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7. 愛は高ぶらず

「愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず……」
Iコリ13:4、5

 これまで私たちは愛、すなわちキリスト者の愛の性質、性格を学んできた。愛は、他人から不正を受けること、また他人へ善を施すことにおいて、「寛容であり、親切」であった。また愛は、他人が自分より良いものを手にしていても、それを「ねたまな」かった。さて使徒は、ここでもう一歩進んで、愛は、自分自身のありかた、自分自身の持ちものについて「高慢にならない」、と語っている。----「愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず……」。愛は、一方では他人の持っているものについてねたまず、一方では自分の持っているものについて高ぶらないのである。パウロはすぐ前で、愛はねたむ思いと全く正反対であると云った。それを受けてここでは、愛は人をねたみにかりたてるような精神とも、同じように全く正反対であると告げているのである。すなわち、人をねたみにかりたてるもの、またねたむ人がしばしば弁解の種にするものは、相手がその栄誉や幸運を鼻にかけ、大いばりでそれを自慢している姿なのである。いい思いをしたり、昇進したりした人が、鼻高々に自慢しているのを見ると、人はねたみにかられ、相手の得々とした様子に非常な不快感を覚えさせられる。しかしもし幸運を得たり、昇進したりした人が、何の自慢もせず、慎み深くしているなら、人々は相手の幸運も自然と許せる気分になり、寛容になれる。すでに見たように、他人をねたむ人が自分の行動を弁解したり正当化したりするために往々にして持ち出す云い訳は、相手が自分の幸運に思い上がり、高慢になっているではないか、高ぶっているではないか、ということであった。しかし使徒がここで示しているのは、キリスト者の愛は、どのような人にも分際をわきまえた行動をとらせるものだということである。他人の下に立つ立場の人には他人をねたませず、他人の上に立つ立場の人には、自分の幸福を自慢させず高ぶらせないのである。

 この聖句では、キリスト者の愛が高慢な態度ふるまいと相反するものとして語られている。そして、ここには程度の異なるふるまいが2つ挙げられている。程度の高い方は「自慢」、すなわち、人が自分の持ちものを得意に思っていることを人前であからさまに示すような態度のことである。程度の低い方は「礼儀に反する」ふるまい、すなわち、自分の幸せを楽しむことにおいて節度とたしなみのある態度を取らず、単に他人より富み栄えているというだけのことで、自分は他人よりすぐれているのだと云わんばかりの粗野な態度を取ることである。さらに愛の精神すなわち愛は、ただ単に高慢なふるまいと相反するばかりでなく、高慢な思い、すなわち心の高ぶりとも相反するものだと語られる。なぜなら、愛は「高慢にならない」からである。したがってこれらの言葉から私たちが教えられる教理は、

 愛の精神、すなわちキリスト者の愛は、へりくだった思いである、ということである。

 この教理を論ずるにあたって、私は2つのことを示そうと思う。----I. へりくだりとは何か。II. キリスト者精神、すなわち愛の精神は、へりくだりの精神であるということである。まず私は、

 I. へりくだりとは何か示したい。----定義するならば、へりくだりとは、私たちが神の前において持つ比較的な卑小さ、邪悪さに相応する心と思いの習慣である。あるいは、神の目から見た自分自身の比較的な卑しさを認識し、その認識を持つ者としてふさわしい態度ふるまいを取らせるような思いである。へりくだりをかたちづくるものの1つは、私たちが自分自身について抱く理解、考え方、知識であり、1つは意志であり、1つは私たちが自分自身について抱く認識、評価であり、また1つは、私たちがこの認識また評価を持つ者としてふさわしい態度ふるまいを取っていくようにさせる思いにある。そこで、まず最初に云えることは、へりくだりとは、

 1. 私たち自身の比較的な卑しさを認識することである。----私が「比較的な」卑しさと云うのは、へりくだりという徳は、きわめて多くの点ですぐれたものを持つ卓越した者らについてしかあてはまらないからである。だから天国にある聖徒らや御使いらは優れてへりくだっている。へりくだりは彼らにとってふさわしく、また似つかわしいものである。彼らはきよく、しみなく、輝かしく、完全な聖潔を持ち、思いにも力にもすぐれた者である。しかし、そのように栄光に輝く者ではあっても、彼らは神の前においては比較的な卑しさを持っており、そのことを自覚している。なぜなら神は、天にあるものを見るにも身を低くされると云われるからである(詩113:6)。そのように、人間キリスト・イエスも、あらゆる被造物の中にあって最も卓越し、最も栄光に輝くお方ではあったが、なおも心優しく、へりくだっており、他の何者にもまさって謙遜であられる。へりくだりはキリストの卓越したご性質の1つである。なぜなら彼は神であるばかりでなく、人でもあられ、人として彼はへりくだっておられたからである。へりくだりは神の属性ではない。神の属性ではありえない。たしかに神のご性質は、高慢とは無限にかけ離れたものである。しかしながら、言葉の正しい意味においては、神がへりくだったお方であるとは云うことができない。もしそう云えるとしたら、神には不完全さがあるということになる。そのようなことはありえない。神は威光と栄光において無限なるお方、あらゆるものに無限にまさるお方である。その神が何者かと比較して卑しい点があるなどということはありえず、当然そのような比較的な卑小さを感ずることはありえず、したがってへりくだることはありえない。しかし、へりくだりは知性を持つ全被造物が持ちうる素晴らしい美質である。なぜなら彼らはみな、神の前においては無限に小さく、卑しい存在であり、さらにほとんどの者は、何らかの点で、自分と同格の被造物とくらべてもなお卑しく、ちっぽけな者だからである。へりくだりには、あの使徒が述べた戒めにかなうものがある(ロマ12:3)。すなわち、私たちは思うべき限度を越えて思い上がってはならず、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の(そしてその他の事柄における)量りに応じて、慎み深い考えをしなくてはならない。そしてこのへりくだりのうちには、人が持つべき徳として、神とくらべた場合の自分自身の比較的な卑しさ、また同じ人間とくらべた場合の比較的な卑しさを認識するということが含まれる。そこでまず、

