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1. 愛----恵みの精髄

「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません」 Iコリ13:1-3

 この言葉で注目させられるのは、----第一に、ここには何かキリスト者にとって際立って重大なこと、極めて本質的なことが語られており、それを使徒は[英欽定訳では charity]と呼んでいる、ということである。そしてこの愛は、考えてみると、新約聖書の至るところで、キリストによってもその使徒たちによっても力説されている。----実際、他のいかなる美徳にもまさって力説されている。

 しかし、新約聖書の中で用いられている「愛(charity)」という言葉には、日常会話で一般に用いられる場合よりも、はるかに広い意味がある。普段、人が「愛(charity)」という言葉を口にするとき意味しているのは、非常にしばしば、他の人について最善を希望し、最善のことを考え、その言葉やふるまいを善意に解釈する、という心の性向を指している。また、貧しい人々に施しをする性向を意味することもある。しかし、それらはみな、新約聖書中でこれほど力説されている、この愛(charity)という偉大な美徳の個々の枝、あるいは個々の実にすぎない。この言葉が指し示しているのは、正確には、愛(love)、すなわち、ある人を別の人にとって大切に思わせる性向または感情である。 英欽定訳聖書で「愛(charity)」と訳されている原語(agaph)は、「愛(love)」と訳した方がよい。それが、この言葉に正確に対応する英語だからである。それゆえ新約聖書における愛(charity)とは、キリスト者の愛(Christian love)とまさに同じことを意味しているのである。そしてそれは、人々に対する愛を示すために用いられるのがしばしばであるとはいえ、時には神に対する愛を示すためにも用いられている。そのような意味で、この言葉が如実に用いられているのが、この手紙の8章1節である。そこで使徒は、自分の行動をこう釈明している。----「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます」、云々。ここで比較されているのは、知識と愛である。----そして、愛の方がまさるとされている。知識は人を高ぶらせるが、愛は人の徳を建てるからである。それに続く2つの節でより詳細に説明されているのは、知識が普通いかにして人を高ぶらせるか、愛がなぜ人の徳を建てるか、ということである。このとき、第1節でと呼ばれていたものは、第3節では神を愛することと呼ばれている。この2箇所では明らかに全く同じことが語られているからである。そして疑いもなく使徒は、この13章においても、愛という言葉で8章と同じことを意味しているに違いない。ここで彼は8章で比較したのと同じ2つのこと、すなわち、知識と愛を取り上げて比較しているからである。「たとい私があらゆる知識に通じていても、愛がないなら、何の値うちもありません」*。また、「愛は決して絶えることがありません。知識ならばすたれます」*。それゆえ、この箇所の(charity)という言葉によって私たちが理解すべきなのは、疑いもなく、最も広い意味においてのキリスト者の愛(Christian love)である。それは神に対しても、私たちの同胞に対しても向けられる愛なのである。

 またここでこの愛は、きわめて重要で、何よりも大切なものであると語られている。それをより明らかに示しているのが、ここで、

 第二に注目させられる、いかなるものが愛なしにはむなしいと述べられているか、ということである。ここでは、生まれながらの人に属する最もすぐれた資質、最もすぐれた特権、最もすぐれた偉業でさえ、愛がなければむなしいとされている。まず語られているのは、異言による説教や、預言の賜物、あらゆる奥義に通ずること、山を動かすほどの信仰といった、この上もなくすぐれた特権である。次に語られているのは、自分の全財産を貧者に施し、からだを焼かれるために引き渡すというような、この上もなくすぐれた偉業である。いまだかつて、いかなる生まれながらの人も、こうした事柄にまさる特権を受けたり、こうした事柄にまさる偉業を成し遂げたりしたことはない。また、これらは人がこの上もなく頼りにしがちな種類の事柄である。だが使徒は、もし私たちにこれらすべてがあっても、愛がなければ何の値うちもない、と宣言するのである。それゆえ、ここで教えられている教理を一言で云うと、それは、

 救いに伴い、真のキリスト者のまぎれもないしるしとなる、すべての美徳は、キリスト者の愛のうちに要約されている、ということである。これは、この聖句の言葉によって明らかに示されている。なぜなら、愛以外の、生まれながらの人が持ちうる事柄がこれほど多く言及され、そのように言及されたことが特権にせよ偉業にせよ、彼らに持ちうる最高の種類のものであるにもかかわらず、愛がなければことごとく何の役にも立たないと云われているからである。だが、もしそれらに何か救いに伴うものがあるとするとしたら、何らかの役には立つはずである。

 そして、使徒がこれほど多くの、またこれほど高潔なことに言及していながら、愛がなければことごとく何の役にも立たない、と言下に云い切っていることから私たちは、こう結論してよいであろう。すなわち、愛なくして有益なものはこの世に何1つない、と。人がその思い通りのものを手に入れ、思うがままに行なったとしても、愛がなければ無意味である。とすれば、確かに愛ほど偉大なものはなく、何らかの形で愛をうちにふくんでいないもの、愛をうちに持たないものはみな無であり、この愛こそ信仰生活すべてのいのちであり魂ということになる。また、美徳という名を冠しながらこれを持たないものはみな虚ろで、むなしいことになる。

