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Man's Chief End

人間の主たる目的


問1:人間の主たる目的は何か。

答え:人間の主たる目的は、神の栄光を現わし、永遠に神を喜ぶことである。

 ここには人生の2つの目的がはっきりと示されている。それは、I. 神の栄光を現わすこと。II. 神を喜ぶこと。この2つである。

I. 神の栄光を現わすこと。「それは、すべてのことにおいて、神があがめられるためです」(Iペテ4:11)。神の栄光こそ、私たちの全行動をつらぬくべき銀の糸である。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」(Iコリ10:31)。自然界にも人間界にも、目的もなく存在しているものは何1つない。ところが、理性ある存在である人間は、自分で自分に何らかの目的を課して生きなくてはならない。そしてそれは、世において神の栄光を高めるという一事たるべきである。目的もなく生きるくらいなら死んだ方がよい。ここに宣言されているのは、あらゆる人は神の栄光を現わすために生きなくてはならないという偉大な真理なのである。

 ところで、神の栄光を現わすということは、聖三位一体のすべての位格の栄光を現わすということである。私たちは、私たちにいのちを与えてくださった父なる神の栄光を現わさなくてはならない。また、私たちのためいのちを捨ててくださった子なる神の栄光を現わさなくてはならない。そして、私たちのうちに新しいいのちをつくりだしてくださる聖霊なる神の栄光を現わさなくてはならない。私たちは、三位一体の神にひとしく栄光を帰さなくてはならないのである。

 しかし、一口に神の栄光といっても、神の栄光とは何なのか、と疑問に思う人もあるかと思う。

 この栄光には2つある。[1] 1つは、もともと神が、ご自身のうちに持っておられる栄光である。太陽にとって光がつきものであるように、栄光は神の根本的な性質にほかならない。神は「栄光の神」と呼ばれる(使徒7:2)。栄光は神性のきらめきである。それがあまりにも自然なので、栄光を持たぬ神など神でないとすら云える。被造物なら、栄誉がなければ存在しえないということはない。国王は、王冠と王服が取り去られても、人であることをやめるわけではない。王としての装飾を失っただけである。しかし、栄光は神のご本性の根幹をなす部分であって、栄光のない神などありえない。栄光こそ神のいのちである。この栄光には何もつけ加えることができない。これは無限の栄光だからである。この栄光を神は最もいとおしみ、決して手放すことがない。「わたしはわたしの栄光を他の者には与えない」(イザ48:11)。神は御国の子らに、知恵や、富や、名誉など、一時的な祝福はお与えになる。救いの恵みや、神の愛、天国など、霊的な恵みもお与えになる。しかし、神性の精髄である栄光、これだけは他の者に与えることがない。エジプト王パロは、自分の指から指輪を抜いてヨセフに与え、金の首飾りまでかけさせたが、王位だけは手放さなかった。「わたしはただ王の位でだけあなたにまさる」(創41:40 <口語訳> )。そのように神も、御民に多くの恩顧を与え、相続の分を与え、キリストの栄光の一部、すなわちその仲保者としての栄光すら、彼らに着せてくださるが、ただご自分の本質である栄光だけはお渡しにならない。神は「王の位において」まさるのである。

[2] もう1つは、神に帰される栄光、すなわち神に造られたものが神にささげる栄光である。「その御名にふさわしい栄光を主に帰せよ」(I歴16:29 <口語訳>)。「自分のからだと霊とをもって、神の栄光を現わしなさい」(Iコリ6:20 <英欽定訳>)。これが私たちが神にささげる栄光である。それは、私たちがこの世の中で御名を高め、他の人々の目に神を大ならしめることにほかならない。それは、「私の身によって、キリストのすばらしさが現わされる」ことである(ピリ1:20)。

神の栄光を現わすとはどういうことか

 神の栄光を現わすとは、4つのことをいう。1.称賛。2.崇拝。3.愛情。4.服従。この4つである。これこそ、天の主君に対して私たちが年々歳々おさめなくてはならないみつぎものにほかならない。

[1] 称賛。神の栄光を現わすとは、神を尊び敬い、何にもまさって素晴らしいお方であるとみなすことである。「主よ。あなたはとこしえに、いと高き所におられます」(詩92:8)。「あなたは全地の上に、すぐれて高い方。すべての神々をはるかに抜いて、高きにおられます」(詩98:9)。神のうちには、驚嘆と歓喜を呼び起こすすべてのものがある。そこには、あらゆる美がきら星のようにきらめいている。神こそ prima causa、すなわち、万物の根源にして源泉、被造世界に栄光をそそいでおられるお方である。この神をあがめるとき、私たちは神の栄光を現わしているのである。神の属性、すなわち、その神聖なご性質から燦然と射しいずる輝きをあがめるとき、また神の約束、すなわち、無代価の恩寵を宣する大憲章、高価な真珠を秘めた霊の宝石箱である御約束をあがめるとき、そして御手の「指のわざ」(詩8:3)と呼ばれる天地を見て、世界を創造された御力のくすしさ、御知恵の尊さをあがめるとき、私たちは神の栄光を現わしているのである。このように神の栄光を現わすとは、心の中に神をほめたたえる思いをいだくことである。何にもまして神を卓越したお方とみなし、この岩の以外のところでダイヤモンドを見つけようとしないことである。

[2] 神の栄光を現わすとは、神を崇拝すること、すなわち神を礼拝することでもある。「御名の栄光を主に帰せよ。聖なる装いをもって主を拝め」(詩29:2 <口語訳> )。私たちが何かを拝する場合には、二通りある。(1)身分ある人々に対して払う礼儀上の拝礼。「アブラハムは立って、その地の人々、ヘテ人にていねいにおじぎをした」(創23:7)。敬虔さと慇懃さは相反するものではない。(2)不可侵の王権として、神にささげられる神聖な礼拝。「民はみな、手を上げながら『アーメン、アーメン。』と答えてひざまずき、地にひれ伏して主を礼拝した」(ネヘ8:6)。この神聖な礼拝の方は、神は他の何者にも譲りわたすことを許されない。これは神の目のひとみ、神の王冠の宝玉である。何人もこの神聖な礼拝に近づき、これを冒すことのないように神は、かつていのちの木に対してされたように[創3:24]、ケルビムと炎の剣をもってこれを守っておられる。神への礼拝は、神ご自身がお定めになった仕方にのっとっていなくてはならない。そうしない者は異火をささげているのである(レビ10:1)。主はモーセに命じて幕屋を作らせたとき、「よく注意して、山で示される型どおりに作れ」、と云われた(出25:40)。型として示されたものは何1つはぶいてはならず、それ以外には何1つつけ加えてはならなかった。もし神が、ご自身の礼拝所についてすら、これほどまで綿密に正確を求められるとするなら、まして礼拝の内容については、どれほどの厳密さが要求されるであろう。云うまでもなく、礼拝においては、あらゆるものがみことばによって命ぜられた型に従っていなくてはならない。

[3] 神を愛すること。これもまた、私たちが神にささげる栄光の一部である。神は、ご自身を愛する者を、ご自身に栄光を帰す者とみなしてくださる。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申6:5)。愛にも二種類の愛がある。(1)1つは、amor concupiscentiae、すなわち、貪欲な愛である。これは利己的な愛であって、自分に親切にしてくれる人だけ愛するような場合をいう。考えようによっては、悪人も神を愛していると云えないことはない。神によって豊かな収穫が与えられ、杯に葡萄酒を満たされでもすれば、そういう気分にもなろう。しかし、これは神を愛するというよりは、神の祝福を愛しているのである。(2)もう1つは、amor amicitiae、すなわち、友への愛である。これは喜びの愛であり、人が自分の友を喜ぶときの愛である。これこそ、真に神を愛する愛である。これは、貴重な財宝をあこがれ求めるように、神を慕い求める愛である。またこれは、あふれるように豊かな愛である。ぽとぽと落ちるしずくではなく、滔々と流れる水流である。この愛は、ほかの何物にもくらべようのない最高の愛である。私たちは、私たちの愛の最上の部分、私たちの愛の精華を神にささげなくてはならない。「私は香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの果汁をあなたに飲ませてあげましょう」(雅8:2)。もしも花嫁が、それよりもさらに香り高く、さらに甘く芳醇な葡萄酒を持っているなら、キリストはきっとその美酒を召し上がってくださるにちがいない。これは激しく、熱烈な愛である。真の聖徒はみなセラフィムであり、神への聖い愛に燃えている。花嫁は、amore perculsa、気も遠くならんばかりに、「愛に病んで」いた(雅2:5)。このように、神を愛することは神の栄光を現わすことである。私たちの幸福の最も大きな部分を占めるお方こそ、私たちの最も大きな愛を受けるお方なのである。

