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8. 愛は私利を求めず

「愛は……自分の利益を求めず」 Iコリ13:5

 これまで私は、愛が他者の益となることについてどのようにふるまうものか、ということで特に2つのことを示した。すなわち愛は、他人に対して親切であり、他人の持つ喜びや幸せをねたまなかった。また私はこの愛が、自分が持つ良きものについては、思いにおいても態度においても、高ぶることのないものであることを示してきた。そこで、使徒が語る次の点に移ることにしたい。愛は「自分の利益を求め」ない、のである。この言葉から明らかにわかる教理は、

 愛の精神、すなわちキリスト者の愛は、利己的な思いとは正反対のものである、ということである。

 アダムとエバの堕落は、人間の魂に非常に大きな荒廃をもたらした。人間は、あの高貴で慈悲深い精神を失い、完全に自己愛のとりこ、奴隷となってしまった。かつて、神から創造されたばかりのときの人間は、まことに高貴で、心豊かな存在であった。しかし今は、卑しく、下劣で、利己的な者になり果てている。堕落が起こるや、あれほど偉大で、寛やかであった人間の心は、たちまちにして小さく縮こまり、極端に矮小で、狭量なものとなった。このことを何よりも如実に示しているのが、この、自分の利益を求めるという点である。かつて人間の魂は、あの高貴な聖い愛によって支配されていて、同胞を思いやり、その幸福を気づかう心の広さがあった。そればかりか、単に被造世界の領域にとどまらず、その上におられる万物の創造主に聖い愛をささげていた。人間の愛は、神のうちにある無限の愛のうちに没入し、大海にのみこまれた小舟のように、神の愛と全く1つとなっていた。しかし、ひとたび彼が神にそむくや、たちまちこれらの高貴な精神は消えうせ、この魂の気高さ、心豊かさは失われてしまった。それ以来人間は、まわりのすべてを自分から切り離し、かたく閉ざした自分のからに閉じこもるようになった。罪は強力な収斂剤のように、人の魂を極度に小さく、せせこましく、利己的な存在へと縮こめてしまった。神は捨て去られ、同胞は捨て去られた。人間は自らのうちに引きこもり、心の狭い、利己的な思いによって完全に鼻面を引き回されるようになった。利己愛が魂の絶対君主となり、それより高貴で霊的であった支配原理は、あとかたもなく消え去ってしまった。しかし神は、この悲惨さのうちにある人間を憐れんで、救いのみわざに乗り出された。ご自分の御子の栄光の福音によって、人間の魂を矮小さと卑小さから解放し、再びあの、かつて人を動かし支配していたような高貴で聖い精神を回復させようとしてくださった。そしてキリストの十字架こそ、神がそのために用いられた方法であった。私たちをキリストと結び合わせることによって、神は私たちをご自分のご性質にあずからせてくださる。そのようにしてキリスト教は、人間の魂にすぐれて気高い心の寛さ、豊かさ、大きさ、伸びやかさを取り戻させるのである。それは、この節に見られるような聖い愛によって実現される。この愛によってこそ魂は、再び自分の同胞をいつくしむようになる。この愛によってこそ魂は、再び創造主に献身し、創造主をすべてとするようになる。こうしてキリスト者精神の結晶たる愛は、神の聖いご性質の満ち満ちた栄光にあずかり、「自分の利益を求め」ず、利己的な思いとは正反対のものとなることができるのである。この点を詳しく見ていくにあたり私は、まず愛と正反対のものにあたる利己的な心とは何かを示したい。次に、愛がその利己的な心とどのように対立するかを示し、最後に今述べた教理を証明する証拠をいくつか挙げることにする。

 I. 愛と正反対のものにあたる利己的な心とは何か。----まずここで云いたいのは、

 1. 否定的に云って、愛、すなわちキリスト者の愛は、いかなる種類の自己愛にも反対するものではない、ということである。----キリスト教は、人が自分を愛することに異を唱えるものではない。あるいは(同じことだが)、人が自分の幸福を愛することに反対するものではない。実際もしキリスト教が、人を自分自身や自分の幸福を愛さなくなるように仕向けるものであったら、それは人間性を根底から破壊するものといっていいであろう。しかし福音は、地には平和、人々には神からの善意をもたらすものである(ルカ2:14 <英欽定訳>)。その福音が語っているのは、まさに福音は人間性を破壊するどころか、何にもまして人間性をその根底から豊かにするということである。人間が自分自身の幸福を愛するということは、人に意志の力があるのと同じくらい、人間に本性上抜きがたく結びついたことである。そのような愛を断ち滅ぼすのは、存在そのものを消し去らない限り不可能である。聖徒は自分の幸福を愛している。しかり、すでに完全な幸福に達している聖徒らや御使いたちでさえ、自分の幸福を愛している。さもなければ、神が彼らに与えた幸福は彼らにとって何の幸福でもないであろう。愛せもしないもので、幸福になることはできないからである。

 また、自分を愛することが何らさしつかえないものであることは、神の律法のことばからも明らかである。神は、私たちが他者を愛すべき尺度、ものさしとして、自己愛を用いられた。そのようにキリストは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」、と命じておられる(マタ19:19)。これは確かに、私たちが自分自身を愛してもよい、否、愛さなくてはならない、ということを前提にしている。これは、「あなた自身よりも愛せよ」、と云うのでなく、「あなた自身のように愛せよ」、と云っている。しかし私たちは、自分の隣人を神の次に愛せよと云われているのであるから、当然私たちは自分自身を、神ご自身を愛する次に愛すべきなのである。同じことは、聖書が最初から最後まで、自己愛という原理に訴えかける動機で満ちているという事実からもわかる。神のみことばにふくまれる約束や警告、また召しや招きは、みな自分の利益をはかれ、悲惨な状況に陥らないよう注意せよ、という勧告や警告である。こうした事柄は、私たちの希望や恐怖に訴えるのでなければ、私たちを動かす力にはならない。なぜなら、幸福を愛しもせず、悲惨さを恐れもしない人間に、幸福の約束をしたり、悲惨さの威嚇をしたりすることが何になろう。そうした人に、幸福を求めよ、悲惨を避けよ、と勧めることが何になろう。このように事は明白である。否定的に云えば、愛、すなわちキリスト者の愛は、必ずしも、あらゆる種類の自己愛に反対するものではない。さて次に、

