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12. 愛は信仰の試練をいとわず

「愛は……すべてをがまんし……ます」 Iコリ13:7

 本節に先立つ数節で使徒は、行なう形をとる愛の実について、そのいくつかを示してきたが、ここからは、苦しむことに関わる愛の実のいくつかについて語り出そうとしている。ここで彼が宣言しているのは、愛、すなわちキリスト者の愛の精神は、人をして、キリストのためなら、またキリストに仕えるためなら、いかなる苦難をも甘んじて忍ぶように仕向けるものだ、ということである。私の考えでは、これが、この「すべてをがまんし」という表現の意味である。もちろん人によっては、この言葉を、私たちが自分の同胞から受ける危害を柔和に耐える、という意味にしかとらないであろう。しかし、やはりこれは、上であげたような意味、すなわちキリストおよびキリスト教信仰のために受ける苦しみと解すべきであると思われる。その理由はいくつかあるが、

 第一に、人間から受ける危害をがまんすること、それについては使徒はすでに言及していたからである。すなわち、彼は「愛は寛容であり」と述べ、愛は「怒らず」、つまり怒りの激情に抵抗するものであると宣言していた。したがって、彼がわざわざ表現を変えてまで、三度も同じことを語ったと考えなくてはならない理由はどこにも見あたらない。

 第二に、使徒は明らかに、愛の実のうちの能動的な性格のものについては、これまでの部分で一区切りつけ、そのすべてを前節の「不正を喜ばずに真理を喜びます」という表現で要約していると思われる。彼は、愛が至らせる、隣人への良い行動のさまざまな点を列挙し、先に挙げた表現でそれらを要約した。その上で彼は、ここからは愛のその他の特徴へと話を進めていると思われ、同じことを別の言葉で繰り返しているようには見えない。

 第三に、キリストのために受ける苦しみは、キリスト者の愛の実として使徒パウロがしばしば言及することである。それゆえ、愛の主要な実すべてを総括していることが歴然としているこの箇所で、彼がこれほど重大な愛の実を省略するとは、ありそうに思えない。使徒はこの他の箇所では、信仰ゆえの苦しみを愛の実として言及するのが普通である。IIコリ5:14で彼は、自分がキリストのためにいかなることを忍んできたか----いかに他人から気が狂っていると思われるほどのことをしてきたか----を語った後で、その理由はキリストの愛が自分を取り囲んでいるからだと云う。同じようにロマ5:3、5でも、彼が患難すら喜ぶ理由としてあげているのは、聖霊によって、神の愛が彼の心に注がれていることであった。また、やはり彼の宣言によれば、患難も、苦しみも、迫害も、飢えも、裸も、危険も、剣も、彼をキリストの愛から引き離すことはできなかった(ロマ8:35)。さて、キリストのために苦しむことがこれほど重要な愛の実であり、これほど多くの箇所で使徒が語っているものであるからには、それを彼がこの箇所で----愛のさまざまな実について語っていることが歴然としている箇所で----省略するとは考えにくいことである。

 第四に、これに続く言葉----「すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」----がことごとく示していること、それは使徒が、主に私たちの同胞にかかわる種類の愛の実については扱い終えたということである。このことは、今後、上の表現をより詳細に考察するときにはっきりするであろう。そこで、私がこの聖句から引き出したいと思う教理とは、

