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6. 愛はねたまず

「愛は……人をねたみません」Iコリ13:4

 これまで私たちは、キリスト者の愛、すなわち神からの聖い愛の性質と性格を学んできた。それは、他人から受けた不正に対しては「寛容」であり、他人に善を行なう点では「親切」であった。さてここで使徒は、この同じ愛が、他人の持つ良いものと、自分の持つ良いものについて、どのような思いを抱き、どのような行動を取るかを述べている。そして、他人の持つ良いものについては、こう宣している。すなわち、他人がどれほど良いものを持っていようと、それを全くねたまないのが、キリスト者の愛の性質であり性格である、と。「愛は……ねたみません」。この言葉から明らかに教えられるのは、

 愛、すなわち真のキリスト者精神は、ねたむ心とは全く正反対だ、ということである。

 この点を詳しく見ていくにあたり、私は3つのことを示そうと思う。それは、I. ねたむ心の性質。II. キリスト者精神は、いかなる点でそうした心と正反対なのか。III. この教理が正しいという理由と証拠、である。

 I. ねたみの性質。----ねたみを定義するとすれば、それは、自分と比較して他人が成功していたり、幸福であったりすることに対する不満と反感の思いである。ねたむ人が反感を覚え、また嫌悪するのは、他人が自分とくらべて大きな名声や、恵まれた環境や、幸福を得ているということである。そして他人が自分より尊敬されていたり、自分より大きな喜びを持っているがために、(あるいは自分の持ってもいないような喜びや名誉を享受しているがために)、相手の成功や幸福を嫌悪し、反感を抱くとき、これをねたみと呼ぶのである。誰よりもすぐれていたいという思いは、人間に生来そなわった感情である。そして、他人が自分より上にいるということは、あからさまにこの感情を逆なでする。ここから、人は他人の成功をいとい、反発するのである。なぜなら人は、そうした成功を手にしている人々が、ある意味で、自分にまさる地位に立ったと考えるからである。また、同じそうした思いから、人は他人の誉れや幸福が自分と同列になったり、他人が自分と同じ喜びのもとを持つことを好まない。というのも一般に人間は、自分と対等の立場に立つ競争者がいるよりは、自分の上に上位者がいることの方が、感情的に、まだ耐えられるからである。人は、自分だけが目立つこと、自分だけが際立ってすぐれた者となることを愛するのである。こうした思いを、聖書はねたみと呼んでいる。だからモーセは、エルダデとメダデが預言の霊を受けるという、モーセと同じ特権にあずかったとき、自分のためにねたみを起こすなとヨシュアに云うのである。「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに!」(民11:29)。またヨセフの夢を聞いた兄たちも、こいつの前に両親も自分らもやがて額づくことになり、支配されるようになるのか、といって彼をねたんだのであった(創37:11)。このような思いから人は、他人が自分の上に立ったり、自分と同等になったりすることばかりか、自分の地位に近づくことさえ望まない。なぜなら、誰よりもすぐれていたい、誰よりもほめそやされたいと願う人は、自分が他人を引き離していればいるほど、また他人が自分より引き離されれば離されるほど、満足の意を強くするからである。そうやって、誰の目にも自分の優位性がはっきり見えることを好むからである。こうした思いがかき起てられるのは、これから他人が豊かで幸せになるかもしれないという場合か、実際に他人が豊かで幸福になっているという場合である。後者の場合(これは前者よりもよくあることだが)、ねたむ思いは2つの点に対して燃え上がる。第一に、相手の幸福そのものに対して。第二に、相手個人に対してである。

