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11. 真の恵みは聖い生活へ至る

「愛は……不正を喜ばずに真理を喜びます」 Iコリ13:6

 本節に先立つ2つの節で、使徒は、愛から生ずる多くの麗しい実に言及し、愛がいかに多くの具体的な点において気高いふるまいに至らせるものであるかを示してきたが、ここでは、それらをふくむ愛の素晴らしい性質のすべてを、一気に要約している。すなわち愛は、その能動的な行ないという点から云えば、「不正を喜ばずに真理を喜」ぶのである。あたかも彼はこう云うかのようである。「これまで私は、愛によって至らされる多くの気高いことについて言及してきた。また、いかに愛が、多くの悪しきことと相容れないものであるかを示してきた。しかし、これ以上あれこれ数え上げていく必要はあるまい。一言で云って愛とは、人の生活と生き方におけるあらゆる悪しきものと相容れず、あらゆる良きものへと至らせるものだからである。----愛は、不正を喜ばずに、真理を喜ぶのである」、と。

 ここで語られる「不正」とは、人の生活と生き方におけるあらゆる罪深いものを指していると思われる。また「真理」とは、人の生活におけるあらゆる良きもの、すなわち、キリスト者の聖い生き方にふくまれるあらゆるものを指していると思われる。聖書の中で、真理という言葉は、実に様々な意味で用いられている。それは、あるときは、キリスト教の正しい教理を意味する。あるときは、そうした教理に関する知識を意味する。またあるときは、誠実さや忠実さを意味する。そしてさらにあるときには、聖書中のすべての偉大な真理を知って受け入れることと、そうした真理に自分の生活と行動を合わせていくこととの両方をふくむ、あらゆる美徳や聖潔を意味する。この最後の意味において、この言葉が使われているのが、使徒ヨハネの次のような一節である。「兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいるその真実[原語では、真理]を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます」(IIIヨハ3)。「真理」という言葉をそのような意味にとった上で、この命題を一般化して語るなら、この聖句の指し示していることは、次のような教理として述べることができよう。すなわち、

 キリスト者が心のうちに有する真の恵みはみな、人を聖い生活へ至らせる、ということである。

 否定的には、使徒は、愛があらゆる邪悪さ、あらゆる悪しき生き方と正反対であると宣言し、肯定的には、あらゆる義と聖い生き方へ至らせるものだと宣言するのである。さて、この原則は一般化して語れることであり、また、すでに愛とは救いに至る真の恵みすべての精髄であると示しておいたので、ここに述べた教理----すなわち、キリスト者の有する真の恵みはみな、人を聖い生活へ至らせる----は、明らかにこの節の言葉から読みとれると思われる。もしだれかが、恵みとは心の中に放り込まれた何かであって、心に押し込められたまま休眠状態を続け、自ら働きかける何かとして人間全体を支配するような影響力など全く持ち合わせていない、と考えているとしたら----あるいは、恵みによってもたらされる変化は、確かに心そのものを向上させはしても、内側の恵みに対応するような良い影響を外的な生活に及ぼすようなことは全くない、と考えているとしたら----、それは非常に誤った考え方である。なぜそう云えるか、その理由の説明として私は、まず第一に、上で述べた教理を支持するいくつかの議論をあげてみようと思う。第二に、その教理の正しさを、個々の恵みに即して示してみようと思う。

 I. 心のうちなる真の恵みはみな聖い生活へ至らせる、という教理を支持するいくつかの議論

 1. 聖い生き方は、あらゆる真の恵みが授けられる第一の根拠たる、永遠の選びの目的である。----聖い生き方は、アルミニウス主義者の考えるような、選びの根拠でも理由でもない。神が人を永遠のいのちへと選ぶのは、彼らの良い行ないを予見してのことではない。しかし、聖い生き方は選びの目的であり、目当てである。神は、人々が聖くなることを予知して彼らを選ぶのではなく、人々を聖くするため、また人々が聖くなるためにお選びになるのである。それゆえ、選びにおいて神は、人々が良い行ないに歩むようお定めになられた。使徒は云う。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです」(エペ2:10)。また、神の民が選ばれたのは、まさにそのためであったと云われている。「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」(エペ1:4)。同じようにキリストも弟子たちに告げておられる。「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため……です」(ヨハ15:16)。さて神の永遠の選びは、人が救いに至る恵みを授けられる第一の根拠である。ある者がそうした救いの恵みを持っており、別の者が持っていない理由は、一人は神によって永遠の昔から選ばれており、もう一人は選ばれていないことによる。ということは、聖い生き方が、人が恵みを授かる第一の根拠たるものの目標であり目当てである以上、疑いもなく恵みそのものによって、その聖い生き方は至らされるはずである。さもないと、ある特定の目的を実現するために神がお用いになる手段が、その目的を実現するには力不足で役に立たない、などということになるであろう。同じように云えることは、

 2. 恵みを勝ち取る手段たる贖いもまた、同じ目的をめざしている、ということである。----キリストによって成し遂げられた贖いは、今恵みを有している人々すべてに恵みが授けられた第二の根拠である。キリストは、その功績----この世で行ない、苦しまれた大いなる功業----により、恵みと聖潔をご自分の民のために勝ち取られた。主は云われる。「わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです」(ヨハ17:19)。さてキリストがこのように選びの民を贖われ、彼らのための恵みを勝ち取られた目的は、彼らが聖い生き方をするためであった。彼がご自分の死によって彼らを神と和解させたのは、彼らを悪い行ないから救い出し、彼らがその生き方において聖く、傷ない者となるためであった。使徒は云う。「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした」(コロ1:21、22)。御使いがヨセフに現われたとき、彼は、マリヤから生まれる子はイエス、すなわち救い主と名づけられなくてはならないと告げられた。なぜならその方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方だからであった(マタ1:21)。生活の聖さは、贖いの目的であると宣言されている。「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした」(テト2:14)。それでキリストが死なれたのは、「生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるため」であると告げられているのである(IIコリ5:15)。キリストが、傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったのは、その血によって私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とならせるためであった、とも述べられている(ヘブ9:14)。

 旧約の歴史の中で、神の愛による贖いのみわざを最も驚くべきかたちで象徴しているのは、出エジプトにおけるイスラエル人の贖いであった。しかし、その贖いにおいて神が目ざしておられた目的は、ご自分の民が聖い生き方をするようになることであった。それは、神がモーセとアロンを通して、幾度となくパロに語られたおことばのうちに示されている。「わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ」。新約聖書の中でも、これと同じような表現がキリストの贖いに関して使われている。「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなさ……れた。……主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される」(ルカ1:68-75)。これらはみな、私たちが聖くなることこそ贖いの目的であることをきわめて明白にしている。さらにまた云えるのは、