 愛、すなわち真のキリスト者精神は、神に仕えようとするとき身に受けるいかなる苦難をも、キリストゆえに甘んじて忍ばせる、ということである。

 さて、この教理を明らかにするため私は、まず手短にこの教理の説明をし、次にこの教理が真実であるという理由、または証拠をいくつかあげてみたい。

 I. まず、この教理の説明をしよう。----最初のこととして述べたいのは、

 1. この教理の示すところによれば、真の愛の精神、すなわちキリスト者の愛を持つ人々は、キリストのため喜んで事を行なうばかりでなく、キリストのため苦しむこともいとわない、ということである。----偽善者であっても信仰を告白したり、何の犠牲も伴わない口先だけの言葉や、大した苦難を伴わない行動によって、信仰熱心なそぶりはできるし、しばしば実際にそうしている。しかし彼らには苦しむ精神、すなわち、キリストのためなら苦しむこともいとわないという精神がない。入信するときの彼らは、苦しむことなど全く考えていない。信ずることで、現世的な利益が損なわれてもいいという覚悟はもとより、そんな予想など全くしていない。彼らがキリストに近づくのは、それが自分の得になる場合だけである。彼らの宗教的な行ないは、古のパリサイ人たちと同じく、いずれもみな利己的な精神から出たもの、そしてたいがい自分が得をするためのものである。当然、自分が傷ついたり損をしたりするような苦しみを甘んじて受けようという精神など、これっぽっちもない。しかし真のキリスト者となった者たちには、キリストのための苦しみをいとわない精神がある。彼らは、キリストご自身がお示しになった条件でキリストに従うことに否やはない。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません」(ルカ14:27)。だが彼らは、キリストのために苦しむことをいとわないだけでなく、

 2. この教理によれば、キリストに仕える上で身に受ける、ありとあらゆる苦しみを忍ぶ精神がある。----さてここで、

 第一に彼らは、キリストに仕えるためにはいかなる種類の苦しみをも甘んじて受けようとする。彼らには、自分の評判を甘んじて犠牲にする精神がある。キリストのために非難を受けたり軽蔑されたりすることをいとわず、自分の栄誉よりもキリストの栄誉を高めることを甘んじて選ぶ精神がある。使徒とともに彼らはこう云える。「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています」(IIコリ12:10)。彼らには、キリストの予告されたような人々の敵意や悪意を忍ぶ精神がある。「わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます」(マタ10:22)。使徒も云うように、自分の外的な財産が損害をこうむることをも受け入れる精神がある。「それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて……います」(ピリ3:8)。自分の安楽さや安逸を失い、艱難辛苦を受けても耐え忍ぶ精神がある。パウロのように彼らは、「非常な忍耐と、悩みと、苦しみと、嘆きの中で、また、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも」、自分たちを忠実な者として推薦している(IIコリ6:4、5)。彼らには、あの、釈放されることを願わないで拷問を受けた人々や、あざけられ、むちで打たれ、鎖につながれ、牢に入れられる目に会った人々と同じく、肉体的な苦痛を忍ぶ精神がある(ヘブ11:35、36)。否、死そのものすら忍ぶ精神がある。「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」(マタ10:39)。こうしたことすべて、そして考えられる限りの他のあらゆる種類の苦しみを、彼らは甘んじてキリストのために、また彼に仕えるために忍ぶのである。またそれと同じく、

 第二に、彼らは主に仕えるためなら、いかなる程度の苦しみもみな甘んじて受けようとする。彼らは純金のように、灼熱の炉の試練をも辛抱する。すべてを捨ててもキリストに従い、「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも」、キリストと比較すれば「憎む」と云えるほどの心構えがある(ルカ14:26)。最悪の非難や侮辱をも忍ぶ精神がある。ただのあざけりだけでなく、無慈悲なあざけりという試練をも受け入れ、ただ失うだけでなくすべてのものを捨てることをも耐える精神がある。彼らには死をも忍ぶ精神がある。それだけでなく最もむごたらしく、最も苦痛を伴う形の死、すなわち、「石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ」るような死(ヘブ11:37)をも忍ぶ精神がある。彼らは、程度において最も過酷で、最も無慈悲な苦しみをも、キリストのために甘んじて受けようとするのである。ここから続いて語りたいのは、

 II. この教理を証明する理由もしくは証拠のいくつかである。----さてこのこと、すなわち、真に救いの恵みを受けた精神を持つ人々が、主に仕えようとするとき直面するすべての苦しみを甘んじて忍ぶということは、以下のことを考察すると明らかである。----

 1. もし私たちにそのような精神がなければ、それは私たちが自分をキリストに全く明け渡したことが一度もなかったという証拠である。----私たちがキリスト者となるため、すなわち、キリストに従う者となるため必要なこと、それは、自分をキリストに全く明け渡し、完全にキリストのもの、キリストだけのもの、永遠にキリストのものとなることである。それゆえ聖書では、信仰者がキリストを受け入れることを、しばしば、花嫁がその夫と結婚して自分を夫にゆだねる行為にたとえている。たとえば神はその民に云われる。「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ」(ホセ2:19)。しかし女性は結婚するとき、自分を夫のもの、夫だけのものとして夫にゆだねるものである。真の信仰者は自分のものではない。なぜなら彼らは代価を払って買い取られたのであり、キリストが彼らに対してお持ちの完全な所有権に同意し、自ら進んでそれを認め、自分を生きた供え物として、彼だけのものとして自発的に彼にささげたからである。しかし、キリストのためにすべてを忍ぶ精神のない人々が、自分を完全にキリストにささげていないことははっきりしている。なぜなら彼らは、キリストのためにでも辛抱したくないような苦しみの場合には留保を設けているからである。そうした場合には、キリストとキリストの栄光のために生きることから免除されたいと願い、むしろキリストのことなど自分の安逸や利益のためにはわきにやりたい、否、事実上、完全に二の次にしたいと思うのである。しかし苦しみの程度しだいでそうした留保を設けるのは、真に神に献身した態度とは確かにそぐわないことである。それはむしろ、アナニヤやサッピラのような心にひとしい。彼らは持ち物全部をささげず、主にささげたと公言するものの一部を自分のために隠して取っておいたのであった。自分を完全にキリストにささげるということは、自分の現世的な利益を完全にキリストにささげることでもある。しかし自分の現世的な利益を完全にキリストにささげる人は、自分のこの世的な利益に関わる一切のことにおいて、キリストのための苦しみを甘んじて受けるのである。神を真に愛する人は、神を神として愛する。そして神を神として愛するとは、神を至高の善として愛するということである。だが神を至高の善として愛する人は、他のすべての善を、この至高の善のために喜んで二の次とする。あるいは、----同じことだが----彼はこの善のためにあらゆることを甘んじて忍ぶのである。

 2. 真にキリスト者である人々は、神を恐れるあまり、地上のあらゆる患難や苦しみにはるかにまさって、神の不興を恐ろしく思う。----キリストは、ご自分のため弟子たちがいかなる苦しみにさらされることになるかを彼らに語っておられたとき、こう云っておられる。「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい」(ルカ12:4、5)。同じように、預言者もこう云っている。「万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ」(イザ8:13)。さて、真にキリスト者である人々は、これほど偉大で畏怖すべき方であられる神を目の当たりに知っている。また、この神のご不興と御怒りのすさまじさは、彼らが主に仕える上でこうむる現世的な苦しみのすべてをはるかに越えたものであり、人間の怒りや残虐さ、人間が加えることのできる最悪の苦痛などよりはるかに恐るべきものであると知っている。それゆえ彼らには、神を捨てて、神に罪を犯すよりは、あるゆることを忍ぶ精神があるのである。神こそ、彼らに永遠の怒りを下すことのおできになるお方だからである。

 3. 真にキリスト者である人々は、キリストのために耐え忍ぶ最大の苦しみをも十二分に償ってあまりあるものを、その信仰によって見ている。----彼らは神とキリスト、すなわち彼らが自分の相続財産として選び取ったお方のうちに、考えうる苦しみすべてをはるかにしのぐ素晴らしいものを見ている。また、神のため苦しみを受ける人々に神が約束してくださった栄光を見ている。キリストゆえに苦しむ人々のうちには、そうした苦しみが働き、測り知れない、重い永遠の栄光がもたらされるのである。それと比べれば、この世で最もつらい悲しみ、最も延々と続く試練すら、「今の時の軽い患難」でしかない(IIコリ4:17)。モーセはその信仰を理由に、喜んで神の民とともに苦しみ、キリストのゆえに受けるそしりを忍んだと語られている。なぜなら、その信仰を働かせることによって彼は、エジプトの王座と富にまさるものが、自分のため天に貯えられているのを見ていたからである(ヘブ11:24-26)。

