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4. 愛は受けた不正を柔和に忍ぶ

「愛は寛容であり、愛は親切です」Iコリ13:4

 さきに見たように、使徒はこれまで、愛、すなわちキリスト者の愛の精神が、キリスト教にとっていかに大きな意味を持ち、いかに大切なものであるかを述べている。愛は、御霊のどんな超常的な賜物にもまさって、はるかに必要とされ、はるかにすぐれたものである。愛は、どんな外面的な偉業や、どんな殉教の誉れをもはるかにしのいでいる。つまり、愛こそはキリスト教のまぎれもない証しとなり、救いに至らせる恵みすべての精髄であり、信仰生活のすべてのいのち、また魂なのである。愛がなければ、たとえ全財産を貧しい人々のために投げ出そうと、からだを焼かれるために引き渡そうと、何にもならない。さて、そのように述べた後で使徒は、論の自然な流れに従って、この愛がどのようにすぐれたものであるかを示すために、さまざまな種類の麗しく素晴らしい愛の実について語りはじめる。この聖句では、そのうちの2つが挙げられている。「寛容」は、他人から受ける害悪または不正にかかわるものである。「親切」は、他人に対して施す善行に関係している。今回は、その前者について詳しく取り扱いたい。ここでまず云えることは、

 愛、すなわち真のキリスト者精神は、他人から受ける害悪、他人からこうむる不正を、柔和に耐え忍ぶ、ということである。

 柔和さはキリスト者精神の大きな部分を占めている。あのマタイの11章において、すべて疲れた人、重荷を負った人はわたしのところに来なさい、わたしがあなたがたを休ませてあげよう、と心にしみいるような熱い招きをされたキリストは、そこで特に、わたしのもとへ来てわたしから「学びなさい」、なぜなら、「わたしは柔和で、へりくだっているからです」、とわざわざ述べられた[マタ11:29 <英欽定訳>]。そして柔和さは、人から受ける不正に対して用いられるとき、聖書の中では「寛容」と呼ばれる。寛容さはキリスト者精神の発露として、また実りとしてしばしば言及されている。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容……です」(ガラ5:22)。「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し……なさい」(エペ4:1、2)。「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロ3:12、13)。

 この点についてもう少し詳しく述べることとして、以下のことを考えたい。----I. 私たちが他人から加えられる不正にはどのようなものがあるか。II. そうした不正を柔和に耐え忍ぶとはどういうことか。III. どのようにして、この、キリスト者精神の真髄であるという愛が不正を柔和に忍ばせるのか。

 I. まず、私たちが他人から受ける不正にはどのようなものがあるか、手短に考えてみたい。----ある人々は、人の財産を不公平に扱ったり不正直に扱ったりすることで、他人に不正を加える。詐欺まがいの手口を弄したり、インチキなやり方をしたりすることはもちろん、相手に必要なことを知らせず、無知をいいことにまるもうけするのも同じことである。あるいは、不誠実な態度によって不正を働くこともある。たとえば約束や契約を破るとか、雇われても契約した仕事を怠けたり、いいかげんにしたり、形だけ仕事しているように見せかけて実はだらけてすごしたり、なすべき義務があるのに手を抜いて楽をしたり、不当に高い給与を要求したり、あるいは隣人の手に正当に帰すべきものを、不当に差し押さえて、借金の返済を怠ったり、貸したものを取り返そうとする隣人を、理由もなく面倒な目にあわせたり、困らせたりするのである。この他にも、人が互いに対するふるまいによって相手に不正を加える方法はいくらでもある。もっとおびただしい数のひねくれた、歪んだ手口がある。このようにして人は、自分にしてもらいたいことを他人に対して行なうなどという境地とは無縁の者として、互いに怒らせあい、いらだたせあい、害を加えあっているのである。

 ある人々は、正義の美名に隠れて、かげで誰かを非難したり悪口を云ったりすることによって、他人に不正を加える。これほどよくある不正のかたちはない。これほどありふれた、そしてこれほど卑劣な害悪はない。他にも不正ならたくさんある。しかし、こうした悪口という種類の不正が世にどれほど満ちているかは到底はかりしれないものがある。ある人々は、根も葉もない噂をでっち上げたり、広めたりして、人を残酷に中傷して歩いては不正を加える。他の人々は、必ずしも全部が全部嘘というわけではないが、物事を大幅にねじ曲げた上で、他人を最低の人間のように見せかけ、相手の欠点をひどく大袈裟に誇張しては、いつも公平を欠いた、不当な仕方で噂して回る。このような愛のないさばきあいと、他人の言動を歪曲して解釈することによって、非常に多くの不正が加えられる。

 人は、その思いによっても、他人に大きな不正を加えることができる。理由もなく他人を蔑み、軽蔑の念を抱くことは、他人に不正を加えることである。ある人々は、心の中で常に抱いている侮蔑の思いによって、また喜んで相手を最低の人間と決めつけようとすることによって、他人を絶えず深く傷つけている。さらに、思いを表にもらすものは口であるから、非常におびただしい数の不正が、言葉によってなされる。舌は、あまりにも容易に、悪い思いと邪悪な感情を表現するための道具となる。だからこそ聖書は舌を鞭と呼び(ヨブ5:21)、また猛毒を秘めた蛇の牙にたとえて(詩140:3)、これに噛まれた者は死に至るというのである。

