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The Scriptures

神のことば、聖書


問2:神は、私たちがいかに神の栄光を現わし、神を喜ぶべきかを示すために、いかなる基準を与えられたか。

答え:旧約新約の両聖書におさめられた神のみことばこそ、私たちがいかに神の栄光を現わし、神を喜ぶかを示す唯一の基準である。

 「聖書はすべて、神の霊感によるもので」、云々(IIテモ3:16)。ここで聖書というのは、神の聖なる書のことである。それは天来の霊感によって与えられている。すなわち、聖書は人間の頭脳がつむぎだしたものではなく、天の神から発したものなのである。女神アルテミスの神体がエペソ人たちの尊崇の念を集めていたのは、これが天から下ってきたと思われていたためであった(使19:35)。ならば聖書は、いやましてあがめられ、尊重されるべきである。それが天からやって来たものであることは確かだからである(IIペテ1:21)。この2つの契約は、神が私たちに語りかけられた2つの唇なのである。

なぜ聖書が Jus Divinum を有する、すなわち、天来の権威を刻印されたものであると思われるのか

 旧約新約の両聖書は、キリスト教信仰全体の土台だからである。もしそれらが天から出たものであることを証明できなければ、私たちが自分の信仰を築き上げている土台は消え失せてしまう。それゆえ私は、この偉大な真理、すなわち、聖書がまさに神のことばであることを努めて証明したいと思う。だが、もし聖書が神から出たのでないとしたら、どこから出てきたのだろうか? 悪い人間たちがその著者であったはずはない。そのような者らの精神が、これほど聖なる文章をしたためるのに用いられるなどということがあるだろうか? そんな者らがこれほど激しく罪の非を宣言するだろうか? 善良な人間たちがその著者であったはずはない。そのような人々が、こうした調子の書物を書けただろうか? あるいは、恵みを有するその人々が、神の御名を騙ったり、自分の頭でひねり出した本に、主の御告げなどと記すことに耐えられただろうか? さらに、天のいかなる御使いもその著者であったはずがない。御使いたちは、福音の奥義の深淵を探り知ろうとしているからである(Iペテ1:12)。これは、彼らが聖書のある部分については無知であることを暗示している。では彼らは、自分たち自身でも完全には理解していないような本の著者であったはずがない。それに、天国のいかなる御使いが、神の名を詐称し、「わたしは……創造する」(イザ65:17)とか、「主であるわたしが言う」(民14:35)などと云うほど傲慢になれただろうか? ここから明らかなように、聖書の由来は聖なるものであって、それは神ご自身以外のいかなる者からも出てはいない

 聖書のあらゆる部分の内容が調和していることを語るまでもなく、7つの力強い議論によって、それが神のみことばであることは証明できるであろう。

[1] その古さ。それは古代からのものである。聖書はその白髪によって尊ばれるものとなっている。現存するいかなる史書も、ノアの洪水以前にまで及んではいない。しかし聖書は、世界が始まって以来の事実について物語っている。時間以前の物事について書き記している。テルトゥリアヌス[160?-?230. カルタゴ生まれの初期キリスト教神学者]はこれを確かな通則としていた。「最も古くからあるもの(id verum quod primum)こそ、最も聖にして真正であると信ずべきである」。

[2] 聖書が神のみことばであることは、それが時代を越えて奇蹟的に保持されてきたことからもわかる。聖書はキリストが私たちの手元に残して行かれた最も貴重な宝石である。そして神の教会は、この天国の公文書を守り続けて、失われないようにしてきた。神のみことばに敵がいなかったためしはなく、そうした敵たちは常に聖書に立ち向かい、おりあらば根絶させようとしてきた。敵たちは、パロがヘブル人の女の子どもについて助産婦たちに法令を発布したのと同じように、聖書について法令を発布し、聖書が誕生するや否や絞め殺そうとしてきた。しかし神は、このほむべき書物を不可侵のものとして今日まで保ってこられた。悪魔とその手先たちは、聖書という灯に轟々と息を吹きつけてきたが、それを吹き消すことは決してできなかった。これは、それが天から灯されたという明らかな証拠である。また神の教会は、いかなる革命や変革が起ころうと、聖書が失われないように保ち続けたばかりか、聖書に混ぜものがされないように保ち続けてきた。聖書の文字は、その原語においては、いかなる変造もなされないまま保持されてきた。聖書はキリストの時代以前に変造されはしなかった。さもなければキリストは、ユダヤ人たちに聖書を調べてみよと告げはしなかったであろう。だが主は仰せになった。「聖書を調べなさい」[ヨハ5:39 <新改訳欄外訳>]。主は、この聖なる泉が人間の思いつきという汚泥で濁らされていないことをご存知だったのである

