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献金の問題について聖書ではどのように決められていますか?

 献金について、キリスト者は律法のもとにはありません。キリスト者には、これだけ献げなくてはならないという絶対的な規則はないのです。キリスト者は全財産を神のために聖別すべきです。財布の中の一円一銭に至るまで、神のものでなくてはなりません。キリスト者が自分と家族のために費やすお金は、そのように用いた方が、その他の用い方をするよりも神に栄光が帰されると考えるときだけ支出されるべきです。

 ユダヤ人には、律法の下で収入の十分の一を献げる義務がありました。それどころか、それをはるかに越えた自発的な献げものをすることが期待されていました。このユダヤ人の規定を、私たちは最低の目安とすべきでしょう。献金は、まずキリストに十分の一を献げることからはじまります。キリスト者がユダヤ人よりももの惜しみすべきでないことは確かだからです。しかしキリスト者は十分の一でとどまるべきではありません。十分の一に加え、全収入の一円一銭に至るまで、神の導きを求めつつ、使い途を決めるべきです。

 計画的に十分の一献金を実行している多くの人々は、大きな祝福を見いだしています。多くの人々が、十分の一を主にささげるようになってから、以前知らなかったほどの豊かな家計の祝福に気づくのです。十分の一を献げていないキリスト者たちのほとんどは、自分は十分の一以上献げているという幻想をいだいていますが、自分の収入の十分の一をとりわけるようになってはじめて、まだまだ自分には献げなくてはならないものがあったことをさとります。

 エルサレムの貧しいキリスト者たちのための募金について、パウロがコリント教会に与えた、「3つの規則」には、献金についての有益な原則がふくまれています。「あなたがたはおのおの、(1) いつも週の初めの日に、(2) 収入に応じて、(3) 手もとにそれをたくわえておきなさい」(Iコリ16:2)。

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