 3. 有効召命、すなわち、魂の内側で最初に行なわれる恵みのわざたる、あの救いへ至る回心もまた、同じ目的をめざしている、ということである。----神は、ご自分の御霊により、またご自分の真理を通して、召し出し、目覚めさせ、確信させ、回心させ、恵みの実行へと導かれたすべての人々に力強く働きかけ、従う心を起こさせられる。その目的は、彼らが聖い生活を実行するようになるためである。使徒は云う。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです」(エペ2:10)。また使徒がキリスト者となったテサロニケ人に告げているのは、神が彼らを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためだということである(Iテサ4:7)。また、次のように書かれている。「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい」(Iペテ1:15)。これと同様に云えるのは、

 4. 心のうちのあらゆる真の恵みに内的に伴う、あの霊的知識と理解力もまた、聖い生活に至らせるものである、ということである。----真の神知識および神に関する事柄の知識とは、実際的な知識である。宗教的な事柄についての、単なる思弁的な知識であれば、多くのよこしまな人々も相当のものを獲得してきた。人は非常に博学であるかもしれない。それも、神学的知識や聖書知識、宗教に関する事柄の知識において博覧強記であるかもしれない。また神の諸属性やキリスト教の教義について理路整然と論ずることができるかもしれない。それにもかかわらず、彼らの知識が救いに至る知識となれない理由は、一にそれが思弁的知識にすぎず実際的知識でないことにある。神に関する事柄を正しく、また救いに至るものとして知っている人は、聖潔の麗しさ、聖潔に歩むすべての道の麗しさを理解している。なぜならその人は神の美しさ麗しさを理解しており、神の美しさ麗しさは神の聖さに存しているからである。そして、これと同じ理由でその人は、罪の厭わしさ、罪を歩むすべての道の厭わしさを理解している。そしてもし人が罪の道の厭わしさを知っているとしたら、そうした道を避けるようになるのが当然である。またもし人が聖潔の道の愛すべきことを理解しているとしたら、そうした道を歩むように仕向けられて当然である。

 神を知る者は、神こそ人が服従すべきお方であると理解している。パロが神に従わなくてはならない理由を理解できなかったのは、神がどのようなお方であるか知らなかったためであった。だから彼は云うのである。「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。イスラエルを行かせはしない」(出5:2)。これこそ、邪悪な者らが不正を働き、悪を実行し、あれほどよこしまにふるまう理由とされている。彼らには霊的知識が何もないのだ、と詩篇作者は云う。「不法を行なう者らはだれも知らないのか。彼らはパンを食らうように、わたしの民を食らい、主を呼び求めようとはしない」(詩14:4)。また神はイスラエルの民に向かって、真の神知識がいかなるものかを説明なさるとき、その具体的な実をあげておられる。真の神知識は、聖い生活に至らしめるのである。「彼はしいたげられた人、貧しい人の訴えをさばき、そのとき、彼は幸福だった。それが、わたしを知ることではなかったのか。----主の御告げ。----」(エレ22:16)。同じように使徒ヨハネが私たちに教えているのは、キリストの戒めを守ることこそ、私たちがキリストを知っているという、まごうことなき結果だということである。そして彼は、キリストを知っていると云いながらその命令を守らない者に、はなはだしい偽善者であり嘘つきであるとの烙印を押している(Iヨハ2:3、4)。もし人に霊的な知識と理解力があるなら、その人は澄んだ心の持ち主となる。「心の冷静な人は英知のある者」(箴17:27)。そのような澄んだ心は、それに応じたふるまいへと至るはずである。このことを、やはり同じように明らかにするのは、

 5. 恵みの原理そのものをより直接的に考察することである。そのときキリスト者の恵みはみな生き方へと至るものであることがわかるであろう。----さてここで、

 第一に、キリスト者の真の恵みがみな生き方へと至るものであると思われるのは、その直接的な座たる精神機能が意志の機能であり、意志こそ人間の行為と生き方のすべてをつかさどる機能だからである。恵みの直接的な座は意志、または意向のうちにある。そしてここから、真の恵みがみな生き方へ至ることがわかる。なぜなら、ある人の行為のうち、厳密な意味でその人の生き方に属すると、あるいは生き方の一部であると云えるものは、いかなる点においても、その人の意志につかさどられたもの以外にないからである。私たちがある人の生き方についてとやかく云うとき、私たちが考えているのは、その人が自由意志をもって、自発的に行動したことだけである。あるいは----同じことだが----、その人が自分の意志行為によって行なうことだけである。このように、ある人の生き方全体は、意志という精神機能によって方向づけられているのである。肉体的行為であれ精神的行為であれ、人が何かを行なう力はみな、意志機能の支配下にある。これは人間をお造りになったお方、そして私たちの存在の偉大な創始者であられるお方の定めによることである。わき水の源が、そこから流れ出る小川の源泉であるのと全く同じように、意志は生き方の源泉である。それゆえ、もし真の恵みの原理がこの精神機能のうちに座しているとすれば、それは必然的に生き方へと至らされるに違いない。わき水が、その源泉から流れ出て小川とならざるをえないのと同じである。

 第二に、恵みを定義するなら、それは聖なる行為の原理である。恵みとは、聖潔の原理、すなわち心のうちにおける聖い原理以外の何であろうか? しかし「原理」という言葉は、「何々の」原理という形で、必ず何かと関係したものである。ではもし恵みが原理であるとしたら、行為の原理以外の何の原理であろうか? 原理と行為は、互いに関係せざるをえない。それゆえ、いのちの原理という観念そのものが、生活の中で働く原理であることを示している。だから、私たちが理解の原理と云うとき、それは理解という行為が実行に移される原理を意味している。また罪の原理とは、罪の行為が実行に移される原理のことを指している。それと同じく、私たちが恵みの原理と云うとき、それは恵みの行為、すなわち恵み深い行動が実行に移される原理のことを意味しているのである。恵みの原理と生き方との関係は、木の根とその根から生え出た植物との関係と同じである。もしそこに根があるとしたら、それは必ず「何かの」根のはずである。その根からすでに生え出ている何かの根であるか、これから芽吹き出すはずの何らかの植物の根である。何の根でもない根、などについて語るのはばかげている。そのように、生き方における恵みにつながらないような恵みの原理について語るのもばかげた話である。