 4. もし私たちが、あらゆる困難にもかかわらず信仰を受け入れるのでなければ、最後には恥辱に押しつぶされることになる。----そのようにキリストは明白に教えておられる。主はこのようなことばで云われる。「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった。』と言うでしょう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません」(ルカ14:28-33)。私たちが主に仕える上で受ける苦しみは、信仰生活にあらかじめ盛り込まれている困難である。キリスト教徒になる費用の一部である。それゆえ、この費用を支払おうという気持ちのない人は、絶対にキリスト教の差し出す条件に応じない。そういう人は、自宅を建てたいと願ってはいても、建築費用を払う気がない人と同じで、結局は自宅を建てることを拒否しているのである。キリストを、その栄冠ばかりでなくその十字架と合わせて受け入れない人は、全然、真の意味でキリストを受け入れてはいない。確かにキリストは私たちをみもとに招いて安きを得よ、ぶどう酒と乳を買え、と云っておられる。しかしそれだけでなく、日々十字架を負い、ご自分について来よ、とも招いておられるのである。そしてもし私たちが前者を受け入れるためだけのために来るなら、実際には福音の申し出を受け入れてはいないのである。安きとくびき、十字架と栄冠という両者は相伴っている。片方だけしか受け入れないということは、神が決して差し出しておられないものを受け入れるということであり、何の役にも立たない。キリスト教の困難な部分を受け入れず、やさしい部分だけを受け入れるという人々は、よく云ってせいぜい準キリスト者でしかない。完全にキリスト者となった人々は、キリスト教の全体を受け入れており、最後の日になってから、そのことによって受け入れられ、栄誉を与えられる。追い出され恥をこうむるようなことはない。

 5. この聖句で示されているような精神がなくては、私たちはキリストのためすべてを捨てているとは云えない。----もし私たちに、キリストのためでも辛抱できないような種類の、あるいは程度の現世的な苦しみが何かあるとしたら、私たちには、キリストのために捨てていない何かがあることになる。たとえば、もし私たちがキリストゆえのそしりを忍ぶことができないとしたら、私たちにはキリストのために自分の栄誉を捨てようという気持ちがないのである。同じように、もし貧困や痛みや死をキリストのために甘んじて忍べないとしたら、私たちにはキリストのために富や安逸やいのちを捨てようという気持ちがないのである。しかしキリストが至るところで私たちに教えておられるのは、私たちは、キリストに仕えるため必要とあらば、自分のものをすべてキリストのため喜んで捨てなくてはならず、さもなければキリストの弟子にはなれない、ということである。

 6. この精神がなければ、私たちは、聖書が私たちに要求しているような意味において自分を捨てているとは云えない。----聖書によれば、キリストの弟子となるには自分を捨てることが絶対に必要である。「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです」(マタ16:24、25)。ここで用いられている表現は、人が自分自身を廃棄することまで意味している。そして、実際にこれに従って行動する人は、あたかもキリストのために自分とは縁を切ったかのように生きる。まるで自分が自分のものではないかのように、自分を困難や苦しみに遭わせる。あたかもレビ族が、金の子牛を作る罪を犯した者らを剣にかけた際、自分の親族や友人をも無視し、認めなかったと云われたように[出32:26-28; 申33:9]、キリスト者もまた、自分に容赦することなく肉を十字架につけ、キリストのために非常な苦しみをも忍ぶ際には、自分を認めず、自分を捨てると云われるのである。苦しみを避けたいがために、キリストのみこころにそむき、キリストの栄光に反することを行なう者は、自分を捨てるかわりにキリストを捨てているのである。迫害者らの前でキリストを告白する勇気を持たない者たちは、事実上、人々の前でキリストを知らないと云っているのであり、キリストから天の御父の前で知らないと云われる者らだとされている(マタ10:33)。そのような者たちについて使徒は云う。「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる」、と(IIテモ2:12)。

 7. キリストに真に従う者たちは全員、あらゆることにおいてキリストに従うという性質がある。----神の御座のまわりにいる者たちについて、主に愛された弟子はこう云う。「彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く」、と(黙14:4)。順境のときしかキリストに従おうとせず、逆境になると従おうとしない者、あるいはちょっとした苦しみの中では従っても、あらゆることにおいて従おうとはしない者、こうした者については、キリストが行く所には、どこにでもついて行くとは云えない。キリストが地上におられたとき、ある人がキリストにこう云ったという。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります」。するとキリストは彼に云われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」(マタ8:19、20)。ここでキリストが意味されたのは、もしご自分の行く所どこにでも従いたいというのであれば、非常な困難と苦しみを経ても従っていかなくてはならないということである。真にキリストに従う者たちは、あのガテ人イタイがダビデに対して披瀝したのと同じ精神をキリストに対していだいているものである。彼は、ダビデが繁栄していたときばかりでなく、逆境に陥ったときも、否、ダビデがついてこなくてよいと云ったときでさえ、ダビデにすがりついて離れなかった。「主の前に誓います。王さまの前にも誓います。王さまがおられるところに、生きるためでも、死ぬためでも、しもべも必ず、そこにいます」(IIサム15:21)。このような精神を、真のキリスト者はキリスト、すなわち霊的なダビデに対していだくのである。

