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2. 愛はすべての賜物にまさる

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません」 Iコリ13:1-2

 前回の説教で示されたのは、聖徒のうちにあるすべての美徳----キリスト者のまぎれもないしるしとなり、救いに至るすべての美徳----は、キリスト者の愛によって要約できる、ということであった。さて今回私が考察したいのは、この聖句ではいかなるものがその愛と比較されているか、またそのどちらがすぐれたものとみなされているか、ということである。

 この聖句では、二種類のことが比較されている。一方にあるのは、御霊の超常的、奇蹟的な賜物、----たとえば異言の賜物や、預言の賜物その他の、当時は珍しくなく、特にコリントの教会内では顕著に見られていた賜物である。もう一方にあるのは、同じ御霊が真のキリスト者のうちで通常に働かれる中で生み出されるもの、すなわち、神から出た聖い愛である。

 当時は種々の奇蹟の時代であった。それは、古のユダヤ人がそうだったように、国中を探しても預言の賜物を持っているのがひとりかふたり、せいぜいほんの一握りしかいない、というような時代ではなかった。むしろ、民11:29に記されている、「主の民がみな、預言者となればよいのに!」、というモーセの願いが大々的に実現したかに見えた時代であった。数人のごく傑出した個人がそうした賜物を授かっていただけでなく、あらゆる種類の人々が、老いも若きも、男も女も、そうした賜物を共有していた。その時代について宣べ伝えた預言者ヨエルは、その預言書の中で、この偉大な出来事のことを前もって予言して云った。----「『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」[使2:17-18]。特にコリントの教会は、そうした賜物に非常に恵まれていた。この書簡から明らかなように、ありとあらゆる種類の奇蹟的賜物が、この教会には授けられていた。また、そうした賜物を受けていた人々の数は決して少なくなかった。使徒は云う。「ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、……が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです」[Iコリ12:8-11]。そのようにして、ある者には1つの賜物、別の者には別の賜物が与えられていた。「しかし」、と使徒は云う。「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう」[Iコリ12:31]。すなわち、こうした賜物すべてを1つに合わせたものよりも、はるかにすぐれた何かを示してあげよう。実際、それは、この1つを欠くならこうした賜物すべてが無に等しくなるほど重要なものである。なぜなら、「たとい、私が」、あのペンテコステの日になされたように、「人の異言で話しても」、それどころか、「御使いの異言で話しても、愛がないなら」、私はむなしく、無価値なもの、「やかましいどらや、うるさいシンバルと同じ」なのである。「また、たとい私が」、御霊の超常的な賜物を1つだけでなくすべて持っていて、異言で話せるだけでなく、「預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ」、神の深みをすべて直接啓示によって見抜くことができ、「また、山を動かすほどの」、つまりあらゆる種類の奇蹟を行なえるほどの「完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません」。ということは、愛とは、聖霊が人を聖める通常の働きから生ずる実であるにもかかわらず、御霊のいかなる超常的な賜物にもまさって、すぐれたものとみなされている、ということである。それが、先に示されたように、救いに至るすべての恵みの精髄たるキリスト者の愛なのである。実際、この愛があまりにもすぐれているため、御霊のいかなる超常的な賜物も、それがなければ無に等しく、何の役にも立たないのである。そこで、ここから教えられる教理は、----心の中に愛の恵みを生じさせる、神の御霊の通常の働きは、御霊のいかなる超常的な賜物にもまさって、はるかにすぐれた祝福である、ということである。ここで私が示したいのは、第一に、御霊の通常の賜物、超常的な賜物とは何を意味するか、ということ、第二に、御霊の超常的な賜物は実に大きな特権である、ということ、それにもかかわらず、第三に、心の中に愛の恵みを生じさせる、神の御霊の通常の働きは、御霊のいかなる超常的な賜物にもまして、はるかにすぐれた祝福である、ということである。

 I. まず手短に説明したいのは、御霊の通常の賜物、超常的な賜物とは何を意味するか、ということである。なぜなら神の御霊の種々の賜物と働きは、神学者たちの区分によれば、一般的なもの救いに至るもの、また通常のもの超常的なものに分けられているからである。

 1. 神の御霊の種々の賜物と働きは、一般的なものと救いに至るものとに区別される。御霊の一般的賜物とは、敬虔な者にも不敬虔な者にも共通して授けられるような賜物のことを意味している。神の御霊は、いくつかの特定のことにおいては、生まれながらの人の思いにも、敬虔な人の思いにも、同じようにお働きになることがある。そのようなものとして、世には一般的な罪の確信というものがある。すなわち、敬虔な人々ばかりでなく、生まれながらの人々にも持てるような罪の確信がある。またそのようなものとして、一般的な照明あるいは啓明というものがある。すなわち、敬虔な者にも不敬虔な者にも共通した霊的な照明がある。またそのようなものとして種々の一般的な宗教感情がある。---- 一般的な感謝---- 一般的な悲しみ、その他がある。しかし、世にはそうした類のものとは違い、敬虔な者たちだけしか持てない、別の種類の賜物もある。たとえば救いに至る信仰や愛、そしてその他すべての、救いに至る、御霊の種々の恵みである。