 第一に、へりくだりとは、主として、また第一義的には、神とくらべた場合の私たちの卑しさを認識することにある。あるいは、神と私たち自身の間にある無限の隔たりを認識することにあるといえる。私たちはちっぽけで、卑しむべき生き物、地面をはいずりまわる虫けらにすぎない。天地を統べる至高者にくらべれば無である、いな、無以下であると感じなくてはならない。そのように自分の無であることを自覚してアブラハムは云うのである。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください」(創18:27)。このような思いが全くないところに、真のへりくだりはありえない。なぜなら私たちは、他人とくらべてどれほど自分が卑しい者だと感じようと、神とくらべた場合の自分のむなしさを感じることがない限り、決して真にへりくだっているとは云えないからである。ある人は自分を他の人々とくらべて取るに足らない者だと感じる。暮らし向きが良くないとか、気質的に生まれつき憂鬱な性分であるとか、くよくよ考える性格であるとか、その他の事から、自分はつまらぬ者だと感じる。しかしそれでいながら彼らは、自分と神との間にある無限の隔たりについて何も感じていない。そのような者は、自分ではへりくだっていると思っているかもしれないが、本当のへりくだりとは全く無縁の者である。私たちが自分自身について他の何物にもまさって知らなくてはならないのは、自分は神とくらべられているのだということである。私たちは、私たちの創造者、私たちがその中で生き、動き、存在しているお方、そしてあらゆる点において無限に完全なお方と、くらべられているのである。もし私たちがこのお方とくらべた場合における自分の卑しさについて無知であるなら、私たちには真のへりくだりにとって何よりも不可欠なもの、何よりも本質的なものが欠けているといわなくてはならない。しかし、もしそのような卑しさが本当に感ぜられるなら、そこから私たちは、

 第二に、まわりにいる、自分以外の被造物の多くとくらべた場合の自分自身の卑しさをも認識するはずである。----なぜなら人は神とくらべて卑しい存在であるばかりでなく、この宇宙の中で人間にまさる位階にあるおびただしい数の被造物とくらべても、非常に劣った存在であるからである。そして、大部分の人は、自分の仲間の人間とくらべても、その人々より卑しい者である。このように自分が他と比較して卑しい者であるとの認識が、神の目から見た私たちの卑しさを正しく認識するところから出てきたものであるとき、そこには真のへりくだりの性質がある。神とくらべた場合の自分について正当な認識、正当な評価を持つ者なら、あらゆる点において自分の姿を素直に認めるであろう。ありとあらゆる存在のうちで第一のお方、最も偉大なお方とくらべて自分がいかなる者であるか本当にさとったなら、自分が被造物の間でいかなる者であるか正しく評価するのもさして困難ではなくなる。逆に、存在するもののうちで第一のお方、最も偉大なお方、他のすべての存在の源泉であられるお方を真に認識していなければ、何事についても正しい認識は望めない。人は神を知る程度に応じて、その他のことを知る備えができ、その知識へと導かれる。そうしてはじめて、他人とかかわりあい、他人の間に立つ自分自身について正しい知識を得るようになるのである。

 これらのことはみな、人間が堕落していなかったとしても云えることである。もし私たちの最初の両親が堕落せず、したがって彼らの子孫を罪の奴隷とすることがなかったならば、これが人類について云い得るすべてであったろう。しかし、堕落した人間が持つへりくだりには、神の前においても 人の前においても、その十倍もの卑しさを認識することが含まれる。人間の本来の卑しさには、人がその生来の完全さという点で無限に神に劣り、また神がその偉大さ、力強さ、知恵深さ、尊厳のいと高さ、その他において、無限にまさっておられるということがある。そして真にへりくだった人は、神の知恵とくらべた場合の自分自身の知識の卑小さ、無知の広大さ、悟りのちっぽけさをわきまえている。自分の弱さをわきまえ、自分の力がどれほど微弱なものか、自分がどれほど僅かなことしかできないものか、また自分が生まれながらにどれほど神から隔たったものか、どれほど神に依存している者であるかをわきまえている。また自分自身の力と知恵の不十分さをわきまえている。自分を支え、自分に力を与えているのが神の力であることを、また神に対して自分の義務を行なう際でさえ神の知恵、神の導き、神の力を与えられなければ何もできないことをわきまえている。彼は自分が神に従わなくてはならないことをわきまえている。神の偉大さは、まさしく神の権威のうちにあり、その権威とは神が万物の上に立つ主権者なる主にして王であるということのうちにあることをわきまえている。そして彼はその権威に喜んで従おうとする。自分は神のみこころに服従するべきであり、いかなる点でも神の権威に従わなくてはならないとわきまえている。堕落する前の人間には、このような種類の比較的な小ささがあった。そのころの人間は、神とくらべて無限に小さく、無限に卑しい存在であった。しかし人の本来の卑しさは、堕落以後はるかに大きなものとなった。なぜなら人間性の道徳的破滅により、人はその生来の機能をことごとく失いはしないまでも、大きく損壊されたからである。

 堕落以後、真にへりくだった人は、自分の道徳的卑しさ、邪悪さをも感じている。これは、自分の罪深さを感じることにある。人間の本来の卑しさは、被造物としての小ささであった。人間の道徳的卑しさは、その罪人としての邪悪さと汚らわしさにある。堕落以前の人間は、その本来の能力または属性において神から無限に隔たっていた。堕落以後の人間は、罪深く、したがって汚辱にまみれているという点においても、神から無限に隔たってしまった。そして真にへりくだった人は、この点においても自分の比較的な卑しさについて何らかの認識を抱いているものである。すなわち、無限に聖なる神、実に天もその御目にはきよくない[ヨブ15:15]という神の御前で、自分がいかに汚れきった者であるか感じている。神がいかにきよいお方か、また神の前で自分がいかに汚らわしく、いかに忌むべき者であるか知っている。そのように自分の比較的な卑しさを知ったからこそイザヤは、神の栄光を目の当たりにしたとき叫んだのである。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから」(イザ6:5)。この点において自分の卑しさを認めるへりくだった思いには、自分を嫌悪することが含まれる。だからヨブは叫ぶのである。「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます」(ヨブ42:5、6)。また真のへりくだりには、ダビデが語るような悔悟と心くだかれることが含まれる。「神へのいけいえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩51:17)。イザヤもまた、同じような思いをもって、こう述べている。「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである』」(イザ57:15)。そして自分自身の小ささを認識し、神の前における自分の道徳的邪悪さを認識するということは、どちらとも、あの救い主が語られた心の貧しさのうちに含まれている。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタ5:3)。