 2. 肯定的に云えば、愛、すなわちキリスト者の愛が反対する利己的な心とは、行き過ぎた自己愛にほかならない。----しかしながら、ここで疑問が生ずる。行き過ぎとは、何が行き過ぎなのか。この点については、はっきり明確に示さなくてはならない。多くの人々が戸惑いや疑念を感じ、反発するのは、この点にあるからである。したがって、ここでその答えを出しておこう。

 第一に、自己愛の行き過ぎとは、自分の幸福に対する愛情が、絶対的な意味において、あまりにも強すぎるとか、多すぎるとかいうことではない。----ある人が自分の幸福を愛する愛は、他との関係を考えず、それ自体として考えるなら、程度が大きすぎるというようなことは決してない。またこの愛は増えたり減ったりするようなものではない。なぜなら、このような意味における自己愛は、堕落の結果生じたものとは思えないからである。この愛は、あらゆる知的被造物に必然的に備わっているもの、神からすべての人に同じように与えられたものである。聖徒であれ、罪人であれ、どのような者もみな幸福を愛し、幸福に対して、決して変わらぬ本能的なあこがれ、欲求を有している。人が回心し、聖められたときに起こる決定的な変化は、幸福に対する愛が減ずるということではなく、単にその愛の実際の働きや影響力、またその愛の向かう方向や対象が、しかるべく位置づけられるということなのである。天国に入った幸福な魂よりも、地獄に落ちたみじめな霊たちの方が、純粋に幸福を愛しているなどと云えるだろうか? もし聖められることによって幸福に対する愛が減少するのなら、彼らの幸福そのものが減少してしまうであろう。人は、幸福を愛さなくなればそれだけ幸福を楽しむことができなくなり、その結果、それだけ不幸せになるからである。

 神は、回心によって、ある魂を惨めな状態から幸せな状態へと導き入れなさるとき、以前その魂が持ってもいなかったような幸福をお授けになるが、それと同時に、その魂から幸福を愛する愛を取り上げるようなことは決してなさらない。だから聖徒は恵みに進めば進むほど幸せになるが、それにともなって、その幸福に対する愛、また幸福を喜ぶ喜びが減るようなことはないのである。そのようなことになれば、幸福は、増し加わるそばから減少することになる。神が惨めな魂を幸せにしてくださるとき、あるいは幸せな魂をより一層幸せにしてくださるとき、その魂は以前から持っていた幸福への愛を決して奪われはしない。疑いもなく聖徒たちは、自分の幸福に対する愛、すなわち自分自身への愛を、悪人と同じだけ持っているべきである。したがって、もし人の自分自身に対する愛を、または自分の幸福に対する愛を絶対的な意味で考えるなら、自己愛の行き過ぎとはそうした愛の分量とか、程度の強さにあるのでないということは明らかであろう。それはあらゆる人にとって同じだからである。しかし、私が次に注意を喚起したいのは、

 第二に、腐敗した利己心の眼目とも云うべき、この自己愛の行き過ぎとは、主として2つのことから成っているということである。すなわち、----自分の幸福に対する愛が、比較的に強すぎるということ。また自分の幸福のことしか考えない、閉鎖的な愛になるということである。まず最初に、自己愛は「比較的に」強くなりすぎることがありうる。また、あまりにもそうした自己愛に支配されすぎるようになることがありうる。確かに自分の幸福を愛する愛は、その絶対量だけ考えるなら、誰であれ強すぎる、弱すぎるということはない。しかし、自分を愛する愛が、他人への愛に対して占める比重は人によって違うであろう。自分を愛する愛と、他人を愛する愛をくらべるとき、ある人は自分を愛しすぎている----つまり、自分への愛に比重を置きすぎていると云うことができる。それは、自分を過度に愛しているというより、他人への愛に欠陥があるためかもしれない。しかし、このように比重の傾きすぎた自己愛は、行き過ぎた愛となる。すなわち、その人の人格を左右し、支配する力として、行き過ぎのある愛となってしまう。自己愛の原理は、それ自体を考えると、神への愛および同胞への愛と均衡が取れていようといまいと量的には全く変わりない。しかし、一度その均衡が失われ、比重が増すと、人格を左右し、支配する力としては大きくなる。そして、そのようにして自己愛は、自己愛を抑制し、規制すべき他の愛が弱かったり、存在しなかったりすることから、行き過ぎたものとなってしまうのである。

 これは、ある家の従僕と主人一家の関係にたとえることができる。その従僕は、主人がしゃんとして実権を握っている間は、使用人としての分限を越えることなく、家内における影響力も小さなものであった。しかし、やがて主人が年老いて弱くなり、家族の者にも以前のような力がなくなってきたとする。すると、その従僕の力は全く同じであるにもかかわらず、彼の力の比重は過度に大きなものとなりうる。そして隷従の立場から、一家の支配者となってしまうかもしれない。そのように、自己愛も行き過ぎたものとなるのである。人間は、堕落の前も、堕落後と同じくらい自分を愛し、自分の幸福を愛していた。しかしその時には、より高次の、聖い愛の原理が心の王座を占めており、強大な力をもって自己愛を制御し、方向づけていた。しかし堕落が起こってからは、その聖い愛の原理は力を失った。否、死に絶えてしまった。それで自己愛は、以前の力を保ったまま、より高次な原理に規制されることがないため、全人格に対する支配力を過度に強め、本来は長上に従うべきしもべでなければならないところで君主となってしまった。だから自己愛は、その人格に対する支配力が比較的に行き過ぎたものとなっているのである。神への愛、同胞への愛は、聖徒の場合でさえ、----この世では、まだ大量の腐敗が彼らにこびりついているため----あまりにもちっぽけで小さい。いわんや、聖い愛などかけらも持たない者らの場合には、全く欠如している。このように、自己愛の行き過ぎとは、絶対的な意味において行き過ぎがあるというより、むしろ比較的な意味において、あるいは、その影響力の程度について行き過ぎがあることをいうのである。ある点で邪悪な人々は、自分を十分には(敬虔な人々ほどには)愛していない。なぜなら、真の幸福、本当の幸いへ至る道を愛さないからである。こういう意味では邪悪な人々は自分自身を憎んでいるともいえよう。しかし、他の意味では、彼らは自分をあまりにも愛しすぎている。