 時として人は、他人に対する態度と行動によって、また他人を傷つける行為によって不正を加える。人の上に立つ人々は、自分の権威をかさに着て、目下の人々に非常に大きな不正を加えることがある。そして、ひどく横柄にふるまったり、わがもの顔で暴君のようにふるまうのである。また、権威の下にある者もまた、目上の人々に対して非常な不正を働くことがある。その地位に対して当然払うべき敬意と尊敬を払わず、また目上の者がその地位にある間は当然受けるべき敬意と尊敬を与えようとしないのは、不正を加えることである。ある人々は、非常に利己的な心でふるまうことによって、他の人々を深く傷つける。あたかも世界が自分のためにあるかのような態度で、隣人の利益や幸せなど考えもせず、ただ自分のためになることしかしようとしない。またある人々は、非常に尊大で高慢な心によって他人を傷つける。自分が世界の誰よりもすぐれた人間であり、自分以外の人間をくず同然の者と思うかのようである。これは、彼らの態度や口調や素振りや、尊大な横柄さなどに透けて見える。そしてそうしたものを見ていると、きわめて当然のことだが、誰もが彼らによって傷つけられたと感じるものである。ある人々は、極度にわがままにふるまうことによって他人を傷つける。何が何でも自分の思いを通さないと気がすまず、すべてを自分の意志に屈服させ、決して自分の主張を変えようとしない。決して他人の願いを聞き入れようとしない。他人の立場に立ってものを見るどころか、他人の立場をわかってやろうともせず、自分のことしか考えないで、頑固にわがままを通すのである。ある人々は、公共の活動をする中で不正を働く。一切合財を、公益のためというよりも、どこかの党派に反対したり、ある特定の個人に反対したいがために行なうのである。それで、その反対に回った党派や個人は不正を加えられて、しばしば非常に憤激することになるのである。またある人々は、他人に対して悪意と意地悪な思いを抱くことによって不正を加える。そうした思いにしかるべき理由があろうとなかろうと、これは不正である。人が誰か他の人に嫌悪感を抱き、憎みさえするのは珍しいことではない。相手には愛情のかけらも抱かず、自分で認めようと認めまいと、心の底で互いに憎みあっているのである。相手が人々から称賛されたり、幸せになったりしても何の喜びも感じず、むしろ逆に相手が失望を味わったり苦境に陥ったりすると大喜びする。おそらくは愚かにも、相手が失墜すれば自分が得をすると底意地悪く考えているのであろう。決してそのようなことはないのに。さらにある人々は、他人をねたむことで人に不正を加える。人がまわりから称賛を受け、幸せそうにしているという、ただそれだけの理由で悪意を抱くのである。また多くの人々は、復讐心によって他人に不正を加える。他人から実際に加えられた不正、または空想上の不正に対して、意図的に悪の仕返しをするのである。そしてある人々は、一生の間、他人への恨みを心に抱いて生き、機会がありさえすれば悪意による不正を加えて、意趣返しをする。この他にも、人が他人に不正を加える方法は、数え切れないほど挙げられるであろう。しかし、今のところはこれで十分だと思う。そこで、

 II. 先へ進んで、こうした不正を柔和に忍ぶとはどういうことか、あるいは、不正を柔和に忍ぶとは何をどうすることなのか、について示そうと思う。ここで私が明らかにしたいのは、最初に、命じられた義務にはいかなる性質があるか、次に、それがなぜ寛容と呼ばれているのか、ということである。そこでまず、

 1. 他人から受けた不正を柔和に忍ぶという義務にはどのような性質があるか

 第一に、ここで暗に語られているのは、受けた不正を忍ぶにあたっては、それに対して何の復讐もしてはならないということである。----人は復讐心に駆られると、色々なことを行なう。単に、自分に不正を加えた(かもしれない)人に対して何か実際に直接的な危害を加えることだけが復讐ではない。言葉であろうと態度であろうと、何であれ受けた不正を恨む苦い心を表にあらわすことは復讐の一種なのである。だから、もし誰かから意地悪されたり不正を加えられたりした後で、その人をとげとげしい言葉でののしったり、その人について非難がましく陰口をきいて、相手の評判を落としたり傷つけたりするなら、そしてそのことに心の喜びを覚えるのなら、それは復讐である。従って、隣人に対してキリスト者の寛容を実践する人は、不正を受けても復讐してやろうとか、仕返ししてやろうとか思わず、人を傷つけるような行動や、苦々しい恨み言を口にしないで不正を忍ぶ。他人に敵対するようなこと、また怨恨をあらわすような行為は何もしない。苦々しい思いのこもった言葉を投げ返したり、陰口をふれ歩いたりしない。復讐心を胸に燃やしたり、態度に表わしたりしない。そういう人はあらゆる人を受け入れて、落ち着いた平静な表情を崩さない。柔和で静かな、そして善意あふれる心を持っている。そしてその心を、自分に不正を加えた人に対するすべての態度、すべての行動の中に表わす。面と向かったときも、その人のかげにまわったときも、その態度はかわらない。だからこそ聖書は、この寛容という徳を親切という名前で、あるいは常に親切と結びついた形で勧めているのである。たとえば、ヤコブ3:17やガラテヤ5:22を見ていただきたい。本当の意味でキリスト者精神を実践する人は、決して激怒とか、かんしゃくとか、短気とか、恨みがましい目つきとか、むかむかした顔つきなどを表わさないであろう。また、どの言葉や態度を取ってみても、粗暴な様子など全くないであろう。むしろ逆に、その表情や言葉や物腰には、どこをとっても温和で静かな優しさの香りが満ちあふれているであろう。もちろん他の人を非難することはあるかもしれない。明らかに義務としてそうしなければならない場合もある。しかし、たとえそのようなときであっても、決して礼を失したことはしない。相手の怒りをかきたてるだけのような辛辣さをもってやりこめはしない。たとえ完全に相手に非があり、自分の方に正義があるとしても、また歯に衣着せない手厳しい直言をするとしても、憤怒の形相をしたり、まして侮蔑的な言葉遣いをしたりはしない。行なわれた行為そのものには非難の気持ちを示すかもしれない。しかし、そこに憎しみはない。自分個人に加えられた不正を非難するより、神に対して罪を犯したことを叱責する。自分が傷つけられたことを恨むより、相手が悲惨な状況にあることを嘆く。相手が破滅することを願うのではなく、幸せになることを望む。相手を落ち込んだ過ちから救い出すことの方が、加えられた不正の仕返しをすることよりも大切なのである。次に、ここで命ぜられている義務がやはり暗に示しているのは、

 第二に、不正を忍ぶにあたっては、心の中で相手に対する愛を失ったり、その愛を妨げたり、かき消したりするような激情やいらだちを抱いてはならないということである。----不正を忍ぶときには(すなわち、そのように召された場合には)、単に意地悪な思いや復讐心を言葉や行為に表わさないだけでなく、心の中でもそのような気持ちを抱かないようにしなくてはならない。不正を受けたときは、単に自分の感情をコントロールし、激情をおさえて、直接に復讐を加えないようにするだけでなく、復讐してやりたいという思いすら持たずに、その不正を忍ぶべきである。平静な様子を保つだけでなく、心からの愛情をも保たなくてはならない。隣人が自分に害を加えたからといって、相手への愛を失ってはならない。たとえそのために相手を憐れむことがあるとしても、憎んではならない。つづいて、やはりここで暗に語られているのは、