 この教理について語るにあたり、私が最初に注意を向けたいのは、この聖い愛の性質である。その次に私は、この愛に関する先の教理の正しさを示すことにしたい。まず、

 I. 真にキリスト者的な愛の性質について語ることにしよう。そしてここで私が注目したいのは、

 1. 真にキリスト者的な愛はみな、その原理において同一である、ということである。愛は、その現われ方や相手となる対象という点では多種多様かもしれない。また神に対する愛か、人に対する愛かということでも異なるかもしれない。だが、何がその対象であろうと、真にキリスト者的な愛が実践される場合は常に、心の中の同じ原理が土台となっているのである。キリスト者の心の中にある聖い愛と、他の人々の愛は異なっている。キリスト者でない人々が様々な対象に対していだく愛は、全く別々の原理や動機から発していることがありうるし、その目的とするところも異なっているかもしれない。しかし、真にキリスト者的な愛はそれとは違う。それは、いかなる対象に対して向けられた愛であろうと、その原理においては1つなのである。それは心の中の同じ源泉から発したものであり、流れ出た個々の支流の方向は互いに異なっていても、大本は同じなのである。それゆえ、それらはみな、この聖句にあるように、愛という1つの名前でひとくくりにされてしかるべきなのである。このキリスト者の愛が、いかなる対象へ向けて流れ出たものであろうと、1つの愛であることは、次に挙げるような点から明らかである。

 第一に、この愛はみな、心に影響を与えておられる同じ御霊から発している。同じ御霊の息吹から、真にキリスト者的な愛が、神に対しても人に対しても生じているのである。神の御霊は愛の御霊であり、御霊が魂に入るときには、それとともに愛も魂に入っていく。神は愛であり、その御霊によって神が内住しておられる人には、愛もその人のうちに宿るようになる。聖霊のご性質は愛であるため、聖霊がその性質を通してご自分を聖徒たちに分与なさるとき、彼らの心は、聖い愛で満たされるようになる。それで聖徒らは神の性質にあずかる者となり、キリスト者の愛は「御霊の愛」(ロマ15:30)、「御霊による愛」(コロ1:8)と呼ばれており、愛情とあわれみそのものが、あたかも御霊の交わりと同一視されているようにさえ見えるのである(ピリ2:1)。またその御霊は、神に対する愛を人に吹き込むお方でもあり(ロマ5:5)、その御霊の内住によってこそ魂は、神と人とに対する愛のうちにとどまるのである(Iヨハ3:23、24; 4:12、13)。また、

 第二に、キリスト者の愛は、神に対するものであれ人に対するものであれ、御霊の同じ働きによって心の中に作り出されている。神の御霊には、神への愛の精神を吹き込む働きと、人への愛の精神を吹き込む働きという、2つの別な働きがあるわけではない。御霊は、その一方を生み出すとき、もう一方をも生み出しているのである。回心の働きにおいて聖霊は、神から出た性質を人に与えて人の心を新しくされる(エペ4:23)。そのようにして心の中に作り出された、同じ1つの神から出た性質が、神と人への愛になって流れ出すのである。そしてまた、

 第三に、神と人が真にキリスト者的な愛によって愛されるとき、両者は同じ動機によって愛される。神が純粋に愛される場合、それは、神のこの上もない気高さ、そのご性質の麗しさ、特にそのご性質の聖潔さのゆえである。そして聖徒たちが愛されるのも、それと同じ動機----聖潔のため、にほかならない。また、真に聖い愛で愛されるものはみな、同じ神への敬意によって愛される。神への愛は、人に対する真の愛の源泉であって、キリスト者が人々を愛するのは、相手が何らかの点で神に似ており、神のご性質と霊的なかたちを有しているためか、神の子どもまたは被造物であるという、相手と神との関係のためである。----すなわち、神から祝福されている人々としてか、神のあわれみが差し出している人々としてか、あるいは何か別の意味において神を尊重する思いから人を愛するのがキリスト者なのである。もっともキリスト者の愛は、原理においては1つだが、2つの面でさまざまな違いが生じ、それに応じて種々の名前がつけられているということは云い添えておきたい。その1つの面とは、だれに対する愛であるかということ、もう1つの面とは、どのような実践のされかたをするか(たとえば、その程度の深さはどうか)、ということである。そこで次に話を進めたいのは、

 II. 救いに伴い、真のキリスト者のまぎれもないしるしとなる、すべての美徳は、キリスト者的な愛のうちに要約されている、というこの教理の正しさを示すことである。さて、

 1. そう主張できる根拠の1つは、理性が私たちに教えている愛の性質にある。愛の性質についてよくよく考えてみると、2つのことがわかるであろう。----

 第一に、愛によって人は、神に対しても人に対しても、敬意のこもったあらゆる行動へと至らされる。これは明白なことである。神に対するものであれ人に対するものであれ、真の敬意は愛によって成り立つからである。神を真摯に愛する人は、神に対してしかるべきあらゆる敬意を払う気持ちをいだくであろう。また人々は、他にどんな理由がなくとも愛さえあれば、互いにしかるべき敬意を払い合うはずである。神への愛によって人は神を敬い、礼拝し、あがめ、その偉大さとご栄光と主権とを心から喜んで認めるものである。またそのようにして愛は、神に対するあらゆる従順な行為へと至らせるものである。主人を愛するしもべ、主君を愛する臣下は、進んでしかるべき服従と従順をささげる思いをいだくようになるからである。愛によってキリスト者は、神に向かって、子どもが父親に対してとるような態度をとるようになる。困難のさなかにあっても神の助けを求め、神に全幅の信頼を寄せるようになる。それは、私たちが何らかの必要を覚えたり、苦しみに遭ったりするとき、自分の愛する者のもとへ行き、その同情と助けを求めるのが自然であるのと全く変わらない。また愛は神のことばを信じさせ、神を信頼させるようにする。なぜなら私たちは、堅い友情で結ばれた相手の誠実さはなかなか疑う気持ちになれないからである。愛は、神から受けた種々のあわれみのゆえに、神を賛美する思いを起こさせる。それは私たちが自分の愛する同胞から受けた何らかの親切について、感謝の念に満たされるのと全く変わらない。さらに愛は、私たちの心を神のみこころに従わせるようにする。なぜなら私たちは、他人の思いよりは、愛する者の願いの方がかなってほしいと感ずるからである。自然の情として私たちは、愛する者を満足させたいと願い、自分が愛する者の心にかなう者でありたいと願う。そして神に対する真の愛情、真の愛は、心に神の支配権を認めさせ、神が支配者としてふさわしいお方であることを認めさせ、神に服従させるものである。神への愛は、私たちをへりくだった心で神とともに歩ませる。神を愛する者は、神と自分との間にある越えがたい懸隔を認めさせられるからである。そのような者にとっては、神を称揚し、神を何よりも尊重し、神の前でひれ伏すことが当然のこととなる。真のキリスト者は自分を卑めて神が称揚されることを喜ぶ。神を愛しているからである。キリスト者は、神がそのようになされるに値するお方であることを喜んで認め、いと高き方に対する真摯な愛から喜んでその御前で自らをちりの中にはいつくばらせる。