 2つ目のこととして、自己愛、すなわち、ある人が自分の幸福を願い、慕い求める思いは、その幸福を自分のことだけに限定するということによって行き過ぎることがある。この場合の誤りは、自分を愛する思いの程度ということにはなく、その愛が向かう道筋にある。自分の幸福を愛する程度ではなく、自分の幸福を、ふさわしくないほど絶対化し、自分の愛を他に対して拒み、閉鎖してしまうことにある。ある人々は、自分の幸福を愛さないわけではないが、その幸福を自分ひとりの幸せ、自分だけの幸福にしてしまうことはなく、公共の利益を考える。すなわち他の人々の利益を考え、他の人々にとって益となることを求める。自分の幸福をこのような方向で求めていく人の愛を利己主義と呼ぶことはできない。全く逆のものである。しかしある人々は、自分の幸福を愛することを、他人のことなどおかまいなしに、自分ひとりの利益を求めることにしてしまっている。これが利己主義である。これこそまぎれもなく聖書がはっきり非難する種類の自己愛である。そして、愛は自分の利益を求めず、と云われるとき、それは自分ひとりの個人的な利益、個人的なことに限定された利益のことと理解されなくてはならない。「自分の利益」とは、自分の所有ということであり、まさしく自分ひとりの物にするという意味を示している。同じように、類似の句をふくむピリピ書2:21、「だれもみな自分自身のことを求めるだけで」では、限定された、私有の利益、あるいはある人が一個人として、自分ひとりに属するものとして持つ利益、他の誰とも分かち合わず、誰とも共有しない利益、他人を押しのけ、排除するような利益が意味されている。IIテモ3:2の、「そのときに人々は、自分を愛する者……になり」、という表現も同じである。これは、自分のことだけを思い、他人をみな締め出すような、心の狭さを示しているからである。

 人は、誰にも劣らぬほど自分を愛し、絶えず自分の幸福を追求し、幸せになりたいという尽きざる思いを抱きながら、なおかつ、その幸福の追求にあたって、神に対する深く大きな愛に生きることができる。たとえば、その人の慕い求める幸福が神を喜ぶこと、神の栄光を見ること、あるいは神との交わりを保つことなどである場合である。また、神の栄光を現わすことを自分の幸福とする人もあるかもしれない。その人にとって、考えうる限り最大の幸福は、できる限りの栄光を神に帰すことであろう。彼はこの幸福を慕い求めるであろう。そのようにして、その人は自分が幸福と考えるものを愛するのである。なぜならその人は自分の幸福を愛していたからこそ、自分が幸福と考えるものを慕い求めるようになったのだし、自分の幸福を愛するとは、とりもなおさず自分を愛することだからである。しかしながら彼は、その同じ行為によって神を愛するのである。彼は神を自分の幸福としている。何かを、あるいは誰かを自分の幸福とするということほど、愛という行為をふさわしく云い表わすものはない。だから人は、他の人----たとえば、自分の隣人----の利益をはかることによって幸福を求めることもありうる。そして他人の利益を求めるような幸福を願い求める人は、そうした追求によって自分自身を愛し、自分自身の幸福を愛するのである。しかしそれは利己主義ではない。なぜなら、それは閉鎖的な自己愛ではないからである。むしろ、その人の個人的な自己愛は、他の人をも伴い、巻き込んでいく形で働く。いわばその人の愛する自分という枠が大きくふくれあがり、増幅したのである。だから自分を愛するという行為が、そのまま他人を愛することになる。これこそキリスト者精神である。これこそ、イエス・キリストの福音が伝えている、あの気高く高貴な精神である。これが、この聖句で語られている、神から出た聖い愛の特質、キリスト者の愛の特質である。そしてキリスト者精神が真っ向から対立する利己的な精神とは、他人の幸せにつながらない、閉鎖的な幸福だけを追い求める自己愛をいうのである。それは世俗的な富や、隣人よりも自分を高める栄誉や、この世的な安楽や、肉欲や情欲の満足などを求める自己愛である。

 このように、どのような種類の利己心がキリスト者精神と対立するかを示したので、先に述べたように、次の点へと進むことにする。

 II. 愛の精神、すなわちキリスト者の愛は、どのような点でこうした利己心と正反対であるか。----これは、次の2つのことによって示されるであろう。まず、愛の精神、すなわちキリスト者の愛は、私たちに、自分のことだけでなく、他人のことも求めさせるようにする。またこの愛は私たちに、多くの点で、自分の持っているものを他人のために譲らせ、捨て去らせるようにする。ここではまず、

 1. 愛の精神、すなわち愛は、この愛を持つ人をして、自分自身のことだけでなく、他人のことも求めさせるようにする。

 第一に、そのような精神は、神を喜ばせ、神の栄光を現わそうとする。神とキリストのみこころにかない、そのご栄光を現わすことを、聖書はキリストのことと語っている。その逆が、私たち自身のことである。「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません」(ピリ2:21)。キリスト教は、私たちが神とキリストを自分の人生の第一目的とすることを要求する。キリスト者は、キリスト者としてふさわしく生きようとする者である限り、みな、「私にとっては、生きることはキリスト」、という態度で生きる[ピリ1:21]。キリスト者は神を喜ばせる生き方をしなくてはならず、「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」のでなくてはならない(ロマ12:2)。私たちは、使徒が云うように、しもべとして自分の主人をあらゆる点で喜ばせようとするべきである。「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない……なさい」(エペ6:6)。また私たちには、あらゆることにおいて、すなわち、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすことが求められている(Iコリ10:31)。確かにこのような精神は、自分の利益をひたすら追求する生き方とは真っ向から対立するものにちがいない。

 第二に、愛の精神、すなわちキリスト者の愛を持つ者には、自分の同胞の利益を求める思いがある。だから使徒は、「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい」、と命じている(ピリ2:4)。私たちは他の人々の霊的な益を求めるべきである。もしキリスト者精神があるなら、私たちは人々の霊的福祉と霊的幸福を願い、それを追い求めるはずである。彼らが地獄から救われて、神の栄光を現わし、永遠に神を喜ぶようになることを願うはずである。そしてそのような思いがあれば、その人々の物質的な益をも願うのは当然である。使徒も云う。「だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい」、と(Iコリ10:24)。また私たちは、できる限り人に気持ちよい思いをさせるべきである。これもまた使徒が云うように、人々の益を心がけることとなる。「私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのです」(Iコリ10:33)。また、「私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです」(ロマ15:2)。

