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5. 惜しみなく愛は与う

「愛は寛容であり、愛は親切です」Iコリ13:4

 前回はこの節から、愛、すなわちキリスト者の愛が寛容であって、他人から受けた不正を柔和に耐え忍ぶということを学んだ。さて今回学びたいのは、愛が親切であるということ、すなわち、

 愛、すなわち真のキリスト者精神は、他人に対し報いを求めずして善を行なうということである。

 この点を詳しく見ていくにあたり、私は2つのことを示そうと思う。I. まず手短に、他人に善を行なうという義務の性格を明らかにしたい。そして、II. キリスト者精神が、そのような義務を行なわせるものだということを示したい。

 I. まず、他人に対して善を行なうというこの義務の性格を明らかにしよう。ここでは、3つのことを考えることにする。まず行為、すなわち善を行なうということ。それから対象、すなわち私たちが善を行なう相手となるべき人々。そしてその善を行なうべき仕方、すなわち報いを求めず行なうということである。さて、

 1. この義務の中心は、他人に善を行なうという行為である。----人は、様々な仕方で他人に善を行なうことができるし、機会があるときには、そのように他人に善を行なう義務がある。ここで、

 第一に、人は他人の魂に対して善を行なうことができる。これは、あらゆる善行の中で最も気高い行ないである。人はしばしば、他人に霊的な、また永遠の善を及ぼす器になれる。そのようなとき人は、世界中の富を与えるよりも大きな善を行なっているのである。キリスト教を全く知らない人に一生懸命聖書を教え、偉大な信仰の知識に導くことは、相手の魂に善を行なうことである。また忠告や警告によって人を奮起させ、義務を果たさせ、自らの魂の幸いのため適切で、徹底的な配慮をさせることは、相手の魂に善を行なうことである。また、義務を怠る人々をキリスト者として叱責するのも同様である。さらにまた、よい模範を示すことがある。よい模範は、他人の魂を向上させるために欠かせないもの、そして一般に最も効果的なものである。教導、忠告、警告、叱責といった、他人の魂に善を行なう手段には、自分の模範が伴っていなくてはならない。さもないと、他に何をしようとそこには力がなく効果がない。よき模範にまさって、そうした手段を効果的にするものはない。模範なしに何をしようと全く無駄である。

 悪人を、その悪い生き方から改心させようとすることは、その魂に善を行なうことである。また教会出席を怠る人を説得して神の家へ通わせることも、魂に善を行なうことである。あるいは、安心しきった不用心な魂に対して、自分の悲惨さと危険を思い起こさせ、そのことによって彼らを覚醒させ、回心させ、キリストのみもとに導くための器となることも同様である。そのようにする人は、あの「多くの人を義とした者」のうちに数えられ、「世々限りなく、星のように輝く」であろう(ダニ12:3)。また聖徒たち同士でも、信仰と従順において互いに慰めあい、励ましあい、強めあうための器となることができる。互いに信仰を燃やし、励まし、高めあうことができる。信仰的に落ち込み、活気を失った者を立ち上がらせ、誘惑のうちにある者を助け、敬虔の道をともに進んでいくことができる。迷いの生ずる困難な問題にあっては、互いに道を示しあえる。暗闇の中にあるとき、また試練に遭うとき、互いに励ましあえる。まとめていえば、互いの霊的喜びと、霊的力を高めあい、栄光に向かう旅路を互いに助けあいながら進むことができるのである。

