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9. 愛は怒らず

「愛は……怒らず」 Iコリ13:5

 これまで使徒は、キリスト者の愛が、高慢と利己心という2つの大悪----すなわち、心に絶えず罪と邪悪を湧き上がらせる、かの2つの底深い源泉----と相容れないものであることを明らかにしてきた。続いてここで使徒が愛の性質について示そうとしているのは、愛とは、この高慢と利己心とから普通生まれる2つの結果とも相容れないということである。その2つとは、怒りっぽい精神、また人をさばく精神である。私は今、そのうちの最初の点にあなたがたの注意を向けたいと思う。すなわち、愛は「たやすく怒りをかき立てられない」のである(Iコリ13:5 <英欽定訳>)。ここで私たちの前に提示されている教理、それは、

 愛の精神、すなわちキリスト者の愛は、怒りっぽい、あるいは憤りにかられる精神または性向とは正反対のものである、ということである。

 この教理について語るにあたり、私はまず、キリスト者の精神が相容れないという、この怒りっぽい精神または気質とはいかなるものかを見きわめたいと思う。次に、なぜキリスト者の精神がそれと相容れないのか、その理由をあげたいと思う。

 I. 愛、すなわちキリスト者の精神が相容れないという、この怒りっぽい、あるいは憤りにかられる精神とはいかなるものか。----必ずしもキリスト教は、どんな形の怒りとも反対であるとか、相容れないというわけではない。エペ4:26には、「怒っても、罪を犯してはなりません」、と云われている。ということは、罪を犯さない怒りというものがある、すなわち、怒っても神に背くわけではない場合がありうる、と示唆しているように思われる。したがって先の問いには一言で答えられるであろう。キリスト者の精神、すなわち愛の精神が正反対だという怒りとは、あらゆる不適切で不当な怒りなのである。しかし怒りは、4つの点において、不適切で、不当なものとなりうる。その4つとは、怒りの性質、理由、目的、限度、である。

 1. 怒りは、その性質という点において、不適切で、不当なものとなることがある。----定義するならば、怒りとは、現実または想像上の悪に対する、あるいは他者の過失や不愉快な行動ゆえの、熱のこもった、また多かれ少なかれ激越さを伴う、精神的な反発であると云えよう。すべての怒りは、現実または想像上の悪に対する、精神的反発である。しかし、悪に対する精神的な反発のすべてが、怒りと呼ばれるに値するとは限らない。判断上の反対というものもあり、それは怒りではない。なぜなら怒りとは、冷静な判断に基づく反対ではなく、感情による反発、気持ちや心による反発だからである。しかしここでもまた、悪に対する精神的な反発のすべてが怒りと呼べるわけではない。たとえば嘆きや悲しみといった場合のように、私たちを苦しめる自然の悪に対する精神的反発というものもあり、これは怒りとは非常に異なるものである。そこで、こうしたものと区別するならば、怒りとは、道徳的な悪に対する反発、すなわち、自発的行為者----あるいは、少なくとも自発的であると、また自分の自発的な意志によって行動しているとみなされる者たち----による現実のまたは想像上の悪に対する反発、そして彼らの過失と思われる悪に対する反発である。しかし、ここでもやはり、悪あるいは自発的な行為者による過誤に対する反発のすべてが怒りなのではない。精神が激することもなく、怒ることもなく、何かに反感をいだくことはありえるからである。そうした反感は意志と判断による反発であり、必ずしも感情的な反発ではない。----それが怒りと呼ばれるためには、感情が動かされなくてはならないのである。あらゆる怒りには、感情的な熱意と反発がなくてはならず、内なる精神が動揺し、かき乱されなくてはならない。怒りは魂の激情または情動の1つである。もっとも情動と呼ばれるとき、それは、たいがいの場合、よこしまな情動とみなされるべきではあるが。