 さらにこの点を詳しく見ていくならば、こう云える。愛の精神、すなわちキリスト者の愛が私たちの同胞へ向かって流れていくとき、利己的な精神と全く異なるのは、それが同情深く、情け深いという点である。愛に導かれる人は、自分自身の困難ばかり思わず、他人の重荷、他人の苦しみを考え、その困難な境遇を思いやる。そして苦難、窮乏のうちにある人々をわがことのように心配する。逆に利己的な精神の人は、すぐ自分の苦しみを大袈裟に云い立てて、悲劇の主人公にでもなったかのように騒ぎ立てる。ところが自分が苦しい目にあっていないときには、他人を助けるため自分のものを分け与える義理などないと考えるのである。利己的な人間は、他人の必要に対して鈍感で、全く気づきもしないことが多い。人のことを気にかけたり、思いやったりすることなどめったにない。しかし愛の精神の人は、他人の苦しみをすぐ感じとり、彼らの悩みに目をとめる。自分が同じ状況に陥ったのと同じくらい相手のことを心配する。そしてまた喜んで彼らを助けようとし、彼らの必要を満たし、彼らの困難を取り除くことを喜ぶ。そういう人は喜んで使徒の命令に従う。「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛……を身に着けなさい」(コロ3:12)。また、「あわれみ……に満ち」た「上からの知恵」を胸に抱く(ヤコ3:17)。あの詩篇作者が語った義人のように、「いつも情け深く」ある(詩37:26)。これはすなわち、あわれみに満ちているということである。

 また愛の精神が同胞に向かって流れるとき、利己主義と異なるのは、同情深く、情け深いということだけでなく、物惜しみをしないという点である。愛は、苦しみにあう人々の利益をはかるだけでなく、すべての人々に惜しみなく分け与え、機会さえあれば、あらゆる人の益を増し加えようとするものである。愛は善を行なうこと、持ち物を人に分けることを怠らない(ヘブ13:16)。むしろ、「機会のあるたびに、すべての人に対して……善を行ないましょう」、という使徒の勧告に従う(ガラ6:10)。しかしこの点に関しては、すでに「惜しみなく愛は与う」という説教で詳しく述べておいたので、多くを語らないことにする。

 さらに愛の精神、すなわちキリスト者の愛が利己的な精神と全く異なるのは、同情深く、物惜しみしないのと同じく、公共心に富むという点である。正しい心の持ち主は、度量の狭い、個人主義的な人ではない。自分の属する共同体、特に自分の住む市町村の利益、まわりの社会の本当の福祉に深い関心を持つものである。神は、あの捕囚としてバビロンに連れ去られたユダヤ人に対し、その町の益をはかれと命ぜられた。異国の、しかも捕囚の町であるにもかかわらず、「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ」、と命ぜられたのである(エレ29:7)。真のキリスト者精神の持ち主は、母国の利益、地域の利益を熱心に求め、自らその発展、進歩のために力を尽くそうとするものである。福音書のある人物はユダヤ人から、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です、といってイエスに推薦された(ルカ7:5)。逆にイスラエル人の中のある者らは、「ヨセフの破滅のことで悩まない」ことで、非常に神を怒らせた(アモ6:6)。エステルが自分の民を救うために自ら断食し、祈り、他の者たちにも断食と祈りをさせたことは、彼女の永遠の誉れとして記録されている(エス4:16)。また使徒パウロは、自分の同国人の救いを衷心から願い求めている(ロマ9:1-3)。そしてキリスト者の愛の精神を持つ者は、さらに広い心を持っている。彼らはまわりの社会の繁栄を心がけるだけでなく、神の教会の繁栄を心がけ、神の民ひとりひとりのことを心配する。神の人モーセは、このような思いを持つ人であった。だから彼は、目に見える神の民のために熱心にとりなし、彼らが滅ぼされないためなら自分が死んでもよいとさえ云ったのである(出32:11、32)。パウロもそのような人物である。ユダヤ人ギリシャ人の区別なく、すべての人の幸いを願った彼は、何とか幾人かでも救えないかと、すべての人に自分を合わせていた(Iコリ9:19-23)。

 公共の益を向上させるために、キリスト者の愛が特に働きかけるのは、牧師や、判事や、行政官などの公の職務につく人々である。キリスト者の愛を持つ行政官は、父親が家族の幸せを気づかい、心がけるのと同じように、社会の父として、公共の利益を気づかい、心がけるものである。彼らは公共の危険を警戒し、公共の利益を高めるために遅滞なく自分の権力をふるう。職務においては、利己的な動機で動かされることがない。それは自分の富を増すためではなく、他人をふみつけにして出世し、偉くなるためでもない。よこしまな支配者たちは、しばしばそのような動機で動く。しかし彼らは、自分の権威の及ぶすべての人々が真に幸福になるため力を尽くして働く。またそれと同じ精神を持つのが牧師たちである。彼らもまた自分のことを求めたり、会衆からしぼり取ったもので自分や家族を富まそうとしたりせず、あの大牧者からゆだねられた群れの益をひたすら求める。彼らを養い、彼らのために警戒し、彼らを良い牧場に導き、彼らを凶暴な狼や野獣から守るために戦う。そのように私たちは、どんな栄職や重職につこうとも、与えられた職務において熱心に公共の利益のために働いていることを示すべきである。それは、私たちの生によって、いくらかでもこの世を良いものとし、世を去るときには、ダビデについて残されたあの立派な証言のように、私たちが「その生きていた時代において神のみこころに仕え」た、と云われるためである(使徒13:36)。

 2. 同じように愛の精神、すなわち愛は、私たちをして、多くの点で、他人のために自分のものを譲らせたり、捨て去らせたりする。----愛に導かれる人は、神の栄光を現わすため、キリストの御国の進展のためなら、自分個人の物質的な利益は捨て去り、惜し気もなく投げうつ。これこそ、使徒パウロが次のように叫んだときの思いであった。「私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています」(使徒21:13)。またこの同じ思いに導かれる人は、しばしば自分の個人的な利益を、隣人の利益のために譲ったり、捨て去ったりする。機会さえあれば常に喜んで隣人をささえ、助けようとする。他の人の大きな益のためなら、自分のつまらぬ利益など喜んで断ち切ることができる。「私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」、ということばを実行することさえもありうる(Iヨハ3:16)。しかしこの点については、今はくわしく語らないことにする。おそらく先に続く部分で、より多くを語ることがあるであろう。したがって私はここで、先に述べた第三の点に移り、