 第二に、人は外的なこと、この世的な事柄においても、他人に善を行なうことができる。人は外的な困難や不幸の渦中にある人々を助けることができる。なぜなら、人間にふりかかる災難、苦難には限りがなく、そうしたとき人は、隣人や友人の助けを本当に必要とするからである。多くの人は空腹か、渇いているか、旅人か、裸か、病気か、牢にはいっている(マタ25:35、36)か、その他の苦しみがある。そうした人々すべてを私たちは助けることができる。私たちは彼らの外的な持ち物や財産をふやしてやることができる。彼らの名誉を守り、人々の間で彼らの受けや評判をよくしてやることができる。あるいは、何か親切な言葉をかけたり、思いやりある優しい行為をすることによって、彼らのこの世での慰めや幸福を本当の意味で増し加えることができる。そしてそのように外的に善を行なうことによって、私たちは彼らの魂に善を行なうための非常に有利な地歩を占めるのである。なぜなら、私たちの教えや助言や警告や模範が、そのような外的な親切を伴うとき、後者は前者がよりよい効果を生み出すための道を開き、その力を最大限にふるわせ、私たちが彼らの霊的幸福のために努力するとき相手にその真実さを信じさせることになるからである。私たちがそのように他人の善のために尽くすには、3つの方法がある。まず、自分が持っていて、相手に必要なものを与えること。また彼らのため具体的に行動し、彼らを助けるため労し、彼らの幸福を増し加えること。そして、彼らのために苦しみ、彼らの重荷を自分も担い、その重荷を軽くするため自分にできるすべてのことを行なうこと。これらはみな、他人に善を行なう方法としてキリスト教で求められているものである。私たちは、他人に与えることが求められている。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます」(ルカ6:28)。私たちは、他人のため物事を行ない、労苦することが求められている。「兄弟たち。あなたがたは、私たちの労苦と苦闘を覚えているでしょう。私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました」(Iテサ2:9)。また、「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです」(ヘブ6:10)。さらに私たちは、必要があれば、他人のために苦しむことも求められている。「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」(ガラ6:2)。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」(Iヨハ3:16)。このように聖書は、この3つの方法すべてを通して、すべての人に善を行なうよう私たちに求めているのである。さて次に考えたいのは、

 2. この行為の対象、すなわち私たちが善を行なうべき相手はだれかということである。----それは、聖書でしばしば「私たちの隣人」と語られている。というのは、この義務は、汝の隣人を汝と同じように愛せよという命令のうちにふくまれているからである。しかし、ここでおそらく私たちはすぐに、あの若き律法の専門家と同じように、「私の隣人とは、だれのことですか」(ルカ10:29ff)と尋ねたくなるかもしれない。そしてこの青年が、キリストのお答え----すなわち、あのサマリヤ人こそ、かのユダヤ人に対して隣人であった、しかもサマリヤ人とユダヤ人が互いに蛇蝎のごとく嫌いあい、蔑みあい、憎みあっていたにもかかわらず、ユダヤ人の隣人となったのだ、というお答え----によって教えられたように、私たちも、自分が善を行なうべき相手が誰であるか、3つの点で教えられるであろう。

 第一に、私たちは、良い人にも、悪い人にも、善を行なわなくてはならない。天におられる御父にならいたければ、ぜひともそうすべきである。なぜなら、「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」(マタ5:43)。この世には、ありとゆらゆる種類の人々がいる----善人もいれば、悪人もいる。しかし私たちは、すべての人に善を行なわなくてはならない。確かに私たちは、「信仰の家族の人たちに善を行な」うこと、すなわち、キリスト者とみなしうる人々に対して善を行なうことを特に求められている[ガラ6:10]。しかし、それだけであってはならない。私たちがキリスト者に対して最も善のわざに富む者とならなくてはならないのは事実だが、機会のあるときには、あらゆる人々に善を行なうべきである。私たちは、この世にある間は、ひどく意地悪な人、憎むべき性格や行ないの人と何人か出会うことを覚悟しなくてはならない。人々の中は高慢な者、不道徳な者、貪欲な者、俗悪な者、不正を働く者、残酷な者、神を侮る者がある。しかし、こうした悪い性質のどのようなものも、あるいはこれらすべてがひとかたまりになった人がいたとしても、私たちは慈悲を差し止めるべきではない。機会のあるとき、彼らに善を行なうことをやめてはならない。むしろ、そうしたものがあればこそ、私たちは熱心に善を行なって、彼らをキリストに勝ち取るべきである。そして何よりも、霊的なことで彼らに善を行なうよう勤勉であるべきである。