 さて、へりくだりのうちに含まれる、このような自分自身の卑しさとちっぽけさを認識するには、神を知り、神の偉大さをさとるだけでは十分ではない。もちろん、このことなしに自分を知ることはできない。しかし、それに加えて私たちは、神の気高さ、麗しさをも正しく認識しなくてはならない。悪霊や、地獄に落ちた魂たちは、神の偉大さ、神の知恵、神の全能その他をよく知っている。自分らに対する神のお取り扱いから、また自ら受けている苦しみから、そうしたことを認めざるをえないのである。今彼らは、神がはるかに自分らにまさるお方であると、否応なしに知らされている。最後の審判の後で彼らは、このことをより深く痛感せざるをえないであろう。しかし彼らは全くへりくだっておらず、将来も決してへりくだらりはしない。なぜなら彼らは神の偉大さを目にし、感じてはいても、神の麗しさを何1つ見ず、何1つ感じていないからである。これなしに真のへりくだりはありえない。へりくだりは、被造物が自分と神との間に横たわる無限の隔たりを、それも神の偉大さについてばかりでなく、神の麗しさについても感じるのでない限り、決して生まれないのである。御使いや、贖われて天国にはいった魂は、そのどちらをも目にしている。単に神が自分よりはるかに偉大なお方であるというだけでなく、はるかに気高く、はるかに麗しいお方であると知っている。確かに彼らは、堕落した人間のような絶対的な汚辱は何も持っていない。にもかかわらず、神とくらべると、「天も神の目にはきよくない」、「神は……その御使いたちにさえ誤りを認められる」、と云われるのである(ヨブ15:15; 4:18)。このように自分の比較的な卑しさを認識するところから、人はいかに自分が神のあわれみ、また神の恵み深いご配慮を受けるにふさわしくない者であるかをさとらされる。このような思いをもってヤコブは語ったのである。「私はあなたがしもべに賜ったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です」(創32:10)。またダビデは叫んだのである。「神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか」(IIサム7:18)。そしてこのような思いは、神の前で真にへりくだる者すべてに共通したものである。しかし、へりくだりが私たちの比較的な卑しさを認識することにあるのと同じように、それは、

 2. それにふさわしい態度ふるまいを取ろうとする思いも含んでいる。----これがなければ、決して真のへりくだりではない。もし理性に光を受けて自分の卑しさを認識したとしても、それと同時に、その認識にそぐわないような行動を取り続けていたり、その認識に従って歩もうとしないなら、そこには何のへりくだりもない。先ほど述べたように、悪霊や地獄に落ちた霊たちは、神の前における自分らの比較的卑小さが途方もないものであることを、何らかの点で認めている。彼らは、その力、知識、威光において、神が自分らより無限に上におられることを知っている。しかしながら、神の麗しさ、気高さを知りも感じもしていないため、彼らは自分らのちっぽけさにふさわしい行動を取ろうとか、それに相応する生き方をしようとかいう心持ちをまるで持ち合わせていない。彼らは、全然へりくだることを知らず、高慢に満ち満ちている。ここで私は、人が自分の卑しさ、邪悪さを正しく認識した場合、その認識に応じた態度ふるまいにはどのようなものがあるか、またへりくだった人が行ないたいと願わさせられるような行動にはどのようなものがあるか、そのすべてをここで挙げるつもりはない(そのようなことをしたら、神と人に対する義務を1つ残らず挙げなくてはならないであろう)。私は、述べておく価値のあるものをいくつか、神に対して行なうこと、人に対して行なうことに分けて指摘するにとどめる。

 第一に、 神に対して行なうべきこととして、へりくだりが行なわせようとするものをいくつか考えよう。まず最初に、へりくだった人は、神の前における自分の卑しさ、小ささを心から率直に認めるものである。その人は、これがどれほど自分にふさわしく、自然なことか知っている。そしてこれを進んで、また喜んでさえ行なう。その人は、自分自身のつまらなさ、邪悪さを包み隠さず率直に告白し、自分が何のあわれみも受ける資格がなく、どんなみじめな状況に陥っても当然だと云う。神の前にひれ伏し、御前でちりの中にうずくまってかしこまるのが、へりくだった人の心である。またへりくだる人は、自分を信頼せず、ただ神によりたのむ。高ぶった人、また自分の知恵や、力や、義しさにうぬぼれている人は、自分をたよりとする。しかしへりくだった人は、自分自身を信用しようとは思わない。自分の足りなさを知っているので自信を持たない。その人は神によりたのもうとする。喜んで神を全く自分の隠れ家とし、義とし、力として、わが身をゆだねる。さらにへりくだった人は、自分の持つ良いもの、自分のした良いことの栄光をすべて投げ捨て、それをみな神に帰そうとする。その人は自分に何か良い点があったり、何か良いことを行なったりしたとしても、神の前でそれを誇ったり自慢したりせず、すべてを神の栄光に帰そうとする。詩篇作者の言葉を借りれば、「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください」、と云うのである(詩115:1)。またへりくだる人は、自分を全く神に従わせようとする。その人の心は、神の意志に完全に、また絶対的に服従する。それにさからうどころか、それを求めようとする。その人は神の命令とおきてに従おうとする。神より無限に劣る者がそのように服従するのは正しく、また最善のことだと知っているからである。また、そのように自分を支配し、おきてを授けることは、神に属する名誉であると知っているからである。同じようにその人は、摂理に服従しようとする。神のみこころに日々従おうとする。神がお命じになるみこころに、喜んで従おうとする。たとえ神が、世で受けるべき分として自分に苦難を命じたとしても、また悲惨で暗い境遇を与えられたとしても、その人はつぶやかない。自分の卑しさ、つまらなさを感じる人は、艱難と試練を与えられることこそ自分に当然値することだとわきまえており、自分の境遇は本来あるべき姿より数段ましだと知っている。そして、たとえ神のお取り扱いがどれほど陰惨なものであっても、その人は、幾多の傑出した聖徒にしばしば見られるあの信仰をもって、ヨブとともに云うのである。「神が私を殺しても、私は神を待ち望……もう」(ヨブ13:15)。さて、へりくだりは、このような神に対する態度ふるまいを取らせようとするだけでなく、