 III. 上で述べた教理を証明する証拠のいくつかに言及したい。----愛の精神、すなわちキリスト者の愛は、利己的な思いとは正反対のものである、という教理の正しさは、次の3つのことを考察するとき、おのずと明らかになる。その3つとは、一般的な愛の性質、キリスト者の聖い愛に特有の性質、そして特に、神と人に対するキリスト者の愛の性質、である。

 1. 一般的な愛の性質。----愛とは、それが本当の意味で真に真摯なものであれば、自分を越えて広がる性質を持ち、他者の利益をこころがけるものである。これは、生来の性情による愛や、地上的な友情においても云えることである。そこに真の愛情や友情がある限り、そうした愛情や友情を宿す間柄の人々は、自分一個の利益しかはからないということはなく、互いに相手の益になることをこころがけ、求めるのである。彼らは自分のことだけでなく、友のことをも考える。利己心は心を縮めこませ、自分のことしか考えないようにさせてしまうが、愛は心を大きくし、他者へと広がっていく。愛によって人の自我は大きく広げられ、他者をも----自分の愛する者である限り----さながら自分自身の一部としてしまう。それで彼らの利益がはかられるとき、人は自分自身の利益がはかられたかのように思いみなし、逆に彼らの利益が損なわれるとき、自分自身の利益が損なわれたかのように感じられるのである。このことをさらに明らかにするのが、次に考察する、

 2. キリスト者の聖い愛に特有の性質、である。----愛、すなわちキリスト者の愛において、とりわけ真実なこと、それはその愛が利己主義を越えたものだということである。他者に対する真実な愛はみな、愛する者の益を求め、その利益をはかるものではあるが、キリスト者の愛以外の愛はみな、ある意味で利己主義にその土台を置いている。それは、両親がわが子に対して感ずる生来の愛情についても、親戚同士が互いに対して抱く愛情についても同じである。本能の衝動を別にすれば、自己愛こそ、その主たる動機である。人は自分を愛するがゆえに、自分の家族や所有物を愛し、近親者を愛し、自分に所属すると思うものを愛し、社会制度上その利益や名誉が自分のそれと結びついたものを愛するのである。そしてこれは、人の世に存在する最も親密な友情についても云えることである。自己愛は、友情を生じさせる源泉である。時として人は、だれかから親切にされたり恩恵を施されたりすると、生来の感謝の情が自己愛を通して働き、自分に親切にしてくれた人々や、自分の利益をはかってくれた人々を同じように大事にしたい気持ちを覚える。また時として生来の人は、他人のうちに自分にとって好都合な特質が見られる場合、自分の利得を愛する思いから、他者との友情を結ぶことがある。自分をちやほやし、持ち上げてくれる人がいる場合、自分の栄誉を愛する思いから、そうした人々との友情を結ぶ。あるいは、気前良くものをくれる人がいる場合、自分の利益を愛する思いから、そうした人々と友情を結びたいと思う。あるいは、自分と気質や生き方の点で非常に意気投合する人々がいる場合、自己愛によって人は、そうした相手とつきあう楽しさのゆえに、あるいは彼らの気質や生き方が自分のと同じであるということそのものが、自分の気質や生き方が間違っていないという保証になるがために、彼らと仲良くなるなるかもしれない。こうした例以外にも、自己愛が生来の人々の間に愛や友情を生じさせる場合は数多くある。世にある愛のほとんどは、この原則から生じており、それゆえ天性以上のものにはならない。つまり、天性は自己愛を越えたものにはなれず、人間のすることなすことはみな、何らかの形でこの自己愛に根ざしているのである。

 しかし神から出た聖い愛、すなわちこの聖句で語られている愛は、自己愛を越えたもの、超自然的なもの、天性によるあらゆるものを乗り越え、その上を行くものである。それは、生来の性情や、この世的な友情、人々が互いに対して持つ愛などのような、自己愛という根から生え出た枝ではない。否、自己愛が天性の諸原理の所産であるように、神から出た聖い愛は、超自然的な諸原理の所産なのである。後者は、人の心のような土壌に自然に育つ植物よりも、気高く高貴な品種の植物である。それは、神の聖なるほむべき御霊によって、天の園から魂に移植された植物であり、そのため、その命は自己のうちにではなく、神のうちに存している。それゆえ、キリスト者の愛ほど利己的な諸原理を超絶した愛はどこにもない。これほど自分にとらわれることのない、私利私欲から無縁な愛はない。これほど、神を神なるがゆえに、また神ご自身のために愛し、人を自分との関係のゆえには愛さず、人と神との関係のゆえに----すなわち、神の子らとしての人、また神の御力から出た、神の御霊の影響下にある被造物としての人と神との関係のゆえに----愛する愛はない。それゆえ神から出た聖い愛、すなわちキリスト者の愛は、世にあるどのような愛にもまして、利己的な精神とは正反対のものである。他の愛、すなわち天性による愛もまた、何らかの点で利己心とは逆を行くかもしれない。人をして、自分の愛する者には大いに物惜しみしない者、気前の良い者にならせることができ、またしばしばそういうことがあるという点においてはそうである。それにもかかわらず、その他の点では、そうした愛は利己的な精神とぴったり一致している。源泉までさかのぼってみると、それは同じ根、すなわち自己愛という原理から生じているからである。しかし神から出た聖い愛の源泉は、その根のあるところ----イエス・キリストにある。そのため、この愛はこの世のものではなく、天上の世界のものであり、そのよってもって来たった天上へ向かう。そしてこの愛は、自我から生じたものではないのと同様、自我へ向かうものではない。これは神の栄誉と栄光を、神ご自身のために喜ぶ。単に自己の利益のためになるからといって喜びはしない。またこれは人々のためになることを、彼らのために、また神のために喜ぶ。そしてこの神から出た聖い愛が、実際に、利己的な精神をはるかに越えた、それと正反対の原理であるということを明らかにしているのは、これが敵に対してすら差し伸べられるということである。この愛の性質と傾向が、感謝しない者、よこしまな者、私たちを傷つけ、憎む者にも注がれるものであることである。これが、利己的な原理の傾向に真っ向から逆らい、完全に天性を超絶しており、人間の愛というよりは、神の愛に似ているということである。そのキリスト者の愛が利己的な精神と正反対であることは、さらに次のことからもおのずと見て取れる。それはすなわち、