 第二に、私たちは、友人にも、敵にも、善を行なうべきである。私たちは友人に善を行なわなくてはならない。単に、同胞たる人間としてばかりでなく、友情から、感謝から、そして彼らに対して抱く愛情から、善を行なわなくてはならない。また私たちは、自分の敵に善を行なわなくてはならない。なぜなら、私たちの救い主がこう云われるからである。「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛しなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたを侮辱する者、あなたを迫害する者のために祈りなさい」[マタ5:44 <英欽定訳>; ルカ6:27、28]。私たちに害を加える者に善を行なうことは、私たちがキリスト者として行なうに値する唯一の報復である。なぜなら、こう教えられているからである。「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず」、むしろ逆に、「善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ロマ12:17、21)。また、こう書かれている。「だれも悪を持って悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう努めなさい」(Iテサ5:15)。さらにまた、「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです」(Iペテ3:9)。

 第三に、私たちは、感謝する人にも、感謝しない人にも、善を行なうべきである。これは、天の御父の模範によって義務づけられている。なぜなら御父は、「恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです」(ルカ6:35)。そしてここでは、「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい」、と命令されている。多くの人は、自分が他人に善を行なわない理由として、よくこのように云う。「もしそうしても、あの人たちは絶対恩に着たりしません。そればかりか恩を仇で返して、意地悪くあたるのです」。こう弁解しては、人は親切な行動を取らず、特に、感謝を見せないとはっきりしているような人々には親切にしないのである。しかしそのように云う人は、十分にキリストを見てはいない。それは、キリスト教の規範に対する無知か、キリスト教精神を実践したくないという不服従かのいずれかにほかならない。さて、善を行なうという義務および善を行なうべき対象については語り終えたので、次は、はじめに述べたように、

 3. 私たちが他人に対して善を行なうべき仕方である。----これは、「報いを求めず」という一言につきる。これは、この聖句で暗に語られている。親切とは、報いを求めずに善を行なう心にほかならない。たとえどんな善を行なおうと、それが報い目当てなら、本当の意味での親切ではない。この、報いを求めず善を行なうということには3つのことがふくまれる。

 第一に、それは、欲得づくで善を行なわないということである。私たちは、以前に何か好意を受けたお返しに善を行なったり、これから受ける返礼目当てに善を行なったりしてはならない。私たちに与えられている命令は、「彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい」、ということである(ルカ6:35)。人は他人に善を行なうとき、しばしばそれと同じだけの見返りを何か期待する。しかし私たちは、貧しい者、乏しい者、何の返報も期待できないような者らに善を行なうべきである。キリストは命令しておられる。「昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、存続、近所の金持ちなどを呼んではいけません。でないと、今度は彼らがあなたを招いて、お返しすることになるからです。祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです」、と(ルカ14:12-14)。私たちの行ないが、この世的な動機や、自分の利益や評判や都合のためのものでなく、愛の精神から行なわれるためには、私たちの善行が報いを求めず、欲得づくでないことが必要である。

 第二に、私たちの善行が報いを求めないものであるためには、それを喜んで、また心をこめて、親身に相手のためを思って行なわなくてはならない。心をこめた行為は、愛から行なわれる。そして愛から行なわれることは、喜びをもってなされ、いやいやながら、渋々と、心の進まぬようすで行なわれるものではない。使徒は云う。「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい」、と(Iペテ4:9)。パウロも云う。「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます」、と(IIコリ9:7)。これは、私たちが善を行なう際に不可欠な条件として、聖書で非常に強調されていることである。使徒は云う。「分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい」、と(ロマ12:8)。また神は、私たちが隣人に与えるとき、「心に未練を持ってはならない」、と厳格に命じている(申15:10)。一言でいえば、聖書全体を通して、受け入れられるように分け与えるということの中には、私たちが心をこめて、喜んで、朗らかな思いをもって与えるということが常にふくまれているのである。報いを求めず善を行なうことは、また、

 第三に、気前よく、豊かに行なうということである。私たちは、自分の贈り物や努力においてけちけちしたり出し惜しみしたりせず、心を開き、また手を開くべきである。私たちは、「すべての良いわざにあふれる者」となり、「あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるよう」でなくてはならない(IIコリ9:8、11)。貧しい者に与えるとき、私たちは、「進んで私たちの手を開き、その必要としているものを十分に与えなければならない」、と神に求められている(申15:8)。また、「おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される」、と語られている(箴11:25)。そして使徒は、コリント人たちがユダヤの貧しい聖徒たちへの醵金において、豊かに惜しみなく与える者となることを願って、こう確言している。「少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は豊かに刈り取ります」(IIコリ9:6)。さてこれで、この、報いを求めず他人に善を行なうという義務の性格を説明し終えたので、次に移ることとしよう。