 第三に、現実の実体を持つものと、見かけだけの影にすぎないものとを区別するもう1つのことは、それが結果を生み出すということである。人影や人物画は、どれほど本物そっくりで真に迫っていようと、またどれほど強そうな人物や、力強い巨人の絵であろうと、何も行なうことができない。それによっては何も引き起こされないし、何事も生じない。それが現実のものでなく、ただの影や肖像にすぎないからである。しかし実質、すなわち実体は、結果を生じさせる何かである。さて人の心の中にあるものも、それと同じである。恵みの見せかけ、あるいは虚像でしかないものは、結果を生み出さない。実体も実質も欠けているためである。しかし、現実の実体を伴ったものは、結果を生みだし、実際に生活の中に何かを生じさせる。言葉を換えれば、それは生き方の中で行動に出るということである。そしてまた、

 第四に、恵みの原理の性質は、いのちの原理、あるいは生きた原理でなくてはならない。このれは聖書の至る所で教えられている。そこでは、心に全く恵みの原理を持たない生来の人は死んだ人と表現されており、恵みを有する人々は生きた人、あるいは内側にいのちの原理を持つ人と表現されている。しかしいのちの原理の性質は、行為と働きの原理たるべきである。死んだ人は何の行為も働きも行なわず、何も生じさせないのに、生きた人々のうちでは日々様々な行為が行なわれ続けることによっていのちが現わされている。彼らは動き、歩き、働き、時々刻々いのちの結果たる種々の行為を行なっている。

 第五に、キリスト者の真の恵みはいのちの原理であるだけでなく、非常に強力な原理である。それでIIテモ3:5には、「敬虔の力」 <英欽定訳> という言葉が用いられているのであり、そこにはキリストが死者の中からよみがえらされたとき働いたような神の力があると教えられているのである。しかし、ある原理が力強ければ力強いほど、それはその目的たる働きと生き方を生み出せるのである。

 このように、心のうちにある真の恵みがみな、現実の生活において聖い生き方へと至らせるものであることを一般的な形で示したので、先に述べた二番目のことに移ろうと思う。

 II. キリスト者の有する個々の恵みもまた、やはり聖い生き方に至らせるものである。----そう云える一番目の恵みは、

 1. 救いに至る真の信仰、すなわち主イエス・キリストに対する真の信仰である。----これこそ、救いに至る信仰と、通り一編の信仰とを際だって区別する点である。真の信仰とは、行ないを伴う信仰である。逆に偽りの信仰とは、実を結ばず、働くことのない信仰である。それゆえ使徒は、救いに至る信仰のことを「愛によって働く信仰」と述べる(ガラ5:6)。また使徒ヤコブは云う。「こう言う人もあるでしょう。『あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます』」、と(ヤコ2:18)。しかし、より具体的に云うと、

 第一に、救いに至る信仰の中に含まれている理解と判断とにおける確信は、聖い生き方に至らせるものである。真の信仰を持つ人は、キリスト教の主要教理が現実のことであり、偽りないものであると確信している。そのように確信する人には、そうした教理が大きな影響を及ぼし、その行為とふるまいを支配するであろう。もしもある人が、自分の利害と密接に関わる何か重大な知らせを受けたとしても、その知らせを信じなかったなら、たいして気にもとめず、自分の聞いたことで行動を変えたりするまい。しかしもしその知らせを本気にし、確かだと思うなら、その人のその後の行為はその知らせの影響を受けるであろう。その知らせを見込んで行動を変えるであろうし、何も聞かなかったときとは非常に異なるふるまいをするであろう。自分に関わる重大なことを本気で受けとめた人はだれでもそうするものであり、これは私たちが始終見聞きするところである。もしある人が自分に関わる重大な知らせを聞いたのに、その生き方を全く変えないとしたら、たちどころに私たちは、その人はそれを本気にはしなかったのだと結論する。なぜなら、人間はその性質上、自分の信じ、確信していることによって行動を左右するものだと知っているからである。これと同じく、もし人々が福音によって聞いたことを真実であると本当に確信するなら----すなわち、永遠の世界と、キリストが受け入れる者すべてのために勝ち取られた永遠の救いとについて本当に確信するなら----、それは彼らの生き方に影響を与えるであろう。彼らは自分たちのふるまいを、そうした信条に従ってきちんと整え、この永遠の救いを手に入れることができるような行動をとるようになるであろう。もし人々が福音の約束に含まれた一定の真理を確信するなら----永遠の富、栄誉、快楽の約束を確信するなら、またそれらがこの世のあらゆる富、栄誉、快楽にはるかにまさって尊いものだと本当に信じているのなら、彼らはそれらのためにこの世のものを捨てるであろうし、必要とあれば、すべてを売り払ってもキリストに従うであろう。もし彼らが、キリストが本当にこれらをご自分の民に授けてくださるとの約束が真実であると完全に確信しているなら、またもしこれらがみな真実であると思っているなら、それは彼らの生き方に影響を与え、それに応じた生活をさせるであろう。彼らの生き方は彼らの確信に従ったものとなるであろう。人間の性質そのものが、そうさせずにはおかない。もしある人がだれかから、1ポンド手放すなら一千ポンドをあげようと云われたなら、そしてこの約束が本当であると完全に確信するなら、その人は後者を獲得するために喜んで前者を手放すであろう。これと同じように、キリストには人をあらゆる悪から解放し、人の必要とするあらゆる善を授ける力が十二分にあると確信する人は、これらすべてを差し出している約束によってその生き方に影響を受けるであろう。そのような人は、そうした確信を現実にいだき続けている間は、普通なら途方もない災難を身に招くと思われるような事態にあっても、キリストを信ずることを恐れないであろう。キリストには彼を救い出すことがおできになると確信しているからである。また同じように彼は、地上的な幸福をつかむための、それ以外の手段を捨て去ることも恐れないであろう。キリストおひとりだけが、必要なすべての幸福を授ける十二分の力をお持ちであると確信しているからである。そしてまた、