 3. 特に神と人に対するこの愛の性質である。ここで考えたいのは、

 第一に、神に対するこの愛の性質である。もし私たちが、神に対する愛の性質について聖書の教えを考察するなら、真に神を愛する人々は、神と神に対する奉仕に自分を献げつくすような愛をもって神を愛すると語られていることがわかる。これは十戒の要約のうちに教えられている。「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マコ12:30)。この言葉のうちに、神に対する正しい愛の姿が描き出されている。そしてこの言葉が私たちに教えているのは、神を正しく愛する者は神に完全に献身するということである。彼らは神にすべてを献げる。彼らの心のすべて、思いのすべて、知性のすべて、力のすべて、肉体的精神的力のすべてを献げる。確かにこれらすべてを全く神に献げる人は、自分のために何も取っておかず、自分自身を余すところなく、完全に、何の留保もつけず神に献げるはずである。そして神に対する真の愛を持つ人はみな、こうしたことを行なう精神を持っている。ここから明らかなのは、神に対する真の愛の原理が、どれだけ利己的な原理を超絶しているかということである。なぜならもし自我が完全に神に献げられるとするなら、そこには、自我を越えたもの、自我に打ち勝つものがあるのである。自我に優越する何か、自我を取り上げて、それを神にお献げする何かがあるのである。利己的な原理は決して自分を他者に献げたりしない。その性質は、すべての他者を自我に献げさせるものである。神に対する真の愛を持つ人々は、神を神として愛し、至高の善として愛す。これに対して利己心は、その性質上、自我を神の位置に立たせ、自我を偶像とする。人は自分が至高のものとみなすものに、すべてを献げる。自我を偶像とする人々は、すべてを自我に献げる。しかし神を神として愛する人々は、すべてを神に献げるのである。

 キリスト者の愛が利己的な精神と正反対であることを、さらに明らかにしているのは、

 第二に、人に対するこの愛の性質についての聖書の教えである。そして聖書には、私たちの隣人に対する、恵みから出た真の愛の姿として、2つの主要な、また最も尋常ならざる描写がある。その2つについてこれから注目していこう。

 その第一のことは、私たちが自分の隣人を自分自身のように愛さなくてはならないという要求である。これは旧約聖書に記されている。。そしてこれをキリストは、律法の第二の板に書かれたすべての義務の要約として引用しておられる(マタ22:39)。さてこれは利己心とは正反対のものである。なぜなら愛とは、心を自己のためにしか使わせないような性質ではなく、自己のみならず他者のことをも、自己に対するのと同じしかたで心がけさせるからである。それは私たちをして私たちの隣人を、いわば私たち自身と同一視させるのである。自分の状況や利益だけを考えるのではなく、隣人の必要をも自分の必要と同じように考えさせるのである。自分の願望だけ心がけるのではなく、他者の願望をも心にかけ、自分にしてほしいと思うようなことを他者に対して行なわせるのである。

 またキリスト者の愛が利己心といかに正反対であるかを聖書が私たちに告げている、第二の尋常ならざる描写は、キリストが私たちを愛したように他者を愛する、ということである。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう」、とキリストは云われる(ヨハ13:34)。「あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。これは、あの古い戒め、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ19:18)と比較区別して、新しい戒めと呼ばれている。その戒めの中にある、他者を愛せよという義務が新しいのではない。旧約時代においても、今と同じ種類の愛が要求されていた。しかしそれが新しい戒めと呼ばれるのは、以下のような点においてである。すなわち、福音の時代である今は、私たちがより特別に目をとめるべき規範と動機が新たに付加されているということである。古において、特に定められていた規範と動機は、自分自身に対する愛----隣人を自分のように愛すべきだということであった。しかし今、福音の時代であり、キリストの愛があれほど素晴らしい形で明らかにされた後の時代である現在において、特に定められている動機と規範は、私たちに対するキリストの愛----隣人をキリストが私たちを愛したように愛すべきだということである。それが、ここで新しい戒めと呼ばれているのである。またヨハネ15:12でキリストはそれを、「わたしの」戒め、と強調して語っておられる。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」。自分を愛するように互いに愛し合うこと、それはモーセの戒めである。しかし、キリストが私たちを愛したように互いに愛し合うこと、それは私たちの救い主なる神の戒めなのである。これは実質においては古に与えられたものと同じ戒めであるが、イエス・キリストの愛から射し出る新しい光によって照らし出されており、モーセが付加したものを越える新しい強調がキリストによって付加されている。そのため、キリストが私たちを愛したように他者を愛すという、この規範は、モーセが述べたものよりもより明確に、またより深く、隣人を愛する点についての私たちの義務と責務を示しているのである。

 しかし、寄り道はこのくらいにしておき、他者に対するキリスト者の愛としてキリストのお与えになったこの描写が、いかに利己心と正反対なものであるかを考察することにしよう。そのためここで考察したいのは、キリストがどのようなしかたで私たちに対する愛をお表わしになったか、またキリストの愛という模範のうちに、利己的な精神と正反対なものに従わせようとする、どれほど多くのものがあるか、ということである。このことは、4つの事柄のうちに見ることができるであろう。

 第一に、キリストはご自分の敵であった者たちにその愛を注がれた、ということである。彼が愛を注がれた者らのうちには彼に対する愛が何もなかっただけでなく、彼に対する敵意に満ち、彼を実際に憎悪する原理に満ちていた。「私たちがまだ罪人であったとき」、あるいは、その次の次の節にあるように、「敵」であったとき、「キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ロマ5:8、10)。

 第二に、私たちに対するキリストの愛は、いくつかの点において、私たちをご自身と同一視することをよしとされるほどのものであった。私たちに対する彼の愛によって、もし私たちが彼の愛を受け入れさえするならば、彼は私たちをご自分のものとし、ご自分の心を私たちに結び合わせ、私たちのことをご自分であるかのように語り、ご自分であるかのようにみなすことをよしとされるのである。彼の選民は、永遠の昔から、彼の目のひとみのように、彼にとっていとしい者らであった。彼は彼らをご自分と同然にみなすあまり、彼らの関心事をご自分の関心事とみなし、彼らの利益をご自分の利益とみなすほどであった。そして彼は、彼らの咎目さえもご自分の咎目となされた。値なしの恵みによってそれをご自分で引き受け、あたかもそれがご自身の咎目であるかのようにみなされることにするとともに、神による転嫁を通して、彼らが全く罪なき者として扱われ、彼が彼らのために苦しみを受けるようになされた。そして彼の愛は、彼らをご自分に結び合わせることを求め、彼らをいわば彼のからだの各器官となし、彼らが彼の肉となり骨となるようになされたのである。このことは、彼ご自身、マタイ25:40で宣言しておられると思われる。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」。