[3]聖書は、そこに含まれている内容からしても、明らかに神のみことばである。聖書の奥義は、その難解さ、深遠さを思えば、天来の啓示がない限り、いかなる人にも御使いにも知りえなかったであろう。永遠のお方がお生まれになり、天に雷鳴をとどろかせるお方がゆりかごでお泣きになり、星々をつかさどるお方が乳房を吸われ、いのちの君が死なれ、栄光の主がはずかしめを受けられ、罪がその罰を余さず受けながら赦しも余さず受けとるなどという奥義を、もし聖書が啓示していなかったとしたら、一体だれが考えつけただろうか? 同じことが復活の教理についても云える。粉々に崩れ砕けた同じ肉体が、idem numero(同じ個体として)よみがえるというのである。さもなければ、それは創造であって、復活ではないであろう。聖書が明らかにしていなかったとしたら、これほどいかなる人間の探求をも越えた聖なる不可思議が、どうして知られえただろうか? 聖書の内容は、神ならざる何者によっても吹き込まれたはずがないほど善であり、義であり、高潔である。それと同じく聖書は、その聖さによっても神のものであることが示されている。それは、炉で七度も精錬された銀にたとえられている(詩12:6)。神の書にはいかなる誤りも含まれていない。それは義の太陽から出た光線であり、いのちの泉から流れ出した水晶の流れである。いかなる人間の法律や勅令にも腐った部分はあるが、神のみことばには、いかなる臭味もない。それは光彩の極みである。「あなたのみことばは、非常に純粋で」(詩119:140 <英欽定訳>)、葡萄の実から搾られたまま、混ぜ物をされることも純度を落とされることもなかった純粋な葡萄酒に似ている。そのきよさは、他のあらゆるものをきよめるほどである。「あなたの真理によって彼らを聖め別ってください」(ヨハ17:17 <英欽定訳>)。聖書は、他のいかなる書物にも類例を見ないほど、聖さを強調している。それは私たちに、「慎み深く、正しく、敬虔に生活」するよう命じている(テト2:12)。飲酒の行為において慎み深く、正義の行為において正しく、熱心と献身の行為において敬虔であれと命じている。「すべての正しいこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと」*を私たちに勧めている(ピリ4:8)。御霊の剣は悪徳を切り倒す(エペ6:17)。この聖書という塔の上からは、罪の頭に石臼が投げ落とされている。聖書という気高い法は、行動を命ずるだけでなく、種々の感情をいだくことも命じている。それは心に良いふるまいを行なうよう誓わせる。この聖なる鉱脈から掘り出されたものほど聖いものが、どこで見いだされるだろうか? このような書物の著者が、神以外の何者でありえようか

[4]聖書は、その予言によっても、明らかに神のみことばであることがわかる。聖書は来たるべき事がらについて預言しており、そこには、それを通して語る神の声が示されている。預言者は、「処女がみごもっている」、と予告し(イザ7:14)、「油そそがれた者[メシヤ]は断たれる」*、と予告した(ダニ9:26)。聖書は、語られてから多くの時代を経て、多くの世紀を経た後で起こるような事がらについて予告している。たとえば、イスラエルが鉄の炉[エジプト]でどのくらい長く仕えることになるかを、また彼らが解放される日までを、ぴたりと云い当てている。「四百三十年が終わったとき、ちょうどその日に、主の全集団はエジプトの国を出た」(出12:41)。未来の事がらに関するこうした予言----自然な原因は何もなく、偶々そうなったとしか云えない事がらに関する予言----は、それが神から発したものであることを明白に証明している。

[5]聖書を書いた神の人々は、自らの失敗も赤裸々に描き出すほど公平無私であった。歴史を書く人は数あるが、だれが自分の評判に泥を塗りかねないようなわが身の行ないを記録して、自分の面汚しになるようなことをするだろうか? だがモーセは、自分が短気を起こして岩を打ったことを書き記し、そのため約束の地に入れなかったと語っている。ダビデは自分の犯した姦淫と謀殺を物語り、子々孫々に伝える家紋にあえて汚名を塗りつけている。ペテロは、キリストを否定するという自分の腰抜けぶりを物語っている。ヨナは、自分が憤激にかられて口にした、「私が死ぬほど怒るのは当然のことです」、という言葉を記している。確かに、もし彼らの筆先が神ご自身の御手によって導かれていなかったとしたら、決して彼らは、自分自身に恥辱を招くようなことを書きはしなかったであろう。人は普通、自分の汚点を世に暴露するよりは隠そうとするものである。だが聖書の筆者たちは、自分の声名をおとしめている。彼らは自分からあらゆる栄光を取り去り、その栄光を神に帰しているのである