 2. 通常の賜物と、超常的な賜物。----御霊の超常的な賜物、たとえば異言の賜物や奇跡の賜物、預言の賜物その他は、超常的な賜物と呼ばれる。なぜならそれらは、神の摂理の通常の成り行きにおいては与えられないような種類の賜物だからである。それらは、神が通常その摂理的なおはからいにおいて神の子らをお取り扱いになる際には授けられず、異例の際にだけ授けられるものである。たとえば、預言者たちや使徒たちには、聖書の正典が完結する前に、神のみ思いとみこころを啓示する賜物が与えられた。同じように初代教会には、この世に教会を基礎づけ、確立させるために、そうした超常的な賜物が与えられた。しかし聖書の正典が完結され、キリスト教会の基礎が十分に固められ、確立されてからは、こうした超常的な賜物はやんだ。しかし、御霊の通常の賜物は、全時代を通じて神の教会に存続し続けるものである。罪の確信と回心において与えられるような賜物、聖徒たちを聖潔と慰めにおいて建て上げることに関わるような賜物である。

 そこで云えることは、御霊の通常の賜物と超常的な賜物との間にある区別は、御霊の一般的な賜物と特別な[救いに至る]賜物との間にある区別とは非常に異なる、ということである。なぜなら、通常の賜物の中には、信仰や希望や愛のように、一般的な賜物ではないものがあるからである。それらは、神があらゆる時代におけるご自身の教会に通常お授けになるものではあるが、敬虔な者と不敬虔な者に共通したものではなく、敬虔な者たちに特有のものである。だが超常的な御霊の賜物は、一般的な賜物である。異言の賜物、奇蹟の賜物、預言の賜物その他は、キリスト教会に通常授けられるものではなく、異例の場合にしか授けられないものではあるが、敬虔な者たちに特有のものではない。多くの不敬虔な者たちがそうした賜物を受けてきたからである。----「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け』」(マタ7:22、23)。さて、このように用語の説明を終えた上で、次に示したいのは、----

 II. 神の御霊の超常的な賜物は、実に大きな特権である、ということである。----神がある人に預言の霊を授けて、直接啓示の恵みをお与えになるとき、あるいは奇蹟を行なう力を与え、病人を癒し、悪霊を追い出すことができるような権威をお与えになるとき、その特権は非常に大きい。実際これは、神が人々にお授けになる特権の中でも、救いに至る恵みに次ぐ、最もすぐれた特権の1つである。外的な恵みの手段に浴しつつ生きることができ、目に見える教会に所属できるということは、偉大な特権ではある。だが、教会の中で預言者となり、奇蹟を行なう者となるということは、それよりさらに大きな特権である。預言者や霊感を受けた人々が語った言葉を聞くことができるというのは、偉大な特権ではある。だが、それよりさらに大きい特権は、自分が預言者となってみことばを宣べ伝え、自分が神の霊感を受けて、神のみ思いとみこころとを他の人々に知らしめる者となることである。神がモーセに授けられたのは大きな特権であった。神はモーセを預言者として召し、彼をイスラエルの子らに対して律法を啓示する器として用い、書かれた神のみことばのあれほど大きな部分を----すなわち、啓示として最初に書き記された部分を----教会に伝える役目に任じ、またエジプトにおいても、紅海においても、荒野においても、あれほど多くの不思議を行なう器としてお用いになった。また神がダビデに授けられたのは大きな特権であった。神はダビデに霊感を与え、ご自分のみことばのあれほど多くの、またあれほどすぐれた部分の筆者とし、それを全時代の教会に用いさせた。また、神があのふたりの預言者エリヤとエリシャにお授けになったのは大きな特権であった。神は彼らに力を与え、あれほど奇蹟的な、またあれほど不思議なわざを行なわせた。そしてまた、神が預言者ダニエルにお授けになった特権も非常に大きかった。神は彼に、大きな超常的な御霊の賜物を与え、特に神の幻を理解する力をお与えになった。このことによって彼は異教徒の間でも偉大な誉れを獲得し、バビロンの王宮の中でさえ尊ばれた。偉大で強大で尊大な君主であった、あのネブカデネザルが、その賜物を持つダニエルに感服するあまり、彼を神として礼拝しようとしたほどであった。彼はダニエルの前にひれ伏し、穀物のささげ物となだめのかおりとが彼にささげられるように命じたのである(ダニ2:46)。そしてダニエルが、バビロンのあらゆる賢者、呪法師、呪文師、星占いたちにはるかにまさる栄誉を与えられたのは、神が彼にお授けになった、この超常的な賜物のゆえであった。バビロンの女王がいかにベルシャツァルに向かってダニエルのことを語っているか聞くがいい。----「あなたの王国には、聖なる神の霊の宿るひとりの人がいます。あなたの父上の時代、彼のうちに、光と理解力と神々の知恵のような知恵のあることがわかりました。ネブカデネザル王、あなたの父上、王は、彼を呪法師、呪文師、カルデヤ人、星占いたちの長とされました。王がベルテシャツァルと名づけたダニエルのうちに、すぐれた霊と、知識と、夢を解き明かし、なぞを解き、難問を解く理解力のあることがわかりましたから」(ダニ5:11、12)。この特権によってダニエルは、ペルシャの宮廷においてすら栄誉が与えられた。----「ダリヨスは、全国に任地を持つ百二十人の太守を任命して国を治めさせるのがよいと思った。彼はまた、彼らの上に三人の大臣を置いたが、ダニエルは、そのうちのひとりであった。太守たちはこの三人に報告を出すことにして、王が損害を受けないようにした。ときに、ダニエルは、他の大臣や太守よりも、きわだってすぐれていた。彼のうちにすぐれた霊が宿っていたからである。そこで王は、彼を任命して全国を治めさせようと思った」(ダニ6:1-3)。このすぐれた霊とは、他にも種々の意味はあったろうが、預言および直接啓示の霊のことを指していたことは間違いない。このことのゆえに彼はバビロンの太守たちからこれほどの栄誉を受けていたのである。