 第二に、救いに至る信仰の中にある意志の行為は、聖い生き方に至らせるものである。自分の意志行為によってキリストを救い主として真実に受け入れた人は、キリストをからの救い主として受け入れているのであって、単に罪のからの救い主としてだけ受け入れているのではない。しかし、キリストを罪からの救い主、罪深い生き方からの救い主として心から受け入れた人は、例外なく、心においても生活においても、罪のあらゆる道を捨て去ろうという真摯な願いと志を持つものである。なぜなら、罪と手を切りたいと望みもしない人が、自分と罪の手を切らせるための救い主としてキリストを受け入れたいと望むようなことはありえないからである。またそれと同様に、生きた信仰によってキリストを受け入れる人は、自分を支配し統治する主にして王としてのキリストに応答しているのであって、単に自分の贖いをしてくれる祭司としてのキリストにだけ応答しているのではない。しかし王としてのキリストを選び、キリストに応答するということは、キリストの律法に服従し、キリストの権威と命令に従うと云うことと同じである。そしてこのことを行なう人は、聖い生活を送るのである。

 第三に、救いに至る信仰の中に含まれている神への真の信頼はみな、聖い生き方に至らせるものである。ここにこそ、真の信頼とあらゆる偽りの信頼との違いがある。神に信頼すると云いながらしまりのない歩みを続けることを、聖書は、神を試みることであると云う。また神に信頼すると云いながら罪の生き方を続けることは、思い上がりと呼ばれ、みことばの中で厳しく警告されている。しかし、真に正しい心で神を信頼する者は、勤勉と聖潔の道を歩みつつ神を信頼する。あるいは、----同じことだが----聖い生き方をしつつ信頼する。他者を信頼するという観念自体、心においても思いにおいても、四の五の云わずに相手の力と誠意を完全に確信して安んずる、または生きる、ということであり、その相手を信じて危険な行動をすることも全くいとわないということである。しかし他者の力と誠意への確信に立った生き方や行為を行なわない人々は、そんな危険は冒さない。彼らは、そうした確信に基づく行為や行動に乗り出そうとはせず、もちろん何の危険を冒そうともせず、それゆえ本当に信頼しているとは云えない。本当に他人を信頼していれば、その信頼に立って危険を冒すものである。これは真に神を信頼する人々も同じである。彼らは、神が十分な力をお持ちの忠実なお方であるという完全な確信のうちに安んじているので、この確信によって神に従う歩みを始め、必要とあらば神のため困難や艱難に耐えることにも甘んずる。なぜなら、そのような道を通っても決して損にはならないと、神が約束しておられるからである。また彼らはこのことを堅く信頼しているので、神の約束に立って危険を冒すことができ、また現実に危険を冒す。逆に、そのように危険を冒すことから尻込みする人々は、自分が完全には神に信頼していないことを示している。生きた信仰に含まれる、神への完全な信頼を有する人々は、自分の財産を神にゆだねることも恐れない。これは人を信頼する場合でも同じである。もし私たちが完全に信頼している人々が私たちにいくらか借りたいと云い、それは後で返す、百倍にして返す、と約束するとき、私たちは危険を冒すことを恐れないし、現実に危険を冒す。それと同じように、神への完全な信頼を感じている者らは、主に貸すことを恐れない。また同じように、もし私たちが神に信頼しているなら、私たちは神のためにどのような労苦や戦い、警戒や苦難、そしていかなることを行なうことをも恐れないであろう。というのも神は、そうしたことへの報いとして、私たちが義務を果たす際に経験するあらゆる損失や困難や悲しみを無限に補ってあまりあるものを与えてくださると、ふんだんに約束しておられるからである。もし私たちの信仰が救いに至るものなら、それは私たちに、神のご性格とそのもろもろの約束を完全に信頼させ、実際に神により頼んで危険を冒すように仕向けるであろう。さて、信仰がそれ自体において、また信仰に含まれているすべてのことにおいて、聖い生き方へ至らせるものであるように、同じことは、

 2. 神に対する真の愛すべてについても云える。----愛は、能動的な原理である。この世のことで私たちの目につく愛はみな、常に能動的な原理である。私たちの同胞に対する愛は、常に私たちの行為や生活に影響を及ぼしている。世間のあらゆる営みは、日々、また年々歳々、主として何らかの種類の愛によって動かされ続けている。金銭を愛する者は、金銭愛によってその生き方に影響を受け、金銭愛によってその絶えざる富の追求を続ける。名声を愛する者は、その名声への愛によって生き方を支配され、その名声欲が全生活を通じての行為を規定する。そして、肉的な快楽を愛する者らがその生き方において、いかに勤勉にそうした快楽を追求することか! さてそのように、神を真に愛する者もまた、その愛によってその生き方が影響される。彼はその生活全般の中で絶えず神を求める。神の恵み、神に受け入れられること、神の栄光を求める。

 理性によって考えても、ある人の行為こそ、その愛をはかる最も厳正な試験であり証拠である。だから、もしもある人がだれかに非常な愛と友情を感じていると公言していても、このような場合、理性があらゆる人間に教えるように、その人が言葉通りの本当に愛情のこもった友人かどうかを示す最も厳正な証拠は、その人が言葉だけでなく、行ないにおいても友人らしくふるまうかどうかである。またその人が友人のために、必要とあれば自分の楽しみを犠牲にしたり、友人に親切にしてやるためには個人的な利益を損なうこともいとわないかどうかである。ある人が、口をきわめて自分の愛情と友情を公言していたとしても、賢い人なら、その言葉が行ないによって試され、証明されるのを見るまでは、それを信じないであろう。相手がその行動によって、どんなときにも忠実な友であること、自分のためなら何でも行ない、どんな苦しみにも耐えてくれることがはっきりするまでは、信じないであろう。人はこのような証拠に立ってこそ他人の愛情を信頼するのであり、どれほどの大言壮語や、どれほど厳粛な誓いですら、それなしには信用しないものである。これと同様に、もしある人が、その不断のふるまいにより、神のために労をいとわず進んで骨折っている姿を示しているとしたら、理性は私たちに教えるであろう。そのことによってその人は、神への大きな愛を心で感じていると口先だけで告白するよりもはるかに頼りになる証拠を神への愛について示している、と。また同様に、もしある人が、キリストに従い、キリストにならい、キリストの栄光と世におけるその御国の発展のために大いに労していることとをその生活に示しているとすれば、理性は教えるであろう。その人は、単に口先だけで、私は救い主を愛しています、いついつの時に彼への愛に感動するのを感じました、などと語りながら、いざキリストのため何か大きな事をする段になると尻込みしたり、御国の進展のための骨折りをしぶりがちだったり、救い主のための積極的な奉仕や自己否定に召された場合にやたら弁解がましい態度をとったりする人よりも、救い主に対する自分の愛の誠実さと力について、はるかに大きな証拠を示している、と。

