あなたは、人格をもつ悪魔の存在を信じますか?私は人格的な悪魔の存在を確信しています。人格をもつ悪魔の存在を信じることなしに聖書を信じることはできません。私には、聖書が神のことばであるという決定的な証拠があります。ですから、人格をもつ悪魔の存在についての聖書の教えを信じます。
マタイとルカの福音書にある、主の誘惑の記事には、悪魔こそ(そしてこの記事全体は明らかに人格をもつひとりの悪魔を指し示しています)主を訪れた数々の誘惑をつむぎ出した張本人であると語られています(マタ4:1-11; ルカ4:1-13)。もしこの箇所の悪魔を単なる比喩的表現にしてしまうなら、これらの記事は無意味です。
さらに、私たちの主は種蒔きのたとえの中で、人格をもつ悪魔の存在を明確に教えています(マタ13:1-23)。悪魔がたとえの中に登場していたなら、何かの象徴と説明することもできたかもしれません。しかし悪魔は、たとえの説き明かしの中に出てくるのです。「悪い者が来て……」。さてたとえは象徴を語り、説き明かしは象徴が表わす現実の実体を語るものである以上、このたとえの説き明かしは、現実に存在する悪魔のことを語っているのです。これは、人格をもつ悪魔の存在についてイエスが教えられた数々の教えのほんの一例にすぎません。
パウロも同じことを教えています。例えば、エペソ6:11、12です。「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」。
筋の通った聖書解釈をしようとするなら、悪魔の存在を聖書から消し去るわけにはいきません。悪魔を抹殺するような聖書解釈法をとる人は、自分の信じたくない教理を何でも抹殺できるでしょう。
しかし私が人格をもつ悪魔の存在を信じるのは、自分の体験と観察によってでもあります。この世界には、目に見えず、非常に狡猾で悪賢い邪悪な霊が存在していること、そしてそれが世界中のどんな社会でも人間を支配していることを、常に教えられるのです。私は、人々と交わり、歴史を学び、人々の告白を聞けば聞くほど、聖書が説いているような悪魔が存在しているという確信を深めます。
人格的な悪魔の存在を信じるのは不快なことです。しかし問題は何が不快か不快でないかではなく、何が真実かということです。
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