 1. ねたみは、他人の幸福を面白くなく思い、 不愉快に感じるところに如実に表わされる。ねたむ人は、他人の幸せによって喜びを感じるのでなく、むしろ心を乱される。他人が幸福をつかんだり、ほめそやされたり、出世したりするのを見ると、心が動揺し苦々しい思いになる。何か他人にめでたいことがあったとか、名誉を得たとか、出世したとか聞くと、嬉しがる気持ちなど露ほども起こらず、逆に非常に不快に思う。そうした思いは、あのハマンそっくりである。ハマンは、「自分の輝かしい富……、子どもが大ぜいいること……、王が自分を重んじ……てくれたことなどを全部」考えても、なお、「しかし、私が、王の門のところにすわっているあのユダヤ人モルデカイを見なければならない間は、これらのことはいっさい私のためにならない」、と云った(エス5:18)。こうした思いから、ねたむ人は、他人の栄誉や慰めが少しでも削られるようなことが起こると、たちまち大喜びする。こういう人は他人の凋落を見て喜ぶ。それどころか、あのハマンがモルデカイを何とかひきずりおろそうと画策したように、他人を没落させようと策略を巡らしさえする。またそのような人はハマンと同様、たくらみを練るばかりでなく、あの手この手を用いてしばしば実際に他人をひきずりおろそうとする。そのためには、どんな機会も決して逃さない。そしてこのような思いから、ねたむ人は、他人の成功を見るとそれだけで、(たとえそれが、あまりよく知らない人であっても)、相手を悪く云い、陰口を云うのである。他人が手に入れた幸運をねたむ人々は、せめて悪口でも云うことによって、相手の評判を落とし、世間での受けを悪くしてやろうと思うのである。

 2. 人が他人をねたみ、その幸福を不快に思っていることは、彼が、相手が幸福であるがゆえにその人格そのものをも忌み嫌うというところに如実に表わされる。ある人が成功して、人々にほめそやされている姿を見ると、ねたむ人はその人が栄誉と幸福を得ているというだけで、その人が嫌いになる。いや、憎みさえする。ただ栄えているというだけの理由で、彼らに対して悪意を抱く。相手の評判がよく、幸福にしているというだけのことで、苦々しい思いになる。そのようにハマンは、「モルデカイに対する憤りに満たされた」、という(エス5:9)。モルデカイが「王の門のところにい」て、「立ち上がろうともせず、自分を少しも恐れていないのを」見たからである。またそのようにヨセフの兄たちは、「彼を憎み、彼と穏やかに話すことができなかった」。彼の父が彼を愛したからである。そして彼が自分たちを見下すような夢を見て、「彼らは、ますます彼を憎むようになった」(創37:4、5)。また、ねたむ人は普通、他人が栄え、誉れを手に入れるとき、それが何か自分に不正を加えでもしたかのように憤慨し、恨みに思う。時には、こうしたことが理由で根深い憎悪が生じ、ヨセフの兄たちのように(創37:19-28)、非常にむごく残酷な行為がなされることになる。しかし、ねたみの性格についてはこれで十分であろう。そこで次に、

 II. キリスト者精神は、いかなる点でそのようなねたむ思いと正反対なのか。まず、

 1. キリスト者精神は、そうした思いをかき立てたり、表わしたりすることを許さない。自分の生き方、自分の行動を、キリスト教の原理で貫いている人は、たとえねたむ思いを(他のもろもろの腐敗した感情と同様に)心の中で抱くことがあっても、それはキリスト者としての自分にふさわしくないといって、そうした思いを忌み嫌う。また神のご性質にも、みこころにもそむくものだといって忌み嫌う。これを何よりもおぞましく憎むべき思いとみなす。他人のねたみをおぞましく思うだけでなく、自分が抱くねたみをもおぞましく思う。従って、誰かに対してそうした思いがむらむらと起こるのを感じると、内なるキリスト者精神の力に応じて警報を発し、それと戦い、そうしたものを心にはびこらせようとはしない。それが言葉に出たり、行動になって現われるのを防ごうとする。そして、心にこうした思いのきざしを感じるときには常に悲しみ、自分の内側でこの憎むべき性情を十字架につけようとする。ありったけの力をふりしぼってでも、そういう思いとは逆の行動を取ろうとする。

 2. キリスト者精神は、ねたむ心をかき立てたり、表わしたりすることに反発するばかりでなく、そうした思いを生み出す根本的な傾向を心の中で抑制しようとする。キリスト者精神が心の中で優位を占めているとき、それは単に、ねたみが表にあらわれて行動するのを押しとどめるだけでなく、心中にあるねたみの根そのものを抑えようとする。そして人は、そのキリスト者精神の力に応じて、他人が栄えていても心を乱されないようになる。それどころか、栄えているからといって相手を嫌ったり、悪意を抱いたりすることがなくなる。キリスト者精神によって私たちは、現在の自分に満足するようになる。神から与えられた自分の身分や立場に不満を抱かないようになる。そして、神がその叡知といつくしみに富む摂理によって私たちや、他の人々に分かち与えられた境遇や所有物を、穏やかな、満足した思いで受け入れることができるようになる。たとえ自分の身分が御使いほど高かろうと、あるいは金持ちの門前に座っているしかなかった、あの乞食ほど低かろうと(ルカ16:20)、私たちはそれを、神によって与えられた持ち分として受け入れ、同じように満足しているであろう。与えられた環境の中で、最善をつくして主に仕えている限り、決して自分をみじめに思うことはないであろう。キリスト者精神さえあれば、私たちは使徒のように、「どんな境遇のにあっても満ち足りることを」学ぶであろう(ピリ4:11)。しかし、

 3. キリスト者精神は、ねたみを表にあらわして行動することを許さなかったり、その心の中の根本的な傾向を抑制したりするだけでなく、他人が恵まれた環境にあることを喜ぶようにさせる。キリスト者精神によって私たちは、常にほがらかな思いをもって、使徒の与えたあの、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」、というおきてに従うようになる(ロマ12:15)。すなわち、他人の境遇を、文字通りわがことのように感ずるようになる。そうした慈愛と善意の持ち主は、ねたみなどという悪意を追い出してしまい、隣人の幸せを自分の幸福とすることができるようになるのである。さて次は、先にも述べたように、

 III. 今まで語ってきた教理がなぜ正しいといえるのか、すなわち、キリスト者精神はなぜそのようにねたみの心と相反するものなのか、ということである。これは、3つのことを考えると明らかであろう。第一に、キリストの与えられたもろもろの戒めが、ねたむ心といかにかけ離れた精神と行動を強調しているか。第二に、福音の物語と教理が、いかに力強くそうした戒めを主張しているか。第三に、キリスト者の愛の精神が、いかに強く私たちをそうした戒めの権威に----またそうした戒めを裏打ちしている影響力と動機とに----服させるか、である。まず、

 1. キリストの戒めにおいては、ねたむ心と全く正反対の思い、全く正反対の行ないが非常に強く主張されている。----新約聖書は、他人に対する善意を命じ、また柔和や謙遜や慈愛などの精神を命じる戒めで満ちている。これらは1つ残らず、ねたむ心と相反するものである。そればかりか、特にねたみそのものに対しても多くの警告が与えられている。使徒は私たちに、「争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方を」せよ、と命じている(ロマ13:13)。また、コリント人たちを肉的であると非難して、それは彼らの間にねたみがあるからだ、と云う(Iコリ3:3)。さらに使徒は、自分が恐れているのは、彼らの間にねたみがあるのではないかということだと云う(IIコリ12:20)。そして同じ箇所では、(ねたみにかられた人々にとってはごく自然なことだが)「憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、騒動」が、ねたみと一緒に挙げられている。また、ねたみは、「殺人、酩酊、遊興」などと同列にみなされており(ガラ5:21)、非常に邪悪なものであると断罪されている(Iテモ6:4)。また、回心する前のキリスト者らがどっぷり浸って生きていた罪、救われたことによって彼らが贖い出された罪、したがってキリスト者となった今では告白して捨て去らなくてはならない憎むべき罪の1つとして言及されている(テト3:3)。またそれと同じ思いをもって使徒ヤコブは、ねたみをキリスト教と真っ向から対立するもの、あらゆる悪のわざと結びついたもの、地上に属し、肉的で、悪魔的なものであると語り、私たちに警告を発している。「兄弟たち。互いにねたみ合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立……っておられます」(ヤコ5:9 <英欽定訳>)。そしてもう一例だけ引用すると、使徒ペテロは私たちに、信仰の成長を妨げる他の様々な悪とともに、すべてのねたみに対して警戒するように命じている(IIペテ2:1、2)。このように新約聖書は、ねたみの心とは全く正反対のものを命ずる、キリストが残された数々の戒めで満ちているのである。そして、これらの戒めは、