 それと同じく、愛というものの性質をよく考えてみると、愛によって人が隣人に対するあらゆる義務を果たすよう仕向けられることも明らかである。隣人に対して真摯な愛をいだく人は、その愛によって、そうした隣人たちに対するあらゆる正義の行動をとるようになる。----真の愛と友情があるとき私たちは、愛する者らが常に受けてしかるべきものを受けるように心がけ、決して彼らに不正を働いたりしないものである。----「愛は隣人に対して害を与えません」(ロマ13:10)。また同じ愛によって人は、隣人に対して真実をもって接したいという思いにさせられ、いかなる虚言や欺瞞やごまかしも云わないようになる。人は、愛する者をだましたり裏切ったりする気にはなれないものである。なぜなら、そうした仕打ちは相手を敵扱いすることにひとしいが、愛は敵意を滅ぼすからである。それで使徒は、キリスト者の間になくてはならない一体性を論拠として、互いに真実を語りあうよう勧めているのである(エペ4:25)。愛によって人はへりくだった歩みをするようになる。なぜなら、真実の、まことの愛によって私たちは、他人を高く評価し、相手を自分よりまさった者と思うようにさせられるからである。愛は人を互いに敬わせる。なぜなら、だれでも自分の愛する人々のことは高く評価し、敬うのが自然だからである。それで、こうした類の戒めは愛によって成就されるのである。「すべての人を敬いなさい」(Iペテ2:17)。また、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」(ピリ2:3)。愛によって私たちは、神によって自分が置かれた立場に満足し、決して隣人の持ち物をほしがったり、恵まれた隣人をねたんだりしないようになる。愛によって人は、隣人に対して柔和で優しい扱いをするようになる。荒々しく、粗暴で、激した態度をとるのではなく、温和で、穏やかで、親切な接し方をするようになる。恨みつらみに少しでも似たような思いは厳に慎み、抑制する。なぜなら愛とは、何の恨みもふくまない、魂のうちなる優しく、しとやかな性向と情愛だからである。それは、かっとなったり、人に食ってかかったりすることなく、平和を好み、他人から傷つけられても相手を赦す。箴言10:12にあるように、「憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう」のである。

 愛によって人は、隣人が何らかの苦難か災難を身に受けている場合、あらゆるあわれみの行動へとかりたてられる。なぜなら私たちは、生来自分の愛する者が苦しみに遭うとき、あわれみの心をかきたてられるものだからである。愛によって人は貧者に施し、互いの重荷を負い合い、泣く者とともに泣き、喜ぶ者とともに喜ぶようになる。愛によって人は、それぞれの立場や人間関係に応じて互いに負い合っている種々の義務を果たすようになる。愛によって民衆は、その支配者に対するすべての義務を果たすようになり、敬わなくてはならない人を敬い、従わなくてはならない人に従うようになる。また愛によって支配者は、自分の治めている民衆を公正に、真剣に、誠実に支配し、私利私欲からではなく、民の幸福を求める心で治めるようになる。愛によって人々は、教職者に対するしかるべき義務を果たすようになり、彼らの勧めや教えに耳を傾け、神の家において彼らに従い、彼らを支え、自分の魂のため見張りをしてくれている者として彼らのために祈るようになる。また愛によって教職者は、その会衆の魂の益を忠実に、また休みなく求め、やがて申し開きをしなくてはならない者であるかのように、彼らのために見張りをする。愛によって目上の者と目下の者は、互いにふさわしい態度を取り合うようになる。子どもたちは親を敬い、しもべたちは、うわべだけの仕え方ではなく、誠心誠意主人に従うようになる。また主人たちは、そのしもべに対して優しく、あわれみ深い心にさせられる。

 このように愛は、神および人に対する、あらゆる義務へと至らせるのである。そして愛がこのようにすべての義務へと至らせるものである以上、必然的に云えるのは、愛とは、すべての美徳の根幹であり、源泉であり、いわばその集大成だということである。愛こそ、人の心に植えつけられたとき、すべての良きふるまいを十二分に生み出すことのできる唯一の原理である。それで神と人に対するあらゆる正しい性向は、愛のうちに凝縮されており、樹木の果実のように、あるいは泉の流れのように、愛から出ているのである。

