HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT

10. 愛はさばかず

「愛は……人のした悪を思わず」 Iコリ13:5

 さきに指摘したように、キリスト者の愛は、高慢な思いや利己的な思いとは全く逆のものである。そればかりでなく、この愛は、高慢や利己心から普通生まれる2つの結果とも相容れない。その2つの結果とは、怒りであり、さばく心であった。さて怒りということについてはすでに述べたので、ここではさばく心について語ろうと思う。この問題について使徒は、愛は、「人のした悪を思わず」と述べている。ここには明らかに1つの教理が宣言されている。それは、

 キリスト者の愛は、人をさばく心とは正反対のものだ、ということである。云いかえると、愛は、他人に対して不寛容な考えをいだいたり、他人のあらをつつき出して批判するような心とは全く逆のものだということである。

 一般に愛という言葉は、小さなことには目くじらを立てず、なるべく他人を暖かく見守ってやるというような意味でよく使われる。しかし前にも述べたように、それだけでという言葉の聖書的な意味を云い尽せるものではない。これは愛の行為の表われの1つにすぎず、たくさんある愛の豊かな実の1つにすぎない。本当の愛はそれよりずっと広く、大きい。すでに見た通り、聖書で云われる愛はキリスト者の愛、神から発するアガペーの愛にほかならない。そしてこの愛は、キリスト者精神という言葉によって表わされるすべてのものを意味しているのである。この箇所を見るとまさにその通りで、この、他人を優しく判断してあげるという心は、他の数々の美しい愛の果実の間に語られている。またこれは、否定的な形で語られている点でも、文脈中にならんでいる他の愛の実と同じである。すなわち、……せず、……しない、というふうに反対の方向から、まず云いたいこととは逆のものを挙げて、それを打ち消すという仕方で語られている。そして、ここで挙げられているその反対のものとは、他人をさばき、とがめだてする心、他人を厳しく批判しがちな心なのである。そこでこの点に関して語るにあたり、私はまず、さばく心にはどういった性質があるのか、さばく心とは具体的にどういうことをいうのかを示したい。そのあとで、なぜそうした心がキリスト者精神に反するものなのか、いくつか理由を述べたいと思う。

 I. さばく心にはどのような性質があるか、あるいは、他人をさばく心、他人を批判しがちな思いとは具体的にどういうことをさすか。----他人をさばく心とは、具体的には次の3つの点について意地悪い考え方をしたり、あら探しをしたり、冷たく批判したりすることをいう。その3つとは、その人の霊的状態と能力と実際の行ないである。

 1. さばく心が姿をあらわすのは、人が他人の霊的状態について、進んで悪い方へ悪い方へ受け取ろうとするときである。さばく心は、周囲の人々について意地悪く邪推することによって、しばしば自らを暴露する。そうした邪推を向けられるのは、この世の人のこともあるし、信仰を告白しているキリスト者のこともある。後者の場合よくある形は、ちゃんと信仰を告白している人を批判し、口先ばかりの偽善者だと決めつけ批判することである。しかし極端は避けなければならない。ある人々は他人を見ると、ほんのわずかな証拠しかないのに、何と立派なクリスチャンだろうとほめたたえる。逆に、やはり同じくらい微々たる証拠で、あの人は信仰がおかしいのではないだろうか、変な信仰を持っているのではないだろうか、などと簡単に非難する人もいる。しかし、この種の問題についてはっきり断定するのは、すべて神のみことばの保証を欠いているように思われる。みことばによれば、人間の霊的状態について判断することは、神が御自分の権利としてとどめておいておられるように見える。神は人の子らの魂の偉大な、そして唯一の探り手として、御自分の御手の中にその判断を保留しておられるのである。

 人が他人の霊的状態を批判したり、さばいたりする罪を犯すのは、次のような場合である。まず、確実な証拠にはならないようなことを取り上げて、その人が悪い状態にあると即断する場合。また、あのヨブの友人たちが、ヨブの受けた異様に激しい災厄を見て彼を偽善者だと決めつけたように、神の摂理によるお取り扱いを理由に、他人を偽善者あつかいするような場合。さらに他人が神の子らとしては決して珍しくないような欠点を持っているのを見て、それを理由に駄目な信者だと批判するような場合も同じである。自分も同じような欠点を持っているにもかかわらず、いや、むしろ自分の方がずっと大きな欠点を持っている可能性があるにもかかわらず、自分の方がすぐれたキリスト者だと考えているのである。また、さばく心を持った人は、根本的でない問題で意見の異なる人を見ても、あんな人は救われていないとか、霊的でないキリスト者だとか決めつける。またその人の生まれつきの気質や、教育の欠けや、人それぞれの恵まれない環境などについて思いやることをせずに、表面だけを見て駄目な人だとか、どうしようもない状態にあるとか批判する。あるいは、他人が完全には自分と同じような経験をしていないというだけの理由で、信仰がないとか、救われていないとかいう。自分自身や自分の経験だけを、他のすべての人をさばく絶対の基準にしているのである。こういう人は、神の御霊がいかに自由に、またいかに様々な方法を用いて人の心に働きかけ、人をお救いになるか全く知らないのである。御霊のなさるみわざがいかに神秘的で、いかにはかり知れないものか、特に人をキリスト・イエスにある新しい被造物とするときにいかにそうであるか全く無知なのである。こうしたすべてのことにおいて、人はしばしばさばく心をもって行動するばかりでなく、非常に非理性的な行動をとる。特に、自分と同じような経験をしていない人はキリスト者ではないなどと云うのは、料簡違い以外のなにものでもない。いわば、自分と同じ身長を持ち、自分と同じ力を持ち、自分と同じ体質を持ち、自分と同じ顔付きをした人以外は人間ではないと云うようなものである。

 2. 次にさばく心が姿をあらわすのは、人が他人の長所を進んで悪と決めつけようとするときである。これは他人の美点を無視したり、ちゃんと備わっている彼らの長所を無視したり、せいぜい、たいしたものではないと軽視したりするような心のことをいう。これはまた他人の欠点を誇張して考えたり、実際以上にひどいものと考えたり、ありもしない欠点を想像して非難したりすることとも云える。ある人々は、他人の無知や愚かさ、その他の蔑むべき欠点をやたらと性急に非難する。しかし実は、それほどの非難に値するようなものはないのである。ある人々は、他人を蔑視したり軽視したりするのに非常に急であって、その人の仲間や友人にもそのように吹聴する。しかし実は、その人を優しく見守る人には、彼の多くの良い点が悪い点と同じだけ、いや悪い点をしのぐほど見られ、率直に云って彼らをいやしむべき理由はないのである。またある人々は、他人が持ってもしていない道徳的悪徳について非難する。またささいなことを取り上げてはやたらと大袈裟に非難する。このようにしてある人々は、自分の隣人について悪い偏見を持ち、彼らが本当よりもずっと高慢であるかのように、また本当よりもずっと利己的で、ずっといやしむべき、ずっと悪意に満ちた人間であるかのようにみなす。何かの根深い偏見によって、彼らは相手がありとあらゆる悪徳を持っており、何の美徳も持ち合わせていないに違いないと簡単に決め込んでしまう。他の人から見れば良い人と思える人が、彼らにしてみれば途方もなく高慢な人間であるとか、貪欲であるとか、利己的であるとか、とにかく何か良くない種類の人間であるように見えるのである。彼ら以外の人々はその人たちの多くの美点を知っており、あまり良くない点があっても、くみ取るべき特別な事情があったことを知っている。しかしさばく心の持ち主は悪い点しか見ない。そして他人の評判を落とすような不公平な意見しか云わないのである。

 3. さらに、さばく心が姿をあらわすのは、 人が他人の行動を進んで悪と決めつけるようなときである。ここでいう行動とは、私たちが自発的に行なう、表にあらわれたすべての行為のことであると理解していただきたい。それは言葉の場合もあり、具体的行動であることもある。さて他人の行動を非とするさばく心は、2つのことにおいてその存在を暴露する。