[4]神に従うこと。それは神に自分の身をささげ、神の御用をつとめるために帯をしめて万全の備えをしていることにほかならない。天の御使いたちはそのようにして神の栄光を現わしている。彼らは常に御座の前に仕えており、いつでも喜んで神のご命令を聞こうとしている。彼らが翼を広げたケルビムとして現わされているのはそのためである。これは、彼らがどれほど素早く服従するかを象徴しているのである。神の栄光を現わすには、神への奉仕に身も心もささげつくすことである。頭を使って神のために学び、舌を使って神を弁護し、手を使って神の民を助けることである。キリストのもとを訪れた賢者たちは、単にキリストを伏し拝んだだけでなく、黄金と没薬をささげた(マタ2:11)。そのように私たちも、ただひれ伏して神を礼拝するだけでなく、黄金の従順をささげなくてはならない。神の栄光を現わすとは、わき目もふらず一心に神への奉仕にはげむこと、神の福音の旗のもとに戦い、ダビデがサウル王に云ったように、「このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう」、と申し上げることである(Iサム17:32)。

 良いキリスト者は、太陽に似ている。太陽は熱を放射するだけでなく、日の道に従って世界を行き巡る。そのように神の栄光を現わすキリスト者も、神への愛に思いを燃やすだけでなく、自分のなすべき道を進み、従順の軌道をまっすぐにつき進むのである。

なぜ神の栄光を現わさなくてはならないのか

[1]神は、私たちにいのちを与えてくださったお方だからである。「主が、私たちを造られた」(詩100:3)。私たちは、自分の命を救ってくれたひとには、はかりしれぬほどの恩義を受けたと感ずるものである。では、私たちにいのちを与えてくださった神の恩義はいかほどであろう!  私たちのいのちの息は、神から出たものである。いのちだけでなく、人生のありとあらゆる慰めは神の賜物である。神は、人生に甘みをつける香料として、私たちに健康を与えてくださっている。また、いのちのランプをともす油として食物を与えてくださっている。では、私たちの受けているすべてのものが神の恩恵の賜物であるからには、私たちは神の栄光を現わすのが当然ではなかろうか。神によって生かされている私たちは、神のために生きるべきではなかろうか。「というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです」(ロマ11:36)。私たちの持てるすべては神の豊かさから出ており、私たちの持てるすべては神の無償の恩恵から出ている。それゆえ、すべては神のためにあらねばならない。すなわち、「どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように」、と祈るのが当然である。神は私たちに恵みを賜わるお方であるばかりでなく、私たちの源泉なるお方でもあられる。さながら海水が蒸発して雨となって生じた川が、やがて再びその銀の流れをことごとく海の中へと流し込んでいく。それと同じである。

[2]神は万物をご自分の栄光のために造られたからである。「主はすべてのものを、ご自分の目的のために造られた」(箴16:4)。つまり、すべてを「ご自分の栄光のため」造られたということである。国王が物品や商品に課税するように、神は一切のものからご自身の栄光をお取り立てになる。悪人からさえ、ご自身の栄光を引き出される。彼らが神に栄光を帰そうとしなければ、彼らを押しつぶしてでも栄光を手にされる。「わたしはパロとその全軍勢、戦車と騎兵を通して、わたしの栄光を現わそう」(出14:17)。しかし特に神は、敬虔な人々をお造りになることによってご栄光を現わされる。彼らは神への賛美を奏でる生きた楽器なのである。「わたしのために造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝えよう」(イザ43:21)。確かに神の栄光そのものに何かをつけ足すことはできないが、その栄光をほめたたえることはできる。天上で神の栄光をいやますことはできないが、地上の人々の思いの中で神を引き上げることはできる。神が聖徒らを子としてご自分の家族のうちに迎え入れ、王である祭司とされたのは、彼らが、自分たちを召してくださった方への賛美を高らかにほめ歌うようになるためであった(Iペテ2:9)。

[3]神の栄光は、それ自体で価値ある、いとすぐれたものだからである。この栄光は人の思いも御使いの思いも超越している。神の栄光は神の至宝であり、神のあらゆる富がおさめられている。「私のところには何が残っていますか」(士18:24)というミカの言葉のように、神にないものがこれ以上何かあるだろうか。神の栄光は天よりも尊く、全人類の魂の救いよりも尊い。たとい地上の諸王国が転覆し、人や御使いが絶滅するとしても、神の王冠の宝玉が一個でも失われ、神のご栄光の光の矢が一筋でも失われるよりはましである。

[4]人間以下の被造物、人間以上の被造物が神に栄光を帰しているというのに、人間だけが、のうのうとあぐらをかいておれるだろうか。万物が神の栄光を現わしているというのに、人間だけ例外なのであろうか。そんなことなら、人間など造られなかった方がよかったであろう。(1)人間以下の被造物は神の栄光を現わしている。いのちを持たぬ被造物も、もろもろの天も神の栄光を現わしている。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」(詩19:1)。天の精緻な作品群は、自分たちを造った方の栄光を宣べ伝えている。青と水色でまばゆくばかりに描かれた紺碧の空は、神の力と知恵をあざやかに示している。まことに「天は神の栄光を語り告げ」ている。燃える太陽、きらめく星々も、神の栄光を明らかにしている。空を見上げれば、鳥たちのさえずりが神への賛歌を歌い上げている。野の獣たちも、それぞれの種に従って神の栄光を現わしている。「野の獣もわたしをあがめる」(イザ43:20)。(2)人間以上の被造物も神の栄光を現わしている。「御使いはみな仕える霊」である(ヘブ1:14)。彼らは絶えず御座の前で仕え、常になにがしかの栄光を、天の国庫の収入としておさめている。明らかに人は御使いよりも熱心に神の栄光を願わなくてはならない。なぜならキリストは御使いの性質は取られず、人の性質をお取りになって、御使いにまさる栄誉を人に与えてくださったからである。確かに創造の時点では、神は人を「御使いよりも、いくらか低いものとして」(ヘブ2:7)造られた。しかし救いのみわざにおいては、人を御使いよりも高く上げてくださったのである。神は人類をめとってくださった。御使いはキリストの友人であって、花嫁ではない。また神は私たちを義の紫衣でおおってくださった。それは、御使いの義よりもすぐれた義である(IIコリ5:21)。ではその御使いが神に栄光を帰しているのなら、御使いにまさる高い栄誉と尊厳を与えられた私たちは、いやまさって神に栄光を帰すべきである。

[5]私たちが神に栄光を帰さなくてはならないのは、私たちの望みがすべて神にかかっているからである。「私の望み、それはあなたです」(詩39:7)。「私の望みは神から来る」(詩62:5)。私は神から御国をいただくのを待ち望む。素直な子は、必要なものはみな親が与えてくれると信ずることによって、親への尊敬を現わすものである。「私の泉はことごとく、あなたにある」(詩87:7)。恩寵の銀の泉、栄光の金の泉は、神のうちにあるのである。

どのようにして神の栄光を現わすか

[1]私たちが神の栄光を現わすのは、純粋に神の栄光だけを求めるときである。神の栄光を高めることと、神の栄光を求めることは別である。神は Terminus ad quem、すなわち、すべての行為の究極の目標でなければならない。キリストはそのような態度をしておられた。「わたしはわたしの栄誉を求めません。わたしを遣わした方の栄光を求めます」(ヨハ8:50)。偽善者は斜視の目をしており、神の栄光より自分の栄光ばかり見つめている。主は、マタ6:2で偽善者たちの姿を描き出し、彼らを警戒せよと告げておられる。「施しをするときには、自分の前でラッパを吹いてはいけません」。それは不案内な人が、「このラッパの音はどういうことですか」、と尋ねれば、「あの人は、これから施しをしようとしているのです」、と云わせるためであった。だが、このような者は施しをしているのではなく、金を出して人の称賛と栄誉を買い、世間的な栄光を手に入れようとしているにすぎない。彼らの張る愛の帆は、人々の声でふくらまされているのである。「まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っています」。偽善者は、領収書を切って「受領済」と署名すべきである。サタンが人をとらえる最大の投網の1つは虚栄心であるとクリュソストモス[c.345-407]が語っている。またキュプリアーヌス[200?-258]は、「放縦で負かすことのできない人間を、サタンは高慢と虚栄で打ち負かす」と云う。私たちは自己礼拝に陥らぬよう警戒しようではないか。ただひたすら神の栄光だけを求めることである。そのためには、

(1)人の賞賛や家屋敷、家族親族など他の何物よりも神の栄光を重んずることである。それらと神の栄光がぶつかるときには神の栄光を優先させなくてはならない。もし天国への途上に親類縁者が立ちふさがるなら、彼らを跳び越すか踏みつけてゆかねばならない。子は自ら自分を勘当し、自分が子であることを忘れなければならない。神のためには父も母もあってはならない。「自分の父と母とについて、『私は、彼らを顧みない』と言い……自分の兄弟をも認めず」(申33:9)。これが神の栄光を一心に求めるということである。

(2)神の栄光を求めるとは、たとえ願いがかなわなくても、満足して神のみこころに服すことである。主よ、もしあなたが益を得られるなら私は損をしてもかまいません。たとえ健康を失おうと、それであなたの恵みをより多く与えられ、あなたがより栄光をお受けになるなら満足です。あなたがくださるものなら、食物か苦い薬かは問いません。あなたの栄光にとって最もよいことをなさってください、と。私たちのほむべき救い主は、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように」、と云われた(マタ26:39)。たとえ肉体は苦しもうと、神がより栄光をお受けになるのならば、主は苦しみをもいとわなかった。「父よ。御名の栄光を現わしてください」(ヨハ12:28)。

(3)神の栄光を求めるとは、自分より賜物や評判のすぐれた人のため自分の影が薄くなっても、神の栄光が高められるなら満足することである。神を心に思い、神の栄光を見つめる者の望みは、神がほめたたえられることであって、そのためなら、だれが器になろうと喜べるのである。「人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、……いずれにしてもキリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです。今からも喜ぶことでしょう」(ピリ1:15)。人々はねたみからキリストを宣べ伝えていた。彼らは人々にもてはやされるパウロをねたみ、パウロにまさる賜物でパウロをかすませ、パウロの聴衆を横取りしようとしていた。それで結構、とパウロは云う。キリストが宣べ伝えられ、神が栄光をお受けになる。だから私は喜ぶのだ。義の太陽が輝きさえするなら、私のちっぽけなともしびなど吹き消されてしまうがいい、と

[2]罪を率直に告白することは、神の栄光を現わすことである。あの十字架上の強盗は、生きている間、神を汚しつづけていた。しかし死に臨んだとき彼は、その罪を告白することによって神に栄光を帰した。「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ」(ルカ23:41)。この男は、自分が十字架刑どころか永遠の滅びに値する者であることを認めたのである。「わが子よ。イスラエルの神に栄光を帰し、主に告白しなさい」(ヨシ7:19)。へりくだって罪を告白することは、神の御名を高める行ないである。そのことによって、永罰に値する罪人に王位すら与えてくださる神の無償の恩寵は、いかにたたえられることであろう。逆に、自分の犯した罪の云い逃れをし、罪の重さを減らそうとするのは、神を非難する行為にほかならない。確かにアダムは禁断の木の実を口にしたことは否定しなかった。しかし、あらいざらい罪を認めて告白するのではなく、かえって神を非難した。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」。もし、あなたが女を私に与えず、私を誘惑させなかったら、私は罪など犯しませんでした、と(創3:12)。罪の告白は、神に栄光を帰す。なぜなら、それは神に帰されている汚名をそそぐからである。罪の告白は、何をなさろうと神は聖にして義であられるとの承認である。ネヘミヤは神の正しさを擁護した。「私たちに降りかかってきたすべての事において、あなたは正しかったのです」(ネヘ9:33)。また、率直な告白とは、自発的なものであって強制されたものではない。「私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました」(ルカ15:18)。放蕩息子は父親に責められる前に、自分から自分の罪を認めたのであった

[3]私たちは、信ずることによって神の栄光を現わす。「アブラハムは、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し」た(ロマ4:20)。不信仰は神を侮辱し、嘘つき呼ばわりすることにほかならない。「神を信じない者は、神を偽り者とするのです」(Iヨハ5:10)。しかし、信仰は神に栄光を帰し、神が真実であるとの証印を押すことである。「そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである」(ヨハ3:33)。信ずる者は、祭壇のもとへ逃れていくように神のあわれみと真実のもとへ飛んでいく。彼は約束という鎧で身を固め、持てるものすべてを神の御手にゆだねる。「私のたましいを御手にゆだねます」(詩31:5)。これは神に栄光を帰す大いなる道である。そして神は信仰に栄誉をお与えになる。信仰が神に栄誉を与えるからである。他人から持ち物のすべてをゆだねられることほど名誉なことはない。命も家財産も、ことごとくあずけられるということは、全幅の信頼を置かれているあかしだからである。そのように、あの三人の少年は、信ずることによって神の栄光を現わした。「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します」(ダニ3:17)。信仰は、神にとって何も不可能なことがないと知っている。そして、神がどのようになさるか見当がつかないときも、神に信頼するのである

[4]私たちは、神の栄光をいとおしみ、気づかうことによって、神に栄光を帰す。それは、神の栄光を自分の目のひとみのように大事に思うことである。純真な子供は父親が侮辱されるとき泣くであろう。「あなたをそしる人々のそしりが、私に降りかかったからです」(詩69:9)。神が悪しざまに云われるのを聞くと、自分の悪口が云われたかのように思い、神の栄光に傷がつけられると、自分が傷つけられたかのように感じる。これが神の栄光を気づかうということである。

[5]実を結ぶことは神の栄光を現わすことである。「あなたがたが多くの実を結ぶことによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです」(ヨハ15:8)。不毛の木であることは、神の顔に泥を塗り、多くの実を結ぶことは神に面目を施す。「義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように」(ピリ1:11)。福音書に出てくる、葉ばかりで実のなかったいちじくの木のようであってはならない。一年中、熟しているか花を咲かせるかしていて、実のないときのないシトロンの実のようでなくてはならない。神の栄光を現わすのは、口先の信仰告白ではなく、信仰の実である。神は、そのようなしかたで私たちが神の栄光を現わすことを望んでおられる。「自分でぶどう園を造りながら、その実を食べない者がいるでしょうか」(Iコリ9:7)。森の中の木であれば、実を結ばなくてもよい。しかし、果樹園の木は実を結ぶのである。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタ5:16)。信仰は私たちの行ないをきよめ、行ないは私たちの信仰を証しする。他人に良いことをし、盲人の目となり、あしなえの足となることは、神の栄光を大いに高めるのである。そのようにキリストは御父の栄光を現わされた。「このイエスは…巡り歩いて良いわざをなし」(使10:38)。実を結ぶことによって、私たちは神の目に美しくうつる。「主はあなたの名を『よい実をみのらせる美しい緑のオリーブの木』と呼ばれた」(エレ11:16)。また、私たちは多くの実を結ばなくてはならない。神の栄光を現わすのは、実の豊富さである。「あなたがたが多くの実を結ぶ…なら」。花嫁の乳房がぶどうのふさにたとえられているのは、彼女がいかに豊饒であるかを示すためであった(雅7:7)。救われるためには、ほんのひとかけらの恵みでも十分である。しかし神の栄光を大いに現わすためには、それでは足りない。キリストがマリヤを称賛されたのは、ほんのわずかな愛のためではなく、あふれるように大きな愛のゆえであった。「この女は多く愛した」(ルカ7:47 <口語訳>)

[6]摂理によって置かれた境遇に満足していることは、神の栄光を現わすことである。神が何を取り分けてくださろうと、満ち足りた思いで安らうとき、私たちは神の知恵をたたえているのである。パウロはそのように神に栄光を帰した。主は彼に、いかなる人も及ばぬほど様々な経験をさせ、「牢に入れられたことも多く、死に直面したこともしばしばで」あったが(IIコリ11:23)、それでも彼は満ち足りているすべを学んだ。彼は、時化のときも凪ぎのときも同じように航海することができた。神がどうなさろうと、みこころのままに身を処すことができた。貧しくあることも富んでいることもできた(ピリ4:13)。良きキリスト者は次のように考えるであろう。「私をこのような状況に置かれたのは神である。神が望めば、私をもっと高めることもおできになったであろう。しかしそれは私にとって罠となったかもしれない。神は知恵と愛をもってこのようになされたのだ。だから私は満足して今の境遇に甘んじていよう」、と。まぎれもなくこれは、神の栄光を大いに現わす行為である。神は、このようなキリスト者がご自身に大きな栄誉を帰したものとみなされる。ここにはわたしの心にかなう者がいる、と神は云われよう。わたしが彼をどのようにあしらおうと、何の愚痴も云わず、ただ満ち足りた心でいるのだ、と。これは大きな恵みのしるしである。何不自由ない境遇の中で恵みが満ち足りているとしても、たいしたことはない。しかし、不遇の中で苦闘しつつ恵みが満ち足りているとすれば、まことに偉大な勲功といえる。なぜなら、人は天国の中で満足していても何の不思議もないが、十字架の下で満足することは、真のキリスト者のあかしだからである。こうした人は必然的に神の栄光を現わさざるをえない。なぜなら彼は、たとえ自分の持ち合わせはなきに等しくとも、神のうちには十分満ち足らわせるものがある、と全世界の前で証ししているからである。彼はダビデとともにこう云っているのである。「主は、私へのゆずりの地所。測り綱は、私の好む所に落ちた」、と(詩15:5)