 2. 福音の教理と物語によって力強く主張されている。キリスト教の教理体系を考えれば、それが今見てきたような戒めを強く主張していることに気づくであろう。というのは、キリスト教のあらゆる真理は、徹頭徹尾、ねたむ心とは逆のものに強く傾いているからである。キリスト教の教義は、いかなる面、いかなる教えにおいても、ねたむ心を妨げるものである。それが神について教える事柄は、恐ろしいほどねたみと逆行している。そこで私たちは、神が私たちへの栄誉と祝福を出し渋るどころか、私たちに与えるには何物も高すぎず、何物も尊すぎず、何物も勿体なさすぎはしないと思われたことを知るからである。神は私たちのために、御自分の愛するひとり子、何よりもいとしい御子さえ惜しまれなかった。また神は、その御子を通して私たちに、最高の栄誉と祝福を与えることも惜しまれなかった。また福音の教理もやはり、いかにキリストが私たちのためには物惜しみも、骨惜しみもなされなかったかを教えている。彼は私たちのために労苦と艱難の生涯を送ることをいとわれなかった。御自身の尊い血潮を十字架の上で流すことさえいとわれなかった。そればかりか、天において御自分の栄光の王座を私たちと分かち合い、私たちが彼とともに永遠に生き、彼とともに支配することさえ渋りはしないのである。キリスト教の教理体系は、キリストがいかに世に下り、いかに私たちをサタンのねたみの力から解放してくださったかを教えている。悪魔は、その浅ましいさもしさで、原初の人類が手にしていた幸福をねたみ、彼らがエデンでぬくぬくと暮らしていることにがまんがならなかった。だからその奸知の限りをつくして、人間を破滅にひきずりおろしたのである。そしてさらに福音は、いかにキリストが世に下り、悪魔のねたみがもたらした悲惨さの中から私たちを解放し、いかに私たちの性質からその同じ精神の痕跡をぬぐいさり、天にふさわしい者としてくださったかを教えている。

 またもし福音の教理に加えて、その物語を考えるなら、私たちはやはりそれが、ねたみを禁ずるもろもろの戒めを大いに主張していることに気づくであろう。そしてこれは、キリストの生涯、およびキリストが私たちの前に置かれた模範を考えるときに特に顕著である。いかに彼はねたみの心からかけ離れていたことか。いかに彼は、私たちのため自ら進んで身を落とした卑賎の、困苦多い生活に満足しておられたことか。そしていかに彼は、世俗的な富や栄誉の持ち主たちをねたんだり、彼らの繁栄を羨望するなどといった心持ちからかけ離れていたことか。むしろ彼は、御自分の卑しい身分にとどまることを選ばれた。あるとき、彼の教えと奇蹟に魅せられた群衆が、彼をかつぎあげて今にも王にしようとしたときも、彼らの手から逃れて、ただひとり山へ退かれた(ヨハ6:15)。また、バプテスマのヨハネが素晴らしい預言者だと民衆からあがめられ、ユダヤとエルサレムの全住民が彼の話を聞き、彼のバプテスマを受けようと出てきたときも、キリストはヨハネをねたまず、御自身わざわざ彼のバプテスマを受けるためにヨルダンへ赴かれた。彼はヨハネの主であり師であり、ヨハネこそ(ヨハネ自身も証しして云ったように)キリストのバプテスマを授けられる必要があったにもかかわらずである。そして彼は、どのような栄誉や特権も、御自分の弟子たちに与えるには惜しいとか、大きすぎるとか考えることがなかった。彼は弟子たちに向かって、自分の死と昇天の後、彼らは、自分が彼らとともにいたころより大きなわざをなすだろうと約束された(ヨハ14:12)。そしてほどなくすると、使徒行伝に見るように、彼の予言されたことはことごとく実現したのである。そして、

 3. 真のキリスト者の愛の精神は、人を、これらの戒めの権威と、その戒めを裏打ちする動機の力とに従わせるものである。----まず愛の精神はじかに、あるいはその直接的な傾向によって、私たちにその心を起こさせる。あるいは、間接的に、すなわち私たちにへりくだりを教え、へりくだりへ導くことによって、このことをなす。

 第一に、キリスト者の愛は、その直接的な傾向によって、ねたみを禁ずる戒めに私たちの耳を傾けさせ、ねたみと相反する福音的な動機に心開かせるものである。人々への愛、すなわち人々に対するキリスト者の愛の性質は、それ自体、ねたみと真っ向から対立する。なぜなら愛はねたむことなく、愛する人の幸福を喜ぶからである。隣人を愛する人は、相手が恵まれているからといって相手を憎んだり、相手の幸福を見て不機嫌になったりするはずがない。また神への愛もまたそれ自体、私たちを神のご命令に従わせようとするものである。純粋な神への愛から自然に生じてこざるをえないもの、それは従順である。だから神を愛する人は当然、神がねたみを禁じておられるもろもろの命令にも、他のご命令と同様に従おうとする。いや、そうした命令には特に喜んで従おうとする。なぜなら愛にとって、愛せよという命令に従うことほど喜ばしいことはないからである。そして神への愛は、私たちを神の模範に従わせようとする。私たちに惜しむことなく幾重もの祝福を賜り、私たちが幸せになることを喜んでくださった神の模範に従わせようとする。またこれは、私たちにキリストの模範にならわせようとする。私たちのためには御自分の命も惜しまれなかったキリストの、また地上での全生涯を通して私たちに模範を示されたキリストにならわせようとする。

 第二に、キリスト者の愛の精神は間接的に、私たちをへりくだらせることによっても同じことをこころがけさせる。ねたみを生み出す最大の温床は高慢である。人が、誰よりも目立っていたいとか、誰よりもほめそやされたいとか、誰よりもいい思いをしたいとかいう激しい欲望を燃やすのは、みな内心の高慢によるものである。それで人は、他人が自分より上に立つことをあれほど不快に感じ、面白くなく思うのである。しかし、愛の心は高慢を抑制しようとし、心の中にへりくだった思いを作り出す。神への愛とは、本来そのようなものである。なぜなら神を愛する人は、神の無限の卓越性を感じ、それにくらべて自分がいかに無価値で、いかにつまらぬ者であるかをさとるようになるからである。人に対する愛もまた、人々の間で謙遜な行動を取らせるよう仕向けるものである。なぜならそれは、他人のすぐれた点を認めさせ、相手に与えられた栄誉は当然ふさわしいものだ、相手は自分よりすぐれている、だから自分よりも大きな栄誉を得て当然だ、とみなさせるからである。しかしこの点に関しては、これ以上詳しく考えないことにしたい。私はまた別な説教で、もっと十分に、キリスト者の愛がなぜ人をへりくだらせるかを取り扱うであろう。そこで結論として、この主題の適用に移りたい。

 1. 私たちは、自分が少しでもねたむ心の影響を受けていないか、よく吟味すべきである。----過去の自分を吟味してみよう。過去、自分が人々の間でどのようにふるまったか思い出してみよう。私たちの多くは、社会の一員として長い間生きてきた。他の人々とともに生き、他の人々と種々雑多なかかわりを持ちつつ、様々な場合、他の人々と公私にわたってつきあいながら生きてきた。そして他人が富み栄えるのを見てきた。おそらくは、彼らが自分よりもずっと成功しているのを見てきた。彼らは私たちよりもずっと恵まれた環境にあり、ずっと多くの財産、ずっと安楽な暮らし、ずっと高い名誉を手にしていた。またおそらく私たちの中には、それまで自分と同格だと、いや目下の者だとさえみなしてきた者が、自分以上に富み栄え、出世し、うまく世を渡っていくのを目にした者がいるであろう。自分が置き去りにされていく間に、彼らが自分よりはるか高い地位に達するのを見た者がいるであろう。私たちは、これまでの長い人生の間そうした変転を目にし、そうした試練に耐えなくてはならなかったことが何度もあったであろう。そしてまた私たちは、他人がこの世で尊ばれているすべてのものに富んでいるのに、自分がそうしたものにひどく欠けているという状況を、しばしば見てきたに違いない。さてここで私たちは、こうしたことが自分にどのような影響を与えたか探ってみよう。そういう状況に立ち至ったとき、私たちの心はどうであったか、私たちはどのようにふるまったか。心が波立ち騒ぎ、ひどく苦々しい不快感を感じなかったろうか。そして彼らがその豊かさからひきずりおろされるのを見たいと願いはしなかったろうか。そして、何か彼らの不利になるようなことが話されるのを聞くと喜びを感じはしなかったか。そして彼らの将来について話すようなとき、私たちは自分のひそかな願望を云い表わしてはいなかったろうか。言葉に出すか、行なうかして、彼らの成功や誉れに何かしらけちをつけたりしなかったろうか。私たちは、ある人が豊かで満ち足りているからといって、その人に対して苦々しさや、冷たい思いを抱いたことがないだろうか。あるいは、その人が恵まれた環境にあるからといって、悪意のこもった目で眺めたり、仕事のことで対立したり、ねたみ心から、その人と反対するような立場の人々と手を組んだりしなかったろうか。自分の過去を振り返ったとき、私たちはこういった類いのおびただしい事柄において、しばしばねたむ心をかき立て、そうした思いを表にあらわすことを許しはしなかったろうか。私たちの心は何度も他の人々に対してねたみを燃やしたのではなかったか。

 そして目を過去から現在に転じて、今の自分の心を探るとき、私たちは自分のうちにどのような思いを見出すか。私たちは、毎週ともに教会の席に列し、ときには聖餐をも共にする同信のだれそれや、かれそれに対する古い遺恨を引きずってはいないか。他のだれかれの幸せで満ち足りたようすが、目ざわりに感じられて苛立つことはないか。彼らが自分より上にいることが、不愉快さをかきたててはいないか。そして、ひそかに彼らの失墜することを楽しみにしてはいないか。彼らが失敗したり、落ち込んだりすると、心の奥底で愉悦と喜びを感じるのではないか。またこの同じ思いによって、相手を悪人とみなしたり、あざけるように噂したり、悪しざまにけなしたり、激しくなじったりしてはいないか。また人より恵まれた豊かな立場にある人々にも、やはり自分の心を探っていただこう。あなたは、自分より下の者がささやかな幸せを手に入れることに反発したいような思いをかき立てられたり、そうした思いを表に現わしたりしてはいないか。自分が他の人々より上にあることを誇り、彼らが自分と肩を並べたり、追い越したりしないよう、ずっと今のまま下の方にとどまっておればよいのに、というような思いが内側にないだろうか。いつか彼らが自分を見下す日がくるかもしれないと云って、彼らが転落すればいいと思ったり、彼らを下につき落としてやりたいと思ったりしてはいないだろうか。そして、こうしたことはみな、あなたがねたみ心に根深く支配されていることを示していないだろうか。

 しかし、こうしたすべてについて、自分の弁解をする人がいるかもしれない。自分はねたんでいるのではない、もっと別の理由があるのだと云って、様々な云い訳をあげ、自分のねたむ思いを正当化しようとする人がいるかもしれない。ある人は他の人々について、すぐにこう云う。彼らは、あのような立派な地位や名誉にはふさわしくない人間だ。彼らと、彼らの下にいる他の多くの人々とくらべると、彼らがいま受けているような昇進や名誉には、彼らは半分も値していしないではないか、と。しかし、ここで私は問いたい。他人をねたんでいながら、相手がその富や栄誉に値しないと云わないような者がいるだろうか。ヨセフの兄たちは、ヨセフが父の特別な愛を受けるのにふさわしいと思っていたろうか。ハマンは、モルデカイが王によって与えられたような栄誉に当然値するなどと思っていたろうか。あるいは、使徒行伝に記されているあのユダヤ人たちは、異邦人へのねたみに満たされたとき、彼らが福音のもとで差し出された特権にふさわしいとでも思っていたろうか(使徒13:45 および17:5)。普通よくあるのは、ある人が名誉ある地位に引き上げられたり、何らかの点でめざましい成功をおさめたりすると、必ず誰かがその人の欠点を云い立て、その人格をけなし、ありったけの悪口を投げつけ出すという図である。このような事実に鑑みれば、世の悪評とは、その人に欠点があるから出てきたというより----人が無名の間は、どんな欠点があろうと注意を引かないというだけである----、むしろ、その人が富み栄えているからこそ出てきたのである。そして、そのように他人の欠点を云い歩く者は、彼らの成功をねたんでいるからこそ、その悪口を吹聴するのである。だから、他人に反抗していながら、自分がそうするのは相手に欠点があるからだと自分を正当化しようとする人々は、ひとり静かに心の中を探っていただきたい。自分を最も悲しませ、最も悩ませているものは何か。それは隣人の欠点か、それとも彼らの成功か。もしそれが欠点の方なら、たとえ彼らが成功者であろうとなかろうと、彼らのために悲しむであろう。そしてもし本当に彼らの欠点を悲しんでいるとしたら、本人以外の相手に、その欠点をむやみに吹聴するような真似は決してしないであろう。真のキリスト者精神で、同情と友情をこめて忠告するにとどめるであろう。しかし、ある人は云うかもしれない。彼らは自分の成功と名誉を悪用している。自分の成功に有頂天になって、どうしようもなくなっている。自分を見失っている。彼らは鼻持ちならない俗物だ。その豊かな境遇は何の益ももたらしていない。すぐにひきずりおろされた方が身のためだ。なんとなれば、それは彼らをへりくだらせるだろうから。だから彼らは、身のほどに合った地位まで引き下ろされるに限る。そこが彼らにとって最もふさわしい居場所なのだ、と。しかし、ここで心の中を深く探ってみていただきたい。あなたは、本当に彼らの豊かさが彼らに与えている害のことを悲しんでいるのか。本当に彼らのために悲しんでいるのか、本当に彼らを愛しているから悲しんでいるのか。自分の悲しみ嘆きは憐れみから出たものか、それともねたみから出たものなのか。もし、本当に彼らの繁栄を、彼らにとって良からず、彼らに害を与えるがゆえに嫌うというのであれば、あなたは彼らの陥った災難のゆえに悲しみを覚えて、彼らの繁栄のゆえに悲しんだりしないはずである。あなたは真実彼らを愛し、その愛ゆえに心から彼らの災難を残念に思うであろう。彼らの恵まれた境遇が恵みとなるよりは、むしろ災厄となっていることに真の同情を感ずるであろう。しかし、これは本当に嘘いつわりない心情であろうか。自分を欺いてはならない。自分が悲しく思うのは彼らの災難か、それともただ単に彼らが富み栄えていることか。自分は彼らの富が彼らに害をなしているからといって、彼らのために悲しんでいるのか、それとも彼らの富が自分のものでないからといって、自分のために悲しんでいるのか。そしてもう1つ、心の中を探りきわめていただきたいことがある。あなたは時として他人の霊的祝福をねたんでいないだろうか。カインがアベルに対してどのような思いを抱いたか思い出していただきたい。蛇の子孫が女の子孫に対して、またイシュマエルがイサクに対して、またユダヤ人がキリストに対して、またあの長男が放蕩息子に対してどのような思いを抱いたか。そうした思いをくすぶらせていないように用心していなさい。むしろ他人が恵まれていることを、自分のことのように喜びなさい。