 第二に、私たちの比較的な卑しさに応じた、人々に対する態度やふるまいを取らせるものである。ここでは、へりくだった人が、どのような態度ふるまいを避けようとするかを指摘することで、このことを示そうと思う。まず最初に、へりくだる人は、人々の間で野心的な態度を取らないようになる。へりくだりの心に支配された人は、神がそのみこころによって人々の間に割り当ててくださった自分の持ち場に満足し、隣人よりも上にのし上がろうとしたりしない。その人は、あの預言者エレミヤが語ったような原則、また使徒の教えにのっとって生きる。「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな」(エレ45:5)。「高ぶった思いを持たず……」(ロマ12:16)。またへりくだった人は、自分の美点をひけらかすような態度を取らないようになる。真にへりくだった人は、もし何かこの世的のものについて、また霊的な面において、すぐれて豊かなものを持っていたとしても、それを見せびらかしたいとは思わない。その人は、たとえ他人より豊かな才能があったとしても、やっきになってそれを誇示したりしない。それをひけらかしたり、それが他人の目につくような細工をしたりしないのである。たとえ何か著しい霊的体験をしたとしても、他人からほめそやされようとそれを触れ回ったりはしない。あるいは、なみはずれた聖徒だとか、神の忠実なしもべだとか他人からみなされることを願ったりしない。自分について他人がどう思うか、などということは小さなことだからである。もし何か良いことをしたり、何か困難な義務、自己犠牲のまつわる義務をなしとげたりしたなら、そのことを他人が知るように小細工したり、他人の目につくように腐心するようなことはしない。何もかも人に見せるために行なうというあのパリサイ人(マタ23:5)のようなことはしない。むしろ彼は、自分が真摯な思いでしたことがあるなら、それを隠れたところで見ておられるお方が目にとめ、喜んでくださるということだけで満足するのである。

 またへりくだった人は、尊大で傲慢な態度を取らないようになる。へりくだりの心に満ちた人は、やたらと偉ぶったりしない。人々の間にあるとき、その人は、自分こそは最高の敬意を払われるべき者であるはずだ、というようなお高くとまった態度を取らない。その人は決して、自分はまわりの誰よりも優れた者だ、自分こそはまず第一に尊敬されなくてはならない者、自分の意見こそは誰もが傾聴しなくてはならないものだ、などといった様子を見せない。その人は決して、まわりの者はみな自分にへつらい、へいこらし、自分に遠慮すべきだ、などというような態度をとらない。その人の普段の話しぶりや職務の遂行、また宗教的な義務の履行には、全く尊大なふうがない。その人は、自分のものでないものを自分のもののようにみなすことがない。世の中には、できもしないことをできるかのように大言壮語し、全地を自分の意のままにし、何もかも自分の思いどおり望みどおりにできるかのような様子をした者がいるが、へりくだった人はそのようなことをしない。むしろ逆に、他人の意見や他人の意向には、しかるべき敬意をできるだけ払う。その物腰には、あの使徒の教えを心から受け入れている様子が見てとれる。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」(ピリ2:3)。信仰的な話をする場合もその人は、自分が一座の中で最も立派な聖徒であるかのような言葉づかいや態度を取ることはしない。むしろ自分が、あたかも使徒の言葉を借りれば「すべての聖徒たちのうちで一番小さな」(エペ3:8)者であると考えているかのように見える。

 へりくだった人はまた、人をあざけるような態度を取らないようになる。人に向かって侮蔑的な態度を取ることは、他人に対する高慢を示す最も醜く、最も不快なしるしの1つである。しかしへりくだった心に満たされた人々は、そのような態度から全くかけ離れている。彼らは目下の者たちを見くだしも、さげさみもしない。お前たちは、われわれのそばに近づけるような身分ではない、われわれがなぜお前たちのために気をつかってやらなくてはならないのだ、などといったおごり高ぶった様子はみじんも見えない。彼らは、自分と相手の間には、そのような態度を正当化するような違いは何もないということをわきまえている。彼らは決して、馬鹿にしたようなあざけった口調で他人の言動を繰り返したり、嘲弄と侮蔑のこもった顔つきで他人の行動を物語ったりしない。ただ笑いものにしようというだけのために、他人の言動を得々と講釈したりしない。全く逆に、へりくだる人はこの世で最も卑しく最も身分の低い人の前でも身をかがめ、自分より下の人々をも丁重に、また優しく扱う。それは、神の前における自分自身の弱さ、卑しさを自覚しているからである。ただ神だけが自分を他の人々と違った者としてくださっているのであり、自分を他人の上の立つようにしてくださったのだとわきまえているからである。真にへりくだった人は、常に「身分の低い者に順応」する心を持っている(ロマ12:16)。たとえ自分が本当に立派な者であり、世間の信望を集める地位についていたとしても、へりくだった人は決して目下の者らを上で語ったような仕方で取り扱ったりしない。決して自分の立派さを鼻にかけて、おごり高ぶった侮蔑的なあしらいをしたりしないのである。

 またへりくだった者は、わがままや強情な態度を取らないようになる。へりくだった心に満たされた人は、公の場でも私的な場面でも、決して自分自身の意志を何が何でも押し通そうとはしない。彼らは頑固でも意地っ張りでもない。何もかも、自分がたまたま最初に提案した通りに行なわなくてはならないのだと云い張ったりはしない。世の中には、自分の意見、自分の意向が受け入れられなさそうになると、あからさまに気難しい顔になり、ありとあらゆる手段を使って他人をいらだたせ、不快にし、やたらと騒ぎ立てる者がいる。しかしへりくだった人には、決してそのようなことがない。彼らは使徒ペテロが述べているような人とは似ても似つかない(IIペテ2:10)。尊大で、わがままで、絶えず自分の意見を押し立て、それができないとなるとたちまち他人に反対し、いやがらせをする、そんな者とは全く違う。むしろ逆に、へりくだる人は他人に服する心を持つ。平和のためには、また人を満足させるためには、多くのことで他人の意向に添い、他人の判断を受け入れようとする。もちろんこれは、それが真理と聖潔に反するものでない限りのことである。真にへりくだった人は、何事においても柔軟な態度を持つが、自分の主にして師なる方のためにならないことについてだけは別である。真理と徳のためにならないことについてだけは別である。この点にかけては、その人は強情になる。神と良心によって、そうせざるをえない。しかし、それ以外の二義的なこと、キリストの弟子としての原理原則にかかわらないこと、自分の個人的な損得に関することについては、喜んで他人の意向に従おうとする。そして他人が強情をはり、理不尽な態度でわがままを通そうとしても、同じような態度で対抗するようなことはしない。むしろ、あのロマ12:19 やIコリ6:7、 マタ5:40、41で教えられているような原則にのっとって行動する。すなわち、「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい」。「なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか」。「あなたを告訴して下着を徒労とする者には、上着をもやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい」。