[7]自分の救いを達成しようとすることは、神の栄光を現わすことである。神は、ご自分の栄光と私たちの幸福をより合わせてくださった。私たちは、自分の救いの完成めざして邁進することによって、神に栄光を帰す。回心者を多く起こすことは、神の栄光を現わす。そのとき神の豊かなあわれみと、その無代価の恩寵のご計画が大いにほめたたえられるからである。したがって、私たちが自分の救いのために努力することによって、神の栄光は現わされていくのである。神に仕える者にとって、これは何という励ましであろう。自分のために説教を聴き、自分のために祈ることが、神の栄光を現わすことになるのである。自分が天国で受ける栄光を増し加えようと努力することが、そのまま神の栄光を増し加えることになるのである。もしもある王が臣下に向かって、「あそこの金鉱に行き、持てるだけ金を掘り出すがいい。そうすれば、おまえはわたしの栄誉を大いに現わし、大いにわたしを喜ばせるのだ」、と云ったとしたなら、どれほど大きな励ましを与えることであろう。それと同じく、神は信者に大いなる励ましを与えておられる。おまえは、備えられた恵みの手段のもとに赴き、ほしいだけの恵みを得るがいい。力の限り救いを掘り出すがいい。わたしは、おまえが幸せになればなるほど、わたしの栄光が高められたとみなそう。そう神は云っておられるのである。

[8]神のために生きることは、神の栄光を現わすことである。「キリストがすべての人々のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」(IIコリ5:15)。「もし生きるなら、主のために生き」(ロマ14:8)。守銭奴は金のために生き、快楽主義者は腹のために生きる。罪人の人生の目的は、ただ自分の情欲を満たすことだけである。しかし、私たちは、神のために生きることで神の栄光を現わす。神のために生きるとは、神に仕えるために生きること、神のために自分を全くささげつくすことである。商人は、仲買人を海外へ送り出し、自分に代って取引させる。そのように、主は私たちを世に遣わされた。私たちがもし、主の利益を増すように取引し、主の福音の伝播のために生きるならば、神のために生きているのである。神はあらゆる人にそれぞれのタラントを与えておられる。それを風呂敷に包んで隠したりせず、神のために活用する者は、神のために生きていると云える。一家の主人であれば、訓戒と模範によって家内の使用人をキリストのもとへ導こうとすること、牧師であれば、ひとりの魂をキリストのものとして勝ち取ろうと身を粉にして働き、キリストが頭に戴く冠をさらに輝かしいものとしようとすること、また為政者であれば、いたずらに剣を帯びず、罪を切り払い悪徳を抑圧しようと努めること、これが神のために生きるということであり、これが神の栄光を現わすことであり、これが「生きるにしても、死ぬにしても、キリストのすばらしさが現わされることを求める」ことである(ピリ1:20)。パウロには3つの願いがあったが、それはみな、キリストが中心であった。すなわちキリストのものとされること、キリストとともにあること、キリストの威光を大いならしめることである

[9]人生を朗らかに歩むことは、神の栄光を現わすことである。キリスト者は、どれほどひどい状況にあっても、なお朗らかにしていられる何かを内側に持っている。それをこの世が見るとき、神の栄光が現わされるのである。その何物かによってキリスト者は、血を吐いても鳴くことをやめないホトトギスのように、いかなる艱難辛苦の中にあっても歌うことができる。神の民には、当然朗らかであっていい理由がある。彼らは神の御前に義とされており、神の子とされている。ここから内心の平安が生まれる。だから、この身の外では暴風雨が吹きすさぼうとも、内では音楽が奏でられているのである(IIコリ1:4; Iテサ1:6)。私たちのためにキリストが、その血によって何をなさってくださったか、またその御霊によって私たちの内側に何をもたらしてくださったかを思えば、私たちは大いに朗らかにならざるをえないであろう。そしてこの朗らかさが神の栄光を現わすのである。ある人に仕える召使がいつもうなだれ、暗く悲しげな顔をしているとすれば、主人がどういう人間かは明らかである。ろくな食べ物も与えず、しもべを虐待しているに決まっている。それと同じように、もし神の民が陰気で暗い顔をしているなら、まるで彼らがひどい残酷な主人に仕えているか、主のしもべとなったことを後悔しているかのように見えるであろる。それは神に不名誉を帰すことである。不道徳な者らの犯す破廉恥な罪が福音に恥辱を招くのと同様に、敬虔な人々が陰気な歩みをしていることも決して福音にとって名誉なことではない。「喜びをもって主に仕えよ」(詩100:2)。喜びをもって仕えるのでない限り、主の栄光を現わすことにはならない。キリスト者の朗らかなようすは神の栄光を現わす。信仰は、私たちから喜びを奪い去るのではなく、喜びの質を純化する。私たちの楽器を叩き壊すのではなく、むしろその和弦を調律し、より甘美な調べを奏でさせるものである

[10]神の真理を守るため立ち上がることは、神の栄光を現わすことである。神の真理は、神の栄光の大きな部分を占めている。あたかも神は、一家のあるじが財布をしもべに預けておくように、真理を私たちに預けてくださっている。私たちが神に預けている宝のうちで最も高価なものは私たちの魂であるが、神が私たちに預けてくださっている宝のうちで最も高価なものは、神の真理である。真理は、神から射し出ている光の箭(や)である。神の真理は、神の栄光のかなめの部分である。私たちは、神の真理の擁護者となるとき、神の栄光を現わしているのである。「真理のために闘うように」(ユダ3)。《闘う》と訳されたギリシヤ語は、激しく熾烈に闘うという意味である。あたかも人が自分の祖国を守るために闘うかのように、あるいは、自分の権利を奪われまいとして猛然と闘うかのようにである。そのように、私たちも真理のために闘わなくてはならない。この聖なる闘争がもっと多く行なわれるならば、神は今よりさらに大きな栄光をお受けになるであろう。どうでもいい些細なことや、表面上の体裁をとりつくろうために熱心に闘う人は多いが、真理のために闘う者は少ない。だが、自分の相続財産を投げ出して、たかが落書き一枚のために取っ組み合うような者は間抜けと云われて当然であろう。自分の土地の権利証書をほったらかしにして、かるたの点数札のために闘うような者は大馬鹿者である

[11]神を賛美することは、神の栄光を現わすことである。頌栄、つまり賛美とは、神の御名をたたえることにほかならない。「賛美のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう」(詩50:23 <英欽定訳>)。ヘブル語の「創造する」という言葉(Bara)は、「賛美する」という言葉(Barak)と非常によく似ている。それは、被造世界の目的が神を賛美することにあるからである。イスラエル随一の歌人と呼ばれたダビデは、神をほめたたえることは、神をあがめることだという。「わが神、主よ。私は心を尽くしてあなたを賛美し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめましょう」(詩86:12 <英欽定訳>)。もちろん神が本来お持ちの栄光には、何1つつけ加えることはできない。しかし賛美は他の人々の目に神を高く上げることになる。神を賛美するとき、私たちは神の名声と声望とを告げ知らせ、神のたぐいない卓越さを示すトロフィーを展示するのである。御使いたちは、そのようにして神に栄光を帰している。彼らは天の聖歌隊員であり、神への賛美を力の限り爆発させている。信仰の行なうわざの中でも、賛美ほど高貴で純粋な行為はない。私たちは、祈りにおいてはいかにも人間らしくふるまう。しかし、賛美においては御使いと同じようにふるまうのである。信者は「神の神殿」と呼ばれる(Iコリ3:16)。私たちの舌が賛美しているとき、神の霊的な神殿においては大オルガンが鳴り響いているのである。神が、私たちからの賛美をこのような仕方でもっと受けられないのは、何と悲しいことであろう。不平不満に満ちあふれた人は多いが、御名にふさわしい賛美をささげて神に栄光を帰す人は少ない。聖書に書かれた、手に竪琴を持つ聖徒たちとは、賛美の象徴である。だが世の中には、目に涙をため、口に愚痴をつめこんでいる人ばかり多くて、手に竪琴を持ち、神をたたえ、神の栄光を現わしている人はほとんどいない。私たちはそのような仕方で神を尊ぼうではないか。賛美は私たちが神におさめる免役地代である。神が私たちと契約を更新し続けてくださる限り、私たちは神にみつぎものをささげなくてはならない

[12]御名のために熱心になることは、神の栄光を現わすことである。「ピネハスは、わたしのねたみをイスラエル人の間で自分のねたみとしたことで、わたしの憤りを彼らから引っ込めさせた」(民25:11)。熱心さは2つの感情、すなわち、愛と怒りが合わさったものである。それは、神に対する熱烈な愛と、罪に対する激しい怒りとを合わせ持つ。御名のために熱心な者は、神に対する侮辱をがまんすることができない。熱心に燃えるキリスト者は、神に対する侮辱を、自分に対するいかなる無礼にもまして許しがたく思う。「あなたは悪い者たちをがまんすることができず」(黙2:2)。私たちの救い主キリストも、そのようにして御父の栄光を現わされた。熱心の霊のバプテスマを受けておられた主は、神殿から両替人どもを追い散らされたのである。「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」(ヨハ2:14-17)