 第三に、不正を忍ぶにあたっては、心と思いの平静、平安を失ってはならないということである。----不正を加えられたときは、単に粗暴な態度を取らないようにするだけでなく、内心の穏やかさや落ち着きを失わないようにしなくてはならない。もしも受けた不正に心を動揺させ、思いを千々に乱すようなことがあるなら、私たちは真の寛容の精神で不正を忍んでいるとはいえない。不正が私たちの平静を失わせ、心を揺さぶり、どうしても思いを静めることができないようにしてしまうとしたら、私たちは楽しみを失い、様々な務めを果たすのに適切な状態でなくなってしまう。特に、信仰生活の義務、すなわち祈りや瞑想などの静思の時を守れるような状態でなくなってしまう。そのような心の状態は、この節で語られている寛容の精神とはまるで正反対であり、柔和に不正を忍ぶ心とは全く逆のものである。キリスト者は、たとえいかなる不正を耐え忍ばなくてはならないとしても、心の平静を失わず、思いの静謐さを乱されるべきではない。魂を平安に保つべきであって、怒涛のように荒れ狂う心であってはならない。いかなる害悪を受け、いかなる不正を加えられるとしても、なおキリスト者は、救い主イエス・キリストが弟子たちに語られた、あのみことばの精神で行動するものでなくてはならない。「あなたがたは、忍耐によって、自分の魂を保つことができます」(ルカ21:19 <英欽定訳>)。もう1つ、ここで私たちに与えられている義務にふくまれているのは、

 第四に、不正を受けたときには、多くの場合、たとえ自分を守るために何かできる機会があり、またおそらくはその正当な権利があるとしても、平和を保つために自分の利益や自分の感情を犠牲にして多くを忍ばなくてはならないことがあるということである。----他人から不正を受けるとき、往々にして私たちは、キリスト者精神にうながされて(もちろん、正しい意味でのキリスト者精神を働かせている場合に限るが)、自分の立場や自分の権利を守るためにできること、しなくてはならないことを我慢すべき場合がしばしばある。そうでないと、私たちはその不正を加えた人に非常に重い苦難をもたらす器になるかもしれない。その人に対して優しい気持ちを持つなら、私たちは忍耐に忍耐を重ねることができるし、実際そうすべきである。そして相手に多大な災厄をもたらすよりは、自分がちょっとでも苦しむ方を選ぶことができるだろうし、実際そうすべきなのである。もしそうしなければ、おそらく和合は失われ、根深い敵意が残るであろう。しかしもしそのようにするなら、まだ隣人を勝ち取り、敵を友人にすることができるかもしれない。その希望はまだ残る。こうしたことは、あの、使徒がコリント人たちに対して互いに人を法に訴えあうことについて述べた一節からも明らかである。----「そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか」(Iコリ6:7)。むろんこれは、他人から不正を受けたとき自分を守ったり自分の権利を主張したるすることが、いかなる場合においても悪であるとか、敵が面白がってめったやたらと加えてくる不正はすべて耐え忍ばなくてはならないとか、たとえ自分を守る機会があっても、それが相手を傷つけるようならその機会を利用してはならないとかいうことではない。しかし多くの場合、いやおそらくほとんどの場合、人はまず初めのうちは、この聖句に記された寛容な愛の精神によって、不正を忍ぶべきなのである。そして私たちは、往々にして相当の間その不正を忍ぶように召されることが多い。平和を保つために、またキリスト者として自分に不正を加えてくる者に対する真摯な愛を貫くために、正当な機会があってもそれを利用して自分を助けるべきではない場合が多いのである。さてここまでで、この徳にどのようなことがふくまれているか示したので、これから次の点について短く述べよう。

 2. この徳は、なぜ寛容[英語で云うと long-suffering、すなわち「長く忍ぶ」]と呼ばれているのか。----その理由として、特に2つのことが考えられると思う。

 第一に、私たちは、他人から受けるちょっとした不正を耐え忍ぶだけでなく、非常に大きな不正も柔和に耐え忍ばなければならないからである。私たちは、単にほんの少し不正を受けたときだけ忍ぶのではなく、本当にひどい不正を受けたときも、なお隣人を愛することをやめず、穏やかな心を保ちつづけるよう努めるべきである。だから私たちは、ほんの数回不正を受けたときだけでなく、何度となく不正を加えられても、また他人がひどい仕打ちを長い間続けても、なお耐え忍ぶのでなくてはならない。愛は寛容である、愛は長く忍ぶ、と云われるとき、まさか、私たちはある一定の期間だけ不正を忍べばいいのであって、その期間が過ぎたらもう耐え忍ばなくてもいいのだ、などとは云う者はないであろう。この聖句の意味は、私たちは不正を長い間忍ばなくてはならないが、我慢するにも限度がある、最後には忍耐をかなぐり捨てていいのだ、などということではない。そうではなく、たとえ不正が長く続くとしても、私たちは最後まで柔和に忍び続けるべきだ、ということである。寛容の精神は決して絶やしてはならない。また、この徳が寛容(長く忍ぶ)と呼ばれるのは、

 第二に、ある場合私たちは、まず長い間不正を耐え忍んでから初めて、自分を守ることが許されることがあるからである。----もちろん最終的には自分を守らなくてはならない場合もある。たとえば、まわりの状況がしいてそうさせる場合がある。しかし、そのようなときであっても、それは復讐心から出たものであるとか、自分を傷つけた者を傷つけてやろうとかいう思いからではなく、ただ最低限の自己防衛のためでなくてはならない。そして多くの場合その最低限の自衛でさえ、平和のため、また自分に不正を加える者に対するキリスト者精神を貫くため、そしてその人を傷つけないようにするために放棄しなくてはならないときがあるのである。さてここまでで、私たちが他人からどのような不正を受けることがあるか、またそのように加えられた不正を柔和に忍ぶとはどういうことかを示したので、第三の点に移りたい。