 さらにへりくだった人は、目上の者になれなれしい態度をとらない。ある者らは、上に立つ人々を常に自分と対等の立場に引きずりおろそうとし、それでいながら目下の者とは決して対等なつきあいをしようとしない。しかし、へりくだりに満ちた人は、そうした両極端の態度を避ける。一方では、勤勉に働く真面目な者である限り、すべての人の立場をしかるべく向上させるべきだと考え、また一方では、自分の上位者を立てて、その地位にふさわしく扱い、当然受けてしかるべき敬意を払う。その人は、誰でもかれでもがみな対等の立場に立つべきだなどとは考えない。人間関係には上下があり、けじめがなくてはならないと知っているからである。上に立つ者にはそれなりの敬意を払い、しかるべく服従するべきなのである。したがって、その人は、この神の配剤に文句を云わず、喜んで服従する。心においても、態度においても、次のような聖書の戒めに従う。「あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい」(ロマ13:7)。「あなたは彼らに注意を与えて、支配者たちと権威者たちに服従し、従順で、すべての良いわざを進んでする者とならせなさい」(テト3:1)。

 もう1つ、へりくだった人は、弁解がましい態度を取らない。へりくだりの心に満ちた人は、人間だれでもあるように、時として誤りに陥ったとき、あるいは何らかの点で他人を傷つけてしまったとき、またキリスト者として恥ずべき行動を取ってしまったとき、進んで自分の過ちを認め、自分でその責めを負う。こだわらずに自分の非を認め、しかるべき率直な言葉で自分の過失を云い表わす。そのようにする人は、心の底からへりくだり、使徒が「互いに罪を言い表わし……なさい」(ヤコ5:16)という言葉で述べた通りの思いとなっている。人が過ちに陥ったとき、なかなか自分の過失を告白したがらず、そんなことは自分の面子にかかわると考えるのは、高慢にほかならない。しかし実は過ちを云い表わすのは非常に高い名誉なことなのである。へりくだりを態度に表わす人は、この点でも自分の義務を果たすようにうながされる。そして本当にへりくだりに満ちた心を持っている人は、きびきびと、喜びすら抱きつつ、これを行なう。また何らかの過ちについて、キリスト者としての戒めや叱責を受けたときには、それを穏やかに受けとめ、感謝しさえする。人が自分の隣人から叱責を受けたとき、それに我慢できず、怒りを発し、苦々しい恨み心を抱くのは高慢にほかならない。それとは全く逆に、へりくだった人はそのような叱責をがまんするばかりか、それを親切と友情のあかしとして高く評価するようになるものである。詩篇作者は云う。「正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。それは頭にそそがれる油です。私の頭がそれを拒まないようにしてください」(詩141:5)。

 これまで私は、へりくだりの持つ性格、またへりくだった人が神に対して、同胞の人間に対して、どのような思いを持ち、どのような態度を取るものかを示した。そこで、初めに述べたように先へ進もうと思う。ここで示したいのは、

 II. 愛の精神は、へりくだった精神だということである。----特に2つのことを明らかにしたい。まず、愛の精神、すなわち神からの聖い愛は、へりくだりをふくみ、助長するものだということ。またへりくだりを特にふくみ、助長するのは、福音に従って人が行なう愛の実践だということである。

 I. 愛の精神、すなわちキリスト者の愛はへりくだりをふくんでおり、これを助長するものである。

 第一に、愛はへりくだりをふくんでいる。愛の精神、すなわち神からの聖い愛は、すでに示したように、キリスト者精神の結晶であり、当然その愛には、その本質的な資質としてへりくだりがふくまれている。真に神から出た愛は、へりくだった愛である。へりくだっていない愛は、真に神から出た愛ではない。これは、2つのことを考えると当然のことである。すなわち、神の麗しさを実感するということは、特に、へりくだりを生み出すように神を見いだすことだからである。また、真に神を愛する者は、神を無限にすぐれたお方として愛するからである。そこでまず最初に、

 神の麗しさを実感するということは、特に、へりくだりを生み出すように神を見いだすことである。神の偉大さを実感したり、見いだしたりしても、神の麗しさを見るのでなければ、へりくだりを生ずることはない。しかし、神の麗しさを見いだすなら、心にへりくだりが生まれ、真にへりくだった魂となる。心の中に生み出される恵みはみな神の知識から生ずる。すなわち、神の完全なご性質の数々を明確にさとるところから生ずる。神の完全なご性質を知ることが、あらゆる恵みの土台である。そして心にへりくだりが生じるのは、神が麗しいと、いや単に麗しいばかりでなく、自分より無限に麗しいお方であると実感し、見いだすことによるのである。単に神が私たちより無限にまさるお方だという事実や、神と私たちには偉大さにおいて無限の隔たりがあるという事実を感じるだけでは、へりくだりは生じない。神と私たちの間に、麗しさにおいて無限の隔たりがあるとさとらなくては、決してへりくだった心は生じない。このことは、罪人の心に対する律法の働き、および悪霊や地獄に落ちた魂たちの経験から明らかである。心に律法の働きかけを受けるとき、人々は神の恐ろしいまでの偉大さを感じるであろう。しかし彼らはへりくだろうとはしない。神の麗しさをさとっていないからである。心のうちにおける御霊の働き、また律法と福音の働きはみな、心の確信によってなされる。生まれながらの人も、神に対してある種の確信を持ち、ある程度覚醒し、自分の危険な状態を感じることがある。これは、律法の要求をふりかざし、罪の宣告をくだされる神のすさまじいばかりの偉大さを確信することにほかならない。しかしこうした確信を抱きながらも、へりくだろうとしない人は非常に多い。その理由は、神がどれほど彼らにまさって麗しいお方であるか感じないことにある。これこそ欠けている1つの点である。これなしに、へりくだりはない。

 同じことは、悪霊や地獄に落ちた魂たちの経験からも明らかである。彼らは、神が偉大さにおいて自分たちより無限に上におられることをはっきり感じとっているにもかかわらず、全くへりくだらない。麗しさにおいて神がどれほど彼らにまさっておられるか感じていないからである。先に見たように、神は、ご自分が偉大さと力においてすぐれてまさったお方であること、御手の中では何者も無に等しいことを、悪霊や失われた霊たちに思い知らせておられる。しかしながら彼らは高ぶっており、へりくだっていない。最後の審判の後で彼らは、この神の偉大さをより深く痛感せざるをえないであろう。キリストが御父の栄光を帯びて、御使いたちとともに天の雲に乗って来られるとき、悪者どもはみな、地上の王や大官、金持ち、千人隊長、勇者なども例外なく、神が無限に彼らにまさって偉大なお方であることをさとる。そのすさまじい威光を目の当たりにして、彼らは御顔から身を隠そうとする。いざそのときには悪霊も、想像しているだけの今よりずっとはっきりこのことをさとり、ずっと激しく身震いする。悪霊も邪悪な人間も、神が主であることを思い知る。彼らは、証拠をじかに目にして知る。自分の処刑が執行されようとするのを自分で見、自分で感じることによって、神が本当に彼らにまさるお方であり、自分が神の前で無であることを知る。預言者エゼキエルの述べた通りである。「わたしが……彼らのやり方にしたがって彼らをさばくとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう」(エゼ7:27)。しかし、これほど明らかに、またこれほど恐ろしく神が偉大さにおいてまさったお方であると思い知っても、彼らは全くへりくだらない。彼らは自分が神から無限に隔たっていることを知る。しかし彼らの心は、その隔たりに応じた態度を取ろうとはしない。その隔たりにふさわしい感じ方をしようとはしない。神の麗しさを認めないので、彼らにはその点における神との無限の隔たりがわからない。それゆえ、へりくだりに導かれることがないのである。被造物は、麗しさにおいて、神と自分の間に無限の隔たりをさとるのでなければ、真のへりくだりへ至ることはない。これこそ彼らの経験が示すことである。これこそ天の御使いや地上の聖徒たちのうちにへりくだりが生じる理由である。そして、へりくだりを生むのが神の麗しさである以上、神からの愛がへりくだりをふくむことは自明であろう。愛とは、神を麗しいと感じる思いにほかならない。もし神を麗しいと見る知識がへりくだりを生むのなら、神を麗しいと思う人が神に対して払う敬意には、へりくだりがふくまれている。そして、この神への愛から、人に対するキリスト者の愛が生まれる。したがって、神への愛、人への愛(その双方を合わせたものが使徒の述べる「愛」である)は、いずれも同じようにへりくだりをふくむのである。

 さらに、神からの聖い愛にへりくだりがふくまれることは、真に神を愛する者が、神を無限にすぐれたお方として愛することからも明らかである。神に対する真の愛は、神を対等の存在として愛そうなどとはしない。神を神として敬する。すなわち、偉大さと卓越性において、他のすべてにまさって無限に優越したお方として敬う。この愛は、すべてにおいて完全な属性をお持ちのお方への愛なのである。全宇宙の至高者、万物の絶対君主に対する愛なのである。もし私たちが神を自分より無限に卓越したお方として愛するなら、私たちは無限に下等な者として愛を働かせるであろう。したがって、その愛はへりくだった愛となる。その愛を働かせるとき私たちは、自分を神の前で無限に卑しく下劣な者であるとみなす。そのような者として、私たちは愛する。そのような仕方で神を愛するということは、へりくだりつつ、へりくだった愛をもって神を愛することにほかならない。そのように、神からの聖い愛はへりくだりをふくんでいるのである。しかし、

 第二に、この愛はへりくだりを助長するものでもある。へりくだりは、神から出た愛の一特質というだけでなく、その愛の成果でもある。神からの聖い愛は、その性質の中にへりくだりをふくむだけでなく、へりくだりを助長し、育て、愛の結果、結実としてのへりくだりを働かせようとするものである。へりくだりは、単に愛にふくまれているだけでなく、愛が生み出さずにはおかない、愛の実の1つである。これは特に2つの点から見ることができる。まず最初に、愛は、自分と愛する者との間にある隔たりにふさわしい思いや態度をとるよう心に働きかけるものである。神に対する敵意こそ、人が神を愛することに対して反抗心をつのらせ、神と自分の隔たりを全面的に、率直に認めるような行為に反発する原因である。自分の本当に深く愛する人なら、人は喜んでその人の栄誉をたたえ、自分よりもすぐれていることを認め、自分がはるか下の者であることを認める。特に、相手が自分よりすぐれて上位にある者であればなおさら、相手のそのような栄誉を認めるであろう。悪霊どもは、自分と神との隔たりを知っているが、それを受け入れることができない。悪霊どものかしらなどは、神と並び立とう、否、神を超えようという野望さえ抱いている。神への愛を持たないためである。そしてこれは、神からの愛を持っていなければ、ある程度まで人間にもあてはまる。しかし心に愛がはいるとき、魂の傾向はがらりと変わり、神と自分の間にある隔たりにふさわしい、へりくだった敬意を抱くようになる。またそのように神への愛から人に対する愛も生じて、へりくだった態度を取らせるようになり、人々に対して相手が当然受けるべき栄誉と敬意を払わせるようになるのである。そして次に、神への愛は、神に対する罪を忌み嫌うような思いを助長し、そのため御前で私たちをへりくだらせるものである。何かを愛すれば愛するほど、その逆のものは憎らしくなる。したがって、私たちが神を愛するなら、その程度に応じて私たちは神に対する罪を忌み嫌うようになる。そして神に対する罪を忌み嫌うなら、罪のために自分自身を忌み嫌うようになり、神の前でへりくだるようになっていく。このように神からの聖い愛、すなわち、キリスト者精神の結晶がどのようにへりくだりをふくみ、また助長するかを示したので、次に進むこととしよう。