 一般論として怒りには上のような性質がある。そこで今や、どういう点で怒りの性質が不適切で不当なものとなるかを示せるであろう。それは、怒りが悪感情または復讐欲をいだく、すべての場合である。ある人は、怒りを復讐欲と定義している。しかし、これは怒り一般の正しい定義とは考えられない。なぜなら、もしそうなら、悪感情を伴わない怒り、だれか他の者が傷つけられることを願わない怒りなどというものはないはずである。しかし疑いもなく世の中には、善意と両立する怒りというものがある。父親は、わが子に対して怒りを発することがありえる。すなわち、わが子の不良な素行に対して、本心から反発を感じ、その行為に対し、またその行為を続けるわが子に対して、精神が反発し、かき乱されるのを覚えるかもしれない。にもかかわらずその父親は、子どもに対して厳密な意味での悪感情は全く覚えず、むしろ逆に、真の善意を覚えるであろう。その子が駄目になればいいなどと思うどころか、その子が本当の幸福に達することを願ってやまないであろう。彼の怒りそのものが、子どもの真の幸福をむしばむと思えるものに対する反発にほかならない。このことからも、怒りは、その一般的な性質においては、復讐欲というよりは、悪に対する精神的な反発にあることがわかる。

 もしも怒りの一般的な性質が悪感情と復讐欲にあるとしたら、いかなる場合においても、怒りは正当なものではなくなるであろう。なぜなら私たちは、どんなときも他者に対して悪感情をいだいてはならず、すべての人に対して善意をいだくべきだからである。私たちはキリストから、すべての人々の幸せを求めるよう命ぜられている。自分の敵や、自分に底意地悪く当たる人々、自分を迫害する人々についてすら、その幸福を祈れと命ぜられている(マタ5:44)。また使徒も、「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません」、と命令している(ロマ12:14)。すなわち、私たちは他者の幸せしか願ってはならず、他者に良いことが起こるよう祈るべきであって、いかなる場合にも災いを願うべきではない。それで、すべての復讐は禁じられているのである(唯一の例外は、法を犯す者に対して裁判官が下す応報的処置であるが、これは自分勝手に行なっているのではなく、神の代行者として行動しているのである)。こう定められている。「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である」(レビ19:18)。また使徒は云う。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』」(ロマ12:19)。それでキリスト教は、悪感情や復讐欲をいだくいかなる怒りをも許さず、この上なく恐ろしい、いくつもの誓いによって禁じているのである。聖書が怒りについて語るとき、時としてそれは、この最悪の意味で----悪感情と復讐欲をふくむ怒りとして----語られている。この意味において、すべての怒りは禁じられているのである。たとえばエペ4:31では、「慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい」、とあり、コロ3:8では、「しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい」、とある。このように、怒りはその性質という点において、正当でない罪深いものとなりうるのである。これと同じく、

 2. 怒りは、その理由という点において、不当なもの、キリスト教精神に反するものとなることがある。----理由が不適切であるとは、その怒りに何ら正当な理由がない場合のことである。この点でキリストはこう語っておられる。「兄弟に向かって理由なく腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません」(マタ5:22 <英欽定訳> 新改訳聖書欄外注を参照)。これには、三通りの場合が考えられるであろう。

 第一に、怒りのきっかけとなった理由が、怒りを向けられた人の何の過失でもなかった場合である。これは、まれなことではない。多くの人々は常々高慢で気むずかしい性向をしているため、少しでも自分に逆らうようなこと、自分に面倒をかけること、自分の望みに反することが起こると、相手に責任があろうがなかろうが、たちまち怒りを発する。そのようにして人は、相手の過失ではなく、悪気のない無知か、力のなさから起こったにすぎないことについても怒り出すことがある。そうする以外しかたがなかった相手に向かって、彼らは、なぜもっとうまくできなかったのかと怒るのである。また人はしばしば、全く相手に落ち度がなく、それどころか相手が真に良いこと、ほめられてしかるべきことをしていてさえ、怒りを発する。これは人が神に向かって怒りを発し、自分に対する摂理とはからいに対して苛立つときには常にそうである。このように神のお取扱いに対して苛立ち、がまんできず、つぶやくことは、怒りの中でも最もはなはだしく邪悪な種類の怒りである。それにもかかわらず、これほどしばしば、この邪悪な世界の中で起こっていることはない。これは、よこしまなイスラエル人たちが何度となく犯した罪であり、このため彼らの多くは荒野で屍をさらしたのである。またこれは、あのヨナが、理由もなく神に怒りを発したとき犯した罪であった。ヨナは悪人ではなかったが、神を賛美してしかるべきこと、すなわち、ニネベの人々に対する神の大いなるあわれみについて神に怒りを発したのである。さらにまた人の精神は、自分の意に反することが起こると、しばしば非常に苛立った状態となる。仕事上のことで障害や失望、面倒事に出会うと、人はむかっ腹を立てる。もちろん彼らは、自分が神に向かって苛立っているとか、神に対して怒っているなどとは口にしないし、それを自覚している気配すらないが、実際、その種の苛立ちは、そうとしか取りようのないものである。見かけはどうあれ、究極的にそれは、摂理のもとなるお方、----そうした障害が起こるよう命ぜられた神に向けられているのであり、神に逆らうつぶやき、神に逆らう苛立ちなのである。