[13]肉体の必要を満たす際にも、市民として行動する際にも、常に神のことを忘れないように心がけることは、神の栄光を現わすことである。肉体の必要を満たすこと、すなわち飲食においても、私たちは神の栄光のことを忘れてはならない。「食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」(Iコリ10:31)。神の恵みに満ちた人は、自分の肉欲に節制という黄金の手綱をかけている。食事をするのは、肉体の疲労をいやすため、また、受けた力によって、よりふさわしく神に仕えるためである。そのような人は、食事を肉欲を燃やすための燃料とはせず、むしろ自分の義務を実行するための助けとする。また私たちは、売ったり買ったりする際にも、すべてを神の栄光のために行なわなければならない。よこしまな者どもは、ホセア12:7にあるように、天秤ばかりの分銅をごまかして、不正な利得をむさぼろうとする。「商人は手に欺きのはかりを持ち、しいたげることを好む」。しかし、このような人は、はかりの重りは軽くしながら、自分の罪はますます重くしているのである。彼らは、実際の値段よりも高い値段をつけ、八十のものを値引いて五十にするかわりに、五十のものを八十と云って売っている。しかし、神の栄光のために売り買いする者は、あの黄金律、「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」[マタ7:12]、を守る人である。自分の商品を売りながら、自分の良心まで売り渡すようなことがあってはならない。「そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています」(使24:16)。私たちが、肉体の必要を満たすことにおいても、市民として生きることにおいても、すべてのことにおいて神に目を向け、決して信仰生活の汚点となるようなことを行なわないとき、私たちは神の栄光を現わしているのである。

[14]他の人々を神のもとに引き寄せようと努めることは、神の栄光を現わすことである。他の人々の回心を願い求めること、そしてその人々が神の栄光を現わす器となるように努力することは、神の栄光を現わす。私たちは、ダイヤモンドであり、かつ磁石でなければならない。恵みの輝きを反映するダイヤモンド、そして人々をキリストのもとに引きつける魅力ある磁石であるべきである。「私の子どもたちよ。私は…あなたがたのために産みの苦しみをしています」(ガラ4:1)。これは神の栄光を大いに現わすことである。そのようにするとき、私たちは、悪魔の牢獄を打ち砕き、人々をサタンの勢力下から神のもとへと立ち返らせているのである

[15]神のために苦しみを受け、自分の血によって福音に証印を押すことは、神の栄光を素晴らしく現わすことである。「『年をとると、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。』これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった」(ヨハ21:18、19)。神の栄光は、神のために死んだ殉教者の灰のうちに輝く。「火の中にあって神に栄光を帰せ」(イザ24:15 <英欽定訳>)。ミカは投獄され、イザヤは鋸引きの刑に処され、パウロは打ち首になり、ルカは首をくくられて、いちじくの木につるされた。彼らはこのように自分の死によって神の栄光を現わした。初代教会の聖徒たちが受けた苦難は、神に栄誉を帰し、福音を世にあまねく知らしめた。彼らの苦しみを見た人々は何と云っただろうか。彼らは云ったであろう。この人たちは、何と素晴らしい主人に仕えているのだろう。何と愛されている主人だろう。この主人に仕えるためとあれば、彼らはすべてを失おうとも平気なのだ、と。キリストの王国の栄光は、他の王たちのそれのように、この世的な華やかさや壮麗さのうちにあるのではない。キリストの王国の栄光は、その民が苦しみを受け入れる際の朗らかな様子のうちに見られるのである。いにしえの聖徒たちは、「死に至るまでもいのちを惜しまなかった」(黙12:11)。まるで王冠を受け取るかのように喜んで苦しみを受け入れた。神の召しがあれば、私たちもまた、このような仕方で神の栄光を現わすことが許されるであろう。しかし、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈る者は多いが、「あなたのみこころのとおりになさってください」、と祈る者は少ない

[16]自分の行なったすべてのことにおいて、その栄光を神に帰すことは、神の栄光を現わすことである。演説を行なうヘロデに対して民衆が、「神の声だ。人間の声ではない」、と叫び続けたとき、ヘロデは自分に栄光を帰した。その箇所には、「するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた」、とある(使徒12:23)。私たちは、すべてのほめことばと称賛を神にささげるとき、神の栄光を現わしているのである。パウロは云う。「私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました」(Iコリ15:10)。これを高ぶった云いぐさだと感じる人もあるであろう。しかし使徒は、その頭上の栄冠を取って、神の無償の恩寵の上に置くのである。「しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」。ラバと戦っていたヨアブが、ダビデ王に使いを立て、王ご自身が勝利の栄冠を得てくださいと云い送ったように(IIサム12:28)、キリスト者は、自分が何らかの腐敗や誘惑を退けることができたときには、キリストに使いして、どうぞ主ご自身が勝利の栄冠をお取りくださいと云うのである。蚕がその精妙な芸術品をつむぎだしていくとき、わが身を絹糸のうちに隠し、次第に見えなくなっていくのと同じように、私たちも謙遜のヴェールのかげに自分を隠し、自分の行なったことすべての栄光を神のものとしなくてはならない。コンスタンティヌス大帝は、扉の上にキリストの名を記しておいたという。私たちもそのように、自分の果たした義務の上に、キリストの御名を大書しておくべきである。栄誉と称賛の花冠はキリストにささげようではないか

[17]きよい生き方をすることは神の栄光を現わすことである。悪い生き方は神に不名誉を帰す。「あなたがたは、聖なる国民です。それは、あなたがたを招いてくださった方の素晴らしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」(Iペテ2:9)。「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」(ロマ2:24)。エピファニウスは、「現今の自堕落な生活をしている一部のキリスト者のおかげで、異教徒たちの多くがキリスト教徒の仲間になりたがらず、説教を聴きにやって来ようともしない」、と云う。私たちは、聖書に忠実に従って生活することによって、神の栄光を現わす。確かに信仰の最も大切な働きは心の中で行なわれる。しかし私たちの光は、他の人々にも見えるように輝かさなくてはならない。建物の安全性は土台にかかっているが、その最も栄えある部分は表構えであろう。信仰の美しさもそれと同じく、実生活において最もよくあらわされる。神から尊い宝石と呼ばれる聖徒たちが、この世の人々の目の前で、まばゆいばかりに聖潔のきらめきを放つとき、彼らは「キリストが歩まれたように歩んで」いるのである(Iヨハ2:6)。もしも私たちが、この目でキリストを見たかのように生き、キリストとともに山上で過ごしたことがあるかのように生活するならば、私たちは信仰を飾っており、天の君のもとへ栄光のみつぎものをもたらしているのである

適用1: ここからわかること、それは、人間の生きる主たる目的は、広い庭のついた豪邸を手に入れることとか、地上に宝をたくわえることであってはならない、ということである。その種の欲望こそ、アダムとエバの堕落以来、人類にとりついている浅ましさである。このようなものを求める人々のうち、少なからぬ数の者は、めざすえものに決してありつけない。求める富を決して手に入れることができない。よしんばその望みがかなったとしても、一体それが何になるというのか。それが心を満たしてくれるだろうか。それは、鼻息で船の帆をふくらませようとするにひとしい。そうした人は、いにしえのイスラエルのように、あくせくと藁くずを拾い集めているにすぎず、神の栄光を現わすという人生の最大目的を忘れ果てているのである。「風のために労苦して何の益があるだろう」(伝5:16)。そうしたものはたちまち過ぎ去っていくというのに