 2. 福音によって導き出される愛の働きは、へりくだりをふくみ、これを助長するものである。----キリスト者精神とは福音の精神にほかならない。キリスト者精神こそ、キリスト教の啓示の目標である。しかしキリスト教の啓示は福音と同じである。したがって福音によって導き出される愛の働きは、まさに特別な仕方で、へりくだりを助長し、うちにふくむものといえる。これにはいくつか理由がある。それは、

 第一に、福音は私たちをして、神を無限に身を低くされる神として愛するよう導くからである。福音は、この世の何物にもまさって、神を非常に低く身をかがめる神として示す。神がご自分についてなさった証しの中でも、キリスト教による啓示ほど、神が身を低めてくださることを素晴らしく示しているものはない。福音は教えている。天地の中にあるものをご覧になることもできないほどきよい神が、みじめで邪悪な、ちりの上の虫けらどもに、慈悲深くもその無限の御目をとめてくださり、彼らの救いのため心を砕き、ひとり子の御子を彼らの身代わりに死なすために遣わされたことを。御子が遣わされたのは、彼らが赦され、高みへと引き上げられ、栄誉を与えられ、神との永遠の交わりへと導き入れられ、天において神を永遠に楽しむためであったことを。キリスト教の啓示が導き入れる愛は、このように身を低めてくださる神への愛なのである。私たちの愛は、そのように無限に身を低めてくださる神に対して当然ふさわしい愛でなくてはならない。したがって必然的に、そのような愛の行ないは、へりくだった愛の行為となる。造物主の謙譲に対して被造物が持つ思いとしてふさわしいものは、へりくだり以外にないであろう。神の謙譲は、本来的にはへりくだりではない。先に挙げた理由から、へりくだりとは、他と比較して卑しさを持ちうる存在にのみあてはまる美徳なのである。しかしながら神は、その無限の謙譲により、ご自分のご性質が高慢とは無限にかけ離れ、敵対ていることを示しておられる。したがって神の謙譲は、時としてへりくだりとも語られている。そして私たちの側のへりくだりは、被造物が神の謙譲に答えるものとしては、最もふさわしいものである。神の謙譲は、私たちの側にへりくだりを引き起こすのである。

 第二に、福音は私たちをして、キリストをへりくだったお方として愛するよう導くものである。キリストは神-人なるお方であって、神の性質と人の性質を合わせ持っておられる。だから、神の完全な性質としての謙譲だけでなく、被造物の卓越した性質としてのへりくだりをも持っておられる。さて福音は、キリストを柔和で心へりくだったお方として示している。かつて地上に存在したもののうちで、最も完全にして最も卓越したへりくだりの模範として示している。ご自分を卑しくされたことにより、この世で最も高貴なへりくだりをあらわし、実行されたお方として示している。彼は「神の御姿であられる方なのに」、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり」、「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた」(ピリ2:6-8)。さて福音は、キリストをこのようにへりくだったお方として愛するよう導く。それゆえキリストをこのようなお方にふさわしい仕方で愛するとは、へりくだった愛を働かせることにほかならない。これは福音が、キリストを単にへりくだったお方としてばかりでなく、へりくだった救い主、主、かしらとして愛するよう導いていることを考えると、なおさら真実である。もし私たちの主にして師なるお方がへりくだっておられたなら、そしてもし私たちが彼をそのようなお方として愛するのなら、彼の弟子、またしもべである私たちも当然、同じような者とならなくてはならない。なぜなら、確かにしもべが自分の主人より高ぶっていたり、鼻高々としていたりするのは不似合いだからである。キリストもそう語っておられる。「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です」(マタ10:24、25)。また主は、ご自分がなさった行動は私たちが模範とするためのものであると教えておられる(ヨハ13:13-16)。さらに、こう弟子たちに宣言しておられる。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです」(マタ20:25-28)。

 第三に、福音は私たちをして、十字架につけられた救い主としてのキリストを愛するよう導くものである。私たちの救い主、また主としてキリストは、栄光の主であられたにもかかわらず、この世で最も屈辱的な死、最も不面目な死をとげられた。このことは当然、彼に従う者にへりくだりの心を燃やさせ、彼に対するへりくだった愛をかきたてるであろう。なぜなら、御子を世に遣わし、このような恥辱に満ちた死を味あわせることによって、いわば神は、人間が誇るのを常とする地上的な栄光すべてを徹底的に軽侮されたのである。神はキリストを、選びの民全員の救い主またかしらとして、あれほど地上的な栄光とはかけ離れた境遇の中に遣わし、地上的な見方をすれば、最悪の恥辱に中に送り込まれた。そしてキリストは、そのように卑しめられ、苦しまされることを喜んでお受けになったことにより、あらゆる地上的な栄光と偉大さを徹底的に軽蔑し、これ以上ないほど明らかにご自分のへりくだりを示されたのである。ならば、もし私たちが自分を、その柔和で心へりくだった、十字架のイエスに従う者と考えるなら、私たちは神と人の前を、地上でのいのちの日の限りへりくだって歩むはずである。

 第四に、福音はさらに私たちを導いて、へりくだった愛の行為へ向かわせる。なぜなら、それはキリストを私たちのために十字架にかけられたお方として愛するよう導くからである。単にキリストが十字架にかけられたという事実ですら、彼に従う私たちがへりくだるべき理由を説明する強力な議論である。しかし彼が私たちのために十字架にかけられたことは、より一段と強力な議論である。なぜならキリストが私たちのために十字架にかけられたという事実こそ、神が私たちの罪過を憎んでおられることを、かつて神がお与えになったどのような証しにもまさって、最も強く証ししているからである。キリストの十字架は、私たちの罪過に対する神の嫌悪を、かつて神が命じ、またお許しになった他のどんな行動や出来事にもまさって、最もきわだって表わしている。私たちの罪過に対する神の嫌悪をはかる物差しは、神がその罪過をどれほどすさまじく罰されたか、すなわち、ご自身の御子に転嫁されてさえなお、その罪過をあれほど厳しく処罰しなくてはならなかった神の御怒りを見ることである。それゆえこれは、私たちをへりくだりへ駆り立てるための、考えうる限り最大の動機である。2つのことを考えれば、これはよくわかる。まず、これは私たちがへりくだるべき最悪の邪悪さの現われであり、同時にこれは、私たちが福音の指し示すへりくだった魂を愛すべき最大の議論である。キリストの気高さ、キリストの愛は、彼が行なわれた他のどんな行為にもまさって、私たちのため自らを悪人の手にゆだね、十字架についてくださったということのうちにはっきり示されている。だから、これらのことを考えあわせると、それは何物にもまさって私たちの側でへりくだった愛を実行させるべく導いているのである。さて、この主題の適用として云えることはまず、