 また、やはりこれもよくあることだが、人は他者が善を行ない、自分の義務を果たしていることを怒ることがある。人々が互いに向ける、ありとあらゆる怒りの中でも、善行に対して向けられるものほど無慈悲で熾烈な、むき出しの敵意と悪感情に満ちた怒りはない。歴史を見るとき、神の民がキリスト教を告白し、実践していることを理由に加えられたものほど残虐な行為はどこにも見られない。また、あの律法学者やパリサイ人らは、地上におられたキリストがその言動によって御父のみこころを行なっておられたとき、どれほど不愉快に感じたことか! 人が、その犯した過ちや罪を訴えられて、訴えた人や司直、あるいは教会の指導者を逆恨みして憤る場合、彼らは相手の良い行為に対して怒っているのである。またこれは、隣人や教会内の兄弟が彼らについて正しい証言をし、問題が大きければ、法に照らして彼らを処断しようと努めることに対して怒る場合がそうである。さらにしばしば人は、他者の善行についてばかりでなく、彼らが自分に対して行なう友情の行為にも怒りを向ける。たとえば人が、私たちのうちに何か間違ったものがあることに気づき、キリスト者として叱責を与えるとき、私たちが相手に向かって怒るような場合がこれに当たる。このことを詩篇作者は、自分はそれを愛情と思って受けとめると云った。「正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように」[詩141:5]。しかるに怒る者らは愚かにも、また罪深くも、自分が害を加えられたかのように受け取るのである。これらすべての事柄において私たちの怒りは、その理由という点で不適切であり、筋が通っていない。その怒りの理由となったことが、私たちが怒りを向ける相手の何の過失でもないからである。また同じように、

 第二に、怒りが、その理由という点で、不当で、キリスト教精神に反するものとなるのは、人が、取るに足らない些細な理由で怒る場合、すなわち、多少は相手に落ち度があったにせよ、その過失がごく小さなもので、心をかき乱したり、取り立てて大騒ぎするほどのことではないような場合である。神は、私たちが四六時中、精神を反発させたり、怒りをかき立てられたりすることを命じてはおられない。私たちが怒るよう命じられているのは、何か重大な理由があるときに限られている。他者のうちに少しでも過失を見ると怒り出すという人は、この聖句で描かれた人とは全く異なる人に違いない。取るに足らない些細なことが起こるたびに怒りをかき立てられる人は、確かに「たやすく怒りをかき立てられることのない」人だとは云えないであろう。ある人々は、非常に怒りっぽく、気むずかしい精神をしていて、ちょっとしたことでもすぐ不機嫌になる。他者のうちに、家族のうちに、社会のうちに、あるいは仕事上のことで、何か気に入らないことがあると、自分でも毎日犯している程度の些細な過失なのに、たちまち気分を損ねてしまう。このように、他者の過失を見るたびに怒りを発する人々は、間違いなく常に苛立った、決して心の平静を保っていられない人に違いない。なぜなら、この世にあっては、私たち自身も間断なく過失を犯しているのであり、他者の過失を間断なく見ずにいることなど望むべくもないからである。だからこそキリスト者は、「語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい」、と命じられているのであり(ヤコ1:19)、「短気な者は愚かなことをする」、と云われているのである[箴14:17]。自分の精神を注意深く守る者は、そう簡単には怒ったりしないであろう。彼は何か尋常ならざる理由がない限り、また何か特別な必要がない限り、自分の心を平静な、乱れ騒がない状態に賢く保ち、怒りでかき立てられたりしないようにするであろう。さらにまた、