 第一に、さばく心は、はっきりした根拠もなしに、他人の行為を悪い行動だと決めつける態度をとるとき暴露される。常にだれかを疑いの目で見、確かな証拠もなく何か悪い行動をしているのではないかと疑うようなう猜疑心は愛のない心であり、キリスト教の教えと逆のものである。ある人々は、だれかが自分の目の届かないところでしたに違いないことについて何の躊躇もせず非難する。あの人は隠れてあれをしたはずだ、人の見てないところでこんなことをしたはずだ、こっそり何か悪いことをしたはずだ、と簡単に信じ込む。あの人は自分の仲間や友達の間ではあんなことをしているに違いない、こう云ったに違いない、ただ何か魂胆があって自分とは利害をともにしていない人々の前ではそれを隠しているに違いないと思い込む。こういう人々は、使徒の云う、あの「悪意の疑り」をいだく者である(Iテモ6:4)。使徒はこれを「ねたみ、争い、そしり」などと結びつけて断罪している。こういう者は非難されなくてはならない。また人は非常にしばしば、他人の行動について悪い噂をふりまくという形で、その不寛容なさばく心を露呈する。この世は全く軽率な世界で、流言蜚語やデマ、虚報に満ちているところである。単にだれかが悪い噂を立てられているとか、いろいろ取り沙汰されているとかいうだけでは、その噂の内容を信じて、その人が本当にそんな悪いことをしたのだと思う理由には全くならない。なぜなら、「この世の神」と呼ばれる悪魔は「偽り者であり、また偽りの父である」と云われ、さらに、何たることか! あまりにも多くの悪魔の子らが虚言を語ることにおいてその父そっくりにふるまっているからである。しかしそれにもかかわらず、だれかがこんなことを云っていたとか、あんなことを云っていたとか、ああ云ってたとか、こう云ってたとか、単にそれだけのことで、他には何の裏付けもないのに、その噂された人を判断してしまうことが非常に多いのだ。何某さんがこれこれのことをしたそうだとか、これこれと云ったそうだとか聞いただけで、それ以上なにも確かめようとはせずに、すぐそれを信じ込んでしまう。人々のひそひそ話や囁きほど不確かなものはないというのにである。人々の中には、他人が悪く云われるのが楽しみなのではないかと疑いたくなるほど、年がら年中悪い噂を聞き込もうとしている人もいる。そういう人の心は悪い噂を求めて舌なめずりしているのである。他人の悪い噂が、彼らの腐り切った魂の飢えを満たす食物なのだ。ぐちゃぐちゃしたおぞましい腐肉を食べて命をつなぐハゲタカのように、彼らはそういう噂を食いつないで生きている。彼らは何も確かめようとしない。即座に、そして貪欲に噂を真実のこととして受け取る。詩篇作者は、神の天幕に宿り、聖なる山に住む人は、「隣人への非難を口にしない」人だと語るが(詩15:1-3)、こうした人々がそうした聖徒の心や行ないと全くかけ離れた者であることは明らかである。むしろ彼らは「邪悪なくちびるに聞き入」る「悪を行なう者」であって、「人を傷つける舌に耳を傾ける」「偽り者」なのである(箴17:4)。さらに他人の行動を悪く判断してさばく心が自らを暴露するのは、

 第二に、他人の行動をねじまげて悪意に解釈するときである。他人をさばく人々は、十分な証拠もなしに、他人が悪いことを行なったと簡単に決めこむばかりではない。彼らは他人の行動が、素直に受け取れば良くも悪くも取れるとき、いやたぶん善意に受け取った方が良いときでさえ、その行動を悪意に解釈する傾向がある。大体の場合、ある行動のかげにあった動機とか意図は、それを行なった人の胸の奥に秘められているものである。にもかかわらず、そんなことは考えもせずに他人の行為を批判する人が非常に多い。そして、このようなさばきが普通一般に行なわれている。いや他のどんなさばきよりも多く行なわれているのである。こうして、人がある人の行動を色眼鏡をかけて見るようになると、その人の一見よさそうに見える行為や発言もねじまげて悪意に解釈し、偽善者だと決め込むことはざらにある。そしてこれは特に問題が公の職務や公の事件の場合にいえる。公の利益をはかったり、隣人の益を考えたり、神の栄光をあらわしたり、教会のためになるような行動や発言がなされたりすると、必ずだれかが、これはみな偽善に違いない、やつらの本音はただ自分の利益を増そうとしているだけだ、自分が人の上に立ちたいだけなんだ、耳当たりのいいことを他人に吹き込んで人をだまくらかして、実は腹黒いたくらみを隠しているんだ、と云い出すのである。