 1. キリスト者精神の気高さである。----「義しい者は、その隣人よりも気高い」、と云われる(箴12:26 <英欽定訳>)。そして真のキリスト者の気高さは、その大部分が、柔和で心へりくだった思いのうちにある。それが彼を彼の救い主と、かくも似た者としているのである。このような心を使徒は、ありとあらゆる飾り物の中で最も輝かしいものと語っている。「柔和で穏やかな霊……これこそ、神の御前に価値あるものです」(Iペテ3:4)。またこの主題は、私たちに、

 2. 自分自身を吟味し、自分が本当にへりくだった思いを持っているかどうか調べさせようとする。----預言者ハバククは云う。「心のまっすぐでない者は心高ぶる」(ハバ2:4)。そして「神は、高ぶる者を退け」る(ヤコ4:6)、あるいは原語でいうように「高ぶる者に対して戦陣を張る」。この事実は、神がどれほど高慢な魂を忌み嫌われるかを示している。少しばかりへりくだったような見かけや様子があっても、福音のテストに合格するとは限らない。へりくだりには、真のへりくだりとは云えない様々なまがい物がある。へりくだったふりをしているだけの者もあれば、生れつき軟弱な性格で、男らしさに欠けただけの者もある。憂鬱症の者もあれば、良心に罪を示されたため一時的に落胆し、心砕かれたように見える者もある。また逆境や患難に遭うときだけ卑屈になる者、真理の照明を受けて感情的にほろりとなっただけの者がある。あるいは、サタンの惑わしによって作り出された偽物のへりくだりがある。だから、おのおの自分を吟味し、自分のへりくだりがどういう性質のものか確かめるべきである。今あげたような浅薄なものなのか、あるいは本当に聖霊によって心につくりだされたものなのか。福音がへりくだった者と云うような態度やふるまいを、自分がしているのだと確信できるまで、安心してはならない。

 3. この主題は、神の恵みを全く欠いた者らに対して、その恵みを追い求めよ、このへりくだりの霊を手に入れよと勧告している。----もし、自分には神の恵みが全くないという人がいるなら、その人は今キリスト者の精神、すなわち恵みの精神を自分のものとしていない、つまり、へりくだりを全く欠いている者である。その魂は高慢な魂である。人々の間では、それほど高ぶった様子は見せないかもしれない。しかし自分の心と人生を決して神にささげようとしないのは、神に対して傲慢であることにほかならない。そのようにすることでその人は、神の主権を無視するか、神の主権に挑戦しているのである。そのような者らに対する恐るべき警告にもかかわらず、自分の創造主と争おうとしているのである。その人は、高慢にも神の権威をばかにし、神の権威に従うことを拒み、不従順な生き方をつづけようとしている。神のみこころに従うことを拒否し、キリストによる救いの道を拒み、へりくだってその救いの条件に服従することを拒否している。キリストが無償で差し出している力と義をふりはらい、自分自身の力、自分自身の義にたよろうとしている。さて、そのような人々は、これが特別な意味で、悪霊どもと同じ罪であることを考えていただきたい。使徒は云う。「信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです」(Iテモ3:6)。また、このような思いが神にとってどれほど忌まわしく、いとわしく見えるか考えていただきたい。どれほど恐るべき警告が与えられているか考えていただきたい。「主はすべて心おごる者を忌みきらわれる。確かに、この者は罰を免れない」(箴16:5)。さらに、「主の憎むものが六つある。……高ぶる目、……」(箴6:16)。また、「人の高ぶりはその人を低くし、……」(箴29:23)。また、主は高ぶる者に目を向けて、これを低くしようとしておられると云われる(IIサム22:28)。さらに、「万軍の主がそれを計り、すべての麗しい誇りを汚し、すべて世界で最も尊ばれている者を卑しめられた」(イザ23:9)。またパロや、コラや、ハマンや、ベルシャツァルや、ヘロデが、その心の高ぶりと高慢な行動のゆえに、いかにすさまじい罰を受けたか考えていただきたい。彼らの末路を戒めとして、へりくだった思いを抱いていただきたい。神の前をへりくだって歩み、人に対してへりくだっていただきたい。そして最後に、

 4. すべての人に対し勧告しよう。私たちは、へりくだった思いをより熱心に追い求め、神と人に対して行なうすべての行為において、へりくだった者となるよう努力しなくてはならない。----神と人の前における、自分の比較的な卑しさをより深く、より重く実感するよう努めなくてはならない。神を知ることである。神の前で自分の無価値さと荒廃ぶりを告白することである。自分によりたのんではならない。神によりたのむことである。神から来るものでない限り、すべての栄光を拒否することである。心から自分を神のみこころと奉仕のために明け渡しなさい。うぬぼれた態度、野心的な態度、ひけらかすような態度、もったいぶった態度、傲慢な態度、人をばかにした態度、頑固な態度、意地悪な態度、尊大な態度、自己弁解的な態度をやめることである。そして、キリストが地上で示してくださったようなへりくだった心をより深く深く求めつづけることである。そのような心を持つべき理由となるたくさんの動機を考えていただきたい。へりくだりは、あらゆる真の敬虔にとって最も本質的な、そして最もはっきりした特徴である。これこそあらゆる恵みに伴うもの、そして特別な仕方でキリスト者の感情をきよめるものである。へりくだりこそ魂の飾りであり、キリスト者にとって最も甘美な体験の1つである。私たちが神にささげるものの中で、最も神に受け入れられるささげ物である。神の最も豊かな祝福を約束されたものである。これこそ、神が地上でお住まいとする魂、死後には天で栄冠を授けてくださる魂である。だから、へりくだった魂を熱心に求めなさい。勤勉に、また祈りをもってこれを養いなさい。そうすれば神は、この地上においても、ともに歩んでくださる。そして、ほんのしばらくすれば、キリストの右に立つ御民に与えられる栄誉へと迎え入れてくださるであろう。

愛は高ぶらず[了]

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