 第三に、怒りが、その理由という点で、不当で、キリスト教精神に反するものとなるのは、私たちの精神をかき乱す主たる原因が、相手の過失が神に背くものだからというよりも、自分に影響するからという場合である。私たちは、罪以外の何物に対しても怒るべきではない。罪こそ常に、私たちの怒りにおいて反発されるべきものである。だが私たちの精神がこの悪に反発してかき乱されるとき、それは罪として、あるいは主として神に背くものとして反発されるべきである。もしそこに何の罪も何の過失もなければ、私たちが怒る理由は何もない。またもしそこに過失か罪があるとしても、それは私たちに対する罪ということをはるかに越えて、神に対する罪として無限に悪しきものなのであり、それゆえにこそ最も反発されなくてはならない。怒りにおいて利己的であるとき人は罪を犯す。なぜなら、神に属しており、自分に属してはいない私たちは、自分自身のものであるかのようにふるまったり、自分だけのためにふるまったりすべきではないからである。ある過失がなされて、それが神に対する罪であると同時に人を害するものでもあるという場合、そのことを苦にし、精神の反発を覚えるべき第一の理由は、それが神に背くものであるから、でなくてはならない。なぜなら人は、自分自身の地上的な利益よりも、神の栄誉のためにより熱心であるべきだからである。すべての怒りは、その理由については美徳であるか悪徳であるかの2つに1つである。善でもなく悪でもない中立的な理由などない。しかし、罪に対する反発であれ、それが罪として反発されるのでなければ、そこには何の美徳も善もない。美徳である怒りとは、云い方を換えれば、「熱心」と同じことである。私たちの怒りはキリストの怒りに似たものであるべきである。キリストは最大最悪の個人的な危害を加えられる子羊のようになられたが、神のために、罪としての罪に対して怒る以外、どこにも怒られたとは書いていない。私たちも同じ態度をとるべきである。さて怒りは、理由という点では、この三通りのありかたにおいて、不当で、キリスト教精神に反するものとなりうるが、同じように、

 3. 怒りは、その目的という点で、不適切な、罪深いものとなることがある。----そしてこれは特に2つのことでそう云える。

 第一に、怒ることによって得られるべき何の目的も、何の深い考えもなしに怒る場合である。このような怒りは、何の分別も、思慮も、目的もなく、やみくもにわき起こるもので、どこかでけりをつけるということができない。理性はその件にまるで無関係である。理性より先に激情が先走る。ここで怒ったら、自分にとって、他者にとって、どのような得があるだろうか、益があるだろうか、などとは一瞬も考えず、しゃにむに怒りを激発させてしまう。そうした怒りは、人の怒りではなく、獣の盲目的な激情である。理性的な被造物のいだく感情というよりは、一種の獣的な憤怒である。しかし人の魂のうちにあるすべてのものは、理性によって統率されるべきである。理性こそ私たちの存在における最高の精神機能だからである。その他の精神機能、その他の魂の内側にある傾向はみな、その適正な目的へ向けて、理性の統御のもとに方向づけられるべきである。それゆえ、私たちの怒りがこのような種類のものであるとき、それはキリスト教精神に反する罪深いものとなる。それと同じく、

 第二に、私たちが何らかの悪い目的のため怒りに身をゆだねる場合である。たとえ理性が、私たちの怒りについて、それは神の栄光のためにはなりえないものだと告げ、私たち自身の真の益のためには全くならないと告げ、いや全く逆に、私たち自身や他の人々にとって大いに害悪をもたらすものだと告げても、それにもかかわらず私たちは、自分の高慢を満足させること、自分の影響力を増大させること、自分が何らかの方法で他者の上に優越することを求めるがゆえに、こういった目的の片棒をかつがせるために怒りを発するにまかせ、罪深い精神にふけるのである。そして最後に、

 4. 怒りは、その限度において、不当で、キリスト教精神に反するものとなることがある。----そしてこれもまた特に2つのこと、すなわち、その程度の限度において、またその期間の限度において見られる。