[6]みことばが人々の魂と良心に及ぼしてきた強大な力と効力。みことばは人々の心を変えてきた。ある人々は聖書を読んで全く別人となった。聖なるものとされ、恵みを有する人となった。他の本を読んでも心が暖まることはあるかもしれない。だが、この本を読むことによって心は別の性質に変えられるのである。「あなたがたがキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれたものであることは明らかです」*(IIコリ3:3)。みことばが彼らの心に書き写され、彼らがキリストの手紙となったので、他の人々は彼らのうちにキリストを読みとれるのである。もしあなたが大理石に1つの封印を貼ったとして、その封印が大理石の上に刻印を残すとしたら、その封印には不思議な効能があることになるであろう。そのように、みことばの証印が心に恵みという天の印形を残すとき、そのみことばには、天来の力でしかありえないような力が伴っているに違いない。みことばは彼らの心を励ましてきた。キリスト者たちが泣きながら川辺に座っていたとき、みことばは蜜のように滴り落ちて、甘やかに彼らの元気を回復させた。キリスト者の主たる励ましは、この救いの泉から引き出されている。「それは、聖書の与える励ましによって、希望を持たせるためなのです」*(ロマ15:4)。哀れな魂が今にも気を失いそうになっていたとき、手元には聖書という強壮剤しかなかった。それが病んでいたときも、みことばはその元気を回復させてきた。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」(IIコリ4:17)。魂がだれからも見捨てられたとき、みことばは喜びという黄金の油として滴り落ちた。「主は、いつまでも見放してはおられない」(哀3:31)。主はその摂理を変えることはあっても、その目的を変えることはなさらない。敵のような見えることはあっても、父親としての心を持っておられる。このようにしてみことばには、心を慰める力が含まれているのである。「これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします」(詩119:50)。生命の液が体内の動脈を通って伝えられるように、天来の慰めはみことばの約束を通って伝えられる。さて聖書は、このように心に活気と慰めを与える力を含んでいることからも、明らかに神から出たものであることがわかる。神こそ、こうした慰めの乳をその乳房に満たしてくださったお方なのである

[7]数々の奇蹟が聖書を確証している。奇蹟がモーセや、エリヤや、キリストによって用いられ、その後の長い年月にわたって使徒たちによって行なわれ続けたのは、聖書の真実さを確証するためであった。弱々しい葡萄の木に支柱をあてがうように、こうした奇蹟は、人々の弱い信仰を支えて、たとえ聖書の文章は信じられなくとも、奇蹟は信じられるようにするためのものであった。聖書には、神が水を2つに裂き、海の中に神の民の歩ける通り道を作ったこと、鉄が水に浮かんだこと、注ぎ出しても油が尽きなかったこと、キリストが水から葡萄酒を作り出したこと、盲人を癒したこと、死者をよみがえらせたことが記されている。このようにして神は、聖書が真理であり、天来のものであることに、奇蹟という証印を押されたのである。

 ローマカトリック教徒も、聖書が天来の聖なるものであることは否定できない。だが彼らの主張するところ、聖書は、quoad nos(私たちに関しては)、その天来の権威を教会から受けるとされる。そして、その証明として彼らは、Iテモ3:15の聖句を持ち出す。そこでは教会が真理の土台また柱と云われているからである。

 確かに教会が真理の柱であることは事実である。だが、だからといって聖書がその権威を教会から受けていることにはならない。国王の布告は柱の上に打ちつけられている。柱がそれを、だれにでも読めるように掲げている。だがその布告は、柱からその権威を受けているわけではなく、国王から受けているのである。同じように教会は聖書を差し出しているが、聖書はその権威を教会から受けているわけではなく神から受けているのである。もし神のみことばが、単に教会がそれを差し出しているという理由だけで天来のものであるとしたら、必然的に私たちの信仰はみことばではなく、教会の上に建て上げられるべきものとなるであろう。だが、これはエペ2:20の述べるところとは正反対である。「あなたがたは使徒と預言者という土台(すなわち、教理)の上に建てられており」

聖書の中にあるすべての書物に、同じ天来の権威があるのか

 それは正典と呼ばれる書物だけである。

なぜ聖書は正典と呼ばれるのか

 なぜなら、みことばは信仰の基準であり、私たちの生活を導く規範だからである。みことばはすべての論争の裁判官であり、無謬の岩である。原典から筆写された聖書と合致するものだけが真理として受け入れられるべきである。神学におけるいかなる原理も、聖書という試金石によって試されるべきである。それはどんな物差しも、基準となる原基によって測定されるのと変わらない。

聖書は完全な基準か

 聖書は十分にして完璧な規範であり、その中には救いに必要なことがすべて含まれている。「また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて……救いを受けさせることができるのです」(IIテモ3:15)。聖書は、Credenda、すなわち、私たちが信ずべき事がらを示している。また、Agenda、すなわち、私たちが行なうべき事がらを示している。聖書は私たちに、信仰の精密な模範を与え、神の深い事がらについての完全な教えを与えている。それゆえ、ローマカトリック教徒らが聖書に自分たちの伝承を加えて水増しにし、そうした伝承を聖書と同等のものと考えているのは、自らを罪に定めているのである。トリエント公会議の述べるところ、ローマ教会の伝承は、pari pietatis affectu、すなわち、聖書を受け入れるのと同じほどの敬慕をもって受け入れられなくてはならないという。このようにして彼らは、自らを呪われるべき者としているのである。「もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる」(黙22:18)

聖書は何をその主たる目当て、目的としているか

 それは、救いの道を啓示することである。聖書はキリストを明確に悟らせる。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」(ヨハ20:31)。みことばは、私たちの恵みの真贋を見きわめさせ、私たちの避けるべき岩礁を指し示す航路標識となるために書かれた。みことばは私たちの種々の感情を純化し、活性化するものである。私たちへの訓令集であり慰問状である。私たちを約束の地へ軽々と運んでいくためのものである。

だれが聖書を解釈する権威を持っているのか

 ローマカトリック教徒は、それが教会の権能であると主張する。教会とはどういう意味か、と問うなら彼らは云うであろう。それは教会の首長たる教皇のことである、教皇は無謬なのだ、と。ベラルミーノはそのように云っている。しかしその主張は間違っている。なぜならローマ教皇の多くは、ローマ教皇列伝を著したプラーティナが確言しているように、無知と悪徳にまみれていたからである。教皇リーベリウスは[キリストの神性を否定する]アリウス主義の立場を取ったし、教皇ヨハネス十二世は魂の不滅性を否定した。それゆえ教皇たちは聖書の適切な解釈者ではない。それでは、だれが適切な解釈者なのだろうか?