 神に対する真摯な愛を実践するしかたには色々あるが、それらはみな聖い生き方に至らせるものである。その1つは、神を高く尊重するということである。私たちは自分の愛するものを高く尊重し、当然その尊重する思いを自分のふるまいに表わすものである。神に対する私たちの愛を示すもう1つのしかたは、他のすべてのことにまさって神を選択するということである。そしてもし私たちが本当に真摯に他のすべてのことにまさって神を選択しているのだとしたら、現実の生き方においても、他のことにまさって神を選び取る行動を実際にとるであろう。生活をしていく中で、神と私たちの栄誉、神と私たちの金銭、あるいは神と私たちの安楽が目の前に置かれて二者択一をせまられるとき、もし私たちが本当に神の他の何物にもまさって選んでいるのだとしたら、私たちは自分の現実の生き方においても、神を選びとり、他のものは手放すであろう。神への愛を発揮するもう1つのしかたは、私たちが神を求めることである。これもまた聖い生き方に至らせるものである。本当に神を熱心に求める人は、神を求める思いで心が活発にかき立てられるであろう。それは、人々が、自分の手が届くと思える何らかの良きことを熱心に求めているとき、この世に対してそうするのと同じく、自分の本分としてそのことに身を入れるであろう。さらに私たちが神への愛を発揮する別のしかたは、神を喜ぶこと、そして神のうちに満足と幸福を見いだすことである。これも聖い生き方に至らせるものである。他の何物にもまさって本当に、また真摯に神を喜ぶ人は、他のことのために神を捨てたりしない。このようにして彼は、そのふるまいによって自分が自分の相続分としての神に実際に満足していることを示すのである。これはどんな場合についても同じである。もし私たちが何らかの財産を楽しんでいたのに、後になって他のもののためにその財産を捨てたとしたら、それは私たちがそれには完全に満足していなかったという、また他の何物にもまさってそれを喜んでいたのではないという証拠である。 これらすべての場合において、その感情と選択は実際の行動になって現われる。

 3. 救いに至る悔い改めはみな、聖い生き方に至らせるものである。----新約聖書の原典において、「悔い改め」と普通訳されている言葉は心の変化を意味する。人々が罪を悔い改めると云われるのは、罪に関してその心を変えるとき、また、確かに以前は罪を尊び肯定していたとしても、今は全く罪を非とし、嫌っているというときのことである。しかしそのような心の変化は、それに応じて生き方の変化へと至らなくてはならないし、実際に至るものである。このことは、他のことでもあまねく同じことである。もしも何らかの趣味か事業に従事していた人が、そのことについて気を変えたとしたら、それ以来その人は生き方を変えて、それまでの趣味や事業、生活様式をやめ、何か別のことに従事し出すであろう。罪への悲しみは、救いに至る悔い改めに属する1つのことである。しかし罪への悲しみが徹底的で真摯なものであるなら、それは生き方において罪を捨てることへと至らせるであろう。これはどんなことについても同じである。もしある人が長い間ある1つの習慣またはふるまいをし続けてきていて、後になってそのようなことの愚かしさや罪深さを確信したなら、またそのため心から悲しみ嘆くなら、その自然で必然的な効果として、今後はそのことを避けるであろう。もしその人が以前と全く変わらずそのことをし続けていくとしたら、その人が過去においてそのことをし続けてきたことを心から悲しんでいると信ずる人は一人もいまい。また、

 4. 真のへりくだりはみな、聖い生き方に至らせるものである。----へりくだりは聖書の至る所で勧められ、強調されている恵みであり、真のキリスト者経験を偽の経験から区別するものとしてしばしば語られるものである。しかし心のうちにおけるこの恵みには、聖い生活へと至らせる直接的な効果がある。へりくだった心はへりくだったふるまいへと至らせる。自分の小ささ、取るに足らなさ、はなはだしい無価値さを痛感する人は、そう感じることによって、神と人との前で、それに応じた態度をとるようになるものである。かつては高ぶった心の持ち主で、その行動を高慢に支配されていた人が、もしへりくだった心の持ち主に変えられたならば、必然的にそのふるまいにも違いが出てくるであろう。その人からは、もはやかつてのような高飛車で、他者を馬鹿にしきった、野心満々な態度はかげをひそめる。何としてでも他人の上にのし上がろうとし、そのためにはどんな手でも使い、何かあればすぐ他人の非を鳴らし、自分が人からほめそやされるのを邪魔する者らに向かって不満を、否、敵意をすらいだく態度が見られなくなる。なぜなら、変えられる前のその人にあったそのようなふるまいを生じさせていたのは心の高慢だからである。それゆえ、もし今やこの心の高慢に大きな変化が生じ、それが抑制され、魂から払いのけられ、その後釜にへりくだりが植えつけられているとしたら、その人の態度や生活にも変化が生ずるのは確実であろう。なぜなら心のへりくだりとは、心の高慢と同じくらい強く実際行動へと至らせる原理だからである。それゆえ、もしも後者が抑制され前者がその後釜に座ったなら、後者から発していた高慢な行動はその分だけなくなり、前者の自然な結実であるへりくだった行動が明らかになっていくのである。

 キリスト者における真の心のへりくだりはまた、人を神のみこころに従う心に至らせ、神が災厄をお送りになっても忍耐強く、神の聖なる御手に服従する者とし、神に対する深い尊崇の念で満たし、最高の敬意をもって神の事柄を扱わせるよう導くものである。これはまた、人々に対する柔和なふるまいへも至らせ、下位の者には丁寧にふるまわせ、上位の者を尊敬させ、すべての人に対して優しく、穏やかで、気さくで、利己的でなく、ねたみ深くない者とし、自分の置かれた状態に満足させ、平静な心を保たせ、人の悪を恨まず、赦しの心で満たすよう仕向けるものでもある。確かにこれらは聖い生き方に属する特徴に違いない。またさらに、