 第一に、その怒りがその程度において度はずれている場合である。怒りは、その問題にとってふさわしい程度を超えて行き過ぎたものとなりうる。そしてしばしば、自分で自分を制御できなくなるほど大きなものとなる。そのように怒る人は、あまりにも大きな激情にゆさぶられるため、しばらくの間は自分が何をしているかわからず、感情も行動も自制できず、抑えられないようになる。時として人は、激情を高じさせるあまり、いわばその激情に酔ってしまい、理性を消し飛ばして、われを忘れたかのようなふるまいに及ぶことがある。しかし、怒りの程度は常にその目的によって制限されなくてはならず、理性の指し示す良き目的を達成するため必要な限度をいささかでも越えて高じることは決して許されるべきではない。それとともに、やはり怒りが限度を越えて罪深いものとなるのは、

 第二に、その怒りがその持続期間において度はずれている場合である。長い間にわたって怒り続けるのは、非常に罪深いことである。賢人は私たちに、「軽々しく心をいらだててはならない」、と命じているだけでなく、「いらだちは愚かな者の胸にとどまる」、ともつけ加えている(伝7:9)。また使徒も云う。「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」、と(エペ4:26)。怒りを長く持ち続けると、それはすぐに悪意へと変質してしまう。悪のパン種の方が善のパン種よりもはるかに早くふくらむからである。ある人がもし長い間他の人に対する怒りをいだいたままでいると、まもなく相手を憎むようになる。そしてそのようなことは、他者に対する恨みを心の中に何週間も、何箇月も、何年も持ち続ける人々の間では、実際よくあることである。しまいに彼らは、自分で認めようが認めまいが、怒りを積み上げてきた相手を心底から憎むようになる。これは、神の御目にとっては最も許すべからざる罪である。したがっていかなる人も、自分が心の中に怒りを長く持ち続けたままでないか、細心の注意を払うべきである。

 ここまでで私は、愛、すなわちキリスト者精神とは相容れないという、怒りっぽい、憤りにかられる精神がいかなるものかを示してきた。そこで先に提示した二番目の点を示すことにしたい。すなわち、

 II. 愛、すなわちキリスト者精神は、そうした怒りといかに相容れないものであるか。----このことを明らかにするため私が示したいのは、第一に、キリスト者精神の精髄であるという愛とは、罪深い怒りとは真っ向から、本質的に、相容れないものだということである。第二に、この聖句の前後で示されている愛の種々の実は、ことごとくそうした怒りと相容れないものだということである。

 1. キリスト者の愛は、あらゆる不適切な怒りと真っ向から、本質的に、相容れないものである。----キリスト者の愛は、その性質という点で、不適切な怒り----復讐を求め、悪意をはらんだ怒り----とは相容れないものである。なぜなら愛の性質は善意にあるからである。愛は、人を正当な理由もなく怒らせないようにし、決して些細な過失しかないのに怒らせたりはしない。愛は怒ることをしぶらせる。取るに足りない理由で怒りに身をまかせることはない。怒る理由が何もないのに怒ることなど、さらにありえない。理由もなく人を怒りにかりたてられるのは、悪意に満ちた邪悪な精神であり、愛の精神ではない。神への愛は、他人の過失に対して、それが主として自分を怒らせ、自分に害を加えたものだからといって怒りを発するような人間の性向とは正反対である。むしろ神への愛は、そうした過失を、主として神に背いて犯されたものとみなさせる。もし愛が働いているなら、それは激怒にかられた激情をなだめ、おとなしくさせようとする。そして理性と愛の精神は、激した感情を制限し、それが程度において度はずれたものとなったり、長くいだき続けるものとなったりしないようにする。だが、愛、すなわちキリスト者の愛は、本質的に直接、あらゆる不適切な怒りと相容れないだけでなく、

 2. 前後の文脈で言及されている、この愛の種々の実もまた、そうした怒りと相容れないものである。----私は、こうした実のうち2つだけに言及して、それらで全体を代表させることにしよう。それは、高慢とは逆であるという美徳、および利己心とは逆であるという美徳、の2つである。さて、