 キリストが使徒たちにお授けになったのは大きな特権であった。彼は、彼らを聖霊の超常的な賜物で満たし、彼らに霊感を与えてあらゆる国々を教えさせ、彼らをいわば彼に次ぐ者たちとし、教会の十二の土台石と思われる、十二の宝石としたのである。----「また、都の城壁には十二の土台石があり、それには、小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった」(黙21:14)。----「あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です」(エペ2:20)。そしてあの使徒ヨハネは、「主の日に御霊に感じ」、あれほど常ならぬ幻の数々を受けたとき、何とすぐれた恩恵を受けたことであろうか。彼が受けた幻は、全時代の教会に対して神の摂理が紡ぎ出す、世の終わりにまで至る壮大な出来事の数々を示していたのである。

 こうした超常的な御霊の賜物は、聖書において非常に大きな特権であると語られている。それで神がモーセにお与えになった特権は、非常に大きなものとされている。神は彼に常ならぬ奇蹟的な啓示を与え、いわば「顔と顔を合わせて」彼にお語りになったと云われる[出33:11]。先に引用したヨエル2:28、29の言葉にあるような、預言ヨエルによって予告され、語られていた、ペンテコステの日における超常的な賜物を伴う御霊の注ぎも、非常に大きな特権であった。そしてキリストは、奇蹟や異言の賜物のことを、彼を信ずる者らに彼がお授けになる、偉大な特権として語っておられる(マタ16:17、18)。

 こうした超常的な御霊の賜物は、偉大な栄誉とみなされてきた。モーセとアロンは、神が彼らに着せられた特別の栄誉のゆえに、宿営内でねたみを買った(詩106:16)。同じように、ヨシュアは、エルダデとメダデが宿営の中で預言していたことで、たちまち彼らにねたみを起こした(民11:27)。御使いたちもまた、預言者の働きを行なうために遣わされ、来たるべき出来事を啓示したときには、非常な栄誉と光輝に包まれることになった。使徒ヨハネそのひとでさえ、非常な驚きに打たれ、キリストが彼のもとに遣わして教会の未来の出来事を啓示させた御使いの前で、再三ひれ伏し、礼拝しようとしたほどである。しかしその御使いは、そうすることを彼に禁じ、自分に与えられた預言の御霊の特権は自分から出たものではなく、イエス・キリストから受けたものだと告げた(黙19:10; 22:8、9)。ルステラの町の異教徒たちは、使徒であるバルナバとパウロが持っていた力に驚愕したあまり、彼らを神々としていけにえをささげる寸前であった(使14:11-13)。そして魔術師シモンは、使徒たちの有していた賜物を渇仰し、手を置くと聖霊を与えることのできるその力を自分にも下さいと使徒たちの前に金を積んだ。

 こうした超常的な賜物が大きな特権であるのは、そこに、キリストの預言者的な職務に通ずるものがあるためである。それと同じく、この特権の偉大さを示すのは、これらが生まれながらの人々に授けられることも時たまあるとはいえ、それがごくまれである、ということがある。一般的には、こうした賜物を授けられる人々は聖徒であったし、それも最も傑出した聖徒であった。ペンテコステの日がそうであったし、それ以前の時代もそうであった。「神の聖い人たちが、聖霊に動かされて語った」のである(IIペテ1:21 <英欽定訳>)。こうした賜物は、ダニエルの場合のように、神の異例な恩顧と愛のしるしとして授けられるのが常であった。ダニエルは非常に愛されていた聖徒であり、それゆえあれほどの啓示を与えられる偉大な特権にあずかったのである(ダニ9:23および10:11-19)。また、使徒ヨハネはイエスの愛した弟子であったため、他の使徒たちをさしおいて、黙示録に記されているような数々の壮大な出来事を啓示される人として選ばれたのである。さて、私が次に示したいのは、

 III. 確かにこれらは偉大な特権ではあるが、それでも、心の中に愛の恵みを生じさせる、神の御霊の通常の働きは、そうしたいかなる特権にもまして、はるかにすぐれた特権である、ということである。それは、預言の霊よりも、異言の賜物よりも、山を動かすほどの奇蹟を行なう賜物よりも大きな祝福である。モーセやエリヤやダビデや十二使徒たちに授けられた、すべての奇跡的賜物にもまさる大きな祝福である。このことを明らかに示す、いくつかの点を考察してみよう。