 5. 神への真の恐れはみな、聖い生活に至らせるものである。----聖書において、神への恐れという言葉の主たる意味は、神に対して罪を犯すことで神の怒りを招かないようにしたい、という聖なる憂慮と危惧である。さて、もしある人が神の怒りを招くことを本当に恐れていて、神に対して罪を犯すことを不断に危惧しているとしたら、確かにその人は神に対して罪を犯すことを避けるようになるに違いない。人は自分の恐れることを避けるものである。たとえば、もしある人が自分は毒蛇が怖くてたまらないと公言しているのに、毒蛇から身を遠ざけるようすが全く見られず、全く物怖じせずに毒蛇をそばに置いておくようなことがあったとしたら、だれがその人の言葉を信ずるだろうか? 神を恐れることと、神のすべての戒めを守り行なうこととは、申28:58にあるように、互いから必然的に生ずるものとして1つに結び合わされたことである。「もし、あなたが、この光栄ある恐るべき御名、あなたの神、主を恐れて、この書物に書かれてあるこのみおしえのすべてのことばを守り行なわないなら」。また創42:18に見られるように、ヨセフは、自分が兄たちに向かって正しく、あわれみ深いふるまいをとる理由は、神を恐れているためであると説明した。また箴8:13には、「主を恐れることは悪を憎むことである」、と書かれている。ヨブは自分が罪を避けてきた理由をこう云う。「神からのわざわいは私をおびえさせ(る)……からだ」(ヨブ31:23)。そして神ご自身、ヨブを「悪から遠ざかっている者」(ヨブ1:8)として語る際には、その根拠また理由として彼が神を恐れていることに言及しておられる。そしてどのような人も、神への恐れに支配されている限り、その恐れが罪を避けさせ、聖さを求めさせるであろう。また、

 6. 感謝と賛美の精神は、聖い生き方へ至らせるものである。----神への真摯な感謝は、やはり私たちをして、受けた恩恵に従って報わせる。恩返しは、私たちが自分の同胞に対する真の感謝と謝意を覚えている確かな証拠とみなされるものである。もしだれかが隣人から何か著しい親切を施され、そのことに本当に感謝するとしたら、機会の許す限り、そのお返しに喜んで相手に善を報いるであろう。さて私たちは、神に利益になることを何か行なうことで、私たちに対する神の親切を要求することはもちろんできない。だが、それでも感謝の念から私たちは、自分にできる限りの、神に喜ばれ受け入れられること、神のご栄光を明らかに示すだろうことを行なうよう仕向けられるであろう。たとえばある人が、何かたいへんな窮地に陥っているか、何かむごたらしい死を迎える危険のうちにある人を見て、あわれみの心を発し、その心につき動かされて相手を守り、救い出してやるために非常な骨折りをし、たいへんな艱難辛苦をも忍んで、実際に相手を救出したとする。しかし、もし後者が自分の救出者に非常な感謝の意を表したとしても、その行為と行動のありかたにおいて、相手に反対し、その栄誉を汚し、軽蔑を投げかけ、非常な損害を与えるとしたら、彼の感謝の意の表明をまともに受け取る人はどこにもいないであろう。もし本当に感謝しているのなら、自分の恩人に対してそのようによこしまなふるまいは決してできないはずである。さてそのように、キリストの死をも賭した愛のため、また自分に対する無限のあわれみと愛のために、真に神に感謝する人は、決して邪悪な生活を送ることができない。その人の感謝の念が真摯なものなら、それは聖い生き方へと至らせるであろう。また同じこととして、

 7. キリスト者のこの世に対する嫌気の念や、天国に対する憧れの念もまた、聖い生き方へ至らせるものである。----私はこの2つを合わせて語ろうと思う。これらはほぼ同じことを、否定的な云い方と肯定的な云い方で表現したものだからである。この世に嫌気がささないということは、この世的な思いをしているということと同じであり、逆にこの世に対して真にキリスト者的な嫌気がさすということは、この世的でなく、天国を憧れる思いをしているということである。さてこの恵みもまた、ここまで述べてきた他のすべての恵みと同じく、聖い生き方へ至らせるものである。もし心が世から引き離されるなら、心はこの世のものを追い求めるのをやめるであろう。またもし心の思いがこの世のものならざる、天のことへと向けられているとしら、私たちは天的なことを追い求めるよう仕向けられるであろう。この世から心を解き放たれた人は、まるで少しでもこの世のものから引き離されるのは耐えがたいというかのように、この世と間近に生活しはしないであろう。もしある人が自分の経験を証しし、自分の心がこの世に嫌気がさすのを感じたときのこと、またこの世がまるで空しいものとしか思えなくなったときのことを告げたとしても、実際の生活において、その人がそれ以前と同じくらい熱烈にこの世を追求しているように見えたり、恵みと神の知識と義務を果たすことにおいて成長するといった天的なことよりも、この世を追求することの方にはるかに熱心に見えるとしたら、その人の告白は、その人の生活にくらべてほとんど重きをおかれないであろう。また同様に、もしその人のふるまいが、天の宝よりも地上の宝を重んじていることを示し、この世、あるいはこの世の一部分を手に入れたとすると、それをひしとかかえこみ、たとえ信仰的あるいは慈善的な目的のためであっても、また神がその千倍のものを天で約束しているにもかかわらず、そのごく小部分でも非常にしぶしぶとしか手放したがらないように見えるとしたら、その人は自分がこの世に嫌気がさしているとか、天のことを世のことよりも好んでいるという証拠をこれっぽっちも示していないのである。その生き方から判断すれば、その人の告白は悲しいほどにむなしいと云うべきであろう。また、同じことが云えるのは、

 8. 人々に対するキリスト者の愛の精神であり、これもまた聖い生き方に至らせるものである。----もし人に対する愛の精神が真摯なものなら、それは愛の生き方と行ないに至るであろう。言葉と口先だけで行ないに現われない愛は、偽善的な愛、真摯ではない愛である。しかし真摯な愛、本当に真実な愛は、使徒が云うように行ないに現われるであろう。「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです」(Iヨハ3:18、19)。兄弟愛は、それが愛ある行ないで明らかにされない限り、何の役にも立たない。「もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう」(ヤコ2:15、16)。

 このことは経験からも明らかである。他者への真摯な愛をいだく人々は、他者のために進んで事を行ない、苦労を引き受ける。親が自分の子どもを愛することに異論を唱える人はまずいない。それは自然なことだからである。またそうした愛は世の中一般に広く行き渡っている。だから人がわが子を愛さないなどということは信じがたいが、それでももし、ある父親が自分の子どもが苦しい目に遭っているのを見ても、その子を助けるために指一本動かさなかったり、普段から自分の子どもたちに何の思いやりも親切も示さず、その子たちの暮らしがどれほど難儀なものであろうと、その子たちに何がふりかかろうと全く無関心のような行動を毎日のようにしていたりしたなら、その人に父性愛のかけらでもあるとは到底信じられないに違いない。わが子に対する愛があれば、自分の子どもたちには愛情深い行ないをするように仕向けられるものである。それと同じように、隣人愛によって私たちは、自分の隣人に対するあらゆる種類の良い行ないをするよう仕向けられるであろう。それで使徒は、律法の第二の板に記されたいくつかの戒めをまとめた後で、こう宣言している。「ほかにどんな戒めがあっても、それらは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』ということばの中に要約されているからです」。また、それに加えて、「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします」、と云う(ロマ13:9、10)。さらに最後のこととして、同じことが云えるのは、

 9. 真の恵みにある希望であり、これも聖い生き方へ至らせるものである。----偽りの希望には、これとは全く逆の傾向がある。それは人を放縦へ至らせる。人の罪深い欲望と情欲を助長し、悪の道を歩んでいる者たちにへつらい、彼らを大胆にする。しかし真の希望は、人を罪に対して無感覚にしたり、自分の義務をないがしろにさせたりするどころか、人を生活の聖さへと奮い立たせ、義務へとかり立て、罪を避けるようさらに注意深くさせ、神に仕えることにおいてより勤勉にならせるものである。「キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします」(Iヨハ3:3)。恵みにある希望にこのような傾向があるのは、希望される幸福の性質からして当然である。それは聖い幸福である。人は、この幸福を追い求めて希望すればするほど、聖くなりたいという思いをかき立てられ、活気づけられる。そしてまた、この希望にこのような傾向があるのは、希望される幸福の創始者のことを考えても当然である。それはこの幸福を神から、受けるに値しない者に対する無限のあわれみの結実としていただくことを希望しているからである。そして、それゆえ、あらゆる感謝の念から、その心は神をお喜ばせすることに関心を持ち、追求するよう仕向けられる。また、この希望にそのような傾向があるのは、この幸福を獲得するための手段ということを考えても当然である。なぜなら真の希望がその待望する幸福を獲得するための手段は、福音の道、すなわち聖い救い主によって開かれ、その救い主に結びついて従う道以外の何物でもないからである。そして最後に、この希望にそのような傾向があるのは、恵みにある希望すべての直接的源泉たるもの、すなわちキリストに対する信仰の影響を考えても当然である。そしてそのような信仰は常に働くものである。愛によって働き、心をきよめ、聖い実を生活に結ばせるのである。

 このように、最初は一般的な議論により、続いてキリスト者の主要な恵みに残らず言及し、個々の恵みに即して考えることによって、心のうちなる真の恵みがすべて聖い生活へと至らせるものであることが示された。それは植物の根に植物本体を成長へ至らせる傾向があり、光には輝くという傾向があるのと同じであって、いのちの原理は生きた人の行動によってその実体を明らかにするのである。

 この主題の適用として私たちは、

 1. 聖書の中でキリスト者の生き方と良い行ないとが、なぜあれほど至る所で、恵みの真摯さを示す証拠として強調されているのか、その大きな理由が1つわかる。----キリストが私たちに1つの規則として与えられたこと、それは、人はその実によって判断しなくてはならない、ということである(マタ7:16-20)。また主は、主の戒めを守る者こそ真に主を愛する者である、と非常に力をこめて強調なさり(ヨハ14:21)、主を愛する者は主の戒めを守り、主を愛さない者は主の戒めを守らないと宣言なさった(ヨハ14:23、24)。これにより私たちは、なぜ使徒パウロがあれほどこの点を強調したかわかるであろう。パウロはその手紙を宛てた人々に向かってこう宣言している。もしだれかが神の国に属していると云っても、神の戒めを守っていなければ、そういう者は偽善者か自己欺瞞に陥っているのである、と。それはこのような口調で語られている。「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者----これが偶像礼拝者です。----こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです」(エペ5:5、6)。「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません」(Iコリ6:9、10)。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」(ガラ5:24)。「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです」(ロマ8:13)。そして、こうしたすべてのことを考えるとき、なぜ同じことを使徒ヤコブが、あなたがたにもなじみ深い様々な箇所で、あれほど強調しているのか、また、なぜ使徒ヨハネが、ほとんどあらゆる主題にもまさってこの点を強調しているか、その合点がいく。それは神があらゆる人にこのことを深く銘記させようと望んでおられるからなのである。すなわち、良い行ないこそ、私たちが本当に魂のうちに恵みを持っているということの満足のいく証拠だということである。神がこの地上で私たちをおさばきになるのは私たちの行ないによってであり、かの大いなる最後の日に私たちすべてをおさばきになるのも私たちの行ないによってなのである。

 2. この主題に鑑みて、すべての人は、自分の恵みが真実で真摯なものかどうか自分を吟味するがいい。----あらゆる人は勤勉に、また祈り深く、問うがいい。自分の種々の恵みがみな生き方へと至らされているか、また日々生活と行動との中に表わされているかどうか、と。しかしここで、真に敬虔な人々ですらこう云うかもしれない。もし生活によって自分をさばくとしたら、私たちは自分を非とせざるをえません。なぜなら私たちの失敗はあまりにも多く、あまりにも頻繁で、道からそれることはあまりにもしばしばであるため、時として自分が神の子どもであるなどとは到底思えないことすらあるのです、と。しかしそのような人に私は答えたい。生活によって自分を試す人は、たとえ毎日のように大きな失敗を犯し、しばしば道をそれてさまようことに気づくとしても、その行ないにおいて自分を本当に非とする正当な理由を見つけることはないのだ、と。なぜなら私たちがキリスト者としての生活ということを語るとき、また聖書がキリスト者の生き方ということを語るとき、それはその生活が完全で、何の罪もないという意味ではないからである。逆に、キリスト者の生活は多くの、また並々ならないほど重大な欠陥を伴っていることもありうるが、それでも聖い生活、真のキリスト者生活たりうるのである。それは、その人個人の有する恵みが聖い生き方へと至らせるような種類の恵みであることを明らかに----また、こう云ってよければ必然的に----表わしているような生活であろう。その人の実は、木が良い性質であるという確かな証拠となるようなものであり、その人の行ないはその人の信仰を示すようなものであろう。だがもしあなたが、さらに明確な光を求めるなら、私は云うであろう。あなたの欠陥や失敗がいかなるものであれ、以下のような恵みの証拠があるかどうか自分を吟味してみなさい、と。こうしたものこそ、聖い生き方へ至らせるような種類の恵みである。

 第一に、あなたにあると思われる恵みは、あなたが聖い生き方に失敗したことを、忌まわしいこと、嘆かわしいこと、屈辱的なことであると思わせるようなものだろうか? それは、あなたの過去の罪深い生き方を、あなたに憎むべきものと思わせ、そのことのゆえに神の前であなたを嘆き悲しませているだろうか? またそれは、あなたのふるまいにおけるキリスト者的な生き方とは逆のことを、あなたが回心したと思われるとき以来、あなたにとって不快なこととしているだろうか? また、あなたの生き方が向上していないということは、あなたの人生にとって非常な悩みとなっているだろうか? 自分が誘惑に屈したり、罪に陥ったりすることは、あなたにとって本当に嘆かわしいことだろうか? あなたは聖なるヨブにならって、そのことのために進んで自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めるだろうか? またパウロのように、自分のみじめさを嘆き、この死のからだから解放されたい、罪から解放されたいと、進んで祈り求めるだろうか?