適用2: 非難されなくてはならないのは、(1) 神の栄光を全く現わさない者である。つまり自分の創造された目的を果たそうとしない者。人生を活用するかわりに、浪費してしまう者。エゼキエル書15:2にある葡萄の木のような者。聖ベルナルドゥスが、「罪深いか、実を結ばないかのいずれかで、地上で何の役にも立たぬごくつぶし」と評したような人生を送る者。こうした者は非難されなくてはならない。アハシュエロス王が、「モルデカイには、どのような栄誉と爵位が与えられたか」(エス6:3 <英欽定訳>)と尋ねたように、神もまた、いつの日か、私たちを問いただすであろう。わたしには、どのような栄誉が与えられたか。おまえは、今までわたしにどのような栄光のみつぎものをもたらしたか、と。神はどのような人にも、ご自分の栄光を現わす能力を1つは与えておられる。神の賜物である健康や才能、家屋、恵みのとき、これらはみな、神の栄光を現わす機会として授けられている。そして、思い違いをしないように云っておくが、やがて私たちは、ひとりとして例外なく、決算報告のために呼び出され、預けられた恵みをどのように用いたか、どのように神に栄光を帰したか、申し開きしなくてはならないのである。タラントのたとえでは、5タラント持った者も、2タラント持った者も、ともに清算のため呼び出されている。ここから私たちも、神から厳密に取り調べられるであろうことは明らかである。預けられたタラントでどのように商売したか、どのような栄光を神にもたらしたかが、微に入り細にわたって調べられるであろう。しかし、もしそのとき、受けたタラントを風呂敷に隠したままで、全く神の栄光を現わしてこなかったとしたなら、何と悲しいことか! 「役に立たぬしもべは、外の暗闇に追い出しなさい」(マタ25:30)。私は神の栄誉を辱しめなかった、極悪な生活を送らなかった、というだけでは不十分である。どのような善行を施したのか。神にどのような栄光をもたらしたのか。それが問題である。ぶどう園で働くしもべは、園内の枝を折ったり垣根を壊したりせず、何の悪さもしなかった、というだけでは不十分であろう。与えられた仕事をきちんと果たさなければ、報酬を失うのである。同様に私たちも、与えられた義務を果たさず、神の栄光を現わさなければ、報酬を失う。救われた甲斐もない。おゝ、無益な生き方しかしていないしもべよ、このことをとくと考えるがいい! 実のなっていないいちじくの木をキリストは呪われたではないか

(2) 神に栄光を帰さぬどころか、神の栄光を盗むような者は非難されるべきである。「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる」(マラ3:8)。神に帰すべき栄光を横どりするような者は、神のものを盗んでいるのである。そのような者は、富を得たり出世したりすると、それをみな自分の才能と勤勉の賜物のように考えて、自画自賛し、「あなたの神、主を心に据えなさい。あなたに富を築き上げる力を与えられるのは主だからだ」(申命記8:18 <英欽定訳>)などと考えようとはしない。何か信心深そうな行ないをするときも、考えるのは自分の名声のことだけである。「人に見られたくて」(マタ6:5)行動し、人から敬われ、聖者のように云ってもらいたくて、大道芸人のごとき真似をする。このような者は、虚栄心という油で燃えるランプである。おゝ、いかに多くの人々が、人々の称賛という風に吹き流されて地獄へ落ちていくことか! 悪魔は、自堕落な生き方によっては滅ぼせない人を、虚栄心によって滅ぼすのである

(3) 神の栄光に敵対する者は非難されるべきである。「もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます」(使徒5:39)。神の栄光が高められるのを妨害する者は、神の栄光に対して逆らい立つ者としかいえない。神の栄光を大いに高めるのはみことばの宣教である。みことばは、神が人間の魂を回心させるために用いる攻城具だからである。したがって、みことばの宣教を妨げるような者は、神の栄光に敵対している。「私たちが異邦人の救いのために語るのを妨げ」(Iテサ2:16)。キリスト教徒に対する十度目の迫害を引き起こしたディオクレティアヌス帝は、礼拝集会を禁じ、教会の礼拝堂を根こそぎ破壊し去るように命じた。しかし、宣教を妨げる者は、ペリシテ人が泉をふさいだように[創26:18]、いのちの水の泉をふさぐ者である。それは、罪に病んだ魂を癒せる唯一の医者を奪い去ることにほかならない。みことばをとりつぐ牧師は光である(マタ5:14)。光を憎む者が、盗人のほかにいるであろうか。彼らは神の栄光にまっこうから打ちかかる者である。彼らは、人々の魂の血のとがを問われるとき、神の前でどのような申し開きをするのであろう。「あなたがたは、知識のかぎを持ち去り、自分もはいらず、はいろうとする人々をも妨げたのです」(ルカ11:52)。天に正義がある限り、また地獄で炎が燃えている限り、彼らが罰せられずにいることはない

適用3:勧告。私たちはみな、おのおの与えられた場所で、神の栄光を現わすことを何よりも心がけ、励んでいこうではないか。

 (1) まず、法の執行をつかさどる行政官の方々に申し上げたい。神は、行政官に大きな栄誉を与えておられる。「わたしは言った。『おまえたちは神々だ。』」(詩82:6)。このように大きな栄誉を与えられた者は、当然、神に栄光を帰すべきではないか。

 (2) 教職者は神の栄光を高めるべく一心に努力しなければならない。神は、ご自分の最も大切な宝を教職者にゆだねておられる。それは神の真理と、ご自分の民の魂である。このような務めを与えられている者として、教職者は神の栄光を現わさなくてはならない。教職者は、みことばと教理の説き明かしのために労苦することによって、神の栄光を現わさなくてはならない。「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」(IIテモ4:1)。アウグスティヌスは、「キリストが再臨なさるとき、私は祈っているか説教するかしていたい」、という願いを持っていた。さらに牧師は、その熱心さと行ないのきよさによって、神の栄光を現わさなくてはならない。律法時代の祭司たちは、祭壇の前で奉仕する前にまず洗盤の中で沐浴していた。そのように、主の家で仕える者らも、まず悔い改めという洗盤の中ですべての罪を洗い流さなくてはならない。自ら牧師と名乗っていながら、いかに多くの者が、神に栄光を帰すかわりに神の栄誉を汚していることか。何と嘆かわしく恥さらしなことだろう(II歴11:15)。こういう人間の生活は、その教理同様まがいものである。他人を責めるその罪から、自分もまぬがれていないのだ。プルタルコスの下僕が、あるときこう云ってプルタルコスを非難したという。「ご主人さまは、怒りを論駁する書物を書いておきながら」、et ipse mihi irascitur、「どうしてこの私に向かって当たり散らすのですか」。これと同じそしりをまぬかれないのは、泥酔を非難する説教をしながら自分も酔っ払い、悪態をつく人々を叱責しながら、自分も悪態をついている牧師である!

 (3) 一家の主人は、神の栄光を現わさなくてはならない。主を知る知識によって子どもや使用人を訓練しなくてはならない。その家は、小さな教会となるべきである。「わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるためである」(創18:19)。一家の長たるものは、魂の監督にあたらなくてはならない。家庭において訓練の手綱がしっかり締められていないために、若い者は好き勝手にふるまうのである

* * *

 「私は、自分の生涯を神の栄光を現わすために費してきた」。そう考えることのできる人は、死に臨んだとき何物にもかえがたい慰めを持つであろう。これは死を目前にしたときのキリストの慰めであった。「わたしは、地上であなたの栄光を現わしました」(ヨハ17:4)。死ぬときには、地上の慰めはことごとく消え去ってしまう。これまで楽しんできた贅沢な生活や、さんざんに尽くしてきた歓楽などを考えたところで何の慰めになろう。慰めとなるどころか、苦しみをいやますだけである。使いつくした財宝に何の値打ちがあるだろう。しかし、「あなたは地上で神の栄光を現わしました」、という良心の声を聞く魂は、無上の慰めと平安に満たされるであろう。死は、いかにも望ましく、切に待ち遠しいものとなろう。葡萄畑で終日働きつづけたしもべは、一日の報酬が渡される夕方を待ちこがれるものである。しかし一生の間、神に何の栄光ももたらさなかった者が、死を考えて慰めを覚えることなど、到底無理な話である。何の種も蒔かなかった土地から実りを期待することはできない。今までまるで神に栄光を帰さなかったくせに、どうして神から栄誉が与えられるなどと期待できるだろう。おゝ、そのような者は死の床につくとき、どれほど恐怖を覚えることか! そうした者の魂は、肉体が朽ちて虫に食われるよりも前に、良心という虫でぼろぼろに蝕まれるに違いない。

 もし私たちが、いま神の栄光を現わすならば、神は私たちの魂を永遠に栄光で輝かされるであろう。すなわち、神の栄光を高める者は、自分の栄光を増すのである。神の栄光を現わす者は、最後には神を心から喜ぶ至福のときに至るのである

II. 人間の生きる主たる目的は、永遠に神を喜ぶことである。「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう」(詩73:25)。これはすなわち、私が天で喜びたいと願うものが、あなたのほかにあるでしょうか、ということである。神を喜ぶ、あるいは神を楽しむということには、二重の意味がある。それは、この地上で神を喜ぶということと、来たるべき世で神を喜ぶということである。

[1]この地上で神を喜ぶこと。神の制定された恵みの礼典を喜ぶことは、大きなことである。しかし、その礼典のうちにおられる神のご臨在を喜ぶことをこそ、敬虔な魂は慕い求める。「私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています」(詩63:2)。信者がこのように甘美な喜びを覚えるのは、神の御霊が礼典とともに働き、恵みを私たちの心にしたたらせてくださるのを感ずるときであり、御霊がみことばによって私たちの感情を生き生きと昂揚させてくださるときであり[「私たちの心はうちに燃えていたではないか」(ルカ24:32)]、御霊が心を一新させて、聖潔のしるしをうちに残してくださるときである。「私たちは、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます」(IIコリ3:18)。御霊が心を慰めて心を燃やしてくださるときは、ただ油注ぎだけではなく、証印をも伴って来られる。御霊は私たちの心に神の愛をあふれるばかりに注ぎ出される(ロマ5:5)。「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」(Iヨハ1:3)。私たちは、みことばのうちに神の御声を聞き、聖礼典のうちに神の口づけを受ける。自分の義務を果たして心が暖められ、燃やされるのは、神が火をもって答えてくださった証拠である。神の御霊との甘やかな交わりは、栄光の初穂である。今やキリストはその顔おおいをはずして、微笑みをたたえたみ顔を見せてくださった。今やキリストは信者を宴会の家へと導き、ご自分の愛という香料入りの葡萄酒を杯に満たしてくださった。キリストは、その指先を戸の穴に差し入れられた。キリストは心に触れて、心を喜びに躍り上がらせてくださった。おゝ、このように神を喜ぶことは何と甘美な楽しみであろう! この聖なる歓喜と魂の変容を、礼典のうちに覚えた世々の聖徒たちは、この世の次元からはるかに引き上げられ、地上のあらゆるものを取るに足らぬものとみなしたのである

適用1: あなたにとって、この地上で神を喜ぶことは、それほどに甘美なものとなっているだろうか? 神を喜ぶよりも、自分の情欲を喜ばせることを好む者の何と邪悪なことか(IIペテ3:3)。「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」[Iヨハ2:16]、こうしたことこそ、そうした人間の礼拝する三位一体神である。情欲とは、良くないものへの渇望で魂をかりたてる過度の欲望、いきすぎた衝動のことをいう。人を赦さず復讐心を燃やすのも情欲、自堕落な生き方に溺れるのも情欲である。情欲は、まるで熱病のように魂に火をつける。アリストテレスは官能の欲を獣の欲と呼ぶが、それは、情欲の燃えさかるところでは、理性の声も良心の声も耳に入らないからである。情欲は、人の正気を失わせ、獣と変えてしまう。「淫行と酒と新しき酒はその人の心をうばう」(ホセ4:11 <文語訳>)。すべての価値あるもの、すべての良いものに対する心を奪ってしまう。何と多くの人々が、神を喜ぶことではなく、自分の情欲を喜ぶことを人生の主たる目的としていることか。たとえば、ある枢機卿は、「このままパリの枢機卿でいられさえするなら、パラダイスで受ける分を失ってもかまわない」、などと放言したという。しかし情欲は、まず魂を快楽によってとりこにし、その後で必殺の矢を放つのである。「ついには、矢が肝を射通し」(箴7:23)。欲情の歓楽を尽くそうと突き進んでいく人間は、この炎の剣によって押しとどめられなくてはならない。たった一滴の快楽のために、御怒りの大海を飲み干そうとする者がいるだろうか?

適用2: 何よりもまず私たちは、礼典の中で神の甘美なご臨在を喜ぶようにこころがけよう。神との霊的な交わりを喜ぶことは、大部分の人々にとって謎であり神秘である。宮廷に伺候する者のすべてが国王と言葉をかわすわけではない。私たちも、礼典において神に近づき、天の宮廷に伺候していながら、神との交わりに何の喜びも感じないということがある。文字は追いながらも御霊を得ず、見えるしるしは受けながらも見えない恵みを取り逃すということがある。しかし神との交わりこそ、いかなる務めにおいても真に求めるべきことである。「私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています」(詩42:2)。おゝ、神を喜ぶことなくして、世のもろもろの楽しみなど何であろう。健康や地位など、神を喜べないとしたら何ほどのことがあろう。「われ日の光を蒙らずして哀しみつつ歩く」(ヨブ30:28 <文語訳>)。このことばのように、たとえ被造世界のありとあらゆる喜びを持っていようと、神を持たなければ、「私は、日に当たることなく、泣き悲しんで歩き回る」と云うことになろう。外側の喜びという星明かりはあっても、義の太陽は持っていないのである。「われ日の光を蒙らずして哀しみつつ歩く」。私たちは、単なる礼典そのものではなく、礼典の神を喜ぶことをこそ真の目的としなくてはならない。神の甘美なご臨在を地上で喜ぶ生き方こそ、最も満たされる人生である。神は甘やかな蜜の巣箱であり、金銀財宝がぎっしりつまった宝物庫であり、喜び涌きいずる泉である(詩36:8、9)。ひばりは高く上れば上るほど喜ばしく歌うという。私たちも、信仰の翼をかって高く上れば上るほど、いやまさって神を喜ぶのである。祈りと瞑想において、どれほど心は燃やされることであろう。信ずることには、どれほどの喜びと平安があるであろう。この世で大いに神を喜ぶ人のまわりには、すでに天国がある。神の礼典において神を喜ぶという一事をこそ、私たちの大望としようではないか。神の甘やかなご臨在をこの地上で喜ぶことは、私たちがやがて天上で神を喜ぶことの保証なのである

 ここから、第二の部分に話は移る。すなわち、

[2]来たるべき世で神を喜ぶこと。人間の生きる主たる目的は、永遠に神を喜ぶことである。しかし、天において神を完全に喜ぶには、まずそれに先立つものが必要である。すなわち、私たちはあらかじめ恵みの状態に入っていなくてはならない。恵みにあって神と似た者となっているのでなければ、栄光につつまれて神との交わりを持つことはできない。恵みと栄光は堅く1つに結び合わされている。暁の星が太陽の露払いをするように、恵みは栄光の先に立っていく。神は、祝福を受けるに値する、ふさわしい者だけを受け入れられる。酒に酔う者や、悪態をつく者などに、栄光につつまれて神を喜ぶ資格はない。主が、そのような蝮を胸に抱かれることはない。ただ「心のきよい者だけが、神を見る」のである。私たちは、王女のごとく、内側がもともと尊貴でなければ、輝かしい栄光の衣装を着ることができない。アハシュエロス王が乙女らを自分の前に立たせる前に、まずきよめて没薬の油で化粧させ、香料の甘い香りをたきこめさせたように(エス2:12)、私たちも、神の油注ぎを受け、御霊の甘い恵みの香りを放つ者とさせられて初めて、天の君主の前に立つことができるのである。かくして私たちは、神からの恵みによってふさわしい者とさせられた後で、幻の山へ導かれて、永遠に神を喜ぶことになる。永遠に神を喜ぶとは、幸福のまっただ中へ引き入れられることにほかならない。魂と交流のないからだにいのちがないのと同様に、神とじかに交わりを持っていない魂も満ち足りることはできない。神は、summum bonum、すなわち至高の善であり、したがって神を喜ぶことは、究極の幸福である。

 神は「欠けるところのない」善であられる。bonum in quo omnia bona「すべての良きものの安らう善」である。被造物の素晴らしさには限界がある。健康ではあっても美しくない人があり、学識はあっても生まれが卑しい人がある。またある人は、富んではいても知恵がない。しかし、神のうちには一切のすぐれたものがある。神は良いもの、魂を完全に満ち足らわすお方である。魂にとって太陽であり、受けるべき分であり、救いの角である。神には、「満ち満ちた神の本質」が宿っている(コロ1:19)。

 神は「混じり気のない」善であられる。この世においては、何の濁りもない状態というものはありえない。どれほど甘い蜜の一滴にも、必ず苦味が混じっている。ソロモンは、世々の錬金術師がそうしたように、石や鉄くずを金銀に変え、寿命を延ばすという賢者の石の探索に没頭し、この下界の幸福を追及した結果、虚ろな空しさと悩みの種のほか何も見いださなかった(伝1:2)。しかし、神は完全な善、凝縮された善である。神は、甘やかさの極みである

 また神は「満ち足らわす」善であられる。神によって魂は、もうこれで十分、満足だと叫ぶ。「私は、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」(詩17:15)。のどの乾いた人を清水のほとりに連れてくるならば、その人は十分満ち足りるであろう。神は御使いたちをも満ち足らわしておられる。いわんや私たちなど十分満ち足らわすことができる。人は有限なもの、神は無限のお方である。しかも神は、満足を与える善でありながら、決して人を飽かすことがない。いつまでも新鮮な喜びが、絶えず御顔から汲めどもつきせず涌き上がってくる。神は、何百万年たとうと、栄化された魂にとって、はじめと変わらず求められるべきお方であろう。神のうちには、人を満足させるものが満ち満ちている。それでいながら、魂にとって、なおも魅力つきせぬ甘やかさがあるのである。

 神は「無上の快感を与える」善であられる。人にとって最高の善には、魂を歓喜させ陶酔させるものがあってしかるべきである。そこには、狂わんばかりの躍り上がるような喜び、すべての喜びを凝縮したものがなくてはならない。In Deo quadam dulcedine delectatur anima immo rapitur[神の人格には、魂を喜ばせ、否、有頂天にさせるような甘美さがある]。神の愛は、云うに云われぬ、光輝に満ちた快さを、絶えることなくうっとりと魂に滴らせる。まだ信仰によって見ているうちから(Iペテ1:8)、神のうちにこのような喜びがあるのであれば、神と顔と顔とを合わせて会うその日には、一体どのような喜びがあるであろう。患難にある聖徒らが、神のうちにこれほどの喜びを見いだしているとすれば、彼らが王冠を戴く日には、どのような喜び、どのような歓喜があるであろう。炎も薔薇のしとねと感じられる者らにとって、イエスの胸にもたれる喜びはいかなるものであろう。イエスの胸は何という薔薇のしとねであろう

 そして神は「比類のない善」であられる。比較の対象に何を持ってこようと、神にまさるものはない。神は、健康、富貴、名声にもまさっている。神ならぬものはいのちを維持するためのもの、しかし神はいのちを与えるお方なのである。一体、神と何かを対等のものとして比べようなどと思う者があるだろうか。神と他のすべてのものの間に横たわる懸隔は、太陽とちびた蝋燭との間にあるそれよりもはなはだしいのである。

 かつ神は「永遠の」善であられる。日の古りたる者でありながら、決して衰微することも老いさらばえることもない(ダニ7:9)。神によって与えられる喜びは永遠のものであり、神によって与えられる冠はしぼむことがない(Iペテ5:4)。栄化された魂は、永遠にわたって自らの慰めを神のうちに見いだし、神の愛という饗宴を楽しみ、御顔の光に浴するのである。神の右の御手には楽しみの流れがあるという。だがその流れもそのうちに干上がってしまうのではないか? 決してそのようなことはない! その流れの奥底には尽きることのない泉がある。「いのちの泉はあなたにあり」(詩36:9)。

 このように、神は魂にとって第一の善であり、神を永遠に喜ぶことは、魂に望みうる最高の幸福なのである

適用1:これからの人生は、この第一の善を喜ぶことをこそ主たる目的としようではないか。アウグスティヌスは、哲学者の間に見られる、幸福に関する288の意見を数え上げているが、どれもみな満足のいくものはない。理性ある魂が達しうる最も高貴な境地は、永遠に神を喜ぶことである。天国は神を喜ぶことのうちにあるのである。「このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります」(Iテサ4:17)。魂は、神の方角を向くまで、羅針盤の針のように震え続け、決して落ち着くことがない。

 以下に、栄化された魂が神を喜ぶ、この素晴らしい状態がいかなるものであるか述べることとする。

 (1) この喜びは官能的な喜びではない。私たちは天国に肉的な快楽があると考えてはならない。トルコ人たちは、そのコーランの中で快楽のパラダイスについて語る。それは、おびただしい金銀財宝があり、黄金の大盃に赤葡萄酒がなみなみと満たされて差し出される、そのような天国である。今の時代の美食家たちなら、死後そのような天国があってほしいと思うであろう。確かに栄光の状態は饗宴にたとえられており、真珠や宝石によって表現されてはいる。しかし、そうした比喩は、単に信仰の助けであって、天の天にはありあまるほどの喜びと幸福があふれていると教えるためのものにすぎない。そして、その喜びは肉的なものではなく、霊的な喜びなのである。私たちの喜びは、私たちの聖潔が完全なものとされること、キリストのきよい御顔を拝すること、神の愛を感じること、天の諸霊と語りあうことのうちにあるであろう。それこそ魂にとってふさわしく、またすべての肉的な悦楽に無限にまさる喜びであろう

 (2) 私たちは、この光輝あふれる状態を生き生きと感じるとれる者となるであろう。人は昏睡状態にあるとき、生きてはいるが死んだも同然であるといっていい。何も感じず、何の人生の喜びも受け取ることができない。しかし、私たちは、はずむような生気に満ちた感覚をもって、神を喜ぶことから生じる無限の楽しみを味わうことであろう。私たちは、自分の幸せを実感し、喜びをもって自分の尊厳と幸福を思うことであろう。神から流れ出る喜びの一滴一滴を、そのあらゆる甘やかさの一粒一粒を味わいつくすことであろう。

 (3) 私たちは、その栄光を直視できる者とされるであろう。今の私たちでは、その栄光の光景に耐えることはできない。目の弱い人が太陽を直視できないのと同じである。しかし、神は私たちに栄光に耐えうる力を与えてくださる。私たちの魂は、すみからすみまで天的にされ、完全に聖潔にされるので、神のほむべき御姿を目にすることができるようになる。モーセは岩の裂け目の中にあって、神の栄光が通り過ぎるのを見た(出33:22)。私たちは、私たちのほむべき岩なるキリストのうちから、神の気高き御姿を目にするであろう

 (4) 神を喜ぶというこのことは、単に神について黙想する以上のことである。学識ある人々は疑問を呈して云う。黙想以外の方法によって神を喜ぶことはありえないのだろうか、と。確かにそれは1つの道であろう。しかしそれは天国の半分でしかない。それに加えて、神を愛することがあり、黙して神に従うことがあり、神の甘やかさを味わうことがある。すなわち、目にすることだけにとどまらず、自分のものとして手に入れることがある。「わたしの栄光を、彼らが見るようになるためです」(ヨハ17:24)。これは目にすること。「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました」(22節)。これは手に入れることである。「将来私たちに啓示されようとしている栄光」(ロマ8:18)は、私たちに対して啓示されるだけでなく、私たちのうちに啓示される。神の栄光を目にすること、それは私たちに対して啓示される栄光である。しかし神の栄光のうちに自分自身あずかること、それは私たちのうちに啓示される栄光である。あたかも海綿に葡萄酒がしみこむように、私たちもまた栄光がしみとおった者となるのである。

 (5) この栄光の状態には何の中断もない。私たちは神の栄光のご臨在を、ある特定の一時期だけ有するのではない。私たちは絶えることなくご臨在のうちにおり、絶えることない神聖な歓喜のもとに置かれる。天国においては、ただの一瞬たりとも、栄化された魂が憂欝を訴えなければならないようなことはない。栄光の流れは、故障の多い水道管のように、たびたび断水しては一滴の水も出なくなるようなものとはまるで違う。否、この天の喜びの流れは決して干上がることがない。この変貌山の頂きにくらべれば、今私たちがいるこの涙の谷は、何とつまらぬ場所であろう! パラダイスで神を完全に喜ぶ日の何と待ち遠しいことであろう! 私たちがもし、かの約束の国を一目なりとも目にしたならば、これ以上この地上にとどまることには忍耐が必要となるであろう

適用2: 私たちはこれを励みとして、さらに務めにいそしもうではないか。究極において永遠に神を喜ぶためとあれば、私たちはいかに勤勉に、またいかに熱心に神の栄光を現わすべきであろう! 見るものとてはほの暗い理性の手燭しか持たなかった、あのキケロやデモステネスやプラトンが、現世を越えたところに浄福の楽土を思い描き、そこに入ろうとしてあれほどのヘラクレス的努力を払ったのである。いわんや、聖書の光という明かりを与えられているキリスト者が、神と栄光に満ちた永遠の喜びへ達するために自ら奮起することは当然である! 私たちを怠惰の寝床から立ち上がらせ、力の限り神に仕えさせるものがあるとすれば、それはこの、自分がまもなく永遠に神を喜ぶことになるという一事であろう。パウロの信仰の生涯をあれほどに活発にしたものは、何であったか。「私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました」(Iコリ15:10)。パウロの従順は日時計の針のようにのろのろと進みはしなかった。むしろ、太陽の光線のように疾走した。なぜ彼はこのように神の栄光を現わすことに熱心であったのか。それはついには神のうちに集束し、そこで歩みを止めるためにほかならなかった。「そのようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります」(Iテサ4:17)。

適用3: 敬虔な人々は、今の時代のあらゆる惨めさの中にあって、このことを慰めとするがよい。兄弟姉妹よ、あなたは今つぶやいているだろうか。心楽しめずにいるだろうか。恐れが思いを乱しているだろうか。困窮に悩まされているだろうか。昼は心が欝屈し、夜は安眠を楽しめないでいるだろうか。人生に慰めを見いだせないでいるだろうか。そのような人は、このことによって、新たなる力を受けるがいい。今しばらくすれば、あなたは神とともにいることになる。そのときが来れば、求めることも思い描くこともかなわぬほどの報いを受ける。あなたは天使と同じ喜びに満ち、途切れることも尽きることもない栄光に身をひたす。私たちは、永遠に神を喜ぶその日まで、決して完全な満足を得ることはないのである。

人間の主たる目的[了]

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