 1. 救いに至る神の恵みというこの祝福は、その対象の性質に内在する資質である。----魂の内側に真にキリスト者的な気質を生じさせ、そこにおける恵みの働きを活性化する、この神の御霊の賜物は、心の中に座を占めるような祝福、人の心または性質をすぐれたものとするような祝福を授与するものである。実際、人の性質がすぐれているかどうかは、本質的に、そうした祝福の有無で決まるのである。だが、先に述べた超常的な御霊の賜物はそうではない。それらは、すぐれたものではあるが、人の性質そのもののすぐれた部分ではない。それらが性質に内在するものではないからである。たとえば、ある人に奇蹟を行なう賜物が授けられていたとしても、この力はその人の性質に内在する何かではない。真の恵みや聖潔がそうであるようには、人の心そのものや性質そのものに根ざした資質ではない。また、確かに一般的には、こうした預言の賜物や、異言で話すことや、奇蹟を行なうことといった超常的な賜物を有する人々は聖い人々であるのが常であったとはいえ、彼らの聖さは、本質的には、こうした賜物の有無によってはいなかった。こうした超常的な賜物は、その人自身に内在する何かではない。とってつけたようなものにすぎない。すぐれたものではあっても、その持ち主自身の性質のすぐれた部分ではない。美しい外衣のようなもので、着ている人の性質を変化させるものではない。それらはからだを飾る宝石類のようなものだが、真の恵みを持つ人は、いわば魂そのものが宝石とさせられるのである。

 2. 神の御霊は、こうした超常的な賜物を授けることによってよりも、救いの恵みを授けることによって、ご自分を分与なさる。----超常的な御霊の賜物によって聖霊は、人々のうちに、あるいは人々によって、現実の効果を生じさせてくださる。しかしそれは、ご自分の固有の性質をお与えになるという意味で、人々にご自分を分与なさっているわけではない。人は神の御霊から超常的な衝動を脳裏に受けて、何らかの未来が啓示されるかもしれない。あるいは、何か未来の出来事を示すような超常的な幻を与えられるかもしれない。にもかかわらず、そうしたことによっては御霊は全然その聖い性質を、すなわちご自身を分与しておられないことがありうる。神の御霊は、ご自分を私たちに分与することなしに、物事に効果を及ぼすことがおできになる。たとえば天地創造の前に、神の御霊は水の面を動いておられたが、水にご自分を分与していたわけではなかった。しかし御霊がその通常の働きによって、救いに至る恵みをお授けになるときには、御霊は、魂にご自分を分与なさる。ご自分の聖なる性質----すなわち、聖書において神の霊があれほどしばしば、聖霊、あるいは聖なる御霊、と呼ばれるゆえんとなっている性質----を生じさせることで、御霊はご自分を分与なさる。このような効果を生み出すことによって御霊は、魂に内住する生きた原理となり、その対象となる人を霊的な者とするのである。霊的と呼ぶのは、彼のうちに住まい、彼がその性質にあずかる神の御霊にちなんでのことである。実際、恵みとは、いわば魂に分け与えられた御霊の聖い性質そのものなのである。しかし超常的な御霊の賜物、たとえば将来の物事を知ることや、奇蹟を行なう力を持つことは、この聖い性質を含んでいない。むろん神が超常的な御霊の賜物をお与えになるとき、一般的にはそれらとともに、御霊の聖める働きをお与えになるのが常ではないというのではないが、両者が必ず相伴うわけではないのである。そしてもし神が超常的な賜物、たとえば預言や奇蹟その他の賜物だけをお与えになるとしたら、こうしたものだけでは決してその受け手を御霊にあずかる者としたり、その人自身を、すなわち、その人の性質を霊的にすることはない。

 3. 聖徒の心に神の御霊が通常に働きかけて生じさせる恵み、すなわち聖潔こそ、神の霊的なかたちの本質をなすものだが、こうした超常的な御霊の賜物はそうではない。----神の霊的なかたちの本質は、奇蹟を行なえる力でも、未来の出来事を予言する力でもなく、神が聖であられるように聖であることにある。心の中に、神から出た聖い原理を有し、そこから聖く天的な生活に至らせるような働きを受けていることにある。確かに、奇蹟を行なう力を持つということは、キリストに似ることといえなくもない。キリストはそうした力の持ち主であり、おびただしい数の奇蹟を行なわれたからである。「彼は、わたしの行なうわざを行ないます」*(ヨハ14:12)。しかし、それよりもはるかにキリストの道徳的なかたち、キリストの似姿の本質をなしているのは、キリストのうちにあったのと同じ思いを持つことである。キリストを満たしていたのと同じ御霊に満たされた者となること、柔和で心へりくだった者となること、キリスト者的な愛の精神を持つこと、キリストが歩まれたように歩むことである。これが、どれだけ多くの奇蹟を行なうよりも、ずっと人をキリストに似た者とするのである。