 第三に、私たちに対するキリストの愛は、ご自分の身を献げつくすほどのものであった。彼の愛は、他者のため単に感情を波立たせるとか、ちょっとした努力や軽微な犠牲を払って終わるものではなく、私たちが敵であったにもかかわらず私たちを愛して、私たちのためにご自分を否定し、最大の努力を払い、最大の苦しみを忍ぶことを受け入れるほど情け深いものであった。彼は、ご自分の安楽と慰め、利益と栄誉、富をお捨てになった。そして貧しい者となり、人から捨てられ、軽蔑され、枕するところもないほどの境遇に身を落とされた。それはみな私たちのためであった! それどころか、私たちのため彼は、ご自分の血を流し、神の義を満足させるためのいけにえとしてご自身をお捧げになった。それは私たちが赦され、受け入れられ、救われるためであった! また、

 第四に、キリストがこのように私たちを愛されたのは、ご自分の愛に対して私たちから何か見返りを期待してのことではなかった。彼は、私たちの方で彼のためにできる何かを必要としていたわけではなかった。私たちが彼の親切を決して埋め合わせできないこと、それに近いことすら全くできないことをよく知っておられた。私たちが貧しく、惨めで、無一物の乞食であること、彼からの贈り物を受け取ることはできても、そのお返しに何も彼に報いることができない者であることを知っておられた。私たちが何かを買える富や代価を何も持っていないこと、必要なものはみな無償で与えられなくてはならず、さもないと永遠に手に入れられないことを知っておられた。さて、もし私たちがこのようなしかたで互いに愛し合うなら、あるいはもし私たちが、自分に対してキリストが抱いておられるのと同じような愛の精神を他者に対して抱いているとしたなら、私たちは利己的な精神からはるかに隔たり、それとは全く逆を行く者となるのではなかろうか。もし私たちがそような精神を持つなら、他者に対する私たちの愛は、彼らが私たちをどれだけ愛するかによって左右されたりせず、キリストが私たちに対してなされたようにする----たとえ彼らが敵であっても愛する----であろう。私たちは単に自分のことだけを求めるのではなく、心において他者に結び合わされ、彼らのことを自分のことのようにみなすであろう。キリストが私たちの利益に関心を持ってくださったように、他者の利益に関心を持つよう努めるであろう。そして、多くの点で私たちは、他者のためになると思えば、キリストが私たちに対してなされたように、自分のことを進んで差し控えたり、手放したりするであろう。そしてこうしたことを他者のために進んで、また喜んで行ないつつ私たちは、相手から何の見返りも期待しないであろう。それはキリストがあれほど大いなることを私たちのために行なってくださったにもかかわらず、私たちから何の見返りや返報も期待されなかったのと同じである。もし私たちの精神がそのようなものとなるなら、私たちは利己的な精神の影響を受けることはなくなり、生きる姿勢において、心において、生活において、非利己的な者になるであろう。

 この主題から私は、1つ大きな適用をしたいと思う。すなわちそれは、すべての人に向かって利己的な精神や行為から離れよと勧告し、すべての人に向かってそれとは正反対の愛の精神、愛の生き方を求めるよう勧めることである。神から出た聖い愛によって、あなたの心を、神とそのご栄光のため献げるよう務めなさい。あなたの隣人をあなた自身のように愛する、いやむしろキリストがあなたを愛したように愛するため心を献げるよう務めなさい。すべてにおいて自分のことしか考えないのではなく、すべてにおいて他者のことをも考えなさい。そして、あなたがさらに奮い立ってこのことに励めるように、すでに挙げられた種々の動機に加えて、3つのことを考察していただきたい。----

 第一に、あなたはあなたのものではない、ということである。あなたは自分で自分を造ったのではないのと同じく、自分のために造られたのでもない。あなたは、あなたという存在の創造者でもなければ、目的でもない。あなた自身の存在を成り立たせ、あなた自身の肉体を養い、あなた自身を支えているのも、あなたではない。あなたを造り、あなたの身を守り、養い、支えておられるお方がいるのである。そしてそのお方は、あなたをご自分のためにお造りになり、あなた自身のためだけでなく、あなたの同胞たちの益のためにお造りになったのである。そのお方は、あなたの前に、あなた自身よりも高次で、あなた自身よりも高貴な目標を置いておられる。それはあなたの同胞の人々の益であり、社会の益であり、その方ご自身の王国の利益である。これらのためにあなたは労さなくてはならず、生きなくてはならない。これは地上での歩みの間だけでなく、永遠に続く営みである。

 そしてもしあなたがキリスト者であるなら、(あなたがたの多くはキリスト者であると告白しているのだから)、特別な意味においても、「あなたがたは、もはや自分自身のものではない」。「あなたがたは、代価を払って」、それも「キリストの、尊い血に」よって、「買い取られた」のである(Iコリ6:19、20; Iペテ1:19)。そしてこれは、なぜキリスト者が自分のことを求めるべきでなく、神の栄光を求めるべきであるかの論拠として主張されている。使徒は語を継いでこう云うからである。「ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい」。生来、あなたは失われた悲惨な状態にあり、神の正義の手につかまれ、罪とサタンに束縛された、みじめな奴隷であった。しかしキリストがあなたを贖い出してくださり、あなたは買い取られてキリストのものとなった。これ以上ない正当な権利によって、あなたは彼に属しており、あなた自身に属してはいない。そして、それゆえ、あなたはこれ以後、自分を自分のものとして扱ってはならない。あなた自身の利益や楽しみだけを求めたり、それらを主として求めてはならない。もしそうするなら、あなたはキリストから盗みを働くことになるからである。そしてあなたが自分のものではないように、あなたの持ち物もみなあなた自身のものではない。あなたの肉体的、精神的な能力、あなたの外的な財産、時間、タラント、影響力、贅沢品----これらのうち1つとしてあなた自身のものはない。あなたも、これらが個人的な利得のためだけにあるのだと思うなら、絶対的な所有者のようにこれらを用いるだろうが、そのようにする権利は何1つない。これらはキリストの栄誉のため、また同胞の益のためにあるのである。次に考察していただきたいのは、