 第二に理性が教えているのは、いかなる偉業であれ、いかにもっともらしく見える美徳であれ、そこに愛がなければ不健全で、偽善的なものだ、ということである。もし、人々の行ないに何の愛もなければ、彼らの行動には神または人に対する真の敬意が何もないことになる。宗教は、神に対するしかるべき敬意がない限りは無である。人類のいだいている宗教という観念そのものが、そのような敬意を被造物が造物主に対して払う、あるいは表現する営みということにほかならない。しかしもしそこに真の敬意、すなわち愛がなければ、宗教と呼ばれるすべてはうわべだけの見せかけにすぎず、宗教でも何でもない、そらぞらしく、むなしいものである。このように、もしも人の信仰が、神に対する真の敬意を内側に全く持たないような種類のものだったなら、それはむなしい、と理性は教える。なぜならもしそこに神への愛が何もなければ、神に対する真の敬意は全くありえないからである。ここから明らかにわかるのは、愛は常に真の生きた信仰のうちにふくまれており、信仰の真の、また本来のいのち、魂であり、愛のない信仰は魂のない肉体のように死んだものであり、愛こそは生きた信仰を他のすべてから区別するものなのだ、ということである。しかし、この点については、後でより詳しく語ることにしたい。さらに、神への愛がなければ、神に対して真にほまれを帰すことはありえない。人がだれかにほまれを帰しているように見えても、相手に対する愛がなければ、それは決して心からのものではない。それゆえ一見もっともらしそうなほまれや礼拝がささげられていても、そこに愛がなければ、ことごとく偽善にほかならない。それと同じように、いかなる従順がなされていても、愛がなければそこには何の誠実さもない、と理性は教えている。なぜなら、愛がなければ、いかなることがなされてもそれは自発的なもの、自主的なものではなく、強制されたものでしかありえないからである。さらにまた、愛がなければ、神のみこころに心から服従することもありえず、真実に心底から神により頼み、信頼することもありえない。神を愛さない者は神を信頼しない。決して心から魂を黙って従わせ、自分を神の御手になげかけたり、神のあわれみの御腕にゆだねたりはしない。

 それと同じく理性が教えているのは、人々の間で、隣人たちに対するいかに好ましい態度が見られても、それと同時に、そうした隣人たちに対する真の敬意が心の中にあり、外側の行動が内側の愛によって押し進められているのでなければ、それらはみな受けいられず、むなしいものだ、ということである。さて今述べた2つの事柄を両方まとめて取り上げるところから、すなわち、愛にはすべての美徳を生み出し、神と人とに対するすべての義務へ至らせる性質を持っているということ、また愛がなければいかなる美徳も誠実なものではありえず、いかなる義務をも正しく果たすことはできないということから、おのずとこの教理の正しさがわかってくる。----すなわち、すべての真の、まぎれもないキリスト者の美徳と恵みは、愛のうちに要約されているのである。

 2. 聖書の教えによれば、愛は神の律法にふくまれているものすべて、また神のみことばで要求されている義務すべての要約である。このことを聖書は律法全般について、また律法の二枚の板それぞれについて教えている。

 第一に、聖書はこのことを律法および神のみことば全般について教えている。聖書における律法とは、時として書かれた神のみことば全体を意味している。たとえばヨハネ10:34がそうである。----「あなたがたの律法に、『わたしは言った、あなたがたは神である。』と書いてはありませんか」。また時として律法は、モーセの五書を意味する。たとえば使徒24:14で、「律法」と「預言者たちが書いていること」とが区別されて書かれているような場合である。さらに時として律法は十戒を意味している。人類のすべての義務、また永久に変わることのない普遍の責務として要求されていることすべての精髄をふくむものとしての十戒を、律法と云うことがある。しかし私たちが律法を単に十戒を意味するものととろうと、書かれた神のみことば全体をふくむものととろうと、聖書が私たちに教えているのは、そこで要求されていることすべての精髄は愛だ、ということである。それで、律法が十戒を意味しているときには、こう云われている。「他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです」(ロマ13:8)。また、それゆえにこそ十戒のいくつかが列挙され、10節ではこうつけ加えられているのである。「愛」(すなわち、私たちをそうしたすべての戒めに従わせようとするもの)は「律法を全うします」、と。だが、もし愛が律法の要求するところの精髄でないとしたら、律法の全体が愛によって全うされることはありえないであろう。なぜなら律法が全うされるのは、律法にふくまれ、律法によって命じられていることの総和、すなわち全部に従うときに初めてなされるからである。それで同じ使徒はやはりこう宣言している。「この命令は、きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を、目標としています」、云々(Iテモ1:5)。あるいは、もし私たちが律法をもう少し広い意味でとらえて、書かれた神のみことば全体と考えても、聖書はやはり私たちに、そこで要求されていることすべての精髄が愛であると教えている。マタ22:40におけるキリストの教えによれば、心を尽くして神を愛することと、自分と同じように隣人を愛することという2つの戒めに、律法全体と預言者、すなわち書かれた神のみことばすべてがかかっているのである。なぜなら、そこで律法と預言者と呼ばれているのは、当時存在していた、書かれた神のみことば全体だったからである。