 4. 神の御霊の通常の働きから生じさせられる恵みは、神がご自分のいつくまれる、ご自分の子らにだけお授けになる特権だが、超常的な御霊の賜物はそうではない。----先にも述べたように、確かに神は、ごく一般的には、聖徒たち、それも傑出した聖徒たちを選んで超常的な御霊の賜物をお授けになるが、必ずしも常にそうなさるわけではない。こうした賜物が、それ以外の者らに授けられることもある。これは敬虔な者らにも不敬虔な者らにも共通する賜物であった。バラムは聖書において悪人の烙印が押されているが(IIペテ2:15; ユダ11; 黙2:14)、彼はしばらくの間、神の御霊の超常的な賜物を有していた。サウルは悪人であったが、何度となく預言者のひとりであるかのような言動をしたと記されている。ユダはキリストが福音を宣べ伝えさせ、奇蹟を行なわせるために遣わした者らのひとりであった。彼は次のように記された十二人の弟子のひとりであった。「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった」(マタ10:1)。そしてその次の数節では、だれがこの十二弟子であったかが語られ、全員の名前が列挙されている。そして、そこには他の者らに混じって、「イエスを裏切ったイスカリオテ・ユダ」がいるのである。また、8節でキリストは彼らにこう云っておられる。「病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい」。心の内側における神の恵みは、聖徒だけに与えられる聖霊の賜物である。それは神がご自分の特別で格別な愛の対象である者たちだけのためにとっておかれる祝福である。しかし超常的な御霊の賜物は、時として神が愛しておられず、憎んでおられる者らにも授けられるものである。これは、一方が他方よりも無限に尊く、無限にすぐれているという確かなしるしである。神の愛を最もよく示す証拠こそ、最も尊い賜物である。しかし超常的な御霊の賜物は、霊感と奇蹟がふんだんに見られた時代には、神の愛の確かなしるしなどでは全くなかった。預言者たちは、自分が神のいつくしみと愛を受けているという確信として、普通は、自分が預言者であることや、啓示を受けていることを根拠にしてはいなかった。むしろ、自分が誠実な聖徒であることを根拠としていた。ダビデはそのようにしていた(詩15:1-5; 17:1-3および119篇全体を参照)。そして詩篇全体がこのことを証ししている。そのように使徒パウロも、超常的な御霊の賜物にあれほど豊かに恵まれる特権にあずかってはいたが、それらを自分の救われている証拠とするどころか、愛がなければそれらはみな無価値であると明確に云いきっているのである。そして、ここから論じることができるのは、

 5. このように異なる二者から生ずる実と結果を見ても、一方は他方よりも無限にすぐれている、ということである。----永遠のいのちは、福音の約束によれば、常に一方に関連づけられているが、決して他方には結びつけられていない。救いが約束されているのは、御霊の種々の恵みを有する人々であって、単に超常的な賜物を持つ人々ではない。多くの人々は後者の賜物を持ってはいても、地獄へ行くことがありうる。イスカリオテのユダはそうした賜物を持っていたが、地獄に行ってしまった。また、キリストが私たちに告げておられるのは、そうした賜物を持っていた多くの者らが、最後の審判の日には、不法をなす者どもとして、離れて行くよう命ぜられる、ということである(マタ7:22、23)。それゆえキリストは、こうした超常的な賜物をご自分の弟子たちに約束したときには、悪霊どもが彼らに服従するからといって喜ぶのではなく、彼らの名が天に書き記されていることを喜べ、とお命じになったのである。ここからも、一方を持ちつつ他方を持たないことがありうることはわかる(ルカ10:17以下)。明らかなのは、一方は、永遠のいのちを含んでいるがために、他方よりも無限に偉大な祝福である、ということである。永遠のいのちには無限の価値と値打ちがあり、それと確実に結びついているような祝福はすぐれたものに違いなく、いかなる種類の特権にもまさって無限に価値あるものに違いない。人はどんな特権を所有できても、後で地獄に行くなら無意味である。

 6. 人の幸福そのものが、本質的には、こうした超常的な賜物よりも、御霊の通常の働きによって作り出されたキリスト者的な恵みに直結している。----人間の最も高等な幸福は、本質的には聖潔のうちにある。なぜなら聖潔によってこそ、理性を有する被造物は、あらゆる善の源であられる神に結び合わされるからである。そのようにして幸福は、本質的には、神を知ること、愛すること、神に仕えること、また神から出た聖い魂の気質を有し、それを活発に働かせることのうちにあるのである。こうした事柄さえあれば、他に何がなくとも幸福になれるが、これがない場合、他のいかなる楽しみや特権も、人を幸福にはしない。

 7. 人を聖める御霊の通常の働きの実である、神から出た聖い魂の気質は、すべての超常的な聖霊の賜物の目的である。----預言や奇蹟や異言その他の賜物を神がお与えになったのは、まさにこの目的、すなわち、世に福音を伝播し確立するためであった。そして福音の目的は、人々を暗闇から光に立ち返らせ、罪とサタンの力から、生ける神に仕えさせること、すなわち、人々を聖くすることにある。すべての超常的な御霊の賜物の目的は、罪人を回心させ、聖徒たちを聖潔のうちに建て上げることにある。だが、その聖潔とは、聖霊の通常の働きの実なのである。このためにこそ聖霊はキリストの昇天後、使徒たちの上に注がれ、彼らは異言で語る力や、奇蹟を行なう力その他を与えられたのである。またこのためにこそ、非常の多くの他の人々が、その当時、種々の超常的な聖霊の賜物を賦与されたのである。----「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、……として、お立てになったのです」(エペ4:11)。ここに言及されているのは、超常的な御霊の賜物のことである。そして、そのすべての目的を明かしているのがその次の節である。すなわち、それは、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるため」なのである。そして、このキリストのからだを建て上げるということがいかなる種類のことであるかは、16節で示されている。----「成長して、のうちに建てられるのです」。のうちに、というこの「愛」という言葉は、冒頭の聖句にある「愛」という言葉と同一であり、同じことが意味されている。これはIコリ8:1でも云われている。----「愛は人の徳を建てます」。