 第二に、まさにあなたのキリスト者としての告白によって、いかにあなたがキリストと、またあなたの兄弟キリスト者たちと結び合わされているか、ということである。----キリストとすべてのキリスト者の結びつきは、彼らがみな1つのからだを構成せざるをえないほどに緊密なものである。そしてこのからだにおいて、キリストはかしらであり、キリスト者たちは各器官である。使徒は云う。「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです」(ロマ12:5)。また、「私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け……たからです」(Iコリ12:13)。とすると、キリスト者のうちに利己的で自分の個人的な利益のことしか考えない者がいるというのは、何とふさわしくないことか! 人間のからだでは、手は頭のために喜んで奉仕し、あらゆる器官が互いに喜んで仕え合っている。手が行なっていることは、手だけが得するためのものだろうか? 手は自分のためだけでなく、からだの他の部分のためにも、絶えず使われていないだろうか? これは目や歯や足についても云える。これらはみな自分のため、自分一個の部分的な快適さのためにではなく、からだ全体が爽快に、また健康的に過ごせるために用いられている。もしも頭部に不名誉が帰されたなら、からだの全器官がその不名誉を取り除き、かしらに栄誉を着せるため、たちどころに活動を始めないだろうか? そしてもしからだのどこかの器官が傷つき、生気がなくなり、痛んできたなら、からだの全器官がすぐさまその弱く苦しんでいる器官をかばうために働き出さないだろうか? 目はそのためにあたりを見渡し、耳はそのために医師の注意を熱心に聞き、足は急いで苦痛が軽減される場所へと急ぎ、手は与えられた薬をつけるために用いられないだろうか? キリストのからだもそれと同じようであるべきである。各人はみな互いに助け合い、いたわり合うべきであり、そのようにして互いの快適さと幸福を促進し、かしらなるキリストの栄光を高めるべきである。さらにまた考察していただきたいのは、

 第三に、神の栄光と同胞の益を求めることは、神からあなたの利益を高めていただき、あなたの幸福を促進していただく、最も確実な道だ、ということである。----かりにあなたが自分を神に献げ、自分のあらゆる利益を 神のために犠牲にするとしても、あなたは自分の人生を棒に振ることにはならない。一見あなたは、神のような博愛を真似ることによって自分のことをおろそかにし、否定し、ないがしろにするように思えるが、神があなたの面倒を見てくださるのである。神は必ずや、あなたの利益がはかられるようにしてくださり、あなたの幸福が確保されるようにしてくださる。あなたは、神のためにどのような犠牲を払おうとも、決して失敗者になることはない。たとえそれがご自分のご栄光のためであろうと、神はあなたに借りを作ったままではおられない。あなたは、この世においてすら、百倍もの返報を受け、かの世では永遠の報いが授けられる。神ご自身がそう宣言しておられる。「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その百倍もを受け」、(もう一人の福音書記者は、「この世にあってその百倍かを受けない者はなく」、と云う)、「また永遠のいのちを受け継ぎます」(マタ19:29 <英欽定訳>)。そしてこの宣言の精神は、キリストのためになされた、またキリストが命じておられるがゆえに私たちの同胞のためになされた、すべての犠牲についてあてはまる。この世における報いの大きさをキリストは1つの明確な数で表現なされた。しかし、死後彼らに約束された報いについて語る際、彼はいかに大きなものであれ何の数もお用いにはならなかった。彼は単に、彼らが永遠のいのちを受けるとだけ云っておられる。その報いがあまりにも大きく、人々がキリストのために献げる、また自己否定するあらゆるものを超絶していて、いかなる数もそれを表現しつくせないためである。

 もしあなたが利己的な人間で、自分と自分の個人的な利益を偶像としているなら、神はあなたをあなた自身のもとに放っておき、あなたが自分の利益を自分の力にできる限り促進するにまかせるであろう。しかしもしあなたが私利私欲の追求をせず、イエス・キリストのことを、またあなたの同胞のことを求めるなら、そのとき神はあなたの利益と幸せをご自分の責任としてお引き受けなさるであろう。そして神は、あなたに無限にまさる力をもってそう取りはからい、促進してくださる。全宇宙の資源は神の意のままになり、神はそれらを易々と、あなたの幸福の促進に寄与するため指図することがおできになる。だから、利己的に自分のことを求めないのは、よりまさった意味で自分のことを求める、最上の方法である。それはあなたの至高の幸福を確保するためにとれる、最も直接的な手段である。利己的になってはならないと要求されるとき、それはすでに述べたように、自分の幸福を愛しも求めもしてはならないということではなく、自分の個人的で閉鎖的な利益追求をもっぱらとしてはならない、ということにほかならない。しかし、もしあなたが神のうちにあるあなたの幸福----すなわち、神の栄光を現わし、善をなして神に仕えることによって得られる幸福----を、このように他のあらゆるものに優先させるなら、あなたは自分の富、栄誉、快楽をこの地上において促進し、死後には不滅の栄光の冠を、また神の御座の右における永遠の喜びを得るであろう。もしあなたが利己的な精神によって、すべてを自分のものとしてつかもうとするなら、あなたはすべてを失い、ついにはこの世から寄るべなき裸の者として永遠の貧困と侮蔑へと放逐されるであろう。しかしもしあなたが自分のことを求めず、キリストのことや同胞の益を求めるなら、神ご自身があなたのものとなり、キリストがあなたのものとなり、聖霊があなたのものとなり、すべてがあなたのものとなるであろう。しかり。「すべて」はあなたのものである。「パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです」(Iコリ3:21-23)。

 ではこれらの事柄によって私たちはみな、今より利己的でない者となろうではないか。利己心とは逆の、この上なく気高い精神をいやまさって求める者となるよう励もうではないか。利己心は私たちに生来しみついた精神であり、実際、私たちの天性のあらゆる腐敗は、根本的にこの利己心によって存立しているのである。しかし私たちがキリスト教について有している知識を考察し、それがいかに数多くの力強い動機を供しているかを考察するとき私たちは、今の私たちよりもはるかに利己的でない者でなくてはならない。自分の利益しか求めないことが、はるかに少ない者でなくてはならない。この悪しき精神のいかに蔓延していることか! そして、私たちの前にここで示された、この気高く、高貴で、他者の利益を心がける精神の、何とまれにしか見られぬことか! しかしその原因が何であれ----私たちのキリスト教観が狭すぎるためであれ、当然あるべきほどにはキリスト教のことを学んでいないためであれ、あるいは父祖たちから受け継いだ利己的な習慣のあれこれのためであれ----、私たちは力を尽くしてこれに打ち勝とうではないか。そして、非利己的な精神という恵みにおいて成長し、そのことによって神の栄光を現わし、人に善を行なおうではないか。

愛は私利を求めず[了]

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