 第二に、あなたは常時、罪に対する恐れをかかえているだろうか? あなたは、過去のもろもろの罪にために嘆き、また自らへりくだるだけでなく、将来の罪に対する恐れをも持っているだろうか? またあなたは、罪が本質的に邪悪なものであり、自分の魂にとって有害なもの、神にとって不快なものであるという理由で罪を恐れているだろうか? これまでしばしば自分を苦しめてきた恐るべき敵として罪を恐れ、これまでの自分にとって罪が悲しむべきものとなってきたことを感じているだろうか? あなたを傷つけ、痛い目に合わせ、苦痛を与えたもの、二度とかかわりたくないものとして罪を恐れているだろうか? 自分の恐れるものを警戒し続ける者のように、罪に対する警戒を続けているだろうか? 「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか」、とヨセフに云わせたような恐れを持ちつつ警戒しているだろうか(創39:9)?

 第三に、あなたは聖い生き方に歩む生活の麗しさと快さを感じているだろうか? あなたは聖潔の麗しさを、神とキリストとともに歩む道の素晴らしさをさとっているだろうか? この聖句には、「愛は真理を喜ぶ」、と述べられている。また、真に敬虔な人の性格は、「喜んで正義を行なう」[イザ64:5]、と語られているが、これは、「正義を行なうことを喜びとする」、ということと同じである。そして何としばしば詩篇作者は、神の律法を自分の喜びとして語り、神の戒めに対するその愛について語っていることか!

 第四に、あなたは、単なるこの世的な道徳とは、その気高さという点で隔絶した、キリスト者的な生き方と呼ばれる歩みを、ことさらに尊び喜んでいることを実感できるだろうか? ここで云うキリスト者的な生き方とは、柔和でへりくだったもの、祈り深く自己否定的なもの、自己を放棄して天に属する歩みをするものを意味している。異教徒の中にも、多くの道徳的な美徳に傑出した者らがおり、たとえば正義や気前良さ、堅忍不抜さなどについて、すぐれた著作を残している。しかし、それらはキリスト者の心貧しさやへりくだりの心にははるかに及ばない。彼らは自分の栄光を求め、自分の外的な美徳を大いに誇るだけで、福音が命じているような歩み----自己卑下、心の貧しさ、自己不信、自己放棄、祈り深く神により頼む道----については何も知らないと思われる。彼らは柔和さとは無縁であり、敵を赦し、敵を愛することが美徳であるなどと認めるどころか夢にも思わなかった。このような美徳はキリスト者に独特のものであり、その卓越性と気高さによって、まさにキリスト者特有のものである。これらについて私は問いたい。あなたは、これらの美徳をことさらに尊んでいるだろうか? あなたの救い主のゆえに、また彼の霊がこれらの美徳に伴っているがゆえに尊んでいるだろうか? もしあなたがその霊において、単なる道徳家とも、異教徒の賢人とも哲学者とも、本質的に区別され、異なっているのだとしたら、あなたは特に福音に属するこのような美徳を、ことさらに尊び、喜ぶ精神を持っているであろう。

 第五に、あなたは聖い生き方をすることに飢え渇いているだろうか? あなたは聖い生活をすること、神に従うこと、日々あなたの行動がより整えられること、より霊的になること、より神の栄光を現わすこと、よりキリスト者としてふさわしいものになることを切望しているだろうか? それはあなたが愛し、祈り、慕い求め、人生の目的としていることだろうか? これこそ、真のキリスト者の性格に属することであると、キリストが言及しておられることである。すなわち、彼らは「義に飢え渇いている者」なのである[マタ5:6]。このような特徴があなたにはあるだろうか?

 第六に、あなたはあらゆる点において聖く、神に受け入られる生き方をするよう努力することを絶えずこころがけているだろうか? あなたは聖潔を求めて努力していると云えるだけでなく、聖潔を求めて努力することを絶えずこころがけていると云えるだろうか? それはあなたの思いの中で重きを置かれているだろうか? 真の忠実なキリスト者は、聖い生活を単に取ってつけたことのようには扱わず、自分の重大な関心事とする。兵士の本務が戦うことであるように、キリスト者の本務はキリストに似た者となること、キリストが聖であるように自分も聖となることである。競走者にとって競走が大事業であるように、キリスト者にとってその生き方は、彼が従事する大事業である。あなたにとってもそうだろうか? また神の戒めのすべてを守ること、意識的には何1つないがしろにしないことは、あなたの大目的であり最愛の目標であろうか? 詩篇作者は云う。「どうか、私の道を堅くしてください。あなたのおきてを守るように。そうすれば、私はあなたのすべての仰せを見ても恥じることがないでしょう」[詩119:5-6]。自分の知りうる限りのすべての義務において忠実であることは、あなたの真剣で、不断の、そして絶えず祈りの課題とされる目的であろうか? そしてもう1つ、

 第七に、あなたは自分の義務をすべて知ることを大いに願っているだろうか? また、それを行なえるようになるため知りたいと願っているだろうか? 族長ヨブとともにあなたは、全能者に向かって、「私の見ないことをあなたが私に教えてください」、と祈ることができるだろうか、祈っているだろうか? またヨブが云い足したように、「私が不正をしたのでしたら、もういたしません」、と云い足せるだろうか(ヨブ34:32)?

 もしあなたがこうした基準にかなっていると正直に云えるなら、あなたには、あなたの恵みが聖い生き方へ至らせるもの、聖い生き方へと成長させるような種類のものだという証拠がある。そしてあなたは、たとえ失敗しても、神のあわれみによって再び立ち上がるであろう。あなたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださる。時としてあなたは弱り果ててしまうかもしれない。しかし追求し続けるなら、あなたは力から力へと運ばれ、信仰により、神の御力によって守られて、救いをいただくであろう。

真の恵みは聖い生活へ至る[了]

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