 しかしここで次のように問う人もいると思う。「他人の行動を非とすることは必ずしも常に悪ではないはずだ。他人の行動を非とすることのどこが良くないのか。どこで一線を引けばいいのか」 これに対して私は次のように答えよう。

 第一に、一般社会にも教会にも、人をさばくための職務に特に任命された人々がいる。すなわち、良きにつけ悪きにつけ、自分の知るところとなった他の人々の行動を公平にさばき、その良しあしに従って処置をくだす権限を持った人々のことである。こういう人々は、確たる証拠とその行為の性質にもとづき、自分のつかさどる法にかんがみて、善人を賞賛し、悪人を罰するべきである。

 第二に、一般の市民、一般の信徒も、他人を判断するにあたって、自分の理性を押し殺す必要は全くない。すべての人が善人だなどと思い込むのは、明らかに理性に反している。なぜならキリスト者の愛は理性を根絶させた上に築かれるべきものではなく、理性と愛の間で最も美しい調和を保つものだからである。従って私たちに与えられているのは、いかなる人をもさばいてはならない、という絶対的な禁止命令ではない。非難すべき正当な理由といえるだけの明瞭な証拠があるなら、人をさばいてもかまわないのである。もしも誰かが如実に破廉恥な行為を行なっていて、歴然とした証拠が誰の目にも明らかであるという場合は、そうした者は悪人であり、キリストを持たぬ悲惨な人間だと判断すべきである。それは何も悪いことではない。使徒は云う。「ある人たちの罪は、それがさばきを受ける前から、だれの目にも明らかですが、ある人たちの罪は、あとで明らかになります」。つまり、ある人々の罪は、それ自体が彼らの有罪を明白に証言しており、あの、万人の心の秘密をあばく最後の審判の日を待つまでもなく、あらゆる人の前で彼らを邪悪な人間として断罪しているのである。同じように、ある人々の行動があまりにもみえすいていて、裏にある邪悪な意図の明白な証明であるときには、邪悪な意図や目的を持っていると判断しても、心中の秘密を憶断することにはならない。従って、他人の霊的状態や能力、行動をどうこう判断するのは、全部が全部、不寛容な愛のないさばきであるということには必ずしもならない。しかし、罪となる不寛容なさばきとは、具体的にはどういうことなのか。

 それは、第一に、確かな証拠もなしに他人を非と決めつける場合である。また、その人が良い人であるとも十分考えられるのに、しいて悪い方を考えるという場合である。つまり、その人にとって有利な点を無視し、その人に不利な点ばかり注意し、大袈裟に取り上げ、非常にかたよって強調する、そんな場合である。同じことは、人が他人をあまりにも性急にさばき断罪する場合にもあてはまる。思慮深く愛のある人ならば、まずあらゆる事情を調べ、くみとるべきあらゆる状況が明らかになるまでは、自分の判断を差し控えるはずである。人はしばしば、本人から事情の弁明も聞かないうちに、他人を好き勝手に批判することによって、自分の不寛容さと軽率さを暴露する。だからこそ、「よく聞かないうちに返事をする者は、愚かであって、侮辱を受ける」と書かれているのである(箴18:13)。