 聖書そのものが、自らの解釈者たるべきである。あるいは、聖書において語っておられる御霊が、その解釈者たるべきである。金剛石を切り磨けるのは金剛石以外になく、聖書を解釈できるのは聖書以外にない。太陽はその光線によって最もよく自らを現わすが、聖書は理性に向かって自分で自分を解釈する。しかし問題は、未熟なキリスト者がしばしば自分の身丈を超えたところで踏み渡ろうとするような、難解な聖書箇所にかかわる部分である。そこでは、だれが解釈すべきだろうか?

 神の教会は、ある人々を聖書の解説者、また解釈者として任命してきた。それゆえ神は人々に賜物をお与えになってきたのである。世々の教会の牧師たちの中には、きら星のように、謎めいた聖書箇所に光を投ずる者たちがあった。「祭司のくちびるは知識を守り、人々は彼の口から教えを求める」(マラ2:7)。

しかし、それは私たちの信仰を人間まかせにすることではないのか

 私たちはみことばに合致しない限り何物も真理として受け入れてはならない。神は、その教役者たちに曖昧な箇所を解釈する賜物を与えてこられたのと同じように、その民には物事を見きわめる霊をお与えになってこられた。それで彼らは(少なくとも救いに必要な事がらに関する限りは)、何が聖書と一致しており、何が一致していないかを見分けることができるのである。「ある人には預言、ある人には霊を見分ける力……が与えられています」(Iコリ12:10)。神の民は、神から授けられた知恵と明察力によって、真理と過誤を区別でき、何が健全で何がまがいものであるかを識別できる。「ベレヤ人たちは、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」*(使17:11)。彼らは、パウロとシラスが自分たちの教師であったにもかかわらず、自分たちの聞いた教えが果たして聖書と一致しているかどうか、比較考量していたのである。IIテモ3:16

適用1:ここに神のいつくしみ深さを見てとるがいい。神は、自然の光に加えて、私たちに聖なる聖書をゆだねてくださった。異教徒は無知で覆われている。「さばきについて彼らは知っていない」(詩147:20)。彼らには巫女たちの神託はあったが、モーセや使徒たちの書き物はない。いかに多くの者らが、この聖書という輝かしい星が決してのぼったことのない、死の領域に住んでいることか! 私たちには、神のこのほむべき書があって、あらゆる疑いを解決し、いのちの道を指し示してもらえるのである。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか」(ヨハ14:22)。

 神は私たちに、ご自分のみことばを書いて与え、それを私たちの訓令集としておられ、人々からあらゆる弁解の種を取り除いておられる。いかなる人も、自分には光が欠けていたから道を誤ったのだ、と云うことはできない。神はあなたに、あなたの足のともしびとしてみことばを与えておられる。それゆえ、もしあなたが道を誤ったとしたら、それはあなたが故意にそうしたのである。いかなる人も、もし神のみこころを知っていたなら従っていたのに、と云うことはできない。おゝ、人よ。あなたに弁解の余地はない。神はあなたに判断の基準となる規則を与えてくださった。ご自分の指でその律法を書いてくださった。それゆえ、もしあなたが従わなかったとしたら、あなたは何の云いわけもできない。かりにある主人がそのしもべに、自分の意向を書きつけにして渡しておき、いかなる仕事をしなくてはならないかを告げているとする。その場合、もしもそのしもべがその仕事を怠ったとしたら、そのしもべには何の逃げ口上も残されていない。「今では、その罪について弁解の余地はありません」(ヨハ15:22)

