それと相容れない腐敗が抑制されることに通ずる。たとえば信仰は不信仰を抑制するものであり、愛は敵意を抑制するものである。へりくだりは高慢を、柔和さは復讐心を、感謝は恩知らずな精神を、というふうにそれぞれ抑制していくものである。そしてこれらの1つが心の中に地歩を占めるとき、それに対抗するものは、あたかも光が灯されると暗闇が消え失せるように押し出されてしまう。こうして古いものは過ぎ去る。古いものはみな、確かに1つたりとも地上で完全に消滅してしまうことはないが、ある程度においては、過ぎ去るのである。またすべてはみな、やはり不完全な形ではあっても、新しくなるのである。ここから、回心は、いつどこで起ころうとも、途方もない働きであり、大きな変化だということがわかる。恵みは非常に不完全なものかもしれない。しかし何か非常に大きな変化が内側にもたらされたのでない限り、以前は何の腐敗も抑制されていなかった人が、すべての腐敗を抑制されつつある人には決してなれないし、以前は1つも恵みを持っていなかった人が、あらゆる恵みを持っている人には決してなれない。その人は新しく造られた者と呼ばれてしかるべきであろう。あるいは、原典にあるように、キリスト・イエスにある新しい被造物と呼ばれてしかるべきであろう。

 2. このようにすべての恵みが相伴うからには、自分の心のうちに恵みがあるのではないかと思う人は、1つの恵みを他の恵みでためすことができる。----もし人が自分には信仰があると考え、それゆえ自分はキリストのみもとに来たと考えているなら、自分の信仰に悔い改めが伴っているかどうか調べてみるべきである。自分が心砕かれた状態で、罪による自分の完全な無価値さとよこしまさを自覚してキリストのみもとに来たのか、あるいは思い上がったパリサイ人的な精神で、自分にあると思い込んだ善良さを頼みにやって来たのかを問うてみるべきである。また自分の信仰にへりくだりが伴っているかどうかで、その信仰をためしてみるべきである。自分が、つつましく、へりくだったしかたでキリストにより頼み、喜んで自分を否定し、喜んで自分の救いの栄光をみな主に帰しているかどうかを問うべきである。そのように人は、自分の信仰を自分の愛によってためすべきである。そしてもしその信仰に光だけしかなく、何の暖かさもなければ、そこに真の光はない。また愛によって働くのでなければ、やはりそれは純粋な信仰ではない。

 同じように人は、自分の愛を自分の信仰で吟味すべきである。もし人に神とキリストに対する心からの愛があるように見えても、そこに真に魂の確信が伴っているかどうかを調べてみるべきである。本当に彼らはキリストが現実におられること、キリストを啓示している福音が真理であることを確信しているだろうか。彼が神の御子であること、唯一の、栄えある、すべてを満ち足らわせる救い主であることを心の底から信じているだろうか。ここにこそ、偽りの宗教感情と真実のそれとの間にある大きな違いがある。前者にはこの確信が伴っておらず、そのうえ神のことがらが真実であることも、現実であることもわからない。それゆえ、そうした感情はほとんど全く頼りにならない。それは私たちが小説を読んでいるあいだ登場人物に対していだくような情愛に酷似している。愛情はいだくが、それと同時に、相手は架空の人物でしかないとも思っているのである。確かな信仰を伴わないそのような情愛は、決して人を義務の道に大きく進ませることはなく、行ないにおいても、苦しむことにおいても、決して人に大きな影響力を及ぼすことはない。

 また同じように人は、自分のうちにある、希望の恵みと思われるものについて吟味すべきである。自分の希望が信仰を伴っているかどうか、またイエス・キリストに対する信仰から生じているかどうか、またキリストの徳にだけより頼む心から生じているかどうか吟味すべきである。また同様に、人は自分の希望がどのようなしかたで働くか、それが自分にどのような影響を及ぼしているか、またそれにへりくだりが伴っているかどうかを吟味すべきである。真の希望はその持ち主に、自分の無価値さをさとらせ、自分のもろもろの罪ゆえに心を深く恥じ入らせ、また砕くものである。この希望は神の前でちりの上に座すものであり、この希望から生ずる慰めは、つつましく、へりくだった喜びと平安である。それとは逆に、偽りの希望はその持ち主をうぬぼれでふくれあがらせ、自分の経験や行ないのゆえに鼻高々にさせるのが常である。また私たちは、自分の希望に従順や自己否定や、世をいとう精神が伴っているかどうかも調べてみるべきである。真の希望には、こうした他の恵みが伴い、繋ぎ合わされ、依存しているが、偽りの希望にはそれがない。偽りの希望は心を従順にするどころか、心にへつらい、不従順でかたくなな心にしてしまう。それは、肉の種々の欲望を抑制することも、世をいとわせることもせず、罪深い欲望や情動にふけり、それらを欲し、人をそれらに埋没して生きるあいだ安閑とさせてしまう。

 また人は、自分の世をいとう心を吟味すべきである。そこには自分の心を世のことがらから引き離し、霊的で天的な事物へと振り向けるような愛の原理が伴っているだろうか。真に神から出た愛は、魂をこの世のことがらよりも、そうした事物へこそ押しやるものである。人は、自分のうちに真の愛のように見えるものがあるかどうか問うばかりでなく、キリストがペテロに対して問われたのと同じ問いを聞くべきである。「ヨハネの子シモン。あなたは、こうした物ら以上に、わたしを愛しますか」*。ここにこそ、真にこの世をいとう心が偽りのそうした心と違う点がある。後者は、神や天的な事物に対する愛から出たものではなく、良心の恐れや苦痛から出たもの、ことによると何らかの外的な患難から出たものであるのが常である。苦しみがあると人は、しばらくの間この世から思いを引き離し、まだましと思える物事に心を向ける。本当の意味で心ひかれたからではなく、やむをえずそう仕向けられためである。だが彼らの心は、単に世から無理やり引き離され、追いやられ、引き剥がされたにすぎず、こうした恐怖や患難なしに世を楽しむことができるとしたら、以前と全く変わることなく、やはり世にしがみつくのである。しかし他方、真に世をいとう心をいだく人々は、世的なことがらがどれほど快く魅惑に満ちた形で心誘おうとも、世に執着しはしない。なぜなら彼らの心は、はるかにまさるものに対する愛で世から引き離されているからである。彼らは神および霊的なことがらを愛するあまり、彼らの情愛はこの世のことがらに集中することができないのである。

 同じように人は、自分の神に対する愛を、神の民に対する愛によってためすべきである。そしてまた、自分と同じキリスト者に対する兄弟愛は、自分の神に対する愛によってためすべきである。偽りの恵みは、不完全な肖像画や奇怪な彫像に似て、なくてはならない部分がどこか欠けている。たとえば、神に対する有望な性向が見られながら、人々に対するキリスト者的な性向は欠如していたり、人に対しては親切で、公正で、寛大で、気さくな性向が見られるのに、神に対する正しい感情が欠けているといった具合である。このため神はエフライムに対し不満を鳴らしておられる。「エフライムは生焼けのパン菓子となる」(ホセ7:8)。すなわち、彼の美点は部分的なもので、中途半端なのである。あることでは良いが、別のことでは悪く、さながら片面はこんがり焼けているのに、もう片面は生のままのパン菓子のように、どちらの面も何の役にも立たない。そのような人格になることを私たちは努めて避け、私たちの有する個々の恵みが、他のすべての恵みの純粋さに対する証しとなるように努力すべきである。そのようにして私たちは、均整の取れたキリスト者となり、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とにおいて成長し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するのである。

恵みはすべて関連し合う[了]

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