 第二に、聖書は律法の書かれた二枚の板のそれぞれについても同じことを教えている。「心を尽くし……て、あなたの神である主を愛せよ」、という戒めはキリストによって、律法の第一の板の精髄、あるいはたいせつな第一の戒めである、と宣言されている(マタ22:38)。そしてその次の節で、自分の隣人を自分自身のように愛することが、第二の板の精髄であると宣言されている。このことは、ロマ13:9でも云われており、そこには律法の第二の板の戒めが個別に述べられていて、そこにこうつけ加えられているのである。「ほかにどんな戒めがあっても、それらは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』ということばの中に要約されている」。同じことはガラ5:14でも語られている。----「律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という一語をもって全うされるのです」。そして、ヤコブ2:8でも同じことが述べられていると思われる。「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行ないはりっぱです」。ここから明らかに愛は、神が私たちに要求しておられるすべての美徳と義務の精髄であると思われ、それゆえ愛は疑いもなく最も欠くべからざるもの、----真のキリスト教にとって最も重要で、本質的な特徴となるすべての美徳の精髄なのである。すべての義務の精髄であるものは、真の美徳すべての精髄であるに違いない。

 3. 聖書が示すこの教理の正しさは、使徒が私たちに、信仰は「愛によって働く」(ガラ5:6)と教えていることからも明らかである。真にキリスト者的な信仰は、良い行ないを生じさせる信仰である。しかし、そこで生じさせられるすべての良い行ないは、愛によって生じているのである。ここから、現在の主題にとっては、2つのことが明白に見てとれる。

 第一に、真の愛は真の生きた信仰の成分であり、信仰にとって最も欠くべからざる顕著な特徴である、ということである。愛は、単なる思弁的な信仰には全くふくまれていないが、実際的信仰にとってはいのちであり魂である。真に実際的な信仰、すなわち救いに至る信仰は、光と熱の合わさったもの、否、むしろ光と愛の合わさったものであるが、単なる思弁的信仰は熱のない光でしかなく、霊的な熱、すなわち神から出た愛が欠けているために無益な、何の役にも立たないものなのである。思弁的信仰を成り立たせているのは、知性による同意でしかないが、救いに至る信仰は心の同意もふくむものである。前者の類でしかない信仰は、悪霊どもの信仰に何もまさるところがない。悪霊どもには、愛なしに存在しうる限りにおいての信仰があり、信じつつ身震いしているからである[ヤコ2:19]。さて、心による真の霊的な同意は、心の愛と区別できないものである。心でキリストを救い主と同意している人には、救い主としてのキリストに対する愛がある。なぜならキリストによる救いの道に真実に心から同意するということは、その救いの道を愛し、その道に安んずることと区別できないからである。真に救いに至る信仰には選び、あるいは選択するという行為が伴い、それによって魂はキリストをその救い主また相続分として選び、そのようなお方としてのキリストを受け入れ、抱きしめる。しかし、先に述べたように、魂がそのように神とキリストを選びとるということ、選択するということは、愛の行為なのである。----魂の愛が、その最愛の友また相続分としてキリストを抱きしめるという行為なのである。信仰は神があらゆる人に要求しておられる義務である。私たちは信ぜよと命ぜられており、不信仰は神によって禁じられた罪である。信仰は律法の最初の板で要求されている義務であり、その板の最初の戒めで命ぜられている。それゆえここから当然云えるのは、それがあの重大な戒め、「心を尽くし……て、あなたの神である主を愛せよ」にふくまれているということである。----また、愛こそは真の信仰において最も欠くべからざるものだということである。愛が真の信仰のいのちそのものであり中核であることを、きわだって明らかに示しているのが、「愛によって働く信仰」という使徒のこの宣言を、ヤコブ書2章末尾の節と比較してみることである。そこでは、こう宣言されている。「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです」。いかなるものにとっても、動き、活動し、働きを生じさせる性質こそ、そのいのちである。私たちが何かを生きているというのは、そこに活動を続ける何らかの性質を見るからである。人間における、この活動的な働く性質とは、人間が内側に有する魂である。そして、この魂の欠けた人間のからだが死んだものであるのと同じように、行ないを欠いた信仰も死んでいるのである。真の信仰においてそのように働き、活動するものが何かといえば、使徒はガラ5:6で、信仰は「愛によって働く」、と告げている。それで、あらゆる真の信仰において活動し、働いているたましいとは、愛なのである。これは、信仰の魂そのものであり、これがなければ信仰は死んでいるのである。彼が表題の聖句で表現を変えて告げているように、愛のない信仰は、たとえ山を動かすことができるほどのものであっても、何の値打ちもないのである。また、この章の7節で彼が、愛は「すべてを信じ、すべてを期待し……ます」と云うとき言及しているのは、おそらく神の真理と恵みを信じ、希望するという最大級の美徳のことである。この章の他の箇所でも彼は、愛とそれらを比較しているが、それが特に顕著なのは末尾の一節である。「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です」、云々。なぜなら7節で彼は愛を、信仰と希望という他の美徳にまさるものとしている。それは、愛がそれらをふくんでいるからである。彼は云う。「愛は……すべてを信じ、すべてを期待し……ます」。おそらくこれが、使徒の意図していることであって、単に俗間で理解されているように、愛とは隣人についてその最善を信じ、最善を期待するものだ、という意味ではないのである。キリスト教を最も他と峻別するしるしの1つたる、人を義と認める信仰が、神を愛せという偉大な命令の中に要約されているということは、キリストがユダヤ人に向かって語っておられることからも、非常にはっきりと見てとれる(ヨハ5:40-43以降)。

 第二に、信仰は「愛によって働く」という、この使徒の宣言からさらに明らかなのは、キリスト者の心の動きのすべて、その生活の働きのすべては愛から出ている、ということである。なぜなら新約聖書の至るところで語られているのは、あらゆるキリスト者の聖潔はイエス・キリストに対する信仰から始まる、ということだからである。キリスト者のすべての従順は、聖書では信仰の従順と呼ばれている。ロマ16:26にあるように、福音は、「信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた」、と云われる。ここで従順と語られているのは疑いもなく、それに先立つ章の18節で語られていることと同じである。パウロはそこで、「異邦人を従順にならせる」ためのことばと行ないについて語っている。またガラ2:20で彼はこう語っている。「いま私が、この世に生きているのは、……神の御子を信じる信仰によっているのです」。また私たちにしばしば語られているのは、キリスト者は、キリスト者である限り、「信仰によって生きる」、ということである。これは、霊的生活の、恵みから出た聖い実践と美徳はすべて信仰によっている、と云うのと同じことである。しかし信仰はどのようにしてこうしたことがらを働かせるのだろうか? 答えは、ガラテヤ書のこの箇所にある。そこにははっきりと、信仰は、どんな働きを行なうにせよ、によって働くと明記されている。ここから、この教理の正しさは明白に見てとれる。すなわち、キリスト教において、その救いに伴い、そのまぎれもないしるしとなる、すべてのものが根本的な土台とし、その総まとめ、精髄としているものは、キリスト者の愛だ、ということである。

 この主題の適用として、私たちはこれを自己吟味と、教えと、訓告として用いることができよう。まず、

 1. これに鑑みて私たちは自分を吟味し、ここで命ぜられている精神が自分にあるかどうか探ってみよう。神への愛から人への愛が生ずることは、使徒の語る通りである。----「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します」(Iヨハ5:1)。私たちにはこの、神の子どもである者すべてに対する愛があるだろうか? この愛はまた、この愛を持つ者に神を喜ばせ、神への礼拝と賛美に至らせる。天国はそのような者たちの集まりである。----「私は、火の混じった、ガラスの海のようなものを見た。獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々が、神の立琴を手にして、このガラスの海のほとりに立っていた。彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。『あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。ただあなただけが、聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです』」(黙15:2-4)。私たちはこのように神を喜びとし、神への礼拝、その聖なる御名への賛美を喜んでいるだろうか? この愛はまた、この愛を持つ者に、その同胞である人々の益を心から願わせ、そのためになることをしようと努力させる。----「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです」(Iヨハ3:16-19)。この精神、イエス・キリストのうちに宿っていたこの精神は、私たちの心を支配している精神、私たちの日常生活のうちに見られる精神だろうか? さらにこの主題は、

 2. 教えとして用いることができる。さて、

 第一にこの教理が私たちに示しているのは、正しいキリスト者精神とはいかなるものかということである。エルサレムへ向かう途中で弟子たちが、キリストを受け入れようとしなかったサマリヤ人を、天からの火で焼き尽くさせてくださいとキリストに願ったとき、彼は彼らへの叱責としてこう告げられた。「あなたがたは自分たちがどのような霊的状態にあるのかを知らないのです」(ルカ9:55 <新改訳聖書欄外注参照>)。これは、彼らが自分の心を知らなかったという意味ではなく、彼らは、彼の弟子であると公言している者の性格と霊には、いかなる種類の精神が似つかわしく、ふさわしいかを知らず、真にさとってはいなかった。彼が確立するためにやってこられ、今彼らが生きている福音の経綸にふさわしい精神を、彼らは知らなかった、という意味にとるべきである。実際、彼らが多くの点で自分たちの心を知らなかったということはありうるし、事実、彼らはそうした知識に欠けていた。しかしキリストがここで言及されたのは、彼らの自己認識一般の欠如ではなく、彼らが天から火を下してどうのと彼に願ったことのうちに如実に示されていた、ある特定の精神であった。----こうした願いが明らかに示していたのは、彼らが自分の心あるいは性向を知らなかったということよりも、これから確立されようとしているキリスト教の経綸にとって、また彼らが模範となって示すことになっていたキリスト者の人格にとって、いかなる種類の精神や気質が似つかわしいものであるかを彼らが知らないようであったことであった。彼らは、キリストの御国の真の性格について全く無知であることを暴露した。その国は愛と平和の御国となるべきものであった。しかし彼らは、復讐心に燃えた精神がキリストの弟子たる自分にふさわしい精神ではないなどとは全く思っていなかった。このため主は彼らを叱責されたのである。

 そして疑いもなく現在は、この点で叱責されなくてはならない多くの者がある。彼らは、これほど長い間キリストの学び舎におりながら、また福音の教えのもとにありながら、なおも、いかなる種類の精神が真にキリスト者的な精神であるか、またいかなる精神がキリストに従う者、自分たちの生きている経綸にとってふさわしいものであるか、ということについて大きな誤解のもとにある。しかしもし私たちがこの聖句とその教理に注意を払うならば、それがいかなる精神かわかるであろう。すなわち、本質的に、また本源的に、それは聖いキリスト者的な愛の精神だということである。これは、その卓越性のゆえに、まさにキリスト者精神とよばれてよい。新約聖書の中で、私たちの義務および私たちの道徳的状態にかかわる教えのうち、これほど力説されているものは他にないからである。キリストが人々にその義務を教え、ご自分に従う者らや他の者らに勧告や命令として与えられたおことばは、その多大な部分が愛の戒めによって占められている。そして、この甘美な、神から出た美徳に満ちていたことばをその御口から発することによって、主はきわだって明白にそれを私たちに推奨しておられる。また主の昇天後の使徒たちも同じ精神に満ちており、その書簡の至るところで愛と平和、温和さとあわれみ、愛情と親切を勧告し、そうしたものによって神とキリストに対する私たちの愛を表わし、私たちの同胞に対する愛、そして特に主に従う者たち全員への愛を現わすことを命じている。この精神、すなわち愛の精神こそ、神が他のいかなるものにもまして私たちを至らせようと、福音において大きな動機を提示しておられる精神である。福音が知らしめている贖いのみわざは、何にもまして愛する動機を与えてくれる。なぜならそのみわざは、いまだかつて目が見、耳が聞いたことのうちで最も輝かしく、最も素晴らしい愛の現われだからである。愛こそは、福音が神について、またキリストについて語る際に、最も詳細にわたって述べることである。それは、御父と御子の間に永遠に存在していた愛を表に引き出し、その同じ愛が、いかに多くの事柄のうちに明らかにされているかを宣言している。いかにキリストが神の愛し子であられ、神がキリストを常に喜んでおられたか。いかに神がキリストを愛し、仲保者の王国の王座に引き上げ、世をさばくお方として任命し、全人類をその御前に立たせてさばきを受けさせるとお定めになったか。また福音には、キリストが御父に対していだいておられる愛とその愛の素晴らしい種々の実も啓示されている。特にキリストがこれほど多くのわざを行なわれたこと、また、これほど大きな事柄を御父のみこころへの従順ゆえに忍び、御父の偉大な道徳的支配者としての正義と、律法と、権威との栄誉を守られたことにおいて、それは示されている。福音が、いかに御父と御子が愛によって一致しておられたかを示しているのは、ヨハネ17:21-23でキリストが祈っておられる通りに、私たちも同じような精神によって、御父および御子と1つになり、また互いに1つになるためであった。「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです」。また福音は、私たちに神の愛が永遠からのものであることをも宣言して、神がキリストによって贖われた者たちを地の基が置かれる前から愛しておられたこと、神が彼らを御子に与えたこと、また御子が彼らをご自分のものとして愛されたことを思い起こさせている。さらにまた福音は、現在は栄光のうちにある聖徒たちに対する御父および御子の素晴らしい愛をも啓示している。----キリストは彼らがこの世にいる間愛したばかりでなく、最後に至るまで彼らを愛された。そしてこの愛はすべて、私たちが寄る辺なくさまよい歩く無価値な咎人であり、敵さえあったときに差し出されたと語られている。これこそ、いまだかつていかなる場所でも知られず、思い描かれたことのなかった愛である。----「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(ヨハ15:13)。----「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。……しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。……敵であった私たちが……救いにあずかるの……です」(ロマ5:7-10)。

 福音の啓示によって現わされた神とキリストは、愛を身にまとっておられる。恵みとあわれみの御座の上で、いわば愛の玉座につき、甘美な愛の輝きに包まれておられる。愛は、神が着座しておられる御座を取りまく光と栄光である。これこそ、主に愛され、主を愛した弟子であった使徒ヨハネが、パトモス島で見た神の幻の意味するところであると思われる。----「その御座の回りには」、すなわち、神がついておられた玉座を丸く取り囲むようにして、「緑玉のように見える虹があった」(黙4:3)。御座についておられた神は、そのように彼には見えた。美麗な虹の光彩のような、またきわめて目に慕わしく美しい色の宝石である緑玉のような、きわだって甘美で麗しい光の円に囲まれたお方として見えたのである。----そこに表現されていたのは、福音において神を取り囲んでいるかに見える光と栄光が、特に、神の愛と契約の恵みとの栄光であることであった。なぜなら、虹がノアに与えられたのは、それら両者の象徴としてだったからである。それゆえ、ここから明らかなのは、この精神、すなわち愛の精神とは、福音の啓示が特に種々の動機と理由を提示して至らせようとしている精神だということである。そして、これは格別にまた抜きん出てキリスト者的な精神----正しい福音の精神だということである。

 第二に、もしも救いに伴い、真のキリスト者のまぎれもないしるしとなる、すべてのものが本当に、愛のうちに総まとめにされ、凝縮されているのだとしたら、キリスト教の信仰を告白する者は、ここから、自分の体験が真にキリスト者的な体験かどうかを教えられるであろう。もし彼らの体験が真にキリスト者的な体験であれば、愛がそれらの精髄であり実質となるであろう。もし人が真の天来の光を魂に注がれているなら、それは熱を伴わない光ではない。神から出た知識と神から出た愛は相伴うものである。神の事柄について知った人は、常に魂における愛をかりたてられ、愛によって、心を向けるにふさわしいあらゆる対象へと心引き寄せられる。神のご性格について真に発見した人は、神を至高の善として愛し、愛によって心がキリストへと結びつかされ、愛によって魂が神の民と全人類へとあふれ流れ出るようになる。キリストが何物にもまさってすぐれたお方、すべてに十分なお方であることを真に発見するとき、こうしたことがもたらされる。福音の真理を正しく信ずる経験をするとき、そうした信仰には愛が伴う。人は自分がキリスト、すなわち生ける神の御子であられると信ずるお方を愛する。福音の栄光ある種々の教理と約束との正しさがわかったとき、そうした教理と約束は1つ1つが心を捕らえる綱となり、愛によって心を神およびキリストへとたぐりよせるのである。人がキリストを真に信頼し、より頼む経験するとき、彼らは愛によってキリストに頼り、それを喜びつつ、快く魂を黙って従わせつつそうする。花嫁が大きな喜びをもってキリストの陰にすわり、その守りに甘美な心持ちで身をゆだねていられたのは、彼を愛していたからである(雅2:3)。人が真の慰めと霊的な喜びを経験するとき、彼らの喜びは信仰と愛との喜びである。彼らは自分を喜ぶのではなく、神こそ彼らの非常な喜びであるお方である。

 第三にこの教理が示しているのは、キリスト者精神の好ましさである。愛の精神は、だれからも好まれる精神である。それはイエス・キリストの精神である----天国の精神である。

 第四にこの教理が示しているのは、キリスト者生活の快適さである。愛の生活は快適な生活である。理性も聖書もともに教えているのは、「知恵を見いだす人は幸いだ」*ということ、また「その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である」、ということである(箴3:13、17)。

 第五にここから学べるのは、なぜ争いがかくもはなはだしい害悪を信仰にもたらすか、という理由である。聖書によれば、争いにはそうした傾向がある。----「ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがある」(ヤコ3:16)。同じことは私たちの経験からもわかる。争いが生ずると、それはあらゆる善を妨げるように思われる。そして以前は信仰に燃えていたようなところでも、争いはたちまちそれに冷水を浴びせて、消してしまうかに思われ、ありとあらゆる悪しきことが栄え始める。だが、この教理に照らしてみるとき、これらすべての理由ははっきり見てとれる。なぜなら争いは、真のキリスト教のまぎれもない本質すべてを要約したもの、すなわち、愛と平和の精神にまっこうから逆らうからである。それゆえ、キリスト教が、信仰告白者の間でいさかいや争いが絶えない時代には栄えることができないというのも不思議ではない。信仰生活と争いが併存できないのも不思議ではない。

 第六に、そこでここから、いかにキリスト者は、隣人へのねたみや、悪意、そしてあらゆる種類の怨恨に対して警戒し、身を守り続けるべきであろうか! なぜなら、これらはキリスト教の真の本質とはまさに裏返しだからである。キリスト者には、自分たちの行動が信仰の告白と矛盾しないようにし、そうした点で用心深く歩む義務がある。悪感情や恨みやねたみが芽生えたら、その萌芽の段階で抑えつけるべきである。そうした精神を引き起こす種になるような、あらゆることを断固として警戒しなさい。そのような方向へ引っ張っていこうとする気分とは徹底的に戦いなさい。そこへ至らせるようないかなる誘惑をも、可能な限り避けなさい。キリスト者はいついかなるときも、愛の精神を覆し、腐らせ、むしばむようなものに対して警戒を怠るべきではない。人々への愛を妨げるものは、やがて神への愛をも妨げるようになる。なぜなら先に述べたように、真にキリスト者的な愛の原理は1つだからである。もし愛がキリスト教の精髄だとすれば、愛を覆すような物事はみな、きわめてキリスト者にはふさわしくないものに違いない。ねたみ深いキリスト者、意地悪なキリスト者、冷酷非常なキリスト者、などというものは不条理と矛盾の極みである。さながらそれは、暗黒の輝きだの、偽りの真理だのについて語るようなものである!

 第七にここからわかるのは、キリスト教があれほど強く敵を愛し、最悪の敵をさえ愛せよ、と(マタ5:44にあるように)要求しているのも不思議ではない、ということである。なぜなら愛は、キリスト者の気質と精神そのものだからである。それはキリスト教の精髄である。そしてもし私たちが自分の敵をこのように愛するための誘因として私たちの前に置かれているものが、福音において啓示された神およびキリストの、その敵に対する愛であることを考えるならば、私たちが敵を愛し、彼らを祝福し、彼らに善を施し、彼らのため祈るよう求められていることを不思議に思うことはできないであろう。なぜなら私たちは、「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです」[マタ5:45]。

 3. この主題から与えられる訓告は、私たちが愛の精神を追い求め、その精神のうちにさらに成長し、愛のわざに非常に多く富む者となることである。もしも愛がキリスト教においてこれほど重大なものであり、これほどキリスト教のまぎれもない本質的な特徴、しかり、キリスト教の美徳すべての精髄そのものであるとすれば、確かに自らキリスト者であると告白する者たちは愛のうちに生き、愛の働きに富む者となるべきである。なぜなら、愛の働きほどふさわしい働きは他にないからである。もしあなたがキリスト者と名乗っているのなら、あなたの愛の働きはどこにあるのか? もしこの神から出た、聖い原理があなたにあり、あなたを支配しているのなら、それはあなたの生活において愛の働きとなって現われるのではなかろうか? あなたがどんな愛の行為を行なってきたか、考えてみなさい。あなたは神を愛しているか? 何をあなたは神のために、神の栄光のために、この世における神の御国の進展のために行なってきただろうか? また人々の間における贖い主の利益を押し進めるために、あなたはどれだけ自分を否定してきただろうか? あなたはあなたの同胞を愛しているか? 何をあなたは彼らのために行なってきただろうか? こうした点におけるあなたのこれまでの数々の欠陥を考えなさい。そして、あなたが今後、より愛の行為にあふれるようになるとしたら、それがいかにキリスト者として似つかわしいことか考えなさい。神の栄光のためにも、贖い主の王国の利益のためにも、隣人の霊的な益のためにも、自分には何も行なう機会がない、などと云い訳してはならない。もしもあなたの心が愛で満ちているなら、それは必ず表出の場所を見つける。あなたは、あなたの愛を行ないで現わすことが十分できる道を考えつくであろう。泉に水がいっぱいにあふれる時には、それは外の世界へと小川を流れ出させる。愛の原理が真のキリスト者の心における主たる原理であるように、愛の労苦はキリスト者生活の主たる務めである、と考えなさい。あらゆるキリスト者はこうした事柄を考えるべきである。願わくは主が、あなたにすべてのことについての悟りを与えてくださって、いかなる精神があなたにふさわしいものか感じとらせ、あなたの生活をそのような精神に応じた気高いもの、気立ての良いもの、情け深いものとし、あなたを、「ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛」する者としてくださるように。

愛----恵みの精髄[了]

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