 II. キリスト者精神は、そのように他人に対して善を行なわせるものである。----これは、2つのことから明らかである。

 1. キリスト者精神の結晶たる愛の中で、その最も大きな部分は、慈善、すなわち他人に対する善意ということにある。----私たちはすでにキリスト者の愛がいかなるものかを学んだ。この愛が、その対象と実践によって、どのように様々に名を変えて呼ばれるかを見た。そして特に、愛が自分の愛する者<によって>受け取られる善に関係するとき、それが慈善の愛と呼ばれることを知った。自分の愛する者<から>受け取られる善に関係するとき、自己満足の愛ということを知った。慈善の愛とは、私たちに他人の幸せを願わしめ、また喜ばしめる思いである。そしてこの思いこそ、キリスト者の愛の主たる部分、その最も不可欠な部分、また神の永遠の愛と恵みにならい、キリストの死をも賭した愛に最も近づくものなのである。キリストの愛は、降誕に際してあの御使いたちが歌ったように、人々に対する善意に存しているからである(ルカ2:14 <英欽定訳>)。そのように、キリスト者の愛の中心は、善意、すなわち、その愛の対象たる人々の幸せを喜び、彼らの幸福を追い求める心なのである。

 2. そうした思いがまぎれもなく真実なものであるという、本当に決定的な証拠は、それが実行を伴うところにある。----私たちが他人の幸福を願い、また望んでいるという、本当の意味で決定的な証拠は、それを行なうことである。あることを願っているという最上の決定的証拠は行動である。そして願いがあるとき、行なう力さえあれば、行動は必ずあとにつづく。いかなる場合も、これほど明白なことはない。人が真摯に他人の幸福を願っているという決定的証拠は、彼らを幸福にしようと自分から行動することである。----なぜなら私たちは、本当に望むことならみな、そのようにして求めるからである。それゆえ聖書は、善を行なうことを、本当の意味で十分な愛の証拠と語っている。またしばしば、実際の行ないを伴って現われる愛こそ、真実に愛することであると語っている。「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうでありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属することを知」る、すなわち自分が真摯であることを知るのである(Iヨハ3:18、19)。また、「もし兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。』と行っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう」。何の役にも立たない。そして私たちが真摯であり、本当に彼らが着物を着て、食べ物を食べられるようになってほしいと願っているという何の証拠にもならない。真剣に願う人は、単に口先だけで終らず、慈善の行ないへと至るものなのである。さて最後に、この主題の適用として次のようなことが云えよう。

 1. これは、私たちに対する叱責である。----もし真のキリスト者精神が、人をして報いを求めずに他人に善を行なわせるものなら、それと逆の思いを持ち、逆の行動をしている者はみな、これによって非難されるであろう。悪意や意地悪な思いは、親切な心とは全く正反対である。なぜなら、こうした思いは他人に善を行なうのでなく、害を行なおうとするからである。また同様に、けちくさく利己的な思いも非難される。それは自分の利益だけを考え、いかなる場合も他人のため自分の犠牲を払うなどということをしないからである。また、やはり愛の思いと正反対の思い、行動をしているのは、度を越えて強欲な者、手に入りそうなものはみな隣人からむしり取り、正当な値以上に自分の行為や持ち物を売りつけ、法外な要求をふっかけては相手の骨の髄までしゃぶりつくそうとする者、それが相手にとって持つ価値など全く気にかけず、ただ手に入れられるものはすべてゆすりとろうとする者らである。また、隣人から買い物をするときに、値切りに値切って相手を困らせ、買う物の正当な値を与えようとしない者らも、一般的にいって非常に利己的である。こうした思いや行動は、キリスト者精神と全く逆であり、あの偉大な愛のおきて、すなわち、自分にしてほしいことは他人にもそのようにせよ、というおきてによって厳しく指弾される。さらに私たちが考察してきた主題は、