 第一に、愛があらゆる不適切で罪深い怒りと相容れないのは、その実において、高慢と相容れないからである。高慢は不適切な怒りの主たる原因の1つである。人は高慢で、自分の心の中で自分を持ち上げて考えるがゆえに、復讐心に燃え、たやすく気を荒だたせ、少しでも意に反することがあると大騒ぎするのである。しかり、彼らは、自分の面子がつぶされたと思ったり、自分の意に添わないことがあったりすると、本来ならば美徳であるものをも悪徳とみなす。また高慢であればこそ人は、あれほど理不尽で性急な怒りを燃やし、その怒りをあれほど限度以上に高じさせ、あれほど長くいだき続け、常習的な悪意という形にして保ち続けるのである。しかし、私たちがすでに見たように、愛、すなわちキリスト者の愛は、高慢とは完全に正反対なものである。また、

 第二に、愛があらゆる罪深い怒りと相容れないのは、その実において、利己心と相容れないからである。人は利己的で自分のことを求めるがゆえに、自分の利益に反したり、自分の利益とぶつかるようなあらゆるものに対して、悪意と復讐心をいだく。もし人が自分の個人的で利己的な利益を主として求めず、神の栄光と公共の利益を求めるなら、彼らの精神は、自分のことにはるかにまさって神のためにかき立てられるであろう。そして、だれかから危害を加えられたとか、腹立たしいことをされたとか思うことがあっても、やみくもに、性急で、無思慮で、限度を越えた、長くいだき続ける怒りに、たやすく屈しはしないであろう。むしろ、おおかたのところ彼らは、神のために、またキリストの栄誉に対する彼らの熱心のために、自分自身のことを忘れてしまうであろう。彼らの目指す目的は、自分を大ならしめることでも、自分の意志を通すことでもなく、神の栄光と彼らの同胞の幸福となるであろう。愛は、私たちが見てきたように、あらゆる利己心と正反対なのである。

 この主題の適用として、以下のことが云える。

 1. この主題は、私たちの自己吟味のために役立てよう。----誠実に、また手心を加えずに良心を探ってみるなら、自分がこれまで述べられてきたような怒りっぽく、憤りにかられる性向の人物であるかどうか、しばしば怒っているかどうか、悪意にふけっているかどうか、怒りが引き続くにまかせているかどうかは、自分が一番良く知っているであろう。私たちはしばしば怒っているだろうか? だとすると、その怒りが不適切で、正当な理由のないもの、すなわち罪深いものであると考えるべき理由はないだろうか? 神がキリスト者を御国に招いておられるのは、彼らを絶えず憤懣やるかたない思いにふけらせたり、始終怒りにかき乱されていさせたり、むかついていさせるためではない。また、あなたが心にいだいてきた怒りのほとんどは、ことごとくと云わないまでも、主として自分のための怒りではなかったろうか? 人はしばしば、自分が怒っているのはキリスト教の真理のため、義務のため、神の栄光のためを思ってのことだ、と抗弁しがちだが、実は本当に愛着をもって気にかけているのは、自分の個人的な利益のことだけでしかない。こと自分の栄誉や意志や利益にかかわる場合、人が、どれほど神と正義のためという旗印をかかげて勇躍立ち上がり、どれほどその見せかけのもとで他者を害したり訴えたりするものか、これには驚くべきものがある。彼らのそれ以外の場合、すなわち、神の栄誉は同じくらい、あるいははるかにまさって傷つけられているというのに、自分の利益が特にかかわらない場合におけるふるまいと、これとは何と大きな違いがあることか。後者の場合、前者のような霊の熱心や熱意は全くない。真っ先に飛び出して叱責したり訴えたり怒ったりすることは全く見られない。むしろしばしば見られるのは、ことさらな弁解がましさ、叱責は他人にまかせたいという態度、罪への反発のようなことには冷めた、後ろ向きな素振りである。