適用2:聖書はすべて、神の霊感によるものだろうか? ならば聖書によって次のような人々は非難される。 (1.) ローマカトリック教徒。彼らは聖書の一部を取り去り、そうすることで天国の貨幣からその王を削り取っている。彼らは、聖像崇拝を妨げるからという理由で、その教理問答から第二戒を削除している。また彼らは、聖書の中で自分たちの気にくわないものに出くわすたびに、それにこじつけの説明を施すか、それがうまく行かないと、原文が改変されているのだと云い立てるのが常である。彼らは、代金の一部を残しておいたアナニヤに似て(使5:2)、聖書の一部を民衆に渡そうとしない。だが神のみことばのいかなる部分をも傷つけて読めなくしたり、抹消したりして、私たちを教皇尊信罪に陥らせるのは、神に対する公然たる侮辱である。「この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書……から、その人の受ける分を取り除かれる」(黙22:19)。聖書はすべて、神の霊感によるものだろうか? (2.) ならば、それは無律法主義者たちを断罪している。彼らは旧約聖書を役立たずの、時代遅れのものとして放棄し、それを忠実に信ずる人々を旧約のキリスト者と呼ぶ。だが神は、旧約新約の両方の聖書に、ご自身のご威光を刻印しておられる。神が旧約を廃棄したことが証明されるまでは、それは有効であり続ける。新旧両約は救いが湧き出る2つの泉である。無律法主義者たちはその泉の片方をふさごうとしているのである。聖書の片方の乳房をしぼませようとしているのである。旧約聖書には多くの福音がふくまれている。新約聖書における福音の様々な慰めは、旧約聖書の中にその源がある。メシヤに関する偉大な約束は、旧約聖書の中にある。「処女がみごもっている。そして男の子を産む」。否、さらに云おう。道徳律法は、その一部で福音を語っているのである。----「わたしはあなたがたの神、主である」。ここには福音の純粋な葡萄酒がある。聖徒たちの偉大な特免状、すなわち、神が「きよい水を彼らの上に振りかけ、彼らのうちにご自分の御霊を授けてくださる」*という約束が主として見いだされるのは、旧約聖書の中なのである(エゼ36:25、26)。それで、サムソンが二本の柱を引き抜いたように、旧約聖書を取り去る者たちは、キリスト者の慰めの柱となるものを取り除いているのと異ならない。 (3.) それは熱狂主義者たちを断罪している。彼らは、自分には御霊があると云い立てることにより、聖書をことごとく打ち捨て、聖書は死んだ文字である、自分たちは聖書を越えて生きている、と云う。何という厚かましさであろう! 私たちは、罪を乗り越えない限り、聖書を越えることはできない。御霊からの啓示などについて語るよりは、それを騙かしではないか疑うがいい。神の御霊は規則正しくお働きになる。みことばにおいて、また、みことばによってお働きになる。それで、みことばを越える、あるいは、みことばに反する新しい光があるなどと云い立てる者は、自分自身を惑わし、御霊をののしっているのである。そうした人の光は、光の御使いに変装する者から借りてきたものにほかならない。 (4.) それは聖書を軽んずる者たちを断罪している。これは、何週間も何箇月も、聖書を読まずに平気ですませることできる人々のことである。彼らは聖書を錆びた具足のように打ち捨て、聖書よりは演劇を見たり、小説を読むことの方を好む。この magnalia legis は、彼らにとっては minutulaなのである[律法の重大な事がらは、彼らにとっては取るに足らないことなのである]。おゝ、いかに多くの人々が、午前中いっぱい鏡で自分の顔を眺めることはできても、聖書に目をとめるや否や目が痛み出すことか! 異教徒たちは聖書がないために死んでいくが、こうした人々は聖書を軽蔑するために死んでいく。自分の導き手を軽んずるような者たちは、確かに道を踏み外しているに違いない。自分の種々の情欲の首に手綱をかけながら、それを押さえつける聖書の留めぐつわを決して付けようとしない者たちは、地獄までまっしぐらに引きずられていくのである。 (5.) それは聖書を濫用する者たちを断罪している。これは、この水晶のような清流を、その腐ったこじつけの解釈で濁らせ、毒を投げ入れるという、聖書を曲解する者たちである(IIペテ3:16)。このギリシャ語を直訳すると、彼らは聖書を無理矢理ねじり上げていた。彼らは、聖書と聖書を比較することをせず、それに誤った解釈を施していたのである。たとえば、無律法主義者たちは、「ヤコブの中に不法を見いださず」(民23:21)という聖句をねじまげて、神の民は罪を自由に犯してもよいのだ、なぜなら神は彼らのうちに何の罪も見ないからだ、と推断している。確かに神は、決して復讐の目をもって御民のうちに罪を見ることはなさらない。だが神は、観察する目をもって彼らのうちに罪をごらんになる。神は、彼らのうちに罪を見ても永遠に断罪することはない。だが神は罪を見てお怒りになるし、厳しく彼らを罰しなさる。それが、神によって砕かれた骨について叫んだときのダビデが見いだしたことではなかったろうか[詩51:8]? それと同じように、アルミニウス主義者たちはヨハ5:40の聖句、「あなたがたは……わたしのもとに来ようとはしません」を歪曲して、自由意志を持ち込んでくる。この聖句が示しているのは、私たちがいのちを得ることをいかに神は望んでおられるか、ということであり、罪人たちには今以上のことができる、神から与えられたタラントを活用することができる、ということである。だが、それは自由意志の力を証明することにはならない。というのも、それはヨハ6:44にある聖句、「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」、と相容れないからである。それゆえ、こうした人々はこの聖句を血が滴るほどに堅く絞り上げており、聖書と聖書を比較していないのである。ある人々は聖書を笑いぐさにしている。悲しい気分になると彼らは、聖書を自分たちのリュートか吟遊楽人のように取り上げ、悲しい気分を吹き飛ばそうとする。たとえば、以前何かで読んだことのある酔っぱらいは、自分の杯をぐっと飲み干した後で、仲間に向かってこう呼びかけたという。「油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです」。神を恐れて、このようなことに用心するがいい。エウセビオスが伝えているある男は、ある聖句を冗談に仕立てたとたん、たちまち逆上にかられて狂人になってしまったという。Quos Deus vult perdere, 云々。これはルターの言葉である。「神は、滅ぼそうとお望みになる者たちに、聖書をもて遊ぶにまかせなさる」

適用3:もし聖書が神の霊感によるものであるとしたら、いくつか勧告させてほしい。 (1.) 聖書を学ぶがいい。これは神のみこころの引き写しなのである。聖書の人となり、聖書的なキリスト者となるがいい。「私は聖書の満ち満ちた豊かさをあがめる」、とテルトゥリアーヌスは云う。神の書には、数多くの真理が多くの真珠のようにちりばめられている。「聖書を調べなさい」(ヨハ5:39 <新改訳欄外訳>)。銀の鉱脈を求めるかのように調べるがいい。このほむべき書は、あなたの頭を知識で満たし、あなたの心を恵みで満たすであろう。神はご自分の指によって律法の二枚の板を書いてくださった。神が手ずから書いてくださったものである以上、私たちは労をいとわずそれを読むべきである。アポロは聖書に通じていた(使18:24)。みことばは、天国に行くための私たちの大憲章である。私たちは自分の特免状について無知であってよいだろうか? 「神のことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせなさい」*(コロ3:16)。記憶こそ、みことばを書き留めるべき筆記帳でなくてはならない。聖書のいかなる行にも、ご威光がきらめいている。一例をあげてみよう。「『エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。』『正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。』」(イザ63:1)。ここには崇高で荘厳な文体がある。いかなる御使いがこのように語れたであろうか。ユーニウスは、ヨハネの福音書の一節を読んだだけで回心した。彼はそこに、いかなる人間の修辞法をも越えた威光を認めたのである。聖書の中には旋律がある。これこそ、霊の物悲しさを追い散らす、かのほむべき竪琴である。この竪琴の音を聞いてみるがいい。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです」(Iテモ1:15)。キリストは私たちの肉体を身に帯びただけでなく、私たちのもろもろの罪を身に負ってくださった。また、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタ11:28)。聖書のこの竪琴の何と甘やかに響くことか! 特に、神の御霊の指がこの楽器に触れるときにはなおさらである。聖書の中には神性がある。そこにはキリスト教信仰の精髄が、真髄が含まれている。これは金剛石の岩であり、敬虔の奥義である。聖書の口唇には恵みが注ぎ込まれている。聖書は、信仰や、自己否定や、その他すべての恵みのことを、真珠の首飾りのように語り、キリスト者を飾っている。聖書は信仰者を聖潔へとかりたてる。聖書は来世について扱い、永遠の見通しを一瞥させてくれる! おゝ、ならば、聖書を調べるがいい! みことばに親しむがいい。たとえ私が御使いの言葉を語れたとしても、聖書のいとすぐれた性質を十分に述べ立てることは到底できないであろう。それは霊的な光を燦然ときらめかせる瑠璃であって、そこに私たちは神の栄光を見るのである。それはいのちの木であり、知恵の神託であり、作法の指南書であり、新しく造られた者が生い出る天的な種である(ヤコ1:18)。アウグスティヌスは云う。「旧約新約の2つの聖書は、あらゆるキリスト者が口に含んで霊的な養いを得なくてはならない2つの乳房である」、と。いのちの木の葉は癒しをもたらすためにあった(黙22:2)。そのように、聖書の頁の聖い一枚一枚は、私たちの魂に癒しをもたらすためのものである。聖書はいかなる場合にも有益である。私たちが人々から捨てられたとき、ここには重い心を朗らかにする香ばしい葡萄酒がある。サタンにつきまとわれたとき、ここには彼に立ち向かうための御霊の剣がある。罪というらい病を病むとき、ここにはそれをきよめ、治すことのできる、聖所からの清流がある。おゝ、ならば、聖書を調べるがいい! この知識の木を味わうことには何の危険もない。最初の知識の木の場合、私たちがそれを味わうことのないように、罰が定められていた。「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」(創2:17)。この聖なる書物の木から実をもぎとることには何の危険もない。逆に、この知識の木から取って食べないその時、私たちは必ず死ぬのである。おゝ、ならば、聖書を読むがいい! やがて私たちが聖書から遠ざけられる時がやって来ないとも限らない。

 聖書は畏敬の念をもって読むがいい。自分の読んでいる一行一行は、神の個人的な語りかけであると考えることである。律法のおさめられた契約の箱は純金でおおわれ、レビ人が触れることのないように棒を通してかつがれた[出エ25:10-15]。なぜか。民に恐れの思いを生じさせるためにほかならない。聖書は真剣に読むがいい。それは生死に関わる問題なのである。このみことばによって、あなたは審理を受けなくてはならない。良心と聖書を陪審として神は、あなたに対する訴訟を進め、判決を下すであろう。心をこめて聖書を読むがいい。みことばによってあなたの心が生かされるようにするがいい。みことばのもとに行き、燃え立たされるがいい。「私たちの心は燃えていたではないか」(ルカ24:32)。みことばを、道を示すともしびとするだけでなく、あなたを暖める火とするがいい。聖書を単なる歴史として読むのではなく、神からあなたに送られた愛の手紙として読むがいい。それはあなたの心を感激させるであろう。みことばを書かれたのと同じ御霊が、みことばを読むあなたを助けてくださるように祈るがいい。神の御霊があなたに、神のおきての素晴らしい事がらを示してくださるように祈るがいい。神はピリポに、「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」、と云われた(使8:29)。そのように、神の御霊が、ご自分のみことばという馬車に伴って行かれるとき、それは力強く働くのである

 (2.) 次に、書かれたみことばを尊ぶように勧告する(ヨブ23:12)。ダビデはみことばを黄金よりも重んじた。聖書の1ページを与えられるためとあれば、殉教者たちは何を差し出したことであろう! みことばは、素晴らしい値うちの真珠たるキリストが隠されている畑である。この聖なる鉱山で私たちが掘り当てるのは、金の鉱脈一筋ではなく、栄光の重みである。聖書は私たちに光明を与える、聖なる洗眼剤、あるいは目薬である。「命令はともしびであり、おしえは光であ……る」(箴6:23)。聖書は、私たちが新しいエルサレムへと航海するために用いる海図であり羅針盤である。それは、万病に効く強壮剤である。種々の約束は、息も絶え絶えな霊を元気づける、いのちの水にほかならない。罪が悩みとなっているだろうか? ここに聖書の強壮剤がある。「咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます」(詩65:3)。あるいは、ヘブル語を直訳すれば、「あなたはそれを覆われます」。外的な患難があなたの心を乱しているだろうか? ここに聖書の強壮剤がある。「わたしは苦しみのときに彼とともにい」て、ただ見守るだけでなく、支えの手を差し伸ばそう(詩91:15)。このように、さながら契約の箱の中にマナがとっておかれたように、聖書という箱の中には、種々の約束がたくわえられているのである。聖書は私たちに知恵を与える。知恵は天上の紅玉である。「私には、あなたの戒めがあるので、わきまえがあります」(詩119:104)。なぜエバは、善悪を知る木の実を食べたくなったのか。「それは人を賢くするという木であった」*(創3:6)。聖書は人に自分を知ることを教える。聖書はサタンの罠や策略をあばく(IIコリ2:11)。「聖書はあなたに知恵を与え……るのです」(IIテモ3:15)。おゝ、ならば聖書を深く尊ぶがいい。かつてエリザベス女王について読んだところによると、彼女はその戴冠式の時、自分に差し出された聖書を両手で受け取り、それに口づけし、胸に抱きしめて云ったという。この本こそ常に私の最も大きな喜びでした、と

 (3.) 聖書が神の霊感によるものである以上、それを信ずるがいい。ローマ人は、自分たちの法典に信憑性を与えようとして、それがローマの神々によって霊感されたものだと書き残している。おゝ、みことばを信ずるがいい! それは、神ご自身の口から吹き出されたものなのである。なればこそ、聖書を信じない者たちは冒涜の罪を犯しているとされているのである。「私たちの聞いたことを、だれが信じたか」(イザ53:1)。もしあなたが、聖書の語っている栄光の報いを信じているとしたら、自分の選ばれたことを確かなものにしようとするはずではなかろうか? もしあなたが、聖書の語っている地獄の苦しみを信じているとしたら、罪に怖気を振るい、心で身震いするはずではなかろうか? しかし人々は半ば無神論者であって、みことばにほとんど信用を置かないため根深い不信心を持ち、その生活に暗い影を落としているのである。あなたは聖書を十分に理解するようにし、心で聖書を堅く信ずるようにするがいい。ある人々の考えるところ、もし神が、天国から御使いをひとり遣わして、そのみ思いを宣言させるとしたら、自分は神を信ずるという。あるいは、もし神が、だれかひとり断罪された者を遣わし、炎の海に満ちた地獄の苦悶を宣べ伝えさせるなら、自分は信ずるという。しかし、「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」(ルカ16:31)。賢明きわまりない神は、ご自分のみ思いを私たちに知らせるための最適の手段は書き物によることであるとお考えになったのである。それで、みことばによって罪を確信しないような者たちは、みことばによって審かれることになるのである。聖書を信ずることはきわめて重要である。それによって私たちは誘惑に抵抗することができる。「神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです」(Iヨハ2:14)。聖書を信ずることは、私たちの聖化に寄与するところ大である。それゆえ、御霊による聖めと、真理による信仰とはひとくくりにされているのである(IIテサ2:13)。もし書かれたみことばを信ずることがなければ、それは水の上に書かれた文字のようなもので、何の跡も残らない

 (4.) 書かれたみことばを愛するがいい。「どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう」(詩119:97)。アウグスティヌスは云う。「主よ。私が聖書を純粋に喜ぶようにさせたまえ」。クリュソストモスは聖書を庭園にたとえ、あらゆる真理は芳しい花々であり、それを私たちは胸につけるのではなく、心にとどめるべきであるという。ダビデはみことばを、「蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い」とみなしていた(詩19:10)。聖書には喜びを生み出すものがある。聖書は私たちに富に至る道を示してくれる(申28:5; 箴3:10)。長命への道を示してくれる(詩34:12)。御国への道を示してくれる(ヘブ12:28)。ならば私たちは、聖書を読むことに費やした時間を、何にもまして甘やかな時間とみなしてよいであろう。預言者とともにこう云ってよいであろう。「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました」(エレ15:16)

 (5.) 聖書に従うがいい。聖書的な生き方をしようではないか。おゝ、願わくは、聖書が私たちの生活の上に印字されているのが、だれの目にも見えるようになるように! みことばが命じていることを行なうがいい。従順は、この上もなくすぐれた聖書注釈である。「私はあなたの真理のうちを歩みます」(詩86:11)。みことばを、あなたが自分の生活を合わせる日時計とするがいい。もしも私たちが聖書にのっとって自分の言葉や行動のすべてを整えないというのなら、聖書を持っていてもそれが何の足しになるだろうか? もしもある大工が自分の定規を肌身はなさず持ち歩いていたとしても、それを背中に貼りつけたまま、自分の工作物を測ったり、直角にしたりするのに用いないとしたら、何の足しになるだろうか? それと同じく、もし私たちにみことばの定規があるとしても、それを用いることなく、それによって自分の生活を統制することがないとしたら、何の足しになるだろうか? いかに多くの者が、その定規からはずれたり、それたりしていることか! みことばは、慎み深さと自制を教えているが、彼らは酩酊している。貞節で聖くあるように教えてるいるが、彼らは俗悪なことをしている。彼らは、その定規からてんでかけ離れている! 聖書と正反対の生き方をしている人々、これはキリスト教信仰にとって何と恥ずべきことであろう! みことばは、「私たちの足のともしび」と呼ばれている*(詩119:105)。その光は、私たちの目にとって、その見え方をただす光であるばかりでなく、私たちの足にとって、その歩み方をただす光でもあるのである。おゝ、ぜひとも聖書的な生き方をしようではないか

 (6.) 聖書のために戦うがいい。争いを好むべきではないが、神のことばのためには戦うべきである。この宝石はやすやすと手放すには、あまりにも貴重である。「それを見守れ。それはあなたのいのちだから」(箴4:13)。聖書は、幾多の敵たちによって取り巻かれている。異端者は聖書に逆らって闘っている。それゆえ私たちは、「聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦う」のでなくてはならない(ユダ3)。聖書は私たちが天国へ行くための証明証書である。自分の証書を手放してよいものだろうか? 古の聖徒たちは、真理にとって、その主唱者でもあり、殉教者でもあった。彼らは、自分の生命を落とすことになっても、聖書を握って離さなかった

 (7.) 聖書ゆえに神に感謝を捧げるがいい。神がそのみこころを私たちに告げてくださったばかりでなく、それを書き物にして知らせてくださったのは、何というあわれみであろう! 古の時代に神は、そのみこころを種々の幻で啓示なさったが、書かれたみことばの方がはるかに確かに神のみ思いを知ることのできる方法である。「私たちは……天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています」(IIペテ1:18)。悪魔は神の猿真似をし、光の御使いに変装することができる。偽りの啓示で人を欺くことができる。聞くところによると、ある人は、アブラハムのように、自分の子どもを神にいけにえとせよとの声を聞いたと思い込み、この悪魔から出た衝動に従って、わが子を殺してしまったという。このようにサタンは、天来の啓示のかわり惑わしを示して人々を欺くのである。それゆえ私たちは、神がそのみ思いを私たちに啓示するのを書き物によって行なってくださることを神に感謝すべきである。私たちは、自分が何を信ずべきかわからないような疑惑の中に宙吊りにされてはおらず、範とすべき無謬の基準があるのである。聖書は私たちを天へと導く北極星であって、私たちが踏むべき一歩一歩を示してくれる。私たちが道を誤る際には、私たちを教えさとしてくれる。私たちが正しい道を行く際には、私たちを励ましてくれる。そして、感謝すべきことに、聖書は読んですぐわかるように、訳されているのである

 (8.) 自分の良心にみことばの力と権威が及ぼされたのを感ずるときには、神の際だってすぐれた恵みをたたえるがいい。ダビデとともにこう云えるときには、賛美するがいい。「まことに、みことばは私を生かします」(詩119:50)。キリスト者よ。神をほめたたえるがいい。神は、聖さの基準としてご自分のことばをあなたに与えてくださっただけでなく、聖さの原理としてご自分の恵みをも与えてくださったのである。神をほめたたえるがいい。神は、そのみことばをお書きになっただけでなく、その証印をあなたの心に押し、それを有効なものとしてくださったのである。あなたは聖書が天来の霊感によるものだと云えるだろうか? 自分の心の中でそれが生きて働くのを感じているがゆえに、そう云えるだろうか? おゝ、無代価の恵みよ! 神がそのみことばを送ってあなたを、他のだれでもない、あなたを癒してくださるとは、何たる恵みであろう! 他の人々にとっては死んだ文字でしかない同じ聖書が、あなたにとっては、いのちの香りであるとは、何たる恵みであろう!

神のことば、聖書[了]

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