 2. 報いを求めずに他人に善を行なえという、すべての者に対する勧告である。----これがキリスト者の義務であり、福音にふさわしい美徳であり、キリスト者精神が私たちに(もし私たちがキリスト者精神を持ちあわせていればだが)求めているものであると知った以上、私たちは、機会があるときは常に、他人の魂とからだに対して善を行なうことを追い求めよう。この世と永遠における彼らの祝福となるため努力しよう。そのためには喜んで行ない、与え、苦しみ、友にも敵にも、悪い者にも良い者にも、感謝する者にも恩知らずな者にも、善を行なうようにしよう。私たちの慈善や善行が、分け隔てのないもの、常に変わらぬもの、報いを求めないもの、習慣的なもの、自分に与えられた機会と力に従って行なうものとなるようにしよう。なぜならこれは、真に敬虔な者となるために不可欠なことであり、神の命令の求めることだからである。そしてここで、いくつかのことを考えるべきである。

 第一に、この世で、このように善を行なうための器とされることは、非常な栄誉である。私たちが自分の人生を善を行なうことで満たすとき、神は高い名誉を与えてくださる。すなわち、私たちをこの世の祝福としてくださるのである。それは、神がアブラハムに与えられたような栄誉である。「わたしは…あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる」(創12:2)。これが大きな名誉であることは、生来の人間でさえ知っている。だからこそ、東方の王や総督たちは自ら善をなす者、すなわち「守護者」という称号を好んで名乗った(ルカ22:25)。それが彼らに考えられる限り最も高い誉れであった。また異教国では、善王の死後には、彼らを神と考え、彼らの名を称えて神殿を築き、彼らを礼拝するのが普通であった。神が他人に善を行なう器とされた人々は、その限りにおいて、太陽や月や星々などの、光を照らして世界を祝福する天体と同じようにされているのである。神は彼らを御使いと同じく、すなわち他人の幸福のため仕える霊たちと同じようにされている。いな、神は彼らを神御自身と同じようにされている。すべての善の偉大な源泉であり、人類の上に永遠にその祝福を注いでくださっている御自身と同じようにされているのである。

 第二に、このように報いを求めず他人に善を行なうことは、自分がしてほしいことを他人に行なうことである。もし他人が私たちに心から善意を持ち、よく親切にしてくれるなら、また困ったときは常に助けようとしてくれ、そのため喜んで行ない、与え、苦しもうとしているなら、また私たちの重荷を負い、私たちの困難に同情し、何をするにも暖かい心で、骨身を惜しまないでくれるなら、私たちは彼らの思いやりと行ないに非常に深く感謝するであろう。そして単に感謝するだけでなく、彼らのことを非常に尊敬し、機会をもうけては、彼らのことをほめそやすであろう。余計なおせっかいだなどと決して考えず、本当に良いことをしてくれたと思うであろう。それゆえ、私たちも忘れないようにしよう。もし他の人が自分にそのようにしてくれることが、それほど気高く、それほど称賛に値するものなら、私たちも彼らに、そしてまわりのすべての人々に対して同じようにするべきである。それほど素晴らしいと思うことは、自ら行動で表わすべきである。

 第三に、神またキリストが、いかに私たちに対して親切であられるかを考えてみよう。私たちはいかに多くの善を神とキリストから受けていることか。この世的なことにおける神とキリストの恵みは、非常に大きい。神の恵みは私たちにとって朝ごとに新しく、夕ごとに新鮮である。それは私たちが存在する限り、やむことがない。また神は、それよりはるかに大きな恵みを、私たちの霊的幸福、永遠の幸福のために与えてくださった。神は私たちに、地上のすべての王国にまさる尊いものをくださった。神は、御自分の愛するただひとりの御子をくださったのである----これこそ神の与えうる最高の賜物である。そしてキリストは、単に大いなる行ないをされただけでなく、大いなる苦しみを嘗められた。そして私たちのため御自分を死に渡された。しかもこれはみな、渋りながらでも、何か報いを当てにしてでもなく、無償の行為としてなされた。「主は富んでおられたのに」、すなわち全宇宙の富の持ち主であられたのに、「あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」(IIコリ8:9)。そして神は、私たち回心した者、キリストのもとへ導かれた者のため何と大いなることをしてくださったことか。私たちを罪から解放し、義と認め、聖くし、神の御前で王また祭司とし、「朽ちることも汚れることも、消えて行くことのもない資産を受け継ぐ」資格を与えてくださったのである(Iペテ1:4)。そしてこのすべては、私たちが良い者でなく悪い者、恩知らずな者、御怒りのほか何物にも値しない者であったときになされたのである。