 そしてさらに自問していただきたい。あなたの怒りによって、どのような益が得られてきただろうか? あなたがその怒りによって目指してきたものは何だったのか? これまでこの町の公的な場で起きた物事には、多大な怒りと憤激が伴っていた。あなたがたのうち多くがそうした機会に立ち会ってきた。またそうした怒りは、あなたがたの行動に如実に見られてきたし、私が恐れるに、まだあなたがたの胸のうちにとどまっている。この件について自分を吟味し、あなたの怒りにはどのような性質があったのか問うていただきたい。そのすべてとは云わぬまでも、ほとんどは、これまで語られてきたような不適切で、キリスト教精神に反する種類の怒りではなかったろうか? 悪感情と悪意、心の苦々しさをはらんだ怒り----高慢で利己的な原理から生じた怒り、自分の利益や自分の意見、自分の所属党派がかかわっていたがために起こった怒りではなかったろうか? あなたの怒りは、あの、愛を妨げず、感情を苦々しくせず、行動における不親切や復讐につながることのないキリスト者的な熱心とは、ほど遠いものではなかったろうか? また、怒りを抑えるという点にかけてはどうだったろうか? あなたは、あなたの怒っていることを神も隣人も知っているというのに、一晩や二晩日没が訪れても怒ったままだったことがあるのではなかろうか? 否、それどころか、何度夜を迎えても、何箇月経とうと、何年経とうと、あなたの怒りは冬の寒さによっても熱を冷まさず、夏の暑さによっても溶かされることがなかったのではなかろうか? また、ここに出席している方々の中には、自分の心に怒りを積み上げ、心中怒りを燃やしながら神の前に座っている人がいるのではなかろうか? あるいは、たとえその怒りがほんのしばらく人の目からは隠されているとしても、それは完全には癒えていおらず、ちょっと触れられただけで、たちまち疼き出す古傷のようなものではないだろうか? あるいは、そよ風一吹きで炎と燃え上がる、落ち葉の山に埋もれた熾火のようなものではないだろうか? さらにまた、あなたの家庭生活はどうだろうか? 人と人の結びつきの中でも、家族ほど緊密に結ばれたものはない。家族同士ほど近しい関係にある者はなく、これほど平和と調和と愛を交わし合う義務を負った者たちはない。それにもかかわらず、家族の中であなたはどのような精神でふるまってきただろうか? 神が、かくも密接にあなたに依存するよう定めてくださった人々、かくもたやすくあなたの云うことなすこと----あなたの親切、不親切----によって幸せにも不幸にもなる人々に対して、あなたは何度となく腹を立て、怒りを発し、苛つき、機嫌を損ね、不親切だったのではなかろうか? そしてあなたは家族の中でどのような種類の怒りに身をまかせてきたろうか? それはしばしば、その性質においてばかりでなく、その理由においても筋の通らない、罪深い怒りではなかったろうか? あなたが怒りを向けた相手には何の過失もないとか、あっても取るに足りないことだったか、悪気でしたことではなかったか、あるいはおそらく、部分的にはあなた自身にも落ち度があったのではなかったかろうか? よしんば正当な理由のある怒りだったとしても、あなたは怒りを持ち続け、あなた自身の良心に照らしても賛成できないほど不機嫌で苛酷な態度に走りはしなかったろうか? そしてあなたは、あなたのそばに住み、日々つきあいのある隣人に対して怒ってはこなかっただろうか? 些細な理由や、たいして重要でもないことのために、隣人に対する怒りに身をまかせたことはなかったろうか? これらすべての点において、私たちは自分を吟味するべきである。自分がどのような種類の精神の持ち主であるか、どの点でキリストの精神に及ばない者であるかを知るべきである。

 2. この主題は、あらゆる不適切で罪深い怒りを発さないよう忠告し、そうした怒りについて警告するものである。----人の心は、たやすく不適切で罪深い怒りに傾きがちであり、生来、高慢と利己心に満ちている。また私たちの生きる世界は、私たちのうちにあるこの腐敗をかき立てる理由だらけである。したがって、絶えず油断せず祈りをしていく以外、この点において、そこそこにでもキリスト者らしく生きることは全く望めない。また私たちは、具体的に怒りを発さないよう油断せず祈るだけでなく、怒りの原理に対しても戦い、それが心の中で抑制されることを熱心に求めるべきである。そのためには、神から出たこの聖い愛とへりくだりの心を、魂の内側で確立し、増し加わらせることである。その具体的手段として、いくつかのことが考えられるであろう。すなわち、

 第一に、神と人を不快にさせてきた、あなた自身の失敗をしばしば考えなさい。あなたはこれまで一生の間、神の基準に到達することなく、それゆえ当然、神の戦慄すべき御怒りを受けてしかるべき者であった。それであなたは、神があなたをお怒りにならず、あわれみを示してくださるようにと、絶えず神に祈ってきたものだった。またあなたの同胞に対するあなたの失敗も数え切れないほどあり、しばしば彼らを怒らせてきたものだった。おそらくあなたも、人と同じくらいひどい過失を犯してきたのである。このように考えてみるとき、当然あなたは、他人の目にあるちりにむかっ腹を立てて時間を費やすよりは、むしろ自分の目にある梁を取り出すことに時間を費やすのでなくてはならない[マタ7:3]。ちょっとしたことでもたちまち他者に怒りを発するという人々、また他者の過失に対して根深く怨みを持ち続けるという人々は、非常にしばしば自分でも、相手と同じ過失を、相手と同じくらい、へたをすればそれ以上に犯しているのである。それで、だれかに悪口を云われたといってすぐ怒りを発する人は、しばしば、だれよりも多く他人の悪口を云うものであり、悪口を云うという相手をそしり、けなす、その怒りにおいてすら自分で悪口を云っているのである。それゆえ、もし他人が腹立たしいことをしたなら、彼らに向かって怒るかわりに、まず最初に自分のことを考えようではないか。そして、自分の姿を反省してみようではないか。自分の怒りをかき立てている、まさに同じようなことを自分もしてきてはいないだろうか、否、それよりずっと悪いことをしてきてはいないだろうか、と自問してみようではないか。このように、自分自身の失敗や過ちについて考えるとき私たちは、他者に対する不適切な怒りにはかられにくくなるであろう。さらにもう1つ考察しなくてはならないのは、

 第二に、このような不適切な怒りが、いかにそうした怒りに身をまかせる人の慰めを台無しにするか、ということである。そうした怒りを宿した魂は、暴風の吹きすさぶ大海のように波立ち騒ぐものである。そんな怒りをいだいていては、人は快活な心持ちを保てず、心に何の真の平安も、何の自尊心も持っていられない。怒りっぽく憤りにかられる気質の人々、四六時中苛立っている人々は、だれよりもみじめな種類の人間であり、だれよりもみじめな生活を送っている。だから私たち自身の幸福を大切に思う気持ちからも、あらゆる不適切で、罪深い怒りを遠ざけるべきである。さらに考えなくてはならないのは、

 第三に、そうした精神がいかに人を、神と人に対して奉仕する資格がない者としてしまうか、ということである。不適切な怒りをいだく人はみな、神に対する敬虔な礼拝や、人に対する活発な奉仕を行なうのに不向きな者となる。そうした怒りは、神との交わりを最大限に楽しみ、真理と従順によって最大限に益を受けられる、あの甘やかで気高い精神状態から、私たちの魂をほど遠いものとしてしまう。だからこそ神は私たちに、他者と仲違いをしている間は祭壇に近づいてはならず、むしろ、「まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい」、と命じておられるのである(マタ5:24)。だからこそ使徒は云うのである。「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい」、と(Iテモ2:8)。さらにもう1つ考えなくてはならないのは、

 第四に、聖書によれば、怒りっぽい者は人と交わる資格がない、ということである。神の明確な命令には、こう書かれている。「おこりっぽい者と交わるな。激しやすい者といっしょに行くな。あなたがそのならわしにならって、自分自身がわなにかかるといけないから」、と(箴22:24、25)。社会をかき乱し、何もかも混乱に陥れるような人間は、いとわしい、社会の厄介者である。「怒る者は争いを引き起こし、憤る者は多くのそむきの罪を犯す」(箴29:22)。その人と一緒にいるとだれも心安らがず、その行ないはよこしまであり、その行動は神からも人からも非とされるのである。では、すべての人は、こうした事どもをよくよく考えて、怒りっぽい精神、怒りっぽい気質を遠ざけ、柔和で親切で愛に満ちた精神を養うようにするがいい。それこそ天国の精神なのである。

愛は怒らず[了]

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