 2. この主題はさらに、ねたむ心に近似したあらゆるものを許さず、捨て去るようにも命じている。----ねたみの心はキリスト者精神と真っ向から対立しており----それ自体が邪悪であるばかりか----他人に対して非常な害を与えるものである。だから、いかなる人もこのような思いを抱きつづけていてはならない。ましてキリスト者であると告白している者はなおさらである。自分がキリスト者となっていることを信じ、新しい心、すなわちキリストの心を賦与されているとの望みを抱いている者は多い。ならば、自分がそのような心を持っていることを、行ないで明らかにしようではないか。ねたみを持たぬ愛の心を働かせることによって、それを示そうではないか。使徒ヤコブの言葉によるなら、「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです」(ヤコ3:13-16)。ねたむ思いは、天国の思いと全く正反対である。天国では、みな他人の幸せを喜ぶものだからである。ねたみは地獄の思いそのもの----他人の破滅と失墜を養分として生きながらえる、最も憎むべき思いである。ここからある人は、ねたむ人は芋虫であると云った。芋虫というものは、最も青々と生い茂る木の葉や、草の葉をむさぼり食うのを一番喜ぶからである。また、ねたむ思いはそれ自体最も憎むべきものであるのと同じく、その持ち主にとって最も不愉快で最もいらだたしいものである。これは悪魔の思いであり、悪魔の様相を帯びているのと同じく、地獄の思いであり、地獄の悲惨さを帯びている。ソロモンは力をこめて語る。「穏やかな心は、からだのいのち。激しい思い[ねたみ]は骨をむしばむ」(箴14:30 <英欽定訳>)。これは、恐るべき速さで体内の器官をむしばみ、ぼろぼろにし、ただれさす、おぞましい癌細胞のようなものである。またこれは、途方もなく愚かな自傷行為である。なぜならねたむ者は、何の必要もないのに自分をわざわざ悩ませるからである。相手は単に富み栄えているというだけで、しかもその富は、自分に何の害も与えず、自分の富や祝福を全然減らすようなものではない。なのに彼らは、相手も楽しんでいるのが許せないというだけの理由で、自分の持っているものを楽しもうとしない。だから、このような思いの愚劣さ、下劣さ、低劣さを考え、これを忌み嫌うようにしようではないか。そして何の弁解にも耳を貸さないようにしよう。キリスト者の愛の精神を熱心に追い求めよう。他人が幸せでいることを常に喜ぶ天来の愛を、また私たちの心を至福で満たすあの気高き精神を追い求めよう。この愛は、「神から出ている」(Iヨハ4:7)。そしてこの愛のうちにいる者は、「神のうちにおり、神もその人のうちにおられ」るのである(Iヨハ4:16)。

愛はねたまず[了]

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