 8. 真のキリスト者には、世に打ち勝つ性質がある。----「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです」(Iヨハ5:4)。しかし世に勝つということには、世のへつらいにも渋面にも、世における苦しみにも困難にも打ち勝つということである。こうしたものこそ世が私たちを征服しようとして用いる武器である。もし私たちがこの中に、キリストのためにでも立ち向かえないような気がするものがあるとしたら、その武器によって世は私たちを屈服させ、私たちに勝利することになる。しかしキリストはご自分のしもべらに、世がどのような形をとろうと世に勝たせてくださる。彼らは、彼らを愛して下さったお方によって勝利者となり、圧倒的な勝利者となるのである。さらにまた、

 9. 主に仕える際に受ける苦しみは、聖書ではしばしば試みまたは試練と呼ばれている。それによって神がキリスト者としての私たちの性格の真摯さを試されるからである。----そのような苦しみを私たちの行く手に置くことで神は、私たちに苦しみを忍ぶ精神があるか試し、あたかも金が純金かそうでないかを火によって試されるように、私たちの真摯さを苦しみによってお試しになる。そして純金が火によって他の卑金属や紛い物から見分けられるように、私たちがキリストゆえの試練や苦しみを甘んじて忍ぶかどうかをごらんになることで、神は私たちが本当に神の民であるか、それとも行く手に何か困難や危険が起こるとすぐ神を捨て、神への奉仕を捨てるような者であるかを見分けなさるのである。こうしたことを念頭に置きつつ、使徒ペテロは手紙を書いたと思われる。「しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります」(Iペテ1:6、7)。「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです」(Iペテ4:12、13)。同じように神は、その預言者によって宣言しておられる。「わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民。』と言い、彼らは『主は私の神。』と言う」(ゼカ13:9)。

 この主題の適用として、

 1. 自分をキリスト者と思う者は、キリストのためにあらゆる苦しみを忍ぶ精神があるかどうか自分を吟味してみるがいい。----苦しみに甘んじる精神がこれほど聖書で重要視されているからには、自分にそうした精神があるかどうか吟味することは、だれにとっても意味あることである。あなたは、主に仕える上で、他の多くの人々が経てきたような、非常に苛酷な苦しみを伴う試練は受けていないかもしれない。それでも、神の摂理によって、それ相応の試練は受けているはずである。あなたがどのような精神をしているか、果たして苦しみに甘んじ、キリストを捨てるくらいなら自分の安楽や安逸や利益を捨てようとする心持ちがあるかどうかが、はっきりわかるだけの試練は受けているはずである。キリスト教を告白するあらゆる人、特に試練の時代に生きる人を、そうした種類の試練で訓練すること、それが摂理のはからいによって神が普通なさるやり方である。そのため神は、彼らの行く手に彼らの心根を明らかにするような困難を置き、自分を捨てる精神があるかどうかをはっきりさせる。迫害にさらされているキリスト者は、キリストを捨てず、彼に忠実であろうとするとき、しばしば評判を悪くしたり、冷たい仕打ちを受けたり、外的な安逸や安楽さを失ったりするという、多くの困難に直面して苦しまなくてはならない。あるいは財産を失ったり、仕事上の困難に陥って苦しんだり、いやでいやでたまらない多くのことをさせられたり、ことによると自分にとって一番恐ろしい目に遭わされる。あなたは、自分がそのような試練に陥ったとき、あなたの大いなる主にして贖い主なるお方に少しでも不忠実であるよりは、むしろ何が身にふりかかろうとも辛抱しようという精神があっただろうか? だが、この点についてあなたはより深く自分を吟味すべき必要がある。なぜならあなたは死ぬまで、自分が他のキリスト者たちが受けてきたような迫害の試練に遭わないとは云えないからである。あらゆる真のキリスト者には殉教者精神がある。だがもしあなたに、神があなたに送られた、ほどほどの試練においても苦しみに甘んじようとする精神がないとしたら、古の聖徒らが耐え忍ぶように召されたような苛烈な迫害に、神によってさらされたならどうなるのか? もしあなたが小さなことでも試練を辛抱できないとしたら、すべてをがまんする愛があるなどとどうして云えよう? 別の場合において預言者が云うように、「あなたは徒歩の人たちと走っても疲れるのに、どうして騎馬の人と競走できよう。あなたは平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせよう」(エレ12:5)。また、この主題は