 第四に、報いを求めず他人に善を行なう者に対して、いかに大きな報酬が約束されているかを考えよう。神は、「恵み深い者には、恵み深い」、と約束された(詩18:25)。この世と来たるべき世の両方において、これほど多くの約束が与えられている義務は、聖書中ほとんどない。この世においては、私たちの救い主が宣言されたように、「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒20:35)。豊かに与える者は、自分の手離した豊かな賜物において、その豊かさを受け取った者よりもずっと祝福されるのである。他人に善を行なうため与えられた物は、大海に投げ捨てたかのように失われたわけではない。むしろソロモンが云うように(伝11:1)、近東の人々が洪水の水嵩が増したときに蒔き散らして植える種に似ている。水底に沈んだその種は、そこで根をはり芽を出して、数箇月すると大きな収穫となって見出されるのである。そのように与えられた物は、主に対して貸したのである(箴19:17)。そしてそのように貸したものを、主は返してくださる。単にお返しになるだけでなく、量を大いに増し加えてくださる。なぜならもし与えるなら、やがてそれは、「量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れて」もらえると語られているからである(ルカ6:38)。実際、これこそ富を増し加える方法である。なぜなら、「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある」、と云われ(箴11:24)、また「高貴な人は高貴なことを計画し、高貴なことを、いつもする」、とあるからである(イザ32:8)。新生していない者が与える物すら、神はしばしば、この世的な祝福で大きく報いてくださるように見える。神自ら、「貧しい者に施す者は不足することがない」、と宣告しておられ(箴28:27)、この約束は聖徒に限定されてはいないのである。そして神の摂理を見るに、人が貧しい者に与えた贈り物は、畑に蒔いた種が実を結ぶのとまず同じくらい確かに、神が栄えさせるものとなる。神にとっては、私たちがそのように他人の幸福のために与えたものを、元通りにし、否、元通り以上にすることなどいとたやすいことなのである。使徒がコリント人たちに語っているのは、まさにこの種の施しである。「豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります」。「神は喜んで与える人を愛してくださいます」。神は「あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方」、すなわち彼らの施したすべての賜物を豊かにして取り戻してくださる方である(IIコリ9:6-8)。多くの人々は、自分の繁栄がどれほど摂理によって左右されているものか考えもしない。しかし、この世的なものにおいてすら、「主の祝福そのものが人を富ませ」(箴10:22)、貧しい者のことをこころがける者は、「主はわざわいの日にその人を助け出される」、と書かれている(詩41:1)。またもし私たちがそのようにして、またキリスト者の愛の精神をもって与えるなら、私たちはそのことで天に宝を積み、のちには永遠の報酬をいただくのである。これが、キリストの語られた、朽ちることのない宝を積むということである(ルカ12:33)。このことに関してキリストは、私たちが善を施した貧者らは私たちにお返しすることができなくとも、私たちは「義人の復活のときお返しを受ける」、と宣告された(ルカ14:13、14)。従ってこれは一時的な物のために、また永遠のために宝を積む最上の方法である。自分のために宝を積み、子孫のために宝を積む最上の方法である。なぜなら、情け深く、人に貸し与える正しい人には、「その角は栄光のうちに高く上げられ」、「その人の子孫は地上で力ある者となり」、「繁栄と富とはその家にあり、彼の義は永遠に堅く立つ」、と書かれているからである(詩112)。そして、キリストが審きのために来られ、すべての人が彼の御前に集められるとき、真にキリスト者の愛の精神において親切で、慈悲深かった者たちに対してキリストは、こう語られるのである(マタ25:34-36、40)。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸であったとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです……。まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」、と。

惜しみなく愛は与う[了]

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