 また第二に、他人をさばく心と云えるのは、他人を悪く判断することに喜びを感じる場合である。のっぴきならない明白な証拠があって、ある人を非と判断せざるをえないときもあるが、それにもかかわらずそのような判断を下さざるをえないことが深い悲しみとなる場合もありうる。たとえば、わが子がとんでもない犯罪を犯したと聞かされ、その動かぬ証拠をつきつけられた心優しい両親はそうするであろう。しかし非常にしばしば、人をさばくのが楽しくてたまらないというようすで他人を断罪する人がいる。喜びいさんで他人を非とする。それもほんのわずかな証拠にもとづいて、どうしようもないほど厳しいさばきを下す。明らかに彼らはそう欲するがゆえにそうしているのであり、他人を悪く思うことが大好きなのである。このように他人を非として喜ぶという心情は、私たちが自分の判断を宣言し、心で思っているだけでなく口にして表わすということのうちにも明らかにされる。他人のことを馬鹿にした調子で口にしたり、あざけったりする様子、また恨みつらみのこもった口調や、悪意たらたらの様子、他人の欠点や間違いをあからさまに喜ぶ態度などによって表わされる。もし他人を非とすることが自分の意に反することだとしたら、私たちは自分の言動に非常に注意するであろう。確かな証拠がない限り決して先走りせず、事情の許す限り良い方へ良い方へと考えてやり、その人の言葉や行動をできるだけ善意に解釈するであろう。そして、意にそまぬながらもその人が悪いと考えざるをえないときには、それを宣言することに何の喜びも感じず、誰にもそれを云いたいとは思わないだろう。そして、そうせざるをえない特別な義務がない限りは、それを人に告げはしないはずである。

 さばく心の性質がどういうものかはここまでのところで明らかにしたと思う。そこで初めに述べた第二の点を考えよう。

 II. こういったさばく心は、愛の心、すなわちキリスト者の愛に全く反するものである。

 1. さばく心は隣り人に対する愛に全く反するものである。----これは3つの点から考えることができる。

 第一に、人が自分のことを決して悪く考えたがらないことは常識である。私たちは自分の能力については簡単に過大評価する。また自分の霊的状態も非常に良い状態にあると簡単に判断する。何か神の恵みらしいものが内側にあれば、自分は良い状態にあるのだと考えて疑いもしない。また自分の言葉や行ないを良い方へ良い方へと考え、自分が間違っているとは決して考えたがらない。その理由は、人が自分自身を非常に愛しているからである。従って、もし自分の隣り人を自分と同じように愛しているのなら、愛はその人に対しても同じような働きをするであろう。

 第二に、人が自分の愛する人に難癖をつけたがらないことも常識である。人は親友の悪口は云いたがらないし、親はわが子の悪口を云いたがらない。自分の愛する人のことは良い人だと考えたい。才能の上でも道徳的にもすばらしい能力を持っていると思いたい。それが人情である。だからその人について悪い噂が広まっても、他の人々とは違ってめったなことでは信じないし、その人に対する悪口もなかなか信じようとしない。彼らは、その人の行動なら最高に善意に解釈しようとする。なぜなら彼らを愛しているからである。

 第三に、これまた周知の事実であるが、人は自分の憎む人、 悪意をいだいている人については、非常に厳しい見方をするものである。人と人が仲たがいをしたり、意見の不一致があったり、怒りと偏見にとらわれたり、悪意にむしばまれたりすると、必ず相手を最悪の人間だと進んで決めつけたがるようになる。相手の能力を簡単にけなしたり、相手の卑劣な欠点をたくさん知っているような気になる。特に、非常に邪悪な欠陥があるかのように想像をたくましくする。そして互いに自分の目の届かないところで相手が何をしているのかと疑う。相手についての悪い噂は進んで耳に入れ、一言一句のこさず信じ込み、相手のしたこと云ったことはすべて悪意で歪曲し、とんでもない解釈をする。そして非常にしばしば相手の霊的状態を最低のものと考え、実は救われていない未信者に違いないなどと非難する。またこれは意見の対立した個人と個人の間ばかりでなく、互いに相容れない教派と教派の間の関係においてもよく起こる。こうしたことが明らかに示しているのは、私たちには隣り人に対する愛が欠けているということ、むしろ愛とは正反対の思いにふけっており、そこからさばく心が生じてきているということである。さて最後に一言だけつけ加えよう。