 2. キリスト教を告白するあらゆる人に対して、主に仕える上で受けるすべての苦しみを、キリストのために甘んじて忍ぶ精神をいだくよう命じている。そしてここで考えなくてはならないのは、

 第一に、キリストのために苦しみに甘んずる精神を持ち、実際に苦しんでいる人々が、聖書の中でどれほど幸いな人と語られているか、ということである。キリストは云われる。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから」(マタ5:10-12)。「いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです」(ルカ6:21-23)。また、「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです」(ピリ1:29)。「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです」(ヤコ1:12)。「いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです」(Iペテ3:14)。そして新約聖書は、これらに似た表現で満ちている。それらすべては、私たちをキリストのために苦しむ生き方へ歩み出すのを励ましてくれるであろう。またもう1つ考えなくてはならないのは、

 第二に、キリストのために甘んじて苦しみを受ける人々に対して、死後いかに栄光あふれる報いを授けると神が約束しておられるか、ということである。彼らは「いのちの冠」を受けると云われている。またキリストの約束によれば、主の御名のゆえに家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者たちは、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぐのである(マタ19:29)。他の箇所でも同じことが書かれている。キリストのために苦しんでいる人々は、神の国にふさわしい者とされる(IIテサ1:5)。また、もし私たちがキリストとともに耐え忍んでいるなら、キリストとともに治めるようになる、との言葉は信頼すべき言葉である(IIテモ2:11、12)。さらにまた、もし私たちがキリストと苦難をともにしているなら、栄光もともに受ける(ロマ8:17)。それだけでなく私たちには、世に打ち勝ち、世に対して勝利をおさめる者に対する、最も輝かしい数々の約束がある。----キリストは云われる。「勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう」。「勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない」。「わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える」。「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう」。「また、彼に明けの明星を与えよう」。「勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす」。「勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上に……わたしの新しい名を書きしるす」。「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである」(黙2:7、11、17、26、27、28; 3:5、12、21)。確かにこれほど豊かでふんだんな約束が与えられている以上、私たちはキリストのためすべての苦しみを甘んじて忍ぶようになるであろう。そのキリストこそ、そうした苦しみすべてに対して、これほど栄光と誉れに富む報いを私たちに与えてくださるのである。そしてもう1つ考えなくてはならないのは、

 第三に、いかに聖書の中には、キリストのために苦しんだ人々のほむべき模範が満ちあふれているか、ということである。詩篇作者は、彼がいかに敵と復讐者からそしられ、ののしられて苦しんだかを語った後で云う。「これらのことすべてが私たちを襲いました。しかし私たちはあなたを忘れませんでした。また、あなたの契約を無にしませんでした」(詩44:17、18)。また、「高ぶる者どもは、ひどく私をあざけりました。しかし私は、あなたのみおしえからそれませんでした。……私を迫害する者と私の敵は多い。しかし私は、あなたのさとしから離れません。……君主らは、ゆえもなく私を迫害しています。しかし私の心は、あなたのことばを恐れています」(詩119:51、157、161)。また預言者エレミヤは、死の脅かしを受けても、神のために大胆に語った(エレ26:11、15)。そしてシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、燃える炉に投げ入れられると知っていながら、バビロン王が立てた金の像をひれ伏して拝むことを拒んだ(ダニ3)。ダニエル自身、獅子の穴に投げ込まれると知りつつ、神に向かって忠実に祈ることをやめなかった(ダニ6)。しかし、これ以上、使徒たちや預言者たち、殉教者たちや聖徒たち、そしてキリストご自身のことまで語っていたら、時がいくらあっても足りないであろう。これらの人々はみな同じように、好評を博するときも悪評を受けるときも、苦しみを受けるときも試練に遭うときも信仰を守り、自分のいのちを惜しまず、最後まで忠実であった。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」(ヘブ12:1、2)。「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」[黙2:10]。

愛は信仰の試練をいとわず[了]

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