 しかし目的は常に手段よりもすぐれたものである。これは、普遍的に認められている原則である。なぜなら手段には、目的に従属する以外、それ自体としては何の価値もないからである。それゆえ目的こそ、手段にまさってすぐれたものとみなされなくてはならない。

 8. 超常的な御霊の賜物は、御霊の通常の働きの実である恵みがなければ、何の利益にもならず、その持ち主の罪の重さを増し加えるだけである。----疑いもなくユダの罪の重さは、彼がそうした特権の持ち主であったことによって非常に増し加わったに違いない。また、そうした超常的な賜物を持っていた人々の中から、聖霊に対する罪を犯した者が出たとき、彼らの受けていた特権こそ彼らの罪を赦されざる罪とした主たる理由であった。これは、ヘブ6:4-6から明らかである。----「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです」。この堕落してしまった人々とは、いったんキリスト教信仰を公に告白し、当時のほとんどのキリスト者がそうであったように超常的な聖霊の賜物を受けた後で、信仰を捨てた人々である。彼らはキリスト教の教えを受けた人々、また御霊の一般的な働きを通して、マタ13:20にあるように喜んでみことばを受け入れ、それとともに超常的な御霊の賜物を受けた人々、----「聖霊にあずかる者となり、天からの賜物と、後にやがて来る世の力とを味わった」*人々であった。異言を語り、キリストの御名で預言をし、その御名で悪霊を追い出し、それにもかかわらず、結局は公然とキリスト教を放棄した人々であった。彼らは、キリストを殺した人々がそうしたように、キリストを詐称者と呼ぶ仲間に加わり、そのようにして「自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える」のである。こうした者らについて使徒は、「そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません」、と云っている。このような背教者たちは、そのキリスト教を放棄することによって、自分たちが有していた奇蹟的な力の出所を悪魔に帰したに違いない。このゆえにこそ彼らの状況は絶望的なものとなったのであり、彼らの罪の重さは途方もなく増し加わったに違いない。ここから明らかなことは、救いの恵みは、超常的な御霊の賜物よりも無限の価値があり、すぐれたものだということである。そして、最後に、

 9. 聖霊の通常の働きの実である、救いに至る恵みが、超常的な賜物よりもすぐれていることを示すもう1つのことは、一方はすたれるが、他方はすたれない、ということである。----この議論を使徒は、続く文脈の中で用いて、神から出た聖い愛が超常的な御霊の賜物よりもすぐれていることを示している。----「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます」(8節)。神から出た聖い愛は永遠にわたっていつまでも絶えることがないが、超常的な御霊の賜物は時至ってすたれていくものである。それらは手段としての性格しか持たず、目的が達成されたときには、すたれてしまう。しかし神から出た聖い愛は永遠になくならないのである。さて、この主題の適用としては、以下のようなことが挙げられる。

 (1.) もしも救いに至る恵みが超常的な御霊の賜物よりも偉大な祝福であるなら、疑いもなくそれは、神がこの世で人にお授けになるものの中で最大の特権であり、最大の祝福である、と結論できる。----なぜなら、こうした超常的な聖霊の賜物、たとえば異言や奇蹟や預言その他の賜物は、神が生まれながらの人にお授けになるものの中でも最高の種類の特権であり、世のいかなる時代においても、使徒時代をのぞき、授けられることの非常にまれであった特権だからである。

 これまで述べられたことを熟考するとき、あらゆる疑いを越えて明らかなことは、神から出た聖い気質を魂に生じさせる、心のうちにある救いに至る神の恵みこそ、人がこの世で受けることのできる最も偉大な祝福だということである。いかなる天性の賜物よりも、いかに大きな天性の能力よりも、いかなる訓練を経て得た知力よりも、いかなる博覧強記の知識よりも、いかなる外的富や栄誉よりも、いなかる王や皇帝になることよりも、いかにダビデのごとく羊小屋から全イスラエルの王へと引き上げられることよりも、それは偉大なのである。そして栄華のきわみにあったソロモンのあらゆる財産と栄誉と荘厳さも、これにくらぶべくもないのである。

 ほむべき処女マリヤに神がお授けになった特権は偉大なものであった。神は彼女に、神の御子が彼女から生まれるという特権をお与えになった。御使いたちよりも無限に誉れ高いお方、天と地の創造主にして王なる、世界の偉大な主権者----そのような方が彼女の胎に宿り、彼女から生まれ、彼女の乳をもらうというのは、かつて世に生まれ出た、地上最大の君主の母となることにもまさる偉大な特権であった。しかし、それすらも、心のうちに神の恵みを有すること、----いわば魂の中にキリストが生まれ出てくださること----ほど偉大な特権ではなかった。キリストご自身がはっきりそう教えておられる。----「イエスが、これらのことを話しておられると、群衆の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。『あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。』しかし、イエスは言われた。『いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。』」(ルカ11:27、28)。また一度、だれかから、母上と兄弟たちが話そうとして外に立っていると云われた主は、その機会をとらえて、肉体的に彼の母であり兄弟たちであることに存する関係よりも、さらに大きな祝福となる彼との関係があることを人々にお知らせになった。----彼は云われる。「『わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。』それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。『見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです』」(マタ12:46-50)。