 III. この、キリスト者精神の結晶であるという愛の心、すなわちキリスト者の愛は、どのようにして私たちにそのような不正を柔和に忍ばせるのか。----これは神に対する愛と人に対する愛という、2つの面から説明できる。

 1. 神に対する愛、そして主イエス・キリストに対する愛は、私たちに不正を忍ばせようとするものである。なぜなら、

 第一に、神を愛する人は、神にならおうとするからである。従って、その人は神がお示しになっているような寛容を自分のものにしようとする。寛容さは、神の御属性の1つとしてたびたび語られている。出エジプト記34:6では、「主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。『主、主は、あわれみ深く、情け深い神、寛容にして……」云々 <英欽定訳> 。またローマ2:4では、使徒がこう問いかけている。「あなたがたは……神の……豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」。神の寛容さを際立って明らかにしているのが、ご自分に対して加えられる、人間の無数の不正を忍ぶ神のなされかたである。人間が神に加える不正は非常に大きく、また非常に長い間続けられている。もしこの世に満ちている邪悪さを考えるなら、そして神がいかにこの世界を滅ぼすことなく存続させておられるか、いかに数え切れないほどのあわれみを注いでくださっているか、いかに惜しみなく日ごとの摂理と恵みを注いでくださっているか、いかに悪人の上にも善人の上にも太陽を上らせ、いかに悪人にも善人にも雨をおくり、いかにその霊的祝福をすべての人に絶えず差し出しておられるかを考えるなら、私たちに対する神の寛容さがいかに広く、いかに深いものか感じることができよう。またもし私たちが、人々のひしめく世界の大都市のいくつかに対する神の寛容を思うなら、そしてまたそうした大都市に対する神の善意の賜物がいかに絶え間なく与えられ、いかに間断なく用いられているかを考えるなら、さらにその大都市の邪悪さがいかに大きなものかを思うなら、神の寛容さがいかに驚くべき大きさであるかがわかるであろう。また、その同じ寛容さは、あらゆる時代の個々人に対しても明らかに示されてきた。神は罪人に対して寛容であられる。たとえご自分に対して反逆し続けているとしても、その人間をいきなり滅ぼそうとはせず、憐れみをお示しになる。また神はご自分の選民に対して寛容であられる。そのうちの多くは、長い間罪の中に生きてきた者であって、神の善意も神の怒りもひとしく馬鹿にしていた者であった。それにもかかわらず、神は彼らを長いこと忍ばれ、ついには彼らが悔い改めへと導かれ、ご自身の恵みを通して、あわれみと栄光の器とされるときまで、お見捨てにならなかった。そしてこのあわれみは、敵であり、反逆者であった者らにさえ示された。使徒が自分の例を挙げて述べる通りである。----「私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです」(Iテモ1:12-16)。愛は、少なくともまともな人にとっては、この神に似た者となりたいという思いを起こさせ、実際そのように働くものである。父親を愛する子どもは、愛するがゆえに、父親のようになろうとする。特に神を愛する子らは、自分たちの天父のようになろうとする。だから神が寛容であられるからには、神の子らも寛容でなくてはならないのである。また、

 第二に、神を愛する人は、寛容をもって自分を忍んでくださった神に対して、自分も寛容になることで、感謝を表わそうとする。愛は、単に愛する方に似た者になろうとするだけでなく、感謝によっても働く。そして神を愛する人は、神が自分たちに対して特に示してくださった豊かな寛容に対して、感謝するものである。本当に神を愛しているなら、自分がどれほど神に対して不正を加えたか、そしてそんな自分を神がどれほど驚くべき寛容さをもってつつんでくださったか、身にしみて感じるにちがいない。そのことを思えば、他人が自分に加えてくる不正を忍ぶことなど全然取るに足りないと思わされるであろう。他人からどんな不正を受けたとしても、自分が神に対してしてきたことにくらべたら、一万タラントに対する十円玉のように見えるはずである。また自分に対する神の寛容さを感謝をもって受け入れ、あがめる人が、その寛容さに対する賛意と感謝の念を示すには、自分も、その乏しい身にできる限りで、他人に対して同じような寛容さを表わす以外ない。というのも、自分に不正を加える人々に対して寛容を示したくないなどというなら、それは取りもなおさず、自分自身に対して示された神の寛容を批判することになるからである。私たちは自分が本当に素晴らしいと認めるものを、実際の行動において退けるなどということはない。だから神の寛容さに感謝する人は、この神の命令、すなわち他人に対して寛容たれというご命令にも、服従するのである。さらにまた、

 第三に、神を愛する人はへりくだろうとするものである。へりくだりこそは、柔和で寛容な心をたてあげる大きな柱の1つである。神を愛する人は、神をあがめるとき、自分自身を卑しくつまらぬ者と思い、自分の貧しさ、弱さ、乏しさを痛感させられる。なぜなら彼は、自分の愛する方に対して犯される罪の厭わしさ、邪悪さを、誰よりも深く感じるからである。そして自らのうちにそうした罪がひしめき、うごめいているのを知って彼は、自分で自分を総毛立つほど忌み嫌う。自分はどんな親切を受けるにも値せず、ありとあらゆる災いを受けるにふさわしい者だと思う。へりくだりは、常に寛容と手を取り合って現われる。たとえば、「謙遜と柔和の限りをつくし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い……なさい」(エペ4:2)。心がへりくだらされることによって私たちは、他人から受けた不正をいつまでも恨むなどということのないように訓練される。自分で自分を小さな者、取るに足りない者だとみなす人は、自分で自分を偉いと思っている人よりも受けた不正にはこだわらないに違いない。なぜなら、普通は偉大な人物や高位の人物に対して犯された罪の方が、卑しい下々の者どもに対して犯された罪よりも、ずっと大それた、ずっと重い罪とみなされるからである。どうしても許せない、どうしても復讐してやりたい、などという苦々しい恨み心を醸成するのは、その人の高慢心であり、うぬぼれにほかならない。

 第四に、神を愛する人は、自分が受けた不正の中に、人間の意図だけでなく、神の御手を感じ、そこに示された神のみこころに柔和に服従しようとするものである。神を愛する人は、すべてのことのうちに御手を見る。そういう人は神が世界の支配者であり、摂理の導き手であると認め、物事すべてのうちに神の主権が働いていることを認める。起こったすべての出来事には、人間のはかりごとを越えた神の御手が働いているという事実を考えるとき、私たちは、ありとあらゆる出来事を、人間の考えや人間がしたことと考えるのではなく、もっぱら神から来たものとして受け取るであろう。----たとえ直接の原因が他人の悪意と粗忽さにあったとしても、すべては神の愛と知恵によって命ぜられたことなのである。もし本当にすべての不正を神の御手から来たものと考え、そのように感じるなら、私たちはその不正を柔和に受け取り、穏やかに自らをゆだねるであろう。人からどれほどひどい不正を受けようと、それは神によって正当に、また愛をもって命ぜられたものなのだと認め、そうした不正によって心を波立たせたり動揺したりしないであろう。物事をこのように見ていたためにダビデは、敗亡の身の彼の前にシムイが出てきて彼を呪い、石を投げつけたときも、主がこの男にそうせよと命じられたのだ、仕返ししてはならないと部下に命じて、柔和に、また穏やかに忍ぶことができたのである(IIサム16:5、10)。そしてもう1つ、

 第五に、神を愛する人が他人から受けた不正を柔和に忍ぶのは、彼は、他人が加える不正などから超越しているからである。ここには2つの面がある。まず1つのこととして、神を愛する人がなぜ他人の加える不正から超越しているかというと、たとえいかなることが起きようとも、真に神の友となった人々を本当の意味で傷つけることは決してできないからである。神を友とした人々のいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてある[コロ3:3]。そして神は、彼らの守護者として、また友として、彼らをわしの翼に載せていくように高みへ連れて行ってくださる。またすべての出来事はあいともなって働き、彼らの益となる(ロマ8:28)。善に熱心である限り、だれも彼らに害を加えることは許されない(IIペテ3:13)。また2つ目のこととして、人が神を愛するにつれてなぜ人間の不正から超越するようになるかというと、人は神を愛すれば愛するほど、神のうちに自分の幸せを置くようになるからである。彼らは神を自分のすべての希望として見る。摂理による神の贈り物だけを自分の幸福とするのではなく、神に喜ばれることを自分の最大の幸福として求める。神を愛するようになればなるほど、この世での利益などには執着しないようになる。ところが彼らの敵は、そういったこの世での利益にしか手を出すことができないのである。人は神の民を、この世的な面でしか傷つけることができない。しかし、人は神を愛するようになればなるほど、この世のものには執着しないようになり、その分だけ自分の敵が加える不正も感じなくなる。この世を越えたものには、敵は手をつけられないのである。このようにして、しばしば神の友らは、他人から受けた不正を不正の名に値するものとは感じられなくなる。彼らの心の平静さ、平穏さは、人が何をしても、めったに破られない。そして、神のいつくしみと友情を持っている限り、人が加える悪事や不正にはあまりこだわらない。神に対する愛、また神のいつくしみを楽しむ人は、たとえ自分のこの世での持ち物が他人から不当に取り上げられたとしても、あのツィバに対するメフィボシェテのように、「王さまが無事に王宮に帰られて後なら、彼が全部でも取ってよいのです」(IIサム19:30)と云うことができるのである。さて神に対する愛は、このようにして他人から受けた不正に対する寛容の心を養うが、

 2. 私たちの隣人に対する愛もまた、同様に寛容の心をはぐくむ。----この意味において愛は寛容であり、----寛容と忍耐は愛が常に結ぶ実である。使徒が示唆するように(エペ4:1、2)、キリスト者としての召しにふさわしく歩むことのうちには、「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合」うことがふくまれる。愛はおびただしい数の過ちや不快を忍び、すべての罪をおおうものである(箴10:12)。私たちはそうした例を日々絶え間なく目にしている。私たちは、自分が深く愛する人には、自分の憎む人や無関心な人を相手にしたときよりも、ずっと忍耐強くなれる。親は自分の子どもがすることなら何でも喜んでがまんするが、同じことをよその子がしたならただではおかないであろう。人は友人のわがままなら、たいていは融通をきかせて聞いてやるが、赤の他人が同じことをしようとしてもそうはいかない。しかし、こうしたことについては、別に言葉を重ねて論ずる必要はないであろう。これは誰にでもわかりきったことである。愛がそうした性質を持つことを知らない者はない。愛は、恨みや復讐心とは全く正反対のものである。なぜなら、恨みや復讐心は悪意をふくんでおり、悪意と愛は、水と油のように絶対に相容れないからである。だから私は、この点に関してはあまり深入りせず、結論として、私たちがこの寛容ということから何を学べるかを、短く述べていくことにしよう。

 1. この寛容という徳は、他人から受ける不正を柔和に忍ぶことを、私たちすべてに向かって厳粛に命じている。----今まで語ってきたことを無駄にしてはならない。私たちは、自分に不正を加えた人々、またいつ何どき不正を加えるかわからない人々に対して怒りを発したり、憎悪や、復讐心や、恨みつらみを抱いたりしないようにしよう。たとえ自分の持ち物に不正が加えられようと、評判が台なしにされようと、口でののしられようと、暴力で虐待されようと、またその相手が目上の者であろうと、同輩であろうと、目下の者であろうと、私たちは寛容の心を保っていよう。された通りに仕返ししてやる、などと心の中で云うのはやめることである。時々耳にするように、「あいこにしてやる」、などといって執念深く仕返しをもくろんだり、憎悪や恨みや執念の湧き起こるままにまかせたりしないようにしよう。たとえいかなる不正を受けたとしても、心の平静さ、穏やかさを保つよう努力しよう。敵意や争いをかき立てたり、そうしたもので人生を埋めつくしたりするくらいなら、自分の正当な権利をも少なからず犠牲にする覚悟でいようではないか。さて、こうしたことを実行するための動機として、以下のようなことを考えていただきたい。----

 第一に私たちの前に置かれたキリストの模範を考えてほしい。----キリストは、柔和で穏やかな心の、誰よりも寛容なお方であった。キリストの柔和と寛容、と使徒はIIコリ10:1で語っている。キリストは、人々が加えた無数の、しかも非常に大きな不正を柔和に忍ばれた。彼は非常にしばしば軽蔑と非難の的となり、取るに足りない小人物としてあなどられ、侮蔑された。栄光の主であったにもかかわらず、人々から小馬鹿にされ、うとんじられ、重んじられなかった。彼は、ご自分が救おうとして来た当の人々の敵意と悪意の的となり、痛烈な非難を何度となく浴びた。彼は、ご自分に対する罪人たちの反抗を耐え忍ばれた。彼は、食いしんぼう、大酒飲みと呼ばれた。聖く、罪なく、汚れなく、罪人らとは別のお方であったにもかかわらず、取税人の友、売春婦の友と呼ばれた。民衆を惑わすいかさま師呼ばわりされ、(ヨハ10:20や7:20にあるように)しばしば気違い扱いされ、悪魔に憑かれていると云われた。時にはサマリヤ人で、悪霊に憑かれていると非難された(ヨハ8:48)。サマリヤ人と呼ばれることは、ユダヤ人にとって最大の侮辱であり、悪霊憑き呼ばわりされることは、極悪非道の悪人と云われるに等しかった。また時には邪悪な冒涜者であると非難され(ヨハ10:33)、そのため死罪にあたるとされた。時として彼らは、彼の奇蹟は悪霊のかしらベルゼブブの力を借りて行なっているのだと非難し、本人も悪魔そのひとだと呼んだ(マタ10:25)。憎しみのあまり彼らは、彼をキリストであると云う者をみな会堂から除名し、追放するまでに至った(ヨハ9:22)。人々は彼を心底から憎悪し、彼の死を願い、彼を殺す機会がないかと時折、いやほとんど間断なくうかがって、絶えず自分たちの手を彼の血で染めようとしていた。彼の存在そのものが、彼らにとっては憎んでもあまりある目の上のたんこぶであり、到底生かしておけないと思うほど憎み狂った(詩41:5)。聖書を読むと(たとえばヨハネ5:16のように)、彼らがしきりにキリストを亡き者にしようとしていたことがわかる。いかに多くの者が、いかに必死になって彼の言葉に注意し、その言葉じりをとらえようとしたことか。それも、何かもっともらしい理由をつけて、死刑にしてしまうためにである! このようにして彼らは、何度も何度も寄り集まっては彼のいのちを奪おうとした。彼らはしばしば実際に石を拾い上げ、彼を石打ちにしようとした。一度などは彼を崖っぷちまで連れて行き、突き落としてばらばらにしようとさえした。しかしながらキリストは、こうした不正のすべてを柔和に忍ばれ、一言も恨みや非難の言葉を発さなかった。むしろ天来の恵みにあふれる穏やかさをもって、これらすべてを受けられた。そしてついに、彼が最も不面目な仕打ちを受けたとき、すなわち友と広言していた者から裏切られ、敵に捕らえられ、傍若無人に鞭打たれ、十字架の死にまでも至らされたときも、彼は屠殺人の前にひかれていく小羊のように口を開かなかった。一言たりとも苦い憎悪の言葉はもらさなかった。彼の心の平静さは、どれほど重い苦悩のもとにあっても、一瞬も乱されることがなかった。また一瞬も復讐してやりたいなどという思いが浮かぶことはなかった。むしろ逆に、彼は自分を殺そうとする者たちのために祈られた。彼らがまさに彼を十字架に釘づけしようとしているそのときでさえ、彼らをお赦しくださいと祈られた。しかもただ祈られただけでなく、彼らは自分が何をしているかわからないのです、と御父の慈悲にすら訴えられた。キリストは、生きている間どれほど苦しめられようと、また死にあたってどれほど苦悶しようと、ご自分に不正を加える者らに対する寛容を絶やすことはなかった。

 第二に、もし不正を柔和に忍ぼうという心がないなら、私たちはこの世界で生きていくには向いていない、といえる。なぜなら、この世の中で私たちは、他人から多くの不正を受けることを予期しなくてはならないからである。私たちが住んでいるのは、清純で、無邪気で、愛に満ちた世界ではなく、堕落し、腐敗し、悲惨と邪悪に満ちた世界である。罪の圧政と支配下にある世界である。かつて人の心に宿っていた神聖な愛の思いは消滅してしまった。今ではそんな思いに支配されて生きる人はほぼ無きに等しく、その僅かな人々といえども、非常に不完全な程度でしかその愛の支配を受けていない。そして世の大部分の人々は、悪意と不正に導くような様々な思いに支配されているのが実状である。この世界は、この世の神と呼ばれる悪魔が支配し、悪魔が権力をふるっている場所なのである。何千、何億という人々が、その悪魔の霊を宿して生きている場所なのである。使徒も云うように、すべての人が信仰を持っているわけではない(IIテサ3:2)。そして実際、信仰の霊を心に宿して、他人に対する正義と親切という規範をもととして生きているのは、ごく僅かな人々だけである。こうしたこの世の様相は、まさに私たちの救い主が、あの弟子たちを遣わす際に述べられたことば----「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです」----の通りである(マタ10:16)。それゆえこのような世界で、柔和も、平安も、寛容も、魂の落ち着きも持たずに不正を忍ばなくてはならない人々は、本当に惨めな人々である。そういう人にとっては人生の一歩一歩が悲惨なものとなる。もし私たちが、ちょっとした不正や、非難や、悪意や、不公平に出会うたびに、常に心乱され、思い悩み、動転し、平静や平安を失ってしまうのなら、私たちの心は何の喜びもなく、荒れ狂う波にもてあそばれる小舟のように、絶えず動揺し、千々に乱れていなくてはならないであろう。不正を加えられると心がすぐに激し、怒る人、また苦い怨みをもって憎悪する人は、まるで自分に何か不思議なことでも起こったかのように反応する。しかし、そのような態度は非常に馬鹿げている。そうしたことは不思議でも何でもなく、このような世界においてはごく当たり前に予想されることにすぎない。だから、受けた不正で心をかき乱されるままにしている人は愚かなことをしているのである。なぜなら賢い人は、この世では多かれ少なかれ不正を受けることを予期しており、あらかじめ心備えしている。そして柔和な心をもって、その不正を忍ぼうという覚悟ができているからである。

 第三に、不正を柔和に忍ぶことで、私たちは最もよく不正を乗り越えることができる。他人から不正を受けても激したり、憤ったりすることなく、平静な思いを乱さない。こういう境地に達した人は、不正の手の届かない、はるかな高みで暮らすようなものである。そういう人は不正に打ち勝ち、不正を圧倒する。不正を足で踏みにじり、不正の力などの及ばないところで意気揚々としていられる。このようにキリスト者精神を大いに実践し、たとえどのような不正を受けても柔和に忍ぶことのできる人は、どんな敵ものぼってこれないような高い所に住んでいるのである。歴史の語るところによれば、ペルシャ人がバビロンを包囲したときには、街の城壁が比類を絶するほど高かったので、バビロンの住民は城壁の上に立って、敵軍をあざけり笑うのが常だったという。そのように、キリスト者の柔和の精神と、どんな不正も平静に忍ぶ心で魂を守っている者は、自分を傷つける敵をも笑いとばすことができる。もし私たちが、誰か意地悪な人から非難されたり、苦しめられたりするとき、そのことで心を乱したり悩んだりするならば、相手は大満足であろう。しかしもし彼らが私たちを見るとき、彼らが何をしようと私たちの心の平静を妨げたり、落ち着きをかき乱したりできないということがわかったなら、彼らのもくろみは挫折し、ふりあげた悪意の刃も空振りに終わる。逆に、もし私たちが敵の加える不正に心を乱し、動揺するなら、ちょうどその分だけ私たちは敵の力に負けたことになるのである。

 第四に、キリスト者の寛容の精神および不正を忍ぶ柔和さは、真に偉大な魂のしるしである。不正と害悪のただ中にあってもこのように平静さを保つということは、真実で高貴な性質、真に偉大な魂のあらわれである。気高く立派な気質の証拠であり、うちなる剛毅さ、力強さのあかしである。ソロモンは云う。「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる」(箴16:32)。すなわち、そのような人は地上のあらゆる偉大な征服者にまさって、高貴で気高い気質、魂の真の偉大さをあらわしているというのである。人から非難されたり、つらい目に合わされたりするときに、すぐ魂が平静さを失い、簡単に波立ち騒ぐのは、心が卑小だからである。ちいさな小川は、河底が少しでもでこぼこしていたり、石ころが転がっていたりすると、たちまち水面を波立たせ、うるさく音を立てるのに、悠々と流れる大河は同じような障害があってもさざ波ひとつ立てず、静かに悠然と流れていくものである。そのように、他人から傷つけられても不正を受けても平静さを保てる人、相手に対する善意を失わず、心から彼らを憐れみ、赦すことのできる人は、そこに神にも似た偉大な大きさを表わす。このように柔和で穏やかで寛容な精神は、真に偉大な魂のしるしである。なぜなら、使徒ヤコブが云うように、そこには偉大なまことの知恵があるからである。----「あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい」(ヤコ3:13)。知恵の本質を知悉していた、かの賢人ソロモンも、このような精神に宿る知恵のことをしばしば語っている。「高ぶりは、ただ争いを生じ、知恵は勧告を聞く者とともにある」(箴13:10)。「知恵のある人々は怒りを静める」(29:8)。「人に思慮があれば、怒りをおそくする」(19:11)。逆に聖書は、ちょっとした不正もすぐ恨みに思い、激しい怒りを発して心を動揺させる者のことを、ちっぽけで愚かな心の持ち主であると語っている。ソロモンは云う。「怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す」(箴14:29)。また、「忍耐は、うぬぼれにまさる。軽々しく心をいらだててはならない。いらだちは愚かな者の胸にとどまるから」(伝7:8、9)。さらに、「愚かな者は怒りやすくて自信が強い。短気なものは愚かなことをする。悪をたくらむ者は憎まれる。わきまえのない者は愚かさを受け継ぐ」(箴14:16-18)。しかしそれとは逆に、柔和な心は、聖書の中では特にほまれに値するものとして語られている。たとえば、「争いを避けることは人の誉れ」(箴20:3)とある。

 第五に、キリスト者の寛容の精神、および柔和さは、聖徒たちの模範によっても勧められている。もちろん、キリストの模範だけでも十分かもしれないし、ある意味では確かに十分である。なぜならそれは私たちのかしらであり、主であり、師であられるお方の模範であって、私たちはこの方に従うと告白しているからである。この方の模範は完全であると信じているからである。それでも、ある人々は勢い込んで云うかもしれない。キリストの模範というが、キリストは罪を持っていなかっただろう。完全にきよい心を持っていただろう。自分たちは違う。何から何までキリストと同じようにやれと云われても無理というものだ、と。さて、これは全く筋違いな反論ではあるが、ここで私たちと同じように人間にすぎなかった聖徒たちの模範を挙げることは、あながち的はずれではないと思う。場合によっては、その方が好ましいこともあろう。ここまで述べてきたような、この寛容という点で、聖徒たちの多くは輝かしい模範を残してくれている。たとえば、何という柔和さをもってダビデは、サウロからの不正な仕打ちに耐えたことか。かげひなたなく常に忠勤を励んできたにもかかわらず、彼はやまうずらやいわしゃこのように山々を狩り立てられ、まるで筋の通らないねたみと悪意によって追い立てられた。それでもなおダビデは、柔和にこれを忍んだ。また、自らの手にサウロの命脈を断ち切る機会をつかみ、一瞬にして彼の権力から解放されうるというとき、しかもまわりの者が何らさしつかえない、当然そうすべきだと考えたときにも、サウロは神に油そそがれた者であるからといって、自分と自分の持てるすべてのものを神にゆだね、御手にまかせ、この怨敵の命を救うことにしたのである。しかもダビデは、この事件のあとで、自分の忍耐と善意がサウロに通じず、なおも追われ続けることを知った。にもかかわらず彼は、再びサウロを滅ぼす機会を手にしたとき、自分を滅ぼそうとするこの者を傷つけるよりは、放浪者、浮浪人として立ち去る方を選んだのである。

 もう1つの例は、ステパノである。聖書の語るところによれば(使徒7:59、60)、迫害者たちが激怒にかられて自分を石で打ち殺そうとしているとき、彼は「ひざまずいて、大声でこう叫んだ。『主よ。この罪を彼らに負わせないでください』」。この祈りは彼が、主イエスよ、私の霊をお受けください、との祈りをささげた後で口にした最期の言葉であり、そのいまわの息とともにささげたものであった。そして、このように自分の迫害者たちのために祈ってから、すぐに彼は眠りについたと書かれている。すなわち、ステパノはその地上での最後の行ないとして、迫害する者らを赦し、彼らへの祝福を神に願ったのである。もう一人の模範は、使徒パウロである。パウロは、よこしまで理不尽な人々から数え切れないほどの不正を身に受けていた。こうした不正がどのようなものであったか、また彼がそのような中にあってどのように身を処したか、彼はIコリ4:11-13でいくらか説明している。「今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです」。こうして彼は、自分に向かって浴びせかけられるすべての不正のもとにあって、柔和で寛容な心を明らかにしているのである。しかし、このような記録は聖書中の人々についてばかり残されているのではない。霊感されていない、ただの人間の歴史書の中にさえ、殉教者らをはじめとする多くの驚くべきキリスト者たちのことが記されている。彼らは、これ以上ないほど理不尽な仕打ち、よこしまな不正を受けたにもかかわらず、驚嘆すべき雄々しさ、また寛容さを示した。私たちは、こうしたことすべてによって、彼らと同じように柔和で、寛容な精神を身につけるべく努力すべきである。

 第六に、このようにする人は、自分もまた神の寛容によって報われる。聖書でしばしば語られていることだが、人は死後、自分がどのように他人を扱ってきたかに従って、神から扱われるのである。聖書の言葉はこうである。「あなたは、恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方」(詩18:25、26)。また、「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られる」(マタ7:2)。さらに、「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの天の父もあなたがたの罪をお赦しになりません」(6:14、15)。ここで罪と云われているのは、私たちが受ける不正のことである。従って、もし私たちが自分に対する他人の不正を忍ばないのであれば、天におられる私たちの父も、ご自分に対する私たちの不正を忍ばれることはないのである。しかし、自分がいかに神の寛容を必要としているものか考えてほしい。自分は、神に向かっていかに多くの不正を働いてきたことか。いかにしばしば、またいかにひどい仕打ちを行なってきたことか。いかに醜悪な仕打ちを、いかに絶え間なく神に対して加えていることか。もし神が私たちを忍んでくださらなかったとしたなら、また、もしその素晴らしい寛容を働かせてくださらなかったなら、私たちは何という悲惨な状況に陥ることだろう。何ということになるだろう。だから、こうしたことを考えて、これまで語られたような気高い精神をみな追い求めようではないか。そして、それと逆の思いや行動は持たないようにし、自分の内側で押さえようではないか。もしこのような精神が人々の間に広く行き渡れば、個人としての私たちはもとより、家庭であれ、公共の団体であれ、どんな所であれ、非常に喜ばしい影響が現われるであろう。いさかいや争いはなくなり、優しさ、親切、和やかさ、愛があらゆるところに満ちあふれるであろう。恨み合いやもめごとは後を絶ち、あらゆる意地悪が姿を消すであろう。職場にも家庭にも、乱暴さや、とげとげしさや、恨みはなくなるであろう。他人を傷つけたり、侮辱したりするような言葉は聞かれることがなくなるであろう。そして、この世間に満ちているような悪意のこもった陰口や、嘲弄は何もなくなるであろう。そうした陰口や嘲弄こそ、社会に大きな害毒を流し、最後の審判の日に恐るべき罰を受けることになるのである。

 しかし、そんなふうに柔和に、また穏やかに不正を忍ぶということに対して、ある人々は心の中で反発を感じるかもしれない。だからここで、そうした反論のいくつかを挙げ、答えておくことは有益であろう。----

 反論1. ある人は、すぐにこう云うかもしれない。自分が受けているような不正には、到底耐えられない。自分に不正を加える者らは、あまりにも理不尽だ。彼らの云ったこと、やったことは、あまりにも身勝手で、ひどすぎる。どうしても許せない。人のことを何だと思っているのか。とにかく生身の人間が忍べるようなものではない。あんなにひどい仕打ちをされたら、石ころだって怒り出すだろう。あんな辱めを受けるくらいなら、文字通り足で踏みつけにされる方がましだ。自分は、どうしたっても恨まずにはいられないのだ、と。しかし、こうした反論に答えて、私はいくつかのことを問いたい。まず、

 第一に、あなたは、あなたが自分の同胞の人間から受けた不正の方が、あなたが神に対して加えた不正より大きいと考えているのか。あなたの敵は、あなたよりも卑劣で、理不尽で、感謝を知らない輩だといえるのか。あなたが、あのいと高き、聖なるお方に対して何をしたか考えてほしい。あなたの敵のいやがらせは、あなたがあなたの造物主、守護者、贖い主に対して加えた不正よりも忌まわしく、たちが悪く、数多いものなのか。神は、私たちにすべての憐れみを注いでくださった方であり、あなたはこの方に最大の負い目を負っていることを考え合わせていただきたい。それでも、あなたの受けた不正は、あなたが神に対して犯した罪深い行ないよりも恥ずべきもの、怒るべきものだろうか。

 第二に、あなたは、神がこれまでと同じように、これらすべてのことにおいてあなたを忍んでくださり、いかなることがあろうと、その無限の愛といつくしみを注いでくださることを願わないだろうか。あなたは、自分がどれほどひどく神に逆らったとしても、神があなたを憐れみ、キリストがそのいのちをかけた愛のうちに包んでくださることを望んでいないのか。そして、その恵みによって、神があなたのそむきの罪、神に対して犯したすべての咎を拭いさり、永遠に神の子、御国の世継ぎとしてくださることを望んではいないのか。

 第三に、神の側でのこのような寛容を思うとき、あなたはこれに賛成しないだろうか。そして、これは素晴らしいことだ、単に気高くて立派な行ないだというばかりでなく、比類を絶して栄光に満ちたものだと考えないだろうか。またキリストがあなたのために死んでくださったことはどうか。神が、キリストを通してあなたに赦しと救いを差し出されたことはどうか。あなたはこのことに賛意を示すのではないか。それとも、賛成できないというのか。むしろ、神があなたを忍ばず、とうの昔に御怒りのもとであなたを絶ち滅ぼしてしまっていた方がよかったというのだろうか。

 第四に、もし神のそのような御ふるまいが賛成に値する、立派で気高いものだというのなら、なぜ自分はその立派で気高いことを行なおうとしないのか。なぜ、この模範にならおうとしないのか。不正を忍ぶ神は甘すぎるとでもいうのか。天地の主に対して不正を犯すことよりも、人があなたに対して不正を加えることの方が、ずっとおぞましいことだとでもいうのか。あなたは、自分が赦されるのはかまわないと思い、自分は神の赦しを祈り求めるが、あなたを傷つける同胞にまではその寛容を及ぼさないというのか。

 第五に、あなたは、これから先、神があなたの犯す不正を忍ばなくなることを望むか。あなたが神に対して犯すすべての罪を、もはや神が忍ばれなくなることを願うのか。あなたは神のもとへ行って、どうか自分のことは、今この反論の中で同胞の人間を扱ってやりたいと考えたような仕方で扱ってください、と頼もうというのか。

 第六に、キリストは、この地上におられたとき、ご自分を傷つけ、侮辱し、踏みつけにする人々に対して怒りを発したり、なじったりしただろうか。キリストは、あなたなどが受けた不正よりも、はるかに重く、はるかにひどい不正を受けたのではなかったか。もっと正確に云えば、あなたは、他人があなたを踏みにじるよりも、ずっとひどく神の御子を踏みにじってきたのではないか。そして、人があなたを踏みつけ、不正を加えるなどということよりも、あなたがキリストを踏みつけ、不正を加えたことの方が、はるかに重大な、はるかに恐るべきことではないのか。こうした問いで、あなたの反論には十分答えになっていることと思う。

 反論2. しかし、あなたはまだ云うかもしれない。自分に不正を加える人々は、いつまでたってもやめようとせず、まるで悔い改めようとせず、ますますそれをし続けている、と。しかし、もし不正が長く続くのでないとしたら、どこに寛容の出番があるのか? もし不正が続けられるとしたなら、それはあなたが寛容と、柔和と、今まで語られたような忍耐を働かすかどうかためすため、まさにその目的のための摂理かもしれない。また神はあなたが罪を犯し続けていたときも、あなたを忍んでくださったのではないか。あなたがいつまでたっても頑迷で、わがままで、神に対して不正を加えることに固執していたときも、神はご自分の寛容をあなたに対して働かせるのをやめたりしなかったではないか。

 反論3. しかし、あなたは再び反対するかもしれない。そんなことをしたら、自分の敵はますます図に乗って不正を続けることだろう、と。もし自分が不正を忍んだりしたなら、ますます傷つけられるだけだ。そうあなたは弁解するかもしれない。しかし、そうかどうかはわからない。あなたは未来を見通したり、人の心を探り究めたりすることはできないのである。それに、もしあなたが神のご命令に従うなら、神はあなたのことを配慮してくださる。人の怒りをやめさせるには、あなたよりも神の方がずっと力のあるお方である。神はこう云われた。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」(ロマ12:19)。神は、ダビデの陥っていた苦境に対して素晴らしい介入をなされた。数多くの聖徒たちが同じことを経験している。もしあなたが神に従いさえするなら、神はあなたに敵対して立つすべての者に対してあなたの味方になってくださる。また人々の見聞きするところから一般に云えるのは。柔和で寛容な心を持てば不正はやむが、復讐心を抱けば相手を怒らせ、不正をつのらせるだけだということである。それゆえ、寛容な心、柔和な心、忍耐の心を養いなさい。そうすればあなたは強さと幸福のうちに魂を保つことができ、何者も、神がその知恵と愛によってお許しになる限度を越えて、あなたを傷つけることは許されない。


愛は受けた不正を柔和に忍ぶ[了]

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