 2. さばく心は、その人の内側に高慢な思いがあることを明らかにしている。---そして高慢な思いは、ここでの文脈が示す通りに、愛の思い、キリスト者の愛とは正反対のものである。やたらと他人をさばき批判しがちな精神の持ち主には、この自分にはそんな欠点や過失はないぞ、という増上慢がのぞいている。自分にはそんな欠点や弱さはないぞと思っている。だから他人を好きなように厳しく非難し、断罪し、批判、指弾を浴びせかける資格があるかのように感じているのである。これこそ、マタイ7章における救い主の言葉で批判されていることである。「さばいてはいけません。さばかれないためです。……なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち!」 また同じことが使徒の宣告の中でも云われている。「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです」(ロマ2:1)。もしも自分自身の欠点をへりくだって感じているのならば、自分から喜んで他人をさばいたりするような気にはならないはずである。他人に対して下す断罪は自分の方にもはねかえってくるのだ。私たちの心の中には他人と同じような腐敗が存在している。他人をせわしなく批判している人が、少し自分の内側をのぞいてみたなら、そして自分自身の心と生活を吟味してみるとしたら、たいていの場合は、いま自分が他人の中に見つけてさばいているのと同じような思いや行ないを見いだすことであろう。少なくとも他人と同じくらいひどい何かを見いだすであろう。他人をさばいて批判してやろうという思いは、その人の思い上がった傲慢な心の表われである。それは、あたかも自分が同じしもべ仲間を支配したりさばいたりするにふさわしい者であるかのように思い、自分の宣告1つで他人が立ちも倒れもするかのように考える思い上がった尊大な態度をあらわしている。これは使徒も語っていることである。「自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です」(ヤコブ4:11)。すなわち、もしあなたが他人をさばくなら、その人と同じしもべとしてふるまっているのではない。彼と同じ律法のもとにあるしもべとしてふるまっているのではない。むしろ、その律法をくだした者であるかのように、また、その律法の下にある者らに宣告をくだす職務にある者であるかのようにふるまっているのだ、と云うのである。従って次の節ではこのように云われている。「律法を定め、さばきを行なう方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか」。ロマ14:4のことばも同様である。「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です」。しもべをさばく正当な権利をもっておられるのは神おひとりである。神の主権とご支配を考え、自分と同じしもべをさばいたり断罪したりするような僭越な真似は差し控えるべきである。

 最後に適用として2つのことを指摘したい。

 1. この一節は、ふだんから好き勝手に他人をそしり悪口を云っている者らに対する厳しい叱責である。---もしも他人の悪を思うことすらこのように非難されているとしたならば、思うだけではあきたらず、舌をもってそしり、悪口や陰口をふれまわる者らは、どれほど厳しくとがめられることだろう! かげに回って他人の悪口を云い歩く人々には、非常に多くの場合さばく思いがある。悪口は他人の人格や行動を不寛容な思いでながめ、さばいているしるしである。だから聖書の中では、先に引用したヤコブの手紙の一節のように、他人をそしることは、すなわち他人をさばくことだとされている箇所がある。聖書が陰口や悪口を非難している箇所は非常に多い! 詩篇作者は、悪人とはこういうものだ、と宣言している。「おまえの口は悪を放ち、おまえの舌は欺きを仕組んでいる。おまえは座して、おのれの兄弟の悪口を言い、おのれの母の子をそしる」(詩50:19, 20)。またパウロもテトスにこう云っている。「あなたは彼らに注意を与えて、……だれをもそしらず、争わず、柔和ですべての人に優しい態度を示す者とならせなさい」(テト3:1, 2)。さらに、こうも書いてある。「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて……」(Iペテ2:1)。またシオンの市民として住み、神の聖なる山の上に立つ人の性格の1つは、「舌をもってそしらず」、と云われる(詩15:3)。従って、私たちはみな一人一人、自分はこの罪を犯してはいないだろうか、と自分の心に問いただしてみなければならない。自分は、今まで何度も他人を批判したり、無慈悲な意見を容赦なく口に出したりしてはいなかったか。特に、自分と何か行き違いのあった人や、自分と別の立場に立つ人々に対してそうではなかったか。また、これは今でも多かれ少なかれ、毎日のように手を染めている習慣ではないのか。もしそうなら、それがいかにキリスト教精神と相容れないものであるか考えていただきたい。自分はキリスト者だなどと大きなことを云いながら、このような態度を取る、それがいかに矛盾したことであるか考えてほしい。深く反省し、こうした悪習慣とはすぐさま手を切ることである。