 (2.) ここからわかるのは、この2つの種類の特権を混同してはならない、すなわち、超常的な御霊の奇蹟的賜物めいたものを、恵みの確かなしるしと取り違えてはならない、ということである。----たとえば、ある人の脳裏に、あるとき何か超常的な印象が生じ、それを神から来たもの、将来起こる何かを自分に啓示するものであると考えたとする。もしもそれが本当だとすれば、これは超常的な聖霊の賜物、すなわち、預言の賜物であるといえよう。しかし、ここまで述べられたことから明らかなのは、それを恵みの確かなしるし、あるいは救いに至る何かであると考えることは全くできない、ということである。それが本物であったとしても、そうである。----というのは、実は、近頃そのような主張が往々にしてなされるが、それを単なる妄想以上のものと考えるべき理由が何もないからである。またたとえ、そうした印象が突如脳裏に浮かんだ聖書の聖句によって生じたものだとしても、その事実は何も状況を変えない。なぜなら、脳裡にひらめいた聖書の聖句は、その聖句を目で読んだときに真実であるとわかることを越えて真実ではないからである。聖書を読んでいくうちにある聖句に行き当たり、そのときに----そしていついかなるときも----その聖句がそうしたことが証明しないとしたら、たとえその聖句が突如脳裡に浮かんだとしても、そうしたことを証明することにはならない。なぜなら聖書は、どんなときにも同じことを語っているのである。その言葉の意味は、前後を含めて順々に読んでいこうと突如脳裏に浮かぼうと同じである。それゆえ、もしもだれかがそうした意味を越えたことを何かその言葉から主張するとしたら、その人は正当な理由もないことを云い出しているのである。なぜなら、そうした言葉が突如脳裏に浮かんだからといって、その言葉に、以前はなかったような新しい意味が生ずるわけではないからである。したがって、たとえある人が、聖書のそうした聖句が突如脳裏に浮かんだからといって自分は救われているのだと考えたとしても、もしもその聖句が、聖書に記されている通りの意味ではそのことを証明しなかったり、前後を含めて順々に聖書を読んでいくとそのことを証明しないようなものだったとしたら、その人が救われているという証拠には全くならない。それと同様に、もし人が何か目に見えるような形の幻を見た、あるいは何か声を聞いたと思われるような状況があったとしても、そうしたことを恵みのしるしとみなすべきではない。たとえそれらが本物の、神から来たものだったとしても、それは恵みではないからである。超常的な御霊の働き、たとえば古の預言者たちが受けたような幻や夢を生じさせるような力は、恵みの確かなしるしではない。私たちが恵みの証拠として重きを置くべき御霊の実は、すべて愛のうちに要約される。なぜなら愛は、あらゆる恵みの精髄だからである。それゆえ、自分が救われているかどうかを知るための唯一の方法は、神から出たこの聖い愛が自分の心の中で働いているかどうかを見分けることである。愛がなければ、他にどんな賜物を持っていようと、それらは無に等しいからである。

 (3.) もし救いに至る恵みが超常的な御霊の賜物よりもすぐれているとしたら、教会の後の時代の栄光について聖書がどんなことを語っていようと、そうした時代の人々には超常的な御霊の賜物が与えられるはずだと結論づけることはできない。----これまで多くの人々が支持してきた考えによれば、ユダヤ人が召され反キリストが滅ぼされた後で到来する、教会のそうした栄光の時代には、多数の人々が霊感を受け、奇蹟を行なう力を賦与される、といわれる。しかし聖書がそうした時代の栄光について語っていることは、そうしたことを証明するものでも、十分にありえることと思わせるものでもない。なぜならこれまでのことで示されたように、神の御霊が注がれて、その通常の、救いに至らせる働きがなされ、人々の心をキリスト者的な聖い気質で満たし、神から出たいのちを活性化するように導くとき、それこそ何にもまして栄光ある種類の御霊の注ぎだからである。それは奇跡的な御霊の賜物が注ぎ出されることにまさるもの、はるかにまさるものである。それゆえ、教会にそうした栄光の時代が来るからといって、そのような超常的な賜物が必然的になくてはならないということにはならない。そうした時代は、そのような賜物がなくとも、いまだかつて教会に一度もなかったほどのはるかに栄光に満ちた時代になりうる。たとえ人々が、使徒時代にあったような預言や異言や癒しその他の賜物を持っていなくとも、もしも御霊がその聖める働きにおいていやまさる程度で注がれるのならば、そうした時代が使徒時代にはるかにまさる栄光の時代となれない理由は全くない。なぜならこれは、使徒が明白に主張しているように、さらにまさる道だからである(Iコリ12:31)。この栄光は、キリスト教会の最大の栄光であり、キリストの教会が今後のいかなる時代においても持ちうる最大の栄光である。これこそ教会を、いかに多くの、いかに大きな超常的な御霊の賜物にもまさって、天国における教会に似たものとするものである。天国では愛が完全に支配しているからである。こういうわけで私たちは、こうしたことを踏まえると、また他にいかなることを踏まえても、来たるべきそうした栄光の時代に超常的な御霊の賜物が注がれると期待する理由は何もないのである。なぜなら、そうした時代には、もはや新たな経綸が導入されることも、新たな聖書が与えられることもないからである。同様に、現在ある聖書に何らかの追加や増補がなされると期待する理由も全くない。それどころか、私たちが現在有するこの聖なる書物の巻末には、キリストが再び来られるまで何の追加もなされないであろうことが、暗に示されていると思われる(黙22:18-21参照)。

