HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT


私は信じたいのですが信じることができません。神は、私にできない何かのために私をさばくのでしょうか?

 いいえ、神は人にできないことでその人をさばいたりしません。あなたは信じることができます。だれでも信じることができます。聖書が神のみことばであり、イエス・キリストが神の御子であるという証拠は山ほどあります。本当に真理を知り、真理に従おうと願う人ならだれでも確信できるだけの証拠があります。

 私の著書『聖書とそのキリスト』には、聖書が神のみことばであり、イエス・キリストが神の御子である証拠がはっきり示されています。しかし別にそんな本を読む必要はありません。聖書そのものの中に、ふんだんに証拠があります。ヨハネ20:31にはこうあります。「これらのこと(つまりヨハネの福音書の内容)が書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」。ここからわかるのは、いのちを得るには、イエスが神の御子キリストであることを信じなければならないということ、またイエスが神の御子キリストであると信じるためには、書かれていることを読まなくてはならないということです。だれでもヨハネの福音書を正しい仕方で読むなら、最後まで読み通す前に、イエスが神の御子キリストであると知り、信じることができ、そう信じることによりいのちを得ることができるのです。ではどう読めば正しく読むことになるのでしょうか。

 まず最初に、自分の意志を神にゆだねることです。「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか……がわかります」(ヨハ7:17)。まず意志を神にゆだねてかからなければ、何度ヨハネの福音書を読み返しても、イエスが神の御子キリストであるとは信じられないはずです。しかし、まず自分の意志を神にゆだね、どんな代価を払うことになろうと神に従おうとしつつヨハネの福音書を読むなら、一度読み終えるまでに、イエスは生ける神の御子キリストであると信じざるをえなくなるでしょう。

 第二に、読むときには常に神を見上げ、「神よ。いま読もうとしている一節一節にどのような真理がふくまれているかお示しください」、と願い求めること、また、「もし真理であると示してくださることがあれば、今後はその真理に基づいて行動します」、と約束することです。一度にあまりたくさん読み飛ばしてはいけません。読んだことをじっくり考えなさい。真理を学び、真理に従おうと真剣に願い求めながら読みなさい。そうすれば、ヨハネの福音書を読み終えるころには、あなたは自分が信じることができることに気づくでしょう。いえ実際、すでに信じていることに気づくでしょう。

 人々が信じられないというのは、自分の信じることに基づいて行動するつもりがないためか、自分の意志を神にゆだねていないためか、信仰を生み出すはずの証拠を学ぼうとしないためです。人々は聖書そのものを無視しておきながら、紙くずのような無信仰な書物を何冊も何冊も読んでは、「私は信じられません! 私は信じられません!」、と云い立てているのです。

 食物のかわりに毒薬を飲んでおいて、なぜ自分は健康でないのかと不平を云うようなものではないでしょうか。イエス・キリストが神の御子である証拠はいくらでもあります。信仰は意志の問題です。十分な証拠の前に自分を従わせるつもりがあるかないかです。不信仰とは、十分な証拠をつきつけられても降参するのを拒むことです。不信仰の責任は、不信者ひとりひとりのうちにあるのです。

 神は私たちが信じることを求めておられます。私たちが自分の意志を、神があふれんばかりに啓示してくださった真理に従わせることを求めておられます。信仰は神が人に求める唯一のことです。信仰は他の何にもまさって神にささげなくてはならないことだからです(ヨハ6:29)。神へのしかるべき信仰を持たなければ、神を喜ばせることは不可能です(ヘブ11:6)。もし私の子どもが私を信用してくれないとしたら、その子が他に何をしても私は満足しないでしょう。

HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT