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3. 愛なき善行や受難はむなしい

「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません」 Iコリ13:3

 すでに見たように、この章の先の2つの節では、いかに愛が欠くべからざる、何にもまさってすぐれたものであるか、ということが示されていた。愛は、どれほど大きな特権にもまさるものであり、いかなる特権も愛がなければ全くむなしく、無価値になるのである。ただし、そこで挙げられた特権はすべて、神の御霊による種々の超常的な賜物であった。この節で挙げられているのは、それとは別の種類のもの、すなわち、道徳的な性格を持つものである。そして、ここで宣言されているのは、そうしたいかなるものも、愛がなければ全く役に立たないということである。具体的に云うと、

 第一に、私たちの善行は愛がなければむなしい。ここで言及されているのは、外面的な行ないの中でも最も気高い善行の1つ、すなわち、自分の持ち物全部を貧しい人々に分け与えることである。貧者への施しは、神のことばの中でも非常に強調されている義務であり、特にキリスト教が成立した後の経綸のもとでそうである。キリスト教の最初期の時代、教会の状況によっては、人々が全財産を手放し、他者のため分け与えるよう求められることがあった。これは1つには、迫害を受け、困窮している人々には極限的な必要があったからであり、また1つには、キリストに従って福音の働きに従事する者らには種々の困難が伴っていたため、そうした弟子たちが世的な財産に関する心づかいと重荷から解き放たれ、いわばその胴巻きに金銀を入れず、袋をもたず、二枚の下着をも着ずに出て行くことが求められていたからである。使徒パウロは、自分はキリストのためにすべてを失った、と告げている。またエルサレム教会にいた初代のキリスト者たちは、自分の全財産を売り払い、それを共有の基金としてささげ、「だれひとりその持ち物を自分のものと言わ」なかった(使4:32)。貧者への施しという義務は、当時のコリントにおけるキリスト者たちが特に心がける機会のある義務であった。単にその時代には多くの困難があったためばかりでなく、ユダヤの兄弟たちが厳しい飢饉に激しく苦しんでいたためでもある。これに鑑みて使徒はすでに、苦しんでいる兄弟たちへの救済寄金を送ることをコリント人たちの義務として勧告していた。それはこの手紙の16章で特に語られているし、同じコリントの教会への第二の手紙の8章および9章でも語られている。しかし彼は、この2つの手紙でこれほど多くの言葉を費やして、貧者への施しという義務を果たすよう彼らを奮起させようとしているにもかかわらず、なおも用心深く1つのことを彼らに知らせておこうとしている。すなわち、こうした義務を最大限まで追求し、自分の全財産を貧しい人々に分け与えるようなことをしたとしても、愛がなければ、それは何の役にも立たない、ということである。

 第二に使徒が教えているのは、私たちの善行だけでなく、私たちの受難もまた、愛がなければ何の値うちもない、ということである。人は自分が行なうことを大いに自負するものだが、自分が苦しむことは、いやまさって自負するものである。自分が信仰のゆえに何か骨折りをしたり、非常な犠牲を払ったり、苦しみを受けたりするとき、人はそれを大したことだとみなしがちである。しかし、ここで言及されているのは、非常に極端な種類の苦しみ、死にまで至る苦しみ、最も残虐な形での死の1つではあるが、使徒はそれすらも、愛がなければ無に等しいと云う。人が持ち物全部を分け与えるならば、もはや残すところは自分しかない。だが使徒の教えによれば、人が自分の全財産を分け与え、自分のからだすら引き渡し、火炎の中で焼き尽くされることさえ否まなかったとしても、それが心のうちにある真摯な愛から出たことでなかったとしたら、何にもならないのである。使徒がコリント人の手紙を書いた当時は、キリスト者らがしばしばキリストのために、持ち物をささげるどころか、肉体をも犠牲にせざるをえない時代であった。なぜなら当時の教会は、通常、迫害のもとにあり、おびただしい数の人々がその当時か、それからほどなくして、福音のゆえにむごたらしい死に至らされたからである。しかし、たとえ彼らが苦しみを伴う生き方をしたり、最も苦悶に満ちた死を味わったとしても、愛がなければそれはむなしかった。この愛(charity)という言葉は、これらの節について先に二回説教した中で説明したように、心のうちなる信仰のまぎれもない証しとなるすべてのものの精髄を意味する。それゆえ、これらの言葉から私が引き出したい教理は、人がいかなること行ない、いかなる苦しみを味わおうとも、それは決して心のうちに真摯でキリスト者的な愛が欠けていることの埋め合わせにはならない、ということである。

 I. 心のうちに真摯でキリスト者的な愛がなくとも、並外れた善行を行なったり、並外れた苦しみを忍ぶことはありうる。まず、

 1. そうした愛なしに並外れた善行を行なうことはありうる。使徒パウロはピリピ人への手紙の第3章で、回心する前の彼がパリサイ人だったころ、どんなことを行なっていたか告げている。第4節で彼は云う。「もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です」。多くのパリサイ人は、人並み外れた徳行を行ない、たいへんな数の宗教的善行に励んでいた。ルカ18:11-12に出てくるパリサイ人は、神に対しても人に対しても、並外れたことを行なっていることを自慢し、自分がそのように他の人々にはるかにまさって多くのことを行なっていることを神に感謝していた。また多くの異教徒らは、並み外れた善行に抜きんでていた。ある者はその誠実さにおいて、またある者はその公正さにおいて、またある者は公益のために行なった偉業において、ひときわすぐれていた。多くの人々は、たとえ心のうちに真摯な愛がなくとも、敬虔で慈善的な目的のために、目を見張らせるような献げ物を供出してきた。そして歴史に残り、代々語り伝えられるような、赫々たる名声を勝ち得てきた。多くの人々は地獄への恐れから、尋常ならざることを行なってきた。それによって神々をなだめ、自分のもろもろの罪を贖うことができると期待したからである。また多くの人々は高慢から、また人々の間で評判や誉れを得たいという願望から、並外れたことをしてきた。確かに、こうした動機で行動する人が常に、神の戒めすべてにまんべんなく従っているわけではないし、こうした動機が、キリスト者的な善行に励む生き方、生活を通じて神と人へのあらゆる義務を果たす生き方につながっていくわけではない。しかし、ある特定の義務や善行に限ってみれば、こうした生まれながらの原理が、人々にどれほどの偉業を到達させるものかは見当もつかないものがある。またやはり、

 2. 心のうちに真摯な愛がなくとも、信仰ゆえに並外れた苦しみを忍ぶということもありうる。パリサイ人の中に、自分を非常に苛烈な生き方、苦行、自発的な苦痛へと駆り立てる者たちがいたように、人は大きな苦しみを伴う生き方を選ぶことがありえる。多くの人々は難儀な巡礼の旅に出かけ、人々との交流から来る益と楽しみを自ら締め出し、砂漠や荒野で一生を過ごした。また、どう見ても心に神への真摯な愛があるとは全く思えない人々の中にも、死をすら忍ぶ人々があった。おびただしい数のローマカトリック教徒は、進んで血なまぐさい戦争に従軍し、命を的に戦っては、そのことによって天国に入る功績が得られると期待していた。トルコ人やサラセン人を相手に戦われた幾多の戦争、すなわち聖戦とも十字軍とも呼ばれた戦争に、何万もの人々が自発的に従軍し、戦場におけるあらゆる危険に身をさらしたのは、そうすることで自分のもろもろの罪の赦しと、死後の栄光の報いを手に入れられると期待したからである。そして何万もの、否、何百万もの人々が、このようにして命を失い、ヨーロッパの各地で大規模な人口減少が起こったほどであった。トルコ人の多くもまた、こうした企図に激しく怒りを発し、命を賭して、いわば敵軍の剣の切っ先に身を投ずるようにして突撃していった。なぜならマホメットの約束によれば、イスラム教信仰を防衛するための戦争で死んだ者はみな、即座にパラダイスに行くとされていたからである。また歴史の告げるところによると、ある人々は、その頑固と強情が過ぎるため、不名誉にならない形で命を救うことができたにもかかわらず、他人の要求に屈するよりは自発的に死を選んだとされる。多くの異教徒らが自国のために命を捨て、多くの人々が偽りの宗教のために殉教していった(もっとも、真の信仰のために殉教した人々の方がずっと数多く、ずっとむごたらしい死に方ではあったが)。しかし、このようなすべての場合において、そうした苦しみを忍んだり、死を迎えた人々が、心のうちに真摯な聖い愛を全然持っていなかったことは確かである。しかし、

 II. 人がいかなることを行ない、いかなる苦しみを忍ぼうとも、そうした善行や苦しみは、心のうちに真摯な愛が欠けていることの埋め合わせにはならない。----たとえ人が、信仰的なことのためにどれほど身を投げ出し、どれほど正義と親切と献身の行為に従事しようと、またどれほど頻繁に祈りと断食に励もうと、あるいは、どれほど多大な時間を宗教的な礼拝儀式のために費やし、どれほど昼夜を問わず不眠不休で勤行に精を出そうと、また、どれほど彼らが信仰のために行なったことが世界的な名声をもたらし、以後のあらゆる世代の記憶にとどまるほど気高いものであったとしても、心のうちに神への真摯な愛がなければ、すべてはむなしいのである。それと同じく、たとえ人が宗教的な、あるいは慈善的な目的のためにどれほど惜しみなく喜捨したとしても、また一国全土の財宝を所有している人が、それをあらゆる人に分け与え、地上の君主というきらびやかな身分から乞食へと身を落としたとしても、また、それ以上のこととして、人がこれらすべてを行なった後で、自分をどれほど激しい苦しみに引き渡し、持ち物すべてを与えるにとどまらず、自分の肉体にぼろ布をまとわせたり、切り刻ませたり、焼かせたり、苛ませたり、人知の及ぶ限りのあらゆる苦しみを味あわせたとしても、これらすべてをもってしても、心のうちに神への真摯な愛が欠けているなら、その埋め合わせにはならないのである。そして、それは次のような種々の理由から明らかである。----

 1. 外面的な善行をなすことも、苦しみを忍ぶことも、それ自体としては、神の御目にとって、いかなる価値もない。----肉体の動きや運動、あるいは肉体によってなされうるいかなることであれ、もし心----その人の内的な部分----から切り離して考えるとしたら、神の御目にとって、それは無生物の動きと同然の意味や価値しかない。たとえ何をささげようと、何を分け与えようと、それが銀であれ、金であれ、千の丘の家畜らであれ、幾千の雄羊であれ、幾万の油であれ、外面的なものとしては、それらは神の御目にとって何の価値もない。もし神がこうしたものを必要としておられるとしたら、確かにこれらは、これらをささげさせた心の動機とは別にし、それ自体として考えられたしても、神にとって価値があることかもしれない。私たちはしばしば外的な助けを必要とすることがあり、それゆえ、そうしたものが差し出されたり分け与えられたりすると、それらは、それ自体として考えられても、価値がありうるし、事実価値あるものである。しかし、神は何を必要ともしておられない。神はご自身のうちですべて充足しておられる。神は、動物をいけにえとすることで養われも、金銀真珠のささげもので富まされもしない。----「森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだから」(詩50:10、12)。「すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。私たちの神、主よ。あなたの聖なる御名のために家をお建てしようと私たちが用意をしたこれらすべてのおびただしいものは、あなたの御手から出たものであり、すべてはあなたのものです」(I歴29:14、16)。また、私たちのいかなる奉仕にも善行にも神にとって益となるものが何もないのと同様に、単なる外面的な行為だけで心のうちに真摯な愛がなければ、そこには神の御目にとって受け入れられるものが何1つない。なぜなら、主は「人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」[Iサム16:7]。神にとって人の心は、その外面的行為と全く同じようにむき出しで、あけっぴろげである。それゆえ神は、私たちの行為と、私たちのふるまいのすべてをご覧になる際に、単なる機械の外面的な運動を見るようにではなく、理性と知性を持つ被造物、自由意志を有する行為者が行なう行動としてご覧になる。したがって、神の評価においては、私たちがいかなることを行なおうと、心が神との正しい関係にない限り、それが卓越したものであるとか、すぐれたものとされることはありえない。

 それと同じように神は、私たちがどのような苦しみを忍ぼうと、それ自体としては、それを全くお喜びにならない。神は、人間が苦しもうと得をするわけではなく、人間が自ら進んで苦しみに遭ったとしても、それが何か良い動機から出ているか、何か良い目的や目当てのためになされたものでない限り、全くお喜びにならない。私たちは、時として、自分の同胞や、友人や、隣人に苦しんでもらわなくてはならないことがある。自分の重荷を負ってもらい、助けてもらうこと、自分のために不便を忍んでもらわなくてはならないことがある。しかし神は、私たちからそんなふうにしてもらう必要は全くなく、それゆえ私たちの苦しみは、私たちが苦しみを忍ぶということだけを抜き出して考えれば、神に受け入れられるものではないし、そのような苦しみを忍ばせることに至らせた動機を抜きにして考えると、全く意味のないことでしかない。いかなることを行なおうと、いかに苦しもうと、そうした行ないや苦しみは、魂のうちに神への愛が欠如していることの埋め合わせにはならない。そうしたものは神の得にはならず、神の御目にそれ自体として立派なものとも映らない。またそれらは、神がその道徳的被造物に対して求められるすべてのことの精髄であるところの、あの神に対する愛と、人に対する愛が欠けていることを埋め合わせることも決してできない。

 2. いかなることを行ない、いかに苦しみを忍ぼうと、心が神にささげられていなければ、実は何も神にささげたことにはならない。----ある個人が何かを行なったり、苦しんだりする行為は、いかなる場合も、命を持たない器具や機械の行為のようにではなく、知性と自由意志を持つ道徳的存在の行為としてみなされる。なぜなら、機械が本来的な意味で何かを与えることができないことは確かだからである。そしてもし、そのような命を持たない、発条や重りで動く機械が何かを私たちの前に差し出したとしても、それが本来的な意味でそれを私たちにささげたということはできない。竪琴やシンバルやその他の楽器は、古くから神殿その他で神を賛美するために用いられてきた。しかし、こうした無生物の器具が神に賛美をささげていると云うことはできない。なぜなら、それらには、その快い音色を価値あるものとする何の考えも、理解力も、意志も、感情もないからである。そしてそのように、たとえ人が心と理解力と意志を持っているとしても、もし何かを神にささげる際に、心をこめずにささげたとしたら、楽器が何も神にささげていないのと同様、真の意味では何も神にささげていないのである。

 心に何の真摯さもない人は、どれほど神を敬っているように見え、どれほど多くの善行を行ない、どれほどの苦しみを忍んだとしても、実は神への真の敬意を持っておらず、それゆえ神を、自分が行なったりささげたりする最も大きな目的とはしていないないのである。何かささげられたものは、その人がささげる際に最も大きな目的としていたものにささげられているのである。もしその人の目的が自分自身でしかなければ、それは神にではなく、自分自身にささげられたにすぎない。また、その人の目当てが自分自身の栄誉や安楽や世俗的な利益だとしたら、そのささげ物は、そうした物事への供え物でしかない。贈り物とは、その贈り主が心を傾けている相手、目当てとしている相手へとささげられるものである。心の目当てこそ、その贈り物を実のあるものとするのである。そしてもし心の真摯な目当てが神でなかったとしたら、いかなることが行なわれ、いかに苦しみが忍ばれようとも、実は神には何もささげられていないのである。それゆえ、神に対してささげられる、あるいは与えられる何かで、心のうちに愛が欠けていることを埋め合わせられる、などと考えるのは途方もなく愚かなこととなろう。なぜなら、その愛がなければ実は何もささげられておらず、まがい物をささげるなど、いと高きお方をばかにすることでしかないからである。これをさらに明らかにするのは、

 3. この愛こそ、神が私たちに求められるすべての精髄である、という事実である。----そして、神がお求めになるすべての精髄たるものの欠けを何かが埋め合わせできる、などと考えるのはばかげている。愛とは、その座を心に占めている何か、また先に見てきたように、救いに至り、キリスト者の人格のまぎれもない証しとなるすべてのものと本質的に等しいものである。この愛こそ、私たちの救い主が、律法の二枚の板で要求されているすべての精髄として語り、使徒が律法を全うすると宣言しているものにほかならない。では、私たちはその欠けをどのようにして埋め合わせようというのか。それを手元にとどめておくという場合、神が私たちに求めておられること全体を手元にとどめておくに等しいというのに、どう埋め合わせようというのか。あることが要求されているのに、それを別に要求されていることで埋め合わせられると考えるのは、ばかげたことであろう。----1つの負債を、別の負債の返済で埋め合わせられるはずがない。しかし、一銭も払わず、要求されている全額を手元にとどめておいたままで負債総額を埋め合わせられるなどと考えるのは、それよりはるかにばかげたことである。心のこもっていない外面的な物事について神は、そんなものはご自分が求めてこられたものではないと語り(イザ1:12)、外面的なささげ物を受け入れてほしければ、心をささげよ、と命じておられる。

 4. もし私たちが、神に対する敬意と愛とを目に見える外面的な行為で示しながら、心に何の真摯さもないとしたら、それは偽善であり、聖なる方に対して事実上嘘をつくことにほかならない。----心に感じてもいない、そうした敬意や愛を持っているかのように見せかけるのは、神を欺くことができると思ってでもいるかのように行動することである。それは、エジプトから解放された後のイスラエルが砂漠でしたのと同じように、「その口で神を欺き、その舌で神に偽りを言」うことである(詩78:36)。しかし、阿諛や追従で真摯な敬意の埋め合わせができるなどと考えるのは、虚偽や欺瞞で真実の欠けを埋め合わせられると考えるのと同じくらいばかげたことに違いない。

 5. 人がいかなることを行ない、いかに苦しもうとも、心に真摯な愛がなければ、それはことごとく何らかの偶像にささげられたものでしかない。----先に述べたように、こうした場合、実は何も神にはささげられておらず、それゆえ当然のこととして、それは何か他の存在、他の物体、他の目的にささげられたことになる。そして、それが何であろうと、それは聖書が偶像と呼ぶものである。そうしたすべてのささげ物において、事実上何かが礼拝されているのである。そして、それが何であれ、自己であれ、同胞の人間であれ、この世であれ、それは、神に与えられなくてはならない地位を簒奪することを許され、神に対してささげられなくてはならないささげ物を受け取っているのである。そして、神が当然の権利として受けてしかるべきものを手元にとどめておきながら、自分の種々の偶像に何かをささげることでその埋め合わせができるなどと考えることの何とばかげていることか! それはさながら、妻が夫に対する愛情の欠けを、夫が当然受けてしかるべきその愛情を、赤の他人にささげることによって埋め合わせられると考えるのと同じくらいばかげている。あるいは、夫に対する妻の貞節の欠けを、不貞の罪を犯すことで埋め合わせられると考えるのと同じくらいばかげている。

 この主題の適用として私たちは、

 1. これを、自己吟味のために役立てるべきであろう。----もしこの教理が本当に正しいとしたら----すなわち、私たちが行ないうる、あるいは苦しみうるいかなることも、心に神への真摯な愛がない限り、すべてむなしいのだとしたら----、私たちは、自分の心のうちにこの真摯な愛があるかどうか、真剣に自分を探るべきであろう。信仰を告白し、一見キリスト教に回心したかに見える人々は多いし、その中には、キリスト者に求められる多くのことを、傍目には非の打ち所なく行なっている人もいる。おそらく彼らは、自分が神のため、神への奉仕のために、並外れたことを行ない、並外れた犠牲を払っていると思っているであろう。しかし、大きな問題となるのは、そうしたすべてにおいて、その心には真摯さがあったのか、また、そうしたすべての苦しみを忍び、すべてのことを行なってきたのは、神の栄光のためだけだったのか、ということである。疑いもなく、もし私たちが自分を吟味するなら、多くの偽善が目につくに違いない。しかし、そこには何がしかの真摯さがあるだろうか? 神は、真摯さなしにはどれほど並外れたことも忌みきらわれるが、ご自分に対する真摯な愛から生じたことであれば、どれほど小さなことをも受け入れ、喜んでくださる。神の御目にとっては、真摯な愛からキリストの弟子に一杯の冷たい水を差し出すことの方が、愛なしに全財産を貧しい人に施すことよりも、否、愛なしに一国全土の富を分け与え、火炎で焼かれるためにからだを引き渡すことよりも、価値があるのである。また神は、真摯な愛であれば、それがごく小さくとも受け入れてくださる。いかに大きな不完全さが伴っていようと、もし私たちの愛に少しでも真の真摯さがあるなら、その小さなことは、偽善を中にふくんでいるからといって拒絶されはしない。ここで、真摯さの性質には4つの要素があることに注目するのがよいであろう。その4つとは、真実さ、自由さ、誠実さ、純粋さ、である。さて、

 第一に、「真実さ」。----すなわち、外面的な行動において目で見えるように示されたものの実体が真に心の中にあるか、ということである。神への真の敬意が本当にあるのなら、口先や行動において示されたのと同じくらい大きく、神を尊ぶ愛が心で感じられているはずである。これこそ詩篇51篇で、「ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます」、と云われた言葉の意味である。また、このことに鑑みてこそ聖書は、真摯さを偽善とは相容れないものであると語り、真摯なキリスト者を全くその見かけ通りの者である、----「彼のうちには偽りがない」----と云うのである(ヨハ1:47)。それゆえ、あなたは、この件について自分を吟味してみるがいい。もしあなたの外面的な行動の中に、神への敬意のように見えるものが示されているとしたら、それがただうわべだけのことにすぎないのか、あるいはあなたの心のうちで真摯に感じられているものなのかどうかを、探りきわめてみるがいい。なぜなら、真の愛がなければ、あなたは無に等しいからである。また、

 真摯さの性質における第二のことは、「自由さ」である。このためにこそ、キリスト者たちの従順は特に、「子どものような」もの、子どもたちがささげる従順である、と呼ばれている。なぜなら、それは無邪気で自由な従順であり、戒律的、奴隷的、強制的な従順ではなく、むしろ愛から発し、喜びをもってなされるものだからである。神は神なるがゆえに選ばれ、聖潔は聖潔のゆえに、また神のゆえに選ばれる。キリストは愛されるがゆえに選ばれ従われ、キリスト教は愛されるがゆえに、また魂の喜びであり、その義務に最高の幸福と喜悦が感じられるがゆえに選ばれ従われる。あなたには、このような精神があるだろうか。この点について、誠実に自分を吟味してみるがいい。また、

 この真摯さに含まれる第三のことは、「誠実さ」(integrity)である。この言葉の原意はすべてを尽くすこと(wholeness)であり、この真摯さが存在する場合、全心をもって神が求められ、キリスト教が選ばれ受け入れられ、また魂のすべてをもって信奉されることを示す。聖潔は全心をもって選ばれる。すべての義務は、神に対するものであれ人に対するものであれ、容易なものであれ困難なものであれ、小さいことであれ大きいことであれ、最大限に心をこめて受け入れられ、手がけられる。そうした人の人格は、均整がとれており、強健である。全人的に新しくされており、あらゆる器官がキリストへの従順に服させられている。新しく創造されたもののすべての部分が、キリストのご意志に服従させられている。すべての聖い性向の種子が魂に植えつけられており、それらは義務の履行において、また神の栄光のために、日増しに多くの実を結ぶようになっていく。また、

 真摯さの性質に含まれる第四のことは、「純粋さ」である。真摯(sincere)という言葉はしばしば純粋(pure)であることを意味する。たとえばIペテ2:2がそうである。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な(sincere)、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長……するためです」。すなわち、不純物も、混じりけもなく、生一本の、という意味である。これは、美徳と罪との対置関係のうちに見られる。一方は不純で、不潔で、不浄であると語られ、もう一方はそうした性質を全く帯びていないものとして語られている。使徒は罪を、死のからだ、あるいは死んだからだにたとえている。死体は、ありとあらゆるものの中で、最も不潔で、最も汚らわしいものである。一方、聖潔は純粋さとして、また聖なる喜びはきよい喜びとして、そして天の聖徒らは神の御座の前でしみもない者らとして語られている。では、この純粋さがあなたにあるかどうか、そしてその純粋さを所有していることであなたが真摯に神を愛しているかどうかを探ってみるがいい。この主題はさらにまた、

 2. まだ新しく生まれていない人々に、その失われた状態を確信させるであろう。----もしこのことが本当であるとしたら、すなわち、あなたがいかなることを行なおうと、いかに苦しもうと、心のうちに聖い純粋な愛の精神が欠けていることの埋め合わせにはならないとしたら、あなたは、神の新生の恵みを受け、心の内側に正しい精神が更新されるまでは、破滅した状態にあるということになる。また、あなたが何を行なおうと、いかに苦しみ、いかに艱難を忍ぼうと、神の回心の恵みを受けなければ、あなたの邪悪さから解放されることはできないことになる。たとえあなたがどれほど多くの祈りを積み上げようと、神がその強大な御力によってあなたに新しい心を与えることをよしとされなければ、あなたの悲惨な状況がいささかなりとも軽減されるわけではない。たとえあなたがどれほど多大な信仰上の犠牲を払い、いかに克己し自制し、いかに善に励み苦しみを身に受けようと、このことなしにはことごとく何の役にも立たない。それゆえ、たとえあなたが何をしてこようと、またこれまでに非常に多くの祈りをささげたことや、多大な時間を読書と瞑想に費やしてきたことを回顧できようと、それであなたのもろもろの罪が償われたとか、あなたの状況が少しでも嘆かわしくないものになったとか考えうる理由は何1つない。あなたは、あいかわらず、みじめで、失なわれ、悲惨で、咎に満ち、破滅した生き物である。

 生まれながらの、新しくされていない人々は、心のうちに真摯な愛と真の恵みが欠けていることを埋め合わせられるものが何かあるとしたら喜ぶであろう。また、事実それを埋め合わせるために並外れたことをしている多くの人々があり、並外れた苦しみを忍んでいる多くの人々がある。しかし、悲しむべきかな! それらすべてが何とつまらぬものであることか! 彼らがいかに行ない、いかに苦しもうと、それで彼らの人格が変わるわけではない。そしてもし彼らが、そうしたことの上に自分の希望を打ち立てているのだとしたら、彼らは自分を欺いているのであって、東風を食べて生きているのである。もしあなたがそのような状態にあるとしたら、あなたがやがて、いかにみじめになるか考えてみるがいい。あなたは、希望の真の源泉のただ中にありながら希望なしに生きてきたのである。また、あなたがいかにみじめになるか考えてみるがいい。やがてあなたには死が訪れ、恐怖の王の姿があなたのあらゆる行ないの無意味さ、むなしさを示すときが来るのである。また、あなたがいかにみじめになるか考えてみるがいい。天の雲に乗って地をさばくためにやって来るキリストを、やがてあなたは目にすることになるのである! そのときあなたは、彼に受け入れていただくためなら、いかなることを行ない、いかに苦しむこともいとわないであろう。しかし何を行ない、どう苦しもうと、それは何の役にも立たない。それらは、あなたの罪を償うものでも、あなたに神の恩顧を与えるものでも、押し寄せる御怒りの猛威からあなたを救い出すものでもない。だからあなたは、自分がこれまで行なってきた、あるいは苦しんできた何物にも、またこれから行なったり苦しんだりできる何物にもより頼まず、ただキリストにより頼むがいい。あなたの心をキリストへの真摯な愛で満たすがいい。そうするとき、最後の大いなる日に、彼はあなたをご自分に従う者、ご自分の友として認めてくださるであろう。さらにこの主題は、

 3. 心に真摯なキリスト者的愛をはぐくむよう、すべての人に向かって熱心に勧告している。----もしこの教理が正しいとしたら、すなわち、もしこれがそれほど並外れて絶対的に必要だとしたら、これをあなたが希求する唯一絶対のこととするがいい。勤勉さと祈りをもってこれを求めるがいい。また、これは自分のうちにではなく、神のうちに求めるがいい。神だけがこれを授けることがおできになるのである。これは、神の助けを受けない天性の力では到底手が届かないものである。どれほど並外れた善行を行ない、どれほど並外れた苦しみを忍ぼうと、真摯な愛がなければ、それらは何の役にも立たない。そうした行ないや苦しみは、事実、キリストに従う者として、またキリストに仕える者として、私たちに求められていることかもしれない。しかし私たちは、それらにより頼んだり、それら自体に何らかの功績や価値があると感じるべきではない。それらはせいぜい、心のうちなる正しい精神が示す外面的な証拠であり、その発露でしかない。だから、この勧告を受け入れて、心のうちなる真摯な愛、すなわちキリスト者的な愛を、何にもましてはぐくむようにするがいい。それこそ、あなたが是が非でも持たなくてはならないものである。それなしにあなたの立場を救えるものは何1つない。それなしにすべては、何らかの点で、あなたの罪の重さを増し加え、あなたをより深く絶望の世界に沈みこませるだけである!

愛なき善行や受難はむなしい[了]

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