 (4.) 救いに至る恵みを心に生じさせる聖霊の働きにこれほどの特権が含まれているとしたら、すでにその特権を受け取っている人々は、いかに神をほめたたえ、いかに神のご栄光のために生きるべき理由があることであろうか。----もし私たちが、神を信ずる人々、すなわち、この言葉に尽くせぬ祝福の対象とされた人々がどのような状態にあるかをまともに考えてみさえするなら、私たちは彼らに授けられた恵みの素晴らしさに驚愕しないではいられないであろう。それは考えれば考えるほど素晴らしく、言葉に尽くせぬものに思えてくる。確かに私たちは、聖書の中で処女マリヤや、第三の天にまで引き上げられた使徒パウロに授けられた偉大な特権について読むとき、何と偉大な特権かと賛嘆の念にかられる。しかし結局のところ、それらはこのキリストのようになること、また心にキリストの愛を有すること、という特権にくらべれば無に等しいのである。したがって、このパウロのような祝福を自分も得たいと思う人々は、今までとは心を改め、真剣に考えてみるがいい。神が自分たちに、いかに大きないつくしみをお授けになったことか。また、自分のうちで神がなされたみわざのゆえに、神の栄光を現わすべき、いかに大きな義務を自分たちが負っていることか。自分たちのためのこの祝福を、ご自分の血によって獲得してくださったキリストのご栄光を現わすべき、いかに大きな義務を負っていることか。そして、その祝福のため自分たちの魂に証印を押してくださった聖霊のご栄光を現わすべき、いかに大きな義務を負っていることか、と。そのような人々は、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことか! あなたがた神のあわれみを希望する者たちは、いかに神が自分を引き上げ、高めてくださったか考えてみるがいい。そのときあなたは、神のために生きようと勤勉にならずにいられるだろうか? それとも、キリストのことなどほとんど顧慮せず、キリストに心のすべてを与えず、世の後について歩き、キリストと、キリストへの奉仕と、キリストのご栄光とをないがしろにし、そのことでキリストに恥辱を与えようというのだろうか? あなたは自分自身に対して油断したり、自分の腐敗し、世的で、高慢な性向----あなたに対してこれほど親切であられる神、ご自分の苦難と死という代価を払ってもあなたのためにこれほどの祝福を勝ち取ってくださった救い主から、あなたを引き離しかねない性向----に対して油断したりできるだろうか? あなたは日々、「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか」[詩116:12]、との熱心な問いを発さずにいられるだろうか? あなたのために神は、これ以上、何ができるだろうか? あなたの感謝を得るために、神は他にどんな特権を----これ以上にすぐれた、これ以上に価値ある、どんな特権を授けられただろうか? また考えてみるがいい。いかに現在のあなたが生きているか----いかに彼のためにしていることが少ないか----いかに自己のためにことを行なっているか----いかにこの聖い愛によってあなたの心の中に作り出されているものが少ないことか。いかにあなたを神とキリストのために生きさせ、神の御国の進展のために生きさせようとするものが少ないことか。おゝ、あなたのような者は、自分に与えられた特権の高さを実感していることを、いかに示すべきであろうか! 従順と、服従と、畏敬と、快活さと、喜びと、希望とにおいて明白な神への愛によって、また柔和さと、同情と、へりくだりと、慈悲深さと、機会のあるたびにすべての人に対して善を行なうこととにおいて明白な隣人への愛によって、いかにそれを示すべきであろうか! 最後に、

 (5.) この主題は、新しく生まれていないすべての人々、この恵みと無縁なすべての人々に向かって、この最もすぐれた祝福を自分のものとするよう追い求めよ、と勧告している。----考えてもみるがいい。今のあなたの、この愛を全く欠き、正義から遠ざかり、この世のむなしい物事を愛し、神への敵意に満ちた状態が、いかにみじめであるかを。やがて神が敵のように怒りに燃えてやって来られ、今のあなたの状態に従ってあなたを取り扱い、その激しい御怒りをあなたに向かって注ぎ出すとき、いかにしてあなたは耐えられようか? また考えてみるがいい。あなたはこの愛を持つことができる、ということを。キリストには、それを授ける力も気持ちもおありである。そしておびただしい数の人々がそれを手に入れ、その祝福を受けてきた。神はあなたの愛を求めておられ、あなたにはその愛をおささげしなくてはならない、云い尽くせぬ義務がある。これまで神の御霊は、素晴らしいしかたでこの地に注がれてきた。おびただしい数の人々が回心してきた。見過ごされた家庭はほぼ1つもなかった。ほとんどの家庭で、少なくとも数人は貴人、王、神に仕える祭司、全能の主の息子または娘とされる者が起こされた! では私たちはみなどのような者でなくてならないことか! いかに聖く、真面目で、正しく、謙遜で、慈悲深く、神への奉仕に身を捧げ、隣人に対して誠実な者でなくてはならないことか! 個人としても集団としても、神は私たちを最も豊かに祝福してこられた。ならば私たちは、個人としても集団としても、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民となり、自分たちをやみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを宣べ伝えるのが、当然であろう。「神を忘れる者よ。さあ、このことをよくわきまえよ。さもないと、わたしはおまえを引き裂き、救い出す者もいなくなろう。感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう」[Iペテ2:9; 詩50:22-23]。

愛はすべての賜物にまさる[了]

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