 2. この一節は、キリスト者の名に恥じない人格を身につけたいと願うすべての人に対し、思いにおいても言葉においても、他人を批判しさばくような心に陥ってはならないと警告している。---ここでは、すでに述べたさまざまなことに加えて、もう二、三のことを考えよう。

 第一に、物事は、真相が完全に明らかにされると、はじめに早まって判断したよりもずっと良いものであることが非常に多い。---この点に関しては、聖書に多くの例が記されている。ルベン、ガド、マナセの半部族の子らがヨルダン川のほとりに祭壇を築いたと聞いたとき、たちまちイスラエルの残りの部族は彼らが主から離れて偶像を拝んだものと決めこみ、性急にも彼らと戦さを交えるためのぼっていこうとした。しかしやがて本当のことが明らかになると、実は彼らが祭壇を築いたのはむしろ逆に良いことのため、すなわち主を礼拝するためであったことがわかった。これはヨシュア記22章に記されている出来事である。またエリは、宮もうでをしたハンナを見て酔っぱらっているのだと思った。しかし、その真相を聞いて彼は納得した。実は彼女は深い悲しみのあまり神の御前で祈り、心を注ぎ出していたのであった(Iサム1:12-16)。ツィバの話をうのみにしたダビデは、メフィボシェテが自分の王座をうかがう野心を明らかにしたものと決めこみ、さばく心の判断にまかせて、相手の権利をみな剥奪してしまった。しかし、真相が明らかになってみると、話は全くちがっていたことがわかったのである。エリヤは、イスラエルの霊的状態が最悪であり、自分の他に神を礼拝する者はひとりもいないと云った。しかし、神が彼に語りかけられたとき、バアルにひざをかがめていない者がまだ七千人もいることが明らかになった。そして現代においても、何とこれらと全く同じことが繰り返しくりかえし行なわれているではないか! 詳しく調べてみると、人から聞いた噂よりもずっと良い人だったとか、はじめに思い込んだよりもずっと良い人だったとかいうことが何と多いことだろう。物事には必ず表と裏がある。大方の場合は、良い面を取りあげて善意に解釈してやる方が賢明であり、安全であり、愛ある行為である。にもかかわらず、悪い方へ悪い方へと解釈し、すべての真相が明らかになるのも待たずに他人を、そして他人の行動を、こうだ、と判断して口にしてしまう。そして間違いを犯してしまう。これほどざらに行なわれていることはないのである。

 第二に、自分と関係ない他の人々の霊的状態や能力、行動などについて、本当に詮索しなくてはならない機会はめったにない、ということを私たちはわきまえるべきである。私たちが本当に関心を持つべきは私たち自身である。私たちが神の御前でどのような状態にあるかということは無限に重大なことである。自分は賜物を用いきっているか、御霊に従って生きているか、正しい目当てと目標をめざして生きているか。しかし、他の人々がどうであるかは、私たちにとって二義的な意味しか持たない。他人の霊的状態をあれこれ詮索して判断をくださなくてはならないようなことは、それなりの意味がある場合さえ、ほとんどない。そういうことは結局はっきりしないことであり、最終的には神の御手のうちにあるのである。他人をさばくのは、私たちなどよりも神こそ無限にふさわしいお方である。そして、神がその決定をくだす日はすでに定められている。だから、もし私たちが僭越にも他人をさばこうなどとするならば、私たちは自分のものでもない仕事をしようとしているばかりか、定められたときを待とうともせずにそれを行なうことになるのである。使徒は云う。「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです」(Iコリ4:5)。

 第三に、もし私たちが非難がましく他人をさばくような人間であるなら、私たちは自分を罪に定めることになる。神は警告された。「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです」。また使徒も問いを発して云う。「そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか」(ロマ2:3)。これらの恐るべき警告は、あの最後の日に私たちの審き主となられるはずの大いなるお方の口唇から出ている。この方から無罪と宣告していただくことこそ、今の私たちにとって無限の関心事のはずである。この方から有罪判決を受け、その宣告のもとに永遠の地獄へ落とされるのは、名状しがたい恐怖となるであろう。だから、この方からさばかれたくないと思うなら、そのような量りで他人を量ることはやめにしようではないか。


愛はさばかず[了]

HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT